深読みの読書

2020年9月23日 (水)

ベタ褒めの本

性懲りもなくまた図書館で本を借りてきた。
今度の本は「ロシア絵画の旅」という、まあ、硬いんだか軟らかいんだか、読んでみるまでわからないという本。
このブログを読んでいる人なら、わたしがロシアの絵画に愛着を持っている人間であることはご存知のはず。

この本ではトレチャコフ美術館の絵を、展示室ごとになぞるような解説がしてある。
それはいいんだけど、挿入されている写真の印刷がわるくて、肝心の絵の詳細がわかりにくい。
いい例が「ミヤマガラスの飛来」という絵だ。
実物は冬のロシアの過酷な環境のなかに、どこかしら春のいぶきを感じさせる、つまり前向きな未来を象徴する絵なんだけど、それがただもう暗いだけの陰鬱な絵にしか見えない。
絵を説明するのに絵がよくわからないというのが、この本の最大の欠点だ。

原著はロシア人のウラジミール・ポルドミンスキーという人で、1928年生まれというから、取り上げられている絵よりもずっと後世の人である。
ということは、この文章は著者が頭をひねってつむぎ出した想像の産物なんだろう。
それはいいとしても、ちょっと美辞麗句が多すぎるような気がする。

わたしはごますりやおべんちゃらが死ぬほど嫌いだから、ベタ褒めするような文章はたいていいちゃもんをつけたくなる。
肖像画についての解説で、画家は描かれる人物の内面性まで描き出したなんていわれると、またわたしのへそまがり(反骨精神といってもらいたいね)がむくむくと頭をもたげる。
世間にはコワそうな顔をしている人が意外と家族思いだったり、まじめそうな人が役場の金を使い込んだりする例がいくらである。
だから、結果がわかっているから褒めているんだろうと、つい余計なことを考えてしまう。

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おべんちゃらを並べた本ということが、はっきりわかる実例がこの本のなかにあった。
ロシア最大の画家レーピンに、「聖ニコライが無実の三人を死刑から救う」という絵があるんだけど、これが当時のロシアで禁止されていた同性愛者を処刑する場面であることはだれにでもわかる。
しかしこの本では処刑されるのがただの市民ということになっていた。
たしかに
聖ニコライがオカマを救うでは世間体が大ちがいだから、著者がそのへんをぼかしたかったのもわかるけど、美辞麗句にもほどがある。

そういうわけで、称賛の部分は大幅に割愛して、残りの部分だけから必要なエッセンスを拾い出すことにした。
そうやって読むかぎり、けっしてわるい本ではない。
わたしのいちゃもんは激しいけど、本というものは書かれたことをすなおに信じるだけではつまらない。
このくらい難癖をつけるとおもしろさも倍増するものだ。

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2020年9月16日 (水)

アホらしい本

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図書館に行くと、当然なことだけど、本がたくさんある。
読書好きには胸がワクワクだけど、その中からほんとうにおもしろい本を見つけるのは至難の技だ。
先日も図書館をうろついて、「ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記」という本を見つけ、わたしは歴史にも中国上海にも関心があるので、さっそく借りてみた。

帰宅して読んでみて、また頭に血が上った。
この本は、ナチスによって迫害され、ドイツから中国に避難してきたユダヤ人少女の日記をもとにして書かれた(ということになっている)。
しかし、そういう日記がほんとうにあったとしても、じっさいにはそれをもとにして、商魂たくましいおとなが、大衆の好奇心を満たすために書いたもののようだ。
著者に思想なんてものはまったくなく、それどころか自分たちがヨーロッパで差別されていたにもかかわらず、中国に来ると今度はアジア人を差別する側にまわるのである。

