舞台を観る

2019年11月26日 (火)

魔笛

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ひさしぶりにテレビで観た舞台のお話だ。
オペラはあまり好きじゃないんだけど、すこしまえに放映されたグラインドボーン音楽祭における「魔笛」というオペラがおもしろかった。

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「魔笛」というのはモーツァルトの有名な古典オペラであることぐらいは知っている。
本来ならロビン・フッドの時代の劇なんだろうけど、この音楽祭のそれは思い切りアレンジがされて、登場人物の服装からするとビクトリア朝、つまりシャーロック・ホームズの時代を思わせる劇になっていた。

最近になってオペラやバレエの収集を始めたわたしには、時代を改変した古典オペラはけっしてめずらしくない。
わたしが録画したものだけでも、「スペードの女王」、「マクベス」、「アッティラ」、「タンホイザー」など、古典のままのオペラを探すほうがむずかしいくらいだ。

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オペラの場合、登場する役者には声量が必要だから、ヒロインは太った女性であることが多く、これがわたしにオペラがピンとこない理由だった。
しかし「魔笛」はもともと喜劇だから、ヒロインを演じたソフィア・フォミナさんが太った女性であっても、滑稽味を増すためのデフォルメとみなすこともできる。
彼女はなかなかの美人だし、こうなると太った女性は、もうそこにいるだけで温かな微笑みを感じさせるものなのだ。

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ヒロインはさておいて、この「魔笛」でいちばん感心したのが、音楽よりも舞台美術である。
セットは書き割りみたいな感じだけど、どこかで見たようなイラスト風の絵で、誇張された登場人物に、ユーモラスな造形のヘビや、大きなロボットまで出てくるのだ。
夜の女王のしもべである三人のウエイトレスが、「女性に参政権を」というプラカードを持っていたり、魔法使いのようなカギ鼻のおばあさんが、歳を訊かれて18歳と2分だと答えたり、皮肉やナンセンスの要素もありあり。

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わたしはこの「魔笛」を観て、ふいに宮沢賢治の童話を連想した。
突拍子もないことかもしれないけど、同じような舞台美術で、賢治の「注文の多い料理店」や「銀河鉄道の夜」をやったらおもしろいと思ったのである。
賢治には「飢餓陣営」や「植物医師」のような戯曲作品もあり、教師をつとめた学校では劇の指導にも熱心だった人だったから、彼がこのオペラを観たら、なんらかのインスピレーションを受けていたかもしれない。
歌唱方法のレベルが高すぎるのが欠点だけど、これをもうすこしとっつきやすいものにしてくれれば、この「魔笛」はそのまま子供向けの楽しいミュージカルになりそうだ。

もちろん音楽もすばらしいと書こうと思ったけど、よく考えたら舞台美術や出演者のコミカルな演技にばかり目がいって、音楽のほうはぜんぜん記憶に残ってなかった。

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2019年7月31日 (水)

ロミオとジュリエット

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先日録画したロイヤル・バレエの「ロミオとジュリエット」を観てみた。
日本向けサービスなのか、たまたまの偶然なのか知らないけど、主役の2人がふたりとも日本人なので、ちょっとこちらのイメージとちがうのが残念というか。
英国まで行って東京バレエ団の舞台を観せられているよう。

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ロミオを演じているのは、そのまえに放映された「フランケンシュタイン」で、主役の怪物を演じていた平野亮一クン。
彼はロイヤル・バレエのプリンシパルであり、背の高さであちらのダンサーにひけをとらない偉丈夫ぶりだ。
ただし顔つきは池田理代子さん描くところあまい王子さまとは異なり、わたしの見立てでは、ボリショイ・バレエのスパルタクス役なんかが似合いそう。
ロシアからオファーが来ないかしら。

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ヒロインのジュリエットを演じているのは高田茜ちゃんで、アップで見るとお人形さんみたいだけど、いかんせんタッパが足りない。
彼女にふさわしいのは、たとえば「くるみ割り人形」のクララや、「不思議の国のアリス」あたりだ。
子役のつとまるバレリーナは貴重だと思うんだけど、あっちこっちからオファーが来ないもんかね。

