中国の旅/烽火台
翌朝は7時半に起床して、朝食は敦煌賓館のなかでとった。
もちろん水のサービスはなく、冷たいものはビールか缶コーラしかないという。
缶コーラは8元もして、これは日本円で110円くらいで、日本で買ってもそのくらいだから、彼らもよく研究しているなと感心する。
朝食のあと、まだチェックアウトには時間があったけど、さっさと引っ越すことにした。
全夜カップラーメンの手配をしてくれた可愛い服務員がいたから、ホテルのアンケート用紙の「よかったサービス員」の名前を書く欄に彼女の名前を書く。
荷物を持ったまま道路に出て、たまたま出くわしたリキシャをつかまえ、5元だ、5元だとわめいて金葉賓館まで走らせた。
金葉賓館は外見は立派だが、はやらないホテルだった。
ひとりしかいないフロントの娘が、わたしを300元の部屋に案内した。
2階部屋で、ざっと眺めてもやけに殺風景で、わたし以外に客はひとりもいないようだった。
中国のホテルに宿泊すると、ふつう宿泊カードというものをくれる。
これにはホテルの名前や部屋番号、宿泊日時などが記載されており、なれない外国人が街で道にまよったとき、タクシー運転手にこのカードを見せれば無事にホテルへ帰れるというわけだ。
金葉賓館のカードにはこまかい記載が何もなかったから、わたしは自分の泊まった部屋について、2階へ上がってすぐの右側としかおぼえてない。
カードは使えないというし、両替を頼むと銀行へ行ってくれといわれてしまう。
列車のチケットの手配なんかハナっからあきらめた。
どうやらわたしは早まったようだった。
文句をいう相手もいないので、ふらりと近所へ外出し、レンタル自転車を探す。
敦煌市内は自転車でまわるのにちょうどいい大きさなのである。
このへんに出租自行車はありませんかと1軒の商店に飛び込んだら、いかにも欲の深そうなおばさんが、ああ、ウチにありますよという。
彼女が見せてくれたのは店の前に停めてあった買物カゴつきの女性用自転車で、どうもいつもはおばさんが使っている自分の自転車らしかった。
アホな外国人が自転車を求めて飛び込んできたので、こいつにアタシの自転車を貸せばいい金になると踏んだのだろう。
夕方の5時までいくらと訊くと、60元だという。
高いよというと50元にまけた。
しかし夕方までとくぎると、とちゅうでうんざりして返却しても50元をそっくり取られるかもしれない。
わたしのほうから提案して、1時間8元でどうだというと、それでもいいだろうということになった。
がめついおばさんは保証金を400元も取った。
自転車で勇躍、まず「月牙泉」に行ってみることにした。
これは敦煌の町のどこからでも見える雄大な砂丘で、ここには鳴砂山という山があり、莫高窟以外では敦煌最大の名所といっていいところである。
月牙泉の手前に敦煌城という、古い城郭を模した壮大なホテルがあった。
わたしは最初これを、西田敏行主演の日本映画「敦煌」の映画撮影用に造られたオープンセットかなと思ったくらいだけど、ここもあまり客の入りは多くなさそうだった。
中国人には、収支を考えずに儲かりそうとみれば何にでも手を出す傾向がある。
砂漠の近くなら立地条件はカッコいいけど、町へ出るのにこんな不便なホテルはないから、客なんか来ないだろう。
ガイドブックによると、月牙泉にはパラグライダーだとかサンドスキーだとか、観光客を喜ばせる施設がたくさんあって、いつも観光客でいっぱいのはずだったのに、そんなものやっている人間はひとりもいなかった。
あとで聞いたらちょうど12時ごろで、灼熱の砂漠へ昼間から行くバカはいないんだそうだ。
月牙泉の見ごろは夕方以降なのである。
目的を変更して、月牙泉からそのまま町のはずれまでサイクリングをしてみた。
あてもなくさまようことに幸せを感じるのは、わたしの子供時代からの性癖である。
ふらふらペダルをこいでいくと、麦畑の向こうにポプラがきつ立し、麦が風にゆれて、あたりの風景はしだいに農村風景に変わっていく。
水路に水が流れており、泳ぐ少年たちや水遊びをしている子供たちがいた。
バードウォッチャーとしては、頭に三角の冠毛のあるヒバリのような小鳥、アオバトなどを見た。
自転車をこぎ続け、ぐるっとまわって市内にもどれるかと思ったら、ある村で道は行き止まりになってしまった。
ここも回族の村らしく、村の広場にはリヤカーの行商が来ていた。
どこか昭和の日本の田舎を観るような気がする。
