舞台を観る

2019年6月20日 (木)

名演技

わたしは映画ファンなので、素晴らしい演技というのをいくつも知っている。
たとえば「ゾラの生涯」のポール・ムニ、「欲望という名の電車」のM・ブランド、「傷だらけの栄光」のポール・ニューマン、「アパートの鍵貸します」のジャック・レモン、「ニュールンベルグ裁判」のマクシミリアン・シェル、「博士の異常な愛情」のスターリング・ヘイドン、「黒部の太陽」の滝沢修と辰巳柳太郎などなど。
女優の場合は美人でありさえすれば点があまくなるので除外したけど、ここではわたしの記憶に残るもので、とくに演技についてインパクトのあった作品を挙げた(ついでにDVDを持っているものを)。
ま、歴史に残るような名画に出演している役者の演技は、たいていが素晴らしいものだ。

ところで、バレエダンサーと映画俳優の演技を比べれば、こりゃ映画のほうが素晴らしいのは当然だろう。
ダンサーは踊りが売り物であるのに対し、俳優は演技が売り物なのだから。

そういうわけでバレエの分野で、だれそれの演技が素晴らしいなんて文章を見つけると、ホントかよという気持ちがあったことも事実。

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そんなわたしが、以前録画した「パリ・オペラ座350年ガラ」というバレエを観てみた。
ガラというのは全幕バレエのさわりの部分だけを集めて観せる、バレエ団のお祭りみたいなものだ。
なんだ、ダイジェスト版かと馬鹿にしていたけど、スター・ダンサーの踊りを要領よくながめるには、なかなか便利なものである。

この「350年ガラ」の中に、エレオノア・アバニャートというバレリーナさんが出てきて、「カルメン」と「椿姫」のさわりの部分を、ほとんど連続して踊っていた。
それを観てびっくりした。
「カルメン」では下着姿で、アタシと遊びたいの?
ほれ、ほれ、鬼さんこちらって具合のあばずれ女、「椿姫」では、ああ、アルマンさま、どうしてわたしをお捨てになるのという淑女を演じ分けていて、これって別人じゃないかと勘違いしたくらい。
バレエ・ダンサーの演技もあなどれないなと感心した。

てなことを書いたのは、じつは次回のBSプレミアム・シアターで放映されるバレエ「夏の夜の夢」に主演しているのが、そのアバニャートさんだから。
これはシェイクスピア原作のバレエらしいから、以前このブログに書いた、モンテカルロ・バレエ団の同作品と比較できるかもしれない。

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2019年6月18日 (火)

ウェルテル

べつにムリして強くなる必要もないんだけど、なんとかオペラに強くなろうと、ちょいとまえにBSで放映されたウィーン国立歌劇場の「ランメルモールのルチア」と、チューリヒ歌劇場の「ウェルテル」を録画しておいた。

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オペラ歌手は太っている人が多く、それが悲恋の主人公などを演じるのはどうもねえと、このブログにも書いたことがあるくらいだから、わたしはオペラが好きではない。
しかし文化人を自称する当方としては、バレエだけではなく、オペラについてもさりげなく知識をひけらかしたい。
欧州では、伝統的にオペラのほうがバレエより人気があるという。
理由はわからないけど、たくさんのオペラの舞台を観ておれば、その謎も解明できるかもしれない。
ちなみに、わたしは音痴なのでカラオケもきらいなんだけど、ジャズやロックなら筋金入のファンだ。

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録画した「ウェルテル」を観てみた。
これはゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」をもとにしたオペラだそうで、原作の舞台は18世紀のヨーロッパである。
しかし録画したものは現在という設定になっていて、これはバレエでもそうだけど、流行りのアバンギャルド化。
伝統的なオペラというのは、まず歌があって、それにあとから劇をくっつけたものだから、マクベスやアッティラがナチスの将校という解釈もある。
演じる女性がミニスカートでもノーブラでもいいわけだ。

