中国の旅/開封へ
話が前後するけど、ここからまた1996年の旅、つまりまえに河南省博物館を見学した旅の続きにもどる。
わたしはサンタナ・タクシーをつかまえて、黄河風景区に寄ってもらったあと、そのまま開封に向かった。
開封?
手紙の封を切る場合は開封(かいふう)だけど、中国の古都の名前の場合は開封(かいほう)と読む。
それでは開封とはどんな街なのか。
わたしのこのときの旅と前後して、NHKが「故宮/至宝が語る中華5千年」という番組を放映した。
これは北京と台湾の故宮博物館に収蔵されている中国の貴重な文物を紹介しながら、あわせて中国5千年の歴史も勉強してしまおうという欲張った番組だった。
まだこのころはNHKも昨今のように、アメリカに追従して、中国にケンカを売るばかりじゃなかったのである。
この故宮シリーズの第8回に、夢の都という副題つきで開封が取り上げられていた。
この番組では政治や戦争よりも芸術を愛して、風流天子と呼ばれた北宋の皇帝徽宗(きそう)の悲しい生涯が印象に残った。
いつの時代にも、どんな階層にも、世間に反する人間はいるものだなと。
鄭州から開封までは高速道路で60キロ足らず、車で約1時間、高速道路の料金は10元だった。
道路上に車は多くなく、その大半は貨物用のトラックで、たまに長距離バスや乗用車など、人間用の車が混じる。
まわりはポプラ並木の多い田園地帯で、遠方から見るそれはきわめて美しい。
ぼんやりと風景をながめていると、あの川べりの道、あの畑のあぜ道、あのポプラ並木のあいだと、じっさいにそこを歩きたいという欲望がわたしのこころのうちでさわぐ。
開封インターチェンジには1時間ほどで着いた。
この街についてはウィキペディアにリンクを張っておいたけど、ここはかって西安、洛陽とならぶ中国の有名な古都だったということぐらいは、ウィキを見なくても知っておいてほしい。
高速道路をおりたあたりで市内とおぼしき方向をのぞんでみたけど、広々とした農地が続いているだけで、高層ビルなどほとんど見えない。
わずかに建設中らしいビルが3つばかり見えるだけなので、いったい街はどこにあるのかと思ってしまった。
まもなく街のはずれにたどりついたものの、やはり洛陽、鄭州にくらべると貧しそうな家並みばかりが目についた。
運転手が開封賓館を知っているというので、そのままホテルまで乗りつけてもらった。
このホテルは開封の名所・相国寺のすぐとなりにある瓦屋根のホテルで、中庭に入るのにお寺の山門のような門をくぐらなければならない。
それも含めて、中庭をとり囲む2階建ての真っ赤な建物が、どこか吉原の妓楼を思わせた。
案内された部屋は、なにか風呂場の排水みたいないやな臭いのする部屋だったけど、深く考えずに2日分予約してしまった。
ちなみにこのホテルは、同じ場所に妓楼然としていまでもあるようだ。
部屋に荷物を置いてさっそく駅へ行ってみることにした。
駅まで軽バン・タクシーで走るあいだ、あちこちでウマやラバが荷車を引いているのを見て、わたしは開封が想像していたより貧しい街であると思った。
駅まえにも寒々とした風が吹いていた。
開封の駅は街のはずれのほうにあって、まわりに高層ビルなどひとつもなく、小さな広場を民家や商店が取り囲んでいるような場所にあった。
それでもその後に駅は新調されたようだから、わたしが見た当時と現在の写真を並べておく。
ここでは市内の地図を買うつもりだったのに、駅の売店には置いてなかった。
タクシーの運転手にぼやくと、彼はバスの発着場の売店に声をかけてくれ、売店のおばさんがまた路上の売店に声をかけてくれて、ようやく地図を手に入れることができた。
地図なんか本屋に行けばあるだろうという人がいるかも知れないけど、わたしは本屋がどこにあるか知らなかった。
このあとタクシーを待たせて、駅の近くをぶらぶらしてみた。
ガイドブックによると、この街にはレンタル自転車はないということだったのに、駅のすぐ近くでそれを見つけた。
しかしこの日は猛烈に寒い日で、とても自転車でサイクリングという気にはなれなかった。
路地の奥の小さな市場をのぞいたり、古い民家の写真を撮りながらうろうろして、適当なところでまたタクシーにもどった。
車中でタクシーの運転手に、この街でいちばん大きなホテルは開封賓館かいと訊くと、いや、もっと大きなホテルもあるよという。
そっちのほうがよかったら引っ越ししてしまおうというので、わたしは運転手を促してホテルの偵察に行くことにした。
