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2023年12月30日 (土)

中国の旅/乾陵

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中国にはメンドリが鳴くと世が乱れるということわざがある。
また3大悪女というのがいる。
3大悪女のほうはいずれも国政を左右する地位に上った女性たちで、古いほうから漢の高祖の奥さんだった呂后、つぎは唐の時代の皇后だった武則天、最後は清の滅亡の幕を引くことになった西太后である。
彼女たちは自分の競争相手や恋敵に対して、およそ人間の仕業とは思えないような残酷な仕打ちをした。
しかし一歩間違えば、自分がそうされてもおかしくない宮廷内の権力闘争を勝ち抜いてきたのである。
彼女らにリンクを張っておいたけど、女性の権力欲もさることながら、げにそのこころの奥底にひそむサディズム傾向がオソロシイ。

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今回はその3大悪女のひとり、唐の武則天(則天武后)という女帝の陵墓を訪ねた話。
あまり名所旧跡に興味のないわたしだけど、秦の始皇帝の陵を見て、いくらか気が変わった。
始皇帝陵は田園地帯のまん中にある小山で、登山とはいえないような低い丘だけど、てっぺんから眺めた景色はけっこう素敵で、登山家が目的の山の頂きに立ったような爽快感があった。
そのときの旅('95)から帰国したあと、わたしはガイドブックで、西安郊外にある武則天の陵の写真を見て、行ってみたいなと思うようになった。
武則天の陵は「乾陵」といい、彼女の旦那だった唐の3代皇帝高祖との合葬になっているけど、始皇帝のものよりさらに大きな陵墓で、なんかのいわくつきの首のない石像や、ギリシャ神話との関わりを示す、天馬のペガサスの像があるという。
これは見てみたい。

そういうわけでひとっ走り西安に往復してこようと考えた。
乾陵を見てくるだけだから、あまり気合を入れず、3泊4日の安いパック旅行を見つけた。
パック旅行といっても、中の1日は自由行動になっていたから、その日に乾陵まで往復できるだろう。
話があちこち飛ぶけど、そういうわけで、今回の紀行記は2001年3月のことで、いまから23年ぐらいまえの西安の旅ということになる。

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成田空港から西安までは日本エアシステムの直行便だった。
宿泊ホテルはあらかじめ決まっていて、城壁の外にある皇城賓館という4つ星ランクのホテルだった。
このときの中国の貨幣レートは1元が約15円。

到着した日と翌日は、城壁や兵馬俑、大雁塔など、見たことのある観光地ばかりで、さらに土産を買わせるための絹の博物館、玉の博物館、お茶の専門店などでうんざりしたけど、3日目は終日フリータイムだったから、さっそく個人でタクシーを借り切って乾陵に行くことにした。
どうせ行くなら女性の運転手でもいないかとホテルの前へ行ってみたら、あいにく男の運転手ばかりだった。
たまたま中国人らしいグループが交渉をしていたけど、まとまらなかったようだ。
わたしも貸し切りの値段を訊いてみた。
西地区観光で1日600元だという。
高いぜ、まけろと値切ってみた。
いやならあっちの小さいやつにすると、そばのシャレード・タイプのタクシーを指さす。
ほかの日にたまたま乗って尋ねてみたことがあり、シャレードなら1日300元と聞いていたのである。
で、450元というところでまとまった。
わたしもねぎりが上手くなったものだ。

両替をしたりしたあと、9時ごろホテルを出発。
西安までいっしょに来たツアー客のうちの数人もタクシーを借り切っていたし、どこかのおばさん2人も西のほうへ観光に行くという。
わたしのタクシーは彼女らと前後して出発した。
わたしの車は運転手ひとりかと思ったら、男の助手がついてきた。
この助手とはまったく会話しなかったから、ガイドではなく、ただの用心棒らしい。

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目的地の乾陵までは、西安市内から北西へ85キロばかりある。
道路は幅広く、交通量も少なかったものの、高速道路ではないから1時間半ぐらいかかった。
わたしはゆっくり景色を楽しみたかったから、安全運転でいいからねという。
とちゅうでものの本で有名な「渭水」を渡り、「咸陽」という街を通ったはずだけど、中国のほかの街と変わらない工場の多いところと思ったくらいで、ぼんやりしていて写真を撮るのを忘れた。

