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2024年7月30日 (火)

中国の旅/石窟と娼婦

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クチャ3日目の朝は9時ごろ、前日予約していたタクシーの運転手にたたきおこされた。
荷物をまとめて亀茲賓館に引っ越しをし、このあとキジル石窟を見学に行くことにした。
「キジル石窟」について、詳しいことはウィキペディアにおまかせして、わたしはもっぱら野次馬紀行に徹しよう。

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タクシーの運転手は小太りの、陽気なイタリア人みたいなタイプで、奥さんと子供がいるといい、名前を尋ねるとマイマイティーと答えた。
でんでん虫みたいな名前だけど、後日テレビの新疆への紀行番組を観ていたら、同じ名前のウイグル人が出てきたことがあったから、それほど珍しい名前じゃないようだ。

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クチャの町のオアシスを抜けると砂漠になる。
舗装された道路の彼方に赤褐色の荒涼とした山脈がつらなっている。
タクシーはその山脈まで行くのである。
その山脈を越えてさらに先まで行くのだそうだ。
グーグルマップで目測すると50キロぐらいありそうだけど、じっさいには砂漠の中の道で、直進できるわけではないからもっとあるだろう。

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山脈は赤い岩肌で、巨人が粘土をこねあげ、とちゅうで飽きて放り出したように見える。
断層がそのまま山の形になったような場所もあり、目の位置より上にはまったく草木は生えていないといっていい。
それでも道路ぞいには短い草がしょぼしょぼと生え、白い小さな花が咲き、タマリスクが時おりピンクの花を見せていた。
とちゅうで車を停めてもらって、わざわざ花の写真を撮って、日本人は花が好きなんだよとマイマイティーにうんちくを述べる。
この山脈には川が流れていた。
幅だけはけっこう広い川だけど、水はほんの少しで、あちこちに干上がって塩の結晶が浮いていた。
山脈を超えるとまた砂漠、というより短い草の茂ったステップに近い地形で、このへんでは道路ぞいにマメ科の紅色の花や、ちょうどひと株が両手のひらに入るくらいのピンクの可憐な花が咲いていた。

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やがて先方にひとつのオアシスが見えてきた。
なんとかいう町だそうだけど、名前はすぐに忘れた。
ここまでで1時間以上かかる。
タクシーはオアシスの手前で左折し、舗装していない砂漠の中の凸凹道へわけ入った。
20分ほど揺られていくと、前方の谷あいに水量の豊富な大きな川があらわれた。
川の河川敷にあたる部分は緑地になっていて、ムギ畑や四角く区切られた耕地がひろがっている。
大きなため池も作られていて、農民の姿は見えないけど、このあたりにも小さな農村集落があるらしかった。

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この川に面した山の斜面にキジル石窟はあった。
門を入ったところに黒い人物像が立っていたから、誰かと思って説明板を読んでみると“鳩摩羅什(クラマジュウ)”とかいうお坊さんの像だそうだ。
こんな坊さんのことはまるで知らなかったし、あまり興味もないからまたウィキにおまかせ。

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石窟の入場料は25元で、日本語のガイドがつく。
残念ながら、カメラと荷物は事務所に預けさせられてしまった。
わたしの担当ガイドになったのは、まだ今年の3月から働き始めたという宋双さん。
下半身がどっしり安定しているけど、いくらかおちょぼ口の、まだ当年とって21歳だというかわいい娘で、チャイナ服にジーンズをはいていた。
彼女といろいろ話したおかげで、味もそっけもないはずのキジル石窟の見学が楽しいものになった。
石窟の対岸には赤い岩肌の険しい山が連なっており、その赤というウイグル語がギジルなのだという。
石窟の形状は敦煌の莫高窟とほとんど同じであるけれど、こちらのほうが破壊、崩壊、盗掘の傷跡は深く、大半の石窟は惨憺たるものだった。

わたしと宋小姐は、それでも6、7コの洞窟を見てまわっただろうか。
ある洞窟で彼女が、ここがサイコウの洞窟ですという。
最高の洞窟にしては、それまで見てきた洞窟とたいして変わるわけでもないと思ったら、これはじつは“最後の”洞窟ですということだった。

見物を終えて付近をぶらぶらした。
宋小姐はこの近くの生まれかと思ったら、なんと故郷は黒龍江省だという。
なんてまたこんな僻地へと訊いてみると、お兄さんがこっちで働いているので、それを頼ってきたのですという。
まことに彼女らのステージはだだっ広い。
このへんに野生動物はいませんかと訊くと、ヘビがいますという。
わたしは石窟よりもヘビを見たかったので、2人でそのあたりの薮をかきわけてヘビを探すはめになった。
彼女の話では珍しくないというんだけど、この日はこの地方には珍しく小雨まじりでちょっと肌寒い日で、ヘビもトカゲも見つからなかった。

