美術館をめぐる

2019年7月29日 (月)

松方コレクションの2

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昨日は上野まで「松方コレクション展」を観に行ってきた。
「松方コレ」のいわれについては7月24日に、このブログでさらりと触れたので、もう書かない。
会場である国立西洋美術館でのドキュメントだけを書く。

今回の展示の最大の売り物はモネの、まるで壁画のように巨大な睡蓮の絵だった。
残酷なことに松方幸次郎が購入した絵の多くが、その後悲惨な運命をたどり、この絵も保存状態の不整備から、損傷が激しかった。
じっさいに絵の表面の塗料が、全体の半分ちかく剥落して、これではもはや絵とはいえない。
ということで、一時は日本、フランス両政府から、返還交渉の対象にもならなかったという。

しかし現在はデジタルの時代だ。
さいわいなことにオリジナルのモノクロ写真が残っており、全体像は把握できた。
あとはコンピュータに画家の筆跡や彩色のクセを覚えさせ、絵を完成させるだけ。
会場の大きなモニターで、この修復された「睡蓮」が見られるようになっていた(最初の画像がそれで、ゆがんでいるのは正面から撮らなかったから)。

まあ技術大国日本で、こういうことをするのはわるくない。
わたしはむかし、ロシアのウスペンスキー大聖堂の屋内壁画を、高性能のデジタルカメラで撮影した映像を見たことがあり、その精緻でリアルな映像に喫驚したことがある。

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松方コレクションの中では、ゴッホの「アルルの寝室」という絵が有名だ。
この絵は松方が日本に持ち帰るまえに世界大戦が始まってしまい、保管していたフランス政府が、戦後、これだけはどうしても必要だといって返してくれなかったのだそうだ。
いろいろと問題の多い絵で、今回も奪還を怖れた仏政府が貸してくれなかったのではないかと思ったら、ちゃんと展示されていた。
さすがは文明国同士で、韓国だったらいい機会だということで、きっと返してくれなかっただろう。

人混みにもまれて美術館を一周するとけっこう疲れる。
いいかげん帰りたかったけど、いっしょに行った知り合いは経済観念の発達したオンナの人だから、タダで観られる常設展も観ていこうという。
そっちでは「モダン・ウーマン」なる催しをしていた。
ウーマンというのが気になってのぞいてみた。

これはフィンランドという、あまり絵画の歴史に縁のない国の、女流画家の絵を中心にすえた絵画展だった。
なんとなく暗いイメージの自画像がいくつか目についたので、いっしょに並べてある画家本人の写真と比べてみた。
女性の自画像には、こういうささやかな楽しみがある。
白夜の国で、しかもロシアの影響が強かった国では、暗いイメージになるのも仕方ないかと思う。

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さすがにもう帰ろうと思ったら、奥のほうにPrinting Drewing という看板を掲げた一室があった。
Printing
といったら版画のことではないか。
わたしはリトグラフが好きなので、またついでにのぞいてみた。
ここに載せた3枚目の画像は、ヘレン・シャルフベックという女性画家の作品で、若い娘が靴をはく場面をとらえた、その軽妙さがなんともいえず素敵。

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2019年7月24日 (水)

松方コレクション

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本を読みながら風呂に入るつもりで、一瞬うろたえた。
部屋にあった本のほとんどを、終活中ということで可燃ゴミに出してしまったから、読む本がない。
仕方がないから、風呂場で読むにはふさわしくない大きめの美術書、朝日新聞出版の「世界名画の旅」というのをかかえて入浴する。

この本はありきたりの美術批評ではなく、古今の絵画にまつわる裏話や、おもしろいエピソードを取り上げたもので、1巻から5巻まである。
それが全部そろっているから、古本屋に持っていけばいい値がつくんじゃないかと、いままでゴミとして処分してなかったものである。

たまたま風呂場に持ち込んだのはその4巻で、そのなかに松方コレクションにふれた文章があった。
松方コレクションというのは、本物の欧米の絵画を日本人に知らしめようと、私財を投げ打ってゴッホやゴーギャン、モネなどを収集した造船王松方幸次郎の絵画コレクションのことである。
このコレクションが、やがては上野の国立西洋美術館設立につながっていくというから、むかしの金持ちはスケールが大きかった。
もっとも金持ちというのは一攫千金のバクチみたいなところがあって、彼によって収集された絵画は、その後造船業界の経営危機や、大戦の影響などで多くの災難に見舞われることになる。
しかしそれは松方本人に責任があるわけじゃない。

現在、たまたま西洋美術館で「松方コレクション展」をしているから、ひとつ出かけてみるか。
オレは絵のことなどわからないと豪語していた、いかにも日本的なこの資産家の偉業を偲びつつ。

