南疆鉄道がカシュガルまで開通したのは1999年のことである。
これは新疆ウイグル自治区の省都ウルムチから、シルクロードのもうひとつの要衝カシュガルまで、1,463キロを結ぶ鉄道だ。
つまり列車の座席に座ったまま、移り変わる天山山脈とタクラマカン砂漠を眺めながらの、鉄道旅が可能になったということである。
1997年のシルクロードの旅からもどったわたしは、このニュースを聞いてむずむず。
あ、“むずむず”というのはわたしの、行きたいなあという気持ちのオノマトペ(擬音表現)だかんね。
すでに上海からウルムチまでの長距離列車に乗ったことのあるわたしを、思いとどまらせるものは何もなかった。
あるとすれば世間のしがらみと、貯金通帳の残高のみだけど、これは中国の旅に出かけるたびに言い訳しているので、もう触れない。
というわけで2000年の5月の後半に、わたしはまた新疆ウイグル自治区へと向かった。
今回の紀行記は2000年の南疆鉄道の旅がメインである。
いつも通り上海へ上陸して、ここから旅がスタートなんだけど、前置きのつもりでひさしぶりに日本を出るところから話を始めよう。
わたしのいでたちは、Jマートで買った長袖の作業員シャツ、太ももの両わきにポケットのついた紺のズボン、それに黒の短靴で、東京電力の作業員を想像してもらえばわかりやすい。
忘れてはいけないのが、97年の旅ではじめて持ち込んだワープロ(モバイルギア)だ。
宮沢賢治ふうに旅の一挙手一投足を記録しようというわたしには、不可欠の道具である。
バスの中でうとうとして、ふと目覚めたらもう成田空港だった。
このときはユナイテッド航空で、E35カウンターへ赴き、正規の航空券を受け取った。
旅行保険に入りますかと訊かれたけど、1万なんぼといわれてお断りした。
わたしの旅は1カ月を予定していたので掛け金も高いし、どうせ墜落して死んでも、わたしには喜ぶ人も悲しむ人もいないのだ。
待合ロビーでモバイルギアを使っていたら、まわりでも2、3人が、本格的なノートパソコンを使っているのに気がついた。
彼らの機器に比べるとわたしのはいかにも貧弱だけど、単3乾電池で使える軽便なワープロとして、こちらのメリットは大きい。
徹底合理化のユナイテッドでも機内食は出る。
しかし、食事はとらないでワインだけもらうことにした。
わずか2時間の飛行なのに無理にメシを食っても仕方がないし、だいたいわたしは飛行機のせまい席で食事をひろげるのがイヤなのだ。
こういう客ばかりだと経費節約のユナイトも楽である。
飛行機が日本を離れると、成層圏にはむらさき色のたそがれが広がっていた。
わたしの席は最後部に近く、この位置から前方を見やると、最前列の席まで30メートルはありそうだ。
横幅も新幹線の倍くらいあり、そこに人間がびっしり座って、窓の外でには貧弱な翼が、わたしの前方5、6メートルの位置で機体をささえている。
よくこんなものが空中に浮かぶものだと感心してしまう。
今回の旅では前年に開港したばかりの浦東国際空港を、初めて利用することになった。
到着したのは20時ごろで、着陸するとき、遠方のひときわ明るい光群の中に東方明珠が確認できた。
空港からそちら方向へ、高速道路と思える何本ものオレンジの光の帯が延びている。
新しい浦東空港は、屋根以外が総ガラス張りの、ナマコのような形をした建物だった。
設備は最新式かもしれないけど、往来する飛行機の絶対数が少ないのか、人影はまばらだった。
タクシーで、もうお馴染みになった新亜大酒店へむかう。
やけに幅が広く、そのくせ車の少ない高速道路を市内に向かうと、夜なのでよくわからないものの、空港のまわりは無人の耕地らしかった。
運転手に何分ぐらいかかるかねと尋ねると、おおむね40分ぐらいでしょうという。
良心的な運転手らしく、スピードも出さず、130元くらいで新亜大酒店に着いた。
この日のレートは1万円が771元(1元が13円くらい)。
部屋は619号室で、安い部屋を注文したから、むろん郵便局と反対側のつまらない景色しか見えない。
夜の22時くらいだったけど、飛行機の機内食を食べてないから、「川妹子」というホテルの近くのレストランで夕食にした。
この店はウエイトレスがかすりのモンペのような上下を着ていた。
モンペの娘が菜単(メニュー)を持ってきた。
見たってわかりゃしないけど、とりあえずビールと、菜単の写真を見て、こってりと辛そうなものを適当にふたつ頼んでみた。
「◯(魚へんに即のような字)魚焼豆腐」は、15センチくらいのフナのような魚2匹にあんかけをかけたような料理。