最初に連れていかれたのが「東京大飯店」で、高層ビルではなく、せいぜい3階建ての、平屋のように横に広がったホテルである。
庭が広く、大きな池もあって、見た感じは開封賓館よりよさそうだった。
このホテルも当時の体裁のまま現存しているようだ。
そのつぎに連れていかれたのは「東苑大酒店」で、こちらは高層の建物である。
あまり居心地はよさそうに見えなかったから、もういいやといって、わたしは開封賓館へ引き上げることにした。
いったんホテルにもどったあと、部屋には入らず、そのまま相国寺のまわりをぶらぶらしてみた。
相国寺については以下のサイトを。
ただし日本の臨済宗相国寺派の広報サイトだから、そのへんを了解のうえで読むこと。
この寺のまわりには市場があったけど、衣類が主で、服や反物の店ばかりでたいしておもしろくなかった。
門前町のような形態の土産もの屋が集まる一画があり、客はあまりいなかったものの、いずれも瓦屋根の妓楼みたいな建物ばかりである。
あとで見に行く宋都御街もそうだけど、この街では殷賑をきわめた北宋の時代を模擬することという取り決めでもあるのか、多くの場所にこんな建物が多かった。
開封という街は善光寺や伊勢神宮みたいに、古い名所旧跡を活用して観光に特化した街らしかった。
このあたりのレストランで、激辛ラーメンとキノコの炒めもの、ビールなどの食事をした。
注文取りにきた女の子に、あなたは美人だねとお世辞をいってみたら、ふんと鼻で返事をされてしまったけど、多少はわたしのことを記憶してもらえたようだった。
この日は終日曇り空で、風が強く、やたら寒い日だった。
開封の街には喫茶店など1軒もないし、寒いと歩いていてもつらい。
中国には“お澗”という概念がないらしく、食堂やレストランには温めた酒は置いてない。
軽バン・タクシーはたいていのところへ5元(70円ぐらい)で行くから、けっきょくタクシーにばかり乗っていて、すぐホテルへもどって一服ということになってしまう。
夜の8時ごろ、なにかやってないかとタクシーで鉄塔公園へ行ってみた。
鉄塔公園というのは、園内に開宝寺塔と呼ばれる、古い時代の塔があることで知られている。
鉄塔の由来はこの開宝寺塔で、鉄でできているから鉄塔というのかと思ったら、たんに表面が赤錆び色をしていて、遠目には鉄の塔に見えるからそういうのだそうだ。
公園の門のまえでタクシーを下りてみたけど、この時間では真っ暗で鉄塔がどこにあるのかまったく見えなかった。
公園のわきに、夜目にはモダーンに見える建物があったので、勝手に入っていったら門番に誰何され、しどろもどろで弁解してようやく退散した。
翌日の昼間ながめたら、この建物は職業訓練学校の女子寮らしかった。
このあと楽器の演奏か、金髪ショーでもやってないかと、帰りに東京大飯店にまわってみた。
夜なのではっきり見えなかったけれど、タクシーは途中で2カ所も、池というには大きな湖のそばを通った。
ついでにそのひとつの池の近くに、やけににごちゃごちゃしたぎやかな通りがあるのにも気がついた。
大飯店ではべつにおもしろいものはやってなかったので、途方にくれて相国寺の近くへもどり、そのへんの店でなんとかいう白酒(焼酎)を買ってホテルへもどる。
ホテルでは買ってきた酒を呑みながらテレビを見た。
酒は乳白色のビンに入った新彊産の醇爽酒とかいうやつで、ラベルにアラビア文字がびっしり。
アルコール度は45度もあったから、ほんの少ししか呑めなかった。
テレビは中国人主演のマカロニ・ウエスタン(ラーメン・ウエスタン?)みたいな映画をやっていた。
中国には多くの民族による攻防の歴史があるのだから、国がもっとゆとりのある発展をしていれば、この国でも西部劇や時代劇というジャンルの活劇映画が発達していたことだろう。
あまりいやな臭いがするので、夜中に部屋を換えてもらおうかと思ったくらいだけど、なに、明日になったら1日分をキャンセルして、すぐ別のホテルに引っ越すのだからと自分をなだめた。
中国の職人の腕はなってない。
よく街角でノミやハンマー、コンクリートをならすためのコテを持って立っている若者を見かけたけど、あれは求職中の若者が自分を職人であるとアピールしているのである。
見た目は職人にちがいないけど、配線や配管を間違える、床や壁はでこぼこという按配で、わたしはあとでその実例を体感することとなった。
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