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2024年6月

2024年6月30日 (日)

マルケス

ネットニュースにガルシア・マルケスの「百年の孤独」が、なぜかバカ売れという報道があった。
そういえばこの本は長いあいだわたしの本箱にあったなと思い出した。
全部読み切らず、けっきょく途中で放り出したことも思い出した。
読めもしない本をなぜ買ったのかと訊く人がいるかも知れぬ。
じつは1982年に彼がノーベル文学賞を受賞したとき、どんなものかとその短編集を読んだことがあって、これがとてもおもしろかったから、代表作の長編もということになったのである。
若いころ小笠原まで船旅をして、航海中に読もうと持ち込んだ記憶があるんだけど、アテがはずれて、長編のほうはあまりおもしろくなかった。

短編集に含まれていた作品の名前はぜんぶおぼえてないけど、たしか「エレンディラ」、「大きな翼のある、ひどく年取った男」、「この世でいちばん美しい水死人の話」などがあったはず。
読んで面食らった。
こんなまじめなナンセンス文学はないんじゃないか。
まじめでナンセンスというのは矛盾してるかも知れないけど、つまりドタバタで無理やり笑わせるのではなく、じっくりと読ませてそこはかとない笑いを誘うようなものだ。
「大きな翼のある・・・」というのは、ニワトリ小屋に転落して見せ物にされる天使の話で、「この世でいちばん・・・」というのは、エステーバンという美しい?水死人を描いたものだった。
いずれもバカバカしくてあり得ない筋立てだけど、それをおおまじめに語る文章がおかしい。

「エレンディラ」の中には、強欲な祖母に強要されて売春をする少女が登場する。
何人もの男を相手にして、もうくたびれたー、死にそうと叫ぶ少女を、祖母は容赦せずに働かせる。
この作品は映画化されているので、それっと(期待して)観に行ったことがあるけど、金をかけてないことがあきらかな凡作だった。

悪いことはいわない、これからマルケスを読んでみようという人は、短編集から入るとよい。
わたしも最初に読んだのが40年ちかくまえのことだから、ちっとは精神的に成長したかも知れず、もういちど長編の「百年の孤独」を読んでみようと思っているのだ。
と思って行きつけの図書館を検索してみたら、このタイトルの本はのこらず貸し出し中だった。
あわてて読んでも仕方ないから、じっと待つものの、そのまえにわたしの寿命が尽きるかも知れない。

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中国の旅/おまけの西安

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目的地の変更をしないまま寝てしまったら、夜中の2時に車掌が起こしにきた。
何かと思ったら、西安までの切符が欲しかったら12号車に行けとのことである。
そんなことは朝になってからか、もしくはどうして前日にやらせてくれなかったのか、なんで夜中の2時に寝ている人間を叩き起こしてやらなくちゃいけないのか。
中国の列車の車掌の心理や行動は研究に値するど、おい。
12号車に行けということは、そっちへ引っ越ししろということなのか、たしかあっちは硬臥席ではなかったはずだけどなと、半信半疑のまま、とりあえず小物だけを持って12号車に行ってみた。
わたしの車両は3号車で、夜中にそこから12号車まで歩くのは楽じゃない。

12号車では3人の女車掌がつまらなそうな顔をしてお茶を飲んでいた。
これこれこうだと事情を説明すると、ひとりがせまい車掌室に入って新しい切符を発行してくれた。
なんのことはない、これまでの3号車のままで、ただ上段から下段に替わったたけだった。

3号車にもどり、新しい下段ベッドに行ってみたら、夜中だというのに起きて座っている男性がいた。
彼をわずらわせるのもイヤだったし、わたしはけっこう上段が気に入っていたので、そのままこれまでのベッドに寝ることにした。
寝ながら考えた。
夜中に切符の延長手続きをするというのは、つまり、ベッドが空いたのが夜中だったからということかもしれない。
夜中になってどこかの駅でようやく下車した客がいたので、そのベッドがわたしにまわってきたんじゃないか、ナルホド。
新しい切符は113元だった。
いよいよ残りの金が少なくなったけど、おかげでわたしはほぼ予定どおりに西安に到着することができそう。

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ということで、1997年のシルクロードをめぐる旅もふりだしにもどってきた。
わたしはこのあと2000年にふたたび新疆ウイグル自治区へ旅をしたので、今度はそっちの報告をしたくてたまらないのだ。
まごまごしているとわたしも老衰であとがないし、世界は核戦争に突入してるようなので急がなくちゃ。
ところでこの旅の最後にどうして西安が出てきたのか。
西安に行ったのは1995年のいちどだけだったので、シルクロードの出発点とされるこの街をもういちど見たかったのである。
ついでに西安で見た女性のなかに印象的な女性がいたので、彼女の写真を最後に紹介して、この紀行記を終えようと思ったのだ。
ほかに特に書きたいことがあるわけではないので、このあとは西安で見聞きしたことだらだらと並べる。

駅前でつきまとってきた客引きの中に、前回の西安訪問のとき、やはり駅前で知り合った、ちょっと美人のお姉さんがいた。
おい、わたしはキミを知っているよというと、彼女は、えっ、ああ、あの日本人と叫んだ。
よほど日本人と遭遇することが少ないのか、わたしの印象が強烈だったのか。

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タクシーをつかまえて人民大廈へ。
この日の西安は夏日で、太陽がさんと照りつけ、ひじょうに暑かった。
わたしがおおいそぎで車の窓を開けると、運転手が閉めろという。
西安のタクシーにもエアコンがついていたのである。
談合料金の15元で到着して、カードが使えないというので、フロントでまず1万円を両替して、やっとひと息ついた。
これでまたわたしも日本の富豪である。

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荷物を部屋に放り出して、とりあえず街をぶらつきに出る。
まず大きな交差点のまん中にあって、西安のランドマークにもなっている鐘楼へ行ってみたら、交差点の一角に大きな建物が建設中だった。
まだ外観の一部しか完成してないので何ができるのかわからないけど、屋根は瓦のある中国式建物で、地下広場などもできるようだからスケールはかなり大きい(3年後に行ってみたら半地下のショッピングモールだった)。

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わたしは西安に、はじめて行った95年のあと、97年、2000年、2008年、2011年と5回も行っているので、この街の変貌を、上海と同じようにリアルタイムで眺めることになった。
中国は貧しかった時代、また紅衛兵の騒動でいちどは見捨てられていたこの国の歴史ある文物を、大急ぎで改修して、もういちど世界に誇りうる歴史遺産にしつつあったのだ。
始皇帝陵など、わたしが初めて見たときは果樹園のなかのちっぽけな丘に過ぎなかったものが、現在では日本の明治神宮のように、神域にふさわしいうっそうとした樹木におおわれている。
変わらないのは明代の城壁だけだけど、その上は欧米からの観光客のサイクリングロードになってしまった。
そういえばはじめて見たとき、駅の近くに一部城壁が破壊されている場所があったけど、あそこも修復されて自転車で完全に一周できるようになったのだろうか。

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西安の鐘楼は登ることができる。
しかしTシャツにジーンズの女の子が、上から天女の衣装をまとって、古典楽器を奏でているだけということを知っていたから、今回は無視してしまった。
鐘楼より百貨店のほうが興味があったので、近くにあったデパートに入ってみた。
1階でパソコンを使った化粧品選びのデモンストレーションが開かれていた。
化粧品に興味はないけど、マイクロソフトの中国語ワープロが組み込まれていたのが興味を引いた。
ウィンドウズ95が発売された1995年をパソコン元年とすれば、その2年後には、マイクロソフトはすでに中国でも自社製の中国語ワープロを売り込んでいたわけだ。
わたしにかぎれば、いまでもジャストシステムの「一太郎」を愛用しているけど、パソコンを買い替えたときなど苦労することがある。

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西安市内でどうしても見たいものに回族の居住区があった。
不潔でゴミゴミしたところが、かえって異様な魅力になっている街の一画である。
しかしここはまだそれほど変わっていなかった。
じっさいに人間が暮らしている町を、区画整理で強制退去なんかさせると、また少数民族の迫害だなんて外国がうるさいから、改造もいちばん後まわしになっていたのかも知れない。
わたしは2年まえに来たとき、つぎのあたったエプロン姿でうどん粉を練る、グレーの瞳の美しい回族の娘を見かけ、人間は生まれた場所ひとつでこうも運命が変わってしまうのかと、形而上学的に悩んだことがある。
日本に生まれていればファッション・モデルでも勤まりそうなその娘がいないかと、回族の居住区をうろうろしてみたけど、もう店の場所もわからなくなっていた。

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このときは行ってみなかったものの、大雁塔のあたりは三蔵法師の像が建てられて歴史公園として大改造が始まっていた。
トルファンの火焔山では、サルやブタを連れてだいぶマンガチックな坊さんだったけど、ここではまじめな托鉢僧の姿である。
わたしが最後に西安に行ったのは2011年で、これが西安の見納めになったけど、そのときと比べてもこの街の変化は大きい。
日本の弘法大師こと空海ゆかりの青龍寺(これは真言宗もだいぶスポンサーになったらしい)も、日本庭園のある立派な寺になって、日本人の観光ツアーにかならず含まれるようになり、わたしみたいなバチ当たりにはかえって迷惑。
兵馬俑が世界遺産に登録されたおかげで、やかましい欧米人観光客まで押し寄せるようになり、現在の西安は、まるで全体が作り物のテーマパークみたいになってしまった。
わたしは初めて見たころの、なにもかも素朴だった西安をなつかしく思い出す。

鐘楼のあたりまでもどってきて、メシを食うか、食わずにおくか思案していると、たまたまきれいな娘がレジをやっている食堂が目に入ったので、ふらふらと入ってしまった。
このレジ係りはなかなか魅力的な娘だった。
目が大きく、お尻がつんと上がって、若いころのブリジット・バルドーを思わせる、いわゆる魔性のタイプ。
中国ではこういう魅力的な娘が、ラーメン屋のおかみさんなどをやっていることがよくある。
もっとも彼女は娘ではなかった。
ときどき小さな男の子が店頭にあらわれて、アイスクリームのボックスを開けたりすると、娘がダメよといってしかる。
あれはあなたの子供かいと訊くと、そうよと平然としている。

店の若い男性店員に、トマトあるかいと文字で書いて示すと、店員はおどおどして、ありませんという。
レジの娘がわたしのメモをのぞきこんで、何いってんの、そこにあるでしょと店員を叱りつける。
かわいそうにこの店では、男の店員は娘にアゴで使われているのである。

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この日の彼女はスッピンで、まったくお化粧をしてなかったので、ちゃんとおしゃれをした顔を見てみたいとわたしは思った。
写真を撮っていいかいと尋ねると、ダメというくせに、強引にカメラを向けるとそしらぬ顔でポーズをとる。
自分の魅力にそうとう自信があるらしい。
というわけで、わたしがだらだらと西安の文章をつづってきたのは、この娘の写真をボツにしたくなかったのである。
彼女の残像を脳裏に刻んだところで、1997年の、わたしの初めてのシルクロード紀行を終わりにしよう。
なに、すぐにつぎの紀行記が始まります。

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2024年6月29日 (土)

中国の事情の2

NHKが放映した「爆走風塵」というテレビ番組の“後編”を観た。
じつは前々項の文章は前編を観てすぐに書いたものだったけど、後編になると内容はひじょうに深刻なものとなる。
景気が落ち込んで、トラック運転手たちを取り巻く環境はひじょうに悪化しているらしい。
ということは、西側の経済制裁が効いたということで、けっきょくNHKお得意の中国を貶めるプロパガンダ番組じゃないかと思ったけど、番組の制作・撮影は中国人のスタッフがやっていたから、そうではないようだ。
どうしていちじは景気のよかったトラック業界が、なかなか仕事にありつけないような悲惨な状況になったのだろう。

原因はすぐに思い当たる。
つまり景気がいいというので、トラック業界に参入する運転手が増えすぎたということだ。
中国人というのは儲かるとみると、後先考えずに、みないっせいに飛びつく傾向がある。
景気の浮き沈みは西側先進国でもひんぱんに起きるものなので、ちょっと景気が悪くなれば、それまでわが世の春を謳歌していた産業が直撃をくらうのはわかりきった話だ。
中国の不動産開発業者に倒産があいついだのも、儲かるというので同業他社が増えすぎた結果だし、トラック運転手も増えすぎたのだろう。

運転手が増えればひとつのパイの分け前も減る。
そうかといってローンの支払いが猶予されるわけでもない。
中国政府もなんとかしようと、増えすぎた運転手の削減に走る。
この番組に登場したベテラン運転手は、60歳以上は大型トラックの運転を禁止するという新しい制度によって、職を失うことになった。
日本みたいに労働人口が足りない国では、定年を延長したり、年金の支給開始を遅らせて、年寄りを長くこきつかおうと必死だけど、中国ではとりあえず法律をたてに、多すぎる運転手の新旧交代を促するしかなかったようだ。

無慈悲な措置に思えるけど、こうしたことは中国だけの問題ではない。
日本でもひところ、郊外に大規模店舗の進出で、町の個人商店がみんなつぶれたことがあった。
かたときも休まずに仕事の合理化を図らなければ、強者が弱者を食いつぶすという冷酷な現象は、資本主義国ならどこでも見られることだ。
たまたまトラック業界が槍玉に上がっていたけど、中国でも多くのトラック運転手が淘汰され、生き残った者だけが、景気が回復したときまた仕事を続けられる。
これは中国が、トップの都合でどうにでもなる独裁国家ではなく、資本主義の原則に従って動く自由主義の国であることの証明じゃないか。
わたしにいわせると資本主義の原則というのは、労働者を極限状態に追いつめ、貧しくてものんびり生きたいという、わたしみたいな昭和生まれのアナクロ人間を、いやおうなしに歯車に組み込むことだから、ありがたいことじゃないんだけどね。

それにしてもこの番組の後編を観ると、わたしも長距離トラックの運転手をしたというのが恥ずかしくなるくらい。
わたしは1匹狼ではなく、運送会社の雇われ運転手だったから、自分で仕事を探す必要もなかったし、燃料代や高速代もみんな会社持ちだったから気楽なものだった。
この番組を観ると、世間ではみんながみんな家庭を維持するために苦労してんだねえと思ってしまう。
日本はいまのところあまり影響がないけど、西側先進国でもほとんどの国が、ガマン比べのように不景気に苦しんでいる。
消費者大国の中国の景気がよくなれば西側の国々もよくなるし、逆に悪くなれば日本も悪くなる。
それなのにどうして、他人の景気の足を引っ張らず、みんなで同時に景気をよくしようと思わないのだろう。

中国で日本人を守ろうとして通り魔事件にまきこまれた女性が亡くなったそうだ。
これについて中国も、アノ魅力的な毛寧報道官が談話を発表しているけど、とくにこの件をプロパガンダに使おうというわけでもないし、淡々としていた。
日本人はこの事件を忘れてはいけないね。
対立を煽るのではなく、平和をめざす、わたしはそう主張したぞ。
それも他人の子供や孫たちのために。

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2024年6月28日 (金)

直接対決

バイデンさんとトランプさんの直接対決。
早く結果を知りたいとニュースに注目していたけど、昼のニュースを録画しそこなって、SNSを観るしかなかった。
相手のセックス・スキャンダルをぼそぼそと並べるバイデンさんに対して、トランプさんは移民をただちに追い出すとか、ウクライナ戦争はすぐ終わらせるとわめきたてて、アメリカの選挙では威勢のいいほうが有利だから、どうやらトランプさんに分があったようだ。
トランプさんはわかりやすいからな。
ウクライナに向かって、え、負けてんのはおめえのほうだろ、ガタガタいわずにクリミア半島と東部4州を割譲して、戦争なんかやめちまえ。
いや、領土はひとかけらもとゼレンスキーさんが答えると、いつまでこだわってんだ、もう耳にタコができてるワと怒鳴りつける。
最初にやれっていったのはアメリカじゃないか。
うるせえ、そりゃバイデンの言ったことだ、オレの知ったことかと、こんな啖呵を聞きたいねえ。
おかげで世界は平和をとりもどし、ウクライナ国民も安心して眠れることになる。
ん、わたしが保証するよ。

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中国の事情

NHKが放映した「爆走風塵」というテレビ番組を観た。
これは中国のトラック運転手たちを取り上げたドキュメンタリーで、これを観てじいさんのわたしには、昔を思い出して一種の感慨があったね。

現在の中国は発展の途上にあり、貨物の運搬需要がかってないほど盛ん、国内の貨物の物流は70パーセントがトラックによるものだそうだ。
こうした需要を見込んで、いまでもこの業界に参入してくる運転手があとを絶たたず、運転手の数は3000万人にもなるらしい。
番組には3組のトラック運転手が登場する。
最初はまだ運転手を始め3カ月の新米運転手で、つぎは嫁さんと小さな子供まで乗せて、家族で仕事をしている運転手、最後は人間カーナビゲーションといわれるくらい、国内の道路に詳しい2人組のベテラン運転手だ。
企業に雇われている運転手もいるけど、ここにあげた3組はみんな自分で大型トラックを購入し、ローンを払いながら生計を立てている1匹狼の運転手である。

中国の成都には広大なトラック・ターミナルがあって、そこは同時に、トラックに仕事を斡旋する仲介業者たちの出張所が集まる場でもある。
出張所のまえにはたくさんの仕事の注文が掲示されていて、運転手たちはどの仕事が割りがいいか見極めて、これぞと思った仕事を契約するのである。
もちろん早い者勝ちだから、ベテランは実入りのいい仕事を確保し、新米はなかなかいい仕事にありつけない。

仕事を求めてターミナルに集まる運転手たちを見ると、発展途上の日本を見るようだ。
わたしがまだ中学生だったころ、郷里に朝鮮人の兄弟がいた。
彼らは社会に出て働けるようになると、トラックを購入し、同じ町にあったブロック会社から東京までブロック運送の仕事を請け負った。
群馬県の地方都市から東京まで、まだ関越高速もないころだったけど、頑張れば(ムチャをすれば)1日3往復はできる。
睡眠は車のなかで交互にとり、食事はドラブインで済ませ、まだフォークリフトなんて便利なもののない時代だから、荷物の積み下ろしも自分たちでするのだ。
そうやって不眠不休で働いて、たちまち家を1軒建てたということが、郷里でひとしきり話題になったことがある。

いま世間には中国が不景気だとみる意見が多いけど、物流はいよいよ盛んで、トラックの需要は多い。
本人にやる気と工夫の才さえあれば、いくらでも稼げる時代なのである。
じつはわたしも若いころ、長距離トラックの運転手をしたことがある。
ただし日本のことだから、長距離といってもたかが知れていて、せいぜい東京から東北や、信州、新潟あたりがいいところだったけど、中国大陸は広大だから、片道1000キロ以上なんて仕事がざらだ。
それでもエネルギーや建築資材の移動、ネット通販の発達などて、物流の仕事はいくらでもあり、やる気と才覚があれば、そのへんの会社員よりは稼げるらしい。

碓氷峠を下ってくるとトラック運転手のたまり場になっているドライブインがあって、運転手たちの情報交換の場になっていた。
わたしもそこでよくモツ煮込みや、山かけ丼のメシを食いながら、彼らの話を聞いていたものだ。
もっとも引っ込み思案は同時からのものだったから、はたから眺めていただけだったけど。
いまみたいにキツイのはいやだ、キタナイのはいやだといっていられる時代ではなく、日本だってトラック家業がまだまだ男の仕事だった時代である。

中国は鉄道王国といわれるけど、道路もそれにおとらず国内を網羅している。
現代は道路も広く快適なものになったけど、代わりに燃料代の高騰や有料道路の経費などの、べつの要因が運転手たちを苦しめる。
こういうときにベテランの知識がものをいう。
彼らはどんなコースを選んだらもっとも効率よく仕事ができるかを熟知しており、新米の運転手は道に迷ったり交通違反をして罰金を取られたりして、なかなか目的地までたどりつけない。
まるで年末のお歳暮配達のアルバイトや、ウーバーイーツの配達員みたいで、要領のよしあしはこういうところに現れる。

