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2024年3月 5日 (火)

中国の旅/黄河のほとり

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開封には2泊して、おおよそどんな街なのかわかったから引き上げることにした。
上海へもどる列車のチケットは前日に買ってあったけど、発車は17時半だった。
時間があるのでどこか行こうと考えたものの、さしあたって行きたいところもない。
開封の近くには黄河が流れている。
で、またタクシーをつかまえて、黄河に行ってみることにした。
おまえも黄河が好きだなあといわれそうだけど、わたしはこれでもアウトドア派で、お寺や神社を見せられるくらいなら、広々とした山野をうろついているほうがいいのである。

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開封市街から黄河まで20~30キロぐらい、まったく初めて行く場所だから運転手にすべてを一任した。
すると車はほどなくして、細部こそ異なるものの、昭和の前半まで日本のどこにでもあったような素朴な村にたどりついた。
舗装もされてない畑中の道路、土の壁がむきだしの農家、素朴きわまりない農機具、ヤギや放し飼いのニワトリたち、わたしがいつも夢見るなつかしい郷里へタイムトリップしたようだった。

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車を待たせて村のなかを歩いてみようというわたしのまえを、駄馬に引かれた荷車がゆく。
わたしはその荷車が畑のあいだを抜けて、むこうの集落に消えていくまで、呆然と見送った。

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ということで、開封の最後はその田舎の写真をずらずらと並べる。
つまらなければ見なくて結構、このページは特に、アンタのために書いているわけじゃないからね。
わたしの個人的な思い出をたどる紀行記も、ここでその独善はひとつの頂点に達したのだ。

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最後の3枚はこの村の先にあった土手を越えたときに見た景色。
黄河はこの村のはずれを流れていた。
わたしは鄭州にある黄河風景区で黄河を見てきたばかりだけど、あちらでは黄河が手前にあり、その向こうに広大な河川敷の草原が広がっていた。
ここではそれをちょうど反対側から見ることになるらしく、手前に芒洋とした河川敷が広がり、ここからは見えないけど、黄河はその彼方を流れているらしかった。
そしてここは観光名所でもなんでもない、ただの黄河だった。
舟に乗りませんかと話しかけてくるにわか観光業者もいなかったし、展望台もみやげもの屋もない。
あるのは放し飼いにされているヤギ1匹と、亀甲もように干上がった流れの跡、そしてあくまで芒洋とした草原だけである。
いいところに来てしまったなと感激しているわたしのまえに、鍬をかついだひとりの農夫が現れて、面食らったような顔でわたしを眺めていた。


黄河から開封市内にもどってきてもまだ時間がある。
海外旅行をしているとよく経験することだけど、列車が夜の発車というのは、わたしのように無為に時をすごす旅人にとって、けっこうツライことである。
ホテルは昼で追い出されてしまうから、夜までどこかで時間をつぶさなければならない。
金に不自由してなくて、開封に知り合いでもいればいくらでも時間をつぶす方法はあるだろうけど、わたしみたいな凡人には、その両方ともない。
コーヒー1杯でねばれる喫茶店でもあればいいんだけど、当時の中国の地方都市にそんなものはなかった。
天気がよければなあとわたしはボヤく。
暖かい日ならレンタル自転車で田舎をまわってもいいし、公園のベンチで時間をつぶしてもいいのである。

わたしはなんとか時間をつぶそうと、開封市の博物館へ行ってみた。
ここも河南省博物館と似たりよったりで、1階では写真による共産党の歩み展、2階は小、中学生の図工展、3階ではなんと家具展をやっていた。
古代の家具というわけではなく、そこいらのデパートでよくやっているような、現代の家具展である。
見るべきものは1階のすみに忘れられた石像2体と、建物の周囲にならべられた石碑ぐらい。
そんなものを見物しているのはわたしだけだった。

禹王台公園にも行ってみた。
禹王は「史記・夏本紀」に出てくる中国の古代王朝である夏の創立者である。
中国では高潔な創立者が王朝を興し、何代かあとの非道、もしくは暗愚な後継者がそれをつぶすという歴史のくり返しだった。
夏王朝を滅ぼしたのは殷で、その王朝の有名な遺跡(=殷墟 )は、開封からも遠くない河南省の安陽にある。

期待してなかったけど、曇り空の寒い平日とあって、広い公園の中にほとんど見学者などいなかった。
園内の一角に禹王の像をまつる廟があった。
石段を登って門をくぐると、日本の神社としても小さすぎる建物の中に、リアルな色彩で塗られた禹王の像があった。
そのグロテスクさに度肝をぬかれて、お賽銭も上げずにUターンしてしまった。
ほかに釣り禁止の立て看板のある池でフナを釣っている人が数人、禹王の像にお参りしている女性が2、3人、ぶらぶらしている若者が2人、これらはみな入園料を払った客ではなく、近所の人々のヒマつぶしという感じだった。
どおりで入園料も安くて、たったの3元である。

不景気な顔をしているわたしの頭上を、車輪を出して着陸態勢の飛行機が2機も飛んでいった。
タクシーをつかまえて開封には飛行場があるのかいと訊くとあるという。
乘る気もないのに飛行場まで行ってみた。
乗る気がないのだから、門のまえで満足して引き返した。
タクシーも5元(70円)か10元(140円)だから、いくら乗ったり降りたりしても痛痒は感じないのだ。
わたしがポール・セローの地中海やアフリカの旅をなぞったとき、彼がチュニジアのチェニスや、タンザニアのザンジバル島でしょうもないことをしているのをみて、ああ、彼も行くところがなくて困っていたんだなと思ったのは、こういう経験があるからである。

到着した日に、ウェイトレスの女の子にきれいだねとお世辞をいった店のまえを通りかかったら、その子が目ざとくわたしを見つけて、さっと内側からドアを開けてくれた。
若い娘におぼえてもらえたのかと、なんとなく嬉しくなって、空腹でもないのに食事をしてしまった。
アホなことばかりしていて、ようやく駅に行ってもいい時間になった。
駅の待合室で、この街について最後の想いをはせる。
開封はいい街である。
素朴であるだけで鄭州よりいいと思う。
ただ、わたしが見た黄河のほとりのあの素朴な村が、急テンポで発展と変貌を続ける中国で、もうすでに歴史というフォルダに綴じ込まれてしまったのではないかと、それだけが気がかりだ。

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