少女とその家族が欧州を脱出するまでのいきさつはともかくとして、上海に着いてからのその土地のことは、わたしはけっこう詳しい。
そもそも少女はどうして上海くんだりまで流れてきたのだろう。
うすうす見当はつくけど、その理由はこの本のはじめのほうに、「上海は日本軍が中国から勝ち取った場所で、この地域はユダヤ人の避難民を積極的に招き入れている」と、ほんの2行だけ書かれている。
日本はユダヤ人に対してわりあい寛大だったのだ。
同盟国のドイツがなにかいってきたとしても、なるほど、ごもっともごもっともと、相手をはぐらかす術をこころえていたことは、現在のアメリカのトランプさんを相手にするのといっしょ。

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少女の家族は上海の虹口地区に部屋を借りて住むことになる。
ここではその住まいの不潔さがが 欧米人には耐えられないものであったと、念入りに記述される。
これは欧米人から見た中国のステレオタイプな見方で、虹口地区といえば日本租界といわれるくらい、日本人がたくさん住んでいたところである。
だからこの本に書かれているほどひどいところとは思えないんだけど、彼女はほんとうに上海に住んだことがあるのだろうか。

これは租界時代の上海の写真で、おそらく虹口地区のあたりらしい。

この本の中に、虹口地区で日本人と交わったという記述はまったく出てこない。
日本人が出てくるのはもっとあとで、残忍な軍人であり、歯のあいだからシューシューと息が漏れていると、まったく欧米人が悪意で想像するとおりの日本人だ。
しかも上海に駐屯した日本軍が、あちこちでおいはぎのような行為をしたと書いている。
これはそれ以前の南京事件で、日本の軍隊というのはこういうものだという考えが、頭に刷り込まれてしまっているのだろう。
上海に駐屯した日本軍が、租界内で強盗のような行為をしたという事実が、ひとつでもあるなら教えてほしい。

やがて第二次世界大戦が始まる。
この本のなかで結果はもうわかっているような書き方だ。
ドイツがロシアに宣戦布告をして、その機甲師団がウクライナの平原を快調に疾駆しているころ、どうせそのうち冬将軍が来て、ドイツはナポレオンの二の舞になると父親が発言する場面がある。
この時点ではそんなことはわからないはず。
ひょっとするとロシアが降伏するか、シベリアにでも追いやられるかして、ヒトラーの目論みどおりになった可能性だってないとはいえない。

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少女の父親に収入があるようになると、家族はフランス租界に引っ越して、ようやくヨーロッパなみにきれいな家に住めるようになったと安堵している。
わたしが初めて上海へ行ったころ、フランス租界のあったあたりには、まだ東京の青山・六本木にあるような、瀟洒な住宅がたくさん残っていた。
フランス人は特権階級として中国に乗り込んできて、豪華な屋敷を造り、中国人の召使を置き、中国人の美人をめかけにしていたのだ。

これはフランス租界にあった租界時代の建物で、現在はホテルとして使用されている瑞金賓館。
わたしも泊まったことがある。

日本人にも特権意識がなかったとはいわないけど、あくまで生活の場として住まいをかまえた人が多かった。
虹口地区の一画に本屋をかまえた内山完造のように、魯迅や郭沫若のような、中国の知識人とわけへだてなく付き合った日本人もいたのである。
この本の著者が公平客観的というものの見方のできる人なら、内容はちがっていただろう。

日本が真珠湾を攻撃し、アジアを席巻し、上海をも占領すると、少女は絶望し、いつかアメリカが反撃してくれると信じている。
冷静に考えれば、日本はヨーロッパを追われたユダヤ人を受け入れた数少ない国のひとつなのだから、日本がアジアから欧米列強を駆逐したとき、むしろ多少の期待感があってもよかったのではないか。
ユダヤ人を積極的にかくまった杉原千畝の例もある。
ユダヤ人亡命者を迫害しろというドイツの要求にも、日本がはっきり応じた事実はないのである。

散々なことを書いておきながら、その一方で少女と家族は、たまに租界内でオペラやバレエを楽しんだとも書いている。
ドイツ国内でユダヤ人がそんなことをできたはずはないから、これは日本軍の統治がナチスほど厳しくなかったことの証明ではないか。
それなのにこの著者は、住まいや生活の不便なところだけは全部日本のせいにしているように思える。
これではいわれなき風評で日本を攻撃するデタラメな本と思われても仕方がない。

