思い出のページ

2019年1月22日 (火)

ムスリムの思い出

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図書館でニューズウィークの日本版をのぞいたら、「ウイグル弾圧は序章なのか」という記事が目についた。
べつのページには「日本で暮らす普段着のムスリム」という記事もあった。
日本人と結婚したり、また日本人でイスラムに改宗したりして、永住権を得たムスリムが、日本でもじわりと増えているという。
未来が暗澹たるものか、輝かしいものか、ぜんぜんわからないけど、日本だけが世界の潮流に乗り遅れるはずがないので、もはやイスラムの問題は、この国でもフツーに無視できないところまで来ているということらしい。
しかしわたしはここで政治について話そうというわけじゃない。
記事に誘発されたなつかしい思い出を話そう。

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わたしが初めてまとまったムスリムを見たのは、中国においてだった。
上海ではまだムスリムはあまり目立たない。
蘇州や無錫でも同じことだ。
西安まで行って街をぶらついているとき、わたしは清真寺という大きな寺のすぐかたわらにあった、やたらにごみごみした非衛生な一画に迷い込んだ。
これが西安の回族(イスラム教徒)居住区で、わたしがそこに迷い込んだのは1995年の冬のことである。
あとで知ったけど、清真寺というのは中国語のモスクのことだった。

だいたい中国の街というのは日本に比べると、どこも非衛生なのがあたりまえなんだけど、そこのごみごみの度合いはわたしの想像を絶する異様さで、西安の観光名所になる資格十分と見た(ひどい?)。
中国がことさらムスリムを差別しているとは思わなかったけど、回族の居住区というのは、狭くるしいところに民家や商店が密集して、とにかくごみごみしているのである。

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その後、何度か西安に行ったけど、中国政府はほんとうにこの回族居住区を観光名所にしてしまったようだ。
2011年にここへ行ってみたら、非衛生はだいぶ緩和され、そのごみごみさがかえってユニークな街の売りものになっていた。

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話が前後するけど、1997年、わたしはシルクロードを訪ねる途中、西安よりもさらに西の蘭州という街に立ち寄った。
列車を降りて駅頭に立ったとき、駅前広場にたむろする、大勢の白い帽子をかぶった人たちに気がついた。
この帽子が、回族がみずからのアイデンティティを示す表徴なんだけど、顔つきだけ見れば彼らは漢族とほとんど変わらない。

中国の西域は新疆ウイグル自治区で、ここはもともとイスラムの国だから、西に行けば行くほどムスリムが増えるのは当然だ。
それでも西安あたりではまだ街の一角にまとまっているだけだったのが、蘭州ではもう街のいたるところに白い帽子がいた。
蘭州くんだりまで出かけたころのわたしにとって、これが普段着のムスリムとの最初の出会いだった。

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田舎に帰省すると、遊んでばかりいてと小言をいわれ、だいぶ肩身のせまい思いをするわたしだけど、こういう景色を見ることのできた人生って、決して無意味なものとは思わない。
世界にはいろんな人々のいろんな生活があるという当たり前のことを、自分の目で確認することができたし、わたしにはそれが結婚や家庭よりも大切なことだったのだから。

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2019年1月11日 (金)

流氷

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流氷ツアーで有名なガリンコ号が運行開始だそうだ。
この冬はひとつ出かけてみるかと思う。
行くならいつがいいだろう。
あまり早く行って流氷がなかったら困る。
やっぱりいちばん寒い2月がいいのではないか。

ところが運行開始のニュースが1月10日で、その日に調べてみたら、もう2月のガリンコ号は予約がほとんど埋まっていた。
かろうじて予約表の上のほうにいくつか空席が。
でもこれは土日の早朝のサンライズクルーズというやつで、出航が朝の6時だそうだ。
そんなに早く起きられるものか。
と思ったけど、これはかえって具合がいいかも。

最近のわたしは昼と夜が逆転して、昼間は寝ぼけているのに、夜はいたって元気。
朝の6時というと、さあ寝るかという時間だから、そこをちょっと我慢して起きていればいいだけの話だ。
起きているのは、目覚ましで無理やり起こされるよりはラクチンである。

最近出不精になっているわたしが、じっさいに出かけるかどうかは別にして、ここで流氷の思い出をひとつ。

若いころ流氷を見るためにオホーツクの沿岸を旅したことがある。
ガリンコ号なんてものはまだなかったけど、列車を乗り継いで紋別に着いたのがその年の2月9日のことだった。
さっそく港へいってみたけど、沖のほうに白いものがちらほら見えるだけで、流氷らしきものは影もかたちもなかった。
地元の人に流氷ありませんねというと、ああ、今日は陸からの風だからなという。
いったん寄せたら春まで寄せっぱなしだと思っていたけど、流氷というのは気むずかしいものらしい。
最近のわたしは、富山のホタルイカも空振りだったし、どうも自然現象から見放されているようだから、あまり期待しないほうがいいかも。