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だれがどんなバレエを踊ろうと、踊りさえ素晴らしければ文句がないはずだけど、あいにくわたしのロミオとジュリエットには、最初からある程度のイメージが確立している。
わたしは自分のそういうイメージを大切にする人間である。
だからロミオはレナード・ホワイティングのようであってほしいし、ジュリエットはオリヴィア・ハッセーのようで・・・・

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「ロミオと」は映画「ウエストサイド物語」の原作でもある。
しかし「ウエストサイド」のほうは、ニューヨークが舞台の現代ドラマに作り変えられているから、登場人物がリーゼントであったり、不良のロカビリー少女であっても文句はいわない。
平野クンと茜ちゃんの舞台も、設定を現代に変え、バルコニーではなく、納屋で愛をささやいたほうがよかったと思う。

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ものの本によると、「ロミオとジュリエット」は、ロシアが生んだバレエとしては「スパルタクス」と双璧とある。
ただしここでいう「ロミオと」は、ユーリ・グリゴローヴィチの振り付けによるボリショイ・バレエのもので、それと今回の英国版を比較してみると(ボリショイ版はYouTube で観られる)、差はかなり歴然。
ちなみにボリショイ版でジュリエットを演じているのは、わたしのイメージにまったく不足のないアンナ・ニクーリナさん。

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どちらもまず街の中で、ふたつに分かれた若者たちのいがみあいから始まるけど、ボリショイ版では男組みたいなバレエが勇壮で、最初から様式美がきわだつ、いかにもバレエらしい華麗なる振り付けだ。
英国版では出だしから大勢の男女がうろちょろして、これはまあ、当時の市井を忠実に再現しようとしたのかもしれないけど、バレエを観ているというより西洋のチャンバラ映画を観ているよう。
バレエらしからぬ雑多な印象は、英国版の最後までつきまとう。

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有名なバルコニーの場面も、ボリショイ版のほうがロマンチックだし、ジュリエットが薬を飲んで仮死状態になったあと、さまざまな思いが走馬灯のようにめぐるというのもボリショイ版で、このあたり幻想的でひじょうに美しい。
ただしこの映像では、オーバーラップという手法がかいま見られるから、舞台をそのまま捉えたものではない。
美しいと思う理由はカメラワークや編集に負うところもあるかも。

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ついでにもうひとつのロシア版「ロミオと」を観てみた(YouTubeで)。
こちらはマリインスキー劇場のもので、ヒロインはわたしにロボットみたいといわれたディアナ・ヴィシニョーワさんだけど、今回は
YouTube 経由だから、表情はあまり気にならない。
同じロシア版でも、こちらの振り付けはグリゴローヴィチではない。

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出だしだけを観ると英国版と同じような雰囲気だけど、バルコニーの場面や、主人公ふたりが相次いで死ぬ場面は、ボリショイ版にひけをとらない美しさ。
ロシアのダンサーは、わたしのイメージから大きく逸脱することがないのが大きいようで、わたしみたいな素人のおじさんでさえ美しいと思うのだから、これでは英国版は太刀打ちできないだろう。
「スパルタクス」と「ロミオとジュリエット」が、ロシア・バレエの至宝といわれる理由もよくわかった。
やっぱりバレエはロシアである。

ここに載せた写真は、最初の5枚以外はすべてロシアのもの。

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2019年7月 9日 (火)

夏の夜の夢

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すこしまえに録画した「夏の夜の夢」というバレエは、以前このブログに書いた「ル・ソンジュ」と同じシェイクスピアの原作をもとにしている。
ただ前者がパリ・オペラ座の作品で、きわめてオーソドックス、内容は「コッペリア」のようにご家族向けの楽しいバレエであるのに対し、後者はモンテカルロ・バレエによる現代解釈版で、18歳未満はお断りなくらい過激な作品であることがちがう。

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うまい具合に対照的なふたつの「夏の夢」が揃ったから、ここで両者のスタイルを比較してみよう。

モンテカルロ版を観たとき、このバレエってどんな物語なのかとウィキペディアを調べてみて、なんだかややこしくてよくわからないと書いた。
今回はもうすこし気合を入れてその解説を読んでみた。

