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2024年1月12日 (金)

中国の旅/さらば長安

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人民大厦にはひと晩泊まっただけで、翌日には退房(チェックアウト)することになった。
退房の手続きにきた服務員の娘は、おや、おまえ、こんなところで何をしてるんだといいたくなるくらい、わたしの姪っ子のひとりに似ていた。
ああ、またどうでもいことを。

そういうわけでわたしの西安=唐の都・長安の旅も終わり。
しかしわたしは95年の最初のとき以降、3回(正確にはシルクロードの帰りにも寄っているから5回)も西安に行っているので、あとでまたこの街に触れることがあるかも知れない。

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わたしが最後に中国に行ったのは2011年だから、その後西安もだいぶ変わったんじゃないだろうか。
この項ではネットで見つけた最近の西安の写真を中心に集めてみた。
城壁は夜な夜な美しくライトアップされ、大雁塔のあたりも公園としてきれいに整備されて、古都の魅力を最大限に活用した観光都市になっているようだった。
しかし古都というのは改造するにも限度がある。
京都や奈良が古い景色をよく残していて、訪日外国人を喜ばせるのは、うっかり地上げ屋なんかが入って、街の景観を変えてしまったら元も子もないからである。
わたしが01年に行ったときは、鐘楼のわきの交差点のかどが、地表より一段低くなった巨大なショッピングモールになっていた。
地下にしたのは、これも外から見える地上部分に、あまり大きな景観の変化を与えたくないという中国政府の指導によるものかも知れない。

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長安を去るにあたって、わたしはこの街がもっとも栄えた唐の都だったころのことで、またひとくさりエラそうなたわごとをほざいてみようと、図書館でそのころの長安を描写した名著とされる「長安の春」という本を借りてきた。
石田幹之助という東洋史学者が書いた本だけど、また堅苦しいことで知られる東洋文庫なので、ざっと読み飛ばすにも時間がかかった。
たぶん内容は、玄宗皇帝と楊貴妃の恋あたりから、もっとも繁栄したころの長安に、漢詩や四季折々の風物、わたしのハンドルネームの由来になった詩人の李白や、相棒の杜甫をからませた歴史ドキュメントだろうと思っていたんだけど、ぜんぜんそんなことはなかった。
長安の繁栄について、当時流行のパフォーマンスや、そのころ伝わっていた伝承を解説することで、社会の側面から長安の栄華を語ろうとするものだった。
つまり吉原のしきたりや長屋の落語を解説することで、江戸を語ろうというようなものだ。
あまりおもしろくはなかったけど、吉原や落語の世界ほど雄弁に江戸を語るものはないのだから、行き方としては正しいかもしれない。
歴史の研究者、好事家、わたしと趣味の異なる人に興味深い本だろう。

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この本の冒頭に“胡旋舞”という、よそから、たぶん西域であろうとする場所から入ってきた踊りが出てきた。
しかしいくら詳しく書いてあっても、文章で書かれた踊りを立体的に理解するのは、わたしみたいに妄想の得意な人間にもむずかしい。
しかし現在はインターネットの時代なのだ。
著者の石田先生も胡旋舞のじっさいを見たことはなかったと思われるけど、ためしにネットでYouTubeを検索してみたら、この踊りの映像が見つかった。
映像はCCTV(中国中央電視台)のものだったから、本場の本物にちがいない。
ホント、便利な時代になったものである。

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わたしは新疆でウイグル族の踊りを見たことがある、だけではなく、その踊りの輪に引っ張りこまれそうになったことがある(この紀行記のもっとあとに出てきます)。
おそらく胡旋舞もそれに似たようなものだろうと思っていたら、手や首をくねくねと動かすところが、どっちかというとインドネシアのバリ島ダンスに近かった。
それでもこれは、唐の都長安が、世界のさまざまな文化を取り入れた国際都市であったことの証明なのだろう。

