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2024年2月20日 (火)

中国の旅/河南省博物館

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翌日もときどき雨のぱらつく嬉しくない日だったけど、それでも軽バン・タクシーで河南省博物館に行ってみることにした。
雨では屋根のある施設でないと具合がわるいのである。

この日は朝から風邪ぎみでもあった。
風邪には「銀翔解毒片」という薬がいいという情報を、女医のカクさんから仕入れていたので、とちゅうで車を停めて薬屋に寄ってもらい、これを買ってすぐに飲んでみた。
黄色い丸薬で、甘くて飲みやすい。
すると、あら不思議、わたしはこれ以降風邪に悩まされることはなかった。
しかしインフルエンザにそんな即効薬があるとは思えないから、女性の医者にもらった薬はよく効くというプラセボ効果かも知れない。
あるいはたんなる気のせいだったかも。
タクシーの運転手も風邪ぎみのようすだったから、どうぞとすすめてみると、彼はいらんいらんと手をふった。

じつはこの日はどこに行こうかと悩んだ。
鄭州という街は日本人にあまり知られてないから、現代ならYouTube映像でも作って儲けることも可能だろうけど、96年といったらまだパソコン元年とされるWIN95が発売されて1年しかたってない。
わたしはどこまでも金儲けに縁のない男なのだ。

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そんなことをいまごろぼやいても仕方がない。
河南省の省都である鄭州には、河南省最大の博物館がある(はずである)。
とりあえずわたしが興味を持ちそうなものは、そのくらいしかないので行ってみることにした。
しかし、ああ、建物の外観をひと目見ただけで、とても上海博物館ほど近代的なものではないだろうと覚悟した。
ガイドブックはここをあまり推薦しないほうがいいと思う。

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とはいったものの、この記述はあくまで1996年当時の所感である。
現在はどうなっているのだろう。
その後の鄭州の繁栄はもうすさまじいほどのもので、中国政府や河南省は、メンツをかけて文化事業にも力を入れたようである。
河南省博物館は立派なものが新しくできており、ほかにも、あとでわたしががっかりした鄭州市の市立博物館も近代的なものができていた。

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96年当時の博物館がどんなものだったかは、このブログを読めばわかる。
入場すると、まずがらんとしてホコリだらけの1階のロビーに驚かされる。
展示場は2階にもあったけど、からっぽの部屋が多く、どこになにがあるのかわからない。
カビくさい階段を上がったり降りたりして、ようやく恐竜の実物大骨格模型のある部屋を発見した。
恐竜というとジェラシックパークだけど、この模型は横から見られることだけを想定して作られたようで、正面から見ると左右からプレスされた馬みたいな顔になっていた。
河南省はアメリカやモンゴルと同じように、恐竜の化石を多く産出するところだから、恐竜の卵の化石があると知って興味を持ったけど、じっさいには砲丸の弾みたいなただの丸い石にしか見えなかった。
ダチョウの卵とあまり変わらないなというのが正直なところで、恐竜もダチョウも生物学的にそれほど変わる生き物ではないから、これでだし巻き卵を作ったら何人分ができるだろうと感心したくらい。

この博物館は美術館も兼ねていて、ある部屋では「書法芸術展」という書家の個展をやっていた。
わたしが入っていくと、それまで椅子に座っていたヒゲの若者がさっと立ち上がって、いずまいを正した。
どうやらボヘミアン的服装のわたしは、ここでもエライ芸術家であると見そこなわれたようだった。
この若者は朱明クンといって、この個展の主催者で、作品は書道と絵画のまじったような前衛書道で、なかなかおもしろかった。
うん、見どころがあるね、頑張りなさいとホラを吹くと、彼はしきりに恐縮して、カレンダーになった個展のポスターをくれた。
どこへ行っても罪作りなわたしである。

このポスターはだいぶしばらくわたしの部屋に飾ってあったけど、現在の団地に引っ越すさいに行方不明になってしまった。
朱明クンについて、ひょっとすると書法の大家になっているかもしれないと、中国の百度(中国の検索エンジンで、グーグルみたいなもの)まで調べてみたけど、結果はこの名前は中国では珍しくないということだった。
芸術家で出世するのは中国でも簡単ではないようだ。