森のなかに妖精の王さまと女王さまが住んでいて、この夫婦はけん怠期でケンカばかりしている。
将来を案じた王さまは、仲直りをするために、パックという男の妖精に命じて、ひとめ惚れの花を取ってこさせる。
この花の匂いをかぐと、だれでも目のまえにいた人間を好きにならずにいられなくなるのだそうだ。
この花を使ってよりをもどそうというのが王様の魂胆だ。

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ところがパックは手違いをして、森のなかに迷い込んできた人間にそれを使い、2組の恋人同士のそれぞれの相手を取り替えてしまう。
おまけに女王さまは、たまたま目のまえにいたロバを好きになってしまう。
パリ版ではほぼ原作通りのドタバタ喜劇だけど、モンテカルロ版では、なにがどうしてこうなるのという、イヤラシイ物語になっていた。

わたしが「パリ・オペラ座350年ガラ」というバレエ団のお祭りを観て、出演していたエレオノア・アバニャートというバレリーナの演技に感心したことはすでに書いた。
パリ・オペラ版の「夏の夜の夢」は、そのアバニャートさんが主演だから、おおいに期待したんだけど、うーん、もうひとつだったねえ。

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エトワールに任ぜられるようなバレリーナは、それなり年功をつんだ人が多い。
長年の研磨の果てにようやくその地位を得るのだから、はつらつとした若い乙女を演じるには、いささかトウの立ちすぎた人が多いのもやむを得ない。
アバニャートさんが「
350年ガラ」で演じたのはカルメンで、男を手玉にとるすれっからしのあばずれ女(すぐ上の写真)。
こういう役だと若いとか清純であるとかいう必要はないし、本領発揮なのか?じつに魅力的だった。
「ジゼル」でわたしにロボットみたいと書かれた、マリインスキーのディアナ・ヴィシニョーワさんもカルメンを演じているけど、まるで別人のようだったから、しおらしい娘役よりあばずれ女のほうが魅力的というバレリーナはいるのである。
 

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欠点がもうひとつ。
アバニャートさんの役は、妖精たちの女王だ。
若くなくてもいい役だとしても、せめてその他大勢の妖精たちとは異なる衣装にしてほしかった。
このバレエにはアマゾンの女王という、狆がくしゃみしたようなバレリーナ(すぐ上の写真)が出てくるけど、衣装はこっちのほうがカッコよかったから、最初はこれが女王かと思ったくらい。
アバニャートさんの衣装は、他の妖精たちと同じ、ピンク色のすねまである衣装で、ややもすると妖精たちに埋没してしまう。
なにもモンテカルロのベルニス・コピエテルスさんみたいに、骨盤まで見える衣装にしろとはいわないけど、女王は女王らしく他に差をつけなければいけない。

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ちなみにこのバレエの王さま役はユーゴ・マルシャンといって、頭が小さく、ハンサムで、プロポーション抜群のダンサーだ。
こういうのを専門用語で、王子さま役を張れるという意味のダンスール・ノーブルというらしい。
男のわたしが見てもほれぼれするし、それだけ見せ場が引き立つというもんだ。
こんなふうにダンサーの容姿や衣装にこだわるわたしって、観客としては邪道だろうか。

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2019年6月20日 (木)

名演技

わたしは映画ファンなので、素晴らしい演技というのをいくつも知っている。
たとえば「ゾラの生涯」のポール・ムニ、「欲望という名の電車」のM・ブランド、「傷だらけの栄光」のポール・ニューマン、「アパートの鍵貸します」のジャック・レモン、「ニュールンベルグ裁判」のマクシミリアン・シェル、「博士の異常な愛情」のスターリング・ヘイドン、「黒部の太陽」の滝沢修と辰巳柳太郎などなど。
女優の場合は美人でありさえすれば点があまくなるので除外したけど、ここではわたしの記憶に残るもので、とくに演技についてインパクトのあった作品を挙げた(ついでにDVDを持っているものを)。
ま、歴史に残るような名画に出演している役者の演技は、たいていが素晴らしいものだ。

ところで、バレエダンサーと映画俳優の演技を比べれば、こりゃ映画のほうが素晴らしいのは当然だろう。
ダンサーは踊りが売り物であるのに対し、俳優は演技が売り物なのだから。