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2019年6月25日 (火)

クリムト

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観てきたばかりのクリムトについて、えらそうなことを書こうと思ったけど、なーんにも文章が湧いてこないね。
そもそも彼が独身をつらぬいたということも、そのくせ大勢の女と付き合って、子供が15人もいたなんてことも(ホントかよ)、今回はじめて知った。
経歴をながめると、そうとうにひねくれたところもあったみたいで、そういう点を追求したらおもしろそうな画家だけど、わたしって絵はともかく、これまでクリムト本人には興味がなかったのよね。

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このブログは芸術論をぶちかまそうというものではなく、わたしがまだ生きてますという証拠のためにやっているのだから、へんにムズカシイ批評を書いてもしようがない。
さらっと流しておこう、さらっと。

「ユディトI」や「裸の真実」など、まばゆいばかりの金箔を多用した絵は、おお、これがうわさのというていどには感心した。
しかしわたしがはじめて観て、わおっと感心したのは「ベートーベン・フリーズ」という、部屋の3面の壁を飾るでっかい絵。
展示されていたのは実物大のレプリカで、彼らしい豪華絢爛たる装飾壁画だった。

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その簡略化された様式美のなかにはゴリラまで出てきて、どこかマンガみたいといったら怒られるか。
そういえば彼の作品は縦長で、ブログに載せにくいものが多かったけど(仕方ないからここでは縦長の絵と、絵の一部を組み合わせて載せてある)、後半では正方形のものが多くなった。
そうかそうか。
クリムトは21世紀に人気を得ることになるアニメや、インスタグラムの先駆者でもあったのだと、アホらしいことこいて、この項終わり。

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2019年6月 3日 (月)

モロー展

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昨日は汐留までギュスターブ・モローの絵を観に行ってきた。
モローの名前も作品も知っていたけど、行くまえに、いつごろの人だっけかと迷った。
そんなに古い人じゃなかったよな。
でも印象派よりまえの人か、あとの人か。

こんなアホなことを考えたのは、古い人ではないと思う反面、彼の絵がとても印象派以降の作品とは思えなかったから。
彼の作品というと、「サロメ」や「オイディプスとスフィンクス」など、聖書や神話の一場面を描いた絵が思い浮かぶ。
こういうテーマは印象派以降の画家からあまり歓迎されなかったみたいだから、ダ・ヴィンチまでは遡らなくても、ついレンブラントやグレコと同時代の画家かなと思ってしまったのだ。

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そういうことで、行くまえにググッてみた。
わかったことはモローは印象派と同時代の画家だということ。
これは意外だった。
印象派といえばジャポニズムとすぐ関連づけたくなるけど、モローは日本の浮世絵にまったく影響されなかった画家として、その偏屈ぶりがかえって美術史に名を残すことになっているのかもしれない。

場所はパナソニック美術館というところで、日ごろ営利をむさぼっている企業が、罪滅ぼしに運営しているような美術館だった。
これなら上野より混雑していないだろうと予想していたのに、入口には行列ができていた。
腹を立てながら、ブログに載せるつもりで行列の写真を撮っていたら、ガードマンが撮影禁止だという。
作品を撮るにはいろいろ問題があるのはわかる。
しかし、え、なんで並んでいる人間を撮っちゃいけないのと文句をいう勇気は、もちろんわたしにはない。
しかしこれでいくぶんか気分を害したことは事実。

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これが原因かどうか、絵のほうはあまり感銘を受けたとはいえない。
わざわざ汐留まで出かけた目的は、代表作の「サロメ」にあったけど、同じ絵は習作を含めると、ゴッホの「ひまわり」のようにたくさんあるようだった。
今回展示されていた絵には、モローが晩年になってから描き加えたエッチングのような文様が背景を埋めていて、どうも画家にとって未完の作品だったような気がする。
理想の作品を追求して何度も何度も同じ絵を描く、この偏執狂ぶりも、モローの名をゴッホ、ゴーギャンと同列に置いているのかもしれない。

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ほかにも顔が省略された絵がいくつもあり、そんなものに心理描写がどうのこうのという説明がついているのをみると困惑してしまう。
のっぺらぼうに感情があってたまるか。
イヌやネコだって、顔がなかったら、うれしいのか悲しいのかわかりっこない(イヌの場合は尻尾があるからわかるけど)。
民営の美術館にあまり期待をするのもナンだし、今回は動物園でパンダを観てきたという程度の感想でお茶をにごしておこう。

涼しい日だったので、帰りは汐留から東京駅まで歩いて、バテなかったのはよかった。

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2019年1月13日 (日)