この番組を観ながら、中国の発展はとどまるところを知らないなと思った。
物流が盛んだからという単純な理由ではなく、いまの中国が、だれも彼もがもっと豊かになりたいと必死になっている、ちょうど発展途上の日本のように見えたからだ。
しかし中国でもそのうち若者たちはどんどん贅沢になり、トラックの運転みたいなキツイ仕事はいやだと言い出す時代が来て、この業界も人手不足に悩むことになるかも知れない。
と思ったら、昨日の最新の国際報道に、中国ではトラックにも自動運転の研究が盛んに行われているという報道があった。
日本がなんとかして中国に鉄槌をくらわそうとじたばたしているあいだに、あちらでは文明的に国を発展させようという試みが着々と進んでいるのだ。
こういうことを含めて、つねに世界の現状を注視しておくことが重要だ。
ネットにはあいかわらず真実よりも、自分にとって具合がいいかどうかで、情報を取捨選択している人がいる。
たわごととしかいえない。

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2024年6月27日 (木)

季節はずれ

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駐車場のわきのフジに季節はずれの花が咲いた。
いわゆる狂い咲きというやつ。
めずらしいから写真に収めたけど、下から仰ぎ見るのでどうしても逆光になり、せっかくの花がまっ黒になってしまう。
それで思い切り絞りを調整したらご覧の写真になった。
なんとなく絵画的というか、たまたま撮れちゃった写真だけど、なにかに使えないかと考えたあげく、あまり熱心にやってないフェイスブックの表紙に使った。
え、ああ、カメラはオリンパスのタフ。
コンパクト・デジカメだけど、わたしのブログの写真の80%は、コンバージョンの魚眼をつけて、こいつで撮っている。

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2024年6月26日 (水)

悲劇のユーチューバー

富士山で遭難した人がいるそうだ。
それも家族から行方不明の届けが1件あって、捜索隊が登ってみたら、3人も4人も冷凍マグロみたいになって転がっていたそうだ。
届けがなかったら、そのまま山開きまで転がっていたんだね。
アホは死ななきゃわからないというところだけど、いまの季節ということは全員がユーチューバーだった可能性が高いな。
プロの登山家なら冬でもない、夏でもない、こんな中途半端な富士山に登る理由がない。
なんとかして他人のやらないことをして、登録者を増やして、金儲けをしようという手合いだろう。
真冬の富士山がしろうとの手に負える山じゃないことぐらいは知っている、しかし山開き直前なら、とは誰でも考える。
どうせ1週間もすれば誰でも登れるんだ、いまなら今年いちばん乗りということで登録を稼げる。
てな考えで、カメラを片手に安易な気持ちで登って、そのままあの世行きだ。
最近のユーチューバーの考えそうなことだよ。
こういうのも自然淘汰というのかも知れないね。

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たとえば

問題は中国で起きた日本人学校の殺傷事件そのものじゃないんだよ。
ウクライナ戦争でもパレスチナ問題でも、そういうものをことさら煽り立てて喜んでいるSNSやマスコミの姿勢だよな。
わたしは自分のことを心配しているわけじゃない。
わたしには家庭がないし、子供も孫もいない。
わたしが心配しているのは他人の子供や孫たちなんだ。
たとえばNHKの由井秀樹サンや別府正一郎サンの子供たちだ。
パパ、あのときどうして止めてくれなかったのと、子供や孫に聞かれたら彼らはどう釈明する気だろう。
いや、パパはサラリーマン・アナウンサーだ、局の方針に逆らえるわけがなかったんだよと弁解するつもりか。
そうしてもろもろの子供や孫たちと、いっしょに三途の川を渡るわけか。
どうして核戦争にまで行ってしまったのだろうと、無限の悔恨に責め苛まされながら。

ああ、今日も負け惜しみぐらいしかいえないのかね、わたしには。
他人の心配をしてやるのも疲れた。

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前項の続き

前項についてSNSには、事件の詳細が中国では報じられていない、中国政府は事件を隠匿しようというものがあった。
どうしてこんなふうに悪意で解釈しようとするのだろう。
中国政府にしてみれば、たんなる通り魔事件を大々的に報じて、問題を大きくする必要はないわけだし、真似をするバカが出てきたり、日本がしきりにケンカを売りたがっているいま時期だから、反日運動につながっても困るというだけじゃないか。
え、FNN(フジテレビ系)、おまえのことだよ、そういうアホらしいことを言って、ことを荒立てようとしているのは。
なにがなんでも戦争に持っていく片棒をかつごうってえのか。

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2024年6月25日 (火)

双璧じゃん

ニュース9を観ていたら、中国の日本人学校で邦人が襲われたというニュースを取り上げていた。
わたしは一蹴する。
ただの通り魔事件でしょ。
どこの国にも頭のおかしい人はいるし、刺されたのは中国人だし、中国政府は犯人を拘束して、防犯に努めるというおとなの対応。
反日がブームにでもなっているようなときならともかく、理由なしにナイフを振りまわす事件なら、日本でものべつ幕なしに起こっているじゃんか。
これもなんとか日中関係をこじらせようという、日本(とNHK)の謀略のひとつ。
それ以上でも以下でもない。
終わり。

あ、速報だよ。
ICCがまたロシア軍幹部に逮捕状だって。
思わずニンマリしてしまうくらい、東京都知事選と双璧のアホらしさだな。
NHKをダメにする党の応援にまわっちゃうぞ。

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ロシアのテロ

ロシア・ダゲスタンでのテロ。
犯人はだれか、背景はなんだ、なんてことはもちろんわたしにはわからない。
NHKにもわからない。
わたしにわからないことはNHKにもたいていわからないのだ。

それでもSNSには、プーチンの統治にかげりが出たという報道ばかりだ。
アホいってんじゃない。
たしかにウクライナ戦争で国内のテロ対策にまで手がまわらなかったということはあったかも知れないけど、2回テロが連続したくらいで統治能力?
ロシアは日本や西欧と変わらない法治国家だ。
ただしあの国には、すぐに人道なんてことを持ち出すエセ博愛主義者はいないから、いまごろテロリストはみんなとっ捕まってボコボコにされているに違いない。

プーチンはダゲスタンのとなりにあるチェチェンで、過去にイスラム勢力の反乱を抑え込んだ。
そればかりか、チェチェンのカディロフ首長をうまく手懐けてしまったことがある(カディロフはいまでは熱烈なプーチン支持者だ)。
同じイスラム教徒がどうして今回のテロに走ったのかわからないけど、おおかた中東でも、ロシアはイスラムの国々の味方であることも知らない貧乏テロリストの仕業だろう。

マクロンさんにしてもスナクさんもショルツさんも、極右の台頭ということで、来年まで首がつながっているかどうかわからないし、バイデンさんや岸田クンだって青息吐息だ。
統治能力をいうならこっちのほうを心配してやんなせえ。

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中国の旅/烏鞘峠

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薬師丸ひろ子のタクシーで張掖の田舎をめぐった翌日、わたしはまた列車に乗り込んで、高みから人々を見下ろしていた。
なんだか急に神さまか仏さまになったような書き方だけど、高みからというのは本当である。
駅で売ってもらった切符が硬臥(2等寝台)車のもので、乗り込んでみたらわたしの席は3段ベッドの最上段で、これは混雑するシーズン以外は使われてないものを、キノドクなわたしのために駅員のおばさんが特別に融通してくれたものらしかった。
最上段に寝っ転がって、下段の庶民たちを見下ろすのはなかなか気持ちがいい。
すぐ斜め下には若い娘までいるのだ。

なんでこんなことになったのだろう。
話は前日の午後にさかのぼる。

午後の早い時間に張掖市内へ引き上げ、わたしは薬師丸ひろ子に約束どおり100元を払った。
あとはホテルでシャワーでも浴び、どこかで食事をし、大仏寺でも見学し、夜になって時間があれば鄧小平の映画を見てもいい。
わたしはこんなつもりでいた。
そのまえにもう金が残り少ないから、銀行へ行ってまた1万円ほど両替しておこうと考えた。
わたしはこの日が土曜日であることを忘れていた。

銀行へ行ってみたら、どこへ行っても午前中で両替業務は終わっていて、月曜日にならなければ両替はできませんという。
しまったと思った。
まだカードやATMをどこでも使える時代ではなかったし、トラベラーズチェックなるものも、中国では使い道がないというので用意してなかったから、わたしには現金以外の支払い方法はなかったのだ。

念のためわたしは泊まっている金都賓館で、両替ができないものか尋ねてみた。
ダメだった。
服務員が張掖賓館へ行ってみたらどうですか、あそこなら大きいから両替してもらえるかも知れませんというので、わたしは3輪タクシーに貴重な3元をふんぱつしてそこまでとばしてみた。
やはりダメだった。
フロントの服務員はニセ札ではないかと疑うような顔で、わたしの金を裏までひっくり返して眺めていた。
こっちもわるいやね。いきなり飛び込んで両替、両替なんてわめいても。

こんなことならなぜ田んぼを見に行くまえに両替をすませておかなかっただろう。
さいわいホテルの支払いはすませてあるし、列車の切符も買ってある。
自らの怠惰が招いたこととはいえ、まだわたしは幸運だったのだ。
もし駅で、首尾よく西安までの軟臥(1等寝台)切符が買えていたらどうだろう。
その時点でわたしの金は底をつき、薬師丸ひろ子にタクシー代の100元も払えなかったかも知れない。

蘭州までの硬臥(2等寝台)切符しか買えなかったおかげで、それでもまだわたしのポケットには230元あまりが残っていた。
これで明日は駅まで行けるし、列車の中で1、2回の食事もできる。
蘭州に着いたらそのまま金城賓館に飛びこめば、ここはカードが使えるとことがわかっているし、うまくいけば日曜日でも両替可能かも知れない。
両替さえすればわたしはまた日本の大富豪なのだ。
ダメなら、予定外に蘭州に1泊することになってしまうけど、月曜日に銀行に行けばやはり大富豪である。
あさっての月曜日までもたせればいいのだから、これでも一般中国人に比べればまだ金持ちのほうだろう。
くよくよする必要はまったくないさ。
わたしはこの旅に、いくつかの、僥倖ともいえる幸運がついてまわっていることを確信した。

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列車が張掖を出たのは昼の12時25分である。
前日に4枚もらった切符はダテじゃなかった。
これがもし2人分だとすると、改札でなぜ2人分も持っているのかといちゃもんをつけられるかもしれないから、改札を通るとき、まず2枚だけを出してみた。
こわい顔をした女性改札係が、これだけかという顔をする。
わたしはあわてて残りの2枚を出した。

わたしがベッドから若い娘を見下ろすことになるまでのてんまつは、以上の通りである。

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わたしはしばらく通路の補助椅子に座っていたけど、うんざりしてベッドに横になることにした。
ベッドによじ登ってみると、こいつはなかなか按配がいい。
頭がつっかえそうに狭いことが、なんだか子供のころに、藪の中に作った隠れ家みたいでノスタルジーを誘う。
残念なのは最上段ベッドは窓より高い位置にあるので、景色を見るためにはベッドから下りて、通路に立つしかないということである。
往路では張掖から蘭州までの区間はま夜中だったから、わたしはこのあたりの景色をぜんぜん見てないので、しょっちゅうベッドから下りて外の景色をながめた。

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張掖を出るとほどなく、窓外にふたたび荒涼とした風景が広がる。
右側には熱のためぐらぐらと揺れる地平線、左手には褐色の山、遠い砂漠にいくつもの小さな竜巻が見える。
そしてちかくには土の民家、古い城壁の跡のようなくずれかかった土の壁、小さな子供たちが列車に手をふり、そのすぐあとに緑が風にゆれる麦畑、さわやかな風に白楊のこずえもゆれていた。

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下にいた娘というのは4人組の中国人グループのひとりで、つんつるてんのジーンズをはいて色気に乏しいけど、大学生くらいに見えた。
ときどき一心不乱に本を読んでいるから、ナニ読んでいるのと見せてもらうと、漢字で書かれた聖書だった。
大学生かいと訊ねると中学生だという。
見た目より若すぎるけど、広い中国ではそういうこともあるのかも知れないと、あまり悩まないことにした。

17時ごろ武威南の駅でカップラーメンを買う。
お湯は発車するとまもなく車掌がまわってきて、お湯だよーと叫ぶ。
それってわけで、みんな備えつけのポットを持って湯沸かし器のある車両まで走る。
娘も通路の椅子にわたしと向かいあわせに座って、小さな鍋で袋ラーメンを作って食べ始めた。
彼女はザーサイの小袋を持参していて、わたしのラーメンの中にいく切れか入れてくれた。

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ラーメンを食べながら考えた。
この列車でこのまま西安まで行ってしまえばいいではないか。
わたしがそうしなかったのは、軟臥車が頭にあったものだから、とても今ある金だけでは足りないだろうと思ったからである。
しかし金はまだ200元ちかくある。
硬臥(2等)のままでいいなら、それでじゅうぶん西安まで行けるのではないか。
西安に着くのは月曜日の昼であり、たとえすってんてんで到着しても、銀行もカードの使えるホテルもオープンしているはずだ。

そういうわけで列車のなかで目的地の変更をしてみることにした。
車掌に申し込んでみると、あとでとにべもない。

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あたりの風景に山が迫ってきた。
ある場所に干上がった川があり、そのあたりに青いアヤメのような花がたくさん咲いていた。
日本の園芸種にくらべるとサイズが小さく、どうも野生種らしい。
ほかに黄色い花などもたくさん咲いていて、このあたりだけどうして花が多いのかなと不思議に思った。
19時ごろ、山はやや遠ざかり、女性の肉体のようなやわらかな稜線の丘が続いている。
丘は芝のようなみじかい草におおわれ、まるでビロードをしきつめたようだから、行ったことのないモンゴル草原がこんな風景かなと思った。
丘の斜面に座って列車を見送るヒツジ飼いは、アンデスの民族服のようなポンチョを着ていた。

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アヤメのような花はますます数をふやしてきた。
空気が冷たくなってきたから、高原なのかもしれない。
列車に乗っているだけではそれほど勾配があるとは思えないけど、ナチュラリストのいいところは、咲いている花をながめているだけで、地形や環境の変化に気がつくことだ。
何というところだろう・・・と思っているうち、右側のかなり近いところに、いきなり雪渓の残る険しい山が頭をのぞかせた。
空気が冷たいはずだ。

地図をみると、このあたりは4千メートル級の山がいくつも連なる「烏(カラスという字)鞘峠」というところらしく、ここが今回の旅でわたしが到達した標高のもっとも高い場所だったようだ。
駅名でいうと“古浪”から“天祝”にかけての一帯になり、地図にはチベット族自治県という説明がついていたから、へえ、こんなところにもチベット人が住んでいるのかと意外に思った。
山好きなわたしにとって印象的なこの高原風景は、機会があったらぜひ再訪したいものだと考え、しっかり記憶しておいた(それは3年後に実現する)。

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蘭州まであと1時間となった。
蘭州までの切符で西安まで行ってしまう気なら、そろそろ断っておかないとマズイだろうと、また車掌のところへ行ってみた。
2号車の車掌は12号車に行ってくれといい、12号車の車掌は食堂車に行けという。
食堂車で訊いても何がなんだかわからない。
ただ書いてくれた紙に不下車という言葉があるから、蘭州で下りなければいいらしい。
万一にそなえて、高くつく食堂車での食事はとらないことにしているので、くそっ、こういう時にかぎって腹がへる。
食べるものは乗車前に買っておいたパンだけだ。
パンだけではのどを通らないから、ジュースぐらいはいいだろうと食堂車へ買いに出かけた。
ちょうど弁当やミヤゲ物の発売時間と重なってひどい混雑だった。
日本人は冷静であることを誇示しようと、椅子に座ってやせガマンをしていたら、気をきかせた食堂車の服務員が倍の値段で売ってくれた。

もう外はまっ暗である。
蘭州に着いたとき、わたしはまだ切符の延長をしないまま、ランニング姿でベッドに転がっていた。

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2024年6月24日 (月)

ものの見方

あいかわらずNHKの報道は異常に偏っているな。
フィリピンと中国の対立問題について考えてみよう。
中国はスカボロー礁を強引に自国領に編入しようとしている、それに弁解の余地があるのか、というのがおおかたの見方だろうけど、さてどうだろう。

つい先日まではフィリピンは、重要な貿易相手国の中国とコトを荒立てるより、実利をとったほうが得だということで、ゴタゴタいうのを控えていた。
それではおもしろくないのがアメリカ(と日本)だ。
なんとかしてBRICSやグローバルサウスから引っ剥がせそうな国はないかとつねに注目していて、先日のインドの選挙ではモディさんの人気にかげりが出たから、ここならどうかと思ったけど、モディさんがトップにあるかぎり難しい。
ほかにないかと探してみたら、フィリピンがなんとかなりそうだ。
ここはいま現在、スカボロー礁をめぐって中国と係争中だし、むかしアメリカの植民地だったこともあって、いまだにアメリカを盲信している国民も多い。
ドゥテルテ大統領のときだいぶ一掃されたけど、いまでも国をひっかきまわすのに便利なギャングも多い(中南米に危険な国が多いのはアメリカが近いせいだというわたしのブログ記事を参照)。

フィリピンなら引っ剥がせそうだというので、さあ、西側の猛烈な働きかけが始まった。
このままではスカボロー礁は中国のものになってしまうぞ。
そうされないように環礁の上に、フィリピンのものだということを確定させる建造物を作ってしまえ。
なに、問題はない、日本だって沖ノ鳥島でやっているさ。

相手がグラついたのを見て、働きかけはさらに激しくなる。
フィリピンは言われたとおりに、環礁の上に建造物を作るための資材を運び込もうとした。
中国もおどろいた。
このあいだまで特に文句も言ってなかったフィリピンが、いきなり強引な姿勢を見せ始めた。
これは西側が背後でなにかいってるなと警戒を強める。
つまりフィリピンの沿岸警備隊と中国の海警局の船の衝突も、昨今の対立思考が生んだ結果じゃないのか。

この事件の続報を見ると、フィリピンは水や食料を持ち込む場合も、あらかじめ中国に通報すると言い出した。
ということは、これまでは無断でなにやら持ち込もうとしていたことになる。
そのため中国側の警戒を呼び起こしたんじゃないか。
なんかの会議で、参加していた日本の海上保安庁が、危険だから中国は放水銃の使用をヤメロといったら、放水銃をいちばん最初に使ったのは日本じゃないかと切り返されていて、これはおもしろかったな。

問題は中国の言い分がまったく報道されず、西側のマスコミはフィリピン側の取材だけを根拠に、一方的に中国を責め立てていることだ。
わたしが異常に偏っているというのはこういうことなんだけど、これからはあらかじめ通報するというんだから、フィリピンもゴタゴタを拡大させるつもりはないようだ。
小さな環礁にこだわらなくても、日本がロシアに向かって、北方四島はウチのもんだと訴え続けているように、フィリピンは文句をいいつつ、中国とうまく共存していけるはずなんだよ。

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2024年6月23日 (日)

中国の政策

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録画しておいた「誰が伝統集落を守るのか」という番組を観た。
これは中国の雲南省に住む少数民族を取り上げたもので、NHKがよくやる外国の辺境に住む民族を紹介する番組のようだった。
わたしはこういうあまり知られてない民族を紹介する番組が好きで、過去にも「シルクロード・ソグド人」、「四川・美人谷」、「中国ガルゼチベット自治州」、「中国秘境/木馬氷上を馳せる」、「ベマ族・哀歌」、「ミャオ族・魂の歌」「謎の民サラール」など、DVDやブルーレイに焼いて録画コレクションに含めた番組は多い。
今回のそれは最近のもので、いくらか中国をけなすプロパガンダの臭いがしたけど、しかし観ようによっては中国政府が、少数民族の扱いにいかに苦労しているかを知らしめる番組にもなっていた。

ここで登場するのは雲南の国境近くに住むワ族といって、冒頭の写真のように独特の風俗をもつ少数民族である。
彼らは雲南の山奥で、むかしの日本人にも似た農耕生活を送っていた。
彼らの耕す畑は美しい棚田となっているから、日本人だって郷愁を感じる人が多いんじゃないか。

