中国の旅/ヤオトンの村
洛陽での予定はほとんどこなした。
わたしはこのあと別の街に移動するんだけど、ここで忘れないうちに大切な人のことを書いておこう。
この旅('96)では、洛陽までの列車で、郝さんという中国の女医さんと知り合ったことを書いた。
郝という字は日本では見たことがないけど、これは中国語では“ハオ”と読み、日本での読み方は、漢和辞典をひくと“カク”である。
本人も日本に研修中はカクさんと呼ばれたといっていたから、ここでもそれでいくことにする。
今度中国に来るときは連絡して下さいといわれて、わたしは舞い上がってしまった。
日本語の話せる相手に案内してもらって、外国を自由に旅するのはわたしの夢だったのだ。
まして相手は若い女性で、医師というから、えーと、うーんと、わたしより高学歴の人ではないか。
わたしは1997年の6月にとうとうシルクロードを目指すことにして、途中洛陽に立ち寄った。
もちろんカクさんと会うためである。
あらかじめ手紙で連絡をしてあったから、洛陽の駅では彼女はホームまで上がってわたしを待っていた。
このときはうっすらとお化粧していて、初めて会ったときに比べると、いい方向にイメージ・チェンジしていた。
どこへ行きたいですかと聞かれたから、できれば観光地ではなく、田舎が見たいですねと答えると、それでは知り合いの農家に行ってみましょうという。
知り合いの家というのはこの地方に多いヤオトンという洞窟住居だそうだ。
これはおもしろいことになったなと思った。
このときの旅では、ホテルはカクさんが見つけておいてくれた。
王城公園の近くにある「洛陽航空大厦」というところで、安いというから料金以外の部分が心配だったけど、見た感じも悪くないし、部屋も悪くはなかった。
それで1泊280元(このときのレートで4000円ぐらい)だという。
部屋は5階の503号室だった。
部屋に荷物を置いてから、あらためて彼女とともに農村へ向かうことになった。
もうひとりの女性がいっしょに行くという。
こっちの女性は名前が“郭”さんで、まぎらわしいけど、日本語ではやはりカクさんである。
あとで聞いたらカクさんは郭さんを、わたしの嫁さんに紹介しようと連れてきたのだそうだ。
そんなことをいわれてもわたしにはぜんぜんそんな気がなかったから、できるだけ話がそういう方向に傾かないように用心した。
小さいバン・タイプの路線バスに乗って、目的地までは30分ぐらい。
街道でバスを降りて、あとは3人で田舎道をぶらぶら歩く。
ちょうど麦の収穫時期で、あちこちで刈り取りや脱穀などの農作業を見た。
北関東の農村育ちのわたしには、とてもなつかしい光景だった。
たどりついたのは崖っぷちの小さな集落で、崖の下に川が流れていて、そのよどみの上にヤナギが緑色の葉をさしのべている。
頑丈な木の扉を開けてもらって、わたしたちは1軒の農家に招じ入れられた。
老人と老婆にその息子さん、そして小学低学年の女の子が2人、家から出てきた。
息子さんと女の子は農繁期にたまたまもどっていたもので、本来のこの家の住人は老人と老婆だけであるという。
門の内側は中庭になっており、葉を茂らせた数本の木が大きな日傘をつくっていた。
中庭は3方向を4、5メートルの高さの崖にかこまれ、そこに大小8個ほどの洞窟が掘られている。
いちばん大きな洞窟は、奥ゆきが10メートルくらいで、老夫婦が住んでいる洞窟は、せいぜい7、8メートルくらいだった。
住まいとして使われているのは3つくらいで、あとは物置きや空き洞窟になっていた。
庭に7、8羽のニワトリが放し飼いにされていて、小さなヒナが走りまわり、囲いのなかにはブタもいた。
洞窟の入口にはツバメの巣があり、ここの住人はまったく自然と同化して生きてるなと思わせた。
めずらしくない、そう、むかしは日本の田舎もみんなこうだったのだ。
カクさんは少女のころ、いちじこの家に居候していたのだという。
とはいうものの、あまり郷愁ばかりにひたるわけにはいかない。
じつは彼女がこの家に居候したのは、毛沢東の文化大革命にひっかかって、彼女も下放という受難に遭ったせいなのである。
下放というのは知識人、文化人など、紅衛兵をしていた無学な若者からみれば、ちょっと生意気な暮らしをしていた人たちが、再教育のため田舎に追放されたことである。
カクさんの家もわりあい恵まれた家庭だったから、追放の仲間入りをさせられ、両親と引き離されて、まだ幼かった彼女が居候させられたのがこの農家だったのである。
ほら、ここがワタシが間借りしていた部屋よといって、カクさんが洞窟のひとつに案内してくれた。
