中国の旅/また車窓より
思いきり自転車で田舎を走りまわり、ウイグルについての認識を新たにし、何人かの忘れられないウイグル人と知り合ったトルファンと別れる日がきた。
と感傷的になっても仕方がない。
わたしはこのあと2000年と2002年の2回、またこの土地を訪ねて、“夢のトルファン”が短期間のうちに変貌するのを、目の当たりにすることになるのである。
生きているうちにその紀行記も書きたくてアセっているのだ。
トルファン市内から駅へのバスは5元だった。
安い理由はすぐわかった。
途中で2回ほどエンコしたのである。
1回目は砂漠のまん中で、エンジンあたりでパンッと音がして、なにか配線がこげたらしく、キナくさい臭いがただよったものだから、乗客の中には停車した車から飛び降りた者もいた。
2回目はようやく駅のある町までたどりついて、バス駅まであと数百メートルというところだったけど、このときも運転手はエンジンカバーを開け、エンジンをなだめすかして、なんとかバス駅まで到達させてしまった。
こんな満身創痍でも、20人ほどの客を無事にトルファン駅に送り届けたのだから、運転手クンのプロフェッショナルぶり、そして車のタフさは称賛に値する。
トルファンの駅に着いたとき、わたしは胸のポケットに入れておいたサングラスがなくなっていることに気がついた。
蘭州で25元で買ったレーバンもどきのサングラスである。
2、3日で壊れてしまうだろうと思っていたのに、ずいぶんもったものだ。
日本に持って帰れれば、中国製品の安さ丈夫さを証明できたものを。
いずれにしてもわたしの目の充血は完全にひけていたから、サングラスの役割も終えたことになる。
駅でわかったことだけど、ホテル内の旅行社の娘が持っていた時刻表は間違っていた。
まさか旅行社の担当員の時刻表が間違っているとは思わないから、わたしのほうが間違っていると思っていたのに、列車の正式な発車時刻は15:48分だった。
わたしは駅へ2時間も早く着いてしまった。
駅の小荷物預かり所は、係員がメシを食いに行って不在だったから、ヤケになって荷物を下げたまま、わたしも近くの食堂でメシを食うことにした。
米飯とトマト、それに生卵をつけてもらって、ひさしぶりの和食である。
生卵を理解させるのに手間はかかったけど、なんとか持ってきてもらって、日本ならこれに醤油を1滴2滴というところだけど、中国の新疆の片田舎にそんなものはない。
テーブルの上をながめたら、無錫でも使ったことのある魚醤が置いてあったから、これを代用したけど、あまり美味しくなかった。
店の経営者は四川省出身という若い男性で、そういう人がよく新彊くんだりまで来て食堂を経営する気になったなと思う。
彼も新疆が景気がいいぞと踊らされて、一山当てようと乗りこんできた山師の類いだったかも知れない。
定刻にトルファンを出る。
こころに残るこの土地を、ゆっくり眺めている余裕はなかった。
発車してすぐに睡魔におそわれ、うとうとと寝入ってしまったからで、わたしは列車の中でなければ熟睡できない人間になってしまったのかしらん。
18時すこし前、「鄯善」という駅で目をさましたら、右側に石油パイプがあって、炎が天をこがしていた。
遠方に石油タンクや精製プラントのようなものも見えて、このへんは本格的な石油掘削基地らしい。
このあと食堂車へ冷たいビールありましたっけと訊きに行く。
没有(ありません)である。
トルファンやウルムチで当たり前のように冷たいビールを飲んでいたので、列車内の過酷な現実を忘れていた。
食堂車のテーブルの上にはビールではなく葡萄酒が置かれていた。
それじゃ葡萄酒でも飲むかと、いくらと訊いてみると、すごい美人の服務員がなんとかかんとかといって売ってくれなかった。
19時15分ごろ、右手に褐色の砂漠の中から赤い岩山が、ちょうど大海に浮かぶ小島のようにいくつも顔を出しているのを見た。
オーストラリアのエアーズロックをミニサイズにしたみたいである。
砂だけの本格的な砂漠こそ少ないものの、このあたりでは「さまよえる湖」に出てくる、メサやヤルダンという地形をふんだんに見ることができる。
初めて見る景色だけど、考えてみると往路でこのあたりを通過したのは深夜だったから、なにも見てないのである。