話はそれるけど、わたしはゲーテの原作を読んだことがない。
なくて正解だった。
高校生の時分にこんなものを読んでいたら、わたしもとっくに自殺していたにちがいない。
若いころのわたしは、自分が詩人か映画スターであるという、手のつけられない自己肥大症だったもんで。

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初めてのオペラを観る場合、あらかじめの予習が欠かせない。
オペラの「ウェルテル」の見どころはどのへんにあるのか、ウィキペディアやネット情報に目を配ってみた。
劇中歌では「手紙の歌」や「オシアンの歌」というのが有名らしい。
それでこの歌から聴いてみた。
「オシアンの歌」はたしかにいい歌だったけど、歌っているのはラグビー部の猛者みたいな男性だったし、このためにムリして舞台を観たくなるようなものじゃない。

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最近、わたしは自分のフェイスブックに、なつかしのロックグループ、ドアーズの「ロードハウス・ブルース」を貼りつけた。
これは大音響で聴くにふさわしいハードロックで、わたしのことを老いぼれたじいさんと侮る若いモンに、ひと泡吹かせようという魂胆だ。
ロックやジャズならいまでもしょっちゅう聴くのである。

そもそも喉をびりびりさせた、オペラ特有の歌い方からしてわたしは好きではない。
へんにむずかしい歌い方をされるより、わたしはやっぱりジム・モリソンやミック・ジャガーの、しろうとでも歌える歌い方のほうが好きだ。
ま、生きているうちにオペラの真髄に到達できるかどうか、またそのうちに他の舞台を観てみよう。
現時点で、録画したオペラは11個もあるのだ。

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2019年5月25日 (土)

官能の女王

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録画した「ライモンダ」というバレエ、まだ全篇を通して観たわけじゃないけど、主役のヴィクトリア・テリショーキナというバレリーナさん、これミスキャストだよなあ。
彼女は「石の花」の銅山の女王役は素晴らしかったのに、この舞台ではどうもイマイチ。
わたしの独断と偏見でいわせてもらえば、チュチュ(白鳥の湖で知られるミニスカートの典型的なバレエ衣装)を着た、お姫さまのような役は彼女には不向きだ。
プリンシパルに任ぜられるようなバレリーナであれば、どんな役でもこなせなければいけないというのはわかるけど、究極の美を追求するわたしは、ほんのわずかの欠点にもうるさいのだ。

彼女はワガノワ・バレエ・アカデミーの出身で、この役を演じるまえに、そこの先生から、あなたは「石の花」の銅山の女王にふさわしいのに、なぜレパートリーにないのと訊かれたそうである。
この先生もよくわかっている。
「石の花」で彼女が演じたのは、人間に恋をする魔女のような存在で、体にぴったりフィットした全身タイツを着て、ちょうど平昌オリンピックのときのアリーナ・ザギトワのように、発散する異様なフェロモンで観ている男たちを悩殺せしめた。

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つまりテリショーキナさんはその容姿から、男たちの上に君臨する強い女子というのが適役なのだ。
黒皮のボディスーツにムチを持って、男をいたぶるSMクラブの女王なんてのはどうだろう。
このバレエと抱き合わせで放映された「マタハリ」というバレエを観れば、およそどんなドラマでもバレエにならないものはなさそうだから、あとはいい原作さえあればと思う。

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2019年5月19日 (日)

バレエ雑談

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今夜は「ライモンダ」だそうだ。
あ、BSで放映予定のバレエのはなし。
またマリインスキーだそうだから、古典スタイルに決まっている。
ヒロインを演じるのはヴィクトリア・テリショーキナってバレリーナだけど、この子はまえに「石の花」という作品について触れたとき、ちょっときつめの美人と書いた子じゃないか。
その作品の彼女の演技が記憶に焼きついて、もういちど観たいと熱望していた子でもある。
すでに録画予約ずみ。

