思い出のページ

2017年7月23日 (日)

むかしなじみ

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昨日はひさしぶりに、版画家で旧友のカトー君のファミリー・コンサートに行ってきた。
しばらく見ないうちにファミリーがひとり増えていて、カトー一家もいよいよ三世代目に突入だ。
そのコンサートには、彼の交際の広さを物語るように、手話ダンスとフラダンスの会が友情出演。
おかげで出演者の平均年齢がおもいきり上がっちゃったけど。

コンサートの聴衆のなかに、ふたりの中学の同級生が混じっていて、なにしろ郷里を離れて50年、同窓会にもめったに参加しないわたしのことだから、いきなり自己紹介されてもすぐには顔が思い出せなかった。
しかし人格形成期の思い出というのは忘れられないものだ。
彼女たちとの会話のなかになつかしい名前がぽんぽん出てきて、そんな旧友たちの消息を聞くのは楽しいこと・・・・ではなかったな。

当時の同級生のなかにホンダという男がいた。
自慢じゃないが当時のわたしは、5、6人のメンバーで構成されたできそこないグループに所属していて、ホンダもそのひとり。
できそこないといっても、進学コースからはみ出しているというだけで、まあ、それぞれ個性があって、なにより庶民的気分でつきあえる気さくな連中ばかりだった。

ホンダの顔には、鼻のわきに大きな黒いあざがあった。
いまなら手術でとれたかもしれないけど、そんなハンディを背負いながらも彼は、当時から悩める少年だったわたしなんかよりずっと明るい性格だった。

このできそこないグループは、中学を卒業するとき、ホンダの家に集まって、これからそれぞれ別の道を歩むわけだからということで、親睦会兼壮行会みたいなことをした。
わたしの家とあまり変わらない貧乏長屋だったけど、彼の両親もかんたんな料理を出して歓待してくれた。
そのとき集まったメンバーはK、A、Mと、あとひとりの顔をどうしても思い出せないけど、ひとり高校に進学し、さらに社会人になってから郷里を離れたわたしには、忘れられない大切な仲間たちだ。

ただ、そういう友人たちを思い出のなかに封印してしまうのがわたしの欠点である。
あまり人づき合いが得意ではないので、その後もしょっちゅう会っていたわけではないから、彼らともしだいに疎遠になってしまった。

このたびのコンサートで再会した旧友ふたりから、ホンダがとっくに他界したことを聞いた。
わたしぐらいの歳になると友人の訃報はやむを得ないことだけど、彼の死はわたしのこころのうちに、生き残ってしまったという特攻隊員の慚愧のようなものを感じさせる。
でもまあ、くよくよしてたまっか・・・・
わたしももう残りの時間は多くないのだから。

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2017年6月 1日 (木)

爆雷

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もう何度もテレビ放映されているけど、ちょいとまえに「眼下の敵」という戦争映画がまた放映された。
現在の視点で観るとそれほど感心しないつまらない作品だけど、録画してあったので観るともなしに観ていたら、忘れかけた思い出がよみがえってきた。
わたしも海上自衛隊にいたことがあって、この映画のように爆雷を投下したことがあるのである。
ただし、そこはそれ、誇張されたハリウッドの劇映画と現実ではいろいろ異なる点もあるので、ヒマつぶしに雑感を述べてみよう。
自衛隊の内幕をバラしても、なにしろ半世紀もまえの話だから、いまさら機密漏洩の罪にも当たらんだろ。

自衛隊が発足したころは、まだ日本は自前の艦船を持つ余裕がなく、ほとんどは大戦中の米軍のお下がりだった。
「眼下の敵」は米軍のフリゲート艦と、ドイツのUボートの死闘を描いているけど、わたしが入隊したのは、このフリゲート艦と同型の駆逐艦が、まだ教育隊で実習艦として使われていたころである。
当時の自衛艦の主力は、「しきなみ」や「てるづき」、「あまつかぜ」などで、自衛艦に詳しい人なら、こうした艦名をあげただけでおおよその時代がわかってしまう。

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わたしかはじめて乗り込んだ自衛艦は「しきなみ」といって、前後あわせて3基の3インチ砲台と、投下型、発射型の爆雷以外に、ヘッジホッグ、短魚雷、長魚雷などを積んでいて、兵器は映画の中のフリゲート艦よりだいぶ近代化されていた。
2番目の写真が「しきなみ」だけど、中部から後部にかけての甲板に「オランダ坂」と称する傾斜がついている。

