思い出のページ

2024年11月20日 (水)

思い出話

『切り落としの端の肉なら問題ないと、バーベキューで食べた自衛隊員処分』
つまんないニュースだけど、今日のネットニュースで見つけた見出し。
取り上げたのは、部数激減で鬱屈状態のアノ朝日新聞(デジタル朝日)。
自衛隊の話題らしいから、むかし自衛官のわたしも気になったんだけど、なんでもどこかの港に寄港したさいに、上陸した自衛官16人が艦内の食料のあまり肉でバーベキューをしたんだそうだ。

うーむ。
ホント、重箱のすみをつっつくようなセコい事件を見つけて来るよな。
いまだから話すけど、わたしも艦の食料品積み込みにかり出されたことがある。
積み込んだ食料のなかに美味しそうなブドウがあったから、航海中にきっとあれが出るなと楽しみにしていたら、けっきょくぜんぜん出なかったことがある。
ああいうのは4分隊(調理係)が自分たちだけで食べてしまったに違いない。
むかしから食い物の調達は軍隊の腕の見せ所で、官給品の上前をはねるくらいお茶の子さいさいなのだ。

そんなことよりクルスクに派遣された北朝鮮兵士の続報はないのか。
ロシアでただ飯を食って、彼らはそれに見合った働きをしてるのか。

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2023年6月15日 (木)

ささげ銃

自衛官が射撃訓練所で教官や同僚を射殺したという事件。
キューブリックの「フルメタル・ジャケット」のなかに似たようなシーンがあったな。
映画になるくらいだから、アメリカの軍隊では、ああいうことはよくあるのかも知れないし、日本もようやく米国なみになってきたということか。
わたしも自衛隊にいたことがあるから、体験談を話し、最後にこういうことが2度と起こらないアイディアを披露しよう。
最後まで読むべし。

自衛官には年に何度かの実弾射撃が義務づけられている。
わたしが在任していたのはもう半世紀もまえのことだけど、だいたいの手順はいまでも変わってないだろう。
新兵たちは、今日は実弾射撃の訓練だってことで、トラックに積み込まれて訓練場に向かう。
実弾を撃った経験のあるやつなんてまずいないから、ああ、おれもついにコンバットかと、みんな胸がドキドキだ。

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わたしのころは米軍払い下げのM1ライフルというやつで、これはけっこうよく当たる銃だったけど、なにしろ肉食のアメリカ人用だから重いのに苦労した。
訓練中にヘマをすると、ささげ銃(ササゲヅツ)のかっこうをしたまま、兵舎のまわりのグランドを一周してこいなんていわれる。
こういうときに教官に密かな殺意が芽生えるんだけど、わたしらの時代にはそれは殺人だということをみんな理解していたから、なんとか無事にすんだ。

訓練場につくと、腹ばいになって銃と弾丸を渡される。
銃のかまえ方、装填の手順などを教わって、まず最初に銃の照準合わせのための射撃を、3発ぐらいだったかな、やらされる。
つぎにカートリッジになった8発の弾丸を装填し、目標をねらって撃つ。

いまはどうだか知らないけど、だいたいこんなもので、このときに近くに殺したい人間がいれば、殺す機会はいくらでもあった。
とくに昨今のようにすぐ切れる若者が多いと、ふだんの訓練ではなにが原因になって教官を殺したいと思う人間が出てこないともかぎらない、
わたしの経験でも、体育の教官に全員のまえで平手打ちをされ、ののしられた新兵もいた。
ああいう教官が射撃場にいっしょにいたら、命がいくつあっても足りないんじゃないか。
だから2度と今回のような事件を起こさせたくなかったら、ふだんの訓練をする教官と、射撃の訓練をする教官はべつの人間にしておくことだ。
人を撃つのは台湾有事に引っ張り出されて、どこかの軍隊と対峙するときまで待ちなされ。

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2023年2月 5日 (日)

なつかしの旅

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ちょっと体調がおかしいな。
どこか痛いとか痒いとかじゃないんだけど、昨日は自転車で出かけたら、なんだか体が自分のものじゃないような感じがしたし、今夜もパソコンに向かうと、頭がスカスカになっていくような感じがする。
ひょっとすると、いままさに死んでいくところじゃないかと思ってしまった。
司馬遼太郎の「街道をゆく」のなかに、夜中に水を飲もうとして、台所で倒れて亡くなった友人のことが出ていたけど、こんな具合にぽっくり死ぬのなら楽でいい。