ところでこのテリショーキナさん、ほかの映像で見ると、霊長類最強女子といわれた吉田沙保里選手に似ているところもある。
バレエがどうしてオリンピックの種目に加えられないのかと、いつも疑問に思ってんだけど、その理由に彼女の存在かもしれない。

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話が変わって、五輪の体操選手に村上茉愛という女の子がいる。
体操選手としてはふっくらした体型に加えて、愛くるしい顔立ちからわたしもファンのひとりなんだけど、今朝の新聞を見たら、ふっくらがいささか度を越していて、お相撲さんみたいな体型になっていた。
そのせいかどうか、腰に負担がかかりすぎて、試合に欠場だそうだ。

という記事をブログに載せようと思ったら、ただいま大変混雑しておりますという表示が出た。
なんかあったのか。
混雑するくらいなら、わたしのブログのアクセスも急上昇しそうなものなのに。

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2019年5月16日 (木)

バレエを蒐集する

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バレエの勉強をしていると、わたし以外にも予想以上にバレエ・ファンが多いことに気がつく。
それでもまだまだローカルな人気で、圧倒的というほどではない。
そのひとつの証拠が YouTube で、映画については最近有料のものが多いのに対し、バレエの映像はほとんどがタダで観られること。
これはまだまだ、映像で金を取れるほどファンが多くないことの証明じゃないか。

日本語だけではなく、英語、ロシア語で検索すれば、たいていのバレエ、バレリーナの映像が見つかる。
ロシア語なんてオレにはわからない?
ネットを駆使する人なら、タイトルでも人名でもロシア語を調べるのはむずかしくないはず。
見つけた映像には字幕がついてないけど、バレエというのはそもそもセリフのない踊りだし、あらすじもほとんど定型だから、なくても意味がわかることが多いのだ。

というわけで、最近はせっせとバレエの蒐集にはまってます。
お金のかからない年寄りのいい趣味だけど、パソコンのまえに座り込んでメシが手抜きになるので、たまにはまたステーキを食いに行かないと。

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添付した画像はボリショイ・バレエの「スパルタクス」より。
こんな大作が精緻な画質で、まるごと観られてしまうのだ。
出演女優の魅力は、カーク・ダグラスの映画よりこっちのほうがグー!

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2019年5月11日 (土)

CLOSED

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「CLOSED」というバレエを観た(もちろん録画で)。
BSで過去にも放映されているから、通のあいだではわりあい有名なバレエだと思うけど、こういうものもバレエと呼んでいいのかどうか悩む、いわゆるコンテンポラリー・ダンスの部類。
男3人と女ひとりがチェロの演奏に合わせて踊るだけという、いたってシンプルな作品である。
どことなく卑猥な雰囲気がいっぱいなのがウレシイ。

ストーリーは・・・・ そんなものはないんだけど、あらすじらしきものを説明すると、あるバーにひとりの女がやってくる。
店内にいたのはバーテンとふたりの男性客、ほかにBGM係のようなチェロを弾く男がひとりだけ。
コダーイのチェロ・ソナタがたんたんと流れるなか、女とバーテンを交えた3人の男が、床にころがったり、カウンターに横たわったり、店内の物入れに頭を突っ込んで逆立ちをしたりと、意味不明な行動にはしる。
冒頭のほうでダンサー全員に錠剤が配られるから、これはドラッグ中毒者の幻想なのかと考えてもいいけど、薬物禁止協会の啓蒙ビデオにしちゃヒワイ部分が多すぎるような気もする。

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女を演じているのはナターシャ・ノボトナさんといって、このバレエで観るかぎり、恥じらいというものをどこかに忘れてきたみたいで、なかなかイロっぽい。
とはいえ、男同士のからみはわりあい淡白で、女をめぐる四角関係の愛憎劇とも思いにくい。
どんな意味があるか、詮索するだけムダで、現代バレエってのはそういうもんだと思っておくしかない。

