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2026年4月

2026年4月30日 (木)

あああー

あああー、やっちゃったよ。
前項の記事を更新しようとしてどこか手元が狂ったのか、4月10日から4月30日までの記事を一瞬で削除。
せっかくの妄想老人日記も判読不能だ。
やはり脳梗塞だねえ。

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安楽死

わたしのブログにときどき名前の出てくるShinzeiさん、彼は以前日本も安楽死を法制化するべきだと書いていた。
そんなことをしたら死にかけたじいさんのわきには、遺産目当ての親族親戚がハゲタカのように群がってくるだろう、ということまで考えてないのが彼の主張の欠点だったけど、最近はわたしもつくづく考えるよ。
YouTubeを閲覧していたら、タバコをやめられず、病(脳梗塞)に倒れた有名人というチャンネルがあって、あの西城秀樹クンも脳梗塞だったんだってね。
彼の場合には何度か再発を繰り返した悲惨なものだったらしい。
それでも彼は人気者で、財政的にもめぐまれていただろうし、見てくれる親族もいた。
わたしみたいな貧乏人が再発したらどうにもならんよ。
そう考えると不安にかられてしまう。

いま元気でも誰でもかならず老いて老人になるのだ。
死の瞬間を考えて不安にならない人がいるだろうか。
しかし安楽死法があれば悩みはすべて解消だ。
死の瞬間は自分で選べて、医師の立ち合いのもと、苦しみも少ないように確実に死ねるとなったら、これはヘタな年金や介護保険よりも、未来の保証としては完璧な制度じゃないか。
たとえばわたしが脳梗塞が再発したら、日ごろご無沙汰している親戚を集めて、オレはこれから死ぬからなと宣言する。
死なないでという親戚は、わたしの場合あまりいそうもないけど、それでも未練はぜんぶ断ち切って、心安らかに病院のベッドで医師の裁定を待つ。
いちばん大きな利点は、安楽死が法制化されていれば、安心して、残りの人生を健やかに過ごせるということだ。
“願わくは花の下にて春死なむ“と歌った西行の時代に安楽死法があれば、彼も“そのきさらぎの望月のころ”を自分で選べたわけだ。
安楽死法は日本人すべての見果てぬ夢なんだよ、古来から。

カナダには安楽死法があるという。
前述のハゲタカ問題をクリアする、なんらかの方法が考えられているんじゃないか。
自民党もこういう点を見習ってほしい。
ああ、病院のベッドのうえで親戚に見守られて、花壇に花がいっぱいのころ、幸福な最後を迎える自分を夢見るワ。
閣議決定でもなんでも早くしてくれないと、わたし死んでしまうからね。

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2026年4月10日 (金)

カフカの「変身」

前項で“ある朝起きたら脳梗塞で介護老人になっていた”と書いた後で、どこかで似たような本を読んだことがあるのに気がついた。
出張セールスマンのグレゴール・.ザムザ君がある朝起きたら自分が1匹の甲虫になっていたというカフカの「変身」である。
あわてててて青空文庫でこれを読み返してみたら、シチュエーションはよく似ている。
脳梗塞と甲虫ではだいぶ違うではないかというなかれ。
目を覚ましてみたら、自分が手足も自由に動かせない、それまでの自分とは全然異なる生き物になっていたという状況はよく似ているではないか。
ザムザ君が甲虫に変身したからと言ってSFやホラー映画のような大騒ぎにならず、両親や妹も比較的冷静であるところが不条理文学の不条理たる由縁だ。
じっさいにはカフカを取り囲む環境はかなり厳しいものがあり、孤独や閉塞感などの重圧から逃れるために彼に変身願望が生じたとすればその点もわたしに似ている。
わたしも最近のキチガイじみた世相から逃れたいとつねづね感じているのだ。
だからといって、この社会の介護システムの恩恵を無視してまでは生きられない。
そういう矛盾を内蔵したまま、わたしのこのブログ記事は終末になだれ込む。
もだえ苦しむわたしを放っておいたまま、世間のほうはいままで通りにゆったりと時間が流れていくのである。
わたしの花壇ではチューリップが花盛りで、近所の保育園の子供たちが歓声を上げながら見とれて行く。
あのなかの少女もやがてはおとなになり、きれいな娘になるだろう。
世間はなにも変わらず“変身”したわたしだけが、不条理文学の主人公のように忘れられていくのだ。

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2026年4月 9日 (木)