なにかやり残したこと、思い残したことはないかなと考える。
去年、花壇に植えたオオツルボが今年の春にちゃんと咲くか、ウクライナ戦争の結末はどうなるかというぐらいで、ほかにはとくにやりたいこともないね。
行ってみたい旅行先はたくさんあるけど、最近はおっくうが先に立つし、絵を描くとかパソコンで新しいことをする意欲も衰えた。
いまさら有名になって金持ちになろうとも思わないし、片思いの人妻がいるわけでもない。
ただぼんやりとむかし聴いた音楽でも聴き直して幸福を感じるくらいだ。

ただ突然死となると、連絡を取り合う家族がいるわけじゃないから、部屋で腐乱死体になるまで発見されないかも知れない。
みっともないかなと思うけど、死んでしまえば自分にはわからないんだから、心配しても仕方がないか。
まあ、せいぜい新しいパンツでもはいておこう。

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いま録画してあった「大路通天」という紀行番組を観ている。
これは中国人のディレクターが、上海からチベットまで、中国の国道318号線をヒッチハイクするというもので、もちろんわたしのむかしの中国の旅を思い出した。
わたしの旅というのは、やたらに街や農村をうろつきまわるというものだったから、この番組のスタイルと似てるのだ。
発展めまぐるしい中国だけど、ちょっと街をはずれると、人々の生活や衣服はあのころと変わってないなあと思う。
そうやって過去の旅を追想しながら、いつのまにか、そのままあの世への道をたどっているのが理想の死に方なんだけどね。

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2022年2月27日 (日)

砂ぼこり

昼間、買い物に行こうとして、見ると家々の向こうに茶色の砂ぼこりが。
そうか、もう春はすぐそこだなと思う。
わたしの郷里は群馬県で、赤城山から吹きおろすカラっ風が名物のところだった。
むかしの家の近所は田畑が多く、春先の風の強い日は砂ぼこりが黄砂のように舞い上がった。
まずいことにわたしの家は中学校の校庭の風下にあり、吹き込む砂ぼこりもハンパじゃなかった。
親父が結核で入院していたから、勤めに出ていた母親が疲れて帰宅すると、家のなかは砂まみれになっていて、部屋の掃除は毎日の余分な日課のようだった。
ああ、幼かった頼りない息子のわたし。
死んだ母親ともういちど会うことはできないものか。
謝りたいことは山ほどある。

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2022年1月 6日 (木)

雪の記憶

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なんかロシアのホテルで見た雪景色を連想してしまうな、今日の雪。
ということで当時の写真と今日の写真をならべてみた。
ロシアの写真は2013年1月27日、エカテリーナの夏の離宮から近いサンクトペテルブルクのナタリー・ホテルにて。

わが家の花壇にもしんしんと雪が積もる。
もう春は遠くない。
まだ冬になっばかりじゃんという馬鹿者。
1月の雪というと、もはや春は遠くないというのが詩人のジョーシキ。
きみはまだ修業が足らんよ。

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2020年5月30日 (土)

ポプラの綿毛

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いい天気なので散歩に出かけようとして、小さな公園のわきを通りかかった。
ここはいつも白い綿毛のようなものが飛び交っているところだ。

いまの季節だと、ひょっとするとアレじゃないか。
このあいだまで住んでいた大沢村の散歩コースのわきにハコヤナギ、これはようするにポプラのことだけど、それが生えていて、やはりいまの季節に、天使の鱗粉のような綿毛を盛大にふりまいていた。
ただしポプラには綿毛を生じるものと、そうでないものがあるみたいで、わたしがこの綿毛に気がついたのは、もうけっして若くないシルクロードを旅したころのことだった。

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中国の新疆ウイグル自治区にはこの木がひじょうに多く、あちらでは白楊と呼ばれる。
ほかに樹木のあまりない土地だから、この木の記憶はいまでも鮮やかだ。

そういうわけで、小さな公園のハコヤナギは、連想ゲームのようにわたしを、わたしの人生がいちばん輝いていたむかしにいざなう。

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最近のわたしって、仙人が霞を食べて生きているように、思い出ばかりを食べてるね。
いちおうコンビニのカツサンドも買ってはありますが。

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2020年3月 5日 (木)