少女とその家族は終戦まえに、ふたたび虹口地区にもどることになる。
わたしはこのあたりまで読んで、とうとう本を放り出した。
ようするにこの本には読む価値がないということだ。
しかしアメリカには、いや、これは最近の世界的傾向だけど、レベルの低い人が多いから、その内容をまともに信じてしまう輩も多いだろう。
いったいこの本は、だれがだれのために書いたのかと、わたしは絶望的な気持ちになる。
歴史は放っておくと、どんどん勝手な方向に進んでしまう場合もあるのだ。
日本の未来のためにというとオーバーだけど、わたしはこの本に、ほんのストローの水でもいいからぶっかけたくなってしまう。

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2020年9月11日 (金)

どこが歴史観?

わたしは司馬遼太郎の「街道をゆく」の熱烈なファンである。
先日図書館に行ったら「司馬遼太郎の歴史観」という本が目についた。
なんかわたしの知らない新事実でも書いてあるかと思い、例によってヒマつぶしに読んでみようと、それを書架からひっこ抜いてきた。
ことわっておくけど、わたしはこの本をいちども読んだことがないし、その存在すら知らなかった。

帰宅してさっそく目を通してみたけど、読んでいるうちしだいに頭に血がのぼってきて、これはストレスが溜まる、溜まる。
血圧も上昇したかもしれないから、最近これほど健康によくない本に出会ったのはひさしぶりだ。

最初に気がついたのは、著者の中塚明サンが、作家の司馬遼太郎を呼び捨てにしていること。
全般的に敬語を省いた文章なのかと思ったら、自分と考えの一致する文章を引用するときは、書いた相手をさんづけだ。
しかもそんな態度で、司馬作品の無知や誤りをあばくとたいそうな剣幕である。
やれやれ。

中塚サンの論理は、とにかく徹底して自分の考えが正しいということである。
まるでこの世界に自分ひとりしかいないような調子で、だれかの主張が自分と異なれば、もうそれだけで、そっちが間違っていると決めつけ、そこから一歩も引かないのだ。
こういう文章はカルト宗教の出版物によく見られるけど、とにかく異常と思えるくらい、中塚サンの因縁のつけ方は激しい。

この本でやり玉に上がっているのは、「坂の上の雲」と「街道をゆく・韓の国紀行」である。
「坂の上の」については、わたしもこのブログに書いたことがあって、あまり感心しないという見方をした。
しかし「街道をゆく」までけなされると話は別だ。
わたしはこの本を、カルト信者が教祖さまを崇めたてまつるように信奉しているのである。

中塚サンの本の中に「韓の国紀行」から引用した文章がある。
韓国の田舎を訪問した作家が、まだ電灯もついていない景色をながめて、韓国は遅れているとつぶやくシーンである。
似たような景色を、わたしは中国の田舎で見た。
わたしが初めて中国の西安を訪れた
1995年のこと。
上海から列車にひと晩ゆられて行ったんだけど、夜中に列車の窓から眺めたら、月明かりの下に、ひっそりと寝静まった集落が見えた。
集落はまっ暗で、明かりなんかひとつも見えない。
当時はまだ西安の近郊でも、電気が通じてなかったのか、あるいは電気代が高いから消灯していたのか知らないけど、日本人のわたしには、その暗さがしみじみと、貧しいところに来たなという印象だった。

司馬遼太郎が韓国の田舎を見て感じたのも同じことだろう。
この場合、遅れているという実感は自然なもので、誇張しているわけでもないし、韓国をさげすむ意図があったわけでもない。
しかし中塚サンは気に入らない。
わざわざ田舎を見て、日本と比較するのはけしからんという。
比較するなら、日本と同じように発展しているソウルと比較すべしというんだけど、これって論理がおかしくないか。