その翌日、路線バスを乗り継ぎながらオホーツク沿岸を北上し、沙留(さるる)というところでようやく海を埋め尽くす流氷を見た。
降りしきる粉雪のなか、わたしはバスを降りて港まで行ってみた。
港も雪におおわれていたけど、人っ子ひとりおらず、それはそれは美しい光景だった。
また、腰まであるのにまったく抵抗を感じない雪を体験して、これがパウダースノウというやつかと、感動したのもこのときが初めてだった。
明日死んでも惜しくないくらい、わたしにはこんな思い出がたくさんある。

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2018年11月13日 (火)

栄枯盛衰

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栄枯盛衰は世の習いというけど、今日の「海外の万国反応記」にちょっと気になる記事が。
八丈島にある日本最大というホテルの廃墟に潜入してきた人がいて、その写真を公開してるんだけど、このホテル、わたしには記憶がある。

それはいまからもう40年ちかく前のことだ。
わたしは仲間8人と連れ立って八丈島までダイビングに出かけた。
旅行中にきれいな娘ふたりと知り合って、みんなで泳いだり、酒を飲んだりしたもんだ。
まだまだわたしたちも若くて魅力いっぱいのころだったんだよ、え、お若いの。

ある日彼女らもいっしょに、底土海岸というポイントに潜りに行ったんだけどね。
この海岸の目の前に、ロイヤルホテルという4階建てのホテルがそびえていた。
もちろん貧乏なわたしたちに縁のないホテルだったけど、このホテルにはいくつかの石像を配したフランスの王宮のような豪華な庭園があり、きれいなプールもあった。
そこで急遽その日の午後のダイブは取りやめて、みんなでプールで遊ぶことにした。
客がほかにいなかったから、わたしたちの貸し切り状態だ。

話はこれだけなんだけど、青春の日の(数少ない)輝かしい思い出のひとつだ。

そのときのホテルが、その後零落して、いまでは廃墟になっている。
栄枯盛衰という言葉がしみじみ胸にせまるね。
ま、当時からあまりはやってなさそうなホテルだったからなあ。
当時の写真があったはずだけど、探して出てきたのが、ほかの目的のためにイラスト化したこれだけ。
いまではおばあさんになっているはずの彼女が見てもわかんないだろうなあ。

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2018年7月31日 (火)

酸辣湯麺

今日の新聞に蘭州ラーメンの記事が出ていた。
習近平さんの一帯一路政策のせいか、はたまた日本のラーメン・ブームに習ったものか、中国の蘭州に古くから伝わるラーメンを、国際的な名物にしようという動きがあるらしい。

蘭州ラーメンというのは牛肉を乗せたラーメンであるという。
そんなものがめずらしいかどうか知らないけど、わたしは蘭州という街には行ったことがある。
中国の中央部にあり、このあたりで黄河とその両岸がぐんとせばまっていて、河西回廊とよばれるほそ長い交通の要衝である。
ときどき中国からメールをくれる知り合いも蘭州の出身だ。
いちいち日本語に翻訳するのがメンドくさいので、目下のわたしは死んだことにしてあるけど、またそのうちメールのやりとりを再開するかもしれない。

そんなことはどうでもよくて、今回はラーメンの話題だ。
蘭州ラーメンが牛肉というのは、これを考案した調理師がもともと回族だったからだという。
回族というのはイスラム教徒だから、いくら豚肉の好きな中国人でも、それを使うことはありえない。

わたしが蘭州に行ったころ、味をしめたのは蘭州ラーメンではなく、酸辣湯麺というものだった。
これは酢とラー油を効かせ、カタクリ粉でとろみをつけた麺料理で、その野菜主体のラーメンが、肉のニガ手なわたしの嗜好に合致したのである。
どんなラーメンか味わってみたければ、日本の「紅虎餃子房」や「揚州商人」で注文できる。

しかし中国人は日本人ほど職人気質というものを理解しないから、困ったことも起こる。
中国にいたとき、ある店で酸辣湯麺を注文した。
出てきたラーメンに、肝心の酢が入ってなかった。
文句をいうと、ウエイトレスが応えるのに、テーブルの上に置いてある酢のボトルをさして、これを入れれば酸辣湯麺になりますと。
なんだ、そうか、あははと、それでひっこむわたしもだらしないけど、あちらのラーメンはそういうものであるから、蘭州ラーメンがグローバルなものになるかどうか、予断はゆるさない。

