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2024年1月 3日 (水)

中国の旅/梁山中腹の村

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行ったり来たりだけど、2001年3月、いまからほぼ23年まえの西安、乾陵の旅の続き。

ウマから下りて徒歩で山頂へ向かうと、今度は泣きそうな顔をした中学生くらいの女の子が、つまらない土産ものを持ってまとわりついてきた。
土産というのは十二支の飾りをつなげたもので、そんなものを買う気はぜんぜんなかったけど、彼女は泣きそうな顔で「十二支10元、十二支10元」と日本語でくりかえす。
日本語ということは、どうやらこのあたりにも日本人がたくさんやって来るらしい。
わたしは不要、不要とくりかえす。

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山頂はさすがにすばらしい眺めだった。
遠くまで一面の農地が広がっていて、春霞なのか黄砂なのか、ぼんやりとけぶっている。
唐の歴代皇帝たちがここを墓に選んだのは正解だっただろうと思う。
人間に進化するまえから、猿というのは他人より高いところを見せたがるものなのだ。

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写真を撮っていると中国人の中学生らしい7、8人の女の子たちが寄ってきて、バカチョンカメラをかざしながら、単三電池ありませんかという。
中国の乾電池は性能がわるいのが当たり前だったから、予想よりまえに電池切れになってしまったらしい。
さいわい、わたしは今回の旅のためにたっぷりとスペアの乾電池を用意してあったから、ほらといって包装されたままの電池を渡した。
いくらですかと訊くから、これは日本製の高性能電池だけど、1元でいいやというと、みんな大喜びで、しまいにはわたしのまわりに集まって記念写真を撮ることになった。
この少女たちはカメラを持っているくらいだから、不自由のない家庭の子らに違いない。
そのあいだ泣きそうな顔をした女の子は、肩身がせまそうにはじのほうで小さくなっていた。

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梁山を下る途中、眺めると山腹のとちゅうに小さな村が見えた。
農村に目のないわたしである。
泣きそうな女の子に案内されて、この小さな村へ寄ってみることにした。
こんなところに寄り道する観光客はほとんどいないと見え、道は舗装もされてない細い山道が1本たどっているだけだった。
それがむしろ嬉しく、わたしは浮き浮きした気分で、山肌をまわりこんでいった。

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村のはずれの空き地に大きな獅子の石像が放置されており、まわりで村の子供たちが遊んでいた。
どうやら乾陵の参道はひとつではなく、むかしはこちらにもあったようで、大きな獅子は、日本の鳥居のような参道の目印だったのだろう。
唐の時代の唐獅子が半分土に埋まって、子供たちの遊び相手になっているのはいい景色といえなくもない。
同じ獅子像があとから行ってみた陝西省博物館にもあった。
こちらはタイル張りの正面フロアに鎮座していたけど、わたしには村で子供たちの相手をしているほうが、像も楽しいだろうなあと思う。

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わたしは少女の案内で村内をあちこち歩きまわった。
村のまわりには青々とした麦畑があって、空き地の草むらにヤギの親子が飼われていた。
少女がここにも◯◯がいるよというので、石組みの柵の中をのぞくと黒いブタもいた。
あちこちでアンズのような木がつぼみをつけている。
まだ咲いている花は多くないけど、まもなくあたり一面が、日本の千曲市や勝沼あたりのように花でおおわれて、桃源郷のさまを呈するだろう。
歴史にごちゃごちゃいうより、花が満開の時分に、ピクニック気分で来たいところである。

わたしがまた乾陵の参道にもどろうとすると、少女はまだくっついてきた。
彼女はまだ13歳だそうだけど、学校はどうしたと聞くと、泣きそうな顔をますます泣きそうにする。
悪いことを聞いたと思ったので、わたしはここまでつきあってくれたお礼のつもりで10元をやってしまた。
十二支の飾りなんかもらっても仕方がないので、それはいらないとことわる。
この日の彼女の仕事は報われただろうか。

