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2024年7月15日 (月)

中国の旅/楼蘭

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ウルムチ最終日の今日は何をしようかと考えた。
クチャ行き列車が15時の発車ということは、14時には駅に行かなければならない。
そのまえに前回のウルムチで、見たいと思って見逃した「新彊博物館」をのぞいてくることにした。
この博物館には有名な楼蘭の美女がいるという。

それを紹介するまえにいっておくと、新疆博物館は2005年に、つまりわたしが行った5年後に新館が完成して、モスクふうの外観が近代的なものになった。
わたしは近代的な新館を知らないけど、中国政府が歴史的文物の保存・展示に、なみなみならぬ力を注ぎ込んだ結果だろう。
こういうことは、パンダやキンシコウ(金絲猴)の保護と並んで、国が繁栄すれば、まっさきにやるべきことである。
中国が北朝鮮のような暴虐な独裁国家でないことの証明だ。

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新彊博物館は友好大酒店から歩いていける距離にあった。
時間つぶしだと考え、ぶらぶらと徒歩で出かけて、場所はすぐわかった。
中国の博物館としては充実しているほうだろう、ただし建物の半分だけは。

いきなり「楼蘭の美女」なんていっても、中国の歴史に興味のない人にはサッパリわからない。
詳しい説明はウィキに譲るとして、この紀行記を読む人のためにおおざっぱな説明をしておくと、楼蘭はタクラマカン砂漠の一画に繁栄した古代の都市の名前である。
都市というのは水のないところには成立しないから、この都市の近くにはロプノールという湖があった。
悲しいことに砂漠の湖のつねとして、この湖も永遠にそこにあるわけではなかった。
ロプノールはトルファンのアイデン湖と同じように出口のない湖なので、やがてその場で水分が蒸発し、最終的には塩湖となって干上がる運命だったのだ。
湖が消滅すれば都市楼蘭の命運も尽きるしかない。
やがて楼蘭は砂の下に埋もれて、だれもそのあり場所を知らないまま、数世紀が過ぎた。
スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンの「さまよえる湖」は、そのへんの事情を探った探検記である。

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この探検記の影響なのか、博物館の見学者は欧米人の団体が多かった。
彼らにまじって館内の展示品を見てまわる。
残念なことに写真撮影は禁止だったけど、中国語の説明文がかろうじて理解できる。
展示品のすべてが古色蒼然を通り越して石に化したようなものばかりだ。
説明文のあちこちにやたらに「古尸」という文字が出てくるので、なにかと考えているうち、そうか、ミイラのことかと思い当たった。
“尸”というのは屍の簡体字だったのだ。
ほかに展示品の説明文を読んでいるうち、トルァンの火焔山の近くに「ベゼクリク千仏洞」というものがあることを知った。
帰りにトルファンに寄れるものなら行ってみようと思う。

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さて、ロプノールが干上がった理由は諸説がある。
ヘディンは平坦な土地に溜まった水は、堆積物などで自然に場所が変わり、長いあいだには同じ場所を行ったり来たりするという説、これとは別に気象の変化で天山や崑崙山脈に降る雨量が変わったからという説、さらに新しいところではユーラシア大陸全体の隆起によるものという説もある。
わたしのブログでは結論は出さないので、みなさんで勝手に想像して楽しめばよい。

楼蘭の悲劇は湖が干上がったことだけではない。
この国は大国の中国と遊牧民の匈奴にはさまれて、日本と中国にはさまれた韓国や琉球(沖縄)のような苦難をなめ続けた。
井上靖の「楼蘭」はそのへんを描いた小説、というより中国の古い歴史書を、現代人にわかりやすいように描き直した叙事詩のような本である。
その部分は創作だけど、この中に楼蘭の美女がどうしてミイラになったのかという事情も描かれている。

新疆博物館の驚きは見学の後半にやってきた。
館内をずっと見ていったら、ひときわ照明の暗い1室があった。
そこだけ特別待遇のなにかがあるに違いない。
わたしはこの旅にヘディンの本を持参したくらい、楼蘭の美女に関心があったんだけど、まさか本物の彼女に会える思わなかった。
ガイドブックには新彊博物館に彼女がいると書いてあったものの、日本人は死んだ人間でも見せ物にしたがらない人種だから、本物ではなく、模造品の人形かなにかが置いてあるだけだろうと半信半疑だったのである。
しかし、彼女はそこにいた。
3,800年まえにたしかにこの世に生きていた女性がそこに横たわっていた。

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ヘディンの「さまよえる湖」のハイライトは、楼蘭の遺跡を発見し、古代の王国に君臨した女王のミイラを掘り出す場面である。
この美女は生前にどんな情景をその眼は見たことかという文章で語られ、もっとも感動的な場面だ。
しかしヘディンは発見した美女を、後世の学者の手にゆだねるべく、もういちど墓に埋めもどしてしまった。
彼女がふたたび地上に姿をあらわすのは、新中国が成立したあと、1980年の日中合同調査隊の手によるもので、そのときの映像がわたしのビデオ・コレクションの中にある。
というわけで、ここに並べたのはそれをキャプチャーしたもの。

