中国の旅/ウイグルの娘
酒泉では裴傳哲さんが下車したあと、待ちかまえていたように隣りの部屋のごつい男性がわたしを手招きした。
男は丸坊主で、無精ヒゲをはやした相撲取りみたいな男である。
べつに友達になりたいとも思わなかったけど、この男の部屋にはどういう関係なのか、西洋人のような顔だちのかわいい娘が出入りしていた。
彼女はぴったりしたジーンズをはき、髪を茶色に染めていて、どうみても中国人らしくなかったので、わたしはずっと気にしていたのである。
彼らのほうはわたしと友だちになりたいらしかった。
部屋へ招き入れられてお互いに自己紹介しあったところによると、彼らは兄妹で、兄はモンゴル人、妹はウイグルだという。
え、とわたしは首をかしげた。
両親のどちらかがモンゴル、一方がウイグルということなのかもしれないけど、顔がぜんぜん似ていないってのは、どういうことなのか。
夫婦のような感じはしないし、兄と妹といわれればそのほうがしっくりすることは確かなんだけど。
ひょっとすると、中国の漢族支配を打倒すべく、隠密理に活動しているモンゴルとウイグルの活動家なのかも知れない。
日本人を同志に引っ張りこもうと相談されても困るしなと、そんなアホなことを考えながら、彼らと話をした。
妹にウイグル文字で名前を書けますかと訊いてみた。
ええといって彼女はミミズがのたくったような文字をさらさらと書いた。
まるっきりわかりません、今度は漢字で書いて下さいというと
庫尓班尼沙・克里木
と書いた。
これでクァバンニーシャ・クリムと読んで、おしまいの3文字は父親の姓だそうだ。
髪の毛の色は天然ですかと訊くとハイと答える。
彼女はモンゴルで撮ったというアルバムを見せてくれた。
その中に派手な衣装をつけて肌を露出したものがあった。
民族舞踊を見せてまわっている踊り子らしかったけど、日本語のひらがなが入っていては理解できないだろうと思い、漢字だけで“踊人”ですかと訊くとええと答えた。
現在19歳だそうで、踊り子の写真には94年の日付が入っていた。
ということは16の時から踊っているということか。
そんな小娘が踊り子になって中国各地をまわっているというのも理解しにくいけど、言葉の不自由なわたしのことで、どこかになにかの齟齬が入っているのかも。
彼女はまったくくったくがない無邪気な子で、ウルムチ市の住所まで教えてくれた。
もっとも、これは写真を送ってくれという意味である。
モンゴル人の兄のほうは趙慧明さん。
考えてみるとウイグル人もモンゴル人も、わたしはこんな間近に見るのは初めてである。
しかしモンゴル語もウイグル語もまったく知らないわたしの会話がはずむわけがない。
司馬遼太郎のモンゴル紀行は繰り返し読んでいたけど、彼らが日本の作家に詳しいとも思えないし、大相撲にはモンゴル人の関取がいることはいたけど、あれは外モンゴルのほうだしなあと、なかなか話題が思いつかない。
わたしもいつかモンゴルに行ってみたいです、天幕で羊のシシカバブを食べてみたいですとしかいえなかった。
しかしこういうときは、すべての民族に漢語を教育する中国政府の方針に感謝するしかない。
民族が異なり言語も違っていても、表意文字の中国語を使うかぎり、わたしも自己紹介や相手の名前を聞くことぐらいはできたからである。
昼になると朝の寒さがウソのように暖くなった。
あいかわらず日はさんさんと輝き、浮いた気分で車掌や旅の同行者たちと言葉をかわす。
嘉峪関で2人の若者がわたしの部屋に入ってきた。
ひとりは多少英語を話し、四川省の成都から来て、なにか果物の取引でハニまで行くという。
つぎからつぎへといろんな道連れができるものだ。
13時、依然として荒撫の砂漠をゆく。
左手にはあいかわらず雪をいただいた山、右手にも山脈が見えてきた。
雪山のふもとにエントツの立ち並ぶなにかの工場が小さく見える。
右側には線路にそって道路が走っているらしく、時おり屋根に荷物を積んたバスが走っているのが見える。
それにしてもなんて奇妙な光景だろう。
手前には不毛の砂漠、その向こうにしたたるような緑のベルト、その向こうにふたたび赤茶けた砂漠、そしてその向こうが白い雪山だ。
空気が澄んでいるのでこれらの間に何の障害物もない。
13時40分に低高舗という駅に停車した。
ホームに下りてみると、ま夏のような日差しの中、ポプラのこずえが風にゆれ、綿毛が雪のように舞っていた。
青い麦の中にはちらほら菜の花(らしい花)も見える。
なんという素晴らしいところに来ただろうと思う。
玉門鎮では車掌たちがいっせいに上着を脱ぎ捨てて白いワイシャツ姿になった。
15時ごろになって食堂者へメシを食いに行く。
メシというより、ビールを飲みに行ったようなもので、トマトと肉の炒めものは美味しかったものの、もうひとつ何がなんだかわからないものを頼んだら、またニラと肉の炒めものが出てきた。
これで36元!
毎度のことだけど、くそ、これでもう敦煌へ着くまで何も食べないぞと思う。
メシを食っているとき流鞘河という駅で停車した。
この駅のホームにはねじれた幹を持つ立派なヤナギの木があったけど、雨が降らないので葉がしわしわだ。
景色を注視していると、砂漠の中にずぅーっと帯のように、そこだけ枯れ草が茂っている部分がいくすじもあった。
水が流れた跡にちがいない。
列車は河をなん本もまたぐけど、ほとんどの河は河床が干上がった水無し河である。
それでも大雨が降って洪水になることもあるそうで、あちこちで線路の下に水を流すための渠が作られているのを見た。
だだっ広い砂漠で洪水なんて信じられないと思っていたわたしは、このあとトルファンに行ったとき、じっさいにその痕跡を見ることになるのである。
15時半、ふたたび砂漠、砂漠。
右手の地平線上に青く山脈がひとつ見え、地平線すれすれにはかげろうが立ちのぼり、遠くから見ると湖があるように見える。
渇死寸前のむかしの旅人がだまされたのも無理はない。
真昼の静寂の中で、聞こえるのは機関車がレールの継ぎ目をひろう単調な調べのみ。
砂漠の旅なんて、ふつうの人には退屈きわまりないものだろうけど、わたしは博物学者の目とこころを持っている(そのつもりでいる)ので、退屈はしない。
博物学者というものは、砂漠にいても海洋のまっただ中にいても、いや、虚無の宇宙空間にいてさえ退屈しない人種なのである。
敦煌にいちばん近い駅、柳園に近づくと、あたりの砂漠はまた威容を変えた。
炭鉱のボタ山のような黒い丘がはてしなく積み重なったようで、植物などまったく生えていない。
可愛らしいウイグルの娘とお別れの時がきた。
列車は定刻どおりに柳園に到着し、わたしはここからバスで敦煌に向かうのである。
何か記念の品をあげて、わたしのことをおぼえておいてもらいたい。
そう思ったわたしはクァバンニーシャ嬢に、たまたまポケットにあった日本の500円玉を上げることにした。
ウイグルにしてもカザフにしても、中央アジアの女性はじゃらじゃらとアクセサリーをつけるのが好きである。
だから、これに鎖をつけて首飾りにするといいよとつけ加えて。
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