そういうわけでバレエの分野で、だれそれの演技が素晴らしいなんて文章を見つけると、ホントかよという気持ちがあったことも事実。

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そんなわたしが、以前録画した「パリ・オペラ座350年ガラ」というバレエを観てみた。
ガラというのは全幕バレエのさわりの部分だけを集めて観せる、バレエ団のお祭りみたいなものだ。
なんだ、ダイジェスト版かと馬鹿にしていたけど、スター・ダンサーの踊りを要領よくながめるには、なかなか便利なものである。

この「350年ガラ」の中に、エレオノア・アバニャートというバレリーナさんが出てきて、「カルメン」と「椿姫」のさわりの部分を、ほとんど連続して踊っていた。
それを観てびっくりした。
「カルメン」では下着姿で、アタシと遊びたいの?
ほれ、ほれ、鬼さんこちらって具合のあばずれ女、「椿姫」では、ああ、アルマンさま、どうしてわたしをお捨てになるのという淑女を演じ分けていて、これって別人じゃないかと勘違いしたくらい。
バレエ・ダンサーの演技もあなどれないなと感心した。

てなことを書いたのは、じつは次回のBSプレミアム・シアターで放映されるバレエ「夏の夜の夢」に主演しているのが、そのアバニャートさんだから。
これはシェイクスピア原作のバレエらしいから、以前このブログに書いた、モンテカルロ・バレエ団の同作品と比較できるかもしれない。

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2019年6月18日 (火)

ウェルテル

べつにムリして強くなる必要もないんだけど、なんとかオペラに強くなろうと、ちょいとまえにBSで放映されたウィーン国立歌劇場の「ランメルモールのルチア」と、チューリヒ歌劇場の「ウェルテル」を録画しておいた。

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オペラ歌手は太っている人が多く、それが悲恋の主人公などを演じるのはどうもねえと、このブログにも書いたことがあるくらいだから、わたしはオペラが好きではない。
しかし文化人を自称する当方としては、バレエだけではなく、オペラについてもさりげなく知識をひけらかしたい。
欧州では、伝統的にオペラのほうがバレエより人気があるという。
理由はわからないけど、たくさんのオペラの舞台を観ておれば、その謎も解明できるかもしれない。
ちなみに、わたしは音痴なのでカラオケもきらいなんだけど、ジャズやロックなら筋金入のファンだ。

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録画した「ウェルテル」を観てみた。
これはゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」をもとにしたオペラだそうで、原作の舞台は18世紀のヨーロッパである。
しかし録画したものは現在という設定になっていて、これはバレエでもそうだけど、流行りのアバンギャルド化。
伝統的なオペラというのは、まず歌があって、それにあとから劇をくっつけたものだから、マクベスやアッティラがナチスの将校という解釈もある。
演じる女性がミニスカートでもノーブラでもいいわけだ。

話はそれるけど、わたしはゲーテの原作を読んだことがない。
なくて正解だった。
高校生の時分にこんなものを読んでいたら、わたしもとっくに自殺していたにちがいない。
若いころのわたしは、自分が詩人か映画スターであるという、手のつけられない自己肥大症だったもんで。

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初めてのオペラを観る場合、あらかじめの予習が欠かせない。
オペラの「ウェルテル」の見どころはどのへんにあるのか、ウィキペディアやネット情報に目を配ってみた。
劇中歌では「手紙の歌」や「オシアンの歌」というのが有名らしい。
それでこの歌から聴いてみた。
「オシアンの歌」はたしかにいい歌だったけど、歌っているのはラグビー部の猛者みたいな男性だったし、このためにムリして舞台を観たくなるようなものじゃない。

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最近、わたしは自分のフェイスブックに、なつかしのロックグループ、ドアーズの「ロードハウス・ブルース」を貼りつけた。
これは大音響で聴くにふさわしいハードロックで、わたしのことを老いぼれたじいさんと侮る若いモンに、ひと泡吹かせようという魂胆だ。
ロックやジャズならいまでもしょっちゅう聴くのである。

そもそも喉をびりびりさせた、オペラ特有の歌い方からしてわたしは好きではない。
へんにむずかしい歌い方をされるより、わたしはやっぱりジム・モリソンやミック・ジャガーの、しろうとでも歌える歌い方のほうが好きだ。
ま、生きているうちにオペラの真髄に到達できるかどうか、またそのうちに他の舞台を観てみよう。
現時点で、録画したオペラは11個もあるのだ。

