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2024年6月 6日 (木)

中国の旅/ウイグルの少女

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つぎに「高昌故城」へ行きましょうとアサンサンがいう。
どこでもいやとわたしは答える。
帰国してから調べてみたら、高昌故城は、魏、晋、南北朝から元の始めまで栄えた古い城郭都市の廃虚だそうである。
わたしの好きなロック歌手のジミ・ヘンドリックスに「砂のお城」という歌があるけど、そんな余計なことは抜きにしても、やはり土の城は空しさの象徴だ。
周囲2、3キロはあるだろうか、土塁にかこまれたかっての城郭都市は、最後に敗亡してから800年、ほとんどの建物が風雨に侵食され、今は建物のおおざっぱな外観を残すのみだった。

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というのは1997年にわたしが見学した当時の印象で、最近のこの遺跡は中国の重要文化財に指定されて、ネットで調べると細部にいくらか手が加えられているようだった。

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わたしはうろうろと、かって殷賑をきわめたはずの廃墟のあいだを歩きまわった。
塔のようなものがそびえていたり、塀に門だったらしい穴があいていたりする。
そうした廃墟の足もとに小さな野草が花をつけていた。
その根もとには後ろ足の内側が赤いトカゲがはいまわり、あちこちの土のうえにすり鉢状にくぼんだアリジゴクの巣があった。
そのうちわたしは土の中からいくつかの陶器のかけらを拾い出した。
これは探せばいくらでも見つかるので、小さな破片でも、この街がまだにぎやかだったころのことを彷彿とさせる。
陶器が割れた原因は戦乱だっただろうか、それともたんなる夫婦喧嘩か。

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この故城を月の晩にでもゆっくり歩けないものだろうか。
ふとそんなことを思ってしまった。
月光の下に黒々とそびえる廃墟のあいだを、瞑想にふけりながら歩けば、いにしえをしのぶのにこれほど素晴らしい舞台はない。
オープンステージで、月夜の晩のオペラなんかも似合いそうだ。

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高昌故城の近くに、現在も人間が生活を営んでいる小さな村があった。
好奇心につき動かされて通りをぶらつくと、ハメルンの笛吹きのように子どもたちがぞろぞろついてきた。
この村にもモスクがあり、近くにカマボコみたいなかたちに土を並べた墓地もある。
ある家では日干しレンガを道路にならべて乾燥させていた。
この地方では水で練ったレンガが、乾けばそのまま建築材料に使えるとなにかの本で読んだことがあり、これがそうかと思う。
べつの家では女性が布団の綿の打ち直し中で、土の廃墟の高昌故城よりこういうもののほうがよっぽど興味をひく。

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高昌故城のつぎは、「アスターナ古墳」を見に行きましょうとアサンサンはいう。
行ってみたら、ただの大きな土饅頭がいくつも盛られているだけで、しかもほかにも団体客が来ていた。
わたしはどういうわけか、墓を見るのは好きなほうで、ロシアに行ったときはモスクワにあるノボデヴィチ墓地をわざわざ見物に行ったくらいである。
ロシアの墓には故人をしのべるよう顔写真つきというものが多かったし、かたちも彫刻のようにバラエティに富んでいたから、ぼうっと空想にふけるには都合がよかった。
こちらはただの土盛りだけなので、ぼうっとしようがない。
まえの観光客にくっついて、せまい通路を押されながら歩くのもまっぴらなので、入ってみるのはやめてしまった。
最近の写真で見ると、寺院のような建物や、十二支の動物をかたどった石像が立っていて、洛陽でみた古墳博物館のようになっていた。
古い墓を観光用に改築するのはかまわないけど、トルファンで十二支なんか見たおぼえがないから、これもわたしが行ったあとで出来たのではないか。

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つぎに行ったのは孫悟空の話にも出てくる「火焔山」である。
といっても雨に侵食された、植物など1本も生えてない岩山なので、はなれた場所から眺めるだけだった。
火焔山についてはまたウィキペディア。

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悟空というと最近はドラゴンボールのほうが有名らしいけど、わたしは子供のころオリジナルのほうを読んだことがあるので、孫悟空はここで鉄扇公主と、その亭主の牛魔王と闘ったはずだよなと思う。
中国は西遊記の本場だから、最近ではこのあたりに孫悟空や三蔵法師の像が乱立しているらしい。
鉄扇公主なんか観光客におっぱいを揉まれて、その部分だけ銅像の色が変わっていた。
わたしが行ったときはまだそんなものをひとつも見た記憶がなく、火焔山は天然自然のままで焦熱地獄を象徴するようにそびえていた。
そのほうがずっとよい。