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そろそろ帰ろうと軽バンのタクシーをつかまえたけど、雨はそれ以上降りそうになかったから、途中で見かけた碧沙崗公園という大きな公園のわきで降りてしまった。
この公園は有料である。
園内に鄭州市の博物館というものがあり、あまり期待しないけどのぞいてみようとしたら、この日は休みになっていた。
だいたい開いている日があるのかと疑問を感じるくらい、無愛想な博物館だった(いまでは河南省博物館に負けないくらい立派なものが新しく出来ている)。

園内に映画館があったから入口のあたりを観察してみた。
1階にチケット売り場ともぎりカウンターがある。
もぎりなんていっても今どきの若いもんにはわかるまいから、リンクを張っておいた。
大きな体育館みたいな建物の横に入口がいくつかあって、黒いカーテンが下がっており、わたしの子供のころのなつかしい映画館といっしょだった。
しかし字幕なしの映画なんかわかりようがないし、当然ながら天気のよくない平日に、映画を観ようという酔狂はいないようだったから、外から外観を観察しただけで通り過ぎた。

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園内にはほかにもワシントンの議事堂みたいな白亜の建物があった。
どういうことなのか、門に皇家花園というレリーフ文字があったのをはずして、新しく「花園」という金色のレリーフに付け替えてあった。
以前は“皇家”という文字が頭についていたらしいけど、これはおだやかじゃないから、よっぽど尊い人の御用達ホテルだと思い、ずけずけ入っていってボーイに尋ねると、ここはレストランですという返事だった。
まわりの雰囲気はあまりよくなかったけど、フランス料理でも食わせるのかしらん。
後学のために入ってみればよかったけど、麻婆豆腐や餃子定食という雰囲気ではないので、ここも外から眺めただけで通り過ぎた。

ホテルにもどって近所をぶらぶらする。
まわりは道路の広い閑静な住宅街で、散歩するにはわるくなかったけど、あまり見るものがない。
それでも住宅街の一角に露店の市場があったりするので、冷やかしながら歩いた。
腹がへったのでそのへんの店で食事をすることにした。
店のまえでは、夜になると開店する屋台の準備で忙しそうな娘がいた。
どことなくはかなげな顔立ちの女だったので、わたしの記憶のファイルに綴じ込めた。

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鄭州では「麻辣湯」というのが名物らしく、あちこちでその看板を見たので、試しに注文してみた。
これは酢と辛味の効いたスープで、麺を加えた酸辣麺という料理もあり、わたしは病みつきになってしまって、日本に帰国したあとも、中華料理店でこれがメニューにあれば、よく注文したものだ。

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夜になってホテルの近くにある「浴池」へ行ってみた。
ホテルにシャワーはあるけど、たまには中国の銭湯もおもしろいと思ったのである。
気をつけないといけないのは、中国に貧乏旅行に行った先達が、浴池で泥棒に遭い、荷物を盗まれて、まっ裸のまま放り出されたことがあるということだった。
だからタオルと着替えだけを持って行ってみたんだけど、番台のあたりからのぞいてみたら、せまい浴室に裸の男たちが肌を寄せ合う状態だったので、なんとなくイヤになって帰ってきてしまった。
ああいうところに平然と入れる人は勇気があると思う。
浴池の帰りに見たら、はかなげな娘が、今度は屋台で働いているのが見えた。

風呂に入るのにカメラを持っていくわけにもいかず、写真がないから、じっさいに中国で浴池に入ったことのある人のサイトにリンクを張っておく。
最近では中国でも、清潔でスポーツジムやマッサージを備えたデラックスな浴場が増えているようで、これは日本の温泉を見習ったのだろう。

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ホテルにもどって翌日の予定について考える。
鄭州はどうにもおもしろくない街である。
地図やガイドブックを参照すると、鄭州の北に黄河遊覧区という観光名所がある。
あまり名所旧跡に関心のないわたしだけど、ここは大きな自然保護区らしく、それならこっちからお願いしても行ってみたいところだ。
わたしは予定を早めて、といってももともと予定なんかない旅であるから、臨機応変に行きたいところに行ってかまわないので、さっさと鄭州から脱出することにした。
鄭州からつぎの目的地の開封(かいほう)までは60キロぐらいだから、タクシーを借り切って、とちゅうで黄河遊覧区に寄ってもらい、そのまま開封に行ってしまえばよい。

昼間の軽バン・タクシーで聞いたところによると、軽バンの1日貸し切り料は300元だそうだ。
しかしこんなポンコツで遠っ走りする気にはなれないから、明日はサンタナ・タクシーを探すことになるなと思う。

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