そしてこれは最初から映画用に作られたバレエだった。
どう見ても舞台をワンテイクで撮ったものではなく、同じ場面を何回かに分けて撮影して、あとで1本に編集したものだから。
いちどっきりの踊りを複数のカメラで撮影して、1本にまとめる手もあるけど、カメラのアングルが、顔のアップ、店内の様子、右から左からと目まぐるしく変わるから、複数のカメラを使えば、どこかのカットにカメラが写り込んでしまうはず。
それがないということは、これは綿密な計算のもとに、ダンサーたちが同じシーンを何度も演じ、それを撮影したものだろう。

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あとでクレジットをながめたら、特定の振付師がいるわけではなく、出演の4人の名前がそのまま振付師にもなっていた。
ということは、出演しているダンサーたちが、アイディアを持ち寄って共同制作した、ジャズのような即興バレエのつもりだったかもしれない。
毎回踊りが変わるというバレエ、ぶっつけ本番ではちょっと危険だけど、舞台でやるとどうなるのか観てみたい。

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2019年5月 5日 (日)

現代版「ジゼル」

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アクラム・カーンの現代版「ジゼル」では、登場人物が移民の工場労働者たちに置き換えられていた。
移民が出てくるから現代的なのかどうか知らないけど、オープニングはコンクリートの壁のまえで、大勢の男女が踊っているというもので、古典のほうにあった明るく楽しい雰囲気よりも、山谷か釜ヶ崎みたいなすさんだものを感じてしまう。
どこかの工場のストライキを扱ったバレエなのかと思ってしまったくらい。

幕あきからこんな調子では、この場面は古典ジゼルのどこに相当するのか、この人物はどの人物に該当するのかと、最初に理解をしておかないと、なにがなんだかわからない。

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ヒロインを演じるのは1974年生まれのタマラ・ロホというダンサーで、ロイヤル・バレエのベテランらしいけど、結婚まえの乙女を演じるのはちと苦しいかもしれない。
しかし若くしてベテランになれるダンサーは少ないから、無理を承知で観なければいけないのがバレエなのだ。

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女のほうはなんともいえないが、男のほうは上着とネクタイを放り出した丸の内のサラリーマンみたいである。
無理に好意的に解釈すると、ジゼルは美人の移民娘で、アルブレヒトは彼女に好意をよせる会社の若社長だ。
これなら古典との齟齬もなくなる。

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よくわからないのは、このあとに古風なファッションの、トランプの王様と女王様みたいなのが出てくること。
オリジナルのすじがきどうりなら、彼らはアルブレヒトの婚約者の両親ということになる。
もちろん彼らは、自分の娘の婚約相手が、移民の娘と付き合うのをこころよく思うはずがない。
それはともかくとして、現代版ではアルブレヒトのことを、若社長という好意的な解釈をしたのだから、ここは移民の娘なんてとんでもないという、頑固親父の会長が出てこなければいけないのではないか。
なんでここだけ古典に先祖返りをしてしまうのか、どうもアクラム・カーンの思考回路がわかりにくい。
こまかい理屈に拘泥しないのが、現代バレエを観るひけつといわれればそうかもしれないけど。

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なんだかよくわからないまま、ジゼルはめでたく憤死してウィリの世界に迎えられる。
ここから先は死後の世界になるけど、ウィリの世界にも入会式があるようで、新参者は先輩たちやウィリの女王にいじくりまわされるのだ。
いいなあと思ったのはウィリの女王を演じるロングヘアの美人で、むっつり不機嫌だけど、わたしの好み。
つい安心して見とれてしまう。
 

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安心して見とれていられないのはジゼルに告げ口をして、結果的に彼女を死においやるヒラリオンという役柄。
カーン版でこれを演じるのは極東アジア系と思われるダンサーだけど、この舞台の彼は性格のわるい街のチンピラみたいで、精神的深みがぜんぜん感じられない。
どうもアジア人というのは複雑な役柄は不向きなようだ。 