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2019年5月25日 (土)

官能の女王

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録画した「ライモンダ」というバレエ、まだ全篇を通して観たわけじゃないけど、主役のヴィクトリア・テリショーキナというバレリーナさん、これミスキャストだよなあ。
彼女は「石の花」の銅山の女王役は素晴らしかったのに、この舞台ではどうもイマイチ。
わたしの独断と偏見でいわせてもらえば、チュチュ(白鳥の湖で知られるミニスカートの典型的なバレエ衣装)を着た、お姫さまのような役は彼女には不向きだ。
プリンシパルに任ぜられるようなバレリーナであれば、どんな役でもこなせなければいけないというのはわかるけど、究極の美を追求するわたしは、ほんのわずかの欠点にもうるさいのだ。

彼女はワガノワ・バレエ・アカデミーの出身で、この役を演じるまえに、そこの先生から、あなたは「石の花」の銅山の女王にふさわしいのに、なぜレパートリーにないのと訊かれたそうである。
この先生もよくわかっている。
「石の花」で彼女が演じたのは、人間に恋をする魔女のような存在で、体にぴったりフィットした全身タイツを着て、ちょうど平昌オリンピックのときのアリーナ・ザギトワのように、発散する異様なフェロモンで観ている男たちを悩殺せしめた。

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つまりテリショーキナさんはその容姿から、男たちの上に君臨する強い女子というのが適役なのだ。
黒皮のボディスーツにムチを持って、男をいたぶるSMクラブの女王なんてのはどうだろう。
このバレエと抱き合わせで放映された「マタハリ」というバレエを観れば、およそどんなドラマでもバレエにならないものはなさそうだから、あとはいい原作さえあればと思う。

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2019年5月19日 (日)

バレエ雑談

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今夜は「ライモンダ」だそうだ。
あ、BSで放映予定のバレエのはなし。
またマリインスキーだそうだから、古典スタイルに決まっている。
ヒロインを演じるのはヴィクトリア・テリショーキナってバレリーナだけど、この子はまえに「石の花」という作品について触れたとき、ちょっときつめの美人と書いた子じゃないか。
その作品の彼女の演技が記憶に焼きついて、もういちど観たいと熱望していた子でもある。
すでに録画予約ずみ。

ところでこのテリショーキナさん、ほかの映像で見ると、霊長類最強女子といわれた吉田沙保里選手に似ているところもある。
バレエがどうしてオリンピックの種目に加えられないのかと、いつも疑問に思ってんだけど、その理由は彼女の存在かもしれない。

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話が変わって、五輪の体操選手に村上茉愛という女の子がいる。
体操選手としてはふっくらした体型に加えて、愛くるしい顔立ちからわたしもファンのひとりなんだけど、今朝の新聞を見たら、ふっくらがいささか度を越して、お相撲さんみたいな体型になっていた。
そのせいかどうか、腰に負担がかかりすぎて、試合に欠場だそうだ。

という記事をブログに載せようと思ったら、ただいま大変混雑しておりますという表示が出た。
なんかあったのか。
混雑するくらいなら、わたしのブログのアクセスも急上昇しそうなものなのに。

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2019年5月16日 (木)

バレエを蒐集する

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バレエの勉強をしていると、わたし以外にも予想以上にバレエ・ファンが多いことに気がつく。
それでもまだまだローカルな人気で、圧倒的というほどではない。
そのひとつの証拠が YouTube で、映画については最近有料のものが多いのに対し、バレエの映像はほとんどがタダで観られること。
これはまだまだ、映像で金を取れるほどファンが多くないことの証明じゃないか。

日本語だけではなく、英語、ロシア語で検索すれば、たいていのバレエ、バレリーナの映像が見つかる。
ロシア語なんてオレにはわからない?
ネットを駆使する人なら、タイトルでも人名でもロシア語を調べるのはむずかしくないはず。
見つけた映像には字幕がついてないけど、バレエというのはそもそもセリフのない踊りだし、あらすじもほとんど定型だから、なくても意味がわかることが多いのだ。

というわけで、最近はせっせとバレエの蒐集にはまってます。
お金のかからない年寄りのいい趣味だけど、パソコンのまえに座り込んでメシが手抜きになるので、たまにはまたステーキを食いに行かないと。

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添付した画像はボリショイ・バレエの「スパルタクス」より。
こんな大作が精緻な画質で、まるごと観られてしまうのだ。
出演女優の魅力は、カーク・ダグラスの映画よりこっちのほうがグー!

