もうもうと茶色い砂ほこりをたてて空き地を突っ切り、バスがトルファンの発着場に到着すると、待ちかまえていた何人かの若者がなんだかんだと日本語で話しかけてきた。
同じバスに乗り合わせた大陸浪人はどこかの格安ホテルへ行くという。
彼は耐乏旅行らしいけど、モーム流の旅のわたしはトルファンでNo1のホテルへ行くつもりだったから、誘うのもなんだか気がひけて、そこで別れてしまった。
小さい町だからまたそのうちどこかで出会うだろう。
わたしは話しかけてきた若者たちのいいなりになるつもりはなく、タクシーに乗るならどこかほかで乗るつもりだった。
ところが中のひとりがしつこくつきまとって離れない。
彼の案内で、荷物をぜんぶぶらさげたまま、歩いて「トルファン賓館」に着いた。
これがその当時、トルファンでいちばん豪華といわれていたホテルで、正面から見ると墓石みたいなかたちの白い建物である。
門を入るとすぐ左手に、モンゴルのパオとよばれる組み立て式のテントが建てられていた。
中ではみやげ物が売られているだけだったので、土産を買うつもりのないわたしは1度しかのぞいてみなかった。
わたしが宿泊者カードに記入しているとき、となりに日本人の娘が2人いて、やはりホテルと何か交渉していた。
また、たったひとりで来ている娘もいたようだ。
知らないのはわたしだけで、当時のトルファンの名前は日本にも鳴り響いていたようである。
異国であっても、なぜか日本人同士はよそよそしい。
トルファン賓館でのわたしの部屋は、別館の2928号室である。
2種類の料金を提示され、安いほうの280元という部屋を選んだらこうなった。
新館は立派な4階建てだけど、別館はモスクのような派手な装飾をもった建物で、2階建て部分と、中庭をはさむように向かいあった長屋ふうの平屋部分でできている。
あまりの派手さにどぎもを抜かれつつ、別館のフロントへいってみたら、本館で宿泊費を払ったのに、ここでも宿泊カード用として20元くらいの押金を取られた。
別館の長屋といっても、バストイレ(エアコンまで)つきで、室内のようすはこれまで泊まったほかのホテルとそんなに違うわけではない。
ただ部屋の天井までモスクふうに、いくらか半円形に丸くなっていて、メッカの方角をさす小さなマークがついているのが興味深かった。
窓の外はすぐレンガの塀なので、景色はなにも見えない。
それでも部屋には絨毯もしいてあるし、このホテルの前身は、イスラムの商人や参拝者のためのホテル(キャラバンサライ)だったのではないか。
国際的観光地になってしまって、急いで室内を国際的ホテルの基準に改造したのだろう。
部屋におちついてすぐ洗濯物を出した。
別館服務台にいたウイグル人のおばさんと娘は、汚いものでもさわるような感じで、わたしの洗濯物をつまんでいた。
べつにパンツを出したわけでもないのに。
中庭の奥にはブドウ棚が作られていたけど、残念ながらブドウはまだ青かった。
ブドウの棚の下にも大きな絨毯がしいてある。
部屋のドアを開ければザクロやブドウの植えられた庭というのは、いかにもイスラムの国に来たみたいで悪くない。
ホテルにプールがあったには驚いた。
横の売店でパンツも50元で売っていた。
プールで泳ぎたいと思ってしまったけど、わたしの旅はだんだん不純になってきそうだ。
すぐ表の通りには汚い格好をした少年たちが、ロバ・タクシーを停めて、なんとか西洋資本主義の悪い見本のような旅行者を引っかけようと待ち続けているのに。
しつこくついてきた若者は信用してもよさそうだった。
ビールをおごるよといって、彼とともにホテルのまん前にあるJhon's CAFEという店に入る。
この店はトルファンを訪れた若い旅行者たちのたまり場になっていて、いつでも欧米人の若者が数組たむろしている。
庭にテーブルとイスをならべ、ブドウ棚とテントで日陰を作った、なかなか感じのいい店で、冷えたビールも置いてあった。
トルファンの人々は日本人が冷えたビールしか飲まないこと、冷えたビールがあれば日本人相手にいい稼ぎになることを知っている。
若者の遠慮っぽい話し方によると、ふだんから日本人相手の観光案内のようなことをしているという。
今月はヒマでとこぼす。
香港返還の騒ぎが迫っているので観光客が警戒して減少しているのだとか。
この若者はトルファンの旅行会社に勤めていて、自己紹介によると、アイプもしくはアイピ君(Ayup)といって、日本語をりゅうちょうに話す。
このころトルファンを個人旅行で訪れた日本人なら、だれでも彼の顔を知っているのではないか。
