中国の旅/黄河風景区
翌朝はサンタナのタクシーをつかまえ、運転手と交渉して、鄭州の観光名所である黄河遊覧区に寄ってもらい、そのあと古都の開封まで行ってもらう契約をした。
黄河遊覧区の正式名称は「鄭州黄河風景名勝区」というので、以後は黄河風景区と書くことにして、そこに着くと、さすがに向こう岸が見えないくらい広かった・・・・
おい、おい、ずいぶん速いな、いくらかはしょってないかいといわれそう。
じつはその通りで、はしょった理由は、このときの旅は1996年のものだけど、そのあとの1999年にもわたしは洛陽の女医カクさんの案内で、同じ鄭州の黄河風景区を見物に行っている。
それをべつべつに書いてもわずらわしいだけなので、ここから彼女といっしょの旅を優先させることにした。
そのときはカクさんの妹とその娘もいっしょだったので、記述もそちらのほうが詳細になりそうだったからである。
ということで前後が交錯してややこしいけど、ここからは1999年の黄河風景区の旅である。
この年にわたしは、性懲りもなく洛陽に女医のカクさんを訪ねた。
彼女は鄭州に妹の家族が住んでいるので、それを訪問するついでに鄭州を案内するという。
にぎやかなところやお寺を案内されても困るから、わたしは3年まえにひとりで行ったことのある黄河風景区へ行ってみたいとお願いして、それでは彼女もひさしぶりのピクニックということになったのである。
洛陽から鄭州までバスのほうが便利がいいとカクさんはいう。
混雑するバスでほこりまみれになって行くのはゴメンだったけど、これは1時間に1本くらいしかない列車とちがって、本数が多く、客が満員になりしだい発車するから、発車しそうなバスを見つければ待つこともない。
高速道路を使うから、かかる時間も2時間ぐらいだそうだ。
というわけで鄭州までバスで行くことになった。
バスは20~30人乗りくらいのマイクロバスで、あまりうれしくなかったけど、乗ってみてその気が変わった。
車もそれほどひどいポンコツではないし、いちおうエアコンも効いている。
混んでいるからつぎのバスにするといったら、あせった運転手が助手席に座らせてくれた。
混雑したバスのなかの特等席というべき席に座ったまま、これで中原の穀倉地帯を列車よりさらにま近に見られることになった。
とちゅうに西安のあたりで見たような複雑な段丘状の地形があったので、わたしは以前から疑問に思っていたことをカクさんにぶつけてみた。
こういう地形は黄河の侵食によるものだろうか、それとも地殻の隆起や沈降によるものだろうか。
カクさんは優秀な人だけど、専門は医学であって、地質学もしくは博物学は知識の外らしく、じつに率直な返事をした。
人間が拓いたものです。
納得。
ブルトーザーやダンプはなくても、中国の農民にとって、そうした作業に費やす時間は数千年もあったのだから。
農村地帯では取り入れが終わって、つぎの畑起こしと種まきの季節らしく、大勢の農民が働いているのが見えた。
牛や馬、たまに耕運機も動いているけど、ほとんどは人間だけの作業で、牛の代わりに人間が3人くらいで犂(すき)を引いていることもある。
それはミレーの「晩鐘」の時代を思わせた。
アグネス・スメドレーの「中世の中へ」という表現は今でも生きていたのである。
鄭州では96年の旅で泊まったことのある杜康大酒店に泊まることにした。
このときは中国人のカクさんが宿泊手続きを全部してくれた。
あとで聞いたら、わたしの書類を見たフロントの女の子たちが、独身の日本人が来たといって、カクさんに紹介してくれと騒いだそうである。
惜しいことをした。
日ごろ日本でいじけた生き方をしているわたしが、モテモテというめずらしい体験をできたかも知れないのに。
3年まえにひとりで泊まったときは、さすがに本人に向かって直接そんなことはいえなかったのか、そんな気配はさらさらなかったもんだけどね。
この日の夜はわたしひとりで杜康大酒店に泊まり、カクさんは妹の家に泊まりに行くことになった。
わたしはまたホテルの近所をぶらぶらして、晩飯はそのあたりの食堂で麻辣湯を食べたということは前回といっしょだからもう書かない。
翌朝は、いきなり部屋に飛び込んできた高校生くらいの女の子に起こされてしまった。
彼女はカクさんの妹の娘、つまり姪っ子で、外国人が泊まるホテルが珍しかったのか、母親たちをさしおいて部屋をのぞきに来たのだった。
カクさんと妹もすぐに現れた。
カクさんの妹というのは、丸っこい元気な人で、あとでわかってくるけど、しっかり者のお姉さんに、甘えん坊の妹という感じの人だった。
妹さんの娘はメガネをかけた活発な子で、ジーンズをはき髪を短くしているから、わたしは最初男の子とカン違いした。
ほかにどこかの役所の職員だという中年男性が車を運転してきて、足つきの贅沢な観光になった。