彼女は何重にもなった粗い布につつまれていて、映像のなかでそれらが1枚ずつはがされていくと、内側から口をぴったり閉じたクールな美女が現れる。
じっさいには彼女は死んだとき40代であろうという。
インディアンのように頭に鳥の羽根をさし、顔立ちはあきらかに中国人(漢族)や日本人とは違う。
煮干しみたいになっているので、オリジナルを想像しにくいけど、トルコ系のウイグル人とも異なり、人種的にはイラン系アーリア人という説をなにかで読んだことがある。
そんなことをいわれても、パッとイメージの湧く人は少ないだろうし、もちろんわたしにもわからない。
ようするにイラン人タレントのサヘル・ローズさんを、もうすこしおばさんにした感じの女性だったみたいだ(わかりやすいでしょ)。

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1997年に初めてシルクロードを旅したとき、わたしはトルファンでウイグルのガイドから、楼蘭へ行ってみませんと何度も誘われた。
しかしトルファンから楼蘭までは、砂漠のなかを車で200キロ以上走らなければならない。
自転車で行けるならともかく、ひとりで四輪駆動車なんか借り切った日には、いくら取られるかわからんということで断念した。
それにわたしは楼蘭に行ってもなにもないことを知っていたのだ。
NHKの「シルクロード」のころまで、まだ楼蘭は立ち入り禁止だったから、この番組に出てきた楼蘭のようすは、廃墟になってからのこの都市のようすをもっともよくとどめていただろう。
それで見ても砂漠に崩れかかった土の塔があり、木の柱のようなものが散立するだけで、まわりに何もない。
現在の楼蘭は中国の全国重点文物保護単位に指定されて、たまに団体が見物に来るから、外観にいくらか手が加えられて、もしかすると近くにホテルや土産もの屋や、女性に必須のトイレも出来ているかもしれない(冗談よ、冗談)。

帰国したあと、わたしは写真や映像で、何度も楼蘭の美女を目にしたので、記憶が混乱してしまった。
このとき見たものは頭に鳥の羽を刺していたから、日中合同探検隊が発見したオリジナルに違いないと思われるけど、最近の写真で見るといくらか感じが変わっている。
ひょっとすると防腐処理がされたり、下手すれば模造品のミイラに変えられてしまったかも知れない。

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じつに丁寧に布で覆われて、舟形の棺桶に収納され、砂漠の国としては最大限の葬い方をされていることからして、彼女が高貴な女性であったことは間違いがない。
こうなるとわたしの想像と妄想もとどまるところを知らない。
とある戦争でのこと(楼蘭は中国も匈奴も敵にしたことがあるので敵はどっちでもいい)。
圧倒的な敵をまえにして、今度ばかりは楼蘭軍に勝てる見込みはなかった。
大将軍のなにがしは出陣をためらっていた。
それが自分に対する未練であることをさとった妻は、ある朝毒を仰いで死んだ。
彼女の死体を抱いて将軍は号泣した。
愛する人よ、先に行って待っていてくれるのか。
妻をしきたり通りに丁寧に葬った彼は、ふたたび戦場に赴いた。
そしてだれももどらなかった。
ロプノールの岸辺のアシのさやぎと、ときおり襲いくる砂嵐の音を聞きながら、砂漠の小都市は歴史の彼方に埋もれていった。
これでもっと肉をつけ、血を通わせて、内容をふくらませれば、わたしもつぎの芥川賞候補なんだけど。

日本人は、たとえミイラであっても、人間の遺体を見せ物にしないようだけど、この地方の博物館ではミイラは花形スターである。
わたしはこのあとあちこちの博物館で、展示されているミイラを見ることになる。
埋めて放置しておけばたいていミイラになる土地柄だから、アラビアの石油のように、掘ればざくざくと、いったいどれだけのミイラが出てくるかわからない土地なのである、新疆ウイグル自治区というところは。

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さて新彊博物館の驚異はここまで。
博物館の2Fでは天然石の展示会が開かれていて、華麗なウイグルの民族服も飾ってあった。
わたしの顔を見てさっそく近づいてきたウイグル美人に、あなたの着ているのもウイグルの服ですかと、ふざけて訊いてみた。
彼女の着ていたのはふつうの現代的な洋服だったのである。
そんな美人がわたしに近づいてきたのは、もちろん展示品を売りつけようという魂胆だった。
この博物館でいちばん充実しているのは土産もの売場で、奥の部屋に絨毯がずらりと陳列してあって、20×30センチ程度の小さなものさえ2万円だという。
素晴らしい!
ただしわたしには金がナイといって逃げた。

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