中国の旅/敦煌を去る
敦煌最後の日は、朝おきたのが8時ごろで、外は曇っているようだった。
列車のチケットは前日に莫高窟へ行った帰りに敦煌賓館で受け取ってあった。
つぎの目的地は新疆ウイグル自治区の省都ウルムチで、そこまで列車のチケットは192元。
108元の予約金が返してもらえるはずなのに、敦煌賓館のフロントは返金の80元分を、鉄道会社発行のクーポン券のようなもので寄こした。
なんだ、これはと揉めたけど、意味がわからないまま丸めこまれれてしまった。
列車は17時19分だから、あわてる必要もない。
もういちど敦煌の町をサイクリングでもしてくるかと考えて、ホテルのわきを見たらま新しい自転車が10台ほど並べてあった。
いまふうのカッコいいマウンテンバイクばかりで、タイヤにはまだ製作過程でできるとげとげがついたままである。
あれはレンタル自転車かと訊くと、そうですという。
国際大酒店の自転車は新品ばかりで、1時間5元だそうだ。
こんなものがあるなら、あのごうつくババアに8元出してボロ自転車を借りるんではなかったと、また後悔がひとつ。
わたしが敦煌に行ったのは、あとにも先にもこのとき(1997年)の旅だけである。
敦煌の町もほかの街のように大変化しているのではないかと、最近の写真をネットで探してみたら、引っかかるのは莫高窟や月牙泉ばかりで、市内の写真はあまりない。
よきにつけあしきにつけ、莫高窟だけでもっている町らしい。
いまこの紀行記を書くのにあたって、わたしの部屋にある録画したシルクロードの番組を観返してみた。
NHKが1980年に放映した「シルクロード」を観ると、小説「敦煌」を書いた作家の井上靖さんも敦煌を訪れていることがわかる。
もう1本の番組は2019年に放映された「河西回廊」というもので、4Kカメラの撮影が初めて許可されたとある。
ここに載せた4枚組の画像は、井上靖さんが訪問した1980年と、2019年の河西回廊の番組からキャプチャーしたもので、40年のあいだの町の変化がなんとなくわかる。
こういう番組を観てから行けば、莫高窟ももっと本腰を入れた見学ができたと思うけど、あいにく両番組とも97年にはまだわたしの部屋にはなかった。
ふたつの番組を観て思うのは、まだ現在のようにNHKがデタラメを並べて、関係悪化を望むような時代ではなかったので、井上靖さんもNHKのスタッフも、中国側からあたたかく迎えられているということである。
それなのにどうしてと、疑念はつのる一方だ。
中国という国は西安の兵馬俑を見てもわかるように、掘ればそのへんから、数百年から紀元前までの遺跡や遺物がぼこぼこと出てくるところである。
そうした他国の歴史や文化に興味を持たず、ケンカごしでしか相手を見られないを風潮はなんでこんなに広まってしまったのか。
いまの日本を見ていると、バーミヤンの仏像を爆破したタリバンとレベルは変わらないなと思ってしまう。
わざわざ好んで壁なんか作るよりも、どうしてもっともっと他国を見ようという気にならないのだろう。
わたしには年老いてもなお、悲愴なまでに旅にあこがれた芭蕉の顔がちらつくんだけどね。
ホテルをチェックアウトするまえに、バス乗り場へバスの発車時間を確認しに行ってみた。
バス乗り場には柳園行きのバスがとまっていたけど、満員にならないと発車しないシステムらしい。
これではすこし早めに出ておいたほうがいいかなと慎重なわたしは考えた。
そういうわけで、国際大酒店をチェックアウトしたのは10時半ごろ。
バスの発着場まで200メートルほどを荷物をかついで歩く。
100元だ、60元だとわめきつつ寄ってくるタクシーの客引きを振り切りながら、客待ちしていたバスに乗り込んだら、大きい荷物は屋根にのせてくれといってきた運転手が、目の切れ上がった、3日前のバスと同じ運転手だった。
しかしバスはなかなか満員になりそうにない。
そのうちまたタクシーの客引きがやってきて、30元で今すぐ発車するという。
バスは10元だけど、すぐ発車ということでわたしの気持ちは動いた。
荷物をバスの屋根から下ろして、乗り換えたタクシーはシャレードで、客がわたしを含めて4人である。
ひとりだけの女性が助手席に座り、遅れてきたわたしは後部座席のまん中に押し込まれた。
天気が悪くて幸運だった。
これで前日のような晴天だったら、灼熱地獄に放り込まれたようなものだったろう。