李白の詩などを読むと、長安には西域から出稼ぎにきた踊り子がたくさんいたそうである。
胡人や胡姫という単語がたくさん出てくるけど、この“胡”というのは、ペルシア(現在のイラン)やウズベキスタン、また現在の新疆ウイグル自治区など、中東から中国の西域にかけての一帯のことである。
西域から来た踊り子は中国人離れした美人が多く、彼女たちに惚れて、入れ込んで、道をあやまる非行少年があとを絶たなかった。
李白の「少年行」という七言絶句はそういう少年を謳ったもので
 五陵年少金市東  
 銀鞍白馬度春風  
 落花踏盡遊何處  
 笑入胡姫酒肆中
本来は「少年非行」というのがふさわしいんだけどネ(訳は各自で調べて)。
わたしはそういう踊り子のひとりと新疆に行く列車で知り合ったことがあるから、そんな出稼ぎの伝統はいまでも脈々と続いているいるようだ(これもあとで出てきます)。

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長安の繁栄ぶりを象徴するものはまだあって、本の後半に女性の意識革命のことが出てきた。
それ以前の中国の女性のファッションというと、わたしなんか、たとえば天の羽衣に出てくる天女や、法隆寺の百済観音のようなぞろりとしたスカート?姿を想像してしまう。
あまりおてんば向きではない。
ところが長安の時代には、北方の騎馬民族のファッションがもてはやされ、女性までズボンをはき、馬にまたがって狩りを楽しんだりしたそうだ。
これが男ならすでに漢の時代に、騎馬民族の匈奴に対抗するにはこっちも同じ服装でということで、とっくにそういう軍服が取り入れられていたけれど、それが長安では女性にまで波及していたのである。
玄宗皇帝は狩りを好んだというから、柳腰のはずの楊貴妃も、ひょっとすると女だてらに馬を乗りまわす巴御前みたいな女性だったかも知れない。
ヨーロッパでも女性がそれほど開放的になることは近世までなかったから、当時の長安がいかに才気はつらつとした進歩的な都市であったかわかろうというものだ。

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長安を謳った漢詩でわたしが知っていたのは、杜甫の「春望」だった。
でも残念なことに、この詩でうたわれた長安は戦乱に荒廃し、すでに国際都市のおもかげはなかった。
杜甫はひとりの人間の一生のうちに、李白らと遊んだ栄光の長安と、国破れて山河ありの衰退した長安を見たことになる。
彼が放浪の果てに59歳で湘江にただよう船のなかで客死したとき、彼の脳裏に酔いつぶれてなお詩を生産した天衣無縫の李白や、玄宗とともに都落ちのとちゅう非業の死をとげた楊貴妃の美貌などがちらつかなかっただろうか。

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そんな柄にもない妄想にどっぷりひたりながら、わたしは長安、いや、西安駅に着いた。
帰りの列車も往路と同じ軟臥車だった。
ただし今度は昼間から寝られるように上段ベッドにしておいた。
発車時間は9時40分だった。
携帯食としてパンとミネラルウォーターを買いこんだわたしが、列車に乗り込んだのは20分ぐらいまえ。
座席ナンバーが8だったので、わたしはコンパーメントの8号室に荷物を放り込んでホームをうろうろしていた。
発車時間が迫ったので個室にもどると、そこに若い女性が3人座っているではないか。

個室がいっぱいの場合、外国人を優先的に女性と同室にするという規則でもあるのだろうか。
それにしてもちょっと優遇されすぎだなと思い、女性たちとチケットを照合しあうと、ナンバー8は2号室のことだった。
個室は4人部屋だから、1番から4番までが1号車、5番から8番までは2号車ということだったのである。
あなたの部屋はあっちよといわれ、わたしは部屋を押し出されてしまった。ザンネン。

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コメント

胡旋舞の動画に注目しました。私も多少ダンス(salsa)しますが、回転でこのダンサーが視点を一点に固定せず、回転に任せているのはかなり三半規管に負担かけている筈。それでもブレないのはさすが。
https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12624060278.html

投稿: Hiroshi | 2024年1月13日 (土) 12時46分

すみません、文章を書くのにかまけて、コメントに気がつきませんでした。
ダンスをやってるんですか。わたしも野次馬気分でいろんな踊りに興味を持っていますが、以前トルコに行くまえに、NHKで上原多香子さんというタレントさんがベリーダンスを習う番組を観ました。
その番組のなかで彼女の先生をしていた女性に、イスタンブールで出会ったには驚きました
思わぬところに思わぬ出会いがあるものですね。

http://libai.cocolog-nifty.com/oosawamura/2010/02/post-5505.html

投稿: 酔いどれ李白 | 2024年1月20日 (土) 02時27分

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