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2024年8月29日 (木)

中国の旅/再見、カシュガル

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せっかく買った半月刀を没収されて怒り狂ったまま列車に乗り込んだわたし。
個室に入ってみるとそこに2人の先客がいた。
ひとりは西洋人のような顔立ちの中年男性で、ウイグルだという。
もうひとりは背の高い漢族の娘である。
彼らは親子や夫婦ではなく、べつべつの乗客で、ウルムチまで行くそうだけど、わたしは手前のトルファンで下車することになっていた。
列車はすでに暗くなっているカシュガル駅を定刻に発車した。
往路と同じ南疆鉄道の旅の始まりだ。

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せまい個室でいっしょに過ごすのだから、同室のわたしたち3人はすぐに仲良くなってしまった。
彼女は2人の子持ちだそうで、道理で態度に母親らしいどうどうとしたところがある。
背がわたしよりだいぶ大きく、亭主はさらに10センチ大きいという。
夜遅くまで手ぶり身ぶりに、筆記まで加えて遠慮なく話し合っていると、話を聞きつけたとなりの部屋から、朝鮮族だという若者がやってきて話の輪に加わった。
わたしも含めるとずいぶん国際色豊かな顔ぶれになったわけである。
このメンバーで夜中の1時ごろまでくっちゃべっていたので、景色を見る余裕もなかった。

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目を覚ましたのが朝の7時ごろで、まもなく太陽が上った。
左側に天山山脈の山並み、右はまっ平らなタクラマカン砂漠という、往路とは左右が逆転した景色。
金銀川という駅のあたりは大きなオアシスと水田のようなものがあった。
と、また宮沢賢治スタイルの、見るもの聞くものすべてを記録する紀行記が始まるかというと、そうでもない。
往路でいちど見た景色なので、よっぽどめずらしい景色でないと写真を撮る気が起きないのだ。

買っておいたカップラーメンを食おうとすると、わたしを制止して、漢族の娘がお湯をもらいに行ってくれた。
出かけるまえにいちおう鏡を見てから行くところがカワユイ。
どうせ1日個室のベッドで寝たり起きたりだから、無駄のような気がするんだけど、あとで見たらちゃんと口紅を塗っていた。
彼女はすぐに手ぶらで帰ってきた。
まだ給湯器が使えなかったという。

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8時半、まだオアシスが続いており、右側前方に低く、もやのようなものがたなびいていた。
雲かと思ったら、じつは煙突の煙で、のんびり走っているものだからいつになっても煙の発生源に到達しない。
9時ごろになってようやく発生源の大きな工場のわきを通過。
まもなく停車したのはアトスだった。
南疆鉄道の途中駅としては、コルラ、クチャに匹敵する大きな町で、「中国鉄道大紀行」の関口知宏くんもここに寄っている。
この町からあいだをさえぎる山はないので、雪をいだいた天山山脈がよく見える。

車掌がお湯OKだよといってきたので、娘がさっそく出かけてきた。
ウイグルのおじさんはお茶を飲もうとして、娘がポットに入れてきた湯をガラス瓶にそそいだところ、瓶がパカッと割れてあたりは熱湯の洪水になった。
大事には至らなかったからよかったものの、まだガラスにいきなり熱湯は危険という常識がウイグルには通じてなかったのかも知れない。

10時をまわったころからオアシスは消えて、両側は荒涼とした風景になった。
右側に平行して国道があり、砂漠のなかにはいくつもの竜巻が見える。
15時ごろまたオアシスを通過した。
このあと何機もの噴水が地表に水を散布している、かなり広い灌漑施設があり、すべて井戸水だというから、天山山脈に近いこのあたりの砂漠では掘れば水は出るらしい。

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16時すこし前、食堂車へ行ってみた。
山師みたいな連中がタバコをふかしていて、ろくでもない連中のたまり場だったけど、ビールとおつまみふたつを注文して30元。

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部屋にもどってうとうとして、目をさましたのが18時ごろで、列車は山が近くにせまる街に停車していた。
コルラだった。
ここでキュウリを買う。
キュウリを食べるのに日本から持参した小瓶のアジシオをふってると、娘が日本の塩かと訊く。
そうだというと、さっそくなめてみてうなづいたけど、あまり感心したようでもなかった。
味にうるさい中国人はいつも天然塩を使っていて、化学的精製物で、スマートすぎるアジシオに拒絶感があったのかも知れない。
彼女はわたしのテッシュペーパーも日本のものかと訊いて、そうだというと、つまんでうなづいていた。
アジシオよりこっちのほうが感心した可能性が高い。