ここで「ジゼル」におけるヒラリオンの演じ方を考察してみよう。
いろいろな解釈があるそうで、たとえば初めから終いまで、少女マンガに出てくるようなイジワル役というもの。
これとはべつに、好きな女性に相手にされず、つい嫉妬心から彼女にいらんことを告げ口して、後悔の念にさいなまされる男という解釈もあるらしい。
古典そのもののマリインスキー版がそのとおりで、ヒラリオンは気の弱そうな若者で、夜中にこっそり、自分が死なせたジゼルの墓に花を持ってお参りにくるのだ。
もちろん飛んで火に入る夏の虫、ウィリたちにさんざん踊らされたあげく死ぬ運命だけど、どこか身につまされてしまうのだよね。
その点、カーン版のほうはチンピラだから、ぜんぜん同情しなくていい。

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現代バレエが苦手のはずのわたしだけど、ウィリの女王以外にいいなあと思った部分もある。
こちらの舞台には、森の中や墓のセットはぜんぜんなく、夜の場面もコンクリートの壁の前で繰り広げられ、その壁すら最後には闇の中に埋没してしまう。
つまり舞台にあるのは人間の肉体だけというわけだ。
現代バレエというのは、ストーリーよりダンサーたちの動きを重点的に見せるもの、といわれればそうかもしれない。

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これだけなら、わたしのキライな現代バレエとあまり変わらないけど、カーン版では光と影がじつに効果的に使われていて、その幽玄的ともいえる美しさに感心した。
棒を一本はさんで、女ふたりのタイマン勝負、その静けさは日本のわびさびの精神にも通じるなんて、ま、余計なことはいわない。

むずかしい理屈は専門家におまかせして、ここはわかりやすくて感心した部分を挙げてみよう。
複数の人物がたてに重なって、最初はいちばん前のひとりしか見えないんだけど、見えない位置のウィリたちがさっと横に展開するシーン、暗闇の中と明るい場所とを、ウィリたちが変幻自在に出入りするところなど、まるでCGによる特殊効果を観ているよう。
古典とはまったく異なる、新しいコール・ド・バレエ(その他大勢組)の可能性を感じてしまう。  

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ということで、現代バレエにも見どころはあると、信条の大転換を計ったわたしだけど、ウィリの女王がキツネのついたおばさんみたいだったら、この感動の何割かは削減されていただろう。
やっぱりわたしはどこまで行ってもフェミニストだ。

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2019年5月 4日 (土)

ジゼル

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バレエに詳しい人から笑われてしまいそうだけど、「ジゼル」というバレエがある。
「白鳥の湖」を別格とすれば、これは「くるみ割り人形」や「眠れる森の美女」に匹敵するほど有名な古典バレエだそうだ。
わたしがそんなことを知らなかったのはやむを得ない。
なんといったって、わたしはまだバレエの勉強を始めたばかりなのだから。  

すこしまえにBSプレミアム・シアターで放映されたのは、マリインスキー・バレエによるこの舞台。
マリインスキーというと、世界一といわれるロシア・バレエの中でも、もっとも伝統的で由緒正しいとされるバレエ・カンパニーだ。
放映された舞台も、ロマンチックバレエの様式どおり、すねまでのチュチュを着た、いかにも古典らしいオーソドックスなスタイルだった。

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このバレエのあらすじを説明すると、中世ヨーロッパのある村に、ジゼルという踊りの好きな娘がいた。
彼女はアルブレヒトという若者と恋人同士だったけど、彼はじつは貴族の息子のかりの姿。
そうとは知らないジゼルが彼と楽しく過ごしていると、彼女に横恋慕する男がいて、アルブレヒトの秘密、彼にはべつの婚約者がいることまでみんなバラしてしまう。
ショックを受けたジゼルは憤死して、ウィリの仲間入りをすることになってしまった。
ウィリというのは結婚するまえに亡くなった乙女の亡霊で、恨みつらみを抱いたまま森の中をさまよっているのだ。

