豊原放送局
終戦番組の多かった8月に、NHKのBSで「極北ラジオ樺太・豊原放送局」というドキュメンタリーが放映された。
放映直後にそれを観て、なにか書きたいなと思ったけど、その後もNHKのデタラメが続いて、反論を考えるのに忙しく、これについての文章をまとめているヒマがなかった。
いまだって、たとえば昨夜のNHKにはふつふつと怒りがたぎっているんだけど、順番に片づけないとちっとも先に進めない。
豊原放送局というのは終戦のまえに、樺太(サハリン)に作られた日本のラジオ放送局のことである(豊原は現在のユジノサハリンクス)。
戦争が終わるとソ連軍が進駐して、この放送局を接収した。
これは暴挙でも国際法違反でもない。
放送局というのは仲間同士の連絡や、宣伝工作にも使えるので、戦争が終わればまっ先に接収されるのが当然の施設だったのだ。
戦争が終わると、8月23日にソ連戦車隊が豊原へ侵攻してきた。
このころの豊原には30万人の日本人が住んでいて、みんなロシアの統治の下で生活することになる。
30万人といったら、ちょっとした市町村ふたつ分くらいあるから、戦前としたらかなり大きな街といっていいだろう。
ちなみに最盛期の1940年ごろ、樺太には40万人の日本人が住んでいたという。
同じ時期の沖縄が57万人である。
ぞれではロシアの統治というのはどんなものだっただろう。
わたしは番組を隅々までにらんでそれを探ろうとした。
ロシア軍の将官のための住居が足りないので、豊原放送局の職員宿舎も接収されたそうで、番組のなかに日本人の家族とともに、和服を着て記念写真に収まるロシア人が出てきた。
なんだか和気あいあいとした雰囲気である。
もちろんきびしい部分もあって、夜中に鉄道を越えた日本人が、ロシア兵に射殺されるという事件もあった。
しかしこれも日本人のほうが禁令を破ったのが原因で、そんなことがひんぱんにあったようではない。
遺体を確認に来いといわれて、彼の奥さんは小さな子供を連れて、現場までとぼとぼと歩いていったそうだけど、深夜に母子が無事で歩けたということは、それほど治安が悪かったとも思えない。
わたしはあら探しをしているわけではなく、できるだけ当時の豊原の雰囲気を感じとろうとしているのだ。
血まみれの戦いの果てに米軍に占領され、戦後も米兵の暴力沙汰がひんぱんに起こった沖縄に比べると、全体としてロシアの統治はおだやかなもののように思える。
もちろん日本軍が県民をまきぞえに頑固に抵抗した沖縄とは、そのままの比較はできない。
北のほうの悲惨な戦いというと、アリーシャン列島のアッツ島の玉砕が有名だけど、これは米軍が相手だった。
悲惨の実例はまだある。
ロシア軍が侵攻してきたとき、日本は多くの島民を北海道に疎開させようとして、避難民を乗せた船がロシアの潜水艦に撃沈され、犠牲者がたくさん出たという。
ここはロシア軍の潜水艦“らしい”とあいまいな表現になっていた。
第二次世界大戦のころ、ロシアに潜水艦なんてあったかい。
調べてみたら、あったことはあったけど、だらしない潜水艦で、作戦中に沈没して行方不明だそうだ。
米軍の潜水艦だった可能性もあるんだろう。
番組の後半になると、古川日出男サンという、ネアンデルタール人みたいな作家がナレーションを担当していて、それがホラー仕立てで、話し方、光の当て方など、目いっぱいロシアを怖い国だぞと見せかけていた。
ケシカラン話である。
日本が降伏したあと、樺太にいた日本兵はシベリアに抑留されたけど、それについてはわたしのブログに書いたことがある。
放送局で仕事をしていたアナウンサーや技術者は、ロシア国内に連れていかれて、日本向けのラジオ放送の仕事に従事した。
ただ、これも無理強いされたわけではなく、女性アナの中には、抑留兵士の安否を日本本土にいた家族に伝える業務を担当していた者もいる。
そして彼らのほとんどが、最終的に無事に日本に戻っているのである。
日本にもどってからの彼らの運命については、もうぜんぜん別の話だけど。
この番組を見終わって、日本は米軍に占領されるよりロシアに占領されたほうがよかったんじゃないかと、ちらりと思った。
戦後の日本はアメリカに占領され、冷戦時代は西側に所属したので、怒涛のようにアメリカのプロパガンダが流れ込んだ。
わたしたちはロシアに対して必要以上の警戒感を持たされてしまったかも知れない。
最初からロシアに占領されていれば、樺太や北方四島はとっくに返還されて、いまごろはアメリカの沖縄占領は不当だ、返せと、まったく逆の状態が生まれていたんじゃないかね。
| 固定リンク | 0



コメント