薬師丸ひろ子のタクシーで張掖の田舎をめぐった翌日、わたしはまた列車に乗り込んで、高みから人々を見下ろしていた。
なんだか急に神さまか仏さまになったような書き方だけど、高みからというのは本当である。
駅で売ってもらった切符が硬臥(2等寝台)車のもので、乗り込んでみたらわたしの席は3段ベッドの最上段で、これは混雑するシーズン以外は使われてないものを、キノドクなわたしのために駅員のおばさんが特別に融通してくれたものらしかった。
最上段に寝っ転がって、下段の庶民たちを見下ろすのはなかなか気持ちがいい。
すぐ斜め下には若い娘までいるのだ。
なんでこんなことになったのだろう。
話は前日の午後にさかのぼる。
午後の早い時間に張掖市内へ引き上げ、わたしは薬師丸ひろ子に約束どおり100元を払った。
あとはホテルでシャワーでも浴び、どこかで食事をし、大仏寺でも見学し、夜になって時間があれば鄧小平の映画を見てもいい。
わたしはこんなつもりでいた。
そのまえにもう金が残り少ないから、銀行へ行ってまた1万円ほど両替しておこうと考えた。
わたしはこの日が土曜日であることを忘れていた。
銀行へ行ってみたら、どこへ行っても午前中で両替業務は終わっていて、月曜日にならなければ両替はできませんという。
しまったと思った。
まだカードやATMをどこでも使える時代ではなかったし、トラベラーズチェックなるものも、中国では使い道がないというので用意してなかったから、わたしには現金以外の支払い方法はなかったのだ。
念のためわたしは泊まっている金都賓館で、両替ができないものか尋ねてみた。
ダメだった。
服務員が張掖賓館へ行ってみたらどうですか、あそこなら大きいから両替してもらえるかも知れませんというので、わたしは3輪タクシーに貴重な3元をふんぱつしてそこまでとばしてみた。
やはりダメだった。
フロントの服務員はニセ札ではないかと疑うような顔で、わたしの金を裏までひっくり返して眺めていた。
こっちもわるいやね。いきなり飛び込んで両替、両替なんてわめいても。
こんなことならなぜ田んぼを見に行くまえに両替をすませておかなかっただろう。
さいわいホテルの支払いはすませてあるし、列車の切符も買ってある。
自らの怠惰が招いたこととはいえ、まだわたしは幸運だったのだ。
もし駅で、首尾よく西安までの軟臥(1等寝台)切符が買えていたらどうだろう。
その時点でわたしの金は底をつき、薬師丸ひろ子にタクシー代の100元も払えなかったかも知れない。
蘭州までの硬臥(2等寝台)切符しか買えなかったおかげで、それでもまだわたしのポケットには230元あまりが残っていた。
これで明日は駅まで行けるし、列車の中で1、2回の食事もできる。
蘭州に着いたらそのまま金城賓館に飛びこめば、ここはカードが使えるとことがわかっているし、うまくいけば日曜日でも両替可能かも知れない。
両替さえすればわたしはまた日本の大富豪なのだ。
ダメなら、予定外に蘭州に1泊することになってしまうけど、月曜日に銀行に行けばやはり大富豪である。
あさっての月曜日までもたせればいいのだから、これでも一般中国人に比べればまだ金持ちのほうだろう。
くよくよする必要はまったくないさ。
わたしはこの旅に、いくつかの、僥倖ともいえる幸運がついてまわっていることを確信した。
列車が張掖を出たのは昼の12時25分である。
前日に4枚もらった切符はダテじゃなかった。
これがもし2人分だとすると、改札でなぜ2人分も持っているのかといちゃもんをつけられるかもしれないから、改札を通るとき、まず2枚だけを出してみた。
こわい顔をした女性改札係が、これだけかという顔をする。
わたしはあわてて残りの2枚を出した。
わたしがベッドから若い娘を見下ろすことになるまでのてんまつは、以上の通りである。
わたしはしばらく通路の補助椅子に座っていたけど、うんざりしてベッドに横になることにした。
ベッドによじ登ってみると、こいつはなかなか按配がいい。
頭がつっかえそうに狭いことが、なんだか子供のころに、藪の中に作った隠れ家みたいでノスタルジーを誘う。
残念なのは最上段ベッドは窓より高い位置にあるので、景色を見るためにはベッドから下りて、通路に立つしかないということである。
往路では張掖から蘭州までの区間はま夜中だったから、わたしはこのあたりの景色をぜんぜん見てないので、しょっちゅうベッドから下りて外の景色をながめた。
張掖を出るとほどなく、窓外にふたたび荒涼とした風景が広がる。
右側には熱のためぐらぐらと揺れる地平線、左手には褐色の山、遠い砂漠にいくつもの小さな竜巻が見える。