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わたしたちの部屋のまえを、はだかで黄色い腰布をまいた、新興宗教かぶれのヒッピーみたいな若者が通った。
こういうイカレポンチみたいな格好をしているのは日本人かも知れないと思い、おい、待てよと声をかけると、案の定で、彼は九州長崎出身で静岡の大学に籍を置くという日本人だった。
オーストラリアから東南アジアを総なめにして、インド、中国、これからはカザフなど中央アジア、最終的にはアフリカの希望峰まで行くのだそうだ。
つい100元カンパするよと余計な親切をしてしまった。
あとで部屋の娘がなぜそういうことをするのと訊く。
これはまずかった。
100元は日本円にすれば1400円程度で、この典型的な貧乏旅をしているらしい若者に、ビールでも飲めよという気になったんだけど、中国人にすれば大金である。
家庭をあずかる主婦にしてみれば、こんな不労所得をやすやすと恵むわたしを理解できなかったのだろう。
ヘタな中国語で、日本にはむかしから貧乏学生をみんなで支援する伝統があるのだなどと、いいかげんな理由で弁解してみたけど、彼女はなかなか納得しなかった。

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なんだったらビール代を出します。
ひとつみんなでどんとやりませんかといったら、気をきかした娘のほうが先に買ってきてしまった。
はなはだ恐縮したけど、ウイグルおじさんも、きみは客人だからな、遠慮することはないよという。
部屋で3人でおおいに盛り上がってしまった。
ウイグル語で乾杯は“カラ”というそうだ。

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19時20分ごろ“幸福灘”という駅があった。
日本の北海道にあった幸福駅の中国版である。
八裸村という駅では、まわりを見渡すと緑が多く、ポプラの並木も多く、遠方に雪山をのぞむせいで、まるで信州の安曇野のようだ。
わたしがこれまで見てきたうちでもっとも豊かそうなところだった。

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20時30分、そろそろたそがれてきたころ、列車はいきなりたけだけしい峡谷にわけ入った。
どうやら南疆線でいちばん険しい山岳鉄道にさしかかったようで、わたしがいちばん見たかったのはこのあたりの沿線風景なんだけど、残念ながらこの先は往路でもちょうど夜だったから、どんな景色なのか紹介できない。
こんな高所にも馬に乗ってヒツジを追う人がいて、あたりはモンゴル、もしくはカザフ族の世界である。
そして往路で見たのと同じように雪山が赤く夕日に照らされていた。

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景色は見られなかったけど、わたしの部屋にあった1980年にNHKが放映した「シルクロード/南疆線」から、いくつかの場面をキャプチャーして並べてみよう。
まだこのころ南疆鉄道はウルムチからコルラまでしか通じていなかった。
この番組によると、南疆線は1976年工事開始で、人民解放軍の7万人の鉄道兵団を使い、この1年まえに線路を敷き終えたばかりだったそうである。
山岳鉄道といっていいこの区間には、1キロごとに18メートル登るという険しい鉄道の描写もある。
生きたラクダまで積み込んだ鉄道旅で、当時はディーゼルではなく、石炭を炊く本物の汽車だったから、途中のトンネルではラクダたちがよく窒息しなかったものだ。

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番組では、列車はループ式の夏爾溝(かじこう)トンネルを通過していく。
このトンネルはできるだけ傾斜を緩和するために、トンネル内部で線路が一回転し、とんでもないところから列車が出てくる。
わたしが往路で見て、おかしなところに駅があるなと思ったのも、こういう場所だったのだろう。
そして日本の余部鉄橋のような高所の鉄橋や、この線でいちばん標高の高い場所にある奎先トンネルなど、みんなわたしが見ることのできなかった景色だ。

夜になってまっ暗になった。
わたしは寝るまえに、明日の朝はまだ暗いうちにトルファンで下車するのでと、同室の2人にお別れをいっておいた。
ついでに映画スターになったようなつもりで、御ふたりに会えて幸せでしたともつけ加えた。
幸せだったというのはウソじゃない。
ここまででいったいわたしはどれだけの人々に出会っただろう。
しかもわたしみたいな無能でグータラな男に好意をよせてくれる人に。
日本ではとても考えられないことである。

はっきり到着時刻を確認しておかなかったので早めに起きた。
まだ外はまっ暗で、4時半到着ですと眠そうな車掌がいう。
さてトルファンまでバスはあるのか、だいたいホテルは開いているのか。
初めてならそのあたりが気になるところだけど、わたしはもう夜中でも列車が着けば、乗り合いバスが出ていること、ホテルもチェックイン時間にこだわらないことを知っていた。
この晩は細い眉月で、これでは砂漠の明かりにはならないけど、夜の砂漠を見る絶好の機会だから、満月ならよかったのにと思う。

大きな黒い砂丘をかわしたと思ったら、そのむこうに点々と明かりが見えてきて、列車がトルファンに到着したのは明け方の4時30分だった。
同室の娘は寝たまま目をあけてわたしとお別れの挨拶をし、ウイグルおじさんはわざわざ起きて通路まで見送ってくれた。

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