映画には対潜兵器として爆雷しか出てこない。
そして水中で爆発するたびに、派手すぎるくらい大きな水柱が上がる。
このへんは映画の最大の見せ場ではあるし、映画的効果のためにやむを得なかったと納得しておこう。
新兵だったわたしは、両国の花火でも見物するような気分で期待していたんだけど、じっさいには訓練であれほど水柱が上がることはめったになく、ほとんどの爆雷は水深のある場所で爆発させるので、ずしーんという衝撃だけで終わることが多かった。

映画の中に、爆雷を投下するとき、兵士が誤って指を切断してしまうシーンがあった。
艦の後部に爆雷投下機があって、ドラム缶のようなかたちをした爆雷が、レールの上をすべって海に落下する。
このとき不注意にレールの上に手を置くと危険ということは、新兵のころ何度も先輩から注意されていた。

ところがじっさいにそんな事故を目の当たりにしたことがある。
事故を起こしたのは先輩の海曹だったけど、映画とまったく同じ状況だった。
しかし当時もいまも非常時ではなかったから、たったひとりの事故のために訓練は中止され、ケガ人を陸上の病院に運ぶために港に引き返した。
死者をひとりも出さずに南スーダンから撤収したと大喜びをしているがごとく、あのころから日本の自衛隊は、兵士にとってもやさしい軍隊だったのだ。

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2017年5月27日 (土)

安芸の宮島

どうも作りが雑になったなと思っていたYouTube の「Only in Japan」というチャンネル。
主役のジョン・ドーブ君とスタッフが喧嘩でもしたのかと案じていたら、最新映像からまたもとのようにしっかりした作りになった。
最新映像はこの5月24日に公開された、広島は安芸の宮島のストリートフーズを案内するというもので、あいかわらず YouTube の模範といっていい映像だ。

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安芸の宮島というと、またわたしの思い出がひとつ。
わたしは海上自衛隊にいたことがあり、江田島の術科学校に10ヶ月ほど学生として生活したことがある。
江田島から宮島までは、海をへだてて15キロくらいだ。

宮島は別名を厳島(いつくしま)ともいって、絵ハガキなんかでだれでも知っていると思うけど、海の中に赤い鳥居が浮かぶ有名な厳島神社がある。
でもわたしの場合、赤い鳥居よりはっきりと記憶に残っているのは、術科学校の生徒たちによる年にいちどの弥山登山。
弥山というのは宮島の中にあって、東京の高尾山のように、古くから信仰の対象として知られた山である。

ここを訓練をかねて生徒たちがマラソンで攻めるのだ。
江田島から運貨船を連ねて、数百人の生徒がいちどに押しかけるから、ノルマンディー上陸作戦みたいな感じ。
といっても標高がせいぜい500メートルほどの山で、登山道も整備されているから、青森の歩兵第5連隊が遭難した八甲田山に比べればハイキングみたいなもの。
たぶん息を切らせたはずだけど、なにぶんにも半世紀も前のことで、わたしも若かったから、いまでは楽しかった思い出しかない。

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2017年5月19日 (金)

白楊

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散歩に出かけたら、飛行場のわきのとある木の根もとに、白い綿毛のようなものが降り積もっていた。
木というのはセイヨウハコヤナギ(ポプラ)だから、これはポプラの種子らしい。

ポプラの綿毛というと、わたしは初めてシルクロードを旅したときのことを思い出す。
中国ではポプラを白楊といって、シルクロード(敦煌から新疆ウイグル自治区方面)にはこの木が非常に多い。
薄汚れた蘭州の街から夜行列車に乗りこみ、朝目をさましたら、信じられないくらい空気が清明な土地にいた。
美しいオアシスの村にポプラが高々とそびえ立ち、駅のホームに降り立つと、白いいふわふわとしたものが風にのって宙を舞っていく。
そのころのわたしは、タンポポの綿毛は知っていたけど、ポプラからも綿毛が生じるということをぜんぜん知らなかった。

その後、わたしが敦煌の莫高窟のほとりで、迎えに来るはずのタクシーを待っていたときのこと。
あたりに綿毛が飛びかっていたので、いったいどこから飛んでくるのかと不審に思ったわたしは、そばの白楊のこずえを見上げてみた。
近くにあって綿毛を生じさせる可能性のあるのは、その木ぐらいしかなかったのだ。
ても葉のあいだをすかしても綿毛なんか見当たらない。
降り積もった綿毛の量からすると意外なくらい、木の枝についているときのポプラの綿毛は目立たないのである。

