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2024年6月22日 (土)

中国の旅/張掖の田舎

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駅で硬臥車(2等寝台)のキップを手に入れたあと、薬師丸ひろ子の運転する車で張掖の田舎をめざす。
とちゅうでスタンドに寄って給油した。
中国ではガソリンはセルフサービスで、運転手が自分で入れる。
こういうシステムはいまでは日本でもめずらしくないけど、この当時(1997)には日本では危険だからという役所の横槍で、ほとんど見られなかった。
中国のほうが進歩的だったのか、安全管理にずぼらだったのか知らんけど。

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さいわいこの日の空は、初夏にふさわしい晴天である。
ねちっこくまとわりつくトルファンと違って風はじつにさわやかだ。
水田、水田というわたしの要望に首をかしげながら、薬師丸ひろ子運転の車はまず市の北西部をめざした。
風景がのびのびしているから、もっと運転させてもらいたかったけど、事故でも起こしたらえらいことになるなと思って遠慮した。

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このドライブは実り多いものだった。
10分も走ればもう周囲は砂漠の国とは思えないような田舎景色になる。
青々とした麦畑の向こうに白楊樹(ポプラ)が整然と並び、あちらこちらに菜ノ花畑も見える、日本とあまり変わらない農村風景である。
ある場所に小さな川が流れていて、そのまわりの草地にヒツジが放牧されているのを見て、わたしは最初の停車をしてもらった。
車から飛び降りて草地めがけて走るわたしを、薬師丸ひろ子夫婦がおどろいてながめていた。
初夏の田舎の草地を不快に思う人間は、やくざ社会にもいないだろう。
やがて薬師丸ひろ子夫婦もわたしのあとについて、あたりを散策し始めた。
亭主のほうは目つきのわるい半グレみたいな顔の若者だったけど、彼までひさしぶりのピクニックをしているような顔になった。

ここにはヒツジやロバの親子などがのんびりと草をはんでいた。
足もとの草むらのなかには、いたるところにトノサマガエル・サイズのカエルが跳ねていた。
わたしは簡単に1匹のカエルをつかまえ、小川に放り込んでみた。
川の水はよく澄んでいたけど、魚やエビガニなどの小動物を見つけることはできなかった。

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ふたたび車でさらに郊外をめざす。
張掖の南の遠方には雪をいだいた山脈が見え、すぐ北側には茶色の山がそびえている。
雪をいだいた山脈は祁連山脈、北側の山の名はわからないけど、こちら側にはゴビ砂漠が広がっているはずだ。
どんどん西に向かって10数分も走ると、今度はかなり大きな川が流れていて、広々とした河川敷にたくさんのヒツジが放牧されている。
わたしはまた車をとびおりてヒツジの群れに突進した。
河川敷にぽつんとヤナギの木が生えており、その下にワラが敷いてあった。
これはヒツジ飼いが野宿した跡らしく、彼らの孤独な生活が想像できようというものだ。

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この河川敷には3つぐらいのヒツジのグループがいて、3人のヒツジ飼いが車座になって世間話をしていた。
折り畳み式の椅子に座っている者もいた。
孤独な職業のうちにもたまには心情を語り合う機会はあるらしい。
もっとも現在も孤独かどうかわからない。
いまはケータイの時代で、わたしはアフリカでやはり遊牧のマサイ族が、もしもし、今日の晩飯はなんだべさとやっている写真を見たことがある。

わたしはヒツジ飼いに話しかけてみた。
まっ黒な顔をした歯のない男で、いきなり見ず知らずの異邦人に話しかけられたものだから、返事もせずに悲しそうなほほ笑みを見せた。
どうも彼の性格にはわたしと共通するものがあるようだった。

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さらにまた車を走らせる。
国道のようなところばかり走っていてもつまらないから、あっちのほうへ行ってみようと、わたしはことさら田舎っぽい村のほうを指さした。
白楊樹の並木のあいだをずんずん走っていくと、麦畑のあいだに、ときどき青い小さい花の植えられた畑がある。
あれはなんという花かと訊くと、薬師丸ひろ子はとんでもないことを訊かれたというふうで、亭主と相談していて、そのうち“胡麻”という字を書いた。
帰国してから調べてみると、どう見ても胡麻とは違っていた。
こういうことはよくある。
わたしは香港へ行ったことがあるんだけど、ガイドの娘からは、こっちから質問するまえに、ワタシは花の名前に詳しくないので訊かれてもわかりませんと宣言されてしまったし、沖縄ではタクシー運転手に、街路樹として植えられているデイゴはいつごろ咲くんだろうと尋ねたら、はて、いつだったかなと返事されたことがある。
ようするに質問する相手を間違えたということだ。

