中国の旅/絲綢之路
司馬遼太郎の書いた文章のどこかに、なんで日本人はそんなにシルクロードが好きなんですかと、中国人がおどろく場面がある。
生まれてこのかた、シルクロードに親戚もいないわたしには、なんでと聞かれてもわからないけど、個人的なことをいわせてもらえば、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンが書いた「さまよえる湖」の影響かも知れない。
これは第1次世界大戦から2次世界大戦にかけてのころ、ヘディンが現在の中国の新疆ウイグル自治区を探検した紀行記で、夢と冒険(と妄想)に明け暮れていた青少年のわたしの胸を激しく揺り動かしたものだった。
ヤルダン、メサといった砂漠の地形や、タマリスクという植物名などは、この本のせいでいまでもよくおぼえている。
もうひとつシルクロードにあこがれる原因をつくったのは、映画「アラビアのロレンス」かも知れない。
何度も観ていると鼻につく場面があるけれど、そういうものを超越して、とにかくロレンス映画で素晴らしいのが雄大な砂漠の景色だった。
かげろうのもえる砂漠の彼方から、ラクダに乗った黒ずくめのアラビア人がやってくる。
映画史に残る名場面といえる。
けっして冒険家を名乗るほど肉体派じゃないけど、ロマンチストで空想好きなわたしは、砂漠の国へ行ってみたくてたまらなかった。
わたしの中国の旅を追うこの紀行記は、1992年の江南地方をまわる団体旅行から始まって、蘇州や無錫、西安、洛陽や開封を通過して、とうとうシルクロードをのぞむ位置にまでやってきた。
わたしは西安にいるとき、ここから先がシルクロードなんだという気持ちをかたときも忘れたことがない。
考えると、それまで体験してきた中国の旅は、これすべてシルクロードの旅のための足慣らしだったかも知れない。
海外旅行をしたこともないわたしは、外国ですんなり宿を見つけられるのか、すんなり列車の切符が買えるのか、そういうものをゆっくりと確実にクリアしてきたのだ。
洛陽、開封からもどって半年ほどあと、わたしは銀行へ行って貯金を下ろした。
そんなにしょっちゅう中国旅行をするほど金があったのかいという人は、わたしの中国紀行の冒頭の辞を振り返ってほしい。
わたしはあいかわらず独身で、世間から頼りにされていない生活をしていたうえ、刻一刻と過ぎ去っていく時間をムダにはできないという焦りにもとりつかれていたのだ。
無責任といわばいえ、こじんまりとした家庭の亭主に収まるくらいなら、雄大な砂漠で行き倒れたほうがマシだと、引っ込み思案のわたしには、いささか誇大妄想のケもあったかも知れない。
慎重なわたしのことだから、出発まえにいろいろ調べた。
ただしまだインターネットなんていう便利なものは身近になっていなかったし、現代のようにグーグル、ウィキペディアで何でも調べられる時代ではなかった。
ひとくちにシルクロードというけど、それっていったいナーニ?
もちろん中国の絹をヨーロッパに運ぶための輸送路ていどのことは知っていたけど、これの意味する範囲は広く、広義にはアフガ二スタンやイランを経てローマまでのイタリア半島も含まれる。
わたしが目指したのは中国のシルクロード、つまり西安からタクラマカン砂漠の周辺をめぐり、国境の街ウルムチあたりまでである。
これより先になるとまだ言葉の壁もあるし、列車の乗り方も勉強してないので、おとなしく新疆ウイグル自治区までで我慢しておくしかない。
わたしがシルクロードに出発する17年まえの1980年ごろ、日本の公共放送が「NHKスペシャル・シルクロード」という番組を放映した。
これは新中国になってから日中和解の方針にそって実現した、世界で初めてシルクロードを紹介するという謳い文句つきの番組だった。
この番組はNHKのお宝らしく、その後も何度か編集しなおされたり、規格を変えたりして放映されているから、わたしの部屋にはそのDVDがそっくり保存されている。
ほかにも敦煌の莫高窟なども、何度も繰り返し取材され、放映されているので、いまわたしの録画コレクションのなかに敦煌に関するものだけでも3本はある。
この紀行記のためにそれらをまた引っ張り出してみると、西安から蘭州、武威、張掖、敦煌、トルファン、ウルムチ、カシュガルなど、わたしの行ったことのある土地の記憶がまざまざとよみがえる。
わたしは現在のように、日本が先進国ぶって世界を分断させることに熱中する以前、中国やロシアと仲のよかった時代を思って悲しくなる。
“山川異域 風月同天”という精神はいったいどこへ行ったのか。
他国の歴史や文化を知ることぐらい、人間のこころを豊かにしてくれることはないのに、そして若者たちが世界を旅するのは、わたしのころよりずっと楽になっているのに、どうしてわざわざ障壁を作ろうとするのだろう。
現在は片手に乗るスマホが翻訳機になる時代だから、言葉の壁というものは死語になりつつある。
自分の目では何も見ず、他人(と公共放送)の言い分を鵜呑みにするくらい危険なことはない。
将来悲劇に見舞われるのは、わたしではなく、いまの若者とその子供たちなのだ。
嘆いていても仕方がない。
さあ、もう出発しよう。
死にかけたじいさんのわたしには、残された時間は多くないのだ。
ここに書こうというのは1997年6月、いまから27年まえの旅のてんまつである。
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