本と書斎
紀田順一郎さんといえば、ことしの7月に亡くなった作家だけど、彼は研究者でもあったから、その蔵書は部屋ひとつかふたつを埋める分量で、ヘタな図書館や古書店なみだったらしい。
彼の「蔵書一代」という本には、終活をむかえた作家の、この本を処分するための苦労話が載っていた。
彼の場合、トラックに作業員数名を必要とする大仕事で、作家は腰を痛め、一段落したあと、気が遠くなって倒れたそうである。
ココログにも似たような状況で、本を整理するのに腰を痛めたという人の体験談が載っていた。
本箱にぎっしり本が並んだその人の書斎の写真を見て、しみじみ思うこと。
わたしも若いころは本をたくさん所有していたけど、本というのは内容がわかればいいという主義で、同じ本が文庫で出ている場合はかならず文庫にした。
もっともわたしはずっと貧乏だったから、独立した書斎など持てるはずがなく、スペースの都合もあったんだけど。
しみじみ思ったというのは、写真を公開した人の書斎をよく見ると、わたしならこの1/5か、もしかすると1/10のスペースで済むのになあということ。
たとえば彼は広辞苑なんて、枕になりそうな、それ以外に使い道のないでっかい本まで所有していた。
なにかを調べたかったらいまではインターネットを駆使すれば、はるかに中味の充実した事典になるし、リレー検索という紙の書籍には出来なかったことさえ出来るのだ。
そういう時代なのだとわかってから、わたしは広辞苑もさっさと可燃ゴミに出してしまった。
いまの時代、そもそも広辞苑でさえ、古本屋で二足三文だろうと思ったから未練はなかった(新村出さんにははなはだ申し訳ないけど)。
有名作家の本も、だいたい有名作家なら、まず図書館に置いてあるはずだから、これも処分だ。
司馬遼太郎の「街道をゆく」はわたしもすべてを揃えていたけど(もちろん文庫で)、これも処分した。
そのとき初期の文庫本カバーには、エンボス加工という珍しい処理がしてあったので、もったいないことをしたということは、このブログに書いたことがある。
文庫本ばかりだから、処分に未練がないというのはよかったけど、わたしには読みたい本が読みたいときに読めるという、コレクターの心理も理解できるのだ。
わたしは本以外にLPレコードも集めていて、最盛期にはこれも600枚から700枚はあった。
しかしこれもデジタル時代が到来して、CDになり、ネット時代になると、処分せざるを得なかった。
仕事をリタイアしたあとで趣味として聴けるのではないかと期待していたんだけど、LPレコードを聴くためには、ターンテーブルやオーディオ装置、スピーカーも必要だし、定期的に高価な針も替えなければいけない。
よほどのマニアでもないかぎり、デジタルの便利さに抵抗できるもんじゃない。
とうとうわたしは、レコードも若い知り合いにそっくりあげてしまった。
彼にわたしと同じ青春体験をしてほしかったんだけど、すると彼はそれを右から左へ売り飛ばしてしまった。
もはや怒る気にもなれない。
聴きたいときに聴ける便利さはデジタルでも可能だし、現代はそういう時代なのだ。
書斎の話にもどろう。
ちなみにこの書斎の写真を公開していた人は、最新のブログでロシアや中国のことを書いているんだけど、NHKを筆頭とする日本のマスコミのいうことを、もろに真に受けているようだ。
いったい本を読むということはどういうことなんだろう。
相手の立場でものを考える、歴史を大きな視点から俯瞰する、そういう能力を身につけることじゃないのか。
ロシアにしても中国にしても、過去にはたしかにひどい時代があった。
するとその時代ばかりを問題にして、現在の指導者が過去を反省し、新時代に対処しようとしていることなど一顧だにしないのである。
ロシアの場合はウクライナ侵攻以降だけに固執し、中国の場合は日中戦争から毛沢東の時代ばかりを持ち出す。
これでは歴史を部分的にしか捉えてないことになる。
書物を部屋のインテリアとしてしか使ってない人は多い。
オレはこれだけ本を読んでるんだぞと、他人にはったりをかますには、大判の全集なんかは便利なものだから、そういう使い方もあることはあるんだけどね。
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コメント
私は学生の時、本棚ごとそれまで集めた本を処分した過激派学生でした。それをさせたのは、大学の巨大な地下三階まである書架でした。
https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12738326304.html
今はデジタル化で、そもそも紙媒体でない場合も多いし、書庫に入ると言う経験も出来ないでしょうね。ちょっと残念な気もします。
投稿: Hiroshi | 2025年12月14日 (日) 16時39分