司馬遼太郎は日本と韓国を比べるために韓国の田舎に行ったわけではない。
外国に行った場合、田舎のほうがその国の原点のようなものを見られる可能性が高いのだ。
「街道をゆく」には、日本人のルーツというものをたどってみたいという期待があると、これは第一巻の冒頭で著者が述べている。
わたしもそうだけど、わざわざ都会を見ても仕方がないという人もいるのである。

中塚サンはなにがなんでも韓国が、日本と同等に発展してなければ気に入らないのだ。
ことわっておくけど、「韓の国紀行」が書かれたのは
1974年のことである。
中塚サンは時代なんか関係ない、新羅・百済・高句麗の時代から、韓国は堂々とした文明国だったという。
そしてそれは李朝
500年のあいだもずっと変わらなかったという。
変わっているという人がいたら、それはその人のほうが間違っているのだという。
歴史も現実も無視して、韓国は日本とずっと同等か、もしくはそれ以上の国でなければいけないのだ。

そもそも「街道をゆく」は、韓国のひいきばかりしているということで、日本の右翼から攻撃の的にされている朝日新聞社の刊行物である。
それでも気に入らないというのだから、不平不満にも上には上があるものだ。
ほかにもあまりに強引すぎる文章が目立つけど、とても全部をあげつらうわけにはいかない。
ただ、あまりに常軌を逸した文章だから反論してみたくなったんだけど、ちょっと反省するところあり。

中塚サンの本が書かれたのは2002年である。
こういう人が書くのだから、慰安婦問題についても推してはかるべしだけど、朝日新聞の慰安婦捏造がバレたのは、これよりあとである。
慰安婦が特定の人間の金儲けだったことがわかったのもつい最近だ。
だから中塚サンは、日韓問題の原因の大半は韓国側にあるということを知らずに書いたのかも知れない。
だとすれば、あんまり責めるのも気のドクだ。

ありがたいことにこの本を支持する人は、人口1億2千万の日本にもほとんどいないらしく、影響力は皆無といっていいから、こんなものに文句をいって仕方がない。
中塚サンもわたしといっしょで、自説でもって世間になにかを訴えるというより、認知症防止のために書いたんじゃなかろうか。

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2020年8月22日 (土)

韓国からの報告

図書館で「韓国・現地からの報告」という本を借りてきた。
前項で書いたように、ひじょうにイライラさせられる本である。
で、またいちゃもんをつけようと思ったんだけど、ヘタにつけると著者の順子サンから、なにさ、韓国に行ったこともないくせにとわめかれる可能性がある。
なにしろ彼女の売りが、韓国に住むジャーナリストの、現地からのナマの報告ということなのだ。
そしてわたしはもちろん韓国にいちども行ったことがない。
そのへんを突かれると困るので、いちゃもんをつけるというより、わたしが感じた、彼女への疑問を問いかけるかたちにしようと思う。
この文章の、とくに終わりのほうに疑問文が多いのはそういう理由である。

いちゃもんのまえに、韓国について書こうとというすべてのジャーナリストに、簡にして要を得た指針というものを伝授しておく。
まず韓国では、新しい大統領や政権が誕生しても、それが左右のどちらであるとに関わらず、その支持をむやみに明確にしてはいけないということだ。
就任当初こそカッコいいことをいうけど、あの国では大統領、もしくはその側近が腐敗することは、もう絶対に確実なことなのだから。

これは過去の政権を見れば一目瞭然だ。
李承晩から最近の文在寅サンに至るまで、本人、もしくは取り巻きが腐敗しなかった政権はひとつもない。
順子サンは、なぜか現在の文在寅大統領をひいきにしているようだけど、やっぱり裏切られて恥をかいているのである(本人はそう思ってないかも)。