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つい綿毛に誘発されちゃったけど、両側に白楊のそびえるシルクロードの街道を、自転車でさまよっていたころの自分がなつかしい。
最後の写真は、20年前に新疆ウイグル自治区で撮ったもの。

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2017年4月11日 (火)

ユナイテッド機

日本の飛行機会社では考えられないこと。
ユナイテッド機で降りろといわれた客が、それを拒否したら、治安当局の係員にぶんなぐられてひきずり降ろされたってニュース。
わたしは昨夜の時点でもうこの映像を観たけど、いきなりケシカランとは思わなかった。
これは客のほうにも問題があったのではないか。
航空会社がそこまで手荒なことをしたくなるような原因を、客のほうがつくったのではないか。

こんなことを考えたのは、わたしが、飛行機会社がゼッタイにそんなことをするはずのない日本という国の住人であったこと。
おかげで最近はモンスターと呼ばれる手のつけられない迷惑客が、デパートや鉄道駅に出没して、困ったもんだと憂いている最中であったこと。
さらに、これはちょいとまえだけど、韓国のどこかの社長のドラ息子が、酔っ払って飛行機の中で暴れて、客室乗務員たちからロープで縛られるという事件があったばかりだということもある(ナッツ姫とはべつの事件だ)。

だから客のほうにも落ち度があったのではないかと思ったのだけど、今回はどうもそうではないらしい。
そのへんは世間の常識や司法の裁きにおまかせすることにして、また例によってわたしのくだらない思い出を。

じつはわたしもユナイテッド機を何度か利用したことがある。
西暦2000年6月の上海から帰国するさいのことだ。
どうせ飛行機は予約してあるんだしというわけで、ゆるゆると飛行場に行ってみたら、わたしのチケットを見たユナイテッドの係員がいっしゅんうろたえた(ように見えた)。
でも彼はすぐに落ちついて、もらった搭乗券でわたしが座席に行ってみたら、エコノミーではなく、ビジネスクラスの席だった。
こういうとき不安になるのが小心者のわたしである。
スッチーをつかまえて、いいんですかと聞いてみた。
スッチーはにやりと笑って、ウインクしながら何かいった。
もちろん英語に不如意なわたしのこと、なんていったのかわからなかったけど、あとで考えたら、いいんですよ、得しましたねといったらしい。

チケットさえあれば飛行機に無条件で乗れると思っているあなた。
飛行機はキャンセル客を見越して、座席を余分に発売することがあり、アメリカの飛行機会社ではこれは当たり前になっているという。
オーバーブッキングといって、このせいでたまに座席にあぶれる客もいるらしい。
今回のぶんなぐられた客もこのあたりが原因だったらしいけど、わたしの場合は至福感を味わった。
ビジネスクラスに座ったのは初めてだったので、まわりをよく眺めたら、スッチーも若くて金髪の美人ばかりではないか。
資産家と間違えられてくどかれたら困るなと、わたしは日本に着くまでずっと死んだふりをしていたくらいだ。

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2017年4月 7日 (金)

銃剣道

最近、中学の学習指導要綱に「銃剣道」が入ったってことが話題になっている。
なんでも反対する人たちからいわせると、これも教育勅語といっしょで、軍国主義に回帰するからケシカランということになるらしい。
いまさら軍国主義にもどったって、わたしみたいな年寄りが軍隊から頼りにされることはないだろうから、どうでもいいや。

自衛隊にいたことのあるわたしは、じっさいに銃剣道をやったことがあるので、今回はその思い出を。

自衛隊に入ったばかりのころ、長井の教育隊で銃剣道の訓練があった。
その第1回目で、教官が銃剣道の手本を見せるという。
おい、おまえ前に出てこいといって、ひとりの新兵(わたしもそのひとりだったけど)が前に呼び出された。
わたしたちは模範演技でも始まるかと思って神妙に聞いていた。

銃剣道は、面や胴、甲手をつけるところは剣道に似ているけど、防具の心臓にあたる部分のプロテクターが剣道より厚くて頑丈になっている。
つまり心臓をねらってポイントを稼ぐわけだ。
最初に銃剣(訓練用の木剣)を交差させて、合図とともに試合が始まるあたりは剣道に順ずる。
しきたりや礼儀についてはなかなかうるさいから、この点だけは学習指導要綱に取り入れられてもおかしくない。