アイプ君からバザールのこと、現在の果物や野菜のこと、ロバ・タクシーのこと、レンタル自転車のことなどなど、いろいろな情報を仕入れた。
このあとすぐにわかるけど、トルファンは小さな町である。
むろん郊外の火焔山やベゼクリク石窟のようなところまで足を伸ばせば、自転車では手に(足に?)おえないものの、市内だけなら自転車でまわるのに最適なくらいだ。
レンタル自転車については、アイプ君がワタシのを貸してあげますという。
マウンテンバイクだというから、明日はそれを借りて市内をまわることにした。
このあといちおう、翌日ゆっくり見物するつもりのバザールの下見に行ってみた。
バザールはトルファン賓館から歩いて10分くらいの大きな交差点のわきにあり、野菜好きのわたしは、ついでにトマトと果物を仕入れてくるつもりである。
バザールは、なるほど、これがそうかと納得いくものだった。
近代的というにはほど遠く、素朴なテントを張った村の物産展といったようすで、広場に野菜が積まれ、ウイグル人でにぎわっている。
ウルムチでは漢族が目立ったけど、ここにいるのはほとんどすべてウイグルだった。
ここでは荷物の運搬はまだまだ家畜に頼っているらしく、バザールの中にロバの引く荷車が多かった。
ロバは人間にとって、天から授けられたような便利な動物である。
わたしは市場の中にたくさんのロバがいて、しかもそのまわりに野菜や果物がいくらでも積まれているのに、ロバがこれを食いたそうな顔をしないのを不思議に思った。
あとでアイプ君に尋ねると、ロバは草やコーリャンを食べます、野菜も餌袋に入れてやれば食べます。ウリやトマトは丸いから口に合わないんじゃないでしょうかと最後は変な説明である。
しかもこれは日本人のわたしが日射病になってしまわないかと心配したくらいなのに、炎天下に何時間も放置されて平気な顔をしている。
こんな重宝な動物だから、ウイグル人の農家には1家に1頭が必需品で、自家用車代わりに使われていて、まだ小学生みたいな子供が平気でロバ馬車をあやつっているのをよく見かけた。
バザールの中で烤羊肉(串焼き肉)を3本食べる。
ここでは1本が2元で(ふっかけられたかも知れないけど)、そのかわりこれまで食べたどこの烤羊肉より肉が大きかった。
田舎に行くほど串焼きの肉が大きくなるというのは、このトルファンでの体験から来ている。
ほかにトマトとアンズを買って帰る。
アンズは3元も買うと、ウルムチの5元より量が多かったから、諸事田舎のほうが物価は安いようだ。
バザールには明日また出直すことにする。
ここに載せたのはNHKが1980年に放映した「シルクロード」からキャプチャーした画像で、わたしの旅よりさらにむかしのトルファンのようすがわかる。
ホテルへもどって、もう寝ようと横になったら、どこかで太鼓を叩くような音がする。
さてはと起き上がって音の聞こえるほうへ行ってみた。
プールのわきにステージがあって、派手な民族衣装をつけたダンサーたちが踊っていた。
トルファン賓館で毎夜行われるウイグル族のショータイムというわけだ。
ショーは有料らしいけど、わたしは最初、知らずにタダで見ていた。
そのうち受け付けがあるのに気づき、いくら?と訊いたら、おばさんが2元と答えたようだった。
こまかいのがなかったから百元札を出したら90元しかつりをくれない。
わたしが聞き間違えたのかと思って黙っていたけど、こういうずぼらな日本人が多いことをおばさんは知っていたのかも知れない。
舞踊のほうはなかなかリズミカルで、コミカルな部分もあって楽しめた。
見学しているのは圧倒的に日本人が多いようだった。
観光バスを乗りつけて来ていたくらいだから、なんのかんのといってもこの夜、トルファン市内に50人以上は日本人がいたのではないか(あとでアイプ君に聞いたところでは、香港や台湾の人のほうが多かったという)。
この晩はカメラを忘れたので舞踊の写真はあとで紹介する。
ショーが終わったあと、コーラを買いに出たら、もう遅い時間なのに門の前にロバタクシーが停まっていた。
馬方の少年がへんな日本語で「安いよ」「安いよ」という。
今夜は疲れているからダメだと、できるだけやさしくいったつもりだったのに、少年はチェッとはっきりわかる舌打ちをした。
わたしが思っているほど彼らは軟弱じゃない。
夜になると庭のどこかで、キョロキョロとヤモリが鳴く。
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