彼女が使っていたころはもっと内装も手が加えられていたのかもしれないけど、文化大革命のころ、電球や蛍光灯がもっとこうこうと輝いていたはずはないから、夜はほとんど明かりのない生活だったんじゃないか。
いまでは表面があちこちではがれかかっている壁や天井から、夜になると血を吸う小さな虫たちが落ちてきたという。
この農家の息子さんという人は、ちょっとやぶにらみの傾向を感じさせる痩せた人で、だらりとたるんだランニングに短パン姿で出てきた。
学校の英語教師をしているそうで、名前は“呂”さん。
彼と話して思ったけど、英語の教師になるにはそれなりの努力がいるはずである。
そうした息子を養育するのに両親はそれなりの苦労をするだろう。
それなのにこの国では、たいした努力もなしに勤まるタクシー運転手のほうが、教員より給料がいいというのでは、国の発展などたかが知れたもんじゃないか。
呂さんの娘は2人いて、姉のほうは11歳で安那(アンナ)という西洋ふうの名前を持ち、妹は7歳で安東といってすぐにわたしになついた。
下の娘に案内されて、崖の上の畑に行ってみた。
崖の上には、すぐ背後にレンガ工場があって、その向こうに線路が走っている。
線路はともかく、レンガ工場は風景をはなはだしく損ねていた。
手前の畑のわきにワラが積み上げられ、汚れた身なりの子供たちが、とつぜん現れた日本人を驚いたような顔で見つめていた。
子供たちはいずれもむくんだような顔をして、目のまわりに腫れ物ができているようだった。
カクさんの話では、健康保険制度のない中国では、貧しい農民は病気になってもまともな医者にかかることもできないという。
そうしたことを除けば、こころのなごむ風景だった。
村のなかを流れる小川のほとりに、カモやニワトリが泳ぎ、小さな子供たちが遊んでいる。
ああ、あのなかに幼いころのわたしがいないだろうか、というのは宮沢賢治の童話の一説だけど、まさしくわたしもそう思った。
食事のお礼としていくらかの対価を払ったあとで、わたしたちはヤオトンの農家をあとにした。
麦畑ばかりの農道を歩きながら、いま見てきた村の貧しさについて考える。
カクさんは、この村は街から遠いから作物を売るにも分が悪いのだという。
そんなことはない、路線バスでせいぜい30分も走れば洛陽市街じゃないか。
わたしは彼女に、日本では農協というものがあって、村でトラックや農機具を購入し、作物の生産調整をしたり、必要なら政府に対する圧力までやる。
どうして中国の農民はそういうことを・・・・といってはみたものの、すぐにあほらしい意見であることに気がついた。
4千年の歴史のある国で、わたしみたいなとるに足りない人間が、その国民性をゆるがすようなことをいっても仕方がない。
洛陽航空大厦にもどり、交代でシャワーを浴びたあと、今度はわたしのおごりで、夕食のためレストランへ行くことにした。
郭さんがホテルの近くに新しいレストランを知っているという。
行ってみると、外装がログハウスを思わせる西洋式の店で、新しもの好きな中国人でビヤホールのようにごったがえしていた。
注文はぜんぶ彼女らにまかせたけど、さすがに中国の店だけあって品揃えは豊富である。
こうなるとわたしのダーウィン的部分が騒いできて、メニューを見ながら彼女たちにいろいろ質問してみた。
これはタニシ、これはエビ、これはウシガエルと、字を見ただけで想像できるものもある。
しかし血を吸うヒルまで食べるとは想像できなかった。
この店ではガラスの水槽に、じっさいのメニューの見本が並べてある。
はじから順に見学してみたら、生きたライギョ、ウシガエルなどに混じってネコザメまでいた。
カクさんはお酒を飲まないけど、それでも日本流にまず生ビールを頼んだ。
テーブルには豚の骨つき肉、アナゴのぶつ切り炒め、蒸し器の中の小龍包、おそろしく香りの強い緑色の野菜などが並べられた。
その骨を食べてごらんなさいとカクさんがいう。
わたしはイヌと違って、ふだん骨なんかあまり食べないんだけど、圧力釜でそうとうにやっつけたらしく、この骨つき肉は骨ごと食べられた。
郭さんは“全虫”というものを注文した。
なんだい、それはと訊くと、これはあれ・・・と、カクさんがへたな絵を書いて説明する。
出てきたものを見たらサソリだった。
ま、日本人がサワガニのから揚げを食うようなもんかと、度胸をすえて食べてみた。
食べるまえに尻尾の針をぽっきり折ってと説明される。
精力増強に効果があるらしいけど、この晩はひとりで寝たから、効果はわからない。
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