「きええーっ!」
教官の手本は容赦がなかった。
気合いとともに木剣でひと突きされた新兵は、5メートルもうしろにふっ飛んでしまった。
たんなる模範演技と思っていたわたしたちは、教官の本気度に仰天し、これは鬼の教官だということで、だらけていた空気も一変した。

でも人は見かけによらないことがあるものだ。
やってみろといわれて前に出た新兵が、手順をまちがえた。
どやしつけられるとビビった彼が、も、もういちどやりますと口ごもると、教官がぼそっといったひとことが
あったりマ◯コの毛・・・・

緊張していたわたしたちは、吹き出すのをこらえるのにひじょうに苦労した。

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2016年11月18日 (金)

ローラ・ニーロ

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フェイスブックでローラ・ニーロのファン登録をしておいたら、めずらしく彼女からお知らせがきた。
といっても彼女は1997年に亡くなっているから、意思を引き継いだファンによるサイトからのもの。
おかげでまたなつかしい思い出にひたることとなった。

海上自衛隊をやめたあと、2年ほどデザインの勉強をするために学校へ通ったことがある。
しょうもない学校にしょうもない生徒(わたしも含めて)ばかりだったけど、いま考えると人間観察には適したところだったかもしれない。
サムセット・モームの小説「人間の絆」にも、主人公が画学校に通う話が出てくる。
ここでモームは、さまざまな個性をもった青春群像を描いていて、この小説のハイライトといってもいいくらい。
わたしにも似たような経歴があったわけだ。

当時の友人にWという男がいた。
ひよろりとした、たとえば美容師などによくいるタイプで、どこか都会的な雰囲気をたたえた若者だった。
彼は水戸あたりの出身で、わたしと同じ、高円寺にあった学校の寮に入っていた。
寮は仮住まいで、余裕のある人間や団体生活がイヤという人間は、2年目になると自前のアパートを借りてぽつりぽつりといなくなる。

ある日、Wがわたしに向かって、いっしょにアパートを借りて住まないかと提案してきた。
当時からわたしは唯我独尊みたいなところがあって、いっしょに暮らそうなどという人間がいるとは夢にも思わなかったから、おおいに感激したけれど、先立つものがなかったせいか、この話は成就しなかった。
しかしわたしたちの友情はその後もしばらく続いた。

そのうちWは帰郷して結婚することになった。
水戸まで行って結婚式に立ち会うつもりはなかったけど、彼には恩義を感じていたし、せめてもの記念になにか記念品を上げようという気持ちになった。
そこで選んだのがローラ・ニーロのLPアルバムだ。
当時は70年代の前半で、好きなロックアーチストは腐るほどいたけど、ハードロックを彼が好むかどうか、むしろもうすこしおちついた歌手のほうがふさわしいのではないか。
というわけで、ジョニ・ミッチェルやキャロル・キングのレコードも候補に上がったけど、どっちかというと地味目で、なおかついちばん都会的に思えたこのレコードを選んだ。
わたしの趣味をひけらかす目的もすこしあったわけだ。

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ローラ・ニーロはそんな歌手である。
聖処女のような美人であるにもかかわらず、そのへんの大工さんと結婚したり、谷内六郎さんの絵をレコードのジャケットに使ったり、そんな風変わりな個性をもった歌手だった。
彼女は作曲家としてのほうがよく知られているけど、自作の「ストニー・エンド」や「ブラックパッチ」「ウェディング・ブルース」「イーライがやって来る」などの名曲を自分でも歌っている。
レコードはすべて処理してしまったけど、この YouTube の時代、わたしはいつでも彼女の声を聴き、その映像を見ることができるのだ。

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2016年11月 9日 (水)

思い出(の中華料理店)

すこしまえ、うちの近所に新しいラーメン屋がオープンした。
開店まえの準備期間中からいやな気分。
店の名前も暴走族ふうだし、なにしろ建物が極彩色の真っ赤っか。
ラーメンがおいしくなくても、店のつらがまえだけで食わせてしまおうって魂胆が見え見え。
繁華街ならわからんでもないけど、うちの近所は田んぼも畑もある、風光明媚な文教地区なんだけどねえ。

でも昨今はこんなことに口を出すと、やれ◯◯の権利だ、◯◯の蹂躙だなんてゴタクを引っ張り出されて、あとが厄介というんで、誰も文句をいわない。
いちど食べに行ってみたことがあるけど、店に嫌悪感を感じているせいもあって、わたしには特別においしいとは思えなかった。
といって格別にまずいわけでもない。
つまり、最近流行っているこの手の店と変わらないということだ。