この本にいちゃもんのタネは多い。
多いどころか、初めからお終いまで、朝日新聞やカルト宗教がよくやるような、自分に都合いい意見だけを並べ立てた本である。
とても全部あげつらってはいられないので、最初のほうでとくに目についた、前大統領の朴槿恵(クネ)ちゃんのことを取り上げてみよう。

韓国では大統領の権限は絶大だけど、これはか弱い女には手にあまる職権で、つい古くからの親友に相談してしまう。
すると相談されたほうは、大統領の親友という特権をふりまわして、当然のように利権を漁る。
ブレーンを作るというのは、歴代の大統領ならだれでもやっていることだけど、問題は、選ばれたブレーンかならず腐敗することなのだ。
そういう土壌があることが韓国の悲劇なのである。

日本で共産党の書記長(いまだれだっけ)が腸捻転かなんかでポックリ死ねば、昨日の敵は今日の友、自民党のお偉いさんが追悼の辞のひとつでも述べることはまちがいがない。
これは立場が違うだけで、どちらも国のために働いたのだというコンセンサスができているからである。

ではクネちゃんがそんなにひどい大統領だっただろうか。
立ち位置のむずかしい韓国で、彼女は彼女なりに精いっぱいそれを模索した。
それがどのくらいむずかしいかは、現職の文サンも、米国につくか独自路線で行くかでぐらぐら揺れていることでわかる。
日本との関係でも同じこと。
反日でいくか、親日にするか、移ろいやすい自国民の顔色をうかがいながら、適切な判断を下さなければいけないのだ。
フェミニストのわたしはクネちゃんに同情してしまう。

順子サンにいわせると、弾劾され、罷免されたクネちゃんが、支持者のもとへ笑顔で帰ったのがケシカランという。
自分の責任をどう考えているのかと、米国のニクソン大統領まで引き合いに出して叱責しているけど、しかしこの時点ではまだ彼女は闘うつもりでいた。
だとすれば、支持者のまえで弱気な顔を見せられないのは当然ではないか。
ましてお化粧をしていた、おしゃれをしていたと責めるようでは、順子サンてはたして女なのかと悩んでしまう。

途上国や独裁国家ならいざ知らず、わたしにはクネちゃんが、懲役20年とは信じられない。
順子サンにいわせると、この判決は裁判官の全員一致の結論だったそうだ。
だから文句はいえないということらしいけど、民主主義では、裁判官の全員一致はまず疑ってかかれというのが鉄則だ。
裁判のとちゅうでクネちゃんが、これは政略裁判だと叫んでいたけど、おそらく彼女の言い分に耳を貸す裁判官はひとりもいなかったのだろう。
どこが民主主義だ、なにが三権分立だ。

順子サンはしきりに現職の文在寅サンの肩を持つけど、彼の化けの皮も剥がれてきた。
だからわたしはいう。
韓国ではこれからも、間違いなく同じことが繰り返される。
大統領はともかくとしても、登用される政治家や役人は、右や左に関係なくことごとく腐敗する。
そしてまた弾劾だ、政権交代だが繰り返される。
ジャーナリストたる者は、早とちりをせずに、相手を慎重に見極めるべきである。

慰安婦問題に関して、順子サンが、50年もむかしに流行ったキーセン観光を持ち出したには驚いた。
良し悪しはべつにして、安く女を買える国があれば、男が大挙して押し寄せる。
これはいまでも世界中で見られる現象である。
だいたい韓国が禁止すればあり得るはずのないことだったのに、なんで日本の男だけが責められなけりゃいけないのか。
そんな男の本能に関わることを、しれっと慰安婦問題に結びつけるくらいなら、日本政府が戦地での暴力や強姦を防ぐために、慰安所を設置したということにどうして考えが至らないのだろう。

順子サンは韓国からのナマの報告をうたっているけど、現地に住んでいったいなにを見ていたのか。
韓国人と同化したいというならわかる。
彼女の思想はまったく韓国人そのものだから。
しかし、そんなことをいうと反発する韓国人もいるかもしれない。
わたしがよく読むネット記事には、べつの考えの韓国人もけっして少なくない。