村のはずれにある雑貨屋でジュースを飲もうとしたら、かわいらしい娘が留守番をしていた。
雛にはまれなということで、中国の田舎でもときどき可愛い娘に出会うことがあるものである(写真の女の子は別人)。
行き止まりの村からもどる途中、農地の先の防砂林を透かして、砂丘の上に奇妙な大岩のようなものがあるのを発見した。
風化した古代の烽火台らしかったので、畑のわきに自転車を隠し、そばまで行ってみた。
烽火台そのものは完全に風化して、登ることもできず、あちこちにあいている小さな穴がツバメの巣になっているだけだった。
しかしそばまで行ってよかった。
というのは、そこまで砂丘を登ってみると、その向こう側に広大な空間が広がっていることがわかったからである。
砂漠はずっと彼方まで続いており、はるか先にはまた雪を頂いた山脈が見えた。
じつはわたしは知らなかったけど、この方角へ砂漠を10キロほど歩けば、莫高窟の上に出たのである。
目線を手前にひきもどすと、砂の上のあちこちに砂盛りをした墓があるのに気がついた。
わたしが歩いた砂の下にも、砂漠とその周辺に生きた人々が眠っていたかもしれず、掘ればミイラがたくさん出てきたかも知れない。
この近くには「西晋画像甎墓」という古墳があるらしかったけど、有名じゃないからぜんぜん知らなかった。
乗りなれない自転車に長時間乗り続けていたので尻が痛くなってしまった。
早めに引き上げることにし、その前に町の商店で果物や野菜を仕入れていくことにした。
中国の野菜の美味さは格別なんだけど、難点は1、2コでは買いにくいということである。
けっきょくわたしはアンズ20コ、トマト5コ、キュウリ3本くらいを買いこむことになった。
自転車を返すまえに、敦煌賓館に寄って、前日にクリーニングに出したままだったシャツを引き取り、ついでに翌々日の列車のチケットが手配できるかどうか聞いてみた。
駅まで往復したら6時間かかってしまうので、また駅まで行ってくれといわれるんじゃないかと心配だったけど、相手にもそれはわかっているらしく、チケットは問題なく予約できた。
自転車を返そうとして店に入っていったらおばさんがいない。
そこにいた若者に、ママはいるかいというと、若い娘が顔を出して首をかしげている。
わたしは店を間違えたのだ。
保証金のあずかり証を見て、ようやく借りた店がわかったけど、自転車を返すとおばさんは、保証金を返すのがくやしくてならないという顔をしていた。
買ってきたトマトやキュウリを食べるのに塩が必要だから、この店に塩は売ってないかと訊くと、おばさんは塩のひと袋を出してきた。
そんなにいらないというと、わざわざ袋をやぶってほんの少量だけ売ってくれた。
やさしいというより、1円でも儲けようという執念がすごい。
金葉賓館にもどって無性にビールが飲みたかった。
ホテルのラウンジで冷たいビールはあるかと訊くと、没有(アリマセン)である。
なんてホテルだとむかついて、金葉賓館のはす向かいにある「敦煌国際大酒店」まで、ビールを飲みにいくことにした。
このホテルにも日本語のわかる娘がいて、わたしがビールを飲みながらワープロを打っていると、日本語の訳をしてほしいといって、敦煌の観光案内を持ってきた。
この中の日本語の説明によくわからないところがあるという。
ああ、そういうことならお安い御用だと思ったものの、観光案内に書かれた日本語は、どうやら中国の年老いた日本語教師が草案したらしく、かた苦しい文章でなかなか手強かった。
“敦煌は中国歴史文化の名城のひとつであるが、古称は沙州で、古いシルクロードの明珠である”
ウーンとためつすがめつしたあげく、とくに直すところもないといって、彼女にいいところを見せそこなった。
ためしにこのホテルは1泊いくらかと尋ねてみた。
安い部屋なら320元からあるという。
金葉賓館とたいして変わらないし、なによりラウンジでビールが飲めるのに感動して、明日はこっちのホテルに引っ越すことにした。
なんだか敦煌に来てホテルの品定めばかりしているようだけど、みんな不景気な金葉賓館がいけないのである。
また失敗したくないから、いちおう部屋を見たいというと、フロントのふっくらした娘が案内してくれた。
そそっかしい娘で、間違えて他の客がいる部屋のドアを開けようとして、中から誰何され、あわてて謝っていた。
| 固定リンク | 0
« 役立たずのNHK | トップページ | 昨日のNHK »
コメント