中国の旅/内山書店
翌日も“感冒”は治っていなかったけど、わたしはまだ上海で見ておきたかったところがあるので、鼻水がぐじゅぐじゅのまま瑞金賓館から外出した。
まず向かったのは魯迅公園である。
この公園はかっての日本租界から近く、新亜大酒店からなら徒歩でも行けない距離ではなかったけど、瑞金賓館は市内南西部にあってだいぶ遠くなるのでまたタクシーだ。
公園のすこし手前で車を下りると、公園の入口で風船を売っている男が警察官に取り締まられていた。
男は自分で風船をふみつぶして、これで文句はないだろうと開き直っていたけど、警察官はカンベンしそうになかった。
風船ぐらいと思うけど、許可なしに物品の販売を許せば、街中が風船売りばかりになり、これがわらしべ長者のようにステップアップして、やがて格差社会の萌芽につながると考えたのなら、中国警察もなかなか見どころがある。
公園は有料だった。
しかし市民に対しては入場料を割り引いた1カ月通しのパスもあるとか。
ここは市民のいい行楽地になっていて、たくさんの家族連れや年寄りが黄葉の木の下をのんびりと散策していた。
池もあってボートに順番待ちの列ができていた。
この公園は日本租界時代には日本庭園だったそうだけど、池にかかった橋は中国式の眼鏡橋だった。
公園の奥まった場所にある魯迅の像にお参りしてみた。
この像はNHKの「中国語会話」の舞台になったこともあって、椅子に座った魯迅が前方を見つめている。
魯迅は日本でもよく知られた中国の作家で、「阿Q正伝」や「孔乙己」「藤野先生」「故郷」などの小説がある(わたしが読んだもの優先)。
彼は医師になるために日本留学をしたけど、先輩の孫文と同じように、中国人と日本人の表と裏の顔を見て、じょじょに反体制的な思想家に転向していく。
魯迅の像の前では大勢の人々がラジオの音楽にあわせてダンスに興じていた。
魯迅先生、あなたの理想が実現されたわけではないんでしょうけど、人民は幸せなようですよと、わたしはそうつぶやいてしまった。
魯迅記念館ものぞいてみた。
日本でもどこかで見たことのある魯迅の写真が大半で、めずらしいものや驚くようなものはなかった。
見学者は多くなかったけど、それでも中学生らしい男の子、女の子、またサラリーマンらしい男性などがちらほら展示物に見入っていた。
魯迅の日本留学時代の記事には、彼が日本人の藤野先生に薫陶をうけたと書いてあり、日中戦争の記事では日本のことが鬼か悪魔のように書いてある。
純真な見学者はどちらが真の日本人かととまどうのではないか。
見学者たちが日本人のわたしになにか反応を示すかと思ったけれど、とくになにもなかったから、わたしが日本人とは気がつかなかったのかもしれない。
出口近くには土産もの売場があった。
ここの売り子たちはさすがに嗅覚がするどく、たちまちわたしを日本人と看破した。
大きな硯を示してこれは端渓です、お買いなさいという。
わたしは下宿屋のおやじから、同じ品物を売りつけられた漱石の「坊ちゃん」を思い出した。
しかしわたしも坊ちゃん同様、端渓の真贋を鑑定できる目を持ってないし、いまどき硯でものを書く日本人なんかいるわけがない。
お茶でも飲んでいけという親切な売り子もいたけど、わたしには早々に退散した。
わたしは日本租界だったころの虹口地区の地図を持っていた。
それを参考にしながら、帰りにぶらぶらと内山書店跡まで歩いてみた。
途中の団地の中に魯迅の住んでいた家があるというので勝手に庭まで入ってみたけど、表示もなにもあるわけではなかったので、どれがその家かわからなかった。
かなり古そうな団地だったけど、日本租界時代からある建物かどうかもわからない。
内山書店跡には、“魯迅と交遊のあった日本人の内山完造氏の書店跡”と書かれたパネルが、中国工商銀行の壁に貼りつけられていた。
魯迅が死んだとき、8人の葬儀委員のなかに、ゆいいつの日本人として内山完造の名前もあった。
宋慶齢、蔡元培、アグネス・スメドレーらに混じって、ただの書店主にすぎない内山を同列に置くとはと、同盟通信社の松本重治も感心している。
中国人が井戸を掘った人を忘れないというのは事実かも知れない。
しかし工商銀行は租界のころにはなかった建物であり、そんなものに興味のある中国人はいないようだった。
となると、魯迅と内山完造の交友は想像するしかない。
しかし想像や妄想くらい得意なものはないというのがわたしである。
ある日、上海の内山書店の店頭に、ゆったりとした動きの知的な顔をした中国人がふらりと姿を見せる。
魯迅は日本に留学していたこともあるくらいだから、日中の文学に造詣が深く、このときも日本の書籍を求めに来たのである。
完造は当時知られていた作家の周樹人(魯迅)のうわさを聞いていたから、あなたが魯迅先生ですかと話しかけた。
このあたりの文章は、本屋の主人と客の当たりさわりのない出会いだけど、その後の彼らの交友を知る者には、なかなか味わいのあるエピソードである。
