中国の旅/祁連山脈
昨夜はひじょうに寒かった。
朝4時ごろ、列車の窓から外をのぞいてみると、線路の両側に威圧するようにそびえていた山塊は影をひそめ、闇の中にゆるやかな丘陵がシルエットになっていた。
左手、そしてまもなく右手にも、町の明かりらしいものが点々とあらわれた。
時刻表によると蘭州を19時59分に出て、以降の駅は、天祝、武威、金昌、山丹、張掖、酒泉、嘉峪関、低高舗などとなっている。
武威には深夜の1時52分到着だから、血走った目のわたしに恐怖を感じた前夜の美人は夜中に降りたわけだ。
武威のつぎの停車駅が金昌で、ここに到着が夜明け前の4時ごろ。
わたしがねぼけまなこでながめた町の灯は、金昌のはずれのものだったのだろう。
闇のなかをゆっくり動いていく明かりを見て、わたしはむかしのことを思い出した。
若いころのわたしが海上自衛隊にいたことは、このブログでも何回か書いているけど、新兵のころのわたしはよく見張り当直に立たされた。
自衛艦は夜でも航海中は、艦橋の両脇に見張りがひとりずつ立つ。
冬の夜の見張りは辛いけど、夏や春秋の暖かいころならこんな楽しい仕事はなかった。
見張り中はほかの訓練そっちのけでぼうっと夢想にひたっていていいのである。
これでよくわたしの艦(ふね)が衝突しなかったものだけど、好きこそものの上手なれ、わたしは優秀な見張りということで艦長からじきじきに褒め言葉をもらったこともあるんだよ。
んなことはどうでもよくて、敦煌行きの列車のなかのこと。
地平線もさだかでない闇夜のなかに、ときどきぽつんと明かりが現れてゆっくり後方に移動していく。
自衛艦の場合はすれ違う他船の明かりであることが多いけど、このとき見たものは民家の明かりか車のライトだっただろう。
砂漠を行く夜行列車の旅は船による夜間航海に似ている。
これが砂漠の旅というものか。
しみじみとノスタルジーにひたってはみたものの、わたしはまだ本格的な砂漠というものを見ていないのだ。
明るくなったらどんな景色が見られるのだろう。
5時半ごろ、ようやく明るくなってきたのでベッドから抜け出した。
窓からのぞくと、あたりは短い草がちょぼちょぼと生えた砂礫地帯で、山というか丘というか、ゆるやかに盛り上がった、あるいはくぼんだ赤い大地がどこまでも続いている。
この歳まで日本で育ったわたしとしては奇異としかいいようのない景色で、いよいよシルクロードに到着したなと思う。
かってNHKが放映した「シルクロード」という番組によると、シルクロードには天山山脈の北をまわるもの(天山北路)と南をまわるもの(天山南路)があり、この南まわりはさらにふたつに分岐して、タクラマカン砂漠の北側と南側をまわるルートがあることになっていた。
今回、わたしがめざしているのは、西安から敦煌、トルファン、ウルムチをへて中央アジアの国境を越える天山北路と呼ばれるものだった。
むずかしくはない。
北京や上海から鉄道で西域を目指せば、蘭州から先はそれがそのまま天山北路だ。
現在はこの区間にも高速鉄道が出来ていて、蘭州から敦煌まで7時間半で行ってしまうようだ。
明るくなってまもなく、左手正面に雪をいただいた山脈がすがたをあらわした。
時刻からして、これは祁連(きれん)山脈の東端ということになるだろう。
砂漠のなかに突如として雪をいただいた山、わたしはくいいるように景色を眺めた。
遠いむかし、使命をおびて初めてこの地に足を踏み入れた張騫や三蔵法師などは、この山を見てどんな感慨にふけったかと思う。
進行するにつれ、また新たな白い山脈がその向こうに長大な壁となってあらわれた。
6時ごろ、樹木の多い街が見えてきた。
わたしの想像していたものよりずっと規模が大きいけど、これがいわゆるオアシスというものらしい。
わたしはこれまでオアシスというものは、砂漠のまん中に小さな泉があって、まわりにヤシか何かがちょぼちょぼ生えているだけのものと思っていた。
とんでもない、わたしがここで見たものは、日本のひとつの市町村くらいの広さがある。
目がさめてから最初に停車した駅は山丹だった。
ポプラが高々とそびえたち、緑の農地がひろがる美しい土地に見える。
駅からそれほど遠くない場所に、朝日に照らされた褐色の岩山がそびえていていた。
駅のホームにおりてみると、まだ日がのぼったばかりなので、空気がひんやりしていて気持ちがいい。
列車のわきに立つ車掌の中にはコートをはおっている者もいた。
山丹をすぎると、左手には大きな湖があらわれた。