カトー君の2

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最初の2枚の絵のように、今回のカトー君の版画は女性を描いたものが多かった。
そうこなくちゃというのはわたしのセリフで、郷里の保守的な人たちからはひんしゅくをくらいそう。
でもまだまだ過激性という点では満足しているわけではない。
なにもヌードや、そのものズバリを描けといってるわけではないのだ。
官能の意味をはき違えている人もいるかもしれないから、あらためて説明しよう。

カトー君の作品にはカトー流というべき個性がある。
多くの場合、それは魚や植物や幾何学的なオブジェなどで、空いている空間にやたらにつめこまれている。
これがあるおかげで、ひと目で彼の作品であることがわかる。
ピカソのように個性を変化させていった画家もいなくはないが、ほとんどの画家は、確立したあとの自己の個性を大切にする。
いわば偉大なるマンネリとでもいうべきか。

これからわたしは彼に、わたしの好みを押しつけようとするけれど、それはあくまでわたしの好みだから、みなさんが真剣に考える必要はない。
例によってわたしのだぼらと思ってもらって結構だ。

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3枚目の絵は、今回の個展で、わたしがいちばん気に入った作品だ。
薄い夏物のドレスの娘が、しどけなく座っており、服の下の裸体がありありと想像できてしまう。
わたしはずけずけいってみた。
まわりのごちゃごちゃが目ざわりだな。
ここは純粋に女性だけにしぼったほうがいいんでないかい。
そのほうが官能的であると思うよ。

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想像力の欠如した人たちのために、じっさいにやってみた。
最後の絵はデジタルの特徴を利用して、まわりのごちゃごちゃを消してみたもの。
オリジナルは遊び心があふれた動きのある作品だけど、あとの絵は静謐なイヤラシサに満たされている(でしょ)。
ベッドのわきに置くならこっちのほうがいい。
とくにすばらしいのが、女性の顔がほとんど見えないことだ。
そのためにわたしのような男は、その部分に好きな女性の顔をはめ込むことができて、これでは腎虚にならないほうが不思議である。
官能というのはこういうことをいうのだ。

問題は個性を埋没させてしまうことで、知らない人が見たら、カトー君の作品かどうかわからなくなってしまう。
うーんと悩むのはわたしで、カトー君が悩むかどうかは知らない。
芸術は人間の欲望を解き放つ。
田舎のしきたりやたてまえ、そして奥さんや娘の存在に縛られて、作家が自分の仕事に制約を課しているとしたら、それはやっぱりマズイと思う。

追伸/オリジナル作品の改変は重大問題だけど、版画とデジタル・コピーしたものはぜんぜん別種の作品で、あらかじめカトー君にことわってあるから、ま、いいんでないか。

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カトー君

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幼なじみのカトー君の版画展に行ってきた。
1枚目の画像は、彼(わたしにとっても)の芸術に対する志向の原点といっていいビートルズに囲まれた彼だ。
ビートルズはわたしたちがものごころつく、ちょうどそのころに登場し、わたしたちの精神の推移とともに変化していったグループなのである。

カトー君はわたしたちの共通の郷里からほど近い町に住んでいるけど、今回はできたばかりの大きな町の公民館が開催場所だ。
わたしは絵を買える身分ではないから、画家の経済までには立ち入らなかったけど、画廊で個展なんかすると、額までみんな画家の持ち出しである。
彼のように作品を売って蔵を建てようという気持ちのない画家には、これはしんどいので、公共の施設を作品発表の場にするというのはいいアイディアだ。
彼は国際的な版画展でも入賞しているくらいだから、そのあたりでは名士といっていい人なので、わりあい無理も聞いてもらえるらしい。
今回は帰省するわたしの都合をみはからって、会期を1週間延長した。

そんなことはどうでもいいけど、ついでにいろいろ版画について教わってきた。
たとえば浮世絵は版画ではないという、わたしの知識をくつがえすような話など。
いわれてみればそうだけど、江戸時代の浮世絵には彫師や刷師という専門家たちがいた。
北斎も広重も写楽も、やるのはもと絵を描くところまでで、それを板に彫り、紙に印刷するのは彫師や刷師たちの仕事だったのである。
版画家を名乗るなら、彫る、刷るところまで自分でやらなければいけないと、これは山本鼎という明治・大正期の版画家の意見だそうだ。