このへんまで読み進んできて、わたしはわけがわからなくなった。
わたしみたいなしろうとでさえ疑問を持つ本を、頭脳明晰であるはずのジャーナリストがなんで書くのか。
ひょっとすると順子サンは、わかっていてやってるんじゃないのか。
これは韓国人の肩を持つようにみせて、じつはけなすという、逆転の発想で書かれた本じゃないのか。
だとしたらあの百田尚樹さんより、テクニックはそうとううわ手だ。

それとも、なんでもいいから話題をこしらえて、売れ行きのいい本をこしらえようという出版社の陰謀だろうか。
順子サンは筑摩書房におだてられて、ついつい調子に乗って書いてしまったのだろうか。
内容があまりむじゃきなので、読むさいは、そういうことに注意をしたほうがいいかもしれない。

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2020年7月 7日 (火)

ロシアの旅

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また図書館で本を借りてきた。
本さえあれば、どんな不遇な幽囚生活でも恐るに足らんのわたしのこと。
今日もひたすら読書三昧さ。
今回は「シベリア鉄道9300キロ」と「シベリア最深紀行」という2冊。

ロシアの旅というのは、若いころのわたしの見果てぬ夢だった。
その悲願が叶いそうだったころ、ちょうど中国のシルクロードとカチ合っちゃって、費用の安そうな中国にしたという残念な思い出がある。
わたしがシベリアを旅することはもうないだろうけど、せめて本を読んで、部屋にひきこもったまま世界旅行をしようというのである。

「9300キロ」の著者は蔵前仁一という人だ。
紀行記が好きで、司馬遼太郎の「モンゴル紀行」から始まって、椎名誠、宮脇俊三、沢木耕太郎、下川裕治、ポール・セローなど、いろんな本を読みあさったはずのわたしだけど、この名前はとんと記憶がない。
彼のこの旅は
2005年のこととある。
これはわたしがいまメールのやりとりをしている中国人の知り合いと、青海湖のほとりをうろうろしていたと同じ年だ。
ロシアではすでにプーチンが登場していて、オリガルヒ(新興財閥)を刑務所に叩っこみ、ロシアも変わりつつあるころである。

読み始めた当初はちょっとまじめすぎる紀行記かなと思ったけど、だんだんぶっちゃけて椎名誠ふうになる。
雨に降り込められたときなど、ヒマつぶしに好適な本だった。
シベリア鉄道について、いろいろ研究したはずのわたしにも、初めてという新知識があちこちに出てきた。
ロシアのホテルでは夜中に娼婦から電話がかかってくるなんてのはべつに新知識ではない。
これは中国も同じだった。

シベリア鉄道が建設中だったころ、冬になると、バイカル湖の氷の上に鉄道をひいたなんてことは初めて知った。
たまに氷が割れて湖底に沈んだ列車もあったそうだ。
バイカル湖は世界一の水深をほこる湖なので、列車はそのままになったという。
ロシア人のおおらかさを象徴するような話ではないか。

この本を読んだかぎりでは、蔵前さんの旅もけっしてグルメやブランド商品買い占めのような俗物旅行ではなく、レベルからすると、ちょうどわたしの旅と似たようなものだったようである。
つまり無駄はしないけど、さりとてケチに徹する旅でもない。
わたしも中国に行ったときは、列車は彼と同じ一等のコンパートメントだった。
それはもちろん、チケットは日本に比べればずっと安いという理由があったけど。

蔵前さんが旅行したころは、まだロシアにはソ連時代の悪しき風潮が残っていたのかどうか、彼はあちこちで写真を撮っていいものか迷っている。
ソ連時代のロシアでは撮影禁止がやたらに多く(そのへんの事情を知りたければ椎名誠の「シベリア追跡」を読めばよい)、ヘタすれば捕まってラーゲリ行き、もしくは強制送還という噂が飛び交っていた。
しかし蔵前さんより8年後にロシアを旅したわたしは、いちども警官に職質も、賄賂を要求されたこともないから、彼はほんとうに微妙な時期に旅をしたらしい。

