
夏目漱石の正月の災難が、年始の客の相手をしなければいけないことだったそうで、そういう点でひきこもりのわたしは優雅なもの。
うるさいかみさんもやかましいガキもいないし、わざわざ訪ねてこようという酔狂もいないので、年末から正月にかけては、静かで落ち着いた正月をすごしているけど、3日も4日も部屋にとじこもっているのは大変なので、こういう機会にふだんあまり観る機会のない映画を観ることにした。
録画コレクションから引っ張り出したのは、フレッド・ジンネマン監督の古い映画で「わが命つきるとも」。
1966年のアカデミー賞受賞作品だ。
まえに「エルマー・ガントリー」のときにも書いたけど、若いころ、いい映画だとわかっていても、内容が固そうなので観る気のしない映画というのがいくつかあった。
これもそのひとつで、英国の暴君ヘンリー8世と、彼に抗議して処刑された大法官のトーマス・モアの史実を映画化したものである。
この正月にじっくり観て、固くてもおもしろい映画ってあるんだねと、あらためて思った。
いいや、年をとったせいで、ようやくそういう境地に達したのかも知れない。
冒頭に枢機卿(すうきけい)の使者がやってくると、ちょうどトーマス・モアは、家族や近所の主婦たちを集めて世間話をしているところだった。
父親のいない子供の半分は司祭の子だそうだと、これはまたなかなか世情にもたけた、話のわかる大法官だなと思ってしまう。
この大法官さまが、国王のヘンリー8世が教義を破って新しい女と結婚すると言い出すと、それはダメですと猛烈な原理主義者ぶりを発揮する。
これを観て、モアはまるでわたしみたいだなと思った。
わたしもウクライナ戦争でロシアを擁護することでは、頑固で、けっして譲らない原理主義者なのだ。
しかしウクライナ戦争でもロシアにはロシアの言い分があるように、この映画でも国王の側からの言い分もあるだろう。
ヘンリー8世は北朝鮮の正恩クンのような暴君だけど、それでも男子の世継ぎが欲しいという切迫つまった事情があった。
よろこび組のきれいな姉ちゃんを、取っ替え引っ替えしたかったばかりじゃなかったのだよ。
映画ではヘンリー8世は、変に律儀なところがある人物として描かれている。
彼はモアのガンコさに手をやいているものの、その曲げない姿勢を愛しており、なにがなんでも自分の思い通りに相手を屈服させようとする。
気にいらないならさっさと処刑してしまえばいいものを、百点満点をとるまで納得しない偏執狂みたいな人物として描かれているのだ。
かくして、なにがなんでも相手を屈服させなければ承知しない暴君と、融通のきかない原理主義者のガチンコ勝負は延々と続くことになる。
トーマス・モアの敵役として登場するのが、国王にゴマをするのが得意の官吏であるトーマス・クロムウェルだ。
長いものには巻かれろと、要領よく世間を渡っていくタイプで、世間にはこういう人間のほうが多い。
どこかおかしいと思っても、局の方針に逆らえないNHKのアナなんかもそうかも知れない。
気のドクなアナウンサーを責めても仕方ないから、これ以上いわない。
モアやクロムウェルは、名前ぐらいしか知らなかったので、あらためて勉強してみた。
たかが映画を観るために大英帝国の歴史まで勉強するのだから、いい映画にかけるわたしの情熱も偏執狂的である。
このころの英国の王室の歴史は、国家間の紛争や世継ぎ争いの陰謀や、似たような名前の王様が入り混じって、ひじょうにわかりにくい。
いちど観ただけでは内容がサッパリだから、また例によってパソコンやタブレットで難解な部分を調べてみて、登場人物の経歴や関係をすっきりさせてからもういちど観た。
これだけやればたいていの馬鹿にも理解できるだろうけど、そのくらいおもしろい映画だったんだよ。
いい映画であることはわかったけど、わたしはあいにく無神論者だし、お稲荷さんや仏さんの支配下にある日本人としては、いささか理解に苦しむ部分もある。
ありていにいわせてもらえば、女房や娘の、家庭を守ってえ、もうすこし妥協してえという願いさえ無視するモアのガンコぶりには、病的なものを感じてしまうのだ。
森鴎外なんて、聖者としてあがめられた尼さんを、 「PERVERSE(倒錯者)の方角に発揮したに過ぎない」とさえいってるぞ。
全体に軽いユーモアがあるから救われているけど、こういう人物を尊敬できるかというと、日本なら小言幸兵衛さんみたいに落語のネタにされるのがオチ。

映画のいちばん大きな見せ場が、当時の教会における審問裁判所の裁判のようすである。
このシーンは徹頭徹尾、当時の裁判所のありさまをリアルに再現してあって、赤い服の司祭が壇上にならび、被告、検察官、陪審員、見守る人々など、史劇にふさわしいコスチュームプレイ映画になっている。
とはいうものの、ここまでひとつだって合戦シーンや、裸のオンナの人が出てくるわけじゃない。
それでもモアとクロムウェルの、丁々発止のやりとりは手に汗をにぎるおもしろさ。
しかし、さてさてである。
クロムウェルによって人民裁判のように吊し上げをくらったモアはいう。
『これはキリストが地上におわしたとき、救世主自らの口で、聖ペテロとローマ司教に授けた言葉である』
『その言葉こそがこの地上における聖職者推薦権だ』
『従って首長令でキリスト教徒を服従させるのは不適切である』
『さらに教会の治外法権は、マグナカルタと戴冠誓約で保証されている』
こんな言葉を並べられても、宗教研究者でもなく、キリスト教と縁もないわたしにわかりようがない(観ているイギリス人にだってたぶんわからない)。
しかしこの映画の着目点はべつにある。
これはもともとは舞台劇だったそうだけど、舞台の上で役者がこんな言葉でやりあったら、意味がわからなくても観客にはたいそうな迫力だったんじゃないか。
そして最後にモアが絶叫する、「(わたしの罪は)国王の結婚を認めないからだ」という言葉は人間的で理解しやすい。
映画はモアが作法にのっとって、ロンドン塔で首をはねられる場面で終わりだけど、さらにその後の人々の運命がナレーションで簡潔に語られる。
モアを罪に落としたクロムウェルも、数年後に謀反の罪で斬首され、ヘンリー8世もそのうち梅毒で亡くなったというのである。
無神論者のわたしは、いったいあの騒動はなんだったのかといいたくなってしまう。
内容に感心しない部分はあったものの、それを無視して、セリフのやりとりを楽しむ舞台劇だと思えば、「わが命・・・」はひじょうにいい映画だった。
さて、日本のトーマス・モアであるわたしは、今年もロシア擁護でガンコぶりを発揮することになるのか。
しかしガンコさでいえば、いまだにゼレンスキーさんをプッシュするNHKや、ウクライナを可哀想な弱小国と信じる大半の人たちもいっしょだよ。
今年もまだガチンコ勝負は続きそうだな。
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