わたしの舌がおかしいのか。
どういうわけかわたしの好みは、むかしから場末の、あまり目立たない料理店にあることが多かった。

若いころ大久保と東中野の中間にある住宅街、こういっただけでおよその雰囲気がわかる、ごみごみした住宅街に部屋を借りていたことがある。
すぐ近所に一軒の中華料理店があった。
店の親父は世間からつまはじきにされて、それでも奥さんと子供をかかえて、ひっそりと生きている感じのさえない男性だったけど、料理のうでは確かだった。
ほかに近所にふさわしい店がなかったから、わたしは毎晩のようにここに通い続けた。
わたしの青春の一時期をいろどったこの店もいまはない。
親父が儲けて大きな店を持ったのならいいけど、そんなに儲かりそうな店じゃなかったしな。

その後、西武多摩川線の多摩墓地駅(いまでは多磨駅に改名)の近くに引越ししたけど、ここでは駅まえにある中華料理店に入りびたり。
毎晩のように通いつめ、しかもわたしが注文するのはモヤシソバかマーボ豆腐定食に決まっていたから、店でわたしは有名人だったようだ。
こちらの親父さんは小太りの短躯という、コックの見本みたいな人で、無口無愛想なわたしをよく理解してくれた。
彼は新天地を開発するといって、どこか東北のほうへ行ってしまったけど、店は奥さんが引き継いで、いまでも多磨駅の近くにあるはずだ。

わたしの思い出の中にあるのは、いつも店構えではなく、味で勝負する店ばかりである。

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2016年9月30日 (金)

はじめてのレコード

今日の新聞のコラムで、マンガ家の増田ミリさんが、はじめて買ったレコードについて書いていた。
それは「銀河鉄道999」の主題歌だったそうだ。
誰でもそうだろうけど、子供のころはじめて買ったということになると、いきなりジャズやロックではなく、そのころよく耳にした音楽になるのがふつうで、そうなればテレビ番組の主題歌というのは納得できる。

じゃあわたしの場合はどうなのか。
まずプレーヤーがなければ話が始まらないので、わたしの場合は電気蓄音機なるものを買ってもらったのがきっかけ。
さっそくレコード屋に行って、トシがばれてしまうけど、買ったのが「サーフサイド6」という、当時流行っていたテレビ番組の主題歌。
トロイ・ドナヒューやリー・パターソンといった、ワーナーの若手俳優が出演していた、青春ミステリーみたいな番組だったっけねえ。
ほんと、わたしはませガキだったよな。

でも失敗だった、というのは、わたしは歌が聴きたくて買ったのに、このレコードはオリジナルではなく、日本の楽団が演奏したインストルメンタル曲だったこと。
そういうものもあるのかと、ひとつ知識を得て、それから人生の後半まで、延々と続くわたしのレコード行脚が始まるのだ。

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2016年9月26日 (月)

ユースホステルの思い出

今朝の新聞にユースホステル(YH)に関する記事があった。
最近はYHもずいぶん様変わりしたってことだけど、それを読んでむかしの、なつかしくもいまわしい記憶がよみがえってきた。

わたしの旅好きは若いころからのものだから、YHに泊まったことももちろんある。
あれは北海道のどこかのYHでのこと。
大部屋に2段ベッドなのも、トイレが共同なのも文句はいわないけど、イヤなのは夜になると宿泊者全員がひと部屋に集められて、親睦会という口実の集まりに参加させられたこと。

最初はなんだかわからないから、呼ばれるままにその部屋に入ってみたんだけど、健全すぎる男女がいっぱいで、いささか愕然とした。
抽選で当たった人は、舞台でものまねをしてくれといわれ、たまたまいっしょに行った友人が、海藻のものまねをやらされていた。
アザラシやペンギンならまだしも、海藻だぞ。
そんなもんどうやりゃいいんだ。

中にはそういうことが好きという人もいるだろうけど、なにしろわたしは当時から社交的じゃない。
二度とYHなんかに泊まるものかと思った。
もっともその後、集まりに呼ばれても、寝たふりをして行かないという手があることをおぼえたけど。

そんな強制収容所みたいなYHが、最近は個室や名物料理を売り物にするなど、いろいろとホテルなみに変わってきたそうだ。
さすらいの前期高齢者としては、値段がむかしとあまり変わらないなら泊まってみたい気持ちもある。

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