日記・コラム・つぶやき

2020年1月16日 (木)

教育

今朝の新聞に世界発2020というコラムがあって、ミャンマーの小学校で教育改革が進んでいるという記事があった。
丸暗記重視から子供の意欲を引き出す授業に転換だそうだ。
具体的には、カラフルなイラストなどを使い、それを見て子供たちが自分で考えられるようにするという。

この教育方針を指導したのが日本で、ということはどうでもいいけど、かりに、と考えてしまう。
韓国が反日教育というものをいっさいやらず、子供たちの自主性にまかせ、どんな本でも自由に読んでいいということにしたらどうだろう。
マスコミも、日本の朝日と産経のような両極端な報道があって、お互いの主義主張でののしりあい、子供たちは目をパチクリさせながらそれを読む。

一方の新聞が、李朝時代の韓国は自由な教育が当然だった、日帝がそういう自由な教育を禁止したのだといえば、もう一方の新聞は、いや日帝はそんな理不尽なことをしなかった、国中に学校を作って教育に熱心だったと書く。
これでは子供たちは迷ってしまう。
迷った子供たちの中には、ほんとうはどうだったのかと疑問を持つ子供も出てくるだろう。
さまざまな情報があふれていれば、それを見比べ、研究することで、誰でも自分の頭で判断することができるようになる。

じつはこれこそ健全な社会のあり方で、自主的な判断力ぐらい子供たちにとって有益なことはないのである。
さまざまな意見の中から真実を見出すためには、上からの押し付けがあってはいけない。
わたしはここで、日本が正しいとか韓国が正しいとかの判断はしない。
一部のおとなたちの利益のために、犠牲になって、読みたい本も読めない子供がいてはいけないというのである。
そうやって自主的に勉強をして公平客観的な見方をやしなった子供たちが、将来の韓国を引っ張る政治家になってほしいと思う。

| | コメント (0)

2020年1月14日 (火)

輝く未来

昨日は絶好の散歩日和なので、もちろん散歩に行ったけど、呑気な散歩のつもりでもいろいろ将来の不安のようなものにぶち当たる。
不安というのは、いっしょに出かけた知り合いや、行き交うよその年寄りのことだからどうでもいいんだけど、ヒマな当方としては、つい親身になって自分のことのように考えてしまう。
そんなこんなで、あっと気がついたらもう日にちが改まっていた。
というのがブログを休んだ言い訳だ。

ホント、うかつにしていると、時間はまたたく間にわたしの手をすり抜けていく。
だからくよくよと心配しているうちには、すぐにお迎えが来てしまうさ。
そう考えると気楽なものなのに。

今朝の新聞を見たら、また副総理の麻生さんがなんかいったそうだ。
この人の暴言はしょっちゅう(ウチの新聞では)問題になるけど、米国やフランスの大統領に比べればかわいいもんだし、日本にめずらしい歯に衣きせぬ政治家だって評価する(わたしみたいな)人間もいる。
そんなに大騒ぎする問題か。
ウチの新聞と麻生さんの発言は、あ、またなんか言ってらあでいいのではないか。

| | コメント (0)

2020年1月11日 (土)

いいわけ

特別な嫌韓家じゃないつもりだけど、韓国の話題だとつい口をはさみたくなる。
すると、しろうとがナニをいってるか、何もわからないくせにという声が聞こえる。
環境少女のグレタちゃんの例を見るまでもなく、現在はだれでも意見を発表できるかわり、だれもが非難中傷にさらされる時代だ。

文句があるなら自分も正々堂々と意見を発表すればいいではないかと反論すると、これはかなり驕慢に聞こえてしまう。
だれもが同じようにきちんとした文章を書けるわけではないのだから。
というと、これもまた驕慢だ。

うーんと考えた末、こういう場合は開き直って非難中傷を封じてしまう手がある。
わたしが韓国のことに口をはさむいちばん大きな理由は、ボケ防止のためである。
かりかりかりと頭に来ていると、それがほどよい刺激になって、人間はなかなかボケないものだ。
わたしは決して若者たちのためだとか、地球の未来の案じて発言しているわけじゃないのヨ。

これ以外にも、わたしは好奇心が強く、現在の国際情勢に非常に興味があるということがある。
最近は本や映画におもしろいものがなくて困っているんだけど、刻一刻と変化する国際情勢は、ヘタなドラマよりおもしろい。
いかにもものすごそうなことをいう大統領や最高尊厳サン、飛行機で国外逃亡を計るもと企業のCEOなんかがいて、この先どうなるのかと手に汗をにぎる展開だから、これっぽっちも目が離せないのである。