残念ながらワ族は、そのままなら中国の発展に乗り遅れた少数民族である。
乗り遅れた原因は、もちろん彼らが辺境に住んで昔ながらの伝統的な生き方を遵守しているからで、現在の中国の政策に責任があるわけじゃない。
習近平主席の号令で、2015年に中国は7000万人の貧困層をなくすと宣言したそうである。
国民を等しく豊かにしようとする中国政府は、発展の分け前をワ族にも与えようといろいろ頭をしぼった。
いちばん手っ取り早いのが、独特の文化をもつ彼らの境遇を逆手にとって、彼らの住まいを、それを売りモノにした観光地にしてしまうことだった。
めずらしいことじゃない。
わたしはハワイに行ったとき、ハワイの文化を紹介したテーマパークに連れていかれて、そんなものを見るなら海岸でバードウォッチングでもしてるほうがマシだと思ったことがある。
個人的なことはさておいて、観光事業は辺境に金を落とさせるきわめて効果的な手段なのだ。

当然ながら新しい土地に引っ越すのはイヤだ、長年暮らしてきたこの村で死にたいなどという年寄りもいる。
そういう人たちに同情するのは結構だけど、番組を観たかぎりでは、古い家というのは昼間でも暗い土間のある家で、水は部落の中心にある井戸から汲んでくるのだ。
引越し先の新しい家のほうは(画一的なのが個人的には気にいらないけど)、ひねるだけで使える電気・水道・ガスが備わり、たまげたことに車の駐車場までついていた。
これでは村民の大半が引っ越しに乗り気になるのも当然だ。
新しい家はタダなのかという人がいるかも知れないけど、もちろん相応の負担はあるだろう。
しかし村民たちがこれまで通り仕事をしていれば、払えないようなローンでもないようだし、もとの村には観光開発をするディベロッパーが入り、観光で上がった利益の中から引っ越しをした村民に配当金までつく。
もう至れり尽せりではないか。

以前に観た「中国・史上最大の移住計画」という番組は、貧しい黄土高原の農民をまとめて町に移住させようとするもので、このさいも中国政府は農民にさまざまな優遇政策をとっていた。
農民に課せられていた戸籍の変更禁止を撤廃し、引っ越し先に(画一的なのが気にいらないけど)一戸建ての住宅を用意し、さらに村民のために職業訓練所まで作り、年寄りには日本のシルバー事業のように、楽な仕事を優先的に斡旋していた。

こうしたことから、わたしか何をいいたいかというと、つまり現在の中国の少数民族政策は間違っていないということである。
世間には相手に無用な警戒感をいだき、とにかく国家間の対立をあおって、互いが憎しみ合うのを歓迎する人がいる。
そういう人たちにいいたいんだけどね。
いつまでも過去のことばかり持ち出して、搾取だ、抑圧だ、権威主義だ、独裁政治だというほうがおかしくないか。

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2024年6月22日 (土)

中国の旅/張掖の田舎

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駅で硬臥車(2等寝台)のキップを手に入れたあと、薬師丸ひろ子の運転する車で張掖の田舎をめざす。
とちゅうでスタンドに寄って給油した。
中国ではガソリンはセルフサービスで、運転手が自分で入れる。
こういうシステムはいまでは日本でもめずらしくないけど、この当時(1997)には日本では危険だからという役所の横槍で、ほとんど見られなかった。
中国のほうが進歩的だったのか、安全管理にずぼらだったのか知らんけど。

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さいわいこの日の空は、初夏にふさわしい晴天である。
ねちっこくまとわりつくトルファンと違って風はじつにさわやかだ。
水田、水田というわたしの要望に首をかしげながら、薬師丸ひろ子運転の車はまず市の北西部をめざした。
風景がのびのびしているから、もっと運転させてもらいたかったけど、事故でも起こしたらえらいことになるなと思って遠慮した。

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このドライブは実り多いものだった。
10分も走ればもう周囲は砂漠の国とは思えないような田舎景色になる。
青々とした麦畑の向こうに白楊樹(ポプラ)が整然と並び、あちらこちらに菜ノ花畑も見える、日本とあまり変わらない農村風景である。
ある場所に小さな川が流れていて、そのまわりの草地にヒツジが放牧されているのを見て、わたしは最初の停車をしてもらった。
車から飛び降りて草地めがけて走るわたしを、薬師丸ひろ子夫婦がおどろいてながめていた。
初夏の田舎の草地を不快に思う人間は、やくざ社会にもいないだろう。
やがて薬師丸ひろ子夫婦もわたしのあとについて、あたりを散策し始めた。
亭主のほうは目つきのわるい半グレみたいな顔の若者だったけど、彼までひさしぶりのピクニックをしているような顔になった。

ここにはヒツジやロバの親子などがのんびりと草をはんでいた。
足もとの草むらのなかには、いたるところにトノサマガエル・サイズのカエルが跳ねていた。
わたしは簡単に1匹のカエルをつかまえ、小川に放り込んでみた。
川の水はよく澄んでいたけど、魚やエビガニなどの小動物を見つけることはできなかった。

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ふたたび車でさらに郊外をめざす。
張掖の南の遠方には雪をいだいた山脈が見え、すぐ北側には茶色の山がそびえている。
雪をいだいた山脈は祁連山脈、北側の山の名はわからないけど、こちら側にはゴビ砂漠が広がっているはずだ。
どんどん西に向かって10数分も走ると、今度はかなり大きな川が流れていて、広々とした河川敷にたくさんのヒツジが放牧されている。
わたしはまた車をとびおりてヒツジの群れに突進した。
河川敷にぽつんとヤナギの木が生えており、その下にワラが敷いてあった。
これはヒツジ飼いが野宿した跡らしく、彼らの孤独な生活が想像できようというものだ。

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この河川敷には3つぐらいのヒツジのグループがいて、3人のヒツジ飼いが車座になって世間話をしていた。
折り畳み式の椅子に座っている者もいた。
孤独な職業のうちにもたまには心情を語り合う機会はあるらしい。
もっとも現在も孤独かどうかわからない。
いまはケータイの時代で、わたしはアフリカでやはり遊牧のマサイ族が、もしもし、今日の晩飯はなんだべさとやっている写真を見たことがある。

わたしはヒツジ飼いに話しかけてみた。
まっ黒な顔をした歯のない男で、いきなり見ず知らずの異邦人に話しかけられたものだから、返事もせずに悲しそうなほほ笑みを見せた。
どうも彼の性格にはわたしと共通するものがあるようだった。

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さらにまた車を走らせる。
国道のようなところばかり走っていてもつまらないから、あっちのほうへ行ってみようと、わたしはことさら田舎っぽい村のほうを指さした。
白楊樹の並木のあいだをずんずん走っていくと、麦畑のあいだに、ときどき青い小さい花の植えられた畑がある。
あれはなんという花かと訊くと、薬師丸ひろ子はとんでもないことを訊かれたというふうで、亭主と相談していて、そのうち“胡麻”という字を書いた。
帰国してから調べてみると、どう見ても胡麻とは違っていた。
こういうことはよくある。
わたしは香港へ行ったことがあるんだけど、ガイドの娘からは、こっちから質問するまえに、ワタシは花の名前に詳しくないので訊かれてもわかりませんと宣言されてしまったし、沖縄ではタクシー運転手に、街路樹として植えられているデイゴはいつごろ咲くんだろうと尋ねたら、はて、いつだったかなと返事されたことがある。
ようするに質問する相手を間違えたということだ。

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このあと、ついにわたしは念願の田んぼを発見した。
列車のなかから発見し、シルクロードに田んぼという異色の取り合わせに仰天し、わざわざ帰りに立ち寄ることにしたその現物である。
日本の田んぼに比べるといくらか管理にだらしないところがあるけど、見てごらんのとおり、日本人ならだれがどう見たって田んぼだ。
田んぼの畦道には、雑草を抜こうという農婦がちらほら徘徊していた。

稲というのは人間の腹を満たすのに非常に効率的な穀物なので、日本でも弥生時代に伝わると、あっという間に日本全国に広まった。
もともと南方系の植物で、寒い地方では生育がむずかしいとされるのに、日本列島をどんどん北上して、しまいには稲作に向いてないとされる北海道にまで伝わり、「ゆめぴりか」や「ななつぼし」というブランド米を産んでいるくらいだから、シルクロードに生えていても不思議じゃないかも知れない。
わたしは2000年に新疆ウイグル自治区のカシュガルまで旅をし、途中にあるクチャという街の郊外でも田んぼを見たことがある(つぎの紀行記をお楽しみに)。

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わたしは田んぼを見ると、メダカやタニシやザリガニでもいないかとすぐ水中を探すクセがある。
むかしテレビで見たタイの農村では、夜になると子供たちがタウナギを捕まえようと、松明を持って出かけていたけど、そういう小動物のすがたはあまりないようだった。
これはもともとタイや日本のように、いたるところに蛇蝎があふれている土地ではないということかもしれない。

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べつに田んぼをちょくせつ見たからって、親のかたきを発見したように感動する必要はないんだけど、そのあたりで出会った子供たちも、日本の昭和の子どもたちを見ているようだった。
わたしは畔道でしばし逡巡し、まだ世の中のきびしい現実を知らなかった幼いころを思い出して、その場で泣き崩れるところだった。

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烏(カラスという文字)江という村で踏切を渡った。
よく考えてみると、この踏切はトルファンから張掖に向かう線路上にあって、前日にわたしも列車で通った踏切だった。
このあたりの部落をふらついてみた。
農家の前で年寄りたちがワラを編んでいたので、車を停めてもらって写真を撮った。
年配のおばさんたちが家のまえでワラを編みながら世間話をしている光景は、思い当たる日本人もたくさんいるんじゃないか(もう死に絶えたかな)。

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村の広場のわきに車を停め、そのへんの商店で買ったジュースを飲んでいると、広場のわきの高台に神社のような建物があるのに気がついた。
あれは寺かと訊くと、ひろ子の亭主が、あれは小学校だという。
高台そのものが小学校の敷地で、日本の小学校にもむかしはよく忠霊塔だとか慰霊塔というものがあったことを思い出し、ちょっとのぞいていくことにした。
車を下りて、小学校の敷地に無断侵入してみると、ちょうど放課後で勤務を終えたらしい先生たちがぞろぞろ出てきた。
べつに文句もいわれなかったので、教室の中まで覗きこんでみた。
頑丈このうえない木の机が並んでおり、壁に小学生たちの作文や絵が貼ってあって、香港返還後の行政区のマークが切り絵になっていた。
ちなみに香港返還はこの旅の1カ月後の、1997年7月のことである。

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高台の上の建物は古いお堂らしかったけど、手入れもされず荒れ果てていた。
きちんと管理すれば価値のあるもののように見えたけど、これも紅衛兵の廃仏毀釈の難に遭ったのかも知れない。

もういいや、帰ろうというと、まだ時間が早すぎると思ったのか、大きな川のそばにもういちど立ち寄って、薬師丸ひろ子がこれを見ていかないかという。
川のほとりに自然を利用したキャンプ場みたいな施設があった。
無料ではないし、ひとりで入ってもたいしておもしろいものではなさそうだったから、わたしはいらんいらんと返事した。

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2024年6月21日 (金)

コウガイビル

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雨が上がって月がきれいだ。
真夜中の彷徨に出かけようとして散歩道まで出たら、路上に1メートルくらいありそうなぬめぬめしたものが。
一見してコウガイビルの仲間だろうとわかったけど、こいつはとくに外来種のオオミスジコウガイビルという種類らしい。
散歩道の300メートルほどのあいだに4、5匹は見たから、うちの近所じゃめずらしくないようだけど、普段はめったに見られないものだから、カメラを持ってもういちど出かけ、「近所の野生たち」コレクションに加えることにした。
こいつを飼ってYouTubeに載せていくらか稼ごうかともちらりと思ったけど、わたしってそんなにまめじゃないもんね。
ぬめぬめしたものもキライだし。

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昨日のNHK

まだプーチンの腹を推察しているんだけど、やはり西側へのあてつけというか、本命のベトナム訪問のついでに、たまには北朝鮮にもサービスしておくかという程度のものだったようだね。
プーチンの北朝鮮訪問で大喜びをしているのは北だけ、正恩クンは夜中に空港まで出迎え、有名な北のアナウンサーおばさんは得意そうに吹聴し、正恩クンはプーチンを空港までしゃっちょこばって見送った。
プーチンのほうが、こっちが格上だということを見せつけているのに比べ、ロシアに後ろ盾になってもらおうという正恩クンは必死なのだ。
つぎの訪問先ベトナムを去るときのプーチンの記者会見をじっと注視してみたけど、正恩クンが新しい防衛条約を結んだと大喜びで条約文まで公開しているのに、プーチンのほうは、そんなものは以前からあったと素っ気ない。

NHKは、ベトナムとロシアの接近は中国に警戒感をもたらし、中露の対立を呼ぶ起こすのではないかと(願望を)言っていたけど、はっきりいえるのは、なにがなんでも米国には追従しないというベトナムの固い決意だ。
どうしてBRICSやグローバルサウスは味方してくれないのかということに、いつになっても気がつかないNHKは、アホとしかいいようがない。
韓国ではロシアと北朝鮮の同盟を知って、これではウチもウクライナに兵器を供給せざるを得ないと言い出した。
そんなことはいまに始まったわけでもないし、中国とも極東アジアにこれ以上のトラブルは持ち込まないということで話のついているプーチンが、北に核兵器技術などを支援するわけもないし、いまになって騒ぐというのは、ん、やっぱりあの国もアホやねん。

昨日のNHK国際報道では「ガザ日記」という書物、これは殺戮されているパレスチナ人の側から書かれた本だけど、それを取り上げてパレスチナに同情的な態度を見せていた。
そのパレスチナではイスラエルの軍部がどうどうと、ハマスはパレスチナ人の精神的支柱だから絶滅させることはできないと、ネタニヤスさんに反旗をひるがえした。
機を見るに敏なるNHKも、姿勢を変えざるを得なかったんじゃないか。

英国ではEU離脱を叫んで政権をにぎった現政権がしっちゃかめっちゃかだそうだ。
EU離脱に関するゴタゴタについては、わたしのブログにも書いてある。
英国もアホであることは変わらないようだ。

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2024年6月20日 (木)

プーチンの腹

プーチンの腹を読み取ろうと苦心してるんだけど、よくわからんね。
北朝鮮に乗り込んで正恩クンと親しく抱擁したり、ロシア製の高級車を送ったり、モスクワに招待したり、ちょっとやりすぎじゃないかと思えるサービスぶりで、これじゃ極悪国家の北とロシアを結びつけたがっている西側の思う壺じゃないか。
おまけに新しい戦略的パートナーシップ条約なんてものまで結んじゃって、ナニ考えてるんだろう。
条約のほうはわからんでもない。
ここんところNATOは・・・NATOというのはもともと加盟国が他国から侵略されたら、仲間で助けようという軍事同盟で、しかも最近はやたらにメンバーを増やしてロシアに対抗しようとしている。
本来ならその資格のないウクライナまで強引に加盟させようとしているくらいだから、プーチンも当てつけのつもりで、同じような条約を北と結んでみせたんじゃないか。

NHKはあいかわらず北朝鮮が武器をロシアに支援しているというけど、これはちと疑問だね。
まず銃の弾丸は口径が合わなければ使えないし、北とロシアが同じ口径の銃を使っているのか、検証している報道をみたことがない。
カラシニコフ?
あれは第二次世界大戦のときの銃だよ。
ウクライナ戦争で主役は、小銃よりもミサイルや砲弾やドローンで、これはがさばるから運ぶのは簡単ではない。
北からロシアにそういう兵器を送るとしたら、ふつうは貨物列車だろうけど、西側はつねに北からの貨物便を偵察衛星で監視しているはずだから(わたしの過去のブログを読んでみよ)、貨物の便数が増えればすぐに察知される。
こういうことも検証されているのを見たことがない。

だいたいロシアはこれまでとなりのベラルーシからさえ、兵器や兵士の供給を受けておらず、それでも確実にウクライナを追いつめてきた。
制裁を受けて貧乏なことではベラルーシ以上の北から、武器を調達しなければならない理由はないわけだ。
西側がロシアと北朝鮮を結びつけようとするのは、北が肉親や身内でさえ処刑する極道国家だと世界的に知られているから、それとロシアを結びつけてなんとかプーチンの評判を貶めたいからだよ。

かりに北がなんらかの方法でロシアに武器を送っているとしても、それがなんか問題あることか。
西側だって戦車からF-16まで、ありとあらゆる兵器をウクライナに送っているじゃないか。
自分がやるのはかまわない、しかしおまえがやるのはケシカランなんて、そんな身勝手なことはないぞ。
日本人はこちら側からの報道ばかり見せられているから、どうしてもケシカランが当然と考えてしまうけど、これは西側お得意のダブルスタンダード。

わたしはプーチンの心境について、個人的にあれやこれやと推測してるんだけど、ホント、今回のプーチンの行動は派手で、わざとらしいところがあって、その腹を見抜くのは容易じゃない。

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2024年6月19日 (水)

YouTube

いま録画しておいた都知事候補者の討論会を観てたけど、なかにYouTubeで都知事の年収分くらいはカバーできるといった候補者がいたにはたまげた。
YouTubeってデタラメいっぱいで、選挙の妨害だろうが、他人への迷惑だろうが、なんでもいいから目立つことさえすればいいという犯罪の温床じゃないか。
この候補者は仕事よりもYouTubeを優先させるつもりだろうか。
YouTubeのほうでも、素人が作った安直な映像で稼げるという現在のシステムを、なんとかしようと考えてないのかね。
考えてほしいよ、古い常識をそなえたじいさんにすれば。

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2日後のヒマワリ

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今日はいい天気で、2日まえにはまだつぼみだったヒマワリが開花した。
それはおめでたいことだけど、飼い主がひねくれていると花もひねくれるのかしら。
ヒマワリのくせに北向きだ。
おいおい、寝ている仏さまじゃないんだろ、ヒマワリはヒマワリらしく、お天道さまのほうを向かんかい。

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昨夜はようすを見に行ったら、きれいに咲いていた黄色いユリが、雨に打たれてがっくりとこうべを垂れていた。
 咲くほどにこうべを垂れる黄百合かな
夜中にヒモでとなりのタラノメに結んで、しっかり起こしてやったわたしのやさしいこと。

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2024年6月18日 (火)

中国の旅/鄧小平

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歩き疲れて甘州賓館にもどる。   
ホテルのすぐわきに映画館があって、鄧小平の一代記ともいうべき大河ドラマを上映していた。
スチール写真をながめると、戦車などを繰り出した戦争シーンはなかなかのスケールで、人民解放軍を動員した大作らしい。
全部観なくてもいいヒマつぶしにはなるなと考え、5元払って入ってみたら、肝心の鄧小平の映画は翌日からだった。
またドジ踏んだけど、70、80円ぐらいで文句をいう気にもなれず、ヒツジのように従順なわたしはおとなしく引っ込むしかなかった。

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中国ギライになにをいっても無駄だけど、ここで鄧小平という人について、できるだけ客観的に説明しておこう。
世界にはわたしをうならせるような、真の愛国者といえる指導者が何人かいる。
ロシアのプーチン、シンガポールの初代首相リ・クワンユー、キューバのカストロ、そして中国の鄧小平もそのひとりだし、日本の安倍もと首相もそうかも知れない。
ヨーロッパが日本も移民を引き受けろといってきたとき、安倍もと首相は、えっ移民、ああ移民ですね、いや日本には日本の事情がありまして、ええ、あははととぼけてしまった。
その後欧米が移民の件ではちゃめちゃになっていることを考えると、あちらのいうことに一も二もなく飛びつくどこかの首相とは大違いだ。

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鄧小平の経歴についてはよく知られている。
といっても彼が死んでから、まごまごしていると30年にもなるので、いまの若い者の中には知らないという人もいるだろう。
彼は転んでも転んでも起き上がるダルマさんみたいな人で、毛沢東の時代に何度も失脚しながら、そのたびに不死鳥のように再起してきた人なのだ。
現在の中国の発展ぶりは、すべて彼の敷いた「改革開放」という路線のおかげなのである。
西側が問題視する天安門事件のときの、中国の最高実力者だったから、いわれている虐殺は彼の命令だったといっていいのだ。
中国をけなすにしても有益な人だからよく勉強しとけ。

