中国の旅/鄧小平
歩き疲れて甘州賓館にもどる。
ホテルのすぐわきに映画館があって、鄧小平の一代記ともいうべき大河ドラマを上映していた。
スチール写真をながめると、戦車などを繰り出した戦争シーンはなかなかのスケールで、人民解放軍を動員した大作らしい。
全部観なくてもいいヒマつぶしにはなるなと考え、5元払って入ってみたら、肝心の鄧小平の映画は翌日からだった。
またドジ踏んだけど、70、80円ぐらいで文句をいう気にもなれず、ヒツジのように従順なわたしはおとなしく引っ込むしかなかった。
中国ギライになにをいっても無駄だけど、ここで鄧小平という人について、できるだけ客観的に説明しておこう。
世界にはわたしをうならせるような、真の愛国者といえる指導者が何人かいる。
ロシアのプーチン、シンガポールの初代首相リ・クワンユー、キューバのカストロ、そして中国の鄧小平もそのひとりだし、日本の安倍もと首相もそうかも知れない。
ヨーロッパが日本も移民を引き受けろといってきたとき、安倍もと首相は、えっ移民、ああ移民ですね、いや日本には日本の事情がありまして、ええ、あははととぼけてしまった。
その後欧米が移民の件ではちゃめちゃになっていることを考えると、あちらのいうことに一も二もなく飛びつくどこかの首相とは大違いだ。
鄧小平の経歴についてはよく知られている。
といっても彼が死んでから、まごまごしていると30年にもなるので、いまの若い者の中には知らないという人もいるだろう。
彼は転んでも転んでも起き上がるダルマさんみたいな人で、毛沢東の時代に何度も失脚しながら、そのたびに不死鳥のように再起してきた人なのだ。
現在の中国の発展ぶりは、すべて彼の敷いた「改革開放」という路線のおかげなのである。
西側が問題視する天安門事件のときの、中国の最高実力者だったから、いわれている虐殺は彼の命令だったといっていいのだ。
中国をけなすにしても有益な人だからよく勉強しとけ。
鄧小平の経歴についてはウィキペディアにも書いてあるので、わたしはここではそれ以外のことに触れよう。
中国人というのはメンツにこだわる。
北朝鮮の正恩クンみたいなのが典型で、自分の国がボロボロ、メタメタでも、けっして他人に弱みを見せず、虚勢を張りたがる。
ところが鄧小平は、中国人にしてはめずらしくメンツにこだわらない人で、国賓として日本にもやってきて(このころは日本と中国は仲がよかったんだよ)、新幹線に乗って素晴らしいと手放しで褒めたたえたり、新日鉄の工場を見学して、中国にもこんな工場を建てたいと率直に協力を要請した。
わたしはこういうざっくばらんな中国の指導者を初めて見た。
日本人からすれば狡猾なタヌキ親父ということにもなるけど、日本だって似たようなことをして発展してきたのだよ。
彼は死んだとき偶像化されるのを嫌って、国葬は禁止、骨は東シナ海に散骨するよう遺言した。
毛沢東やスターリンが死んでも飾られているのに比べると、自分の名前など忘れてもらってかまわない、自分は中国が発展して民衆が幸せになってくれさえすればいいという、本物の愛国者だったのだ。
見栄やたてまえよりも実利を取るという性格は、彼が中国の客家(はっか)の出だからといわれている。
客家という民族についても勉強してみるとおもしろいぞ。
そのころ中国の鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのゴー・チョクトンなど、中国系国家のトップがみんなそろって客家の出身だったこともある。
このブログにも名前の出てきた孫文、その奥さんだった宋慶齢、蒋介石の奥さんだった宋美齢などもみんな客家だし、天安門事件のとき、学生リーダーたちがやすやすと国外に逃亡できたのも、国内にあった客家のネットワークが協力したという説もあるくらいだ。
中国という国はひとすじ縄ではいかない国なのだよ。
甘州賓館で目をさましたのが、朝の6時ごろ、ベッドから出たのが30分後である。
シャワーを浴びようとしたら、お湯がすぐ止まってしまった。
くそっ、ポンコツ・ホテルめと憤っても仕方ない。
それより朝いちで前日に目をつけておいた金都賓館へ引っ越ししてしまえと、まず荷物の1陣を持ってホテルを出た。
金都賓館では240元の部屋に案内されてしまった。
2部屋続きの豪華な部屋で、どうもわたしが日本人であることを知って、VIPルームをあてがってきたらしい。
安い部屋は満室ですといわれれば、これで我慢?するしかない。