カトー君はもちろん彫りから刷るまで自分でやる。
板を彫るには力がいる。
だから指が固まってしまうと、彼はタコのできた人差し指を見せてくれた。

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今回の作品は女性をテーマにしたものが多く、きみは官能で勝負すべきだという、わたしのかねてよりの主張に沿ったものになっていた。
できればあと一歩踏み込んで、ヌードや春画まで取り上げてくれるともっといいんだけど、田舎生活は不自由なものらしい。
東京であれば、絵画にしろ写真にしろ、小説等の文学作品にしてみても、およそ芸術作品であるなら、イヤラシイほど、破天荒であるほど、尊重される傾向があるけど、田舎ではそうはいかない。
女房や娘のいる芸術家が官能的なものを追求すると、いろいろ差しさわりがあるんだよという。

それ以外にもカトー君の悩みはつきない。
若い女の子が作品を観にやってくる。
そして、作者であるカトー君、国際的大版画家であるカトー君に向かって、これ、どなたが作った作品ですかなんて質問するのだそうだ。
いやになっちゃうよな、オレって芸術家にふさわしい顔してないもんな。
そうカトー君がぼやくのを聞いて、わたしは芸術家らしい顔をした芸術家なんていやしないよとなぐさめる。
だいたいどんな顔なら芸術家らしい顔なんだと聞いてみたら、棟方志功みたいなのいいんだそうだ。
棟方志功は青森出身の、丸いメガネに鉢巻という、土方の大将みたいな版画家で、わだばゴッホになる、と気宇壮大な芸術家宣言で有名だ。

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3番目の写真が棟方志功さんだ。
志功さんにはわるいが、これならカトー君のほうがいい男だ。
カトー君の秘密というのは、こういう奇想天外な画家にあこがれているということだけど、やっぱり芸術家の心理は理解しにくい。

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2018年12月24日 (月)

シーシキンの絵

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ここに上げたのはロシアの画家シーシキンの絵。
みればわかるけど、徹底的に写実的な風景画である。
この絵を観て感動したというと、写真とちっとも変わらねえじゃないかといわれてしまいそう。
それでいいのである。
わたしはいまさら絵のテクニックや歴史を勉強しようってわけじゃない。
写真でも絵でも、それがわたしを捉えられた、あるいは描かれた世界のなかにいざなってくれれば、しみじみと幸福を感じてしまうのだ。

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ロシアは広大だし、地方はまだまだ開拓されているとはいえないから、たぶんこうした景色は各地にたくさん残っているにちがいない。
同じような景色は北海道や、信州の八ヶ岳あたりに見られることも知っているけど、やはりそれがロシアであるとすれば、ひと味もふた味も違うのだ。
あの針葉樹の下を歩いてみたい、あの小川のへりをたどってみたい、あの森でリスやネズミを探してみたい。
そんな妄想をかきたてるのに、シーシキンの絵はひじょうに具合がいいのである。

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2018年12月23日 (日)

富士美術館

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今日は車で八王子まで行ってきた。
ちょっとまえにこのブログに、富士美術館というところで 「ロシア絵画の至宝展」 というイベントをしていると書いたばかりだけど、それの開催が明日までなので、大慌てで。

あらかじめ所在地を調べてみたら、この美術館は広大な創価大学の敷地内にあった。
ということは創価学会の善男善女が寄進した金で作られた美術館なのかと思う。
べつに絵に関係があるわけじゃないから、なんだっていいけど。
ところで池田大作サンてまだ生きてんのか。
その生死がわたしになにか影響を与えるわけでもないから、なんだっていいけど。

美術館は八王子インターを下りて、ものの5、6分のところにある。
わたしの部屋は調布インターからものの5、6分のところだから、往復するだけなら1時間もかからずに行って来れてしまう。
これだけ近いと運転ギライの当方にも苦にならないのはイイ。

ローカルな美術館だからすいているかと思ったら、駐車場に車の行列ができていた。
車のナンバーをみると、山梨や群馬もあったから、やはり根強いロシア絵画のファンがいるらしい。
それでも長居をするようなイベントではないから、絵を見終えた人から順次入れ替わりがあって、待ったのは15分ぐらいだった。

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美術館の建物はかなり立派である。
宗教団体がこういうかたちで儲けを社会に還元するのは悪いことではない。
通路にこれまで開催した展示会のポスターがずらりと並べてあったけど、わたしか観たかったなと思ったものもあったくらいだ。

今回の展示品はサンクトペテルブルクにあるロシア美術館の収蔵品がほとんどで、わたしが現地でじっさいに観てきた絵が30点ほど。
その中でわたしがぜひもういちど観たいという絵が、アイバゾフスキーの 「第九の波」、ヴァシリー・ポレノフの 「草花の生い茂る池」、そしてレーピンの 「サトコ」 あたり。
この3点については、過去にもぐちゃぐちゃとつまらないゴタクを述べているので、今回はシーシキンの風景画を観て胸がしめつけられるような気がしたことを書いておこう。
もっと詳しくそのへんの事情に触れたいけど、そうそうお気楽に書けることでもないので、あ、もう時間がない。
ヒマができたらこの続きを書くかもしれないけど、はて。