鄧小平の経歴についてはウィキペディアにも書いてあるので、わたしはここではそれ以外のことに触れよう。

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中国人というのはメンツにこだわる。
北朝鮮の正恩クンみたいなのが典型で、自分の国がボロボロ、メタメタでも、けっして他人に弱みを見せず、虚勢を張りたがる。
ところが鄧小平は、中国人にしてはめずらしくメンツにこだわらない人で、国賓として日本にもやってきて(このころは日本と中国は仲がよかったんだよ)、新幹線に乗って素晴らしいと手放しで褒めたたえたり、新日鉄の工場を見学して、中国にもこんな工場を建てたいと率直に協力を要請した。
わたしはこういうざっくばらんな中国の指導者を初めて見た。
日本人からすれば狡猾なタヌキ親父ということにもなるけど、日本だって似たようなことをして発展してきたのだよ。

彼は死んだとき偶像化されるのを嫌って、国葬は禁止、骨は東シナ海に散骨するよう遺言した。
毛沢東やスターリンが死んでも飾られているのに比べると、自分の名前など忘れてもらってかまわない、自分は中国が発展して民衆が幸せになってくれさえすればいいという、本物の愛国者だったのだ。

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見栄やたてまえよりも実利を取るという性格は、彼が中国の客家(はっか)の出だからといわれている。
客家という民族についても勉強してみるとおもしろいぞ。
そのころ中国の鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのゴー・チョクトンなど、中国系国家のトップがみんなそろって客家の出身だったこともある。
このブログにも名前の出てきた孫文、その奥さんだった宋慶齢、蒋介石の奥さんだった宋美齢などもみんな客家だし、天安門事件のとき、学生リーダーたちがやすやすと国外に逃亡できたのも、国内にあった客家のネットワークが協力したという説もあるくらいだ。
中国という国はひとすじ縄ではいかない国なのだよ。

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甘州賓館で目をさましたのが、朝の6時ごろ、ベッドから出たのが30分後である。
シャワーを浴びようとしたら、お湯がすぐ止まってしまった。
くそっ、ポンコツ・ホテルめと憤っても仕方ない。
それより朝いちで前日に目をつけておいた金都賓館へ引っ越ししてしまえと、まず荷物の1陣を持ってホテルを出た。
金都賓館では240元の部屋に案内されてしまった。
2部屋続きの豪華な部屋で、どうもわたしが日本人であることを知って、VIPルームをあてがってきたらしい。
安い部屋は満室ですといわれれば、これで我慢?するしかない。

ホテルを移ったついでに(大きな荷物はまだ甘州賓館前に置いてある)シャワーも浴びていってしまえと思ったけど、こちらもお湯が出なかった。
2階の服務員の女の子に訊くと、8時からですという。
8時になってもまだ出ない。
フロントの女の子に訊くと9時からですという。
なんだ、これは。えっ。

距離は300メートルくらいしか離れてないので、もういちど甘州賓館にもどって、今度は前日の食べ残しのトマトやモモを金都賓館へ運ぶ。
居心地はこっちのほうがいいから、朝食代わりに果物をかじりながら、シャワーのお湯が出るのを待っているうち9時ちかくになってしまった。
9時には薬師丸ひろ子運転の軽バン・タクシーが迎えに来るはずになっていたので、シャワーはあきらめて甘州賓館へもどった。
女の子が2人だけで来るはずはないと信じていたけれど、この日は彼女らに人相のよくない若い男が2人くっついてきた。
ヒツジのように従順なわたしが、若い女の子を手篭めにでもするとでも思ってんのか。

残っていた荷物をのせて金都賓館へ引っ越したあと、まず駅へ行ってくれと指示する。
わたしはこの日のうちに西安までの切符を確保したかった。
切符は平日なら金都賓館で予約できるらしいけど、この日は土曜日だからダメですといわれたので、自分で駅まで行くことにしたのである。
先に翌日の列車の切符を予約しておいてから、のんびり田舎をまわるつもりだったのだ。
お姉さんと男のひとりは市内で降りて、けっきょくわたしと同行するのは薬師丸ひろ子に似ている妹のほうと、その亭主ということになった。
わたしは亭主を後部座席に追いやって、助手席にふんぞりかえった。

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駅までの道すがら、わたしは薬師丸ひろ子に、キミが眠くなったらわたしが運転するからね、わたしは運転が上手なんだよなどと冗談をとばす。
ところが彼女は本気でわたしが運転したがっていると思ったらしい。
それじゃあといって彼女はわたしにハンドルを替わってくれた。
わたしも中国でいろんな乗り物に乗ったけど、車を自分で運転したのは初めてだ(国際免許証を持ってなかったから、ネズミトリに捕まらないように短時間でやめたけど)。

この日にわたしが買おうとした列車の切符は、張掖を昼の12時25分に出る198次の軟臥(1等寝台)というやつである。
ところが駅では西安までの軟臥といっただけで没有だった。
張掖の駅ではそもそも1等寝台を扱ってないらしい。
さあ、困った。
じつはわたしはシルクロードの帰りに、また西安に寄ってみたかったし、洛陽の女医カクさんにも会っていくことしていたので、このあとのスケジュールはあまり変更できないという事情があったのだ。

切符売場の係員は太ったおばさんである。
どうにもならないなら硬座(自由席)でもいいやとわたしが覚悟を決め、そのかわり硬座で一昼夜すごすのは耐えられないから、とりあえず蘭州まで行くことにした。
蘭州は甘粛省の省都だから軟臥切符が買えないわけがないので、そこで切符を買い変えればいい。
わたしが蘭州で軟臥に乗り換えるというと、太ったおばさんはキノドクに思ったのか、背後の事務室を指さしてこっちへまわってらっしゃいというと、いきなり切符売場の窓口をパタンと閉めてしまった。
ほかの客には迷惑な話だけど、わたしは助かったと思った。
この親切なおばさんは、わたしのために特別のはからいで軟臥切符を手配してくれることにしたのだろう。
ところがそうではなかった。
おばさんは他の職員と何かおしゃべりして、けっきょくわたしに蘭州までの硬臥寝台(2等寝台)の切符を売ってくれただけだった・・・・・

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じつはここからあとがわたしにはよくわからないのだが、おばさんが売ってくれた切符は全部で4枚綴りになっていた。
すべての切符に198というスタンプが押してあるから、198次に間違いはないけど、しかしなぜ4枚なのか。
ひょっとするとわたしは言葉の齟齬があって、2人分の切符を買ってしまったのかも知れない。
これが2人分だとすると、乗車券が2枚、2等寝台の指定券が2枚ということだろうか。
料金は4枚を合計しても84元(1200円足らず)だからかまいやしないけど。

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1等寝台が2等寝台になってしまったくらいは、わたしにはべつに問題ではないので、これで明日の昼には張掖を脱出できる、夜までには蘭州に着けると安堵した。
じつは硬臥席しか買えなかったということは、これがまたひとつのややこしい僥倖だったのだ。

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今日の北朝鮮

うわあ、またわたしの予想がはずれたみたいよ。
西側はロシアと極悪国家の北朝鮮を結びつけようと必死だから、そんなときわざわざプーチンが正恩クンに会いに行くわけがないというのがわたしの予想で、これはブログにも書いたことがある。
わたしにとってはインドのモディさんが選挙で大勝、という予測に続いてのはずれだ。
でもモディさんの場合は、開票前日にNHKが大勝を予測していたんで、わたしもアノNHKがいうことなら間違いないだろうと、ついそんな記事を書いてしまったのだよね。
悪いのはみんなNHKなのだ。

今回の場合はどういう吹きまわしだ。
ちゃんと言い訳の記事は考えてある。
西側がなにかというと、ゴミ国家まで勘定に入れて、ウチらはこれだけ結束してしてんだもんねと自慢するから、ロシアも対抗上、ときどき北朝鮮も計算に入れて仲間の多さを自慢することがある。
枯れ木も山のにぎわいだということで、北なんかいてもいなくてもいいんだけど、北の正恩クンのほうはなんとかして大国ロシアの仲間であることを自慢したい。
お願い、ちょっとだけでもいいから来て、顔を出してと懇願する。
プーチンも、いつも無碍にしてばかりいるのも気のドクだし、まあ、たまには顔を立ててやるかということじゃないか。

だいたい最近の北朝鮮は、相手を攻めるのにフーセンにぶら下げたウンコ攻撃しかない。
こんな国が仲間だなんて、結束を誇るにしてもみっともない。
何かプレゼントしてやるかと思っても、理性的なプーチンが、狂犬の正恩クンに核兵器技術なんかで協力するわけがないし、ほかに北に使いこなせる技術なんてないものなあ。
今度はフーセンではなく、ドローンで飛ばせとアドバイスするんじゃないか。

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2024年6月17日 (月)

ヒマワリ

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ウチの花壇のヒマワリがだいぶ育ってきた。
この4月にわたしが種を蒔いて、あとは放っておいたもの。
蒔いた種の数は、そうさな、去年の花から集めておいたもので、数百個になるだろう。
そのうちの20本か30本が苗になった。
えらいコスパが悪いじゃねえかという人がいるかも知れないけど、自然界ではこれでもいいほう。
自然のなかでは多くの植物が、他の植物の肥やしにするために、種を蒔いているんだよね。
これはみごとな互助精神といえる。
海の魚も似たようなもので、思いきり卵を産んでも、その大半がほかの生きものの餌になってしまう。
すべての生きものがそうやって命をつないできたんだと思えば、いくらコスパが悪くても腹は立たんよ。

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人間は特定の場所に、特定の時期に、特定の花を咲かせようと、苗の段階までプランターで大切に育てたりするけど、これは自然の摂理に反している。
他の植物のために肥やしを蒔いてやらずに、なにが互助精神だ。
わたしの園芸は肥料も生育もあちらまかせという、ルーズな人間むきのきわめて安直な園芸で、ほかにもマリーゴールドやホウキグサが、蒔きっぱなしですくすくと発育中デアル。

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同時期に蒔いたのに、成長の度合いは極端に差がある。
早いものはもう花をつけるんじゃないかと思えるくらい大きくなってるし、遅いものはひょろひょろしてモヤシみたい。
たぶん花をつけるまで行くのは、無事に苗まで育ったうちの、さらに数分の1ぐらいじゃないかな。
なかにはピンクコスモスみたいに、ひょろひょろだけで終わってしまいそうなものもあるけと、そういうのは来シーズンはなにか対処方法を考えよう。
花壇にヒマワリが並んで咲くのを想像するのは、ああ楽しいことだよね。

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2024年6月16日 (日)

権威主義のクニ

『ゼレンスキー大統領はなぜ対中批難を引っ込めたのか?』
これは今日のネットニュースの見出し。
その記事のなかに
「しかし欧州外交問題評議会(ECFR)が今年1月に行った世論調査では、わずか10%の欧州人しかウクライナの勝利を信じている人はいない」
のだそうだ。
記事はずいぶん長いのでリンクを張るだけにしておくけど、わたしがいいたいのは、日本だけが10%しかロシアの勝利を信じてないんじゃないか。
なんでそうなるかというと、もちろんNHK(とすぺてのマスコミ、SNS)がそう報じているから。

上記の記事は中国問題グローバル研究所の遠藤誉さんのものだけど、日本は権威主義の国で、有名人の意見は無条件で信じる人ばかりだから、こういう人の意見なら信じる人もいるんじゃないかねえ。
逆にわたしみたいな無名のじいさんがなにか言っても、あ、またたわごとおじさんがなんかいってらあでオシマイだ。
くやしいけど、なんだっていいや、とうせ戦争に行くのはアンタたちだ。
前項の文章を読んでもらえば、わたしの推理だってよく当たることがわかるはずなんだけど。

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またありんくりんサン

ココログの「農と島のありんくりん」サンが、いまごろになって韓国の日本自衛隊に対するレーダー照射について書いている。
わたしもこの件は、韓国の強引な捏造だと思っているから、異論はないんだけど、あいかわらず産経新聞だとか鈴置サンだとか、自説に有利な情報を取り上げる姿勢は変わってないなと思う。

わたしは事件の直後にこの事件をミステリー仕立てにしてるから、読んでみるとおもしろいぞ。
ソースが産経であるのが気にくわんけど、今回のありんくりんサンの記事は、わたしの推理がみごとなくらい的中していたことを証明した。
ついでに言っておくけど、いまはある程度以上大きな船舶の行動は、すべて監視されていて、北朝鮮からロシアに兵器が供給されているかどうかもお見通しなのだ。
もちろん貨物列車の運航も、ちょっと便数が増えればたちどころに把握される。
そういうこともちゃんと理解したうえで、ごちゃごちゃいってほしいね。

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2024年6月15日 (土)

中国の旅/張掖

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張掖(ちょうえき)はどんな街だろう。
わたしはたまたま往路で列車の車窓から水田を発見し、シルクロードに田んぼという意表をつく取り合わせに興味をひかれただけで、この旅に出るまでまったくこの街を知らなかったし、もちろんアナタも知らないだろう。
ウィキペディアを見ると
張掖とは「国の臂掖を張り」(『漢書』地理志の応劭注)、西域に通じるという意味でつけられた名前だという・・・・
うーん、わからん。

街の名前の由来に驃騎将軍の霍去病(かくきょへい)の名が出てきたので、こっちのほうはいくらかわかった。
ようするにずっとむかし、中国(漢)が匈奴と争っていたころ、相手を殲滅するために中国の軍勢がどうしても通らなければいけない、河西回廊の要衝だったってことぐらいでいいんじゃないか。
市内や郊外に古刹や歴史的遺物が多く、1986年12月には中華人民共和国で、国家歴史文化名城のひとつに選ばれたそうである。
街の印象は漢族が多く、城壁をとっぱらった西安みたいで、もちろん一歩郊外に出れば、まわりは新疆と変わらない砂漠である。

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列車は定刻に張掖に到着した。
駅は農村みたいなところにあって、市内まで歩くと1時間以上かかるという。
ということは4キロ以上あるということか。
するとタクシー代は・・・・と胸算用をし、駅で話しかけてきたタクシーが15元といったのを、まあ、ふっかけているわけでもなさそうだからOKした。
わたしが下車した張掖の駅は現在どうなってるのかと調べてみたら、その後新しい駅舎に模様替えしたようで、それなり変化はあったようである。
ここに載せた写真は、上がわたしが下りた張掖の駅、下が最近の同じ駅で、あきらかに変わっている。
しかし蘭州からウルムチ方向へは、新しい高速鉄道ができているはずだから、とうぜん張掖にも新しい駅ができているのでないかと探してみたら「張掖西駅」というのが見つかった。

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現在は西駅のほうが乗客の利便性から、メインの駅になっているようだ。
知らないけど、張掖西駅には駅なか商店街なんてものもできているかも知れない。

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やたら広い農地のあいだの道路を15分ほど走ると、建物が増えて街らしい景色になり、正面に寺のような建物が見えてきた。
交差点のまん中にでんと居座っているから、西安にある鐘楼のようである。
あとで調べたら「鎮遠楼」というもので、登ることができないかわり、下部に軽車両でも通れるようなトンネルができていた(車の通行は禁止)。

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「地球の歩き方」を読んで、選んだホテルが「甘州賓館」だった。
“甘州”という名前は、ここはすでに甘粛省だからである。
甘州賓館を選んだ理由は、ここだけはシャワーが24時間使えると書いてあったからだけど、着いてみたら汚いホテルだった。
見せてもらった部屋も汚かったし、ドアの鍵がガタガタなのも気になった。
しかしシャワーが24時間使えるホテルがこの程度じゃ、ほかはもっとひどいだろうとあきらめることにした。
わたしの部屋は2階の212号室で、部屋代は132元。
ただいま別館を新築中で、それは10月に開館するという。
ホテルは鎮遠楼のある交差点の角といっていい場所にあり、にぎやかな通りに面していて、すぐとなりに映画館まである。

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荷物をとき、まず近くにある鎮遠楼のあたりへぶらぶら。
トルファンではウイグルの民族色いっぱいだったのに、ここでは回族の帽子さえ見ない。
なんとなくほかのホテルに未練があったから、鎮遠楼のあたりにたむろしていたタクシーをつかまえ、この町でいちばん大きなホテルを知ってるかと訊いてみちた。
運転手はあるある、連れていくといったけど、たまたま、いくらやってもエンジンがかからなかった。
わたしもあまり遠くに連れていかれても困るので、これ幸いと下りてしまった。

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タクシーに尋ねる必要はなかったのだ。
鎮遠楼から200メートルほど歩いたところに「金都賓館」という、甘州賓館よりきれいなホテルがあった。 
金都というのは張掖の別名らしい。
このホテルに飛び込んでひと晩いくらかと訊くと、180元くらいのことをいう。
これでは甘州賓館とたいして変わらないし、おまけにフロントの女の子も美人である。
いちばん高い部屋はと訊くと、300元プラスだとか。
話のタネに300元プラスの部屋を見せてほしいといって、部屋に行ってみたら、この部屋にはベッドがなかった。
あれれと思ったらベッドルームは別にあった。
ようするに2部屋続きのVIPルームで、豪勢なものだけど、いくらなんでもわたしにそこまで必要ない。
180元の部屋でも甘州賓館よりずっとマシだったから、明日また来ますといっておく。

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このあとは生鮮食品の買い出しに行くことにして、今度は若い女の子の運転するタクシーをつかまえた。
助手席にも若い娘が乗っており、2人ともまだ幼さの残る顔だちで、助手席にいるのが姉で25歳、運転しているのが妹で22歳だとか。
この妹は女優の薬師丸ひろ子によく似ていた。
南関市場というところで野菜や果物を売っているということなので、そこまていくらと訊くと、2元という話である。
走り出して、どこの人ですかと助手席の娘が訊くから、日本人と答えると、日本人は初めてだわと嬉しそうである。
わたしは明日、農村へ水田の写真を撮りに行きたいんだけど、1日借り切ってこのタクシーはいくらかと訊いてみた。
100元と答えたから、そのくらいならいいだろうと口約束で予約をしておいた。

市場でトマト、モモ、あと紫色のアンズを買い、待たせてあったタクシーでふたたびホテルまでもどる。
往復だから4元でいいかと思ったら、運転席の娘が10元だと言い出した。
それもかなり強引な言い方で、こちらの言い分に耳を貸そうとしない。
やれやれ、えらいところへ来て、えらい娘のタクシーを予約してしまったなと思う。

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ホテルの近所をぶらぶらして、そのへんの書店で町の地図を買う。
張液の名物が大きな涅槃仏であることは知っていたから、ヒマつぶしに地図を見て、その像のある大仏寺というところへ行ってみることにした。
リキシャをつかまえ、5元だといってみたが、じっさいには歩いて行ける距離だった。
大仏寺は入山に22元も取る。
幸いというか不幸というか、この日はもう閉館だった。

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仕方ないからこの近くにある木塔寺の塔へ行ってみることにした。
ただこの塔は「地球の歩き方」によると、中学校の倉庫として使われていて、登ることはおろか、境内に入ることもできないということだった。
そんなことはなかった。 
ちゃんと門のわきに受付があり、もう帰り支度をしていた女性が、あわてて切符を売ってくれた。
こちらは外国人さん12元で、塔のまわりにはツバメが群れている。
木塔寺といっても屋根のひさしの部分が木造というだけで、建物本体はコンクリートで、レンガでもなかったから最近になって建て直ししたのではないか(じつは1926年再建のものだった)。

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中国のこうした塔の例にもれず、途中の階にはベランダ以外なにもない。
最上階まで登れるけど、階段は鉄製のおそろしい急勾配で、ほとんど垂直だ。
しがみつくようにして階段を登っていくとき、境内にある別の建物の修復作業をしているのが見えた。
張掖市当局も、この歴史ある文物を中学校の倉庫にしておくより、観光名所にしたほうが利益が上がることに気がついたのだろう。
最上階にもなにもないけど、もちろん景色だけは見る価値がある。