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ジゼルのことを忘れられないアルブレヒトは、恋人のおもかげを求めて、彼女の墓のある夜の森へさまよい込んでくる。
そういう男は飛んで火に入る夏の虫、ウィリたちにオモチャにされて、死ぬまで踊らされることになっているのだそうだ。
かっての恋人が踊らされて、疲れ果てて、あわやという場面に、ジゼルはウィリの女王のまえで、果敢にも彼の弁護を買って出る。
彼女の口ききのおかげでアルブレヒトは救われたものの、夜明けとともに彼と彼女は永遠の別れ・・・・
古典にふさわしいロマンチックな物語だけど、恐怖のホラー・バレエともいえる。

じつはわたしの録画コレクションの中には、アクラム・カーン振り付けの、このバレエがすでにあった。
ただ、この振付師の名前を聞いて、最初はいやな気がした。
この人はたしか現代バレエをもっぱらとする振付師で、わたしはどっちかというと、そういうとんがったバレエがきらいなのである。
でもひょっとすると、思わずナマつばを飲み込むくらい官能的という場合もあるかもしれないから、いちおう録画しておいたのだ。

そういうことで、新旧ふたつの「ジゼル」がそろったわけだから、この機会に有名な古典と、その現代版を比較してみようと思う。
まずはマリインスキーの古典ジゼルから(ここに載せた写真はかならずしもこの舞台のものではアリマセン)。

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マリインスキー版でジゼルを演じるのは、ディアナ・ヴィシニョーワ。
マリインスキーのプリンシパルで、踊りは保証書つきだけど、残念ながら顔がロボットみたいで、わたしの好みじゃないね。
おまえの好みなんか聞いてない?
これはわたしの個人的偏見に満ちたブログなんだけど。
アルブレヒト役は世界的に有名なダンサー、マチュー・ガニオで、彼はパリ・オペラ座のエトワールだから、この舞台では客演ということになり、こちらは文句なしのイケメン。

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このバレエはダンサーたちが死に装束で踊るゆいいつのバレエなんていわれているそうだけど、どんなものが死に装束なのか、バレエ初心者のわたしにはわからない。
それよりも花嫁衣装といったほうがわかりやすい。
マリインスキー版でも、ウィリたちは長めの白い衣装で、最初は顔に透明なベールをかけているから、これはもろウェディングドレスといっていい。
結婚できずに死んだ乙女たちの亡霊は、着たくて着られなかった花嫁衣装に未練をもって、その衣装のまま、いつまでも森のなかをさまよっているのである。

みんな同じ衣装だからまちがえることもある。
ウィリが暗躍する夜の場面になって、舞台のまん中にキツネのついたおばさんみたいなのが登場した。
てっきりこれが死んだジゼルかと思い、お化粧ひとつで女性はずいぶん変わるものだなあとあっけにとられていたら、じつはこれはウィリの女王を演じるべつのダンサーだった。

ここでひとつことわっておくけど、バレリーナというのは、女性として完璧なプロポーション、これは正しい。
しかし容貌は、厚いメーキャップでおおわれているから誤解しやすいだけで、美人の割合はそのへんのふつうの娘たちとそれほど変わらないものである。

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どうも容姿にばかり目が行くのがわたしの欠点だ。
しかしプリンシパルやエトワールに任ぜられるほどのバレリーナなら、その技量の上手い下手がわたしにわかるわけがないし、いちばんよくわかるのはわたし好みの顔かどうかということだ。
こういう点では今回の主役のディアナさんはちと減点。

彼女以外のダンサーに目をやると、たとえば昼間の場面で、物語にはとくに関係のない男女ペアのダンサーが踊るけど、このときのバレリーナははつらつとしていてわたしの好み。
夜の場面では、ジゼルの墓のまえで踊るウィリたちの中に、わたし好みの美人が何人かいた。
さすがはロシアのバレエ、人材が豊富で、彼女たちがおもて看板になる日を待とうという気になる。