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2019年5月11日 (土)

CLOSED

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「CLOSED」というバレエを観た(もちろん録画で)。
BSで過去にも放映されているから、通のあいだではわりあい有名なバレエだと思うけど、こういうものもバレエと呼んでいいのかどうか悩む、いわゆるコンテンポラリー・ダンスの部類。
男3人と女ひとりがチェロの演奏に合わせて踊るだけという、いたってシンプルな作品である。
どことなく卑猥な雰囲気がいっぱいなのがウレシイ。

ストーリーは・・・・ そんなものはないんだけど、あらすじらしきものを説明すると、あるバーにひとりの女がやってくる。
店内にいたのはバーテンとふたりの男性客、ほかにBGM係のようなチェロを弾く男がひとりだけ。
コダーイのチェロ・ソナタがたんたんと流れるなか、女とバーテンを交えた3人の男が、床にころがったり、カウンターに横たわったり、店内の物入れに頭を突っ込んで逆立ちをしたりと、意味不明な行動にはしる。
冒頭のほうでダンサー全員に錠剤が配られるから、これはドラッグ中毒者の幻想なのかと考えてもいいけど、薬物禁止協会の啓蒙ビデオにしちゃヒワイ部分が多すぎるような気もする。

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女を演じているのはナターシャ・ノボトナさんといって、このバレエで観るかぎり、恥じらいというものをどこかに忘れてきたみたいで、なかなかイロっぽい。
とはいえ、男同士のからみはわりあい淡白で、女をめぐる四角関係の愛憎劇とも思いにくい。
どんな意味があるか、詮索するだけムダで、現代バレエってのはそういうもんだと思っておくしかない。

そしてこれは最初から映画用に作られたバレエだった。
どう見ても舞台をワンテイクで撮ったものではなく、同じ場面を何回かに分けて撮影して、あとで1本に編集したものだから。
いちどっきりの踊りを複数のカメラで撮影して、1本にまとめる手もあるけど、カメラのアングルが、顔のアップ、店内の様子、右から左からと目まぐるしく変わるから、複数のカメラを使えば、どこかのカットにカメラが写り込んでしまうはず。
それがないということは、これは綿密な計算のもとに、ダンサーたちが同じシーンを何度も演じ、それを撮影したものだろう。

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あとでクレジットをながめたら、特定の振付師がいるわけではなく、出演の4人の名前がそのまま振付師にもなっていた。
ということは、出演しているダンサーたちが、アイディアを持ち寄って共同制作した、ジャズのような即興バレエのつもりだったかもしれない。
毎回踊りが変わるというバレエ、ぶっつけ本番ではちょっと危険だけど、舞台でやるとどうなるのか観てみたい。

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2019年5月 5日 (日)

現代版「ジゼル」

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アクラム・カーンの現代版「ジゼル」では、登場人物が移民の工場労働者たちに置き換えられていた。
移民が出てくるから現代的なのかどうか知らないけど、オープニングはコンクリートの壁のまえで、大勢の男女が踊っているというもので、古典のほうにあった明るく楽しい雰囲気よりも、山谷か釜ヶ崎みたいなすさんだものを感じてしまう。
どこかの工場のストライキを扱ったバレエなのかと思ってしまったくらい。

幕あきからこんな調子では、この場面は古典ジゼルのどこに相当するのか、この人物はどの人物に該当するのかと、最初に理解をしておかないと、なにがなんだかわからない。

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ヒロインを演じるのは1974年生まれのタマラ・ロホというダンサーで、ロイヤル・バレエのベテランらしいけど、結婚まえの乙女を演じるのはちと苦しいかもしれない。
しかし若くしてベテランになれるダンサーは少ないから、無理を承知で観なければいけないのがバレエなのだ。

