中国の旅/兵馬俑へ
回族居住区を見たあと、西安の城壁内、いわゆる旧市街をうろうろした。
いろいろ興味深いものを見たけど、わざわざブログに特筆するほどのこともないので、あとでまとめることにしよう。
このたびはまたタクシーを借り切って、近郊の農村にでも行ってみようかと考えた。
列車で西安に来るとき見た、浸食された大地のようなダイナミックな地形を、もっと近くから自分の目でながめてみたかったのだ。
そのまえにそろそろ帰りの列車のチケットを手配しておかなければならない。
ANAの長安城堡大酒店で訊ねたときは、あとでもういちど来てくれといわれ、いくらか高くつきますよとのことだったので、自分でもういちど当たってみることにしたのである。
西安賓館で教えてもらったところによると、列車のチケットは城内にある建国飯店で買えるとのこと。
そこでべつの日にタクシーをつかまえ、そのホテルまで走らせた。
そのときついでに運転手に、この車をいちにち借り切ったらいくらするかと訊いてみた。
700元だという。
700元といったら日本円で9千円ぐらいだ。
上海で長江を見に行ったときはろくな景色がなくてがっかりしたけど、西安はちょっと走ればまわりがもう農村で、英雄豪傑が覇を競った歴史的な土地である。
それを自分の行きたいように見てまわれるなら安いものではないか。
しかし相手の言い分に気楽に乗るのもナンだしなあと、わたしも煮えきらない。
タクシーの運転手は小白クンといって、まだ27歳の若い男性だった。
西安大学を出ており、奥さんも英語がペラペラの才媛だそうで、子供がひとりいるという。
このころの中国では、大学を出たサラリーマンより、タクシーの運転手のほうが稼ぎがいいというので問題になっていた。
奇しくもその実例に出会ったわけだ。
会話していると小白クンがしきりにピンマーヨン、ピンマーヨンという。
この言葉はこれまで乗ったタクシーの運転手や、ホテルのボーイからもよく聞いた。
客を勧誘するための常套句らしかったけど、わたしはほかに見たいところがたくさんあったので無視していたのだ。
なんだ、ピンマーヨンて?
紙に書いてもらったら「兵馬俑(へいばよう)」のことだった。
信じられないかも知れないけど、わたしは西安に着くまで、世界の七不思議といわれ、その後中国で5Aクラスの国家最重要観光地に指定される兵馬俑を、見に行くつもりがぜんぜんなかったのである。
西安に到着した日の記事に、恥ずかしくて人に話せない失態をしていたと書いたのはこのことだったのだ。
ここで兵馬俑にもリンクを張っておいたけど、わたしはそれを知らなかったわけじゃない。
この旅のすこしまえにNHKが、兵馬俑を解説するテレビ番組をつくり、わたしはひじょうな興味をもってこれを見た。
しかしわたしが興味をもったのは兵馬俑の背景のドラマ、始皇帝の足跡や、その後継者争いなどの歴史ドラマであって、兵馬俑そのものについては、埴輪のでっかいやつかぐらいの認識しかなかった。
動くわけでもない土の人形に興味はなかったのである。
どうもわたしの性格も困ったもんだ。
わたしより10年まえに、ひとりで中国の辺境を歩いた英国の女流作家クリスティナ・ドッドウェルも、西安ではまっ先に兵馬俑を目標にしている。
わたしといっしょにアフリカを(バーチャルで)旅した紀行作家のポール・セローも、中国をまわったときは、西安で兵馬俑を重点目標にしていた。
それほど貴重な文物を無視するのは、宝の山に入って、いちばん価値のある宝を見逃すようなもんじゃないか。
思うに当時のわたしには、オレが見たいのは世間の俗物どもが見たがるものじゃないのだという、屈折した矜持のようなものがあったのだろう。
でも現地で心境の変化が起こり、じっさいに見てきたものを、これから披露しようというのだからいいじゃんと弁解して、あとを続けよう。
田舎が見たいんだけどねというと、小白クンは作戦を変えたようで、明日まだ日にちがあるのなら、また僕のタクシーを使えばいい、そのときどこへでも案内しよう。
この日は260元で貸切りにしてもいい、自分が西安の有名な観光地をみんな案内するといいだした。
200元にしろよとねぎって、煮えきらないわたしも、とうとうこの日はすべて彼にまかせることにした。
いったんホテルにもどり、カメラを積みこんで、小白クンのタクシーで西安観光に出発する。
タクシーは市の東端の万寿路を北上し、長楽路を右折した。
このあたりはもう郊外といっていいところで、バスや乗用車にまじって、ウマやロバがのんびり荷車を引いているのを見たりした。
最初に立ち寄ったのは市の東部にある「半坡(はんぱ)博物館」。