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先にホラー・バレエと書いたけど、お墓のまえで大勢の幽霊が踊るバレエだからそう書いただけで、じっさいにはそんなにコワイ場面があるわけじゃない。
ウィリはみんなプロポーション抜群の美女ばかりだから、男のわたしはうっとりと見とれるばかりである。
いっそのこと、マイケル・ジャクソンの「スリラー」みたいに、墓の中からゾンビの集団みたいなのが出てくると本物のホラーになるのだが。

そういう刺激的な映画にマヒしているわたしとしては、「白鳥の湖」を観たあとでこれを観ると、たぶん物足りなさを感じると思う。
「ジゼル」の夜の場面は、(専門用語を使うのは気がひけるけど)ダンサーひとりのヴァリアシオンから、ペアで踊るパ・ド・ドゥに、その他大勢(コール・ド・バレエ)の群舞など、「白鳥」で王子さまとオデットが出会う湖の場面に、雰囲気がよく似ているのだ。
二番煎じとはいわないけど、ゆったりした古典バレエばかり観ていると、いつかもの足りなくなって、けっきょくとんがった現代バレエに行き着くのかもしれない。
ということで次項ではアクラム・カーンの「ジゼル」を観てみよう。

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2019年4月30日 (火)

また「石の花」

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3月2日のこのブログで、「石の花」というバレエの、これは制作裏話みたいなドキュメンタリーだったけど、それをYouTubeで観て、興味があるのにロシア語なので意味がわからないというようなことを書いた。
ところがその後、ツァールスカヤ・ロージャと名付けられれたこのドキュメントには、正確な日本語の解説文がついていることがわかった。
ふだんは折りたたまれていて見えないけど、画面右下の小さな
v 記号をクリックすると、ずらずらっと文章が表示されるのである。

おかげでこの映像の中に出てくるおじいさんが、「石の花」の振付師であるユーリ・グリゴローヴィチであることがわかってしまった。
かなり古くからのバレエの歴史に登場する人なので、わたしはてっきり故人かと思っていたのである。
しかしウィキペディアには死亡日時が書いてないから、まだ現在でも生きているらしい(いまなら
92歳ぐらい)。
上記のドキュメンタリーの中には、若いころの彼の写真も出てくるけど、さすがにロシアのバレエダンサーで、現在の本人とは似ても似つかぬハンサムな人だった。

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このドキュメントを観たおかげで、わたしはこのバレエをじっさいに観たくて仕方がない。
わたしが魅了されたのは、ヒロインの銅山の女王役を、ヴィクトリア・テリョーシキナというバレリーナが演じているもので、彼女はアスリートみたいな、ちょっときつめの美人だけど、初恋が忘れられないみたいに、初めて観た彼女の踊りが目に焼き付いてしまったのである。

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このバレエを観たかったらまたロシアまで行かなくちゃいけないか。
でも考えた。
テリョーシキナさんの舞台は、グリゴローヴィチの生誕
70周年を記念する特別公演だったようで、つまり現在ではロシアでも、それほどひんぱんに上演される作品ではないようだ。
おまけにロシアの専売特許みたいなバレエで、他の国のバレエ団で上演されることもないみたい。
これじゃわたしが、もういちどロシアまで出かけられるほど若くても、いつでも気安く観られるわけではない。
あこがれは永遠にあこがれで終わるのか。

そう観念したけど、でも考えると、グリゴローヴィチさんはもうよたよただ。
彼は世界的に有名な振付師だから、亡くなったら大きな話題になるだろうし、また記念の特別公演が行われるかもしれない。
すると彼の代表作として、演目は「スパルタクス」か「石の花」が候補だろう。
「スパルタクス」のほうはいまでもしょっちゅう演じられているから、ここはやっぱり「石の花」だな。
そのときモスクワまで観に行けばいいではないか。
と考えたけど、いまやわたしもよたよただ。
グリゴローヴィチさんか、わたしが先か、どうも縁起でもないことばかり頭にちらついちゃって。

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2019年4月24日 (水)

