中国の旅/トルファン
トルファンで下車したのは、軟臥(1等寝台)の客ではわたしひとりだった。
まさか夜中のトルファンにひとりで放っぽり出されるんじゃないだろうなという心配が少しあったけど、それは杞憂だった。
硬臥(2等寝台)や硬座(自由席)からはたくさんの中国人と、バックパックを背負った外国人旅行者のグループが数組下車して、駅の外ではバスやタクシーも待ち受けていた。
このときの旅は2000年6月の旅だったので、まだ高速鉄道の駅は出来ておらず、わたしは前回と同じ、市内から60キロも離れたトルファン旧駅に降り立った。
高速鉄道の駅が2014年に完成した現在は、観光客もそちらをメインに使うようになったようである。
わたしはさっさと手近のバスに乗り込んだ。
見ると日本人らしい若者のグループがタクシーにつかまってもたもたしていたので、わたしは彼らをバスに呼びこんでしまった。
どこかの大学の冒険サークルの学生たちらしく、その中にはきれいな若い娘もいた(うらやましい)。
そのうちに別の列車も到着し、欧米人のグループ、中国人たちでようやくバスはいっぱいになり、5時ちょうどくらいにバスは発車した。
さっさと乗り込んだおかげで、わたしはいちばん前の助手席を確保した。
駅からトルファン市内までは5元である。
トルファン駅を出発して、しばらくは荒れたジャリ道をゆく。
洪水の爪跡は前回の旅から3年を経てもまだ消えてないようだった。
まだ暗い畑のまん中のある場所で、運転手がいきなり車を停めて車外へ飛び出したには驚いた。
なにごとかと思ったら、かたわらの細流の水で顔を洗っていた。
日本とちがって中国の運転手は、まだ前世紀の遺物のように、寝る間も惜しんでこき使われているらしい。
東の空がようやく白んでくるころバスはトルファンに着いた。
わずか3年でもその変貌ぶりは大きい。
市内に入る手前で、有料道路の料金所を見たけど、あんなものは前回はなかったと思う。
市の北側は新興の開発区として、新しい建物がどんどん出来ている。
トルファンはいわゆるトルファンらしさを失っていた。
市内のバス駅に到着してわたしはさっさとタクシーでトルファン賓館へ。
この時間にホテルが開いているかどうか心配だったけど、いちおう玄関は開いていた。
ずかずか入っていって、たのもうというと、眠っているところを起こされたのだろう、えらく不機嫌な顔の漢族の娘が出てきた。
安い部屋といったのに、日本人に提供する部屋の中では、という但し書きつきの部屋の中で安い部屋ということになった。
250元あまりの部屋である。
高いとは思わないけど、部屋はダブルベッドで、わたしにはデラックスすぎる。
眠くもなかったから、ヨーグルトでも飲むかと門の前まで行ってみたら、もう観光案内というか、客引きのウイグルの若者が待ち受けていた。
彼の名は(自己紹介によると)マコトちゃんだという。
ただしこれはオカッパ頭の彼を見て、楳図かずおの漫画に誘発された日本人がつけたあだ名らしく、顔だけ見るとキース・リチャードみたいな悪党づらである。
あとで旧知のアイピ君に尋ねると、彼の本名はアジェ君ということだった。
明日はワタシの車で観光に行きませんかと、あいかわらずの勧誘だったけど、じつはわたしはもうあまりのんびりしていられないのである。
日本への帰国便は決まっているので、これからは厳密なスケジュールにそって行動しなければならないのだ。
わたしは前回の旅(1997)で、帰りの列車から見て、なんでここだけこんなに花が咲いているのだろうと疑問に思った「烏鞘峠」のあたりに寄っていくことにしてあったのである。
けっきょくマコトちゃんと交渉して、翌日は彼の軽バンを180元で契約した。
トルファン賓館まで乗ったタクシーは1日貸切で200元といっていたから、通訳つきで180元は妥当なところか。
彼とその友人たちが朝市に案内するという。
どんなところかと行ってみたら、バザール会場のうしろのほうで、3年前に行ったことのある場所だった。
それでもここでウリとトマトを買ってもどる。
ホテルでシャワーを浴びて寝てしまい、目をさましたのが午後1時ころ。
わたしの顔はこれまでの砂漠の旅でまっ黒になっていて、顔の皮膚がぼろぼろになっていた。
そこでクリームでも買おうとホテル内の売店に行ってみた。