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2018年7月28日 (土)

やわらかい軍隊

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これは「海外の万国反応記」というネット掲示板に載っていた写真だけど、どこかの観艦式や記念行事で撮られた写真らしい。
自衛隊というとおカタい仕事で、うっかり冗談もいえない職場と思われていそう。
しかしアンパンマンの魚雷だなんて、最近の自衛隊はなかなかユーモアがある。
2番目のタイヤが3個ならんだ写真は、見えない戦闘機ステルスだそうだ。
笑っちゃう。

笑いながら思い出したことがある。
わたしが海上自衛隊にいたころ、対潜水艦訓練に、ヘッジホッグ機雷発車というものがあった。
ヘッジホッグというのはハリネズミのことだそうで、なんでこういうかというと、ま、現物の写真をご覧じろ(3番目の写真)。

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これの発射訓練でよく房総半島の沖に出かけた。
ビール瓶をさかさにしたような機雷を24発、発射機に装填して、あとはソナーが潜水艦を発見するのを待つ(いちおうそういう設定)。
大砲の発射に比べるとのんきな訓練だった。

じっさいに発射の号令がかかるまで、わたしたち新兵は戦闘準備をしたまま、発射台のまわりでたむろしていた。
そのうち退屈したわたしは、装填されていた機雷にマジックで落書きすることを思いついた。
どうもいたずら好きは当時からのものだったようだ。
模擬弾だから、発射はされても、本物とちがって水中で爆発はしない。
どっちにしたって海底に沈んでそれっきりになるものだからかまわんだろうと、いい気になってハートのマークや、当時文通していた郷里の知り合いの女の子の名前を書き込んだ。
それを見てまわりの兵隊までがみんな、オレにも書かせろと言い出した。
もう半世紀もまえに体験した、軍隊時代の愉快な思い出だ。

落書きだらけではなはだみっともなくなった模擬弾は、いまでも海底に鎮座しているのか、それともとっくに朽ち果てただろうかと、アンパンマンの魚雷を見て思い出した。

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2017年11月28日 (火)

しらびそ小屋

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2、3日まえのBSのトレッキング100という番組に、八ヶ岳にある 「しらびそ小屋」 という山小屋が出てきた。
この小屋にはわたしも30年ちかくまえに泊まったことがあるので、ついなつかしい気分で観た。

しらびそ小屋は北八ヶ岳にあって、稲子湯から天狗岳に登る途中の、ミドリ池という池のほとりにある。
このコースには、もう少し山頂寄りに 「黒百合ヒュッテ」 という山小屋があって、そちらは別のコースからも登れるので、人気のあるのは黒百合のほうである。
しかしそのぶんしらびそ小屋は、目立たない、古い素朴な山小屋の雰囲気をよく残していて、わたしがこの山小屋に泊まったのも、30年まえにやはりNHKが特集をしたせいだった。
この小屋では、餌付けされた野生のリスやホシガラスが見られるという。

当時からそういうものの好きだったわたしは、さっそく自撮り用の三脚をかついで、平日にたったひとりで出かけた。
最初の写真はスタート地点から近いカラマツ林の中で。
このときわたしは30代の後半 (若く見えるのは、写真の選択権が本人にあるため)。

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最新の映像によると、このとき小屋の主人だった今井行雄さんは、小屋の仕切りこそ息子さんに譲ったものの、80を超えてまだ元気らしい。
わたしが会ったときは、世捨て人みたいに、ひじょうに無口な人という印象で、奥さんらしいきれいな女性がいっしょに働いていた。

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この晩は、たまたま同宿した男性と2人で、屋根裏部屋みたいなところに寝かされた。
なんだか童心にかえったみたいで楽しかった。
夜になるとたったひとつの窓から、すぐ外側に大きく枝をひろげたダケカンバ、そして丸いお月さんがよく見えた。
先日の放送でもその木はまだ健在だった。

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人間であるわたしにとって、30年は長い。
しかし窓から見えたダケカンバにとっては、そうではない。
しらびそ小屋から天狗岳を目指した登山者を、いったいどれだけこの木は見つめ続けてきただろうか。
わたしももういちどこの山小屋に泊まってみたい。
小屋の古いサイン帳に、ひょっとすると自分の名前が見つかるかもしれない。

最後の写真は、この翌日に登った天狗岳(東天狗) から見た西天狗。

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2017年7月23日 (日)