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参道を歩いていると、かたわらにいたおばさんがヤオトンを見たくないかと話しかけてきた。
ヤオトンというのは、この地方に多い洞窟住居である。
じつはわたしはこれ以前に、洛陽という街を訪問したとき、知り合いに連れられて田舎の親戚を訪ねたことがあって、ヤオトンを知らないわけじゃなかった。
しかし他人の家を覗き見するくらい興味深いことはないので、まあ、見て写真を撮るくらいならとついていくと、参道のすぐ下のヤオトンに案内された。
観光用にきれいに内張りなどがされたヤオトンで、清潔ではあるものの、人間の生活感にとぼしい。
屋内にいろんな土産ものが並べてあったけれど、欲しくなるものはひとつもない。
不要といってすべて断り、わるいのでリンゴを1個もらった。
庭に白い子ネコがいて、これはオッドアイ、いわゆる金目銀目で、皮膚病にかかっているようだった。
そのうちこの家の小学生の女の子が出てきたので、彼女にネコを抱かせて写真を撮る。
どこかぼんやりした子で、ワンテンポ遅れるその笑顔は可愛かった。

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こっちのヤオトンはつまらないや、あっちの本宅のほうを見せてくれないかと頼むと、あんがい簡単に別の、じっさいに人が住んでいるヤオトンに案内された。
屋内に3人ほどの農民らしい男性がいて、テレビがひとつ、ほかにベッドや粗末な家具ぐらいしかない。
彼らはワンタンのような手打ちウドンをふるまってくれた。
見た目は白っぽいスープにつかっているけど、酸湯ワンタンとでもいうか、酸っぱい味のワンタンで、なかなか美味しかった。
あとでいくらと聞くと2元と答えたから、手厚いもてなしに感謝するつもりで10元やってしまった。
わたしも気前がいいけど、なに、10元といったら130円ていどである。
つくづく先進国の日本に生まれたことをありがたく思う。

帰りがけ、外の建物の横についているカマドに興味を示すと、主人が、これはこうなっているといって家の中を見せてくれた。
話に聞いていたけど、床の下に暖気を流すオンドルというものだった。
この日はもう春の陽気だったけど、電気を使う暖房器具なんぞ贅沢な寒村に見えたから、冬にはもっと原始的な暖房が必要なところらしい。

梁山のどこかに地下の墓所への入口でもあるかと思ったけど、そんなものは見当たらなかった。
べつの場所に乾陵からの出土品を展示した博物館があったらしいけど、予備知識がなかったので知らなかった。
墓の一部と思えるものはなにもなく、最初に見た山門のようなふたつの塔だけが遺跡らしいものである。
その塔を見物にいくことにした。

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遠方からも石造りの堂々とした建造物が参道の両側にふたつ並んでいる。
駐車場の係員に、あそこには登れるのかと聞くと、OKだという。
ところがそばまで行ってみると、巨大なコンクリートの建物のドアに鍵がかかっていた。
あきらめて建物を一巡して帰ろうとすると、若い男がドアを開けて待っていた。
わざわざわたしひとりのために開けてくれたらしい。

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この建物は古いものではなかった。
建物の中に鋒火台のような土の小山があり、その崩壊をくいとめるために、わざわざ小山をすっぽり覆って、あとからコンクリートで建てたものだった。
そういえばこの建物よりすこし上の参道の両わきにも、ぺつの盛り土が向かい合っていて、そっちは屋根がかぶせてなく、もとはどんなかたちをしていたのかもわからないくらい崩壊が進んでいた。
遺跡を保護するならもっと徹底的にやればいいのに、こっちには屋根をかぶせる予算がなかったのだろうか。
だいたい作るときに泥で作らず、レンガのようなもっと頑丈なもので作ればいいものを、唐王朝ってあまり金がなかったのだろうか。
気になって最近の写真をチェックしてみたら、遅まきながら無蓋の盛り土も、遺跡の城壁を模したコンクリートで覆われたようである。

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単なる盛り土では、見たっておもしろいものではないから、コンクリートの建物を覗いただけで帰ろうとしたら、ドアを開けてくれた男がてっぺんまで見てきてもかまわないという。
せっかくだから屋上まで登ってみた。
いや、ここから見える景色は素晴らしかった。
南側へ参道が一直線にのびているのが見える。
わたしは1300年以上まえのある日、亡くなった武則天の遺体を乗せた牛車と、お供の行列がしずしずと行進してくるさまを思い浮かべた。
おそらく近隣の一般住民も、こうべを垂れながら葬列を見送っていただろう。
アンズの花の季節なら、それは素晴らしい見ものだったにちがいない。

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