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先日録画した「アルジェのイタリア女」というオペラ。
これはザルツブルク音楽祭で上演されたもののビデオだけど、ぜんぜんオペラに縁のない当方だから、最初はちょっと面食らった。

オリジナルは倦怠期のアルジェの太守が、部下に古女房に代わる新しい女を調達してこいと命令し、首尾よくかっさらってきたイタリア女が、これはなかなか肝のすわった相手で、ぎゃくに手くだを弄して太守をギャフンといわせる物語。
ロッシーニの有名なオペラらしいけど、登場人物がジーンズをはいていたり、ジャージー姿だったり、サッカーチームまで出てくる始末で、これって時代設定はいつなのよと疑問符つき。

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つまり、これはナンセンス・コメディなんだなと理解するのがいちばんいい。
映画でたとえれば、えーと、たとえば「ビートルズのヘルプ!」には、バハマ諸島の海岸にドーバー海峡横断中の水泳選手があらわれる。
キューブリックの「博士の異常な愛情」では、コング少佐は水爆にまたがったまま目標めがけて突入する。
そんなバカなと文句をいわずに、だまってアハハとおかしがってればいいのである。
世の中にはそういうユーモアもあるのだ。

 イタリア女の魅力を説明するために、背景にフェリーニの「甘い生活」の映像が流れるシーンがある。
でもアニタ・エクバーグはイタリア人じゃないし、イタリア人という設定にもなってないぞと、こういうところではツッコミを入れたくなる映画好きのわたし。

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「アルジェの」でヒロインのイタリア女に扮したのは、チェチーリア・バルトリといって、1966年生まれだからおばさんといっていい歌手だ。
当然ながら柳腰の美女を期待するわけにはいかないけど、不条理な喜劇であることを思えば、笑わせるためのデフォルメとみなすこともできる。
太守を演じた歌手も、目をぎらつかせてヒロインにせまる演技は、誇張されているとはいえ、映画なら「第17捕虜収容所」や「7年目の浮気」に出演していたロバート・ストラウスみたいで、アカデミー賞ものだ(ノミネートで終わるかもしれないけど)。  

しかしこれは映画ではない。
ヒロインが恋人とアルジェ脱出のための謀議をこらす場面がある。
謀議だからひそひそ話である。
たとえひそひそ話でも、これはオペラだからセリフはすべて歌であり、歌声は劇場のすみずみまで聞こえなければいけないのだ。
これはむずかしそう。
ひそひそとすみずみまでという相反する行為を両立させるなんて、こんな器用な真似は、そんじょそこいらの映画俳優にはできそうもない。
オペラはやっぱり、凡人には真似のできない芸術である。

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わたしはこのブログで、オペラにはミュージカルとちがって、世間に流布するような名曲がないと書いたことがあるけど、けっしてそんなことはなさそうだ。
1幕の終わりは嵐のなかの船の上という設定で、コーラス陣まで含めた登場人物全員が、横になったり逆さになったり、あっちへよたよた、こっちへふらふら、歌でもってかけあい漫才をやっているようなはちゃめちゃなシーンになり、もうおかしくておかしくて。
この場面での音楽はポピュラー・ナンバーになってもおかしくないワ。  

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オペラについて調べてみたら、かってはバレエよりオペラのほうが人気があったということを知って、女性のプロポーションばかりに目のいくわたしはちょっと意外だった。
でも考えてみると、バレエはどんなに素晴らしくても、しろうとがいきなり真似をするわけにはいかないが、オペラのほうは体をゆすったり手拍子を打ったり、初めての観衆も舞台と一体になって楽しさをわかちあうことができる。
バレエの真似はできなくても、歌ならオレにもと錯覚する人が多いのは、カラオケに行ってみればよくわかる。
これじゃオペラのほうが人気があっても当然かもしれない。
底抜けに楽しい「アルジェの」を観てそう思った。
こんなオペラばかりなら、わたしのオペラに対する偏見もなくなるかもしれないのに。

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