思えば遠く

今朝のウチの新聞に、「あのころの東京」という企画記事があって、1947年の新宿の写真が載っている。
まだ戦後まもないころで、焼け跡で野菜の自家栽培をするモンペ姿のお母さんの向こうに、伊勢丹ビルが見えるという写真だ。
この年はわたしにとって思い入れの多い年なので、ついなつかしい気分で見た。
といっても、わたしは東京生まれじゃないから、写真と同じ時期の新宿の景色を知っているはずがない。

わたしが知っているいちばん古い新宿というと、若松町にあった税務大学まで、進学した友人を訪ねて行ったときのことになるか。
歌舞伎町から路面電車に乗って行ったことをおぼえているから、まだそれが廃止されていなかったころだ。

その後、わたし自身も東京に出て生活を始めることになり、それからはやたらに新宿、代々木あたりを徘徊することとなった。
新宿駅の西口には浄水場の跡が残っていて、だだっ広い空き地になっており、その中にしばらくは京王プラザホテルがぽつんと建っていた。
わたしの青春の舞台はほとんどが新宿がらみで、映画「初恋地獄篇」や、マンガ「赤色エレジー」みたいな貧しい恋を経験したのもそのあたりだったのだ。

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これは当時付き合っていた彼女の写真だけど、いったいどんなおばあさんになっているやら。

わたしが東京で最初に住んだのは高円寺で、つぎに東中野、そのつぎが調布、さらに府中、三鷹と転居を繰り返した。
独身で家を持たない決意だから気楽なものだったけど、そんなわたしもいま最後(になるかもしれない)の引越しを目前にしている。
思えば遠く来たもんだという詩人のこころ持ちは、いまのわたしにはじつに切実に感じられる。

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2020年1月 6日 (月)

風と笹の葉

先日、野川公園の自然観察園に行ったとき、たまたまクマザサのひとむらに風がさらさらと渡っていくのを見た。
それだけでたちまちむかしのことを思い出してしまった。

若いころ奥多摩の最深部にある酉谷山(トリタニヤマ)という山に登ったときのこと。
そのときは、べつにどこだっていいんだけど、とにかく人里からはなれた、誰にも会わない山に登りたいという切羽詰まった感情におそわれていて、地図をながめ、奥多摩のいちばん奥のほうにある酉谷山を選んだのである。
この山なら山頂からまったく人里と隔絶した景色が眺められるのではないか。
それはとっても素晴らしいことだ。
いろいろ屈折した思いをかかえていたころだったから、そのときはそう考えた。

愛用のジムニーを運転して、登山口にたどりついたのはまだ暗いころ。
車のなかで仮眠をして、夜明けとともに登山開始。
登り始めてすぐ、登山道にそってクマザサ(じつはスズタケという笹であることは帰宅してからわかった)の茂みを見た。
もちろん登山者はわたしだけで、その笹の上をさらさらと風が渡っていたのをおぼえている。

まだ若いころだから順調に高度を稼いで、やがて尾根にたどりついた。
そこでびっくりしたというか、がっかりしたというか。
尾根から反対側に秩父市の街並みが見下ろせたのである。
考えてみれば当然で、こちらからは奥多摩の最深部のつもりだったけど、あちら側からはいちばん手前の山だったというわけだ。
人里はなれた孤独な山というのは、わたしが勝手にいだいた妄想にすぎなかったのだ。

がっかりして降りてくるとちゅう、クマザサのあたりでイヌを連れた登山者に出会った。
クマはいませんでしたかとおだやかでないことをいう。
ここにはクマザサが生えているからというんだけど、そもそもクマザサのクマは歌舞伎のクマどりから来ているので、獣のクマとは関係ないんだけど(そのくらいのことは知っていた)。

その上をさらさらと風が渡っていく笹の葉を見て、ついつい若いころを思い出した。
孤独というのはほんとうに素敵なものである。

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2019年6月14日 (金)

思い出

ほんとうは昨日ブログに載せようと思っていた記事なんだけど。

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最近NHKのBSで、ドローンを使った空撮番組が多い。
12日のそれは「玄奘の冒険」ということで、冒頭ににごった大河の流れる大都市が出てきた。
高層ビルがやたらに増えた印象だったけど、ひと目見ただけで、わたしにはそこが中国の蘭州であることがわかった。
ときどきメールをよこす知り合いが住んでいる街で、わたしはこの街にことさらの思い出があるのだ。