みんな頑張ろう

ある朝起きたら脳梗塞で介護老人になっていた。
治療方法はないのかねと考えていたら、どうもなさそうだ。
同じ病気を患った有名人に、あの田中の角栄さんがいた。
彼は資産家だし、いま太閤と呼ばれたほどの実力者だから、治療方法があるなら、彼のほうがとっくにやっているだろう。
そんな形跡がないということは、つまり脳梗塞には治療方法がないということだ。
これでは回復を信じてリハビリに励んでいる全世界の患者さんの希望を断ち切ってしまうな。
そう思うから、わたしはできるだけ楽天的に生きようと思う。 
幸い日本は介護老人のアフターケアでも世界の最先端を行く国だ。
どっちにしてもわたしはそのうち寿命が尽きる。
残りの人生で、フツーの人がめったに体験できない脳梗塞患者の日々をつづって日本の文学史に名を残すのだ。
これもなにかの縁だけど、近所の元ライ病患者の収容施設・全生園には北条民雄いう先駆者がいた(彼の作品はいつでも青空文庫で読める)。
見よ、この気宇壮大なこと。
全世界の同じ病の患者さん、あなたは決してひとりじゃないんだよ。

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2026年4月 8日 (水)

世代の断絶

壊れた風呂に悩んでいた久美ちゃんはどうなったいと、例の「久美のNEWSな日記」(7日づけ記事)を読むんだけど、あいかわらず自虐ネタがおもしろい。
日大の理事に収まって、いまは大御所みたいな顔をしている林真理子だって、そもそものスタートは自虐ネタだった。
世間の常識をひっくり返すような愉快な文章をどしどし書いとくれ。
まじめくさって天下国家を論じるようなブログは読む気がしない。

YeuTuなんかを観ると、もうなにも信じられないという人も少なくないだろう。
わたしは時々自分の過去ログを読み返すんだけど、キチチガイじみた世界で唯一信じられるのがこのブログと言っても過言じゃない。
わたしだって、どうしても団塊の世代の常識から逃れられない古い人間だよ。
こんなことを書いたのは久美ちゃんが、駅で若いサラリーマン3人連れのあけすけな会話を聞いて驚いていたからだ。
久美ちゃんもこちら側の人間かと安堵したけど、その程度で驚いちゃいけない。
私も人間を70年もやっているから、若者の驚くような発言や言動はたくさん見てきた。
それでも最近の風俗の乱れはじいさんには想像もできないレベル。
とくにネットに氾濫しているポルノビデオなんかを観ると、もはや日本に処女の女子高生、貞淑な人妻なんて絶滅したんじゃないかと思うくらい。
久美ちゃんも駅で見た3人連れの会話ぐらいで驚いていると、若者たちから遅れていると思われるだけだ。

もうひとつ。
彼女は小泉悠サンのファンらしいけど、小泉サンといえばNHKの御用解説者のひとりで、ウクライナ戦争を煽った張本人でもあるんだから、あまり彼を信用してほしくない。
といってもいったん信じてしまったカルトから抜け出すのが容易でないことも、嫁さんが亭主に三行半を叩きつけるほど簡単でないこともわかる。
あなたの苦しいことはよくわかるけど、ただでさえ理屈っぽい女と思われそうだから、これ以上ウクライナ兵の家庭を破壊するのに加担するのは考えましょうよ。 
ねえ、久美ちゃん。

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2026年4月 7日 (火)

日本人の気質

司馬遼太郎の「街道をゆく」のどこかに日本人はなぜむかしから綺麗好きだったのかと考察する箇所があった。
そういわれると、銭湯だけで一冊の本が書けるくらい日本人はむかしから風呂が好きである。
作家も理由がわからないまま「日本は湿気が多くべとべとしてるから」などといい加減な返事ですませると、いあわせた中国人からそんな国はほかにいくらでもあると反論されていた。
けっきょく本のこの部分では結論が出なかったようだから、わたしも考えてみた。
なんで日本人はむかしから風呂が好きなのか。綺麗好きなのか。
例によってググッてみると、生成AIは日本には“禊ぎ”という宗教的慣習があったからなどとこむずかしい理屈をいう。
神代のむかしまでさかのぼってみればそうかも知れないけど、日本は地理的条件もあって、むかしから水はタダといっていいくらい豊富だったということが考えられる。
たとえば水の乏しい砂漠の国で風呂に入る文化が育つだろうか。
おまけに温泉もたくさんあったから入浴の効能もよく理解していたといえるんじゃないか。

近世になってからはこれに新たにひとつの要素が加わった。
徳川300年の治世である。
徳川幕府というのは当時の世界でも傑出して格差が少なく、治安のよい政府だった。
しかも神田上水、玉川上水の掘削に見られるように300年の治世を通じてつねに水はタダ当然だった。