ホテルを移ったついでに(大きな荷物はまだ甘州賓館前に置いてある)シャワーも浴びていってしまえと思ったけど、こちらもお湯が出なかった。
2階の服務員の女の子に訊くと、8時からですという。
8時になってもまだ出ない。
フロントの女の子に訊くと9時からですという。
なんだ、これは。えっ。
距離は300メートルくらいしか離れてないので、もういちど甘州賓館にもどって、今度は前日の食べ残しのトマトやモモを金都賓館へ運ぶ。
居心地はこっちのほうがいいから、朝食代わりに果物をかじりながら、シャワーのお湯が出るのを待っているうち9時ちかくになってしまった。
9時には薬師丸ひろ子運転の軽バン・タクシーが迎えに来るはずになっていたので、シャワーはあきらめて甘州賓館へもどった。
女の子が2人だけで来るはずはないと信じていたけれど、この日は彼女らに人相のよくない若い男が2人くっついてきた。
ヒツジのように従順なわたしが、若い女の子を手篭めにでもするとでも思ってんのか。
残っていた荷物をのせて金都賓館へ引っ越したあと、まず駅へ行ってくれと指示する。
わたしはこの日のうちに西安までの切符を確保したかった。
切符は平日なら金都賓館で予約できるらしいけど、この日は土曜日だからダメですといわれたので、自分で駅まで行くことにしたのである。
先に翌日の列車の切符を予約しておいてから、のんびり田舎をまわるつもりだったのだ。
お姉さんと男のひとりは市内で降りて、けっきょくわたしと同行するのは薬師丸ひろ子に似ている妹のほうと、その亭主ということになった。
わたしは亭主を後部座席に追いやって、助手席にふんぞりかえった。
駅までの道すがら、わたしは薬師丸ひろ子に、キミが眠くなったらわたしが運転するからね、わたしは運転が上手なんだよなどと冗談をとばす。
ところが彼女は本気でわたしが運転したがっていると思ったらしい。
それじゃあといって彼女はわたしにハンドルを替わってくれた。
わたしも中国でいろんな乗り物に乗ったけど、車を自分で運転したのは初めてだ(国際免許証を持ってなかったから、ネズミトリに捕まらないように短時間でやめたけど)。
この日にわたしが買おうとした列車の切符は、張掖を昼の12時25分に出る198次の軟臥(1等寝台)というやつである。
ところが駅では西安までの軟臥といっただけで没有だった。
張掖の駅ではそもそも1等寝台を扱ってないらしい。
さあ、困った。
じつはわたしはシルクロードの帰りに、また西安に寄ってみたかったし、洛陽の女医カクさんにも会っていくことしていたので、このあとのスケジュールはあまり変更できないという事情があったのだ。
切符売場の係員は太ったおばさんである。
どうにもならないなら硬座(自由席)でもいいやとわたしが覚悟を決め、そのかわり硬座で一昼夜すごすのは耐えられないから、とりあえず蘭州まで行くことにした。
蘭州は甘粛省の省都だから軟臥切符が買えないわけがないので、そこで切符を買い変えればいい。
わたしが蘭州で軟臥に乗り換えるというと、太ったおばさんはキノドクに思ったのか、背後の事務室を指さしてこっちへまわってらっしゃいというと、いきなり切符売場の窓口をパタンと閉めてしまった。
ほかの客には迷惑な話だけど、わたしは助かったと思った。
この親切なおばさんは、わたしのために特別のはからいで軟臥切符を手配してくれることにしたのだろう。
ところがそうではなかった。
おばさんは他の職員と何かおしゃべりして、けっきょくわたしに蘭州までの硬臥寝台(2等寝台)の切符を売ってくれただけだった・・・・・
じつはここからあとがわたしにはよくわからないのだが、おばさんが売ってくれた切符は全部で4枚綴りになっていた。
すべての切符に198というスタンプが押してあるから、198次に間違いはないけど、しかしなぜ4枚なのか。
ひょっとするとわたしは言葉の齟齬があって、2人分の切符を買ってしまったのかも知れない。
これが2人分だとすると、乗車券が2枚、2等寝台の指定券が2枚ということだろうか。
料金は4枚を合計しても84元(1200円足らず)だからかまいやしないけど。
1等寝台が2等寝台になってしまったくらいは、わたしにはべつに問題ではないので、これで明日の昼には張掖を脱出できる、夜までには蘭州に着けると安堵した。
じつは硬臥席しか買えなかったということは、これがまたひとつのややこしい僥倖だったのだ。
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