わたしはロシアで駐車禁止を取り締まっているパトカーを発見して、これはめずらしいと、正面から写真を撮ったことがある。
撮られているお巡りさんはおもしろくない顔をしていたから、蔵前さんの時代なら、わたしはいまごろラーゲリで刑期を務めあげているころだったかも。
添付したのがそのパトカー。

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2020年6月29日 (月)

バレエを読む

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どうせ時間はたっぷりあるので、またバレエの勉強でもしようと、図書館からバレエに関する書籍を3冊も借りてきた。
これがおもしろいということは、わたしのバレエへの情熱も本物ということだろう。
3冊というのは「ビジュアル版バレエ・ヒストリー(芳賀直子著)」、「バレエの歴史(佐々木涼子著)」、そして以前にも読んだことのある「これがロシア・バレエだ!(赤尾雄人著)」というもの。
いずれもハードカバー、もしくは大判で読み応えのありそうな本だ。

このうち、いちばん読みにくそうな「バレエの歴史」というのが、ひろい読みしてみたところ、なかなかおもしろい。
著者はわたしと同じひねくれ者らしく、ある個所では、下着をつけなかったバレリーナがそのために世間で評判になって、すごい売れっ子になったなんてことを書いている。
ぼくはワインが、あたしはバレエがというような、お上品な俗物をけっとばすような記述ではないか。
わたしのブログも卑猥だという声が聞こえてくる(たぶん)けど、それはお高く止まっている芸術というやつを、なんとか親しみやすい位置まで引きずり下ろして、津々浦々の人々にもバレエを理解してもらおうという苦肉の策なんですよ。
オワカリ?

目下鑑賞中は、でっかいテレビで YouTube の「レ・シルフィード」。

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2020年6月13日 (土)

また寄り道

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「モンゴル紀行」を読んでいるうち、“馬頭琴”という楽器にふれた箇所があった。
もちろんこの部分も読んだことがあるはずだけど、そのころはまだ YouTube という便利なものがなかった。
どんなかたちをしているのか、どんな音色の楽器なのか、現在なら YouTube でかんたんにわかるのである。
というわけで、また寄り道をしている。
ホント、時間のかかる本だ。

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寄り道

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雨に降り込められたときはどうやってヒマをつぶすか。
まかせとけ。
先日図書館で借りてきた司馬遼太郎の「街道をゆく」を読む。
もう何度も読んだことのある本だけど、読むのに時間のかかる本だから、ヒマつぶしにはもってこい。
なんでそんなに時間がかかるのか。
このシリーズのうちの『モンゴル紀行』を例にとって説明しよう。

「モンゴル紀行」は、まだソ連時代の1974年ごろに週刊朝日に連載された紀行記だから、書かれた内容はもはや歴史の一部になったといっていい。
硬直した官僚機構のもとのロシアの旅が、どれほどややこしくてメンドくさかったか、それを知りたかったらこの本を読むべし。
堅すぎてイヤという人は、椎名誠の「シベリア追跡」でもいいけど。

わたしもこの本に影響されて、いちじはモンゴルを夢みたことがある。
イルクーツク、ウランバートル、ゴビなどという、童話に出てくるような地名がどれほどわたしの胸をときめかせたことか。
もっともその後のわたしは、中国とシルクロードに傾注して、モンゴルふうの景色はそっちでまかなってしまった。

「モンゴル紀行」を読んでいると、いろいろ気になることが出てくる。
たとえば主要舞台であるイルクーツクやウランバートルってどんな街なのか。
もちろん本の中にその描写があって、文章からじっさいの景色を想像するのは、わたしは得意なほうだけど、もっと便利な方法がある。
わたしのテレビ番組の録画コレクションの中に、これらの街が出てくるものがあるのだ。