貧しい人はどんな国にでもいると考え、全体的に見れば、江戸時代はだれでもゆとりを持って暮らせる社会だったのだ。
熊さん、八っつあんでも仕事を終えた後、吉原へ女郎をかまいに行けたのである。
女郎をかまいに行くのにひと汗流してからというのは誰でも考える。
この点でも江戸幕府は人口の割合に応じて銭湯いくつというふうに銭湯の普及にも努めた。
こんな国はほかにない。
ロシアや中国のような帝国や王朝では、権力者の欲望は止まることがなく、庶民は苛斂誅求のぼったくり政治に喘いでいた。
へたに金を儲ければ権力者に目をつけられて財産没収、当人は無実の罪で死罪なんてことがいくらでもあったのである。
庶民が明日の心配をせずに安心して暮らせる。
これが日本と外国の違いだ。

越後屋や白木屋のような大店もあったけど、ただ儲けるわけにはいかず、彼らは町内の祭りごとや火災防災に責任を持たされていたし、店の前はつねに掃き掃除を、これは自ら進んでやっただろう。
そういう費用を分担させることで、江戸幕府は格差の拡大を抑えることに熱心だった。
結論として、日本人の清潔好きというのは徳川300年の善政によるところが大きいと思わざるを得ない。
綺麗好きだけではなく、いま訪日外国人たちが感心する日本人の美徳のほとんどが、徳川幕府の治世時代に備わったといっていいだろう。

「街道をゆく」には、日本人のこの綺麗好きが他の民族への蔑視につながったとも書いてあった。
綺麗好きというのは生物学的な生まれつきの個性ではないのだから、同じモンゴロイドの中国人でも、お上が公正な政治をしさえすれば、やがて日本人と肩を並べる可能性がある。
自分のいい点だけを見て他人を評価すべきではない。
もうすこし謙虚になったほうがいいということで、最近のYouTubeなんかの日本スゴイ系の映像なんがを観るとつくづくそう思う。

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2026年4月 6日 (月)

つげ義春と夏目漱石

アマゾンで注文しておいた、つげ義春の「紅い花」が届いた。
小学館の文庫シリーズで、同じ文庫の「ねじ式」を揃えれば、わたしがもういちど読みたい彼の作品はほとんどこの2冊に入ってるのだ。
以前にも持っていたんだけど、終活で処分してしまって、もったいないことをしたものだと思う。
そういうことはよくある。
処分した本を、ある日突然読みたくなることが。
脳梗塞で寝たきりのわたしは、作家の死を聞いて、むしようにその作品を読みたくなったのだ。
1冊300円の中古本だけど、これが与えてくれる喜びはとてつもなく大きい。

つげ義春と井伏鱒二の小説に共通点のあることは世間によく知られている。
意外かも知れないけど、わたしはそこに夏目漱石も加えようと思うのだ。
つげと夏目漱石という取り合わせはまだ論じた人はいないんじゃないか。

夏目漱石に「草枕」という小説がある。
これは主人公が熊本の那古井温泉をめぐったときの思い出を創作化したものだけど、物語の中に劇中劇のような感じでもうひとつの旅のエピソードがはさまる。
それが房総半島の小さな海辺の宿に泊まった時の回想で、主人公にいわせると草双紙にでもありそうな体験ということである。
このエピソードを読んでわたしがまっ先に連想したのがつげ義春のマンガだった。
つげの作品にも房総半島を舞台にしたものは多いし、わたしにも房総半島は思い出の多いところなのである。

わたしは若いころ、タンポポのいちめんに咲いていた季節だったけど、養老渓谷から外房の安房小湊まで縦走を試みたことがあって、あちこちで見た農村風景に、ついつい「西田部村事件」のようなつげ義春の作品を思わないわけにはいかなかった。
草双紙に出てきそうな宿屋というのが本当にあるなら、わたしもぜひ泊まってみたかった。
残念ながらそういう宿には出食わさなかったものの、わたしはいまでも草枕のこの部分をよむたびに、つげ義春のマンガから受けた感動と同じものを感じるのである。

草双紙の部分はとちゅうにはさまったエピソードに過ぎないけど、本題の那古井温泉の部分もつげの作品を思わせる。
明治の田舎はすべてそうだったのかも知れないけど、那古井の里温泉のある田舎にはひょうひょうとした空気が流れていて、その空気を破るのは宿のひとり娘で出戻りのお那美さんだけである。
彼女は漱石好みの大胆で先進的(当時としては非常識)な女性で、旅をしている主人公の絵描きが、結婚式のときのあなたはさぞかし美しかったでしょうね、見たかったなあというと、みなが寝静まった深夜にじっさいに花嫁衣装で画家の枕元に立ったり、画家と西洋の美術について談義したあと(けっこう知的な女性なのだ)入浴中の画家のわきに全裸で現れたりする。
もちろん明治の文学だからたちまち生殖行為に励むわけじゃないけど、その駘蕩とした雰囲気はまさにつげ義春の旅である。
わたしはつげのマンガから受けたと同じものを、草枕を読んで脳の中の同じ部分で感じていたのだ。
こういう名作をどんどん読んで、せめて旅を愛する人だけにでも、その素晴らしさを伝えるのは団塊の世代の義務じゃないだろうか。