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このあと、ついにわたしは念願の田んぼを発見した。
列車のなかから発見し、シルクロードに田んぼという異色の取り合わせに仰天し、わざわざ帰りに立ち寄ることにしたその現物である。
日本の田んぼに比べるといくらか管理にだらしないところがあるけど、見てごらんのとおり、日本人ならだれがどう見たって田んぼだ。
田んぼの畦道には、雑草を抜こうという農婦がちらほら徘徊していた。

稲というのは人間の腹を満たすのに非常に効率的な穀物なので、日本でも弥生時代に伝わると、あっという間に日本全国に広まった。
もともと南方系の植物で、寒い地方では生育がむずかしいとされるのに、日本列島をどんどん北上して、しまいには稲作に向いてないとされる北海道にまで伝わり、「ゆめぴりか」や「ななつぼし」というブランド米を産んでいるくらいだから、シルクロードに生えていても不思議じゃないかも知れない。
わたしは2000年に新疆ウイグル自治区のカシュガルまで旅をし、途中にあるクチャという街の郊外でも田んぼを見たことがある(つぎの紀行記をお楽しみに)。

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わたしは田んぼを見ると、メダカやタニシやザリガニでもいないかとすぐ水中を探すクセがある。
むかしテレビで見たタイの農村では、夜になると子供たちがタウナギを捕まえようと、松明を持って出かけていたけど、そういう小動物のすがたはあまりないようだった。
これはもともとタイや日本のように、いたるところに蛇蝎があふれている土地ではないということかもしれない。

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べつに田んぼをちょくせつ見たからって、親のかたきを発見したように感動する必要はないんだけど、そのあたりで出会った子供たちも、日本の昭和の子どもたちを見ているようだった。
わたしは畔道でしばし逡巡し、まだ世の中のきびしい現実を知らなかった幼いころを思い出して、その場で泣き崩れるところだった。

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烏(カラスという文字)江という村で踏切を渡った。
よく考えてみると、この踏切はトルファンから張掖に向かう線路上にあって、前日にわたしも列車で通った踏切だった。
このあたりの部落をふらついてみた。
農家の前で年寄りたちがワラを編んでいたので、車を停めてもらって写真を撮った。
年配のおばさんたちが家のまえでワラを編みながら世間話をしている光景は、思い当たる日本人もたくさんいるんじゃないか(もう死に絶えたかな)。

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村の広場のわきに車を停め、そのへんの商店で買ったジュースを飲んでいると、広場のわきの高台に神社のような建物があるのに気がついた。
あれは寺かと訊くと、ひろ子の亭主が、あれは小学校だという。
高台そのものが小学校の敷地で、日本の小学校にもむかしはよく忠霊塔だとか慰霊塔というものがあったことを思い出し、ちょっとのぞいていくことにした。
車を下りて、小学校の敷地に無断侵入してみると、ちょうど放課後で勤務を終えたらしい先生たちがぞろぞろ出てきた。
べつに文句もいわれなかったので、教室の中まで覗きこんでみた。
頑丈このうえない木の机が並んでおり、壁に小学生たちの作文や絵が貼ってあって、香港返還後の行政区のマークが切り絵になっていた。
ちなみに香港返還はこの旅の1カ月後の、1997年7月のことである。

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高台の上の建物は古いお堂らしかったけど、手入れもされず荒れ果てていた。
きちんと管理すれば価値のあるもののように見えたけど、これも紅衛兵の廃仏毀釈の難に遭ったのかも知れない。

もういいや、帰ろうというと、まだ時間が早すぎると思ったのか、大きな川のそばにもういちど立ち寄って、薬師丸ひろ子がこれを見ていかないかという。
川のほとりに自然を利用したキャンプ場みたいな施設があった。
無料ではないし、ひとりで入ってもたいしておもしろいものではなさそうだったから、わたしはいらんいらんと返事した。

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