むかしなじみ

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昨日はひさしぶりに、版画家で旧友のカトー君のファミリー・コンサートに行ってきた。
しばらく見ないうちにファミリーがひとり増えていて、カトー一家もいよいよ三世代目に突入だ。
そのコンサートには、彼の交際の広さを物語るように、手話ダンスとフラダンスの会が友情出演。
おかげで出演者の平均年齢がおもいきり上がっちゃったけど。

コンサートの聴衆のなかに、ふたりの中学の同級生が混じっていて、なにしろ郷里を離れて50年、同窓会にもめったに参加しないわたしのことだから、いきなり自己紹介されてもすぐには顔が思い出せなかった。
しかし人格形成期の思い出というのは忘れられないものだ。
彼女たちとの会話のなかになつかしい名前がぽんぽん出てきて、そんな旧友たちの消息を聞くのは楽しいこと・・・・ではなかったな。

当時の同級生のなかにホンダという男がいた。
自慢じゃないが当時のわたしは、5、6人のメンバーで構成されたできそこないグループに所属していて、ホンダもそのひとり。
できそこないといっても、進学コースからはみ出しているというだけで、まあ、それぞれ個性があって、なにより庶民的気分でつきあえる気さくな連中ばかりだった。

ホンダの顔には、鼻のわきに大きな黒いあざがあった。
いまなら手術でとれたかもしれないけど、そんなハンディを背負いながらも彼は、当時から悩める少年だったわたしなんかよりずっと明るい性格だった。

このできそこないグループは、中学を卒業するとき、ホンダの家に集まって、これからそれぞれ別の道を歩むわけだからということで、親睦会兼壮行会みたいなことをした。
わたしの家とあまり変わらない貧乏長屋だったけど、彼の両親もかんたんな料理を出して歓待してくれた。
そのとき集まったメンバーはK、A、Mと、あとひとりの顔をどうしても思い出せないけど、ひとり高校に進学し、さらに社会人になってから郷里を離れたわたしには、忘れられない大切な仲間たちだ。

ただ、そういう友人たちを思い出のなかに封印してしまうのがわたしの欠点である。
あまり人づき合いが得意ではないので、その後もしょっちゅう会っていたわけではないから、彼らともしだいに疎遠になってしまった。

このたびのコンサートで再会した旧友ふたりから、ホンダがとっくに他界したことを聞いた。
わたしぐらいの歳になると友人の訃報はやむを得ないことだけど、彼の死はわたしのこころのうちに、生き残ってしまったという特攻隊員の慚愧のようなものを感じさせる。
でもまあ、くよくよしてたまっか・・・・
わたしももう残りの時間は多くないのだから。

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2017年6月 1日 (木)

爆雷

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もう何度もテレビ放映されているけど、ちょいとまえに「眼下の敵」という戦争映画がまた放映された。
現在の視点で観るとそれほど感心しないつまらない作品だけど、録画してあったので観るともなしに観ていたら、忘れかけた思い出がよみがえってきた。
わたしも海上自衛隊にいたことがあって、この映画のように爆雷を投下したことがあるのである。
ただし、そこはそれ、誇張されたハリウッドの劇映画と現実ではいろいろ異なる点もあるので、ヒマつぶしに雑感を述べてみよう。
自衛隊の内幕をバラしても、なにしろ半世紀もまえの話だから、いまさら機密漏洩の罪にも当たらんだろ。

自衛隊が発足したころは、まだ日本は自前の艦船を持つ余裕がなく、ほとんどは大戦中の米軍のお下がりだった。
「眼下の敵」は米軍のフリゲート艦と、ドイツのUボートの死闘を描いているけど、わたしが入隊したのは、このフリゲート艦と同型の駆逐艦が、まだ教育隊で実習艦として使われていたころである。
当時の自衛艦の主力は、「しきなみ」や「てるづき」、「あまつかぜ」などで、自衛艦に詳しい人なら、こうした艦名をあげただけでおおよその時代がわかってしまう。

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わたしかはじめて乗り込んだ自衛艦は「しきなみ」といって、前後あわせて3基の3インチ砲台と、投下型、発射型の爆雷以外に、ヘッジホッグ、短魚雷、長魚雷などを積んでいて、兵器は映画の中のフリゲート艦よりだいぶ近代化されていた。
2番目の写真が「しきなみ」だけど、中部から後部にかけての甲板に「オランダ坂」と称する傾斜がついている。