というわけで、読書を中断してコレクションをひっかきまわす。
イルクーツクはシベリア鉄道の途中駅で、わたしの部屋にはシベリア鉄道を記録した映像がふたつある。
ひとつはつい最近再放送された、
1999年の記録映像で、もうひとつは2008年の映像だ。
とくに
1999年のほうは、わたしが大陸中国を走りまわっていた時期と重なり、列車内をみても、中国の長距離列車とそんなに変わらないから、ついなつかしい気分になってしまった。

ウランバートルは「世界ふれあい街歩き」シリーズの中に出てきた。
これはまだ数年まえの映像で、最近はロシア、中国、そしてモンゴルも発展がいちじるしいから、司馬遼太郎が旅したころとは、街の景色は絶対的に違うだろう。
しかし、ときどき街の背景に、緑におおわれたゆるやかな山並みが映る。
こればっかりは作家が旅をしたころと変わらないに違いない。

そんなふうにやたらに気になることが生じ、そのたびに寄り道をして、調べたり、ひっかきまわしたりするから、この本は読み終わるのに時間がかかるのである。
添付したのは、わたしが中国で撮影したモンゴルふうの景色。

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2020年6月 3日 (水)

韓国に謝ろう

たまには本でも読もうと、本屋で見つけてきたのが、ネトウヨの論客である百田尚樹サンの「今こそ韓国に謝ろう」という文庫本。
わたしはこの人の過激な主張が好きではないので、ふつうなら買ってまで読もうと思わない本だ。
でもヒマだし、近くの図書館は6月いっぱい休館だというので、苦し紛れに文庫本ぐらいいいだろうと、本屋でちらりと立ち読みしてみたら、韓国に謝ろうという冒頭の部分は、逆転の発想で、皮肉がいっぱいのユーモア小説みたいでなかなかおもしろかった。
ヒマつぶしには使えるんじゃないか。

で、こいつを購入して、帰宅してじっくり読んでみたら、おもしろかったのはまさにわたしが立ち読みした冒頭の部分だけ。
読み進むうちにいつものネトウヨ的文章になって、皮肉はほんのつけ足し程度になってしまう。
内容が間違っているわけではない。
ただし、そのほとんどはわたしもすでに知っていることなので、ヒマつぶし文学にするためには、謝罪しているようにみえて、じつは相手をけなすというテクニックを、もっと磨いてくれなければいけない。
そして最後までそれで押してくれなければいけない。

とちゅうからまじめに韓国をけなす文章になってしまっては、わたしのヒマつぶしになりようがないのだ。
全編が冒頭並みなら漱石の「吾輩は猫である」みたく、時間つぶしには最適な読み物になったかもしれないものを。
ま、時間は余っているんだし、700円ぐらいのはした金で文句をいいませんけど。

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2020年2月27日 (木)

またとうぶんは

昼間はひさしぶりに籠城用の食料の買い出しに行って、ついでに図書館でいくつかの雑誌をのぞいてきた。
ニューズウィーク日本版の「上級国民論」と「男護ケ島のフェロー諸島」なんて記事がおもしろかった。
文藝春秋には「背高泡立草」という芥川賞作品が掲載されていて、けなすような作品ではなさそうだけど、じっくり読もうという気にもなれなかった。

帰宅してからちょいと芥川賞について調べてみたら、過去の受賞作品のうちベストセラーになったものの順位というものが出ていて、それによると上から安部公房の「壁」、石原慎太郎の「太陽の季節」、大江健三郎の「死者の奢り・飼育」となっていた。
慎太郎さんの作品を映画で観たことがあるだけで、わたしにはとんと興味のない本ばかり。
世間にもこれらの本のおかげで人生が変わったという人がいるような気がぜんぜんしない。
わたしが健全なのか、世間が不健康なのか(結論としては同じだけど)、つくづく考えさせられた。

買い出しでは、1週間分ぐらいの食料を仕入れてきたから、またとうぶんひきこもりに専念できそう。

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