中国の旅/黄河のほとり
龍門石窟を見終えると、あとはとくに見たいものがあるわけではない。
洛陽に名所旧跡は多いはずだけど、そんなものよりわたしは、岳さんに黄河が見たいといってみた。
「地球の歩き方」をみると、黄河の近くに古い皇帝たちの墓陵があることになっているので、そういうものを見たかったのである。
このころには天気も快晴に近くなっており、岳さんはうなづいて車を発進させた。
走り出してまもなく、岳さんが「関林」を見ていくかと訊く。
三国志で有名な関羽をまつる廟で、中国ではいたるところにあるから、日本のお稲荷さんみたいなものだ。
道の途中だというので、あまり寄り道にならなければいいよと返事をしておいた。
なんだかごみごみした民家のあいだで車をおりた。
なるほど、目の前に「関林」という額のかかった赤い門がある。
門からのぞいてみると、奥にもうひとつ門があって、関羽さんはそのさらに奥らしい。
門からとっつきにある廟の建物まで目測で100メートルくらいある。
せっかくだからというわけで、気のすすまないまま境内へ入ってみた。
壁や柱がまっ赤で派手ぎみなところをのぞけば、日本のどこにでもある神社、寺院みたいである。
ひたいに赤いしるしをつけたかわいらしい幼女を連れて、お線香をあげている家族がいた。
わたしは三国志も読んだことがあって、同じ劉備の子分でも、単細胞の張飛にくらべれば、インテリでもある関羽を崇拝していた。
熱燗がさめないうちに敵の大将の首をとってきたなんてエピソードも痛快である。
しかし中国のこの手の像というやつは、たいてい悪趣味としか思えない色に塗られているので、わたしにはとても好きになれない。
日本で木像石像といえば、生地の材質や色彩を生かした無色のものがほとんどだけど、中国人は像に色をつけるのが大好きである。
もっとも奈良の大仏も昔は全身が金箔でおおわれていたという。
金がはげおちて灰色の像になってしまっても、もとどおりに復元しろという声が出ないのは、そのほうが日本人の好みに合っているからだろう。
帰りぎわ、有料の公衆トイレに寄ったら、便所のわきにボタンの花が咲いていた。
洛陽は別名を牡丹城というくらいボタンの花で有名なのに、この街に滞在中に、開花している花を見たのはここだけだった。
きれいですねと、トイレの使用料徴収係りのおばさんにゴマをすっておいた。
黄河までしばらく郊外の農村を走る。
ポプラやアカシアの並木、畑のなかのキリの木のたたずまいなど、風景は美しく、へたな観光名所よりこちらのほうがずっといい。
ウマやラバが引く荷車にあちこちで出会う。
ずっと遠方に樹木のほとんど生えてない山が連なっていて、全体がじつにきめ細かく段々畑におおわれている。
あそこまで行ってみたいと思ったけど、岳さんは田舎なんかにまるで関心がなさそうだった。
わたしもそんな遠方までまわり道をしてくれといいにくいので、うじうじしているうちに黄河に着いてしまった。
どうも予想に反しておとなしい河だった。
岳さんが案内したのは黄河にかかる、ただの橋の上だった。
橋の長さは1キロくらいあって、まあ大きいことは大きいけど、わたしの郷里の利根川の橋とたいして変わらないなと失望した。
水量は多く、うわさどおり水は黄色くにごっていたものの、足もとに中州が広がっており、中州の先で合流した濁水は、はるか彼方で白い雲と一体になっている。
見渡すかぎりの遠景の中に人工の建造物はほとんど目に入らない。
爽快な景色といわれればその通りである。
しかし橋の上だから、わたしのすぐ後ろをトラックがごろごろと走って、落ち着いて景色なんぞ見ていられなかった。
わたしが写真を何枚か撮って車中にもどると、岳さんは橋のまん中で切り替えしをして、強引に車をUターンさせてしまった。
おいおいとアセる。
このあと橋のたもとの空き地に車をとめ、すこし川岸を散策することにした。
岳さんにしばらく待っていてくれと言い置いて、わたしは土手を下った。
このころ太陽がぞんぶんに顔を出し、あたたかな陽光がふりそそいで、川岸を歩くのに快適な天候になった。
いい気持ちでぶらぶら歩いていると、どこからともなく若い娘があらわれて話しかけてきた。
舟で黄河を遊覧しないかという。
なるほど、わたしの立っている川岸にエンジンつきの小さな舟が近づいていた。
しかし船着き場らしいものはどこにも見えないから、どうするのかと思っていると、へさきを陸に接触させたあと、舟を操縦していた男がロープを投げた。
陸にいた男がそれを受け取り、陸からちょくせつ舟に飛び乗るらしい。
ふりかえると若い娘はいつのまにか小さな机を川岸にセットしていた。
この机が受付で、つまり即席の観光船着き場の出来上がりである(この机がどこから出現したものか、わたしにはいまでも謎なんだけど)。
些細な問題はわきに置いて、わたしは舟に乗って黄河を間近に見たかった。
いくらと訊くと、20元だというから、じゃ20分だけといってわたしは舟に飛び乗った。
舟は黄河をさかのぼり、橋げたのあいだをゆっくり回遊してもとの場所にもどった。