ふたたび荒野のドライブである。
見渡すかぎりの平原を、タクシーは100キロ以上の高速で飛ばす。
むろんポンコツだから運を天にまかせたようなものだ。
路肩には細かいジャリが積もっている。
ジャリの上ではブレーキが効かないことをわたしは知っている。
無言のまま、死について考えた。
タイヤがはずれる、あるいは突然バーストする、車は時速100キロで道路から飛び出す、意識を失うまでにせいぜい5、6秒か。
しかしわたしは自分の幸運を信じていた。
中間にあるオアシスを越えると、また地平線までただもう1直線の道である。
曇っているせいで遠くの景色が見えず、見えるのはただ空と大地を分かつ1本の直線だけ。
これはまさに海だ。
柳園には2時間もかからずに着いてしまった。
荷物をどこかに預けて駅の周辺を散策しようと思ったら、駅に“寄存”という看板が見つからない。
駅の構内にあるかと思ってずかずかと入っていくと、女性駅員にとがめられた。
列車の切符を見せると、まだ早いから駅員詰所で待っていなさいという。
これは外国人であるわたしへの特別待遇らしく、乗客で詰所に入れたのはわたしひとりだった。
わたしは大きな荷物だけを詰所に置いて、近くの食堂へメシを食いに出た。
もともと小さな町だから、きれいな店を探そうったってそりゃ無理である。
1軒の店でビールを飲みながら酸湯餃子と野菜炒めを食った。
店主が軍服を着ていたから、あなたは軍人かと訊くと、そうだという。
軍人がこんなところで食堂をやっていていいのか。
駅員詰所にもどり、ここにはだらしないソファがあったから、これさいわいと座りこみ、ワープロを打ってヒマをつぶす。
詰所には女性駅員ばかりが15人ほど詰めていて・・・・・・というよりワイワイ井戸端会議をしていて、列車が入ってきたときだけワッと出ていき、発車してしまうとまたもどってきてワイワイである。
詰所で洗濯を始める豪傑までいたから、中国の女性駅員は呑気なものだなと、こんな経験はめったにできないのでじっくり観察させてもらった。
そのうち眠くなってしまったので、荷物を引き寄せてうとうと。
駅員の詰所には駅員以外は入ってこれないから、ここはまあ安全といえるけど、列車が入ってくると彼女たちは誰もいなくなってしまう。
やはり荷物は自分で見張っていなければダメなようだ。
ひと眠りして目をさましてもまだ3時半である。
もう行くところもないし、ひたすらワープロを打ち、ときどき外をのぞいたりしていたら、莫高窟でくっついてまわった香港の若者たちがやって来た。
どこまで行くんだいと訊くとトルファンだという。
じつはわたしも敦煌のつぎの目的地をトルファンにしようと考えていた。
ところがトルファンに昼間到着しようとすると、どうしても敦煌を夜中に出発ということになってしまう。
たとえばトルファン到着が10:34という列車がある。
これに乗るには柳園を0:02に出なければならない。
ほかにも昼間のうちにトルファンに到着する列車が数本あったけど、いずれも柳園を夜中か早朝発であり、柳園に1泊しないかぎり乗れやしない。
けっきょくわたしの選択肢はひとつしかなかった。
まずウルムチを目指し、そこで1泊か2泊したあと、トルファンへ移動する。
ウルムチからからトルファンは2時間半の距離だから移動は簡単なのである。
時間がせまって乗客たちがぞろぞろとホームへ向かう。
欧米人のバックパッカーが多く、乗り込む人々の中に、前日やはり莫高窟で出会った中国人たちがいた。
美人じゃないけど、タイトスカートがイロっぽいと書いた女性を含む5人連れである。
女性は今回はジーンズをはいていた。
どこまで行くのですかと訊くとウルムチだという。
なんだかやたらいろんな顔なじみが連れだってしまった。
ただし軟臥車に乗るのはわたしだけのようだ。
高い金を払って軟臥車に乗る必要はないという人もいるだろうけど、同行の友人でもいるならともかく、荷物に対する警戒が必要ないというだけでも、気ままな旅を愛するわたしには軟臥車は価値がある。
発車時間がきた。
わたしのコンパートメントには中年の中国人が2人、ひとりは政府の役人で洛陽の人、もうひとりは敦煌の人だという。
両方ともとっつきにくそうなタイプで、あまりありがたくないけど、明日の朝にはウルムチである。
| 固定リンク | 0
コメント