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女のほうはなんともいえないが、男のほうは上着とネクタイを放り出した丸の内のサラリーマンみたいである。
無理に好意的に解釈すると、ジゼルは美人の移民娘で、アルブレヒトは彼女に好意をよせる会社の若社長だ。
これなら古典との齟齬もなくなる。

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よくわからないのは、このあとに古風なファッションの、トランプの王様と女王様みたいなのが出てくること。
オリジナルのすじがきどうりなら、彼らはアルブレヒトの婚約者の両親ということになる。
もちろん彼らは、自分の娘の婚約相手が、移民の娘と付き合うのをこころよく思うはずがない。
それはともかくとして、現代版ではアルブレヒトのことを、若社長という好意的な解釈をしたのだから、ここは移民の娘なんてとんでもないという、頑固親父の会長が出てこなければいけないのではないか。
なんでここだけ古典に先祖返りをしてしまうのか、どうもアクラム・カーンの思考回路がわかりにくい。
こまかい理屈に拘泥しないのが、現代バレエを観るひけつといわれればそうかもしれないけど。

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なんだかよくわからないまま、ジゼルはめでたく憤死してウィリの世界に迎えられる。
ここから先は死後の世界になるけど、ウィリの世界にも入会式があるようで、新参者は先輩たちやウィリの女王にいじくりまわされるのだ。
いいなあと思ったのはウィリの女王を演じるロングヘアの美人で、むっつり不機嫌だけど、わたしの好み。
つい安心して見とれてしまう。
 

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安心して見とれていられないのはジゼルに告げ口をして、結果的に彼女を死においやるヒラリオンという役柄。
カーン版でこれを演じるのは極東アジア系と思われるダンサーだけど、この舞台の彼は性格のわるい街のチンピラみたいで、精神的深みがぜんぜん感じられない。
どうもアジア人というのは複雑な役柄は不向きなようだ。 

ここで「ジゼル」におけるヒラリオンの演じ方を考察してみよう。
いろいろな解釈があるそうで、たとえば初めから終いまで、少女マンガに出てくるようなイジワル役というもの。
これとはべつに、好きな女性に相手にされず、つい嫉妬心から彼女にいらんことを告げ口して、後悔の念にさいなまされる男という解釈もあるらしい。
古典そのもののマリインスキー版がそのとおりで、ヒラリオンは気の弱そうな若者で、夜中にこっそり、自分が死なせたジゼルの墓に花を持ってお参りにくるのだ。
もちろん飛んで火に入る夏の虫、ウィリたちにさんざん踊らされたあげく死ぬ運命だけど、どこか身につまされてしまうのだよね。
その点、カーン版のほうはチンピラだから、ぜんぜん同情しなくていい。

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現代バレエが苦手のはずのわたしだけど、ウィリの女王以外にいいなあと思った部分もある。
こちらの舞台には、森の中や墓のセットはぜんぜんなく、夜の場面もコンクリートの壁の前で繰り広げられ、その壁すら最後には闇の中に埋没してしまう。
つまり舞台にあるのは人間の肉体だけというわけだ。
現代バレエというのは、ストーリーよりダンサーたちの動きを重点的に見せるもの、といわれればそうかもしれない。

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これだけなら、わたしのキライな現代バレエとあまり変わらないけど、カーン版では光と影がじつに効果的に使われていて、その幽玄的ともいえる美しさに感心した。
棒を一本はさんで、女ふたりのタイマン勝負、その静けさは日本のわびさびの精神にも通じるなんて、ま、余計なことはいわない。

むずかしい理屈は専門家におまかせして、ここはわかりやすくて感心した部分を挙げてみよう。
複数の人物がたてに重なって、最初はいちばん前のひとりしか見えないんだけど、見えない位置のウィリたちがさっと横に展開するシーン、暗闇の中と明るい場所とを、ウィリたちが変幻自在に出入りするところなど、まるでCGによる特殊効果を観ているよう。
古典とはまったく異なる、新しいコール・ド・バレエ(その他大勢組)の可能性を感じてしまう。  

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ということで、現代バレエにも見どころはあると、信条の大転換を計ったわたしだけど、ウィリの女王がキツネのついたおばさんみたいだったら、この感動の何割かは削減されていただろう。
やっぱりわたしはどこまで行ってもフェミニストだ。

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