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2023年12月 2日 (土)

中国の旅/西安賓館

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いよいよ西安である。
というより唐の都・長安ということである。
列車が西安駅にすべりこむとまず目についたのは、駅前広場から道路1本をはさんで前方に見える黒い城壁だった。
西安(長安)の城壁は撤去されてしまったという記事をなにかで読んだ記憶があるけど、じっさいに現地で目撃したかぎりでは、駅まえの一部をのぞいて、城壁はほぼ完全な形で残されていた。
わたしが西安で見たもののうち、いちばん迫力があったのは、街をとりかこむこの城壁だった。

長安について広辞苑には
中国狭西省西安市の古称。洛陽と並んで史上最も著名の旧都。漢代から唐代にかけて最も繁栄、とある。
現在はウィキペディアがある時代なので、それにリンクを張っておいたから、興味のある人はさらに自分で調べてほしい。
調べればわかることは、わたしのブログではといっておいて、ここではなぜわたしがこの街に興味を持ったかを書いておこう。

漢和辞典に付属している年表で調べると、長安が王朝の都として年表に登場するのは、紀元前の周の時代からで、それから唐代までとすれば、(いちゃもんのつけどころはあるけど)千年以上も中国の首都の栄誉を担ったことになる。
北京が首都として歴史に登場するのは、元の時代の1264年から、清の時代をへて現代までで、その期間はおおよそ700年くらいしかない。
首都の期間が長かっただけではなく、このあたり一帯は秦の始皇帝や玄宗皇帝と楊貴妃、そして詩人の李白や杜甫らが活躍した歴史の街でもあるのだ。
わたしがパソコンで使っているハンドルネームの“酔いどれ李白”は、むろん酒1斗を呑んだ直後に皇帝から詩を所望されて、なんなく期待に応えた詩仙にあやかりたいとつけたものである。

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唐の都であった最盛期には、長安は百万の人口を誇り、東は日本、西はローマに通じ、さまざまな宗教の寺院がたちならび、日本の留学僧、ペルシャ商人たちまでが闊歩する壮麗な国際都市だった。
長安の名は日本人にもよく知られている。
遣唐使として渡海した阿部仲麻呂や、弘法大師の空海がめざしたのは唐の都・長安だったし、西遊記の三蔵法師が教典を求めて天竺へ旅立ったのもここ長安だ。
かっての西安は現在の東京、ニューヨークをしのぐような巨大な国際都市だったのである。
そんな栄光の長安は唐代末期に戦乱で焼かれ、現在の西安は明代に再建されたものが基礎になっており、往時の1/6ていどのスケールしかないという。
わたしが駅で買った地図には唐代の長安の復元図が載っており、それで見ると、いまでは城壁の外側になっている西安駅、そして城壁からかなり遠い場所にある大雁塔も、かっては城壁の内側にあったことがわかる。

古い歴史ばかりではなく、もっと新しい歴史に興味のある人なら、西安は日中戦争のおりに、当時中国の最高権権力者だった蒋介石が、腹心の張学良の兵諌に遭って、世界を震撼とさせた場所であることを知っているんじゃないか。
ここに“兵諌(へいかん)”という聞きなれない言葉が出てきたけど、これは武力でもって上司を諌めることで、わたしは蒋介石のこの事件以外に使われているのを見たことがない。
たまたま同盟通信社の上海支局長だった松本重治が、この事件をスクープして全世界に打電した。
という顛末は、彼の「上海時代」というドキュメントに詳しい。
中国に興味があると、こういう本でも読みたくなるのである。

それほど長安に愛着を持っていたわたしだけど、じつはこの街について、恥ずかしくて人にいえないくらいのとんでもない失態を犯していた。
それについてはおいおい語るから、たまげるな。おどろくな。

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現在の中国はそのうちアメリカをしのいで、かっての栄光をとりもどすかもしれないけど、現実問題として、中国がもっとも輝いていたのは、長安が首都だった時代だといっても過言ではないだろう。
西安はいまではあたりまえの現代都市になってしまったけど、ロシアのサンクトペテルブルクと同じように、街そのものがわたしを遠いむかしにいざなってくれる。
空想・妄想の好きなわたしはじっと目をつぶって、いまようやく唐の都・長安に到着したのだと思う。

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西安駅に下り立つと、中国の大都市の例にもれず、駅まえ広場はかなり広い。
蘇州の駅が一変してしまったように、ここ西安駅もかなり変わってしまったのではないかと思ったけど、新旧ふたつを並べてみると、建物はほとんど変わっていないようだった。
駅前広場からもう目のまえに城壁が連なっている。
この城壁なんだけど、駅近くに中途半端に撤去された部分があったおかげで、断面を観察することができた。
内部まで全部レンガを積み上げたのかと思っていたけど、そうではなく、内部は土を盛り上げた土手になっていて、レンガはモナカの皮のように外側をおおっているだけだった。
現在ではレンタル自転車でその上を一周できるらしいから、撤去された部分も、観光資源として重要だということで復旧されたのかも知れない。
わたしはこのあと何度も西安に行っているけど、最後に行ったとき(2011)確認しなかったので、いつごろ復旧されたかわからない。