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鬱金香(チューリップ)

1396

今年もチューリップが満開になった。
残念ながら脳梗塞をやったわたしはもう手入れができない。
そこで自嘲的な一句。
  鬱金香不具者の身には身にあまり

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2026年4月 4日 (土)

マンガの技法

『江口寿史さんの記念イラスト、柏市が公開中止を決定』
これは今日のSNSの見出し。
江口寿史さんといえば制作した絵がトレースされたものだったと言いがかりをつけられて非難の的になっているマンガ家だ。
またなにも知らない素人がつまらないいちゃもんをつけているなとしか思えない。
わたしは漫画家をこころざしたことがあるので知っているけど、トレースというのはマンガを描くうえで避けて通れない立派な制作技法である。
わたしの尊敬する宮谷一彦さんの作品にはスクリーントーンを何枚も重ねてまるで写真ではないかと思えるような細緻な背景がたくさん出てきたけど、あれもオリジナルの写真があってそれをトレースしたものだろう。
つげ義春さんの「ねじ式」でさえ、写真をトレースした部分があることがわかっている。
田柄水疱や手塚治虫、清水昆さん、近藤日出造さんまで遡れば、古いマンガ家のなかにはペン1本で、無から有を生じるようにどんな絵でも描いてしまう名人もいたけど、現在のように絵の心得もないようなサラリーマン漫画家が増えている時代にはトレースは必要な作画技法だと思う。
ちなみにわたしは江口寿史さんの絵は好きではない。
そんなことはさておいて、いちばんの問題は正義づらしてなんにでもいちゃもんをつけて喜んでいるアホどもだよ

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2026年4月 3日 (金)

四月バカ

先日の4月1日に四月バカと思われるジョークがネットを飛びまわったけど、わたしが感心したスマートなジョークは「極東ブログ」さんのもの。
𝕏 の grok 自動翻訳機能が引き起こした「飯テロ戦争』と題された4月1日の記事で、リンクを張っておいたから、上等のユーモアというのはこういうものだとこころして読んでほしい。

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2026年4月 2日 (木)

わたしのヘルパーさん

わたしのヘルパーさんが決まった。
トライアスロンにでも出そうな元気な若者である。うらやましい。
彼がわたしの欲するものを代行して買いに行ってくれるんだそうだけど、彼にいわせると欲するものといっても酒やタバコはダメだそうだ。
銀行のカードを渡して預金を下ろしてきてくれということなどもダメ。
そりゃ当然だろう。
ほかにも禁止されている細かいことがいくつかあって、2階の部屋のガラス窓を掃除してくれなどという危険を伴う仕事はダメだという。
わたしは遠慮深い人間なので、あまりメンドくさい仕事を頼んで嫌われたくないから、自分できることは可能な限り自分でやるつもりだけど、いったい彼らの仕事の範囲はどこまでだろう。
買い物の代行なんて楽な仕事に思えるのに、最初人材不足と言われてヘルパーさんが決まるまでけっこう時間がかかったのは、メンドくさい仕事でもやってくれというわがままなな被介護者もいるのかも知れない。
部屋の掃除もやってほしいことのひとつだけど、これはわたしだって自分でするのもキライだから、頼みにくいよな。
しかしヘルパーさんは、それが仕事ということを承知で報酬を得ているのだろうから、むずかしいところだ。

だんだんヘルパーさんの仕事の仕組みがわかってきた。
最初に仕事の内容をきっちり決めておかないとダメといわれたのも、その点が曖昧では報酬額も決められないということなのだろう。
それにしても介護士の仕事のすそ野は広い。
現在の若者が手っ取り早く介護士の資格を取ろうというのもよくわかる。
しかしこの仕事ぐらい他人に対する寛容の精神がないと務まらない仕事もないだろう。
よく老人ホームで虐待なんて事件があるけど、じいさんばあさんにわがままをいわれてすぐプッツンするような若者は、最初からこの仕事を選ぶべきじゃないのだ。
わたしみたいにヘルパーさんの心身を気遣うやさしい被介護者ばかりじゃないのだから。

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