「ニラ珠太子魚」は、ニンニクとぶった切りのウナギみたいな料理で、両方とも辛いだけではなく、骨がたくさんあって食べにくかった。
わたしの旅はグルメ旅ではないので、それ以上書かない。
今回もまた西安を、あらたまった旅の出発点にするつもりなので、上海に1泊した翌日は、駅となりの龍門賓館に出向き、西安までの切符はあっというまに買えた。
列車の切符は問題なしだけど、今回は新機軸として、西安から新疆のウルムチまで国内線の飛行機で飛んでみることにした。
龍門賓館で飛行機の切符について聞きたいというと、1人の娘がホテルのすぐとなりにある航空券発売所に案内してくれた。
そこで調べてもらうと、西安からウルムチまで、値段は想像していたより安いけど、時間は想像していたより長く、3時間半かかるという。
うーむと考える。
飛行機を使っても、わたしの場合経費や日程の節約にはならないのだ。
帰国の日は決まっているので、飛行機を使って行程を短縮しても、その分べつのところに泊まる日にちが増えるだけである。
ただ、わたしが中国の国内線に乗るのはこれが最後の機会になるかもしれないので、片道3時間以上かかる飛行機がどんなものか、話のタネにはいいだろうと贅沢をすることにした。
あいかわらずわたしの旅はモーム流である。
西安行き列車の指定席に行ってみたら、まわりににぎやかなおじさんたちがいた。
一見すると中国人だけど、身なりは先進国の農協団体みたいである。
聞いてみたらマレーシアから来た人たちで、中国語も話すというから華僑らしく、車内で電話をかけたり、お菓子を食べたり、車内販売のスイカをすすめてくれたりと楽しい人たちであった。
列車は江南から、中原にかけてずっと麦秋のうるわしい平野を行く。
遠方にはゆるやかな丘陵が続いていて、そのてっぺんまで麦畑がひろがっている。
水田の場合は水をためなければいけないから、田は水平でなければならず、斜面は段々畑ということになるけど、畑の場合は大地の起伏そのままに麦を植えてしまうから、麦畑そのものが女性の肉体のようにゆるやかに湾曲している。
日本でも北海道の富良野あたりの畑がそうである。
たまに小鳥を見かけるものの、畑の脅威になるほどの数はいないようで、とちゅうの小駅ではオナガによく似ていて、全体がもっと黒いカササギを見た。
石炭置き場でまっ黒になって働く女性も見た。
ノーテンキなわたしが申し訳なく思う一瞬である。
となりに座ったマレーシアのおじさんと話をした。
わたしは将来、マレーシア、ベトナム、カンボジアなどへ行きたいと思っていますというと、おじさんは、ワタシはカンボジア人だよという。
そういわれてみると、ちょっとごつい感じで、わたしの知識にあるカンボジア人の顔に見えなくもない。
なにか同業の仲間たちがそろって、商取引のために旅行しているらしかった。
西安駅に到着したとき、わたしはマレーシアの人々に、中国語で、“みなさんの楽しい旅行をお祈りいたします”とお別れの挨拶した。
みんな大喜びで、わざわざ握手してサヨナラといってくれる人もいた。
西安では前回の旅でも泊まった人民大厦に行くことにした。
近場というのでタクシーではいやな顔をされそうだから、たまたまおばさんが運転する3輪タクシーが来たので、それをつかまえ、10元だぞというと、わたしの声が聞こえなかったのか、おばさんは4元だよという。
なんだか悪いような気分である。
人民大厦に荷物を置いて身軽になってから、もういちど駅へ行ってみた。
駅のそばに長距離バスの発着場があるので、そこで飛行場行きのバスはここから出てますかと訊いてみると、没有(ありません)という返事である。
飛行場行きは西門のほうから出ているそうなので、今度はたまたま手近にいたバイクタクシーをつかまえた。
わたしもいろんな乗り物に乗り、張掖ではタクシーの運転までしたことがあるけど、西安ではついにヘルメットをかぶってオートバイの後部にまたがることになった。
西門のはずれに航空券売場があって、そこで調べてもらうと、西安からウルムチまで、飛行機は1330元(1万7千円ぐらい)、西安の飛行場は市内から50キロ離れており、タクシーでだいたい150元だというから、全部含めると飛行機代は2万円くらいになりそうだ。
ふたたび城内にとって返し、来る途中で見かけた清真屋台街で食事をしていくことにした。
“清真”というのはイスラムのことで、いろんな食堂があったけど、べつにハラル料理ではなさそうだったので、酸湯水餃子とビールを注文した。
ホテルにもどったのは23時過ぎになっていた。
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