石窟を後にしてふたたび舗装道路にもどる。
この交差点で若いウイグルの女性が同乗してきた。
こういうことはよくあるらしく、砂漠の住人にとって、暗黙の助け合い精神かなと思った。
ところがこのすぐあとにも3人の男が手をあげていたのに、こっちは無視してしまったから、これは女性にやさしいという万国共通の男の本能らしかった。
乗ってきた女性は後部座席ですぐ寝入ってしまった。

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石窟のあとは「クズルガハ烽火台」に寄った。
これはもうクチャのオアシスがま近に見える砂漠の中にあって、べつになんてことはないものだけど、写真で見るとなかなか迫力がありそうなので寄ってもらったものである。
烽火台は10メートルぐらいあるだろうか。
重要文化材の石碑が立てられているくらいで、あたりには土産もの屋もなければ、管理人すらいなかった。
土で出来ている塔だから、雨が降ればいつか溶けてなくなってしまうのではないか。
ということで調べてみると、いまでもクチャの名所として紹介されているから健在らしい。
建てられたのが2000年もまえというから、おいそれと消え去るものでもないだろうけど、しかし四半世紀近く経って、わたしが見たときよりいくらか背丈が縮んだのではないか。

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烽火台は大きな川を見下ろす場所にあり、見ものはこの川のほうだった。
川は完全に干上がっていたけど、ちょっと距離感を消失するほど雄大な景色で、まるで火星の運河のように水の流れた壮大な痕跡があるだけである。

烽火台の近くに墓地があって、土で出来たたくさんの墓が並んでいた。
しかし、なにしろ砂漠のまん中なので、土を練ったナマコのような墓石があるだけで、荘厳とか静けさとは無縁である。
墓地の先にも土盛りがあったけど、それはただ町のゴミや泥を捨てただけのようだった。

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クチャにもどったのはまだ15時ごろ。
わたしは亀茲賓館のレストランで1杯やりながらワープロを打つことにした。
ウエイトレスのウイグル娘が日本語で話しかけてきた。
彼女の名前は“瑪麗古麗(マーリクーリ)”で、19歳だという。
なかなか可愛い子で、独学で日本語を勉強しているといい、わたしのワープロにひじょうに興味を示した。
あまりに純朴で世間知らずの女の子らしかったから、わたしもひたすら真面目な日本人を装っておいた。

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亀茲賓館でわたしと親しくなった女性はもうひとりいる。
日本人からするとどこにでもいる漢族の娘だけど、色香ふんぷんのお化粧と、ウイグルにあるまじき卑猥な雰囲気で、いっぺんに娼婦とわかった。
彼女のことをかりに“愛麗”さんと呼んでおこう。
マーリクーリがしきりに目配せして、近寄らないほうがいいですと合図する。
しかしレストランのテーブルで話をするくらいいいだろうと、いくらか言葉を交わした。
愛麗嬢はわたしの持参した「地球の歩き方」を興味深そうにめくっていたけど、日本語はぜんぜんわからないそうだ。
部屋にもどると、あとから部屋まで押しかけてきた。

いい機会だから彼女の商売についていろいろ質問してみた。
しかしわたしもそんなに中国語に堪能というわけてはないから、これから書くことは、たぶんこうだろうという憶測と、わたしの勝手な想像が加えてある。

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いったいこういう大きなホテルでは、女を紹介しろという客もけっこういるらしく、ホテルの中にはマッサージ室の名目で娼婦をかかえているところや、デイトクラブのような店と提携しているところもある。
たまたま亀茲賓館では愛麗嬢がひとりで、そっちの客の要望に応えているらしい。
儲かりますかと訊くと、とてもとてもという。
彼女はホテルにとってなくてはならない存在だけど、だからといってホテルの従業員というわけではなく、食事や日常の必要品はすべて自分持ちで、さらに客があるたびに売り上げのピンハネもされるという。
だから10日も20日も客がいなかったら赤字だわという。
つまり日本の吉原やオランダの飾り窓の女のような、娼婦にとって苛酷な搾取の現実がここにもあるわけだ。
しかしこんなことは世界中のどこにも、いつの時代にもある。
最近の日本では、沖縄の風俗でバイトをして、ついでに沖縄旅行もしてくるなんてちゃっかりの女の子がいるそうで、こういうのは娼婦の風上にも置けない例外なのである。

うーん、そうですねえと、そのときのわたしは、まだ過酷な現状にあまんじていた中国の娼婦にいたく同情した。
ただし新疆にウイグルの女の子の娼婦はいないそうである。
厳格なイスラム教の国ではあるし、クチャのような田舎町ではすぐに評判になるに決まっているから、これだけは出稼ぎの漢族の娘たちが一手に引き受けているらしかった(いまはどうなってるか知らんけど)。
なんのかんのと話をして、愛麗嬢が帰ったのは40分ほど経ったあとのことだった。

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