中国の旅/敦煌へ
敦煌の最寄り駅である「柳園」は西部劇のセットのような町だった。
駅まえからどーんと大通りが伸びており、その両側に立て看板のような家が建ち並び、保安官事務所はどこですかと聞きたくなってしまう。
駅舎から出るとすぐ目の前に路線バスの呼びこみがいたので、敦煌までいくらと訊くと10元だという。
わたしはさっさと乗り込んで左側の窓側に席を確保した。
左側で正解だった。
というのは、柳園から敦煌までは南へ向かう1本道で、右側に座った日には最後まで西日を受けっぱなしだ。
これはそうとうに暑い。
路線バスを利用するのはみすぼらしい格好の中国人がほとんどで、わたし以外にはっきり観光客とわかるのは白人の若者と東洋娘のカップルのみだった。
わたしたちのバスは後ろ向きの座席までしつらえて満員で出発した。
運転手はいかにもモンゴル系と思える、目の細く切れこんだ若者である。
ほかに車掌らしい若者も乗っていたが、べつに切符を切るわけでもなし案内をするわけでもなく、なんのために乗っているのかわからない。
現在では敦煌の駅模様もだいぶ変わったようだ。
もより駅である柳園は、いちどは敦煌駅と名称を変えたものの、2006年に新しい敦煌駅ができて、ふたたび柳園駅の名前にもどった。
ここに載せた上の写真か柳園駅で、ぜんぜんわたしの記憶にないのは、敦煌に到着したというので興奮して、駅舎の写真を撮り忘れたからのようだ。
下の写真は新しい敦煌駅で、わたしが行った97年にはまだなかった。
敦煌は交通の不便なところにあるので、飛行機で行ってしまう人が多いかも知れないけど、この年の6月には滑走路が改修中で飛行機は飛んでなかった。
路線バスは柳園の町はずれで燃料補給をした。
このあとバス停でバスを待っていた中国人を乗せようとしたものの、座れねえのかい、じゃいいやと客のほうから断られてしまった。
町の郊外に出ると、あとはどこまでも続く直線道路である。
わたしは持っていたミネラル・ウォーターでハンカチをぬらして鼻にあてた。
こうしないと左側に座っていても、そのうち鼻の奥のほうまで乾燥してしまいそうだった。
わたしを悩ませている目の充血はまだ治っていなかったから、安物のサングラスをしたわたしは、米国のエージェントのようである。
敦煌までは遠い。
40〜50分も走るとボタ山のような黒い大地は終わり、河床のような平原になる。
砂丘が起伏するような、いわゆる砂漠ではなく、見渡すかぎりの荒地に短い草がしがみつくように生えている感じ。
窓から首を出してみると、地平線の彼方にまでまっすぐ道路がのびており、前方に逃げ水が見える。
バスは、わたしのカンではおおむね50から60キロ程度のスピードで走っていたけど、かなりのポンコツだから、これでもわたしには飛ばしすぎに思えた。
砂漠の中に盛り土をして築いただけの道路なので、居眠り運転をしたら一巻の終わりである。
走行中に車の下でボコンという音がした。
とたんに運転手は車を停め、飛び降りて車の下側をのぞきこんだ。
ま、こういう用心深さは感心である。
列車の中でいっしょだった裴傳哲さんがいうのには、柳園から敦煌まで2時間くらいだろうということだったので、1時間半ほど走ってようやくオアシスが見えてきたときにはホッとした。
ところがこれは中間にある小さな村で、ヒツジたちの群れ、ポプラの並木、なにか作物のある農地などをすぎたら、またいちめんの平原になってしまった。
このあたりで平原の中に点々と、古い城壁、あるいは逢火台の残骸のような土盛りが見える。
けっきょく柳園から敦煌まで3時間かかり、このうち2時間以上がほんとうの直線道路だった。
この130キロの区間に信号はひとつもなく、すれちがう車もめったにない。
一箇所だけ、砂漠を拓いた空き地があって、カーキ色の軍用トラックが数台停まっていた。
新疆ではまだ数カ月まえにウイグル族の暴動があったばかりだから、軍隊が警戒のために駐屯していたようだ。
バスの終点近くで甘い草いきれが鼻をついた。
敦煌は緑の農地にかこまれた小さな町だった。
高層ビルなどひとつもなく、ちょっと走れば牧歌的な風景が広がっていて、町はずれの牧草地ではヒツジ飼いがヒツジを追っていた。
わたしの気持ちを十分にうるおしてくれるところである。
バスの終点に着くと、わたしと白人カップルはそのまま汚い招待所へ案内されてしまった。
わたしは招待所なんかに泊まるつもりはなかったから、おい、別のホテルに行くよというと、運転手が必死で引き留めようとする。
彼は10元のバスを利用する客はみな貧乏人だと思っていたのだろう。
見損なうなってんだ!