古代の集落遺跡だというけど、わたしはこんな名前は聞いたことがなかった。
帰国してからドロ縄で勉強したところによると、中国で初めて発見された新石器時代の遺跡として注目されているとか。
学問的にひじょうに貴重なものらしいけど、わたしはそんなものに興味がないので、またリンクを張っておいたから、興味のある人は自分で勝手に調ベナサイ。
半坡遺跡博物館では渡り廊下のような見学通路を見てまわった。
最近の写真を調べると、わたしが見たときより建物が立派になったような気がするけど、当時もあまり熱心に見たわけじゃないから、よくわからない。
覚えているのは、建物の中に土がむきだしになっていて、そこに穴が掘られていることだけだった。
青森県の三内丸山遺跡と同じように、発掘された古代の住居跡に、雨風を防ぐための屋根をつけたものらしい。
考古学にさして興味のないわたしは、写真も撮る気も起きなかった。
ニワカ考古学者になってエラそうなことをいっても始まらない。
やや珍しかったのは葬られた当時のままに展示されていた人骨で、子供のものも含めて3体か4体分あったようだ。
駐車場にもどって、待っていた小白クンに、あまりおもしろくないと正直にいう。
それじゃつぎは始皇帝の兵馬俑に行きましょうとなって、いよいよわたしの歴史の中への旅の始まりである。
ここでちょっとお勉強をするけど、「始皇帝」というのはイエス・キリストより200年ぐらい古い人である。
中国の歴史の節目にあらわれた人で、漢、晋、隋、唐、宋、明、清などという王朝はすべてこのあとに続くものだから、覚えておくといいかも知れない。
日本はまだ歴史以前で、有名人といったら、せいぜい伝説の女王・卑弥呼がいたくらいだ。
兵馬俑まで車で1時間ほどかかり、途中の景色はのどやかな田園風景で、なかなかいいドライブだった。
しかし小白クンが車をぶっ飛ばすのには閉口した。
事故でもやられたらわたしは中国の生命保険に入ってないのである。
途中で“臨潼”という町を通った。
この名前には見おぼえがあった。
当時のわたしは中国の近代史にも関心があって、書物でよくこの地名を目にしていたのである。
小白クンに車を停めてもらって、わたしはこの街の文具店でボールペンを1本買っていくことにした。
安いのはよかったけど、これは1日どころか、帰りにはもうインクが出なくなってしまった。
普段なにげなく使っているものだけど、ボールペンの芯先の構造には、精密工業の極地のような技術がつまっているもので、日本の優秀さをつくづく思い知らされた。
兵馬俑博物館が近くなってきたころ、わたしは畑のなかに、はっきり人為的に築かれたとわかる小山があるのを見た。
あたりは平野といっていい場所なのに、そこに唐突に、きれいなピラミット形の山が盛り上がっているのである。
小白クンが説明をしなかったので、わたしもそのときは何だろうと思っただけで過ぎてしまったけど、これが秦の始皇帝の陵墓だったのだ。
気のドクに、この偉大な歴史上人物の墓は、小山全体が付近の農民の果樹園に利用されてしまっていた。
ただし、その後の中国は始皇帝を神格化する決心をしたようで、わたしの最後の西安行きになった2011年には、陵墓は日本の明治神宮のような濃い緑におおわれていた。
車は街道から右折して兵馬俑博物館の方向に曲がった。
ここでは近くの農村に奇妙なものを見た。
雑木林のなかにまだ制作途中の、生乾きの粘土の兵馬俑がいくつも並んでいたのである。
ここは兵馬俑制作の工房でもあるかと思ってそのまま通り過ぎた。
しかしこんなものを見たせいで、よくものの本などに、兵馬俑の制作工程は謎であるなんて書かれているのは怪しいと思う。
中国人は贋物を作る名人である。
わたしは何かの本で、中国人は骨董品を古く見せるために、まだ新しい銅製品を、海にしばらく沈めておくなんてことを読んだことがある。
日本の博物館で兵馬俑の展覧会があったこともあるけど、そこで展示されていたのはこの村で制作されたものだったかも知れない。
とはいうものの、これについてこれ以上触れるのはよそう。
わたしは通りすがりに見ただけで、この生乾きの兵馬俑がなんのために作られていたのか知らないのだ。
客を騙して売るつもりではなく、客も納得のうえのレプリカだったのかも知れないし、科学的な年代分析をしなくても、専門家が見れば贋物と一発でわかるものかも知れない。
うっかりしたことを書くと、だから中国人はと、アンチ中国のプロパガンダに利用される恐れがある。
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