やがて内山書店は中国の進歩的文化人が集まるサロンと化した。
当時の上海には青幇、紅幫、藍衣社、CC団といった、政治結社なのかギャングなのかわからない組織があって、彼らは闇の部分で蒋介石政府を支持し、反対する者を取り締まっていた。
取り締まりは乱暴なもので、共産党員などはまとめて裁判もなしに銃殺されることもあった。
魯迅も反体制の著名人とみなされて、そういう連中に狙われることが多かった。
国際社会では中国を代表する政治家と思われていた蒋介石の、裏の顔がこれである。
ギャング団に狙われた魯迅は、日本租界にあった内山書店に何度もかくまわれている。
魯迅と内山完造の交友を通して、この時代にも中国人をまったく平等に、人間として扱った日本人も多かったことを知るのは感動的でさえある。
魯迅の「藤野先生」のなかにこんな文章があった。
『中国は弱国である。したがって中国人は低脳児である。彼らが60点以上とったら自分の力ではない』
魯迅が東北大学に留学していたとき、たまたまテストでいい成績をとったら、それをカンニングでもしたんだろうと疑って、こういう噂をひろめた日本人の学生がいたというのである。
いまでも同じように相手を見下す人間はいないだろうか。
現在(2024)の、中国の欠点ばかり拾い出して嬉しがってる日本人を見ていると、民族レイシストじゃないかと思ってしまう。
日本が優秀だったのは、国家が教育に熱心だったからで、中国はそうではなかった。
しかし現在の中国は日本を徹底的に研究して、国家を富強たらしめるには国民の教育にしかずと、あげて国民の教育水準を高めることに腐心した。
逆に日本のほうが、公共放送までデタラメを振りまく国になってしまった。
これでは勝てるわけがない。
現在のせせこましいナショナリズムに毒された日本人を見るたび、日本人を信じて失望した魯迅のことを思い出す。
紹興酒を飲むたび思い出す(浙江省紹興市は魯迅の故郷)。
内山完造は戦後の1959年に亡くなったけれど、その後の内山書店はどうなったのか。
中国やアジアの書籍専門店として、まだ神田の神保町にあるはずだけど、わたしが行ってみたのはもう20年以上もまえのことだし、最近の若者はぜんぜん本を読まないみたいだから、気になっていちおう調べてみた。
ネットで検索したらヒットしたから、まだあるらしい。
現在の恐るべき中国との対立政策の下で、こういう日中の和解に努めてきた本屋が、いつまでも残っていてほしいと思うのはわたしだけか(2021年になって天津に新しい内山書店ができたという情報もある)。
中国は大変革の途中だったから、このとき(`95)の上海への旅で新しく知ったことは多い。
上海人民政府の建物は外灘(わいたん)から人民公園のまん前に移っていたし、公園をはさんでそのビルと向かい側に奇妙な建物ができていた。
いったいナンダと近づいてみたら、これは新しい上海博物館だった。
中国の歴史や美術に関心のある人には見逃せない施設だったけど、わたしが行ってみたときはまだ建物が完成ま近というだけで入場は出来なかった。
つぎの機会に詳しく紹介しよう。
ある日東方明珠に行こうとタクシーをつかまえた。
車で市内から東方明珠へ行くには浦東大橋が楊浦大橋へ大まわりをするか、フェリー乗り場しかないけど、タクシーは逆の方向に行く。
どこへ行くんだとわめくと、人民公園の近くから、黄浦江の下をくぐる自動車専用トンネルができていた。
瑞金賓館の近所を探索して、このへんには日本食レストランが多いことがわかった。
以前上海で知り合った会長さんに教えられた「伊藤屋」もあるし、まだオープンして間もない「大和」や「京都」というレストランに、回転寿司や立ち食いソバ屋まであった。
ある晩、買い物の帰りに「伊藤屋」へ寄ってみた。
わたしがテーブルに座ると、さっそく店員の娘たちが寄ってきて、わたしの買物袋をみて、なにを買ってきたのと日本語で訊く。
これはめずらしいお茶でしてねと説明すると、彼女たちのほうが、いくらするの、アラ、10個入っているのネ、すると1個が◯元かなどという。
店員はみな日本風のかすりの作務衣なので、わたしはそのうちのひとりに日本人ですかと訊いてみた。
彼女は、ええ、そうよ、ニホン人と片言の日本語で答えた。
このとき伊藤屋でわたしが食べたものは・・・・マグロの刺身、カキフライ定食、アサヒ缶ビールなどで合計225元(3千円弱)。
ほかのメニューをながめると、焼き肉定食が48元、烏賊の山椒味定食57元などで、昼の定食はだいたい40~60元ぐらいだった。
異国であることを考慮すれば、けっして高くないので、客は日本人が多かった。
中国に行って日本料理の品定めというのもおかしいけど、わたしにとってひさしぶりの本格的な和食だったから、とっても美味かったといっておく。
西安紀行はこのくらいにしておこう。
すぐにつぎの中国の旅が始まるので、乞う、ご期待。
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