中国の旅/莫高窟
太陽が上ったのは6時すこしすぎである。
昨夜はひどい目にあった。
いい気になって買い置きの果物をぱくぱく食べたら、夜中に腹痛である。
それ来たぞ、やばいかなと思ったけど、征露丸を飲んでおいたのがよかったのか、朝になったらなんとか治まっていた。
そんな事情もあってもう生の果物を食べる勇気がなくなってしまい、買っておいたアンズやキュウリの大半は捨てることになった。
目の充血もいくらかひいてきたようで、こちらはいくらか安心。
しかし安物のサングラスはまだ壊れてないし、これを手放すわけにいかない。
この日は8時半に姜さんという女性運転手のタクシーが迎えに来るはずなので、それに荷物を運んでもらって、ホテルを引っ越しをすることにしていた。
その後は姜さんとアベックで、優雅に敦煌見学だ。
と思っていたら、あにはからんや、迎えに来たタクシーには3人の人間が乗っていた。
運転しているのは趙クンという目つきの悪い若者で、ほかに姜さんともうひとり、おとなしそうな女性がいた。
女性なら安全だろうと思ったんだけど、これではわたしのほうが身ぐるみはがされてしまいそう。
おとなしそうな女性はちょっと漢族としては雰囲気が異なるので、名前と氏素性を訊いてみたら、阿麗(アーリー)さんといって蒙古族だということだった。
タクシーで「敦煌国際大酒店」に引っ越したあと、ただちに莫高窟へ出発である。
走り出してすぐ、車は町の中でストップしてしまった。
趙クンがボンネットをあけて首をかしげている。
けっきょく姜さんが別の車をチャーターしてきて、あとの2人は置き去りにしていくことにした。
いったい何のために来たのか、彼らは。
新しい車はワーゲンのパサートで、運転手は男であるけど、いちおう姜さんもいっしょに乗る。
莫高窟まで30分で行くという。
運転手はホーンを鳴らしながら飛ばす。
敦煌飛行場の先で右折し、見渡すかぎりの砂漠の中を飛ばす、飛ばす。
わたしはこの日の朝から午後まで車を借り切るのだとばかり思っていたので、それなら100元は安いと思ったんだけど、じつは借り切るわけではなく、運転手は莫高窟までわたしの送迎をするだけだったのだ。
女性運転手の姜さんも入場券売場、そして莫高窟の入り口までわたしを案内すると、午後にまた迎えに来るといってさっさと帰ってしまった。
これではいつでも好きな時間に帰りたいと思っているわたしにはちと不都合なのだが。
現地の状況をよく知らず、日本のやり方を踏襲するつもりでいると、よくこんな失敗をする。
しかし気の向くままにぶっつけ本番というのがわたしの旅である。
沢木耕太郎さんの紀行記などを読むと、昼間から宿にひきこもっているヒッピーなんかが出てくるけど、ああいうふうに時間に縛られず、こせこせした日常から逃れるために旅をしているのだから、初めての土地では失敗もやむを得ないのである。
莫高窟は周辺をすべて柵でかこまれており、入場料は80元で、予期していたとおりかなり高かった。
しかし人類の世界遺産を保護するためにこのくらいの出費は仕方ないかもしれない(いちおう莫高窟にもウィキペディアのリンクを張っておいた)。
入り口近くに日本の平山郁夫画伯や、池田大作サンなどの大きな写真が掲示してあった。
敦煌の保存と宣伝に功績のあった人らしいけど、人物選定に問題アリだなと思う。
井上靖の小説「敦煌」は・・・・遠いむかしに読んだはずなのに、手元の本はとっくに処分してしまったし、作家はまだ死んで50年経ってないから、青空文庫にも載ってない。
図書館に行けばいいんだけど、めんどくさいので今回は読んでなかった。
たしか内容は敦煌文書と呼ばれる、発見された古文書のほうがテーマだったと思う。
敦煌では遺跡だけではなく、膨大な量の書籍が発見された。
ところがこれが知られると、世界中から探検家、研究家という名の強盗が押し寄せてきて、文書はたちまち散逸した。
しかしこれがかならずしも不正行為であったかどうかは、むずかしい問題だ。
強盗にも三分の理があって、自分たちが外国に持ち出さなければ、貴重な文物はとっくに散逸したり毀損したりしていただろうとのこと。
遅きにきっした感がなきにしもあらずだけど、現在の莫高窟は中国政府によって大切に保護されている。
入口でわたしはカメラも荷物も強制的に預けさせられてしまった。
やれやれ、写真が撮れないんじゃ何のために来たのかわからないと思う。
しかも石窟のすべてに扉がついており、カギを持ったガイドといっしょでないと、ひとりで勝手に見てまわるわけにはいかないのである。
仕方ないのでわたしは、たまたま前にいた欧米人の若者、と思ったら香港から来たという現代的な服装の若者たちだった、のうしろにくっついてまわることにした。
彼らには中国女性が2人(ひとりは敦煌のガイド、もうひとりはツアーの添乗員)ついており、敦煌のガイドは女優のような美人だった。
美人は見ていて楽しいけど、なにせ説明が中国語なのでさっぱり意味がわからない。
しかしガイドがいるから石窟のカギは開けてもらえるわけだ。