この文章を書くために念のため確認してみたら、これは川の一部のようだから人工的なダムだったかも知れない。
幅は広いところでも600メートルぐらいしかないけど、長さは5キロ以上あり、列車からは長辺のほうを見ることになるのである。
わたしはなにか動物がいないかと砂漠に目をこらしてみた。
ウシ、ウマ、ラバ、ロバ、ヒツジ、ヤギ、そしてラクダまで、家畜ならけっこういろんなものを見られるんだけど、野生動物というと、緑のあるところで小鳥とカケスのような鳥をいくつか見ただけだった。
同室の中国人に筆談で質問をしてみた。
この人の名前は「裴傳哲」さん。
顔つきはわたしの弟の嫁さんの父親という人の若いころに似ていた。
人生は同じ役者が繰り返し登場する舞台劇のようなもの、という感慨がまたむらむら。
裴さんにこのあたりの砂漠にはなにか野生動物はいますかと尋ねると、狼、アナグマ、イタチ、タカ、ユキヒョウ、黄羊、青羊などを教えてくれた。
しかしユキヒョウなんて、線路のかたわらをうろうろしているわけがないし、黄羊、青羊なんてどんな動物なのか見当もつかない。
双眼鏡をかかえたえわたしでさえ、列車の中からなにか野生の動物を発見するのはむずかしかった。
こんな砂漠でヤギやヒツジは何を食べているんですかねと訊くと、裴さんは、このへんの草は根がとても深いんだという。
ああ、こういうことですかと、わたしがさらさらと根を深くはった植物の絵を描くと、キミは漫画家だなとほめてくれた。
この人の職業はわからないけど、つい最近敦煌にも行ったことがあるよといい、なかなか博識の人らしく、砂漠の由来などにについても教えてくれたようだったけど、わたしの語学力で学術的な話は無理である。
目をさましてから山丹まではまったくの荒撫の地といってよかったけど、山丹を過ぎてからはしばらく、ポプラの並木と民家の集落が点在する平野をゆく。
左手遠方の祁連山脈どこまでも続いている。
山丹のつぎは張掖で、ここに停車したのは朝の7時17分。
停車中、ホームで記念写真を撮っている女性2人が、日本製のカメラを持っているのに気がついた。
日本人ですかと訊くと、けっこう上手な日本語でシンガポールですと答えた。
どうして日本語をと重ねて質問すると、コスモポリタンだからという。
世界を見てまわっている大先輩なのだろう。
張掖は日本アルプスをのぞむ信州の田舎のような、どこか日本の農村を思わせる水気の多い田園地帯だった。
空は雲ひとつない快晴で、さわやかな風が吹きわたっているらしく、立ち並ぶポプラの葉がみな同じ方向にゆれている。
腹をすかせたわたしは食堂車に行き、朝食はパン、ハムエッグ、それにお粥で20元。
張掖を出るとまもなく、驚くべきことに水田があらわれた。
四角く区切られた田んぼのなかに、日本に比べるとだいぶ乱雑だけど、ちゃんと稲らしきものが等間隔で植えられている。
え、おい、ここはシルクロードだぞ、砂漠の国だぞ、田んぼなんかあっていいのかと、大きな疑問につきあたったわたしはうめいた。
うめいても仕方ないから、帰りに寄れたら張掖に寄ってみることにした。
9時半、あいかわらず荒涼とした風景が続いている。
空気が澄んでいるせいだろう、左手の雪を頂いた山脈がすぐそこにあるようにくっきりと見える。
目測で山までの距離が計りにくいので裴さんに
空気明瞭 我不能計算 到那是山脈的距離
こう訊ねたところ 20キロから50キロくらいだろうという。
あそこに見える山はどのくらいの高さがありますかと訊くと、彼は紙に4千メートル以上と書いた。
そんな高さに見えないけど、いま列車が走っている場所ですでに1700から1900メートルあるというし、空気の澄みぐあいはまさに高原のそれだから、さもありなんである。
日本の鉄道でいちばん標高の高い場所は、信州の野辺山の1346メートルだから、このあたりはそれより高いということになる。
それなのに7月、8月には大雨が降って洪水になることもあるという。
10時ごろ、左手の山すそに緑の帯のようにオアシスが広がっているのが見えた。
もしあれがずっと昔からあるものなら、けっこう想像していたよりオアシスの数は多いなと思う。
このあたりでは旅人の視界内に、つねにいくつかのオアシスが見えていたんじゃないか。
ただ右手には山も丘も見えず、ただもうだだっ広い空間が広がっていた。
こちら側は内モンゴル自治区で、ゴビ砂漠のへりをかすめているはずだ。
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