中国の旅/古墳博物館
翌日になった。
今日はどこへ行こうかと考えながら、ホテルの玄関に出てみたら、岳さんが写真を持って待ちかまえていた。
昨日彼女の家に行った帰りに、それまで撮ったフィルムの何本かを途中で現像に出してあったのである。
中国のDPEも仕事は丁寧だからそれはいいんだけど、彼女はこの日も貸切でどこかへ行こうと誘ってくる。
2日続けてタクシーを借り切ったらわたしは破産してしまう。
適当な理由をつけてお断りし、彼女がずっと玄関で待ち構えているかも知れないから、わたしは裏口からそっと外出した。
軽バン・タクシーをつかまえ、とりあえず博物館にでも行ってみようとしたら、運転手があんなところはつまらないよ、それより「洛陽古墳博物館」へ行かないかと勧める。
この博物館は洛陽市の郊外にある、古墳ばかりを集めた博物館だそうだ。
古墳を集めたというと、墓が切手やレコードみたいに蒐集できるものなのかという疑問が生じて、変な表現になってしまう。
それでも洛陽博物館はすでに見たあとだから、予備知識はなにもないまま、その博物館に行ってみることにした。
行ってみると洛陽博物館よりむしろこっちのほうが興味深いところだったので、わたしはこのとき(96年)だけではなく、翌年にもういちど見学に行っている。
そういうわけで、この後の記事はまた、96年と97年の旅のメモをひとつにまとめてあるから、その点に留意しておいてほしい。
軽タクシーは郊外を走って、大きなY字路を左折した。
このあたりには唐三彩を売る露店が路傍にずらりとならんでいて、前日に岳さんの車の中からちらりと見た記憶がある。
Y字路からすぐに丸い小山が見えてきた。
西安にある秦の始皇帝陵ほど端正な形じゃないけど、なんとなく遠方からでも人工の山であるような感じがする。
あたりは麦畑のひろがった田園地帯である。
すぐわきの畑にウシやヤギがつながれて、のんきに草をはんでおり、いいところに来たなとわたしは思った。
運転手は博物館まえの駐車場に車を停め、ここで待っているからという。
門を入ると前方に瓦屋根の博物館があり、中庭には動物をかたどった石像がならんでいた。
博物館のなかでまっ先に目についたのが土産もの屋で、墓から出土した土偶や土器などのミニチュアがならべられていた。
わたしは土産に興味がないから、さっさと背後の小山に登ってみることにした。
墓地だからあたりまえかもしれないけど、広さの割に人が少なく、閑散としていて、墓のあいだにサツマイモ畑まであった。
小山は、全体が北魏の皇帝の陵になっていた。
小山の正面には地の底の墓室まで入っていくための黒い穴があいていて、「北魏世宗宣武皇帝景陵」という石碑が建っている。
なんとなく死んだ妻に会うためにオルフェが通った地獄の門みたいだ。
照明がなく、奥に小さな明かりが見えるだけで、あまり気持ちいい体験じゃないけど、なにごとも見聞だというので入ってみた。
通路に照明はまったくなく、直線のゆるい下りなので、背後の入口からの光を頼りにそろそろと歩く。
とっつきに小さな墓室があったから、わたしはやみくもにカメラのストロボを光らせた。
帰国してから写真を現像してみると、なにか環のついた石棺が写っているだけで、墓室のようすはわからなかった。
このあと小山のてっぺんまで登ってみた。
枯れた野菊やいばらのあいだに細い道が通じており、ほんの数分でてっぺんまでたどりついた。
高さはなくとも、まわりは麦畑のひろがる平野なので、見晴らしは素晴らしく、わたしはしばし恍惚となってしまった。
というのが96年の体験だったけど、じつはわたしはまた大きな過ちを犯していた。
もういちど小山のてっぺんからの景色が見たくて、わたしはこの翌年(97年)の6月、シルクロードへ行く途中でまた洛陽に寄り、古墳博物館にも行ってみたのである。
その結果、古墳博物館は最初に見たときよりずっと大きいことがわかったのだ。
このときのタクシー運転手は、就学中に身をもちくずした学生のようなタイプで、ときどき肺病やみみたいなセキをしていた。
彼は博物館への道を知らなかった。
ほかのタクシーの運転手に訊ねたりして、ようやく理解したらしく、20キロはあるよ、いいのかいという。
いいけどいくらでいくのかと訊くと、運転手はいったん入れた乗車表示灯を無視し、ぱたっと空車表示灯を起こして、20元だなという。
空車の表示灯を起こしたのは、メーターを使わずに談合料金で行くということである。
OKだ、向こうで待っていてもらって帰りも利用するけど、往復ではいくらだと重ねて、70元というのを60元に値切って話をつけた。
