中国の旅/鄭州
カクさんの病院を視察?に行ったあと、わたしはつぎの目的地に向かうことにした。
この1996年の旅は2週間を予定していたので、洛陽だけに居座ったのではつまらないと、出発まえに地理をよく研究してみたら、洛陽の近くには「鄭州」という河南省の省都があることがわかった。
そしてもうひとつ、洛陽に来てから知ったんだけど、「開封」という街もあり、これも長安(西安)、洛陽にならぶ歴史的な古都であることがわかったから、このふたつの街にも行ってみることにした。
洛陽、鄭州、開封の街はそれぞれが120キロ、60キロほどの距離にとなり合っており、列車や路線バスを使うにしても、となり街に行くような気分で行けるのである。
わたしは朝9時2分の列車に乗り、3時間以上かかって鄭州に着いた。
となり街にしては予想以上の時間がかかったのは、とちゅうで列車が原因不明の遅延をしたためだけど、外国旅行をして列車が遅れたと文句をいう人は、そもそも外国旅行をする資格がない。
わたしは動かない列車のなかでいろいろ観察をしていた。
となりの街へ行くのに軟座(1等車)は必要ないだろうと、硬座(2等車)を使ったから、観察する材料には事欠かない。
この日は天気がよくなく、窓外の田舎景色にはもやがかかって幻想的な雰囲気になっていた。
途中で窓外に蛇行する大きな川が見えた。
前にすわっている娘になんという川ですかと訊くと、困ったような顔をしてワカリマセンという。
日本人なら、自分の住んでいる土地を流れる川の名前を知らない人はいないだろう。
彼女が黒龍江省や雲南から来た旅人とも思えなかったし、どうも中国の人々は国内の地理に無関心の人が多いようだ。
列車はまだ動かない。
もやがますますはげしくなってきたようだから、天候のせいてダイヤに乱れでもあったのかもしれない。
車内にはやかましい音楽が流れていた。
音楽だけではなく、そのうち男の声で、立ち会い演説会が3つぶつかったようなすさまじい怒声罵声が加わり、女の金切り声がそれに混じり始めた。
いい機会だからってんで、列車にカンヅメになって逃げるすべのない乗客に、共産党が革命スローガンをたたきこもうと企てたのかもしれない。
気をまぎらわそうとまわりを見ると、お尻まるだしの男の子がペットボトルを投げる、はすむかいの女がリンゴの皮をペッペッと吐き散らかす、車掌が通路のモップがけをする、ときどき〇△□はいらんかねーともの売りが来る、タバコの煙がもうもうとたちこめる、そしてあいかわらず怒声罵声金切り声が・・・・
こんな喧噪の中で30分ほど停車して、わたしの発狂寸前に列車はようやく動き出した。
鄭州駅に着いてまわりをながめると、西安や蘇州のように周囲がひろびろとしているわけではなかった。
駅まえ広場はひろいけど、まわりはごちゃごちゃと建物に囲まれている。
しかし96年当時のことだから、洗練された高層ビルなどがあるわけがなく、ひと昔まえの香港や台湾を見ているようだった。
そしてあいかわらずの人、人、人だ。
というのが鄭州駅の印象だったけど、現在はどうなっただろう。
調べてみたら驚いた。
鄭州駅のまわりはすっきりし、いまではべつの場所に新幹線専用の東駅というのもできているらしい。
鄭州のホテルはあらかじめ調べてあった。
「杜康大酒店」といって、市の西部にあって、綿紡路と建設路の大馬路(大通り)にはさまれており、まわりはアパートや住宅街だから環境はよい。
写真と実物では異なる場合が多いのに、大きさだけはこちらの想像通り、かなり大きいホテルだった。
料金は220元(3000円くらい)で、とくに問題もなく部屋に収まった。
荷物を置いてから、タクシーをつかまえてまた駅に行ってみた。
鄭州の駅は大きな鉄道路線が集中するハブ駅なので、駅前広場のあたりをぶらぶらしているだけでおもしろそうだったのである。
駅に着いて、ポケットをさぐるとこまかい金がない。
日本の百円玉があったから、これじゃダメかと聞いてみると、運転手は手にとってためつすがめつしたあと、にやっと笑って、まあいいやという。
日本の百円はこのときのレートで7元くらいだから、まあ、お互いに文句をいうほどのことはないし、相手にしてみれば珍しいという付加価値がついている。
わたしはこの旅のあちこちで日本の硬貨を出してみたけど、イイとダメは半々ぐらいだった。
駅まえのセルフサービスの食堂でまずいメシを食う。