世界は広い。
相手がとくに韓国でなければいけない理由はないけれど、すぐ隣りにあって、日本と似ている国でありながら、なぜか日本を目の敵にしている国だから、どうしても気になってしまう。
わたしの購読している新聞が朝日で、これがまたあちらの肩ばかり持つものだから、いちゃもんをつけるとボケ防止にはますます効果がありそう。

こういう態度で今日もブログを書いてんだけど、けしからんといえる人イマス?

| | コメント (0)

2020年1月 9日 (木)

粗大ゴミ

アイテテテ、ぎっくり腰になったか。
終活中ゆえ、部屋の整理をしているんだけど、できるだけ身軽になるために不要の机や物入れを粗大ゴミに出すことにした。
まず机のひとつと、押し入れのなかにあった衣類のタンスを搬出できるようにした。

わたしの住んでいる三鷹市は粗大ゴミもポイント制になっていて、千円のゴミ・ステッカーを買えば、このポイントの範囲内でいくつもゴミを出すことができる。
電話して尋ねてみたら、机とタンスだけではまだポイントがあまる。
で、テレビを乗せてあるラックも出すことにした。

ところがこいつはむかし、ブラウン管テレビを置くために買ったもので、けっこう大きく、頑丈にできていて、部屋のすみのせまいところに置いてあったものだから、動かすのが大変だ。
別のとこにあったもっと小ぶりなラックと入れ替えるつもりなんだけど、テレビの下にはビデオデッキが2台、CDプレーヤーが1台、さらにケーブルテレビのチューナーなどが設置してあって、これらの配線をはずしてしまうと、あとがとんでもない大騒ぎになりそうだから、配線は可能な限りそのままで、土台だけを入れ替えようというのだ。
しかも独身のわたしはこれをすべてひとりでやらなければいけないのだ。

まずパソコンを乗せてある机を手前にずらし、つぎにテレビが載っているラックを手前にずらし、そのあとに小ぶりのラックを押し込んで、テレビや機器類をひとつずつ小ぶりのほうに載せ替えるのだ。
このとき小ぶりのラックを胸の位置まで持ち上げたのがいけなかったようだ。
1日中かけて、どうやら不要なものをいつでも粗大ゴミとして出せるようになったけど、アイテテテ。

| | コメント (0)

2020年1月 8日 (水)

抑圧の国

自分のブログの旅日記の項を読み返していたら、ロシアの女流詩人アンナ・アフマートワについて書いた部分に行き当たった。
書いたといっても、わたしがこの詩人に特別に詳しいわけじゃない。
ツァリツィノ宮殿というところで彼女らしき肖像画を発見して、帰国してからドロ縄で勉強したのである。
で、自分のブログから、ウィキペディアのアフマートワについて書かれたページにリンクを張っておいたものだから、今日も当然のごとくウィキペディアにまで飛んでしまった。

彼女はロシアでは有名な作家だけど、その人生がスターリンの抑圧の時代と重なったために辛酸をなめた。
政治的抑圧の下で生きたことのないわたしには、その時代は想像することしかできない。
彼女の詩についても、原語で読むことのできないわたしには、そのリズムや、うちに秘めた感情はとうてい理解できまいと、じっさいに読むことはしなかった。

ただ、ふと思ったのは、またまたで申し訳ないけど、おとなりの韓国のことだ。
政治的抑圧といえば、北朝鮮はいまなおスターリン的抑圧が現在進行形であるけれど、韓国だって負けてはいない。
というのは、あの国では小学校、中学校の時分から反日教育が、ほとんど義務化されていると知ったから。
日本から見ているからそう思うわけではなく、ネットを注意していると、写真や映像などでその具体的証拠によく出会うのである。
こちらは遠い過去の話ではなく、リアルタイムの現実なのだ。

子供たちに自由な発想を与えない国は、スターリン時代のロシアと変わらない。
いちばん感受性のつよい時期に、好きな本を読めないとしたら、こんなつらいことはないだろう。
わたしは生まれてこのかた、自分の発想を他人にとやかくいわれたことがない。
だからこんな偏屈に育ったのかといわれてしまいそうだけど、上からの教育ですべての人が幸せになれるわけではないのだから、たとえ現在の自分の人生がろくなものでなくても、わたしはやっぱり日本に生まれたことをアリガタイと思う。

| | コメント (0)

2020年1月 7日 (火)

テレビの異常

ここんところテレビの具合がおかしくなってきた。
画面の下の方がちらつくのである。
調べてみたら、買ってから3年半ぐらいで、前のテレビは12年間も使ったものだから、わたしは液晶テレビは壊れにくいという信念を持っていた。
そんなわたしをグラつかせるような異常だ。

ほんとうはテレビなんか観なければいいんだけど、わたしも最近は日がな1日テレビのまえに陣どるじいさんばあさんといっしょ。
だいたい情報入手の手段としても、もはやテレビはなくてはならない存在になっているのである。
こういう状態はわたしだけではないだろう、テレビにパソコンのモニターも含めれば。

