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2024年6月 9日 (日)

中国の旅/トルファンの夜

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1997年のトルファン紀行も終わりに近づいた。
ここではお待ちかね、トルファン賓館で見たウイグルのダンスをずらりと並べよう。

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わたしはトルファンの葡萄園からホテルにもどった。
アサンサンが葡萄園に寄ったから50元増しですという。
ふざけんなとわたし。
葡萄園を見にいくとき、はっきり“全部で”とことわってあったのである。
靴みがき攻略方法がこんなところで役に立ったわけだ。
ああだこうだとやりとりし、けっきょく朝のパン代を立て替えてくれた分、また観光地での駐車場代の立て替え分ということで、10元プラスで手を打った。

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ホテルへもどり、予約しておいた明日の列車の切符を受け取りにフロントへ行く。
切符の手配は客快軟臥というやつで、張掖まで合計273元だったから、先に払ってあった450元の押金でおつりをもらう。
旅行社の例の痩身の漢族女性は、おつりの中にあった7元の半端で絵ハガキを買いませんかという。
一見したがつまらない絵ハガキで、いくらか稼ごうという魂胆がみえみえだから、わたしは自分で撮った写真が山ほどありますといって断ってしまった。
あとでヨーグルトを飲んでいたらこの娘が自転車で通りかかった。
下班(仕事終い)ですかと声をかけると、絵ハガキが売れなかったのがくやしかったのか、ぷんという顔で通りすぎていった。

切符を受け取った帰りに、ついでにフロントて両替をと頼んだら、係りの女の子が680元でよければという。
やれやれとわたし。
彼女は美人だけど、手数料をピンハネしようとしていることは間違いがない。
1万円が700元を下まわることはまずないはずだからである。
あとでバザールに行くとちゅう、銀行に寄って1万円を両替してみると、さすがに銀行で、714元とコインまでつけてくれた。

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本館のフロントから、いったん部屋へもどる。
別館のわたしの部屋へもどるにはどうしてもプールを横目にしなければならない。
ちょっと気になったことがあって別館の服務員に、ウイグルの女の子も平気で水着になりますかと質問してみた。
質問の意味をよく理解してもらえず、ああだこうだと苦心していたら、たまたまとなりにいた客の女性が中国語ぺらぺらの日本人で、通訳をしてくれた。
服務員の娘は漢族なので水着は平気だそうである。
イスラムの戒律はここではそんなに厳格ではなく、ウイグルの娘でも水着で泳ぐ子はいるという。
残念ながら、わたしがトルファンにいるあいだそれを見る機会はなかったけど。

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バザールへ行く。
この日はずっと薄曇りで、たまたま風が強く、砂塵が舞い上がって目も開けていられない。
風は熱風で、バザールでは天幕がはためいて、みんな結縄に大わらわだった。
それでも出かけたのは、ここには短刀を売っている店があったので、ひとつ買っていこうと、わたしはまえから目をつけておいたのだ。
ウイグルの民芸品というか、羊ののどをかっ切るための実用品というか、トルファンやカシュガルには手作りナイフの製作で有名な土地もあるという。
ここで買っておかなければ買いそびれるだろうから、わたしは値引き交渉をし、2本80元で買った。
ほんとうはもっと安いのかも知れないけど、製造原価がいくらなのかわかるわけはないし、80元は1100円あまりではないか。
日本でちょっときれいな民芸品の短刀(本物の鋼鉄製だ)2ふりをその値段で買えるだろうか。
ひとつは柄の部分が(ホントかウソか知らないけど)銀だということで、もうひとつは柄の部分に象眼がほどこしてある。
この文章を書いているとき、ためしにネット通販をのぞいてみたら、わたしが買ったのと同じようなナイフが1本9千円以上で売られていた。

そのあとバザールでまたトマトとウリを買う。
さてと、わずか5、6百メートルでもこんなものをぶらさげて帰るのはしんどい。
まだロバタクシーというものに乗ってないから、いい機会だ、ひとつ乗ってみてやれと市場の中を見渡してみた。
すると、ちょうどひとりのおじいさんがよろよろと、ラバ(ロバではない)タクシーの荷台に横になろうとするところだった。
見るからに西域の少数民族を思わせる白いヒゲに帽子のじいさんである。
おじいさんよ、トルファン賓館まで行かないか、5元でというと、とたんにおじいさんは飛び上がってしゃっきりした。
5元は払いすぎかも知れなかった。
そのかわりおじいさんは歌などうたって大サービスで、蘇公塔までドライブしようという。
彼のラバは10歳だとか。
そういえばラバはヘチルだとアサンサンが教えてくれたっけ。
わたしはこの従順で、有益で、けっしてそのへんの野菜を無断で食べようとしない動物に同情していたから、彼のためにもう1元ふんぱつした。

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ホテルにもどってすぐとなりのJhon's CAFEでメシを食う。
肉料理でも西洋ふうなら食べられるかなとビフテキを頼んでみた。
ビフテキといっても牛肉の細切れをタマネギといっしょに炒めた鉄板焼きもどきで、やはり全部は食えなかった。
ここにウーマ君がいて、彼と最後の会話をした。
彼は21歳だそうで、トルファンには高校まではありますが、大学はウルムチですなどと教えてもらう。
話をしているうちわたわたしは、ウーマ君のしめているベルトのバックルにウイグル文字らしいものが刻まれているのに気がついた。
おい、それ、わたしのベルトと交換しないかと申し出てみた。
いいですよといわれて交換してからよく見たら、刻まれていたのはウイグル文字ではなく、マールボロのロゴマークだった。
なんだ、おい、だめだよこれじゃといって、この砂漠の交易はおじゃんである。

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部屋へもどってワープロを打ちながらまた寝てしまう。
まあまあ寝られたほうだけど、日本に帰国したあとで完全に体調をくずすというイヤな夢を見た。
この部屋ではどういうわけか熟睡できない。
誰か首でも吊った先客がいるんじゃないか。

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目をさましたのが21時半ごろで、ふらふらとプールわきの民族舞踊を見にいく。
この夜は料金を払わない無賃見学である。
わたしは1997年のあと、2000年にもトルファンを再訪問しているので、ここでは両方の写真をごちゃまぜにしてひとつに並べてある。
1997年のときは、ダンサーは男3人女6人で、このほかに司会をしながらたまに歌を歌う女性が1人いた。
伴奏は、かんたんな構造の太鼓が1、弦楽器が3、笛が1、アコーディオンが1、そして両手に持った耳かきみたいなもので弦をはじく卓上型の弦楽器が1の7人編成だった。
3つある弦楽器はそれぞれ大きさが異なり、指もしくはピックではじくものが2、弓で弾くものが1である。
見ていて太鼓がいちばん簡単かと思ったけど、とてもとても素人には真似できない名人芸を見せていた。

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2000年のときに思ったのは、あいだに3年という歳月が流れていても、ダンサーたちの顔ぶれはあまり変わっていないなということ。
ただ前回は男性の中にリーダー的存在の人がいたのに、このときには見当たらず、楽士たちは4人に減っていた。
多少のメンバーの移動はあったけど、あいかわらず変わらないのは、スカートの下にズボンというイスラム・ファッションの魅力である。

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