映画には対潜兵器として爆雷しか出てこない。
そして水中で爆発するたびに、派手すぎるくらい大きな水柱が上がる。
このへんは映画の最大の見せ場ではあるし、映画的効果のためにやむを得なかったと納得しておこう。
新兵だったわたしは、両国の花火でも見物するような気分で期待していたんだけど、じっさいには訓練であれほど水柱が上がることはめったになく、ほとんどの爆雷は水深のある場所で爆発させるので、ずしーんという衝撃だけで終わることが多かった。

映画の中に、爆雷を投下するとき、兵士が誤って指を切断してしまうシーンがあった。
艦の後部に爆雷投下機があって、ドラム缶のようなかたちをした爆雷が、レールの上をすべって海に落下する。
このとき不注意にレールの上に手を置くと危険ということは、新兵のころ何度も先輩から注意されていた。

ところがじっさいにそんな事故を目の当たりにしたことがある。
事故を起こしたのは先輩の海曹だったけど、映画とまったく同じ状況だった。
しかし当時もいまも非常時ではなかったから、たったひとりの事故のために訓練は中止され、ケガ人を陸上の病院に運ぶために港に引き返した。
死者をひとりも出さずに南スーダンから撤収したと大喜びをしているがごとく、あのころから日本の自衛隊は、兵士にとってもやさしい軍隊だったのだ。

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2017年5月27日 (土)

安芸の宮島

どうも作りが雑になったなと思っていたYouTube の「Only in Japan」というチャンネル。
主役のジョン・ドーブ君とスタッフが喧嘩でもしたのかと案じていたら、最新映像からまたもとのようにしっかりした作りになった。
最新映像はこの5月24日に公開された、広島は安芸の宮島のストリートフーズを案内するというもので、あいかわらず YouTube の模範といっていい映像だ。

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安芸の宮島というと、またわたしの思い出がひとつ。
わたしは海上自衛隊にいたことがあり、江田島の術科学校に10ヶ月ほど学生として生活したことがある。
江田島から宮島までは、海をへだてて15キロくらいだ。

宮島は別名を厳島(いつくしま)ともいって、絵ハガキなんかでだれでも知っていると思うけど、海の中に赤い鳥居が浮かぶ有名な厳島神社がある。
でもわたしの場合、赤い鳥居よりはっきりと記憶に残っているのは、術科学校の生徒たちによる年にいちどの弥山登山。
弥山というのは宮島の中にあって、東京の高尾山のように、古くから信仰の対象として知られた山である。

ここを訓練をかねて生徒たちがマラソンで攻めるのだ。
江田島から運貨船を連ねて、数百人の生徒がいちどに押しかけるから、ノルマンディー上陸作戦みたいな感じ。
といっても標高がせいぜい500メートルほどの山で、登山道も整備されているから、青森の歩兵第5連隊が遭難した八甲田山に比べればハイキングみたいなもの。
たぶん息を切らせたはずだけど、なにぶんにも半世紀も前のことで、わたしも若かったから、いまでは楽しかった思い出しかない。

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2017年5月19日 (金)

白楊

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散歩に出かけたら、飛行場のわきのとある木の根もとに、白い綿毛のようなものが降り積もっていた。
木というのはセイヨウハコヤナギ(ポプラ)だから、これはポプラの種子らしい。

ポプラの綿毛というと、わたしは初めてシルクロードを旅したときのことを思い出す。
中国ではポプラを白楊といって、シルクロード(敦煌から新疆ウイグル自治区方面)にはこの木が非常に多い。
薄汚れた蘭州の街から夜行列車に乗りこみ、朝目をさましたら、信じられないくらい空気が清明な土地にいた。
美しいオアシスの村にポプラが高々とそびえ立ち、駅のホームに降り立つと、白いいふわふわとしたものが風にのって宙を舞っていく。
そのころのわたしは、タンポポの綿毛は知っていたけど、ポプラからも綿毛が生じるということをぜんぜん知らなかった。

その後、わたしが敦煌の莫高窟のほとりで、迎えに来るはずのタクシーを待っていたときのこと。
あたりに綿毛が飛びかっていたので、いったいどこから飛んでくるのかと不審に思ったわたしは、そばの白楊のこずえを見上げてみた。
近くにあって綿毛を生じさせる可能性のあるのは、その木ぐらいしかなかったのだ。
ても葉のあいだをすかしても綿毛なんか見当たらない。
降り積もった綿毛の量からすると意外なくらい、木の枝についているときのポプラの綿毛は目立たないのである。

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つい綿毛に誘発されちゃったけど、両側に白楊のそびえるシルクロードの街道を、自転車でさまよっていたころの自分がなつかしい。
最後の写真は、20年前に新疆ウイグル自治区で撮ったもの。

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