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ご多分にもれず駅まえ広場に人間は多かった。
わたしがカメラをかまえたり、地図を買おうとすると、それだけでまわりの人が好奇のまなざしで見つめてくる。
立ち売りのおばさんから市内の地図を買っていると、2人の女が話しかけてきた。
片方は安定したおばさんだけど、もうひとりは、そう断言するには気のドクな程度に若くて、日本の芸能人のだれかに似た、まあまあの美人だった。
ただしよく見ると目の下にしわもある。

ホテルを探しているのかというから、試しに安いとこを知らないかと聞いてみた。
あるあるという。
50元(650円)だというので、どんな宿なのかと興味をもってくっついていくことにした。
ただし、歩きだぜ、タクシーは使わないと、ここでもやばい客引きにボラれないようにわたしは慎重だ。
2人はいいですよ、ついてらっしゃいという。
歩きながらいくつか言葉を交わしてみると、若いほうの女は“姚”という姓だそうだ。
日本の安い辞書には出てこない漢字で、むかしはパソコンで表示できなかったものである。
相手が女性の場合、年齢差別主義者のわたしは、おばさんのほうの名前は最初から聞かなかった。

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ぶらぶら歩きながら思ったのは、西安の印象がほかの中国の都市とあまり変わらないということ。
だだっ広い駅まえから、解放路とよばれるメインストリートまで、あいかわらずおびただしい人と車である。
わたしはシルクロードの出発点というからして、この街を砂漠の中のオアシスみたいな街、人々は彫りが深く、鼻すじのとおったイスラム教徒のような人ばかりの街ではないかと想像していた。
しかしこの街でいちばん多いのは、やはり日本人と共通の顔立ちをした漢族の人々だった。

安いというホテルに到着してみると、入口は自動ドアとかいうものではなく、大きなビニールののれんで、これだけでイヤな気分になってしまった。
あまり安すぎるのもナンだけどなあと思いつつ、部屋を見せてもらうと、日本アルプスや八ヶ岳の山小屋に泊まったことのあるわたしには、文句をいうほどのことはなかった。
しかしいまは登山やケチケチ旅行をしているわけではなく、いかに金を使わなかったかということを自慢するつもりもない。
このブログ紀行は中流の下ぐらいの旅行好きのために書いているのだし、わたしはモーム流の旅をしているのだ(モーム流というのはわたしのブログを参照のこと)。

だらしない話だけど、こころの中でそんな自己中心的な理屈をならべて、けっきょくこのホテルには泊まらないことにした。
2人の女には申し訳ないけど、客を引っ張るのが彼女らの仕事で、仕事はいつもうまくいくとは限らないのである。
いまの日本にもまだ貧乏旅行をこころざす勇気ある若者がいるかもしれないから、このホテルの名前を書いておくけど、それは「光華賓館」といって、東五路と尚勤路の交わる角にある。
検索すると、グーグルマップに出てくるから、いまでもあるらしい。

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だいたいわたしは上海を発つまえから、西安のホテルの目録を作っていて、泊まるホテルもあるていど目星をつけていたのだ。
泊まらないことにしたホタルの近くでタクシーをつかまえて、「西安賓館」へ行ってくれと頼んだ。
ここは外国人向けの4つ星ホテルである。
贅沢だなんていわれても、わたしは日本から来た金持ちなのだ(当時の中国では、日本人はみんな金持ちになってしまうのだ)。

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タクシーは朝陽門から城外へ出て、しばらく城壁にそって走った。
壁のすぐ外側には日本の城と同じように堀もある。
車のなかから眺めると、城壁は3、4階建てのビルほどの高さと厚みがあり、地図でみるとだいたい5対3の比率の長方形で、西安市をぐるりと取り巻いている。
全周は17キロということだから、長辺が約5.3キロ、短辺が約3.2キロということになるけど、遠方がスモッグで霞んでいて、とてもその程度とは思えない。
わたしを驚かせたこの城壁は、唐の時代のものではなく、明の時代に再建されたもので、築かれてから650年ぐらいだという。
現在の中国で街を取り囲む城跡がほぼ完全なかたちで残っているのは、西安以外には山西省の平遙ぐらいしかないそうである。

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「西安賓館」は今ふうの高層ビルで、1階は広く、床は鏡のように輝いていて、予想よりずっと立派なホテルだった。
料金もガイドブックで調べておいた金額より高かった。
タクシーを待たせておいたまま、フロントで部屋はあるかと訊くと、ふたつ返事でOKである。

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この西安賓館はいまでもあるのかと調べてみたら、正面の意匠が同じホテルが見つかったから、ほぼ30年経つのにいまでも当時のまま、同じ場所にあるらしい。
地図で示すとちょうど小雁塔のすぐ前である。

ボーイに荷物を持たせて、わたしはエレベーターで6階まで上がり、638号室に入った。
ホテルが立派なら、部屋も外国人旅行者を迎えて過不足のないものだった。
部屋まで案内してくれたボーイが、西安観光をするならタクシーを斡旋しますといったけど、わたしは西安に4泊するつもりだったから、あまりスケジュールにしばられたくないので、それは不要であると断った。

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