メシを食って店の外にでると、この食堂のまえにチベット族の民族服を着たおじいさんがいて、手作りのナイフを売っていた。
めずらしいと思って写真を撮ろうとしたら、めざとく気がついて、えらい剣幕でこっちへ来いという。
なんで写真を撮るんだといってるらしいけど、いえ、まだシャッターを押してませんとすらすら弁解できるほど、わたしは中国語に堪能じゃない。
日本語でもにょもにょと叫んでなんとか逃げ出したけど、相手はサバイバルナイフみたいなでっかい刃物を持っているのだ。怖かったねえ。
この街に見るようなものは、少なくともわたしが見るようなものはない。
街をぶらついていたら、駅の近くに二七記念塔というものがあった。
わたしはこれを古代の寺院の塔かと思ったけど、戦前のストライキ騒動を記念するために、1971年に共産党によって建てられた、比較的新しい塔だそうだ。
それならもっと近代様式にすればいいものを、瓦屋根がいく層かに重なった中国式建築なので、古い寺院の色を塗り替えただけといわれてもわからない。
最上階まで登ってみようとエレベーターのまえで待ったけど、いつになっても降りてこない。
メンドくさいから階段で上がっていくと、上の階でドアが開いたまま停まっていた。
エレベーター・ガールの休憩時間だったらしく、わたしがまた階段をつたって降りるころ、ようやくごろごろと動き出した。
塔の各階には共産党の歩みを説明した写真や文献などを見せる展示場があったものの、そんなもの見てもおもしろくもなんともないし、展示場にすわっている女の子もやはりおもしろくなさそうな顔をしていた。
最上階からあたりを観察したところ、すぐ近くに、新宿に新しくできた高島屋より大きいんじゃないかと思えるような巨大なデパートがオープンしたばかりだった。
外見が赤と金色という大胆な色彩なので、仰天しつつ、見物していくことにした。
このデパートは「亜細亜」といって、正面入口の上に、大きく「吉」という字が描かれている。
なんだかよくわからなかったのは、建物をおもてから見ると8階建てくらいに見えるのに、中は5階までしかなかったことである。
どうも外壁の上のほうは、ついたてみたいに壁があるだけのようで、ハッタリといえばこれほど壮大なハッタリもない。
デパート前の広場では開店セレモニーが行われていた。
大勢の人々が押しかけている中に、巨大な角つきのヤクの頭蓋骨を、旦那は2つ、妻はひとつ(と赤ん坊を)ぶらさげたチベット族の若夫婦が、ぽかんと口をあけて見とれていた。
チベットにはこんな大きなデパートはないとみえる。
若妻のほうは素朴な、まあ美人といえる顔で、どこにでも美人はいるものだなと感心したけど、しかし角つきのヤクの頭蓋骨は、いくらなんでも鄭州のような大都会にそぐわない。
そんなものをさげたままデパートに入っていかれては困ると、警備員が押しとどめていた。
わたしが写真を撮るのを発見して、若妻はキリッとわたしをにらんだ。
どういうわけか鄭州では、チベット族をよく見かけたけど、このころチベットでまた騒乱でもあったのか、あるいは彼らは独立をねらう活動家でもあったのか、行きあうチベット族はみんな写真を撮られるのに神経質になっているようだった。
それでもわたしは中国とチベットの関係は微妙であると信じていたので、彼らがとくに問題もなしに中国国内を移動しているのをみると、なにか新しい事実を発見したような気分になる。
駅のちかくのガードをくぐってホテルにもどることにした。
鄭州駅は東側にしか出入口がなく、ホテルは駅と反対側にあるから、どこかで線路を越えなければもどれないのである。
中国の駅というのは一方向にしか出入口がないことが多い。
日本の新宿駅が線路の両側(西と東)以外に、線路と直角になる南側にもあるのとは大違いだ。
ガードを越えたあたりで交通事故を見た。
バイクのタクシーへの追突事故で、路上に事故車が放置されたまま、被害者も加害者も警察官もいなかった。
このブログを書いているとき、現代の鄭州市はどうなっているか調べてみた。
わたしの記憶にある鄭州は、大きいことは大きいけど、どうもダサいところがある街という印象だったのに、いまでは近代的な高層ビルが立ち並び、まさに河南省の省都にふさわしい街になっていた。
ここまでわたしが見てきた街では、蘇州や無錫の変化もおどろくべきものだったけど、それ以上に変化の大きいところかもしれない。
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