わたしはときおり若者らと言葉をかわしつつ行くんだけど、みんな気のいい連中で、中のひとりがわたしに日本人女性の名前と住所を書いた紙を見せて、これは電話番号ですか、住所ですかと訊く。
石窟の数は多く、そのほとんどは奥行きが3~5メートルくらいの小部屋で、内部の壁にはびっしりと絵や文様が描かれている。
中央に彫刻があって、背後をぐるりと一周できるものもあった。
もともと土に描かれた絵や彫刻だから、だいぶ色あせているけど、完成した直後にはさぞかし豪華絢爛だったと思われる。
カメラがないからわたしの写真は1枚もないものの、莫高窟は世界的に有名な遺跡なので、ネットで探せば内部の写真はいくらでも見つかるはず。
いくつかの窟を見てまわっているうち、たまたまうしろから日本人の団体がやってきた。
こっちの解説なら聞いてわかるので、わたしはジンベエサメにくっつくカツオモドキのように、すばやくくっつき先を変更することにした。
ところが彼らにも敦煌のガイドとは別にツアーの添乗員がついていて、困りますという。
ツアーは料金を払って旅に参加した人たちなので、お金を払ってないわたしにくっついてまわられては迷惑だというのである。
彼らを案内していた丁さんという日本語ガイドが、事務所に行けばタダで日本語のわかるガイドをつけてくれますよと教えてくれた。
で、事務所に行ってみた。
莫高窟にはいろんな国専用のガイドがそろっていて、入場料を払った客はタダで彼らをチャーターできるのである。
ところが日本語ガイドが払底していて、午後の2時半にならないと来ませんという。
わたしはその時間には引き上げるつもりだから、それまでにもっと石窟の見学をしたかった。
事務所が気のドクがって、ドイツ語ガイドでよければといって紹介してくれた。
そんなものを紹介されても困るんだけど、彼はもちろん中国語を話せるから、ほんの少し中国語のわかるわたしにもなんとかなるのではないか。
どっちにしてもガイドがいなければ洞窟のカギを開けてもらえないわけだから、ドイツ語ガイドで我慢することにした。
ドイツ語なのか中国語なのかわからないけど、ある石窟で彼がブッダ(仏陀)といったのが聞き取れた。
はあはあと感心したふりをしながら案内してもらっていると、とちゅうで女性ひとりを含む中国人4人のグループといっしょになった。
どういう関係なのか、ドイツ語ガイドと彼らは顔見知りらしい。
グループの中のたったひとりの女性は、美人ではないけど、後ろ割れのタイトスカートをはいた、どことなくイロっぽい人である。
中国人女性の中でも自立している女性はたいてい、医師のカクさんもそうだったし、歩くときの姿勢がほれぼれするくらいきりっとしているので、見ていて気持ちがいい。
この女性は大仏殿の前でひざまづいて、やたらおおげさなしぐさで三拝していた。
タイトスカートの現代的な女性に似合わない行為だけど、彼女はわたしに線香のひと束をくれたから、無神論者のわたしも仏様にひざまづいていくことになった。
宗教に関心のないわたしだからエラそうなことはいえないけど、ここにあるさまざまな仏像や巨大な大仏、涅槃仏などは、日本の東大寺の巨大な盧舎那仏や、法隆寺の百済観音、広隆寺の弥勒菩薩などの日本の各地にある仏像に比べると、どうも素朴なものにしか見えなかった。
日本以上に仏教を崇拝するタイやミャンマーでは、金ピカの派手すぎる仏像が多く、美術としては行き過ぎのような気がする。
仏教はさまざまな困難に遭いながら、じわじわと世界に広がってゆき、日本でひとつの完成と、ようやく安住の地を得たのではないか。
莫高窟についてはこのくらいにして、今回の旅ではそれを見たというだけで満足することにした。
ひとわたり見学を終えて莫高窟内の食堂に立ち寄ってみた。
ちょうどひとりで来て難儀しているわたしに、いろいろ気を使ってくれた日本語ガイドの丁さんが食事をしていた。
メガネをかけた、いかにも才媛といった感じの人で、どんぶりでウドンをかっこんでいた。
スマートな美人なのに、頭はもちろん胃袋もわたしより優れていそうである。
ぬるいビールを飲みながらしばらく話す。
彼女がいうには、普段でも見学者が多いときは、いくつかのグループをまとめて案内してしまうそうだから、わたしが日本人グループといっしょに見てまわっても問題はなかったのである。
強烈な日差しの中、ふらふらと駐車場にもどったのは2時ごろで、ところが待っているはずのタクシーがいない。
莫高窟の門のまえでしばらく立ちつくす。
あちこちにタンポポの綿毛のようなものが飛んでいる。
しかしタンポポはひとつも咲いていないから、わたしはそのへんに生えている白楊(ポプラ)の木を見上げた。
重なった葉のあいだから雪のように綿毛が舞い落ちてくる。
この歳まで、ポプラからこんなに綿毛が生じるとは思ってなかったので、それ以来わたしは日本にいても、季節がくるとポプラを見上げるようになった。
タクシーは2時ぴったりに迎えに来た。
また砂漠をぶっ飛ばして市内にもどる。
もどる途中、滑走路の舗装工事をしている空港が見えた。
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