果樹園の多い村で、畑のなかに無数の煙突のようなものが立っているのを見た。
高さは3、4メートルで、レンガを積み重ねた先細りの角柱である。
煙突のようなものというより、誰がどう見ても煙突である。
ただ不思議なことに、何もない果樹園の中にぽつんと立っていて、その下部にかまどが見当たらない。
なにか燃やすためのものなら下のほうに穴でもあいていそうなものだ。
ひょっとしたらサイロのようなものかなと思ったけど、それにしては人間ひとりがやっとくぐり抜けられる程度の太さしかなく、機械を持たない中国の農民がこんな出し入れ不自由なサイロを作るだろうか。
とうとうたまりかねて車を停めてもらい、すぐそばまで行って確認して、ようやく納得した。
道路からよく見えなかったけど、煙突の根元に地下室があったのである。
地表に置いたのでは吹き飛ばされてしまうような木の葉や、剪定した木の枝(つぎの年の貴重な肥料だ)などを燃やすための部屋らしかった。

西安は古墳の多いところである。
飛行機に乗って空から郊外を眺めれば、あちこちにピラミッド型の墓があるのがわかるだろう。
しかしそれにしても多すぎる。
畑のあいだに直径がせいぜい5、6メートルの、小さな古墳がやたらに多い。
現在では中国も火葬が一般的になってるけど、どうやらこの地方では、まだ毛沢東の時代あたりまで、ちょっと小金を貯めると、一般庶民も古墳を作っていたらしい。
こんなものも古墳といえるかどうかわからないけど、ある場所でそれが半分ぐらい破壊されていて、内部が見えるものがあったから、また車を停めてもらった。
なんらかの理由で所有者が管理できなくなったのか、そして無縁墓地になったのか、そういうことは日本でもよくある。
近くで見ると、ドーム型の墳墓が半分ほどに断ち割られており、内部にあるレンガの墓室が露出していた。
もちろん内部にホトケ様や副葬品が残っているわけではなく、現在では農家が作物や、農器具の物置きとして利用しているらしかった。
そんなみじめな古墳?が途中にふたつほどあった。

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やがて前方にいくつかのおだやかな峰をならべた低い山が近づいてきた。
そのうちの2つの峰には高いレンガの塔が見えて、遠方から見るとちょっと異様な景色である。
それが乾陵だった。
乾陵というのは人為的に土を盛ったのではなく、もともとそこにあった梁山という山をそのまま陵墓として活用したらしい。
規模は始皇帝のものよりずっと大きい。
わたしが説明できるのはこのくらいで、詳しいことはまたネットにまかせよう(英語だけど調べる気があればネット翻訳も使える)。
じつはわたしはこの墓について、唐の時代の高宗と、その妻だった武則天という女帝のものであること以外はほとんど知らないのである。
陵に興味を持ったというより、わたしは雄大な歴史のなかを、夢遊病の詩人ようにさまよってみたくて来たのだ。

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駐車場に車を待たせ、ぶらぶら歩きながら、乾陵の参道へ。
幅の広い参道にはタイルが敷きつめられているけど、唐の時代のものにしては新しすぎるような気もするから、これは新中国になってから観光客のために新しく敷いたのかも知れない。
もうこのあたりから、参道の向こうに、北海道の富良野や美瑛のような雄大な風景が広がっているのが見えた。

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参道の両側には田舎のお地蔵さんのように古びた石像が並んでいた。
ある場所には首を切り落とされた石像が、20体以上まとまって立っていた。
これは葬儀に参列した外国の使節を表しているそうだけど、石の彫刻だから首を落とすにも手間のかかることをしたものだ。
こういうことをするのは偶像崇拝を禁止するイスラム教徒の仕業である場合が多い。
しかしここにある像は神さまではないし、彼らに唐を恨むようなスジがあったかなあと思う。

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近くにギリシャ文化の影響といわれる天馬ペガサスの像もあった。
ペガサスといえばギリシャのほうではさっそうと天を駆ける駿馬として知られているのに、乾陵のそれは間抜けな顔をした短足・鈍重そうな馬で、天よりもばんえい競馬のほうがふさわしかった。
それでもこのウマは、唐の時代の中国に、ギリシャやペルシアの影響さえ伝わっていたことを証明する貴重なものだそうである。
ネットで検索すると翼の生えたたくさんのウマの映像がヒットするのは、ペガサスがテレヒ・ゲームのほうで大活躍するせいらしい。

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梁山は1000メートル以上あるそうだけど、山歩きの好きなわたしにはハイキング・コースのようなものだった。
山頂まで歩くつもりでいたら、とちゅうで太った男がウマに乗らないかと誘ってきた。
こちらはサラブレッドみたいにスマートだから、ウマもおもしろいと、べつに疲れたわけでもないのに、乗ってみることにした。
このたびは満州の荒野を疾駆する馬賊の頭領になったつもりで。

馬方はウマを引きながらいろんなものを売りつけようとする。
不要とわたしはみんな断ってしまった。
そのせいか、ウマに乗っていた時間は短かく、ほんの数百メートルで下ろされてしまった。
ウマが可哀想だから文句はいわないけど、乗る前にきちんと交渉しておかないとこういうことはよくある。

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