売店には3種類くらいのクリームが置いてあり、売り子は40代くらいのおばさんで、これがいいと50元もするいちばん高いものを勧める。
安いものは品質がよくないからやめたほうがいいとも。
それはわかっているけど、しかし高いよ、20元にしなさいとねぎり、あなたは美人ですねとお世辞をいって、ようやく45元にまけさせた。
このあと自転車でも借りてふらつこうかと思ったものの、トルファン賓館にはレンタルがないとのこと。
ホテルの前まで出ると、すぐ前のJhon's CAFEにマコトちゃんらがたむろしており、かって知ったるアイピ君が出てきて、あいかわらず達者な日本語でコンニチワという。
彼から自転車を1時間5元の約束で借りることができた。
自転車でまわれる範囲内の観光スポットというと、トルファンには蘇公塔くらいしかない(あとで交河故城も範囲内にあることを知った)。
地図も持たずにふらふらと出かけ、蘇公塔に着いておどろいた。
塔の周辺は美しく整備された公園になっていた。
それはそれで結構なことかもしれないけど、これでは素朴なオアシスというトルファンの魅力は失われるばかりである。
トルファンをめざす日本人は、パリやハワイをめざす日本人とべつの人種だったのに。
蘇公塔は遠方から見るとじつに優雅な建物であるけれど、細部をアップで見るとしろうとの粘土細工のような造りが目立つ。
こういうのがイスラム芸術の特徴らしい。
いまでも金曜日にはイスラムの礼拝が行われているというけど、ひとりで迷い込んできた観光客が、優美な塔に登ることはできないので、建物の隙間から内部をのぞいただけで引き返す。
蘇公塔のそばには博物館もあった。
展示品は多くないけど、このあたりの売り物であるミイラが一体。
ミイラもはるか後世になって呼び起こされ、客寄せの目玉にされるとは思わなかっただろうな。
塔と博物館あわせて見学料金25元。
トルファンにはその後、新しい博物館ができて、ミイラも新しく?なったようである。
ここでわたしはニコンのF3を地面に落としてしまった。
頑丈なF3だからよかったものの、F4以降のデジタル・カメラだったらそうとう大きなダメージがあってもおかしくない。
この旅ではいつのまにか35Tiのほうもフィルムカウンターの窓ガラスが割れていたし、いよいよデジカメにあとを譲る時代になったかと思う。
暑いので自転車も楽じゃない。
このあとバザールの行われる場所あたりまで行って引き返した。
バザールも土着的な伝統を失いいつつあるようで、“夢のトルファン”はカシュガルなど、さらに奥地の街にその地位を奪われることになるようである。
都合2時間ばかり借りていた自転車を返却し、しばらくアイピ君らと話す。
以前には気がつかなかったけど、彼は胸に中国旅行社のバッジをつけていて、マコトちゃんたちを統率する管理職に出世していた。
町を徘徊して個人旅行の客をキャッチする旅行会社の遊撃隊長といったところか。
トルファン賓館にもどると、ここにはプールがある。
前回は屋外プールだったのに、今回は屋根がついて屋内プールになっていた。
雨の少ない場所にあって、太陽の下こそがふさわしいプールになんで屋根なんかつける必要があるのかと思ったけど、これはどうもイスラムの戒律と関係があるらしい。
イスラムの女性たちはみだりに人前で肌をさらさない。
それなのに異教徒のアメリカ娘たちが、水着ひとつできゃあきゃあと男とたわむれていたんでは、風紀上問題があると、そういうことだろう。
以前にそういう無作法者たちを見かけて、わたしでさえ苦々しく思ったくらいである。
ただしこの日にのぞいて見たかぎりでは、プールの水はかなり汚れていて、しばらく使われていない感じだった。
わたしが前回に泊まった部屋は、ホテルの中庭にある隊商宿みたいな長屋ふうの建物だった。
そっちは使用されてないのかと思ったら、ちゃんと泊まっている団体がいた。
見なりはわるくない中国人で、しかし日本人ほど豊かではないらしい。
日本人は断固として、高い本館に入れてしまうのがこのホテルの新しい経営方針らしかった。
ま、安い部屋でも、暑いだのお湯が出ないだのと文句をいう日本人も悪かろう。
わたしの部屋はさすがによくエアコンが効く。
効きすぎて寒くて仕方がなかった。
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