今回のわたしは懐中電灯を用意してきたので、地下墳墓ではおちついて穴のなかを観察をした。
入口から奥までおよそ40〜50メートルくらいで、壁や足もとにレンガがしきつめてあり、とっつきの墓室の天井は丸い。
ここに鉄環のついた黒い石棺と、反対側の壁に出土品がいくつか並べてある。
古代の中国では皇帝が死ぬと、后たちが生きたまま埋葬された時代もあるという。
こんな暗闇の中で、石棺にとじこめられ、重い蓋が閉じられ、誰の声も聞こえなくなったら、わたしならきっと恐怖のあまりオシッコを漏らすだろうなと思ってしまう。
墓穴から出たあと、わたしはこのときも小山のてっぺんに登ってみた。
てっぺんは別天地である。
さいきん山登りにごぶさたしていたわたしにとって、ここにはひさしぶりに体験するさわやかな風が吹きわたっていた。
このときは6月の旅だったので、西側の広い空き地で、大勢の村人が脱穀作業をしているのが見えた。
小山を下って、ぶらぶらと博物館へもどる。
石畳の敷かれた博物館の庭に、サルやニワトリなどの獣面人身の奇怪な石像が、10体ほど向かい合ってならんでおり、真昼の静寂の中で、それはかなり超現実的な風景である。
帰国したあとで、ネットを通して、それは12支の動物ではないですかと教えてくれる人がいた。
わたしはカン違いをしていた。
古墳博物館は地上にある施設がすべてだと思っていたけど、土産もの売り場で売り子たちと話しているうち、地下博物館への入口があることを教えられたのである。
地上にいては見えないところなので、前回はこれにまったく気がつかなかった。
さまざまな墳墓の見本を集めた地下博物館の展示場はそうとうに大きなものだった。
「北魏帝王陵園」というのが古墳博物館の別名で、パンフレットによると
「もともとこの地にあった北魏世宗宣武皇帝の景陵と、洛陽近郊の遺跡から発見された数十万点の文物を基礎に設立された墳墓専門の博物館」とあった。
龍門石窟に行ったとき、北魏のことを頭に入れておいてほしいといったのは、このことが念頭にあったのである。
失望した洛陽博物館より、こちらの施設のほうが充実しているかもしれない。
ただし96年のころは、この博物館も客があまりおらず、そうとうに雑な扱いをされていた。
北魏か、なるほどね。
と思っただけで、わたしはこの王朝についてなにも知らなかった。
洛陽を首都にしているのだから、唐の前後だろうけど、はたしてそれより前か後ろなのか。
わたしは「史記」を読み込んでいたおかげで、漢までは順ぐりに王朝をたどることができた。
神話的な堯舜の時代から始まって、中国では珍しいことにまだ遺跡が見つかってない夏、北朝鮮の正恩クンのような残忍な王がいた殷、そのあとを襲った周、はじめて中国を統一した始皇帝の秦、垓下の戦いで宿敵を滅ぼした漢にいたる歴代王朝である。
こまかいところは飛ばしてあるけど、おざっぱにこんなところだ。
始皇帝はイエス・キリストとほぼ同時期の人だから、これを基準にすると西洋との比較もしやすい。
唐という国は遣唐使で日本でもよく知られているから、日本の平安時代の王朝で、この先は日本とも比較しやすい。
北魏は漢と唐のあいだのどこかにはさまる王朝のような気がしたけど、帰国して調べてみるまではっきりしたことはわからなかった。
わからない理由は、北魏の時代に、殷の紂王や周の太公望、始皇帝や項羽、劉邦、呂皇后、楊貴妃などのような個性的な人物が見当たらないからである。
やっぱり歴史はドラマチックでないと興味が湧かないのだ。
いちおうウィキペディアにリンクを張っておいたから、興味のある人はまた自分で勉強してほしい。
地下にある博物館の中はひんやりしていて、警備員の中にはオーバーをひっかけて座りこんでいる者もいた。
しかし風が吹き渡っているわけでもないので、わたしは急ぎ足で見学をすませた。
現在はこの博物館で、人数をかぎって地下の館内でひと晩を過ごす、ホラー・ツアーというのも催されているという。
通俗的な旅行に満足できない人は、申し込んでみると、コワーイ体験ができるかも知れない。
タクシーで洛陽市内にもどり、約束どおり60元を払うと、運転手は待っていた分もくれとぬかす。
ふざけるな、行きが20元、帰りが20元、寝ていた分が20元で、全部で60元だよと言い張ると、運転手はニガ笑いしながら、まあいいやとあきらめた。
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