前方にテーブルロックのような岩山が見えてきた。
列車はそれをまっぷたつに切り裂いて、そのあいだを抜けてゆく。
岩山の断面をま近に見ることになるので、断層でも見えるかと思ったら、内部までことごとく乾ききった赤い岩だった。
21時すこし前に満月が出ているのに気がついた。
太陽はまだ沈んでないけど、今夜は美しい月が見られるだろう。
ただし写真に撮るのはむずかしいし、いっしょに月を愛でる相手がいるわけでもない。
わたしは個室をひとりで占領していたのだ。
21時ごろ、線路のすぐ下の干上がった川べりに1軒の農家があるのを見た。
家のまわりにポプラの林があり、小さいながらも麦畑もあって、20頭ほどののヒツジが飼われており、まるでここだけで独立した小宇宙のようだった。
核戦争で人類が絶滅しても、きっとこの家だけでひとつの家族が生きていけるにちがいない。
21時半ごろ、だいぶ景色はたそがれてきて、あと20分ほどで「ハミ」に着くというころ、腹がへったので食堂車に行ってみた。
この時間にはもう食堂車は閉まっていた。
それでもうまい具合にハミで停車中にリンゴが4つ手に入った。
うはうはだけど、リンゴはパサパサしていてあまり美味くなかった。
野菜はともかく、果物に関しては偏執狂ともいえる職人芸を示す日本人にはとてもかなわない。
とっぷり日の暮れたハミ駅には、線路ぎわに夜間照明つきのテニスコートがあったけど、テニスをしている人はおらず、やけに虚しい光景だった。
停車中は蒸し暑いけど、走りだすと夜風がじつにさわやかだ。
ひと眠りしようと横になったものの、なかなか寝つけない。
えいっと飛び起きて部屋の明かりをすべて消し、まっ暗な中でしばらく月をながめる。
夜景を見つめて、また若いころ、自衛艦に乗って何度もながめた夜の海を思い出した。
ああ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風がわたしにいう
あれは中原中也の詩だっただろうか。
人間は夜になったら寝なければならない。
昨夜は扇風機がひと晩中まわりっぱなしで、最初はよかったけど、夜中になってからうるさいのと寒いのでうんざりした。
おまけに夜中にドアにはめられていた鏡が割れて(もともとヒビが入っていたのだが)、起きると床に鏡の破片が散乱していた。
ちょうど「玉門」に停車中で、ガラスを踏まないよう注意しながら窓の外をうかがうと、今朝は薄曇りで、空気がひんやりしている。
トルファン盆地のまとわりつくような暑さとはお別れのようだった。
列車が走り出すと、右側に並行して街道も走っており、40分ほどで沿線に火力発電所やアパートの見える「嘉峪関」に着いた。
ここでキュウリとカップラーメンを買う。
ラーメンは中国のベストセラー「康師傳」というやつで、食欲のないわたしなのに、カップラーメンだけは不思議と食欲をそそられる。
この日の朝食はカップラーメンとキュウリ、前日に買ったまずいリンゴ、それに水でおしまいだ。
このへんは駅と駅の間隔がせまいようで、カップラーメンを食べ終わったころ「酒泉」に到着して、ここで欧米人のバックパッカーが下車していった。
酒泉(Liquor Fountain)という駅名は欧米人にも興味を持たれるのだろうか。
酒泉を発車すると右側に、往路で見た祁連山脈が壁のように連なっている。
広い河川敷のような場所があって、そのまわりの荒れ地のあちこちに羊飼いがいた。
ヒツジはロバとちがって、農作物でも平気で食べてしまうから、もっぱら農地からかなり離れた原野で放牧されているのだそうだ。
敦煌の郊外で、夕日をあびながら三々五々家路につく(らしい)ヒツジたちをよく見かけたから、わたしは羊飼いが夜は家に帰るものとばかり思っていた。
ところがアイプ君やアサンサンらによると、羊飼いたちはヒツジとともに野宿の場合のほうが多いそうである。
ということはそうとうに人間社会から隔絶した孤独な職業ということになり、羊飼いが雌のヒツジを追いまわす西洋のジョークも納得。
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