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木塔寺から鎮遠楼のほうへぶらぶら歩いて帰る。
とちゅうにある寺院は塀が傾いていて、太い丸太でつっかえ棒がしてあった。
まだ文化財まで政府や市の手がまわらないころだったのだ。
張掖の名所が鎮遠楼、道徳観、大仏寺、土塔、木塔寺、西来寺などだとすると、これらは徒歩で充分まわれる範囲にある。
郊外には黒水国漢墓群という名所もあるらしい。
しかしわたしにとって、田舎の水田以上に魅力的な場所ではなさそうだ。

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2024年6月14日 (金)

われ思う、ゆえに

年齢的にわたしは団塊の世代ということになるらしい(いまでも若い娘を見ると目ん玉ギラギラなんだけどね)。
わたしは頭がよくないし、学歴もない。
そんなわたしがいまの若者に誇れるものがあるとしたら、経験とそこから導き出した知識ぐらいしかない。
わたしひとりの人生のうちにもいろんな事件が起こった。
敗戦直後の貧しい国から、じょじょに発展し、欧米を追い越し、世界の奇跡といわれ、さらにそれがまたじょじょに衰退していくさまを、リアルタイムで眺めてきたのだ。
さらにベトナム戦争、フォークランド紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナのジェノサイド、湾岸戦争など、みんなわたしの時代に起こったことだ。
こういう経験の多さでは若い人たちよりマシだと思う。

だからいまの日本を見ると、黙ってはいられない。
太平洋戦争はわたしが生まれるすこし前まで続いていた。
子供のころ郷里の有名な寺院に行くと、門前で白い浴衣を着た傷痍軍人たちが、アコーディオンを弾きながら物乞いをしていたものだ。
野坂昭如さんの「火垂るの墓」は、まだ現実にわたしの周囲にあったのである。

いまの世間はなにも考えずに、わたしが生まれるまえに来た道をたどっているように見える。
戦争になればわたしが見てきた美しい日本、美しいこの地球を見ないまま、大勢の若者たちがあの世行きになってしまうだろう。
それはあまりにモッタイナイ。
わたしには家族がいないから放っておいてもいいんだけど、たとえ他人の子供や孫たちであっても、わたしが感動した美しい景色とやらを見せてあげたい。
余計なことは承知のうえで、わたしに残された(少しでも)意義あることといったら、経験から学んだことをつぎの世代に伝えるしかないのだよ。
あろうことか、運営者はわたしと同じ世代と思えるにもかかわらず、戦争を煽り、他人に対して憎しみを植えつけるようなブログもある。
わたしも古い常識をそなえた世代だから、忸怩たる気持ちもあるけど、残り少ない時間を考えると、そういうブログを名指しで非難するしかないのだ。

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なりふり構わず

もうなりもふりも構わないという今回のG7。
落ち目のトップばかりが雁首そろえて、ウクライナ支援を継続することで歩調を合わせたって。
仲良しクラブでまとめたアイディアが、制裁によるロシア資産の利子を没収して、ウクライナ支援に充てるということ。
法的に問題アリじゃないのという仲間の意見もものかわ、ほかに方法がないもんだから、強引にこれで話をまとめた。
プーチンは今日の時点では対抗策をとってないけど、とられたら困るというG7のメンバーもあるようだ。

だいたいなんでそこにゼレンスキーさんがいるの?
もはやウクライナ戦争でウクライナは名前を貸しているだけ、戦争は完全にG7とロシアの戦いに移行している。
メンツがからんで止めるにやめられないのがいまのG7だ。
こんな状況を、戦争開始時にいったいだれが予想しただろう。
岸田クンなんかやらんでもいいのに、ウクライナの難民を引き受けましょうと安請け合いした。
日本にウクライナ美人が増えてくれるなら異論はないけど、オレがオレがという粗忽な態度が許せないね。
いま自民党の支持率が最低というのも、自民党が悪いんじゃない、なにも考えずに、アメリカにしがみついていさえすれば間違いないという、見通しのあまい総理の姿勢のせいだろう。

『中露蜜月はなぜ堅固なのか? プーチンは習近平にスパイ極秘情報を渡していた』
なんてネットニュースの見出しを見たけど、スパイ情報なんてどうせ証拠がないんだろう。
それよりアメリカが中国のEVに100%の関税という記事を見れば、米国が中国に難癖をつけたがっていることはアホにもわかる。
ロシアが片づけば、つぎは中国ということもアホにでもわかる。
中国はロシアに代理戦争を戦ってもらっているようなもので、蜜月が堅固になるのは当然じゃないか。

同じウソでももっと上手につけないものか。
わたしがバイデンさんなら、中国をおおいに持ち上げ、もちろんEVは無関税で輸入し、ウクライナ戦争の決着がつくまで相手を油断させておいて、ロシアを片づけてからおもむろに中国と対峙する。
この程度の脳みそもないのか、アメリカ大統領には。
ないわけじゃあるまい。
これが民主主義国家の悲しいところで、つねに国民の顔をうかがわなければならない。
国内のいろんな勢力にまんべんなく色目を使わなければならない。
相手をおだてて油断させるなんて悠長なことはいってられないのだ。
とにかくここんところの西側は、なりもふりも構わないというわたしの見立てはおかしいかね。

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2024年6月13日 (木)

良識を

『アルメニア首相、ロシア主導の軍事同盟から脱退宣言』
これは昨日のネットニュースの見出し。
西側にしてみれば、ザマミロってつもりらしい。
こんなネタを見つけてきて騒いでいるのがアノ朝日新聞なんで、いまいち信用していいものか迷うけど、これこそプーチンが冷静で常識を備えた指導者である証拠だ。
アルメニアの首相であるパシニャンさんは、ナゴルノ=カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの争いで、ロシアが味方してくれなかったのが不満なのだ。
しかしプーチンがアルメニアに味方、具体的に兵器の支援などをしたらどうなるだろう。
アルメニアは元気づいて、アゼルバイジャンに徹底抗戦を叫ぶ・・・・と、これではウクライナと同じじゃないか。
ヘタすればかってのボスニア紛争と同じ、民族浄化という凄惨な殺し合いに発展するかも知れない。
アメリカなら兵器を売れるというので、紛争大歓迎、殺し合いなんか知ったことじゃないということになる。

こういう駄々っ子みたいなアルメニアを扱うのはむずかしい。
プーチンはアルメニアを支援しないかわりに、アゼルバイジャンにもそれ以上手を出すなと警告する。
アルメニアには見返りにエネルギー供給などで便宜を図る。
わたしにはこれ以上公平で平和的なやり方が思い浮かばないんだけど、アンタはどう思う?
パシニャンさんも国内の抗戦派の手前、ロシアへの不満をかたちにしないわけにはいかなかったんだろう。
紛争を拡大して、殺し合いの種を撒き、うん、朝日新聞ならそうやって野次馬記事のネタを増やして、部数削減を食い止めようという腹かも知れないな。
世間のみなさんは良識というものを忘れんといて。

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2024年6月12日 (水)

またありんくりんサン

ココログのありんくりんサンが「国境」についてご高説を垂れている。
尖閣諸島の領有権について、証拠となる過去の事例を持ち出して琉球のものだと断定し、その琉球(沖縄)は現在日本の領土だから、尖閣も日本のものだという論法らしい。
わたしも日本人だから、ここでは尖閣の地位については、どっちのものかという論争には加わらないけど、わたしがいいたいのは、ありんくりんサンのブログはカルト宗教みたいなものだから、注意しなさいということだ。

だいたい琉球はいつから日本の領土になったのだろう。
薩摩藩(鹿児島)が琉球を征服して(琉球征伐=1609)自藩領に組み込み、明治維新でそのまま日本政府が日本領土と勝手に宣言しただけじゃないのか。
琉球の歴史をヒモ解くと、ここはつねに日本につくか、中国につくかで揺れ動いていたことがわかる。
この問題は日本が清国との戦争に勝ったおかげで決着したけど、そのあいだ琉球は大国同士が頭越しに自分たちの運命を決めるのを、なすすべもなく眺めていただけだった。
国境というのはつねに強い国が勝手に引いたものだったのだよ。

沖縄が日本領だと主張するなら、中国がチベットや新疆に領土権を主張しても文句をいえない。
これらの土地は清の乾隆帝が征服した土地で、そのまま新中国が引き継いだものだから、沖縄の場合とそっくりだ。
ちなみに清というのは漢族の王朝ではなく、北方の異民族が建てた王朝である。

このことからもうひとつ、国境というのはなんなのかという問題が生じてくる。
長い歴史のなかで中国の国境はけっして永久不変のものではなかった。
よく知られている例を挙げるけど、ジンギスカンのモンゴル軍が中国(それどころか欧州の一部まで)を征服し、版図を大きく拡大したことがあるけど、この場合中国の国境はどこからどこまでといえばいいのか。
モンゴル軍が征服した場所はみんな中国領というのか、それとも一時的に中国の国境は消滅したというべきか。
ありんくりんサンは、国境というのはアメーバのように伸び縮みするものだということを知らないようだ。
アメリカだってアラスカやハワイを領土に組み込んだのは、そんなに古いことじゃないし、それどころかハワイを領土にするために、アメリカはそうとう残酷なことをした。

ありんくりんサンは、中国はかっての朝貢国をみんな属国扱いにしているというけど、歴史のなかにはチベットが強勢になって、逆に中国のほうが貢ぎ物を送った時代もある。
わたしは2005年に中国の青海湖へ旅をして、貢ぎ物としてチベットに贈られた文成公主の悲しみの記念碑を見てきたことがある。
なにか主張をするなら、歴史を大局的に眺めて、かならず公平で客観的であってほしいね。

そんなことは遠いむかしのことで、自分が話しているのは近代的な国際法で国境が画定された、最近の話をしているのだというかも知れない。
しかし領土問題に琉球を持ち出す時点で、ありんくりんサンが、少なくても明治維新後を問題にしていることは間違いがない。
近世のことだけを問題にしても、ありんくりんサンの説が閉鎖的で、せまい視点でしかものを考えてないことは、ここまで書いたとおりだ。
わたしは沖縄の基地問題にも触れないけど、彼の文章は恩着せがましいところがあって、沖縄県民の神経を逆撫でするようなところもある。
しかし日本は表現の自由が保証された国だから、ありんくりんサンがどんな信念を持とうと、それをブログで公開しようと、わたしに口を出す権利はない。
わたしが言いたいのは、彼のブログを読む人たちのほうに対して、彼はカルトの親玉みたいなものだからご注意ということなんだよね。

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中国の旅/また車窓より

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思いきり自転車で田舎を走りまわり、ウイグルについての認識を新たにし、何人かの忘れられないウイグル人と知り合ったトルファンと別れる日がきた。
と感傷的になっても仕方がない。
わたしはこのあと2000年と2002年の2回、またこの土地を訪ねて、“夢のトルファン”が短期間のうちに変貌するのを、目の当たりにすることになるのである。
生きているうちにその紀行記も書きたくてアセっているのだ。

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トルファン市内から駅へのバスは5元だった。
安い理由はすぐわかった。
途中で2回ほどエンコしたのである。
1回目は砂漠のまん中で、エンジンあたりでパンッと音がして、なにか配線がこげたらしく、キナくさい臭いがただよったものだから、乗客の中には停車した車から飛び降りた者もいた。
2回目はようやく駅のある町までたどりついて、バス駅まであと数百メートルというところだったけど、このときも運転手はエンジンカバーを開け、エンジンをなだめすかして、なんとかバス駅まで到達させてしまった。
こんな満身創痍でも、20人ほどの客を無事にトルファン駅に送り届けたのだから、運転手クンのプロフェッショナルぶり、そして車のタフさは称賛に値する。

トルファンの駅に着いたとき、わたしは胸のポケットに入れておいたサングラスがなくなっていることに気がついた。
蘭州で25元で買ったレーバンもどきのサングラスである。
2、3日で壊れてしまうだろうと思っていたのに、ずいぶんもったものだ。
日本に持って帰れれば、中国製品の安さ丈夫さを証明できたものを。
いずれにしてもわたしの目の充血は完全にひけていたから、サングラスの役割も終えたことになる。

駅でわかったことだけど、ホテル内の旅行社の娘が持っていた時刻表は間違っていた。
まさか旅行社の担当員の時刻表が間違っているとは思わないから、わたしのほうが間違っていると思っていたのに、列車の正式な発車時刻は15:48分だった。
わたしは駅へ2時間も早く着いてしまった。
駅の小荷物預かり所は、係員がメシを食いに行って不在だったから、ヤケになって荷物を下げたまま、わたしも近くの食堂でメシを食うことにした。
米飯とトマト、それに生卵をつけてもらって、ひさしぶりの和食である。
生卵を理解させるのに手間はかかったけど、なんとか持ってきてもらって、日本ならこれに醤油を1滴2滴というところだけど、中国の新疆の片田舎にそんなものはない。
テーブルの上をながめたら、無錫でも使ったことのある魚醤が置いてあったから、これを代用したけど、あまり美味しくなかった。
店の経営者は四川省出身という若い男性で、そういう人がよく新彊くんだりまで来て食堂を経営する気になったなと思う。
彼も新疆が景気がいいぞと踊らされて、一山当てようと乗りこんできた山師の類いだったかも知れない。

定刻にトルファンを出る。
こころに残るこの土地を、ゆっくり眺めている余裕はなかった。
発車してすぐに睡魔におそわれ、うとうとと寝入ってしまったからで、わたしは列車の中でなければ熟睡できない人間になってしまったのかしらん。

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18時すこし前、「鄯善」という駅で目をさましたら、右側に石油パイプがあって、炎が天をこがしていた。
遠方に石油タンクや精製プラントのようなものも見えて、このへんは本格的な石油掘削基地らしい。
このあと食堂車へ冷たいビールありましたっけと訊きに行く。
没有(ありません)である。
トルファンやウルムチで当たり前のように冷たいビールを飲んでいたので、列車内の過酷な現実を忘れていた。
食堂車のテーブルの上にはビールではなく葡萄酒が置かれていた。
それじゃ葡萄酒でも飲むかと、いくらと訊いてみると、すごい美人の服務員がなんとかかんとかといって売ってくれなかった。

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19時15分ごろ、右手に褐色の砂漠の中から赤い岩山が、ちょうど大海に浮かぶ小島のようにいくつも顔を出しているのを見た。
オーストラリアのエアーズロックをミニサイズにしたみたいである。
砂だけの本格的な砂漠こそ少ないものの、このあたりでは「さまよえる湖」に出てくる、メサやヤルダンという地形をふんだんに見ることができる。
初めて見る景色だけど、考えてみると往路でこのあたりを通過したのは深夜だったから、なにも見てないのである。
前方にテーブルロックのような岩山が見えてきた。
列車はそれをまっぷたつに切り裂いて、そのあいだを抜けてゆく。
岩山の断面をま近に見ることになるので、断層でも見えるかと思ったら、内部までことごとく乾ききった赤い岩だった。

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21時すこし前に満月が出ているのに気がついた。
太陽はまだ沈んでないけど、今夜は美しい月が見られるだろう。
ただし写真に撮るのはむずかしいし、いっしょに月を愛でる相手がいるわけでもない。
わたしは個室をひとりで占領していたのだ。

21時ごろ、線路のすぐ下の干上がった川べりに1軒の農家があるのを見た。
家のまわりにポプラの林があり、小さいながらも麦畑もあって、20頭ほどののヒツジが飼われており、まるでここだけで独立した小宇宙のようだった。
核戦争で人類が絶滅しても、きっとこの家だけでひとつの家族が生きていけるにちがいない。

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21時半ごろ、だいぶ景色はたそがれてきて、あと20分ほどで「ハミ」に着くというころ、腹がへったので食堂車に行ってみた。
この時間にはもう食堂車は閉まっていた。
それでもうまい具合にハミで停車中にリンゴが4つ手に入った。
うはうはだけど、リンゴはパサパサしていてあまり美味くなかった。
野菜はともかく、果物に関しては偏執狂ともいえる職人芸を示す日本人にはとてもかなわない。

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とっぷり日の暮れたハミ駅には、線路ぎわに夜間照明つきのテニスコートがあったけど、テニスをしている人はおらず、やけに虚しい光景だった。
停車中は蒸し暑いけど、走りだすと夜風がじつにさわやかだ。
ひと眠りしようと横になったものの、なかなか寝つけない。
えいっと飛び起きて部屋の明かりをすべて消し、まっ暗な中でしばらく月をながめる。
夜景を見つめて、また若いころ、自衛艦に乗って何度もながめた夜の海を思い出した。
  ああ おまえはなにをして来たのだと・・・
     吹き来る風がわたしにいう
あれは中原中也の詩だっただろうか。

人間は夜になったら寝なければならない。
昨夜は扇風機がひと晩中まわりっぱなしで、最初はよかったけど、夜中になってからうるさいのと寒いのでうんざりした。
おまけに夜中にドアにはめられていた鏡が割れて(もともとヒビが入っていたのだが)、起きると床に鏡の破片が散乱していた。
ちょうど「玉門」に停車中で、ガラスを踏まないよう注意しながら窓の外をうかがうと、今朝は薄曇りで、空気がひんやりしている。
トルファン盆地のまとわりつくような暑さとはお別れのようだった。

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列車が走り出すと、右側に並行して街道も走っており、40分ほどで沿線に火力発電所やアパートの見える「嘉峪関」に着いた。
ここでキュウリとカップラーメンを買う。
ラーメンは中国のベストセラー「康師傳」というやつで、食欲のないわたしなのに、カップラーメンだけは不思議と食欲をそそられる。
この日の朝食はカップラーメンとキュウリ、前日に買ったまずいリンゴ、それに水でおしまいだ。

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このへんは駅と駅の間隔がせまいようで、カップラーメンを食べ終わったころ「酒泉」に到着して、ここで欧米人のバックパッカーが下車していった。
酒泉(Liquor Fountain)という駅名は欧米人にも興味を持たれるのだろうか。

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酒泉を発車すると右側に、往路で見た祁連山脈が壁のように連なっている。
広い河川敷のような場所があって、そのまわりの荒れ地のあちこちに羊飼いがいた。
ヒツジはロバとちがって、農作物でも平気で食べてしまうから、もっぱら農地からかなり離れた原野で放牧されているのだそうだ。
敦煌の郊外で、夕日をあびながら三々五々家路につく(らしい)ヒツジたちをよく見かけたから、わたしは羊飼いが夜は家に帰るものとばかり思っていた。
ところがアイプ君やアサンサンらによると、羊飼いたちはヒツジとともに野宿の場合のほうが多いそうである。
ということはそうとうに人間社会から隔絶した孤独な職業ということになり、羊飼いが雌のヒツジを追いまわす西洋のジョークも納得。

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2024年6月11日 (火)

菖蒲祭り

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今日は梅雨のあいまの好天気。
東村山で菖蒲祭りをしているというんで、自転車で出かけてみた。
平日だったので見物人は、のんびり見てまわるのにちょうどいい込み具合。
写真バシバシというところ、枚数が多いから組み写真にしてしまった。

いっしょに行った知り合いと、ショウブ、アヤメ、カキツバタの違いについて語り合う。
現地でウィキペディアを調べてみた結果、乾いた土地でも生えるのがアヤメ、田んぼみたいなところに生えるのがショウブ、池みたいなところに生えるのがカキツバタというアバウトな結果を得た。

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オウンゴール

ここんところのヨーロッパ、EUは大混乱じゃないか。
わかりにくいのはEUの選挙に、マクロンさんのフランスも議会を解散・総選挙と、選挙が重なったせいだ。
EUの選挙というのは例のロシア憎しで固まったヨーロッパの27カ国による選挙で、予想される結果は極右政党の大躍進で、ウクライナ戦争の先行きはまるで見通せなくなったそうだ。