そしてちかくには土の民家、古い城壁の跡のようなくずれかかった土の壁、小さな子供たちが列車に手をふり、そのすぐあとに緑が風にゆれる麦畑、さわやかな風に白楊のこずえもゆれていた。
下にいた娘というのは4人組の中国人グループのひとりで、つんつるてんのジーンズをはいて色気に乏しいけど、大学生くらいに見えた。
ときどき一心不乱に本を読んでいるから、ナニ読んでいるのと見せてもらうと、漢字で書かれた聖書だった。
大学生かいと訊ねると中学生だという。
見た目より若すぎるけど、広い中国ではそういうこともあるのかも知れないと、あまり悩まないことにした。
17時ごろ武威南の駅でカップラーメンを買う。
お湯は発車するとまもなく車掌がまわってきて、お湯だよーと叫ぶ。
それってわけで、みんな備えつけのポットを持って湯沸かし器のある車両まで走る。
娘も通路の椅子にわたしと向かいあわせに座って、小さな鍋で袋ラーメンを作って食べ始めた。
彼女はザーサイの小袋を持参していて、わたしのラーメンの中にいく切れか入れてくれた。
ラーメンを食べながら考えた。
この列車でこのまま西安まで行ってしまえばいいではないか。
わたしがそうしなかったのは、軟臥車が頭にあったものだから、とても今ある金だけでは足りないだろうと思ったからである。
しかし金はまだ200元ちかくある。
硬臥(2等)のままでいいなら、それでじゅうぶん西安まで行けるのではないか。
西安に着くのは月曜日の昼であり、たとえすってんてんで到着しても、銀行もカードの使えるホテルもオープンしているはずだ。
そういうわけで列車のなかで目的地の変更をしてみることにした。
車掌に申し込んでみると、あとでとにべもない。
あたりの風景に山が迫ってきた。
ある場所に干上がった川があり、そのあたりに青いアヤメのような花がたくさん咲いていた。
日本の園芸種にくらべるとサイズが小さく、どうも野生種らしい。
ほかに黄色い花などもたくさん咲いていて、このあたりだけどうして花が多いのかなと不思議に思った。
19時ごろ、山はやや遠ざかり、女性の肉体のようなやわらかな稜線の丘が続いている。
丘は芝のようなみじかい草におおわれ、まるでビロードをしきつめたようだから、行ったことのないモンゴル草原がこんな風景かなと思った。
丘の斜面に座って列車を見送るヒツジ飼いは、アンデスの民族服のようなポンチョを着ていた。
アヤメのような花はますます数をふやしてきた。
空気が冷たくなってきたから、高原なのかもしれない。
列車に乗っているだけではそれほど勾配があるとは思えないけど、ナチュラリストのいいところは、咲いている花をながめているだけで、地形や環境の変化に気がつくことだ。
何というところだろう・・・と思っているうち、右側のかなり近いところに、いきなり雪渓の残る険しい山が頭をのぞかせた。
空気が冷たいはずだ。
地図をみると、このあたりは4千メートル級の山がいくつも連なる「烏(カラスという字)鞘峠」というところらしく、ここが今回の旅でわたしが到達した標高のもっとも高い場所だったようだ。
駅名でいうと“古浪”から“天祝”にかけての一帯になり、地図にはチベット族自治県という説明がついていたから、へえ、こんなところにもチベット人が住んでいるのかと意外に思った。
山好きなわたしにとって印象的なこの高原風景は、機会があったらぜひ再訪したいものだと考え、しっかり記憶しておいた(それは3年後に実現する)。
蘭州まであと1時間となった。
蘭州までの切符で西安まで行ってしまう気なら、そろそろ断っておかないとマズイだろうと、また車掌のところへ行ってみた。
2号車の車掌は12号車に行ってくれといい、12号車の車掌は食堂車に行けという。
食堂車で訊いても何がなんだかわからない。
ただ書いてくれた紙に不下車という言葉があるから、蘭州で下りなければいいらしい。
万一にそなえて、高くつく食堂車での食事はとらないことにしているので、くそっ、こういう時にかぎって腹がへる。
食べるものは乗車前に買っておいたパンだけだ。
パンだけではのどを通らないから、ジュースぐらいはいいだろうと食堂車へ買いに出かけた。
ちょうど弁当やミヤゲ物の発売時間と重なってひどい混雑だった。
日本人は冷静であることを誇示しようと、椅子に座ってやせガマンをしていたら、気をきかせた食堂車の服務員が倍の値段で売ってくれた。
もう外はまっ暗である。
蘭州に着いたとき、わたしはまだ切符の延長をしないまま、ランニング姿でベッドに転がっていた。
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