車はアウディで、タクシーに使われているワーゲンのサンタナと同じように、このころの中国にはドイツとの合弁会社が多かったのだ。
アウディに運転手を含めて5人が乗り込み、黄河風景区に出発である。
わたしは助手席に乗せられた。
運転手は日本でもよく見かける実直そうなタイプの人だったけど、日本語がわからないし、わたしも中国語がペラペラというわけじゃないから、会話はほとんどなかった。
休日に無理に引っ張り出したんじゃないかと、こっちのほうが恐縮。
ふだん事務職らしく運転はうまくないから、彼が運転操作をミスっても、わたしは気がつかないふりをしていた。
さて、わたしが黄河風景区を最後に見てからすでに25年近くがすぎた。
その後の中国の発展の結果として、ここもずいぶん変わったようである。
わたしが行ったときはなかったものに、燕王と黄帝という人物の巨大な石像がある。
調べてみたらこれは両方とも皇帝の尊称で、じっさいに存在した特定の王のことではなかった。
あっちこっち寄り道をしたので、5人乗りのアウディは目的地まで1時間以上かかったけど、やがて車の左手に山が近づいてきた。
これは三皇山という山らしく、そのふもとにはあちこちにヤオトン(洞窟住居)も見える。
黄河風景区は三皇山のふもとの、黄河のほとりに広がっていた。
黄河風景区の駐車場の入口で、運転手が係りとなにやら交渉をする。
どうやら自家用車は風景区の中まで入れないといってるようだけど、こちらは役人で、共産党員のカクさんもついているのだから、まあ、いいでしょうということになった。
そういう光景をわたしがぼけっと眺めていると、近くをがらがらと音をたてて列車が通過していくのが見えた。
風景区の近くには鉄道が走っていて、送電線の鉄塔が並んでいるのも見える。
ここの河川敷内には人工の堰堤で仕切った小さな湖があって、ボート乗り場が作られていた。
カクさんの妹さんは、日本人という生きものと会話できるのが嬉しくてたまらないらしく、わたしに乗ろうよ、乗ろうよと誘うので、娘と3人で乗り込んでみた。
中国のボートのユニークな点は、オールを引くのではなく、押してこぐ点にある。
日本のボートは逆で、たいていはオールを引くときに力を入れる。
全身の力をこめるには引くほうに分がありそうだけど、欠点は前が見えないというところだ。
わたしにしてみれば、ひさしぶりにボートをこいで楽しかった。
出発点までもどるとカクさんは少々おかんむりである。
彼女はたまたま車を移動させていた運転手を迎えにいって、留守にしているあいだにわたしたちが勝手にボートを乗り出してしまったのだから。
それで今度はカクさんを忘れずに全員で展望台まで行ってみることにした。
運転手はリフト乗場まで車で行こうとしたものの、5人が乗ったアウディは急坂のとちゅうでエンコしてしまった。
ギアの入れ替えにもたもたしすぎるのである。
わたしたちは車から下りて歩くことにした。
リフトは日本のスキー場にあるものと同じで2人乗りである。
距離はかなり長く、山ひとつ越えてえんえんと山頂までつながっている。
目の下にヤオトンの農家が見下ろせて、農家の庭でイヌが昼寝をしていたり、ヒナを連れたニワトリが遊んでいたりと、なかなか楽しい(このリフトは、現在はゴンドラ型のロープウェイになったようだ)。
山頂の展望台から見る黄河の景色は雄大のひとことだっだ。
水の流れている部分はそれほどでもないけど、対岸の河川敷まで含めれば広さは相当のもので、向こう岸はぼんやり霞んでおり、耕地になっている河川敷に野焼きの煙がいくすじも立ちのぼっていた。
わたしはこの先に、さらにどんな景色があるのかと、期待と空想をふくらませることとなった。
風景区からの帰りに妹さん母娘を自宅アパートまで送るとき、近くの原っぱでお粗末な京劇が上演されているのを見た。
カクさんにいわせると「豊作祭」の催しものだそうである。
原っぱの掘ったて小屋といっても、京劇のキャラクターはちゃんと揃っており、華やかな衣装は本格的で、舞台のすそにちゃんと楽器奏者もひかえている。
天幕に「鄭州市新金豫劇団」とあって、鄭州市の市民劇団なのか、それとも旅まわりの(いちおう)本格的な劇団なのかわからないけど、それでも数十人の観衆が集まっていた。
こういうローカルな上演形態こそ京劇の原点ではないか。
おまけのようなかたちでおもしろいものを見ることができたけど、これでわたしの黄河風景区の観光はお終いである。
鄭州市にもどったところで遅い昼食にして、「大砂鍋」とかいう、骨ごと叩き切った肉を煮込んだダイナミックな鍋料理を食べた。
わたしが来年もまた来たいとお世辞まじりのお礼をいうと、これまであまり口を聞かなかった運転手のお役人さんが、笑いながら、来年もまたこれを食べましょうという。
気兼ねしていたわたしはようやくホッとした。
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