そういう事情でいまは取り込み中だから、後にすればいいものを、マクロンさんは議会を解散してフランスも選挙をするといいだした。
日本の自民党を見ればわかるように、ふつうは世間の評判が悪いときは、赤っ恥をかきたくないから選挙はできるだけ先延ばしにする。
マクロンさんの政党の場合、評判はけっしてよくないのに選挙とはいい根性だ。
でも、それでわかったことがある。
ここんとこのマクロンさんが、ウクライナに兵士を派遣するとか、ミラージュを供与するとか、やたらに元気がいいのも、ウクライナ支援という世間のポピュリストたちに受けのいい政策で、なんとかアホたちをだまくらかして、人気を挽回しようというのだろう。
ところが全く効果がないばかりか、時間の経過とともに支持率の差は開くいっぽうだ。
ついにあきらめて議会を解散、総選挙に踏み切った(選挙は6月30日に第1回、7月7日に第2回)。
これはヘタすると議会のねじれ現象を生む危険な賭けだそうだ。

そのあいだにロシアでは、加盟国がさらに増えたBRICSの外相会議。
西側にとっていい報道はまるでない。
NHKはあいかわらず西側の制裁が効果があると信じきっているし、ゼレンスキーさんはスイスで、戦争の一方の当事者が不参加の和平会議だそうだ。
ゴタゴタしてるのは西側だけで、ロシアも中国も静観のかまえ、プーチンが何もしないのに西側のオウンゴール。
追いつめられている西側はぜんぜん危機感がない。
なにも知らされてないのは日本だけ。

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2024年6月10日 (月)

またありんくりんサン

おいおい、「農と島のありんくりん」サン。
わたしはあなたのブログの熱心な愛読者だけど、今度は沖縄か、それともまた沖縄か。
わたしは沖縄には、自然科学の分野以外、あまり関心がないんだけど、アナタの記事を読むとむちゃくちゃな論理だなということぐらいわかる。
反論しようかと思ったけど、わたしも忙しいんだ。
今回はひとつだけ軽く触れておこう。
たとえば空港や港湾を整備しさえすれば、離島を含めた沖縄県民をすべて避難させられると、本気で考えているのか。
戦争では相手もあることで、赤十字の旗でもつけておけば、相手が見逃してくれるかも知れないけど、いまはそういうことが起こらないように努力をするべきだろう。
台湾有事に備えるなんていったら、相手に無用の警戒心を抱かせるだけじゃないか。
県民の命を預かるデニーさんが、反対するにも一理あるとは考えないのかね。
とにかく相手の立場も理解して、公平客観的な主張をしてくれたまえよ。

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2024年6月 9日 (日)

日露関係

ちょっとまえに鈴木宗男さんが岸田クンに、露ウの和解を目指すべきではないかと質問した。
日本はロシアと直接の対峙はしていないんだから、全面戦争中のEUやNATOにはいえないことでも、日本ならいえる。
西側先進国のなかではゆいいつ、露ウの調停者としてふさわしいので、宗男さんはそういうつもりでいったのだろう。
これに対して、岸田クンは木で鼻をくくるような、まさに官僚答弁の見本のような返事をした。
もしも岸田クンが調停に乗り出し、多少でも事態を動かせれば、彼の名は日本の名宰相として歴史に刻まれたに違いないのに、自分の言葉で返事をしなかったことで彼はその権利をみずから放棄した。
自分の意思ではなにも決められない政治家ばかりだなんて、日本の悲劇も極まれりだな。

ロシアではプーチンのふたりの娘がそろって表舞台に登場だ。
さっそく権力移譲はケシカラン、娘の口座に資産を蓄えているなどと中傷を飛ばす輩がいる。
権力移譲なら日本だってそこいら中の政治家がやってるし、本人が優秀ならだれが後を継いでもかまわんではないか。
プーチンの娘は、中傷を飛ばすたいていの卑小な輩より頭がよさそうだし、日本語で返事もできるんだぜ。
ウクライナ戦争がなければ、彼女も日本にやってきて、おおかたのユーチューバーのように、寿司が美味しい、コンビニが便利だ、新幹線が素晴らしいと日本の宣伝にひと役買っていただろう。
役人が書いた原稿を読むしかない日本の政治家おばはんより、ずっとマシじゃないか。

ああ、また晩飯まえにひとつ更新しちゃった。
先が短いもんだから、わたしの物書き本能がうずいてうずいて。

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今日の人質

パレスチナで4人の人質が解放されたそうだ。
これについて西側では歓迎する国もあるみたいで、イスラエル軍の武力行使にはずみがつきそうだけど、あんまり性急な判断はしないほうがいいね。

イスラエル軍は、かまわん、地下にいる人間は見つけ次第に殺してしまえという乱暴な作戦をとっていて、おかげでパレスチナ人の犠牲が210人も出ているそうだ。
かりに210人の半分だとしても、4人を取り戻すために100人以上を殺したのなら、けっしてほめられた作戦ではない。
過去にはじっさいにイスラエル軍の攻撃で、まきぞえをくらって死んだと思われる人質もいたんだ。
今回の人質が味方であるはずのイスラエル軍の弾に当たって死ななかったのが、せめてもの神のご加護というべきで、ひよっとするとそれ以上の人質が木っ端微塵になっているかも知れない。

ハマスの攻撃からもう8カ月も経つ。
それにしては人質はヘリコプターから自力で降りてきたし、みんな元気そうで、人道的に扱われていたことがうかがえる。
うれし涙の女の子なんか以前と体重も変わってないみたいで、レイプされたわけでもなさそうだった。
英国のBBCはハマスが襲撃したとき、レイプをしたあきらかな証拠があるなんていっていたけど、証拠は提示されず続報もない。
だからわたしは英国の報道は眉にツバつけて見ろと、何度も繰り返してるんだけどね。
またおまえのヘソ曲がりが始まったなという人がいるかも知れないけど、こんなデタラメが蔓延している世界では、報道映像を穴があくほど吟味することがダマされないコツさ。

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中国の旅/トルファンの夜

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1997年のトルファン紀行も終わりに近づいた。
ここではお待ちかね、トルファン賓館で見たウイグルのダンスをずらりと並べよう。

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わたしはトルファンの葡萄園からホテルにもどった。
アサンサンが葡萄園に寄ったから50元増しですという。
ふざけんなとわたし。
葡萄園を見にいくとき、はっきり“全部で”とことわってあったのである。
靴みがき攻略方法がこんなところで役に立ったわけだ。
ああだこうだとやりとりし、けっきょく朝のパン代を立て替えてくれた分、また観光地での駐車場代の立て替え分ということで、10元プラスで手を打った。

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ホテルへもどり、予約しておいた明日の列車の切符を受け取りにフロントへ行く。
切符の手配は客快軟臥というやつで、張掖まで合計273元だったから、先に払ってあった450元の押金でおつりをもらう。
旅行社の例の痩身の漢族女性は、おつりの中にあった7元の半端で絵ハガキを買いませんかという。
一見したがつまらない絵ハガキで、いくらか稼ごうという魂胆がみえみえだから、わたしは自分で撮った写真が山ほどありますといって断ってしまった。
あとでヨーグルトを飲んでいたらこの娘が自転車で通りかかった。
下班(仕事終い)ですかと声をかけると、絵ハガキが売れなかったのがくやしかったのか、ぷんという顔で通りすぎていった。

切符を受け取った帰りに、ついでにフロントて両替をと頼んだら、係りの女の子が680元でよければという。
やれやれとわたし。
彼女は美人だけど、手数料をピンハネしようとしていることは間違いがない。
1万円が700元を下まわることはまずないはずだからである。
あとでバザールに行くとちゅう、銀行に寄って1万円を両替してみると、さすがに銀行で、714元とコインまでつけてくれた。

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本館のフロントから、いったん部屋へもどる。
別館のわたしの部屋へもどるにはどうしてもプールを横目にしなければならない。
ちょっと気になったことがあって別館の服務員に、ウイグルの女の子も平気で水着になりますかと質問してみた。
質問の意味をよく理解してもらえず、ああだこうだと苦心していたら、たまたまとなりにいた客の女性が中国語ぺらぺらの日本人で、通訳をしてくれた。
服務員の娘は漢族なので水着は平気だそうである。
イスラムの戒律はここではそんなに厳格ではなく、ウイグルの娘でも水着で泳ぐ子はいるという。
残念ながら、わたしがトルファンにいるあいだそれを見る機会はなかったけど。

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バザールへ行く。
この日はずっと薄曇りで、たまたま風が強く、砂塵が舞い上がって目も開けていられない。
風は熱風で、バザールでは天幕がはためいて、みんな結縄に大わらわだった。
それでも出かけたのは、ここには短刀を売っている店があったので、ひとつ買っていこうと、わたしはまえから目をつけておいたのだ。
ウイグルの民芸品というか、羊ののどをかっ切るための実用品というか、トルファンやカシュガルには手作りナイフの製作で有名な土地もあるという。
ここで買っておかなければ買いそびれるだろうから、わたしは値引き交渉をし、2本80元で買った。
ほんとうはもっと安いのかも知れないけど、製造原価がいくらなのかわかるわけはないし、80元は1100円あまりではないか。
日本でちょっときれいな民芸品の短刀(本物の鋼鉄製だ)2ふりをその値段で買えるだろうか。
ひとつは柄の部分が(ホントかウソか知らないけど)銀だということで、もうひとつは柄の部分に象眼がほどこしてある。
この文章を書いているとき、ためしにネット通販をのぞいてみたら、わたしが買ったのと同じようなナイフが1本9千円以上で売られていた。

そのあとバザールでまたトマトとウリを買う。
さてと、わずか5、6百メートルでもこんなものをぶらさげて帰るのはしんどい。
まだロバタクシーというものに乗ってないから、いい機会だ、ひとつ乗ってみてやれと市場の中を見渡してみた。
すると、ちょうどひとりのおじいさんがよろよろと、ラバ(ロバではない)タクシーの荷台に横になろうとするところだった。
見るからに西域の少数民族を思わせる白いヒゲに帽子のじいさんである。
おじいさんよ、トルファン賓館まで行かないか、5元でというと、とたんにおじいさんは飛び上がってしゃっきりした。
5元は払いすぎかも知れなかった。
そのかわりおじいさんは歌などうたって大サービスで、蘇公塔までドライブしようという。
彼のラバは10歳だとか。
そういえばラバはヘチルだとアサンサンが教えてくれたっけ。
わたしはこの従順で、有益で、けっしてそのへんの野菜を無断で食べようとしない動物に同情していたから、彼のためにもう1元ふんぱつした。

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ホテルにもどってすぐとなりのJhon's CAFEでメシを食う。
肉料理でも西洋ふうなら食べられるかなとビフテキを頼んでみた。
ビフテキといっても牛肉の細切れをタマネギといっしょに炒めた鉄板焼きもどきで、やはり全部は食えなかった。
ここにウーマ君がいて、彼と最後の会話をした。
彼は21歳だそうで、トルファンには高校まではありますが、大学はウルムチですなどと教えてもらう。
話をしているうちわたわたしは、ウーマ君のしめているベルトのバックルにウイグル文字らしいものが刻まれているのに気がついた。
おい、それ、わたしのベルトと交換しないかと申し出てみた。
いいですよといわれて交換してからよく見たら、刻まれていたのはウイグル文字ではなく、マールボロのロゴマークだった。
なんだ、おい、だめだよこれじゃといって、この砂漠の交易はおじゃんである。

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部屋へもどってワープロを打ちながらまた寝てしまう。
まあまあ寝られたほうだけど、日本に帰国したあとで完全に体調をくずすというイヤな夢を見た。
この部屋ではどういうわけか熟睡できない。
誰か首でも吊った先客がいるんじゃないか。

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目をさましたのが21時半ごろで、ふらふらとプールわきの民族舞踊を見にいく。
この夜は料金を払わない無賃見学である。
わたしは1997年のあと、2000年にもトルファンを再訪問しているので、ここでは両方の写真をごちゃまぜにしてひとつに並べてある。
1997年のときは、ダンサーは男3人女6人で、このほかに司会をしながらたまに歌を歌う女性が1人いた。
伴奏は、かんたんな構造の太鼓が1、弦楽器が3、笛が1、アコーディオンが1、そして両手に持った耳かきみたいなもので弦をはじく卓上型の弦楽器が1の7人編成だった。
3つある弦楽器はそれぞれ大きさが異なり、指もしくはピックではじくものが2、弓で弾くものが1である。
見ていて太鼓がいちばん簡単かと思ったけど、とてもとても素人には真似できない名人芸を見せていた。

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2000年のときに思ったのは、あいだに3年という歳月が流れていても、ダンサーたちの顔ぶれはあまり変わっていないなということ。
ただ前回は男性の中にリーダー的存在の人がいたのに、このときには見当たらず、楽士たちは4人に減っていた。
多少のメンバーの移動はあったけど、あいかわらず変わらないのは、スカートの下にズボンというイスラム・ファッションの魅力である。

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2024年6月 8日 (土)

国際経済会議

ノルマンディー記念式典のつぎは、ロシアで国際経済会議の話題だ。
西側先進国は軒並み欠席だそうである。
どうだ、困っているだろうというのは、その西側先進国だけで、ロシアはぜんぜん困らない。
テレビで観ると、会議場はBRICSやグローバルサウスの国で満員の盛況だ。
ハンガリーなんかEUに加盟していながら、ロシアのエネルギーがなければウチは困りますと、どうどうと西側に叛旗をかざす始末。
メンバーさえ増やせばいいというEUの欠陥がもろに出たな。

この会議を見て、ああ、くそっという日本企業の嘆き節が聞こえてくるようだ。
トヨタもユニクロも苦労して開発したロシアの販売網を、政府の命令で泣く泣く手放した。
先進国のなかで、まあ、アメリカが大口の購買力を持っているだけで、ほかの先進国は似たようなもの。
いまでは中国、インド、ロシアだってそれなりの購買力を備えているんだし、そんな美味しい市場を投げ出せというんじゃ、企業から見れば長年の地道な努力をパアにしろといわれているようなものだ。
日本の政府は国民のためにあるんじゃないのかと、企業からすればハラワタが煮えくり返る思いだろう。

しかも先進国が撤退したあとに、ロシアに入ってきたのが中国だ。
昨日まで日本企業があった店舗に、今日からは中国のメーカーの店舗が入っているのだ。
文句をいうわけにはいかない。
中国だって軍事力を行使してロシアにある日本企業の販売網を奪い取ったわけじゃなく、日本が勝手に出ていっただけだ。
敵に塩を贈る、それもノシつけてというのはこういうことをいう。
国が落ち目のときはこんなものだろうけど、一方に地道な努力をする企業があり、もう一方にそれをいとも簡単にぶっ壊そうとする政府がある。
ロシアの国際経済会議は、それをはからずも暴露したように思えるな。

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マッチ棒

負けがこんできたせいか、ここんところの西側の姿勢は目も当てられないね。
ノルマンディー記念式典にロシアを呼ばなかったって。
ま、ノルマンディー上陸作戦には、ロシアは参加してなかったから別にかまわないけど、ベルリン解放記念日はどうするんだ。
こちらは第二次世界大戦で最大の死者を出したロシアが主役で、しかもいまヨーロッパの盟主みたいな顔をしているドイツが敵役だ。
ショルツさんはベルリンの仇をウクライナで晴らそうってのか。
イスラエルだってパレスチナで弱いものいじめをしてないで、大虐殺をしたドイツ相手に戦えば、もうちっとは世界から理解を得られただろうに。

バイデンさんはまたウクライナに2億ドルあまりを支援するそうだ。
ゼレンスキーさんは嬉しそうだけど、ここでわたしがバイデンさんの腹のうちを解説してみよう。
おー、よしよし、とバイデンさん。
ここで降伏なんかされちゃ困るからな。
もっともっと戦争が長引くように小出しに金を出してやるから、頑張るんだぞ。
そしてせっせと同じスラブ人同士で殺し合ってくれ。
どっちが勝とうと、ウチらはアメリカ製の武器で、生意気なスラブ人の数が減ってくれれば文句ないんだから。

プーチンはバイデンさんの腹のうちをよく心得ていて、スラブ人同士の意味のない戦争をさっさとやめたい。
それなのに西側(とNHK)には、プーチンは自らの権力欲のために戦争を引き延ばしたいのだという意見がある。
しかしその西側(とNHK)が、ロシアはミサイルが不足している、戦車が足りない、、兵士の戦死が30万だ、40万だ、長い戦争に国民の士気は減退していると悲観論ばかりだ。
それが事実なら、そういう状態で戦争を引き延ばしたいと考える指導者がいるか。
西側(とNHK)の言い分は、冷静に考えると矛盾ばかりなのだ。
ゼレンスキーさんは国民をどんどん死なせて、心中穏やかじゃないだろうけど、ここまで来ると自分の命を守るためにも戦争をやめられない。
戦争をさんざん長引かせたあげく、ゼレンスキーさんがウクライナ国民の手で柱に吊されても、バイデンさんはマッチが1本消えたかってなもんだろうね。

そしてつぎは台湾で同じことをやろうと考えている。
肝心の台湾国民がなかなかその気にならないのが問題だけど、日本人はヤル気まんまんだからな。
ちょっと擦ればすぐに火のつくマッチ棒、今度は日本に頑張ってもらわなくちゃ。
そうして米国の武器をじゃんじゃん売りまくって、兵器産業から献金をがっぽがっぽ・・・・こんな美味しい仕事はやめられんよ。
なんとかつぎの大統領選にも勝たなくちゃ。

今日のネットニュースに、プーチンの娘がインタビューに日本語で応答したって記事があった。
わたしがいった通り、プーチン一家は日本びいきなんだよ。
将来中国と対峙するつもりがあるなら、腐敗国家のウクライナより、ロシアを味方にしておくべきだったんだ。

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2024年6月 7日 (金)

ああ、それなのに

もしもわたしに花壇の手入れ、自分が蒔いた種から花が咲くのを見守るという趣味がなかったら、むかしの旅のメモを引っ張り出して、中国の思い出をつづるという趣味がなかったら、そしてウクライナ戦争が始まらず、世界が平穏のままだったら、あるいはNHKが公平客観的な報道ばかりしていたら・・・・うーんと、考えるんだけど、わたしの人生はつまらないものだっただろうねえ。
スポーツは苦手だし、カラオケもだめ、博打も切手集めもやらないし、ふつうなら老後の趣味なんてなにもなく、本ばかり読みすぎて、いまごろは芥川龍之介みたく、人生に悩んでさっさと首でも吊ってるワ。
それなのに、ああ、それなのに、今日もふつふつとたぎる血を抑えかねて、わたしってよっぽど奥手なのよね。

今日も世間にブウたれようと思いましたが、NHKもSNSも、上下左右のあらゆるものがケシカランものばかりで、とても手に負えませんでした。

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2024年6月 6日 (木)

中国の旅/ウイグルの少女

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つぎに「高昌故城」へ行きましょうとアサンサンがいう。
どこでもいやとわたしは答える。
帰国してから調べてみたら、高昌故城は、魏、晋、南北朝から元の始めまで栄えた古い城郭都市の廃虚だそうである。
わたしの好きなロック歌手のジミ・ヘンドリックスに「砂のお城」という歌があるけど、そんな余計なことは抜きにしても、やはり土の城は空しさの象徴だ。
周囲2、3キロはあるだろうか、土塁にかこまれたかっての城郭都市は、最後に敗亡してから800年、ほとんどの建物が風雨に侵食され、今は建物のおおざっぱな外観を残すのみだった。

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というのは1997年にわたしが見学した当時の印象で、最近のこの遺跡は中国の重要文化財に指定されて、ネットで調べると細部にいくらか手が加えられているようだった。

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わたしはうろうろと、かって殷賑をきわめたはずの廃墟のあいだを歩きまわった。
塔のようなものがそびえていたり、塀に門だったらしい穴があいていたりする。
そうした廃墟の足もとに小さな野草が花をつけていた。
その根もとには後ろ足の内側が赤いトカゲがはいまわり、あちこちの土のうえにすり鉢状にくぼんだアリジゴクの巣があった。
そのうちわたしは土の中からいくつかの陶器のかけらを拾い出した。
これは探せばいくらでも見つかるので、小さな破片でも、この街がまだにぎやかだったころのことを彷彿とさせる。
陶器が割れた原因は戦乱だっただろうか、それともたんなる夫婦喧嘩か。

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この故城を月の晩にでもゆっくり歩けないものだろうか。
ふとそんなことを思ってしまった。
月光の下に黒々とそびえる廃墟のあいだを、瞑想にふけりながら歩けば、いにしえをしのぶのにこれほど素晴らしい舞台はない。
オープンステージで、月夜の晩のオペラなんかも似合いそうだ。