なぜか無意味な虚勢を張ったわたしは、こころ細そうな白人アベックを置き去りにしてタクシーをつかまえ、あらかじめ調べてあった敦煌賓館に向かうことにした。
敦煌賓館は敦煌でいちばん格式が高い(料金も高い)とされているホテルである。
そんなところを選んだのは、くっついてくる運転手を振り切るためもあったので、そこでわたしが部屋を予約するのを見て、運転手もとうとうあきらめたらしかった。
それじゃせめて明日のタクシーの予約はいかがですかという。
敦煌の名を世界に知らしめたのは、もちろん莫高窟の古い遺跡だけど、それは敦煌の市内から東方へ10キロほど離れていて、タクシーを使わなければ行くことができない。
敦煌には3泊するつもりだったから、いずれ莫高窟に行ってみるつもりだったけど、初めから予定に縛られたくないので、ノー、サンキューとわたしは答えた。
敦煌賓館は580元=8,100円だという。
フロントには日本語のわかる服務員がいたので、もっと安い部屋はないかと訊いてみたけど、アリマセンだった。
値段が高いだけあって部屋の設備に不満はない。
わたしの部屋は2階の221号室で、2階の服務員の女の子もなかなか可愛い子だった。
すぐに女の子の採点になっちゃうのがわたしの欠点だけど、かしづかれるなら可愛い女の子のほうがいいのは、男性なら誰でも感じることではないか。
現在このホテルはどうなっているのかと調べてみたら、わたしが泊まったときのままで、いまでも同じ場所にあるようだった。
しかし敦煌の名声は海外にも轟いているから、競合するホテルも増えていて、服務員の女の子もスカウト合戦になり、いまでも可愛い娘がいるかどうかワカラナイ。
ホテルに荷物を下ろしたあと、買い物ついでに敦煌の町をふらふらした。
わたしは外国のホテルに泊まると、ホテル備えつけの石鹸はろくなものがないから、いつも外で石鹸を買うことにしているのである。
町のはずれに映画や写真で見るような、いかにも砂漠らしい雄大な砂丘(月牙泉)が見えるので、足は自然にそっちに向かった。
いまはどうか知らないけど、歩きながら眺めた感じでは、敦煌の町は知名度の割にはこんなところかと思うようなお粗末なところだった。
市内よりむしろ郊外のほうが、ヒツジや羊飼いなんかがいて、牧歌的で素敵なところである。
途中で日本でもなじみの佐川急便のトラックを見かけたけど、これは西安でも見たことがあるから驚かない。
建物のすぐ向こうがもう砂丘で、風向き次第ではそのうち砂に埋もれてしまうのではないかと心配になる大きなホテルがあった。
1泊がいくらくらいするものか、フロントで訊いていくことにした。
このホテルは「金葉賓館」といって、300元(4,200円)ですという。
敦煌賓館なら1日で1万円くらいが飛ぶのに、こちらはその半分である。
その場で、明日は引っ越してきますと予約をしてしまったけど、じつはわたしは早まったのである。
ホテルへもどってシャワーを浴び、下着の洗濯をしたら、もうレストランは閉まってしまう時間だった。
めんどくさいから服務員の女の子にカップラーメンを売ってもらって、この晩の食事はそれだけですませてしまった。
ケチな日本人と思われたかもしれないけど、高級ホテルに泊まって、食事はインスタントでは、相手もわたしの正体を考えるのにさぞかし悩んだことだろう。
あまり乗り物に乗って砂漠ばかり見ていたので、この夜は目をつぶってもまぶたの裏に移動する砂漠が見えるほどだった。
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