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2017年11月13日 (月)

ゴッホ展

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ゲージツの秋だ。
昨日はまた上野に行ってみた。
いま上野では、国立西洋美術館で「北斎とジャポニスム展」、東京都美術館で「ゴッホ展・巡りゆく日本の夢」というふたつの展覧会が開かれている。
このふたつは関連があるので両方観ればいいのだが、どうせ混雑しているだろうから、とりあえずどっちかすいているほうを観るつもり。

まず駅から近い西洋美術館のほうをのぞいてみたら、混雑はそれほどでもなかった(入口に渋滞ができてなかった)。
ゴッホのほうはどうだと行ってみたら、こちらも外から見るかぎりそれほどではない(入口に渋滞ができてないというだけで、館内にはただいま混雑中の張り紙あり)。
それでそのまま東京都美術館に入ることにした。

ゴッホは日本の浮世絵に大きな影響を受けた画家なので、その影響を探ろうと、今回の展覧会では彼の絵と、北斎や広重、国貞の浮世絵も同時に展示してある。
ゴッホも浮世絵も世界的に有名だから、どこかで見たことのある絵が多い。

いっしょに行った知り合いは、アール・ヌーボーの画家アルフォンス・ミュシャを女だと思っていた人である。
こういう相手だと知識をひけらかす絶好の機会だ。
ほれ、この構図、この大胆な省略、デフォルメ、こういうのが印象派の画家たちにとっては衝撃だったんだよと説明する。
ただまわりに大勢の見学者がいるからヘタなことはいえない。
デタラメいうと、注意はされなくても、腹の中でバカにされてしまう。

それにしても展覧会というと、どうしてああ静かなのだろう。
写真を撮ってはいけませんという注意書きはあっても、会話してはいけませんとは書いてないのに、みんな無言の行をしているみたいに押し黙っている。
おそらく無知なやつほど、こういうところでエラそうなことをいいたがると、みんなそう思っているからだろう。
わたしもそう思っているから、あまり専門的なことはいわないようにした。

このあいだカーク・ダグラスの、「炎の人ゴッホ」って映画がテレビで放映されてねと、こういう話題がいい。
アルルの跳ね橋がちゃんと復元されてて、郵便配達夫や医師のそっくりさんが出てきてと、これなら腹の中でバカにされることもないだろう。

最後は芳名録ということで、わざわざフランスまでゴッホの墓参りに行き、画家とゆかりのある医師ガシェの家を訪ねた日本人の記録まで展示されていた。
古い8ミリ映画で撮影された墓参団の映像があって、メンバーの中に和服に日本髪の女性も混じっていたのが興味深かった。
ゴッホが発狂も自殺もしなかったら、日本で墓参りツアーが企画されるほど名声を勝ち得ただろうか。

帰りに上野の森美術館のまえを通ったら、「怖い絵展」をまだやっていて、午後4時だというのに、入口に100メートルもの行列が出来ていた。
これは1カ月前に観に来て、あまりの混雑ぶりに入場を断念したときと変わっていない。
美術史的には斬首されるジェーン・グレイより、浮世絵の影響を受けたゴッホのほうが重要と思えるのに、この混雑はナンダ。
ホラーっていうのはそれだけ人気があるのか。
それともゴッホの絵は有名だからいつでも見られるけど、ジェーンの絵のほうはこの機会にしか観られないということか。
それなら納得できなくもない。
またそのうち来よう。

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2017年10月15日 (日)

怖い絵展

雨の日曜日だ。
こんな日に山や海に行くほど若くはない。
たまには精神修養を積もうと、今日は上野の森美術館へ絵を観に行ってみた。
絵というのは「怖い絵」展というやつだ。
といってもゲゲゲの鬼太郎みたいなのではなく、斬首される英国女王ジェーン・グレイを描いたような、れっきとした名画である。
わたしはピカソよりもこういう想像をふくらませられる絵の方が好きなのだ。

入口まで行って引き返した。
雨の日だからすいているかと思ったら、観衆が長蛇の列だ。
ただいま並ぶと入場まで100分だって。
自慢じゃないけど、わたしは行列に並ぶのが大キライだ。
いっしょに行った相棒もそんなわたしの性格をよく知っているから、ふたりでさっさとあきらめて、帰りはまた回転寿司を食って帰ってきた。
くそ、世間にはなんてヒマなやつらが多いのだ。

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