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高昌故城の近くに、現在も人間が生活を営んでいる小さな村があった。
好奇心につき動かされて通りをぶらつくと、ハメルンの笛吹きのように子どもたちがぞろぞろついてきた。
この村にもモスクがあり、近くにカマボコみたいなかたちに土を並べた墓地もある。
ある家では日干しレンガを道路にならべて乾燥させていた。
この地方では水で練ったレンガが、乾けばそのまま建築材料に使えるとなにかの本で読んだことがあり、これがそうかと思う。
べつの家では女性が布団の綿の打ち直し中で、土の廃墟の高昌故城よりこういうもののほうがよっぽど興味をひく。

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高昌故城のつぎは、「アスターナ古墳」を見に行きましょうとアサンサンはいう。
行ってみたら、ただの大きな土饅頭がいくつも盛られているだけで、しかもほかにも団体客が来ていた。
わたしはどういうわけか、墓を見るのは好きなほうで、ロシアに行ったときはモスクワにあるノボデヴィチ墓地をわざわざ見物に行ったくらいである。
ロシアの墓には故人をしのべるよう顔写真つきというものが多かったし、かたちも彫刻のようにバラエティに富んでいたから、ぼうっと空想にふけるには都合がよかった。
こちらはただの土盛りだけなので、ぼうっとしようがない。
まえの観光客にくっついて、せまい通路を押されながら歩くのもまっぴらなので、入ってみるのはやめてしまった。
最近の写真で見ると、寺院のような建物や、十二支の動物をかたどった石像が立っていて、洛陽でみた古墳博物館のようになっていた。
古い墓を観光用に改築するのはかまわないけど、トルファンで十二支なんか見たおぼえがないから、これもわたしが行ったあとで出来たのではないか。

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つぎに行ったのは孫悟空の話にも出てくる「火焔山」である。
といっても雨に侵食された、植物など1本も生えてない岩山なので、はなれた場所から眺めるだけだった。
火焔山についてはまたウィキペディア。

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悟空というと最近はドラゴンボールのほうが有名らしいけど、わたしは子供のころオリジナルのほうを読んだことがあるので、孫悟空はここで鉄扇公主と、その亭主の牛魔王と闘ったはずだよなと思う。
中国は西遊記の本場だから、最近ではこのあたりに孫悟空や三蔵法師の像が乱立しているらしい。
鉄扇公主なんか観光客におっぱいを揉まれて、その部分だけ銅像の色が変わっていた。
わたしが行ったときはまだそんなものをひとつも見た記憶がなく、火焔山は天然自然のままで焦熱地獄を象徴するようにそびえていた。
そのほうがずっとよい。

登っても楽しくなさそうな山だけど、登山に凝っていたこともあるわたしは、てっぺんまで行ってみたいと思った。
空気が乾燥しているせいで見通しはよく、水をたっぷり用意して足まわりを固めれば、2、3時間で登れそうに見える。
てっぺんからどんな景色が見えるだろうと、好奇心だけは当時もいまも強いのだ。
習近平さんの肝煎りで、この山も現在は観光開発されてるそうだから、そのうちロープウェイができて楽に登れるようになるかも知れない。

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火焔山ともうひとつの山にはさまれた場所が峠になっていて、ここに茶屋があったから、車を停めてイップクした。
侵食された赤い2つの山に挟まれた峠は相当の迫力である。
それで十分だった。
アサンサンがしきりに、タクラマカン砂漠を見に行きましょうと誘うけど、これに応じると300元ですまなくなるのは確実だし、なんとなくおかしい体調をかかえたわたしはもう帰ることにした。
アサンサンらにしてみればもう仕事は終わったようなものだけど、これでは金を取れないと考えたのか、観光葡萄園に寄って行きませんかといいだした。
まだブドウには早い時期だけど、わたしもブドウは嫌いじゃないから、いちおうのぞいてみるかという気になった。

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葡萄園までは交通量の多い(ほかの道路に比べれば)街道を走った。
これはトルファンと他の都市を結ぶ国道らしく、とちゅうで右手の砂漠の中にいくつかやぐらが立っているのが見える。
石油の掘削だというんだけど、精製プラントがあるわけでもなく、わたしにはまだ試掘の段階に思えた。
また砂漠の中にいく本かの水路があって、けっこうな勢いで水が流れていた。
たいして幅広い水路ではないけど、これだけの水を遠方の山からひいているとしたら、相当量の水をたえず補給していることになる。
さもなければ水は炎天下で長距離を流れるあいだに、ちょうど火星の運河のようにみな蒸発してしまうだろう。
そういえばトルファン盆地の衛星写真は、火星の地形によく似ている。

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わたしたちの車はブドウ畑のたくさんある部洛にわけ入った。
部落の高台に、レンガをすかし戸のように組んだ四角い建物がたくさん建っている。
秋になるとあそこで干しブドウを作りますとアサンサンが説明する。
トルファンは葡萄で有名だけど、日本のようにそれを観光農園にすることを最初に考えついたのは誰だろう。
保守的で伝統重視のウイグル人だけで思いつくようなアイディアと思えないから、日本の真似をしたのかも知れない。
そう思いたくなるほど、大きなブドウ棚の下に土産もの屋やテーブルが並んでいるようすは、日本の勝沼あたりの葡萄園によく似ていた。

このあたりのブドウは粒がいくらか瓢箪型にくびれているなと、つまらないことに感心したものの、まだ実の熟す時期ではないから、食べられないブドウを見ても仕方がない。
通りいっぺんに眺めて帰ろうとしたら、園内のレストランで、麺を水でさらしているのが見えた。
わたしは日本の冷やし中華が大好物である。
ほかのものは食欲がわかないので困っていたときだから、ここで冷麺を食べていくことにした。

縁台に座って冷麺を待っていると、中学生くらいの店の女の子がしきりにわたしを見る。
目の大きなかわいらしい子で、彼女がトマトを洗っているときに、わたしが食べたそうな顔をすると、ニコニコしてすぐ持ってきてくれた。
トマトを食べていると、今度は近くで本をひろげて勉強を始めた。
わざとらしい行動に見えたから、ナニ読んでいるのと訊くと、わきへよってきてウイグル語の教科書を見せてくれた。
キミいくつと訊くと15歳と答える。
日本人の15歳に比べるとえらく幼く見えたけど、この店では彼女だけが、いくらか漢語を理解できるらしかった。
彼女が文字を書くのをながめていると、ボールペンを左手に持って、右から左へと書いてゆく。
漢字を書くときはもちろん左から右である。
日本人は上から下へ縦に書くよと教えたら混乱するだろうな。

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この少女の名前はシーズワンといって、写真を撮ったのでいちおう住所を聞いておいた。
住所となるとシーズワンの手におえないらしく、彼女は近所へ走っておとなにこれを書いてもらってきた。
店には女性と、サモア人のようないかつい顔をした男性が働いていた。
彼はお兄さんかいとシーズワンに訊くと、ええと答える。
それじゃあっちの人はお母さんかいと訊くと、あれはお姉さんと答える。
やばいと思ったけど、お姉さんには漢語は理解できてないようだった。
出てきた冷麺には炒めた野菜がのせてあったから、日本の冷し中華とはだいぶ違っている。
それでもこれがここ数日来、わたしがなんとかまじめに食べ終えた食事になった。

わたしは3年後の2000年にもういちどトルファンを訪問し、この娘と再会することになるけど、その紀行記はつぎの機会に(それまで生きていれば)。

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2024年6月 5日 (水)

またありんくりんサン

ココログの「農と島のありんくりん」サンが天安門事件について書いている。
あいかわらずこの人の、自分に都合のいい情報だけを引っ張ってくる姿勢は変わらないな。
わたしはいま自分のブログで中国紀行を連載しているくらいだから、ずっとむかしから中国にも関心があって、大きな事件は見逃さないようにしてきた。
天安門事件というのは、はたして西側が主張する通りのものだっただろうか。

中国政府が自国民に銃口を向けたという大きな事件だったので、わたしは当時の新聞や週刊誌を可能なかぎり集めて、死者数を数えてみた。
同じ死者の写真は何枚あっても死者1という具合だ。
そうやって数えてみると、言われているほど死者の数は多くない。
と、わたしが言っても仕方がない。
わたしはジャーナリストじゃないから、写真を集めるといっても限界がある。
ただ素人ながら、そこまでやってみようとしたということを言いたいのである。

ご存知のように中国という国は、内乱で国がひっくり返ったということが数えきれないくらいあった。
当時の最高実力者の鄧小平も悩んだはずだ。
彼は中国を近代化しようと改革なかばの状態で、できることなら前途有望な若者たちを死なせたくない。
しかし天安門のデモ隊の勢いは衰えるどころか、激しくなる一方だ。
これは西側が影で支援していたのだとまではいわないけど、学生たちは親のこころ知らずで、図に乗りすぎたのだろう。

鄧小平がデモ隊を殺戮する気がなかったことは、皮肉なことに、戦車男として有名になった男性が証明している。
あのときの映像を見ると、戦車は立ちふさがる男性を、舵をきって迂回しようとした。
しかし男性は自分の位置を変えて、あくまで戦車のまえに立ちふさがった。
はじめからデモ隊を虐殺するつもりなら、そのまま轢き殺してしまえばいいではないか。
なぜそうしなかったのだろう。
デモの指導者だったウアルカイシや王丹、柴玲などはどうしてやすやすと国外に逃亡できたのだろう。

それ以上に重要なのは、あのとき鄧小平が騒乱を、武力を用いても排除しなかったら、その後はどうなっていただろうということだ。
NHKは無視しているけど、天安門を鎮圧したおかげで鄧小平の改革はそのまま続行され、中国は世界第2の大国になり、中国人は物質的にも精神的にも豊かになった。
精神的というのは、かって世界から馬鹿にされていた中国人が、それを脱却して、欧米人にも誇りをもって対抗できるということを見せつけたということだよ。
ウアルカイシなどは、その後の繁栄した中国を見て、国にもどりたいとハンストまでした。

問題は物事を全体的に捉えず、西側の報道をそのまま鵜呑みにして、不思議とも思わないありんくりんサンの姿勢だな。
彼はBusiness Insiderという西側のメディアを引用しているけど、わたしにとって新しい事実はなにもなかった。
この件についてはわたしのほうが後出しだから有利なのはいうまでもない。
だから反論があったらどうぞコメント欄に書いてくれ。
最近のわたしは他人の名前をあげつらっても、間違いは間違いと指摘するつもりだ。
もう残り時間が少ないし、わたしみたいなじいさんが言わなかったら、いったい誰が言ってくれるんだ。

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2024年6月 4日 (火)

今日のNHK

インドの総選挙でモディさんの政権与党が圧倒的に優勢だそうだ。
つねづねBRICSの一員であるインドに反感をおぼえているNHKは、なんとかケチをつけようとする。
しかしモディさんが勝つのは当然だ。
いまやGDPが世界3位になろうかという経済成長の国で、国があきらかに豊かになっているのに、アメリカや日本(NHKも)を手玉にとるモディさんに、インド国民がケチをつける理由がない。
野党は、若者の失業や貧困対策、所得格差の増大を挙げて攻撃するけど、そんなものが一朝一夕に変えられるはずがないことは、これまで長くカーストという階級制度をかかえてきたインドの場合は、とくに切実にわかるだろう。
野党の主張のなかに、モディさんは最大多数のヒンドゥー教ばかり優遇して、イスラム教徒やその他の民族を冷遇しているというものがあった。
ということは野党の支持者はイスラムなのか。
だとしたら、これは完全に選挙政策の失敗だ。
ヒンドゥー教徒が最大多数の国民だといってるんだから、民主的な選挙をすればするほど、ヒンドゥー教の政党が勝つに決まっているではないか。

今日の国際ニュースではまた天安門が取り上げられていた。
35年も放っておいた事件を、台湾有事のいまこそ持ち出さなければ、いつ取り上げるんだという調子だ。
しかしこの事件を乗り越えたおかげで、中国は世界第2の大国に発展し、学生たちを抑え込んだ鄧小平の夢も実現したわけだから、やむを得なかったという意見がいまでは大勢だ。
息子が天安門で死んだという父親が、原因をあきらかにしろと叫んでいたけど、なにかというと原因を、補償をという日本にだいぶ似てきたな。
中国人がアメリカに亡命しているという、これもだいぶ以前に見たことのあるニュース映像も出てきたけど、急増している亡命者って国民の何パーセントなのさ。
ただでさえ人口が多いんだから、天安門のときのウアルカイシや王丹、柴玲などのような不満分子がいなくなってくれれば、中国政府も大助かりじゃあらへんか。
鄧小平やウアルカイシなどの名前を、いまの若いもんはどれだけ覚えているんかいね。
わからなければ、わたしのブログでもあちこちに名前が出てくるから、勉強をしろ。

フィリピンでは西側から支援されている(と思われる)反政府活動家の神父さんが出てきたけど、彼に先導されているデモ隊の参加者の不真面目なこと。
おばさん、だめだよ、ニタニタ遊び半分みたいな顔をしちゃあと、ま、これはわたしの感想だから無視されてもいいけど、この神父さんは、いまのマルコス政権が中国と対峙し、国民に真実を知らせるようになったから、転向して支持者になったのだそうだ。
でも同時に中国が最大の貿易相手国になったことは無視するんだね。
マルコス大統領も軍人たちも、西側のまえでは西側の肩を持ち、中国といっしょのときは中国にあいづちを打つ。
ようやくアメリカのくびきから脱出し、大国のあいだを綱渡りして、自分の国だけの努力で豊かになろうとしているのに、西側(とNHK)はお世辞を並べたり、コワモテで仲間に引きずり込もうとする。
ケシカランことだよなあ。

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中国の旅/艾丁湖

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前日に予約しておいた運転手が、朝7時半に迎えにくるということなので、目ざましをかけておいて6時半前には起きてしまった。
体調は微妙な具合なので一抹の不安がある。
疲れているはずなのに、昨夜もうとうとするだけでほとんど熟睡をしていない。
昼寝のしすぎとも思えないのは、昼寝自体あまり熟睡できているわけではないからだ。
考えてみるとここ2日くらい食事も熱心にとってない。
まじめに食べたものは、果物、野菜以外ほとんどないし、いったいどうなってるんだ、そのうちいきなりブッ倒れるんじゃないか。

ままよ、なるようになれと、7時ごろまた近所の店へヨーグルトを飲みに行ったら、タクシーを予約した前日のウイグル人に呼びとめられた。
彼の名前はアサンサンというのだそうだ。
本当はアサンで、日本人が「アサンさん」と呼ぶのを混同しているのかも知れない。
早いねえ、わたしはちょっとトイレをすませてくるからといって、パンをひとつ買って部屋へもどる。
この時わたしは百元札しか持ってなかったので、おつりがないという店の支払いはアサンサンが立て替えてくれた。

身支度を整えて出発である。
この日は薄曇りで、体調にいくらか不安を感じているわたしとしては、涼しいことはありがたかった。
じっさいにタクシーを運転するのはアサンサンではなく、キェラブという少し無精ヒゲののびた若者で、女の子にモテそうなイケメン男子だ。
アサンサンは通訳として助手席に乗る。

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タクシーは東へ向かった。
しばらくはポプラやアカシアの並木のあるのどかな農村を走る。
時々街道すじに桑の古木を見かけたので、カイコの絵を描いて、このへんではこれを飼っているのかと質問してみた。
ほんの少しはいるという返事である。
わたしは群馬県の生まれで、子供のころわたしの郷里は桑と蚕の本場だったから、桑の木は一目でわかる。
しかし考えてみると、シルクロードに滞在中だから聞いてみたものの、この地方が絹の生産地だったわけではない。
わたしの描いた絵をほかのイモムシと間違えたのかも知れない。

トルファンでもちょうど刈り入れ時期の麦畑をたくさん見た。
こういう風景もわたしの子供のころの日本の農村と少しも違わない。
ただ暑いせいで、どの農家も庭や門前、道路ぎわ、ひどいのは家からずっと離れた畑のあたりにベッドを置いて、露天で寝ている人がひじょうに多かった。
さすがに若い女性はいないけど。

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農村のはずれまでいくと、畑のあいだに耕作されてない荒れ地が混じってくる。
荒れ地の中に直径10メートルほどの、火山の噴火口のような盛り土が点々と並んでいた。
あれはカレーズだねとわたしはいう。
カレーズは何百年も前に作られた地下水道で、わたしはこれをNHKの「シルクロード」という番組で観て知っていた。
なんでも天山山脈の雪解け水を、トンネルを掘って延々とトルファンのオアシスまで運んでいるのだそうだ。
天山山脈ははるか彼方にかすんでいるのだから、難工事にはちがいなく、地下の万里の長城といわれているそうである。
NHKの番組では、張り切ったディレクターとカメラマンは、ロープを使って地下のカレーズまで降りていって取材していた。

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わたしが行った1997年にはなかったと思ったけど、現在のトルファンには「カレーズ博物館」というものもあるらしい(ここに載せた2枚の写真はネットで見つけたその写真)。
わたしもひとつのカレーズを上から覗いてみたけど、井戸のような深い穴になっていて、底が見えないくらい深かった。
街灯も柵もない原っぱにあるので、子供でも転落したらどうするのか、やはりここは自己責任の国だなと思う。

つぎに艾丁(アイディン)湖に行きましょうとアサンサンがいう。
艾丁湖は干上がった塩の湖だそうで、海より低いトルファン盆地を象徴する場所だ。
あまり勉強してなかったわたしは、どこだっていいやと答えた。

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農村地帯が終わるとまわりはいちめんの平原になった。
砂漠というには植物が多く、草原というには植物がまばらである。
短い植物群落が地の果てまで続いていて、車に座ってながめると、遠方は緑の平原に見える。
どういうわけか、湖に近づくにつれて植物の中にアシが目立ってきた。
湖が近くなるにつれてアシが増えるのは不思議ではないけど、なにしろここは干上がった塩の湖なのである。

車はそうした平原を20キロほども走っただろうか。
やがて先方に工場のようなものが見えてきた。
舗装状態が悪くてスピードを出せないものだから、見えていてもそれはなかなか近づいてこない。
この工場は製塩工場ということだった。
工場のあたりまで行くと植物群落もほとんど姿を消し、あたりは木など1本も生えていない造成地のような荒涼とした光景になった。
工場の近くには土でできた住宅があって、工場で働く漢人の住まいだという。
またこの近くに地震と水害で崩壊したという集落の跡もあり、壁だけが残っているそれは、古代の城塞跡に見えなくもなかった。
そんながれきのあいだに牛が放牧されているのが不思議だった。

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さらに驚いたのは、この工場から湖までの区間、おそらく3、4キロはあろうというその途中で、数人の若い娘が500メートルから1キロほどの間隔で点在し、道路ぞいの側溝から、長い柄のひしゃくで水をすくって道路に撒いているのを見たことだった。
いったい彼女らは何をしているのか。
側溝の水は濃い塩水で、彼女らはこれが日光によって蒸発するのが待てず、ひしゃくでもって水をすくい、少しでも早く水が干上がるのを手助けしているように見える。
しかし小さな側溝水路といっても、そのへんの水たまりとはわけが違う。
わたしには彼女らが、大海の水を汲み出そうとする愚かしさの寓話を実践しているとしか思えなかった。
べつの考えとしては、塩水を道路にぶちまけて、道路から塩を回収しているのだという見方もあるかもしれない。
しかし道路に彼女ひとりが水を撒いて、どれだけの塩が回収できるのか。
湖のそばまで行けば、原塩はブルトーザーですくい放題にすくえるのだ。
そのためにトラックが、彼女らが撒いた水の上を遠慮なく踏みにじっていく。
トラックが往復するさいのホコリよけ? まさか。
あたりに人家もなければ工場もない、1本の草木も生えていないこんな場所で、ホコリに悩むものがあるわけがない。
わけがわからない。