最初の写真は20年ちかくまえのの蘭州で、このころから高層ビルが乱立ぎみ。

玄奘というのは西遊記でおなじみの、孫悟空をお供にして、唐の都長安から天竺(インド)まで、仏教の経典を求めに行った三蔵法師のことである。
孫悟空についてはワカランけど、三蔵法師は実在の人物だ。
そして、ひとくちに天竺というけど、飛行機はもちろん、汽車もバスもないころだから大変だ。
長安(現在の西安市)からインドに行くなら、蘭州から青海湖を経て、チベット経由のほうが近そうだけど、当時はチベットが国内問題でゴタついていたので、三蔵はやむなくタクラマカン砂漠を大迂回するコースをとっている。

蘭州では黄河を渡らなければならない。
番組ではここで羊皮筏子(ヤンピーファーズ)というものが出てきた。
ヒツジの皮に空気を入れてふくらませたものをいくつも並べて、その上に筏を組んだもので、大昔からこのあたりで使われている軽便な渡し舟だ。
いまでも観光用に運行されているので、わたしも乗ってみたことがある。
とくにおもしろいものでもなく、これで人馬もろとも黄河を横断したとしたら、三蔵法師もかなり大胆だったはず。

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蘭州から黄土高原のみごとな棚田絶景を経て、ドローンは烏鞘峠を越える。
このあたりもわたしには忘れられない場所だ。
第1回目のシルクロード訪問のとき、列車の中からながめて、シルクロードにあるモンゴルふうの高原と記憶し、つぎの訪問のさいには列車をおりて、わざわざ路線バスで訪ねたところなのである。
ここには天祝という小さな街があって、わたしは蘭州に住む知り合いといっしょに訪ねたこともある。

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万里の長城はこのあたりまでも続いていて、列車の車窓から崩れかかった土壁や烽火台を目にすることも多い。
かっては匈奴の騎馬軍団を効果的にさえぎった長城だけど、現在では歯の欠けた櫛みたいにあちこち崩壊して、あるいは風雨に浸食されてたんなる土手にすぎなくなっており、ドローンで上空から見ると、ヒツジの群れがこっちからあっちへ自由に移動していた。
まだこのあたりにはヒツジ飼いという職業が残っているんだなと、すこし安心。

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列車で烏鞘峠を越えると、やがて砂漠のかなたに万年雪をいただいた祁連山脈が見えてくる。
前夜に蘭州を発って、翌朝初めてこの山脈を見たとき、わたしはむやみに感動した。
むかし、やはり初めてこの山脈をながめた旅人は、いったいどんな感慨を持っただろうと思ったのだけど、そのときわたしの頭の中には三蔵法師のことがあったのだ。

あとの3枚の写真は車中から撮影したもので、いくらかピンボケ。

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2019年4月14日 (日)

羊飼いの文明化

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BSでまたシルクロードを扱った番組が放映され、わたしにはなつかしい敦煌や張掖といった街が出てきた。
4Kカメラによる撮影だというから、シルクロードの最新報告といっていい。
このあたりは20年以上まえにわたしがうろついた場所でもあるので、興味をもって観たけど、莫高窟のあたりの風景はそれほど変わっていないようだ。
これはまあ、世界遺産をかってにいじくり、改変するわけにはいかないということだろう。
それよりも崩壊しやすい砂漠の奇景、景勝地には、尾瀬みたいにちゃんと遊歩道が作ってあって、共産党は軍備以外にもお金を使っているんだねえと思ってしまった。

おもしろかったのは砂漠で放牧をするモンゴル族の生活で、孤独なパオ(天幕)暮らしは変わらないものの、パオのまえに太陽光パネルが設置してあったこと。
砂漠では太陽は最良かつ無限のエネルギー源だから、おおいに利用すべきだけど、時代も変わったものである。
何年かまえにテレビを観ていたら、アフリカでやはり放牧生活をしているマサイ族が、携帯電話でモシモシとやっている場面が出てきた。
孤独な職業の典型だった羊飼いも、最近では放牧中にYouTubeでロシアのバレエでも鑑賞しているのかもしれない。
わたしも負けちゃおられん。

添付したのは、張掖郊外の砂漠で、正真正銘わたしが撮ったもの。
おもしろくもおかしくもない写真でありますが。

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