悔悟
わたしは意気地なしである。
それもとびきりの、女の腐ったようなやつと蔑視されるタイプらしい。
沖縄で割腹自殺した軍人のことを書いたばかりだけど、むかしの侍はよく切腹した。
エラいなあと思う。
わたしにはとてもできそうもない。
若いころ民家の解体現場で働いたことがあり、そのさい長靴をはいたまま、五寸釘を足の甲が突き抜けるくらい踏み抜いた。
長靴の中はたちまち血の海だ。
このことを思い出すだけで、いまでも胸がドキドキする。
とても切腹なんかできそうもない。
切腹まで行かなくても、わたしの知っている著名人でも高所から飛び降りたり、首をつったりした人間はいくらでもいる。
女々しいと思われていたフォーククルセダーズの加藤和彦クンも首をつった。
もちろんそこまで追い詰められたということはあったのだろうけど、首をつって足下の椅子をけとばす、そんな簡単なことでも、わたしには出来そうもない。
こんなことを書いたのは、たまたまYouTubeで、郷里の先輩である萩原朔太郎の文章を朗読するチャンネルを観たからだ。
「老年と人生」というその文章は、死ぬに死ねない詩人のなげきを書いている。
気になったので朗読のもととなった原文を読んでみた(青空文庫に出ている)。
どうも人間には侍みたいな度胸のあるタイプと、詩人みたいな軟弱なタイプがいるようだ。
朔太郎の文章も、その前半では、若いころは若さを重要視していて、30になったら死のうなどと乙女チックなあこがれを書いている。
詩人らしいたわごとに近いあこがれで、若いころのわたしも似たような考えを持っていた。
ところがその歳になっても死ぬに死ねず、まごまごしているうちに老年になってしまったと、自分の弱い性格をなげいている。
このあたりにおおいに共感を感じたけど、文章の後半になるとしだいにわたしの人生とは乖離する部分が多くなり、朔太郎自身の人生哲学のようになってきたので読むのをやめてしまった。
朔太郎はいい家のお坊ちゃんで、結婚もしたし、親の遺産を食い潰すほどの道楽もしたけど、わたしはずっと貧乏人の2男のままだったのだ。
付き合っていられないよと、文章の後半は読まなかったけど、さすがは郷里の大先輩、人生の終末になってわたしたちはもういちど似たような嘆きを訴えることになるのだ。
わが草木とならん日に
たれかは知らむ
敗亡の歴史を
墓に刻むべき。
われは飢ゑたり
とこしへに過失を
人も許せかし。
過失を父も許せかし。
わたしの人生も過失だった。
毎晩くやんでも悔やみ切れない悔悟に押し潰されそうだ。
わたしは父だけではなく、母親にも謝らなければならない。
ああ、しかし、わたしをこんな奇形児に産んだのはあなたたちではないか。
ただ願うのは草木に返る日の早からんことをというだけ。
わたしはいったいなんのために生まれたのか。
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