わたしは車を停めさせて、徒労としか思えない作業をしている女の子の写真を撮った。
一見して漢族のお姉さんで、まだ若い娘だったからなおさら、この地の果てのようなところで、たったひとりでひしゃくの水を道路にぶちまけている娘の存在が理解できない。
わたしは彼女が汲んでいる水をちょっぴりなめてみた。
かなり塩辛かった。
ところがこの塩水の中に、メダカかエビのような小さな生きものが飛び跳ねていた!
火山の硫黄のなかにさえバクテリアが存在するくらいだから、ナチュラリストの(つもりの)わたしは驚かないけど、これも生命のタフさと多様性の証明なのだろう。

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艾丁湖の湖畔に石碑が立っていて、表に漢字で、裏にウイグル語で艾丁湖と書いてある。
ここからも水はまったく見えない。
完全に干上がっているのか、それとも水面はなお数キロ先なのか。
前述したNHKの番組はわたしの旅より20年ちかく前のものだけど、その当時もアイデン湖は干上がっていて、勇敢なカメラマンはロープで身を固定して湖の泥濘に肉薄していた。

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艾丁湖は海面より154メートルも低いところにあり、むろん湖に魚はまったく棲んでいないそうである。
アサンサンがこれをごらんなさいという。
石碑の近くに小さな水たまりがあり、水のふちに氷のように塩の結晶ができていた。
あたりの土にも膨大な塩が含まれているようだった。

艾丁湖についてはヘディンの「さまよえる湖」に説明がある。
水は高いところから低いところに流れるのが当然だから、天山山脈に降った雨水は川となってトルファン盆地に流れ込み、やがてはそこに湖を形成する。
湖がいっぱいになれば、やがてどこかに出口を見出して、さらに低いところに流れ出す。
ところがトルファン盆地は、海抜が海より低いところなのだ。
これでは水はどこにも行きようがなく、猛烈な天日に照らされて、その場でじりじりと干上がってゆく。
山が多く、1ヶ所に水の溜まりにくい日本では信じにくいけど、中東にある死海もこうやってできた湖なのである。

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2024年6月 3日 (月)

予知能力

いやあ、すごいもんだねえ。
わたしのブログの予知能力。
すこしまえに北朝鮮に、人工衛星なんて50年早いぞ、気球かドローンにしとけといったら、瓢箪から駒になってきた。
安上がりで有効ってことで、北はしきりに韓国にフーセンを飛ばしているそうだ。
積んでいるのは爆弾や観測機器ではなく、オワイだっていうんだからたまらんよね。
そのうち韓国がたまりかねて降参すれば、あらためてフーセンの威力がわかるわけだ。
でもウンコは畑の貴重な肥料だぞ。
北のほうが食料不足で先に降参するかも知れない。
この黄金戦線のゆくえはいかに。

平和サミットに中国を招待していたゼレンスキーさんは、相手が来ないとわかると、今度はあいつらがサミットの邪魔をしてるといいだした。
自分の気に入らないものはすべて敵扱いする、いちおうの礼儀を知っている人間ならこんな言いかたはないやね。
プーチンにまで邪魔をしていると言い出したけど、そもそも現在の状況で、サミットに呼べば味方してくれる国が劇的に増えると思っていたのだろうか。
グローバルサウスの協力が得られないと不満そうだけど、ゼレンスキーさん、米国、西側仲良しグループ(とNHK)はいったい何を期待していたんだろう。
望月麻美ちゃんと髙𣘺彩ちゃんだって、しゃあしゃあとしちゃって、もう。

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偽善

えー、今日はいつもNHKの憶測もしくは願望ニュースばかり観せられているわたしの憶測、あるいはSF的記事であります。
ただいまメキシコで大統領選挙が行われていて、初の女性大統領が誕生しそうだと話題になっていますんですが、ところでメキシコというと、みなさんはどんな国だと思っとりますか。
いやいや、闘牛みたいに動物愛護団体と揉めている件はよそに置いて、つまり、どうしてあの国はひじょうに危険な国なのかということ。
なんでもこれまでの選挙期間中に30人もの候補者が殺されているらしい。
メキシコだけじゃない、グアテマラ、ベネズエラなども似たような治安が最悪の国ばかりだ。

なんでそうなのか。
アメリカがそばにあるからだと考えた人はおりませんかね。
そしてそのアメリカには、まじめな政府なんぞできては困る、近隣の国はいつまでも麻薬の供給国であってほしい、銃器の買い入れ国であってほしいと考えている勢力がいるとしたら。
たとえばメキシコでも、政府が本気になって、ギャングを一掃しようとしたらできないことだろうか。
戦前の中国はギャングに汚染された国だったけど、共産党の新中国になったとき、ぜんぶとっ捕まえて問答無用で銃殺だと脅したら、ギャングたちはみんな香港、マカオ、あるいは台湾にトンズラした。
最近ではフィリピンのドゥテルテ大統領が、情け容赦のないやり方で、やはり国内の治安を改善した。
軍隊を持った政府にできないはずはないのである。

まじめな政府を作らせたくない勢力が、アメリカ政府の中にもいて、それがメキシコのギャング内にも深く食い込んでいたら、とてもメキシコの政治家ごときには太刀打ちできないだろう。
国内を不安定化させるのは、安定化させるよりずっと簡単なのである。
かってキューバに、カストロの率いるまじめな政権ができたことがあった。
映画「シッコ」や「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」を観れば、キューバがアメリカ国民からさえ理想国家のように見られていたことがわかる。
おもしろくないアメリカは、経済制裁を総動員してこの国の体制を妨害した。
結果はご存知の通りだけど、キューバはまじめな政権ができたのが早すぎたのだ。

似たような状況はかっての東南アジアにもあった。
しかしそれらの国はアメリカから遠かったおかげで、アメリカに対抗する大国が現れれば、しだいに状況は改善する。
ベトナム、カンボジア、インドネシア、フィリピン(ここはまだ脈があるっていうんで、また米国、日本が引き戻そうとしてるけど)など、どれも米国のくびきから脱出しつつある国だ。

そんなことはない、アメリカはメキシコの麻薬組織を撲滅するために、それなりの貢献をしているという人がいるかな。
それは表面的な部分で、じっさいにはアメリカはメキシコのギャングを一掃したくないんだよ。
アメリカの軍事力に対抗できるギャングなんかいるわけがないんだから、その気があればとっくにできたはずだ。
まじめな国が作れるよう、アメリカがほんとうにメキシコに協力する気があるなら、メキシコだってとっくに日本のような美しい観光立国になれていただろう。
国民は自国内で仕事を見つけて、わざわざアメリカまで命の危険を犯して移民しないですんでいたはずなんだ。

これでわかったろう、米国の偽善という・・・・
いや、今日はここまでにしておこう。
アメリカが衰退すれば、もしかするとラテンアメリカにも、平和な国が続々と誕生するかも知れない。

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2024年6月 2日 (日)

中国の旅/彷徨の2

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やはり農村をふらふらしているのがいちばん楽しい。
村の水路で小さな子供たちが遊んでいたり、ポプラ並木ですごいウイグル美人の自転車とすれちがったり、畑のわきの水路に足をひたして、若い娘が本を読んでいたりする。
わたしは列車から何度も見たヒツジの放牧地を見たかった。
しかしヒツジは農作物を食べてしまうので、農村のずっとはずれに行かないと見られないそうである。

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トルファンの田舎を徘徊しながら、あちらこちらで写真を撮っていると、ときどき不思議な気持ちになることがあった。
この景色は子供のころどこかで見たことがある。
まわりの樹木も家の造りも、人々の生活様式だって違うのに、たとえば農家の内部をうかがうと、納屋があってホコリだらけの農機具がしまわれている。
裸足の子供たちが走りまわり、小川で洗濯をする子供がおり、ニワトリが放し飼いにされていて、庭でミシンを使っている婦人が見えたりする。
炎天下を女性たちが、ひたいにハンカチをかざしながら歩いている。
あの女性が連れているのは幼いころのわたしじゃないのか。
わたしは母親に連れられて田舎の親戚へ行った、遠い遠いむかしのことを思い出していたのだ。

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自転車の徘徊にはこういう利点がある。
車の運転でこんな空想、夢想、妄想にふけっていたら、自分や他人の命がいくつあっても足りない。
わたしはこの旅のまえまで、ウイグルは砂漠の遊牧民族だとばかり思っていたけど、トルファンで農村を見てまわっているうち、彼らも日本人と同じ農耕民族であるという確信を持った。

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ある村でいたいけな少女が、写真を送ってちょうだいという。
その顔があまりひたむきなのでぜひ送ってあげたいけど、彼女が書いた住所は、わたしには読めないウイグル語だった。
あとでホテルにもどって、服務員にこれを漢字に直してくれないかと頼むと、彼女もちゅうちょした様子で、レストランに勤めるウイグル人に頼んでくれた。
トルファンでウイグル人が習うのはウイグル語が主であり、漢語はせいぜい1日1時間くらいのものだそうだ。
ガイドのアイプ君は、日本人が英語を習うようなものですよという。
女の子が書いてくれた住所の最後はJIAMAL NIZAMとなっていて、これが名前らしいけど、男の名前みたいだから父親の名前かも知れない。

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いったんホテルにもどり、シャワーをあびてまた自転車で、今度は市内の西部を目指した。
街道すじには6本ミナーレのモスク(イスラム寺院)があった。
ミナーレというのはモスクのわきにそびえる突塔のことで、トルコなんかに行くとその本数でモスクの格式がわかる。
モスクのまえには花が植えられて、周辺はきれいに整備されていた。
モスクはひとつだけではなく、トルファン市内に少なくてももうひとつはあって、けっしてイスラム教が禁止されているわけではないようだった。
モスクのまえの道をまっすぐどこまでもいけば、交河故城に出るはずだったけど、今回は見逃した。

暑いこともあって、どうも食欲がないけど、とちゅうの屋台で烤羊肉(串焼き肉)を食った。
これで朝食と昼食をかねるつもりで、5本も食ってしまった。
しかしどうも肉を受け付けなくなってしまったわたしの体には、いささか重荷だったみたい。
無理やりお腹に押し込んでいると、店の主人がジャポン?と訊く。
主人は不精ヒゲのウイグルだったけど、ええと答えたら、とたんに機嫌がよくなった。
ウイグル人が漢族に好感を持ってないのは確かなようで、しかし日本人に対しては、銭をばらまいてくれるからという点を差し引いても、悪い印象は持ってないらしい。
この店でも店主やまわりにいた人など、みんなわたしが日本人とわかると愛想がよかった。

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暑さは相当のものである。
ろくな食事もしていないわたしは自転車でへばってしまって、午後2時すこし前にはホテルにもどった。
前夜寝られなかったぶん昼寝をすることにした。
エアコンは壊れているわけではなく、機械本体と枕もとの両方のスイッチを入れなければいけなかったのだ。
5時ごろまでひと眠り。
エアコンを使ったにもかかわらず、まだ熟睡にはほど遠かった。

目をさましてまたバザールを見物に行き、夕飯も食わなくちゃと、食堂でビールと水餃子を注文した。
イスラムは本来アルコール禁止のはずだけど、トルファンはそういう点で進歩(堕落?)している。
この店にはウイグル人のおばさん、亭主らしき男、そしてやぶにらみのような娘がいた。
彼らのだれも漢語が話せなかった。
わたしがなにかいうと、すぐ前の店で烤羊肉を売っている奥さんが呼ばれて飛んでくる。
食事は暑さよけに辛いものをと、酸湯餃子にしてもらったのに、あまり酢が効いておらず、酸湯らしくなかった。
うまいまずいはともかく、ほとんど食えなかった。
ビールで無理やり胃袋に押し込む感じで、見ているうちに吐き気までしてきそうになる。
体調があまりよくないのかなと、そうそうに引き上げることにした。

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この食堂で気になるものを見た。
店のかたすみに小学生くらいの女の子が3人、かたみがせまそうに座っていたのである。
そのうち店のおばさんが、ほらといって少女たちにどんぶりの食事を与えると、少女たちは空腹だったらしく、かぶりつくようにそれを食べていた。
わたしは後ろ向きにものを考えてしまう人間なので信用されても困るけど、なんらかの事情で両親のいない子供たちが、この店に預けられて面倒をみてもらっている雰囲気だった。
イスラムの経典には、他人にほどこしをすることという文章があるくらいだから、わたしが心配してやる必要もないかも知れないけど、戦後の日本にはこういう子供たちがあふれていたものである。

ホテルにもどり、フロントに出向いて、翌々日の列車の切符は予約できますかと訊くと、あちらに旅行社の人がいますのであちらでといわれる
旅行社の人はメガネをかけた痩身の漢族女性で、英語がわかりますかと訊く。
英語なんかわからないんだけど、相手のいうことにウンウンとうなづいておく。
わたしが赤い印をつけた便の切符をというと、彼女は自分の時刻表を見て、オー、ノーという。
その便はいまはありません、こっちならありますという。
旅行社の人がそういうのならそうなのだろうと、わたしは14時台の切符を取ってもらうことにした。
到着駅は張掖にしてもらった。

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Jhon's CAFEにモバイルギアを持ち込み、集まってきたアイプ君とその仲間たちを相手に会話をする。
アイプ君が、観光に行くなら自分のタクシーを使ってほしかったとぶつぶついう。
そんなことをいわれても、わたしだって成り行きで予約してしまったのだからどうにもならないではないか。
トルファンの観光業界も競争は激しいようだ。
この席にはタクシーの運転手をしているアイプ君のお兄さんもいたけど、このへんの男たちの典型的なひとつのタイプで、ハンチングをかぶっていた。
明日はタクシーが迎えに来る予定なのに体調が万全ではないようだから、このあとは早めに部屋にもどって寝ておくことにした。

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2024年6月 1日 (土)

中国の旅/彷徨の1

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この日は目がさめたあと、アイプ君の自転車を借りてトルファン市内や郊外をふらふらしたんだけど、わたしには夢みたいな体験なので写真を撮りまくった。
とはいうものの、まだ現像や紙焼きに金のかかるフィルムを使う時代だったので、貧乏なわたしにはおのずから撮影枚数に制約がある。
撮影後の処理をぜんぶ自分でできる現在のデジタル時代なら、このサイクリングだけで数百枚は撮ったんじゃないか。
それほど刺激的なサイクリングだったのだ。
残念ながらじっさいに撮影したのはフィルム3本ぐらいだったけど、ここではその写真を、紀行記とともに2回に分けて紹介する。


部屋の換気が悪くて、蒸し暑く、寝苦しいということがあったかも知れないけど、昨夜はどういうわけかなかなか眠れなかった。
エアコンのスイッチを入れてみるとウンともスンともいわない。
えいっと夜中の4時に起きてしまった。
夜明けの遅いこの土地では明るくなるまでに2時間はあるだろう。
トマトをかじりながらいろいろ考えた。
そろそろ帰りのことを考えなくてはならない。
日本に帰国する日は決まっているのだから、それから逆算して、トルファン以降のスケジュールを決めなければならないのである。
ベッドに横になったまま、列車の時刻表をにらんでいろいろ計画を練った。

今日は17日である。
あさっての19日にトルファンを発つとして、上海には余裕をみて2日ぐらいまえにもどると考えると、シルクロードのどこか途中の町にもう1カ所ぐらいは寄り道ができそうだ。
わたしは途中で田んぼを見ておどろいた張掖という町に寄ることにした。
あの田んぼはほんとに日本と同じ田んぼなのか、すぐ近くから確かめてみたかった。

張掖までの列車の時刻を確認し、乗るべき列車も選び出したけど、まだ5時にもならない。
時間つぶしにこれまでの旅行費の清算もしてみた。
出発時に持っていた金からいま残っている金を引き、カードで支払ったホテル代がなにがしと、いろいろ計算してみると、これまで2週間で使った金が、ホテル代を入れても12万円と少しだ。
ケチケチ旅行でもないし、土産や食事に金を使う旅でもない。
モーム流の旅ではこのくらいは仕方ないというか、ま、わたしのいつもの旅の予算内である。

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ようやく明るくなったのでバザールでも見にいこうと、ふらりとホテルの門の外に出たら、その道すがら屋外で寝ている人たちをあちこちで見た。
はなはだしいのはブドウ棚の下の歩道にボロ切れのように転がっていて、ハエがたかっているから、ヘタすると死人とまちがえる。
トルファンは海より低い盆地の底にあるから暑いのだといい、確かにここはウルムチなどに比べると、むっとする暑さである。

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バザールにはロバやウマが集結していた。
朝の6時ではここに並ぶのはほとんど野菜と果物で、なんとなく日本の大久保にあるやっちゃば(野菜市場)を連想する。
並んでいた果物は、これはもうウリ、スイカ、アンズくらいで、これにモモが少々。
わたしはトマトや新鮮野菜を見ているとよだれが出るんだけど、トマトはまだ前日に買ったものが部屋に残っていた。

バザールを一巡し、食欲もないので、写真を撮っただけでホテルへもどってきた。
ホテルの近くのキヨスクみたいな商店でヨーグルトを飲む。
これは1元で、ビールは3元だとか。
なかなか良心的な店だから、帰国までしょっちゅう顔を出していたので、店のおばさんと顔見知りになってしまった。

9時になるとアイプ君が自転車を持ってくる約束である。
時間になって出ていってみると、アイプ君のかわりにウーマ君というウイグルの若者が門のところに立っていて、自転車を預かっていますという。
ちょっと意表をつかれたけど、自転車はいちおう(そうとうガタの来ている)マウンテンバイクだった。

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午前中は自転車でふらふらと、まずホテル前の道を南へ向かってみる。
すぐに十字路にぶつかり、そのへんの畑で男たちが口論をしているのを見た。
いかにもイスラム教徒と思える白いヒゲのじいさんを含む数人が、おとなしそうなひとりの農夫をとりかこんでなにか責め立てていた。
殴り合いになったら、部外者のわたしが仲裁に入らなくちゃいけないかなとしばらく見ていると、ロバ車に乗ったウイグル人が通りかかって、あぶなっかしい日本語で日本人ですかと訊く。
ええ、そうですと答えると、明日、ワタシの車で観光をしませんかという。
畑のまん中にもこういう手合いがいるのかとうんざりしたけど、かなり強引な誘いで、最初450元といったのが、金がないというと300元にまで値下げした。
車はサンタナだというから、それじゃいいかと、わたしもまた明日1日自転車というのも脳がない話なので、契約することにした。
このウイグル人がいうのには、喧嘩をしているのはウイグルと回族の農民だそうだ。
おそらく日本でもむかしよくあった土地の境界争いか、水利権をめぐってのトラブルかも知れない。

もっと見ていたかったけど、それ以上暴力にまで発展しそうもないし、ロバ車のウイグル人が、このままこっちへ行くと蘇公塔ですというので、そっちへ行くことにした。
わたしには特別な目的があるわけではないから、畑のあいだをまたふらふらと自転車をこぐ。
もうわかってきたと思うけど、わたしはこんなふうに当てどもなく自転車でさまようのが無性に好きである。
ポプラの屹立する田舎道で、出会ったロバ車の農夫に、大声で挨拶したくなってしまうくらいだ。

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「蘇公塔」というのはトルファンにある名所のひとつで、なんでもむかしのエライさんの記念碑だそうだ。
塔は土の壁にかこまれており、入場料は外国人が12元だという。
軍人は無料と書いてあったから、わたしは日本の軍人だけどダメだろうかと聞いてみた。
受付のおばさんはわたしの冗談がすぐに理解できなかったようで、ニホンノ軍人・・・とつぶやくと、もちろんダメ!である。
割高なくせにてっぺんには登れないというので、それじゃいいやといって、写真を撮るだけで帰ることにした。
蘇公塔のまわりは畑になっていて、すきを使って畝を掘り起こしている農夫がいた。
ひとすきごとに農夫のまわりに乾いた土ぼこりが舞う。
日本の農民はめぐまれていると思わざるを得ない。

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蘇公塔の帰りがけに売店に寄ったら日本語で話しかけてきた人がいた。
ウリを買って、そこにいた5人ばかりのグループとテーブルで会話をする。
彼らは、ひとりの蒙古族をのぞいてはみな漢族で、売店の主人は赤ん坊をあやすウイグルの女性だった。
ここで食べたハミウリは10元で、汁気たっぷりで美味しかった。

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