修理に出すとなると、緊縮予算中のわたしにはイタイことである。
そのうち引っ越しをすることになるかも知れないし、そうなると運送屋も頼まなければならないし、もう仕事を辞めたわたしに、悪鬼どもがわらわらと群がってきたような感じ。
文明の利器に頼りっぱなしの現代人は、こういうときに便利さはタダでないことを悟るのである。
でも悩んでも仕方がないと、わたしは気分転換も早いのだ。

わたしは4Kだ、8Kだと贅沢をいうほうではないから、修理があまり法外なものなら、新しいものを買っちまえというスタンス。
現在と同じタイプなら、ン万円ぐらいで買えるのではないか。
知り合いのなかには10万だ、20万だと言うでっかいテレビを買った者もいるけど、あれを買うつもりなら、わたしのテレビは3台か4台買えそうだ。
年金老人は高価な品物を買うわけにはいかないのがフツーだけど、寿命が終わるのと貯金が尽きるのがどっちが早いかというわたしに、コワイものなんかないのだ。

| | コメント (0)

2020年1月 3日 (金)

3日に寄・・・初詣

0896a 0896b

初詣(の見物)に行ってきた。
このバチ当たりがー!

| | コメント (0)

2020年1月 2日 (木)

2日に寄す

0895

いい天気だ。
というものの、年金暮らしの年寄りには正月ってのはツライ。
元旦、そして今日と、散歩道も閑散として、歩く人も少ない。
みんな何やってんだろうねえ。
海外旅行に行ったって知り合いもいそうにないし、年始の客の相手で忙しいって友人も、そんなもんいるわけない。

わたし?
また散歩。
ヒマだけど、お金がなくて元気ってのも困るよな。
いま飛行場のわきでベンチに座っている。
添付したのは怠惰な正月を絵に描いたような、その証拠写真だ。
ああ、こんなブログをだれが読んでくれるかしら。

| | コメント (0)

2020年1月 1日 (水)

元旦に寄す

New-year

今年はわたしの生活環境が大きく変わりそうな年だ。
あいかわらずぼうーっと生きていて、チコちゃんに叱られそうな生活ぶりだけは変わりそうもないけど。

そうそう、今年から年賀状は廃止して、ブログやフェイスブックで一括して新年の挨拶をすることにした。
わたしって緊縮予算中の年金生活者だから、資源を浪費する生活も変えようと思ってんですよ。
グレタちゃんに叱られないように。

ところで今年ってなに年なのさ。
年賀状に興味がないのでつい失念するところだったけど、ググッてみたらネズミ年だそうだ。
年賀状は書かなくても、例によってデザインを考える楽しみは残しておきたい。
ネズミとくればバンクシーだ。
この影なき芸術家の落書きを年賀状に使おうというアイディアは、思いつく人が多いとみえて、これはわたしひとりのアイディアじゃない。

| | コメント (0)

2019年12月31日 (火)

大晦日に寄す

0894

今年は仕事をやめた記念すべき年だけど、それもいよいよあと数時間ということになった。
ちょっと不思議な気がしないでもない。
わたしがいまのアパートに越してきてから20年あまりになるけど、もう半年もすればまわりの景色は一変しているだろう。
越してきたころはすぐとなりが、東京ではめずらしい専業農家で、アパートのまわりはまるで信州の片田舎のように自然に恵まれたところだった。
陽をさえぎるものといったら、庭にそびえる大きなケヤキの木だけ。
この木のこずえにはカラスが巣をつくり、春になると子育てをしているのが部屋から観察できた。
農家のおじさんがそれをイヤがり、木に登って巣を叩き落とすという、そんな民話みたいな光景も見られたくらいだ。

このアパートはわたしみたいな自称ナチュラリストにとって、まことに恵まれた住まいだったのである。
ところが2年半まえに農家のおじさんが亡くなって、家が(細かい事情は知らないけど)さっぱりと撤去され、今年いよいよ住宅建設が始まった。
すでに区画割は済んでいて、それによるとわたしの部屋のハナっ先3メートルのところまで、新しい住宅が迫りそうである。
迫るのが女子大の寮でもあれば文句はいわないが、これではおちおち昼寝もできない。
新しい家の住人だって、すぐ目のまえのベランダで、わたしみたいなおじさんがパンツを干していたら落ちつかないだろう。

つまりわたしの幸福な生活は終わりを告げたのだ。
たぶんわたしは来年のしかるべき時期に、新しい住まいに引っ越すことになるだろう。
ちょうど住宅建設が始まるこの年に、たまたま仕事をやめることになったのもなにかの縁かもしれない。
バラ色の未来が待っているような気はぜんぜんしないけど、わたしはこの部屋で見た四季おりおりの風物をけっして忘れない。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