登っても楽しくなさそうな山だけど、登山に凝っていたこともあるわたしは、てっぺんまで行ってみたいと思った。
空気が乾燥しているせいで見通しはよく、水をたっぷり用意して足まわりを固めれば、2、3時間で登れそうに見える。
てっぺんからどんな景色が見えるだろうと、好奇心だけは当時もいまも強いのだ。
習近平さんの肝煎りで、この山も現在は観光開発されてるそうだから、そのうちロープウェイができて楽に登れるようになるかも知れない。

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火焔山ともうひとつの山にはさまれた場所が峠になっていて、ここに茶屋があったから、車を停めてイップクした。
侵食された赤い2つの山に挟まれた峠は相当の迫力である。
それで十分だった。
アサンサンがしきりに、タクラマカン砂漠を見に行きましょうと誘うけど、これに応じると300元ですまなくなるのは確実だし、なんとなくおかしい体調をかかえたわたしはもう帰ることにした。
アサンサンらにしてみればもう仕事は終わったようなものだけど、これでは金を取れないと考えたのか、観光葡萄園に寄って行きませんかといいだした。
まだブドウには早い時期だけど、わたしもブドウは嫌いじゃないから、いちおうのぞいてみるかという気になった。

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葡萄園までは交通量の多い(ほかの道路に比べれば)街道を走った。
これはトルファンと他の都市を結ぶ国道らしく、とちゅうで右手の砂漠の中にいくつかやぐらが立っているのが見える。
石油の掘削だというんだけど、精製プラントがあるわけでもなく、わたしにはまだ試掘の段階に思えた。
また砂漠の中にいく本かの水路があって、けっこうな勢いで水が流れていた。
たいして幅広い水路ではないけど、これだけの水を遠方の山からひいているとしたら、相当量の水をたえず補給していることになる。
さもなければ水は炎天下で長距離を流れるあいだに、ちょうど火星の運河のようにみな蒸発してしまうだろう。
そういえばトルファン盆地の衛星写真は、火星の地形によく似ている。

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わたしたちの車はブドウ畑のたくさんある部洛にわけ入った。
部落の高台に、レンガをすかし戸のように組んだ四角い建物がたくさん建っている。
秋になるとあそこで干しブドウを作りますとアサンサンが説明する。
トルファンは葡萄で有名だけど、日本のようにそれを観光農園にすることを最初に考えついたのは誰だろう。
保守的で伝統重視のウイグル人だけで思いつくようなアイディアと思えないから、日本の真似をしたのかも知れない。
そう思いたくなるほど、大きなブドウ棚の下に土産もの屋やテーブルが並んでいるようすは、日本の勝沼あたりの葡萄園によく似ていた。

このあたりのブドウは粒がいくらか瓢箪型にくびれているなと、つまらないことに感心したものの、まだ実の熟す時期ではないから、食べられないブドウを見ても仕方がない。
通りいっぺんに眺めて帰ろうとしたら、園内のレストランで、麺を水でさらしているのが見えた。
わたしは日本の冷やし中華が大好物である。
ほかのものは食欲がわかないので困っていたときだから、ここで冷麺を食べていくことにした。

縁台に座って冷麺を待っていると、中学生くらいの店の女の子がしきりにわたしを見る。
目の大きなかわいらしい子で、彼女がトマトを洗っているときに、わたしが食べたそうな顔をすると、ニコニコしてすぐ持ってきてくれた。
トマトを食べていると、今度は近くで本をひろげて勉強を始めた。
わざとらしい行動に見えたから、ナニ読んでいるのと訊くと、わきへよってきてウイグル語の教科書を見せてくれた。
キミいくつと訊くと15歳と答える。
日本人の15歳に比べるとえらく幼く見えたけど、この店では彼女だけが、いくらか漢語を理解できるらしかった。
彼女が文字を書くのをながめていると、ボールペンを左手に持って、右から左へと書いてゆく。
漢字を書くときはもちろん左から右である。
日本人は上から下へ縦に書くよと教えたら混乱するだろうな。

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この少女の名前はシーズワンといって、写真を撮ったのでいちおう住所を聞いておいた。
住所となるとシーズワンの手におえないらしく、彼女は近所へ走っておとなにこれを書いてもらってきた。
店には女性と、サモア人のようないかつい顔をした男性が働いていた。
彼はお兄さんかいとシーズワンに訊くと、ええと答える。
それじゃあっちの人はお母さんかいと訊くと、あれはお姉さんと答える。
やばいと思ったけど、お姉さんには漢語は理解できてないようだった。
出てきた冷麺には炒めた野菜がのせてあったから、日本の冷し中華とはだいぶ違っている。
それでもこれがここ数日来、わたしがなんとかまじめに食べ終えた食事になった。

わたしは3年後の2000年にもういちどトルファンを訪問し、この娘と再会することになるけど、その紀行記はつぎの機会に(それまで生きていれば)。

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