黄河にはでっかい魚が生息しているというから、水面に波紋でも見えないかと注意していたけど、そんものはひとつも見えなかった。
わたしが舟から下りて娘に料金を払っていると、またいつのまにか舟も人間も(小さな机も)どこかへ姿を消した。
おおかたまた農業か漁業か、はたまた土工か知らんけど、自分のほんらいの仕事にもどったのだろう。
岳さんは車の中でぐうぐう眠っていた。
おいおいとおこして、つぎは白馬寺という観光名所に向かう。
ずっと昼食抜きで走りまわっていたので、白馬寺で食事をすませてしまうことにした。
駐車場の前にあった食堂へ飛び込み、なんでもいいから注文してくれと岳さんに頼む。
わたしは極端な偏食で小食家だから、ひとりの場合、うっかり正体のわからない料理を注文するわけにはいかないんだけど、おおむね健啖家である中国人女性がついていると、たまには変わったものを頼んでやれという気持ちになる。
彼女はメニューをわたしによこして、なんとかいう魚料理をどうだと薦める。
しかしどんな料理なのか見当もつかない。
困惑していると、店の娘がわたしの服のそでをひっぱってこっちへ来いという。
あとについて厨房へまわってみると、生け簀があってコイのような魚が飼われていた。
どうせ何だっていいのだから、かわいそうな魚を1匹注文することにした。
ほかに例によって麻婆豆腐、水餃子、野菜の炒めもの2品、ビールやジュースなどで、2人で190元くらい。
日本人は食べ物を残すことをきらうけど、中国人は不必要なくらい料理を並べたがる。
このときの食事は岳さんと2人がかりでも食べきれなかった。
まあいいやと、金持ち日本人のわたしも鷹揚なものだ。
白馬寺は、寺のシンボルになっている斉雲塔に、登るどころか近づくこともできないので(斉雲塔は塀でがっちりかこまれている)、もう筆舌に尽くせないくらいつまらいところだった。
筆舌に尽くせないのだから、さっさと見学はあきらめて、わたしは西安の兵馬俑のときと同じように、寺の近くの農村をぶらぶらすることにした。
塀にそって裏のほうへまわると、前から6、7人の子供が棒の先にヘビの死骸をひっかけて、得意そうに歩いてくるのに出会った。
ほう、こんなところにもヘビがいるのかと、わたしの好奇心はすぐにそっちに飛んでしまう。
わたしはレンガの塀にかこまれた集落に近づいた。
集落にはポプラやキリなどの木が植わっていて、兵馬俑で見た農村と同じように、低い枝がみな刈られ、下草も少ないので根もとがひじょうにすっきりしている。
塀にかこまれた集落をのぞいてみると、たんなる農村ではなく、門になにか工場の看板のようなものがかかげられていた。
塀の中全体が工場のようでもあり、遠慮なしに入っていくのがためらわれた。
けっきょく白馬寺を一周して、今度は道路の向こう側の集落に行ってみるかと考えていたら、後ろからわたしを探していた岳さんがやかましくクラクションをならした。
わたしは後ろ髪ひかれる思いで車にもどった。
岳さんにしてみれば、もうこの日の観光コースはみなまわってしまったのだろう。
ぜんぜんおもしろそうな顔をしないわたしを見て、このあと彼女は、アタシの家を見にこないかと意外なことを言い出した。
わたしはむろん中国の一般庶民の家を見てみたい。
しかし相手は、腕力こそわたしよりありそうだけど、いちおう色香の衰えていない30代の人妻である。
誘われるままに女性の家に寄っていいのだろうか。
昼間っから変なことを期待したわけじゃないけど、けっきょく好奇心が勝って、わたしは彼女の招きに応じることにした。
岳さんの家は引っ越すことに決めた友誼賓館から近い、やけにごたごたした住宅街の中にあった。
迷路のような路地をたどったので、わたしにもういちど彼女の家を探せといわれても無理である。
いっぱんに中国人の家は西洋式で、土足で部屋まで入ってしまい、そのままソファに座ったりする。
岳さんの家も、道路からドア1枚開けるとそこがもう応接室だった。
ソファには小学生の娘がちょこんと座っていた。
おそらく電話で、日本人のお客が行くからと連絡してあったのだろう。
部屋は応接室と寝室のふたつに、小さな台所といった配置らしく、応接室にはテレビや冷蔵庫が置いてあり、壁には鏡と額に入った大きな絵、あちこちに花が飾られ、床にははきれいなタイルがしいてあった。
中国では一般的(もしくはいくらか上等)な家庭サイズと思えた。
旦那さんは今日は仕事ですかと訊くと、岳さんは外へ出ていって2、3分で亭主を連れてもどってきた。
赤いシャツを着たやせぎすの男で、一見して遊び人というふうだったから、近所で麻雀でもやっていたのだろうか。
中国の一般人の家庭を見たいと思っていましたというと、亭主は寝室まで見せてくれた。
寝室はダブルベッドでいっぱいで、娘用の小さなベッドが通路のようなところに置かれていた。
言葉が不十分なので亭主もいずらそうだし、わたしも居心地がよくない。
このあと、まだ小学生の娘や亭主の写真を何枚か撮って、早々にホテルへもどった。
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