深読みの読書

2017年7月26日 (水)

火山島

友人から済州島へ行かないかと誘いがあった。
あいにくわたしは筋金入りの嫌韓家とみなされている人間だ。
といっても口汚く相手をののしるだけのネトウヨじゃない。
公平客観的にみても韓国の反日感情は理解できないということである。

そういうわけで誘いは留保してあるけど、一方でわたしは部類の旅行好き。
たとえばキライという理由だけで、その国に見向きもしない輩とは明確な一線を画すのである。
韓国についてもいろいろいわれていることが本当なのかどうか、この眼で確かめてみたい気持ちもある。
そういうわけで、いまうじうじと考えているところ。

かりに行くことになったら、そのまえに読んでおきたい本がある。
在日朝鮮人作家・金石範の「火山島」である。
済州島というと、昨今の若者は、景色のきれいなリゾートとしか考えていないんじゃないか。
旅行会社のツアー案内にも、景色や料理のことしか書いてないからいけないんだけど、じつはこの島には慰安婦もぶっ飛ぶようないまわしい歴史があるのだ。

それは先の大戦が終わり、日本が韓国から撤退し、朝鮮が南北に分断された直後の1948年のこと。
韓国の大統領というと李承晩の時代で、いまの若者はこんな名前も知らんだろうけど、まだ国の足もとが定まらず、国民も南北のどっちにつくか迷っていたころで、済州島でも世論はまっぷたつに割れていた(まだ新興の共産主義にも人気があったのだ)。
意見の相違が蜂起というかたちで火を噴いたのが、この年の4月3日。
これに危機感をいだいた韓国政府と米軍は、済州島に鎮圧のための軍隊を送り込んだ。

この事件で島民の1/5にあたる6万人が殺されたというからハンパじゃない。
しかも同胞あい食む悲惨な殺し合いで、このあたりは台湾に逃げ込んだ中国国民党が、台湾人を大量虐殺したのとよく似ている。
6万人という数は、日本との抵抗運動で死んだ韓国人よりずっと多いんじゃないか(大戦中の韓国人は日本軍に所属していた者が多いので、正確な数字がわかりにくいけど)。

こんな悲惨な過去があるにもかかわらず、いろんないきさつがあって、韓国政府はこれを黙秘し、もっぱら日本叩きに精を出してきた。
済州島へ行くならこの事件のこともきちんとなぞっておきたい。
この事件が、「恨」という言葉で象徴される韓国人の特殊な性格を説明してくれるかもしれないし、このとき日本に脱出した韓国人もたくさんいたというから、在日朝鮮人の問題を考えるヒントになるかもしれないのだ。
金石範の「火山島」は、この事件に材をとった小説なのである。

ということで、図書館からこの本を借りてきたんだけど、その第1巻の冒頭をちょいと読んだだけで、これがとてつもない大仕事であることがわかった。
ま、本についてはおいおいと。

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2017年4月10日 (月)

夜桜

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いまはサクラの季節。
サクラって満開になると木のまわりに妖気がただようってのは、これは文学的修辞ではなく、ホントの話。
信じられない人は、満開になったサクラを、できるだけ枝をいっぱいに広げた古木がいいんだけど、ひと気のない夜に見に行ってごらんなさい。
闇の中の桜の木に、ぼうっとした雲気のようなものがまとわりついているでしょう?
こいつの正体はいったいなんなのか。

サクラというのは花期がみじかいから、短期間のあいだになんとか子孫を残したいという怨念が、こういうかたちであふれ出しちゃうんだろうと思っていることは、このブログでも書いたことがある。

こういう観念的な物質を感じられるのは、詩人か、あるいは古びたネコが猫又になるように、人生経験を積んだ年寄りだけの特権かもしれない。
わたしの場合、詩人というにはおこがましいから、やっぱり経験のほうだろうな。
むかし読んだ梶井基次郎の小説には、「桜の下には死人が埋まっている」というフレーズがあったけど、作家というものは詩人の要素もそなえている場合が多いから、彼は若くしてこういう空気を感じることができたのだろう。

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日本にはサクラの登場する文学作品が数え切れないくらいある。
むかしはウメのほうが多かったらしいけど、最近ではサクラのほうが多いのではないか。
女の子の名前だって、サクラというとモダーンだけど、おウメさんというと田舎のおばあさんになってしまう。
今回はそんなサクラのおぼろさを描いた小説で、わたしの記憶に残っているものを紹介してしまおう。
谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」。
滋幹は"しげもと"と読むんだからね、え、お若いの。

さいわいいま谷崎文学は、ネット上の青空文庫でタダで読むことができる。
それを図々しくコピペしてしまうのだ。
ただし、近代文学ではあるものの、原文のままではわたしでも読みにくい部分があるので、すこしだけ、小説の情緒を失わないていどに改変してある。
ぜんぜんおもしろくないという人がいるだろうけど、そりゃ想像力の欠如だな。
文学というものはしょせん、たんなる文字の羅列で、人間を空想の世界にいざなう道しるべにすぎないものなのだから。

ふとむこうを見ると、谷川の岸の崖の上に、一本の大きな桜が、周囲にただよう夕闇をははじき返すようにして、爛漫と咲いているのであった。
あたかもそれは、路より少し高い所に生えているので、その一本だけが、ひとり離れてそびえつつ傘のように枝をひろげ、その立っている周辺を艶麗なほの明るさで照らしているのであった。

土の上はしっとりと湿っていて、空気の肌ざわりはつめたいのだけれども、空は弥生のものらしくうっすらと曇って、朧々とかすんだ月が花の雲をとおして照っているので、その夕桜のほの匂う谷あいの一角が、まぼろしじみた光線の中にあるのであった。

今宵こよいの月はそこらにあるものを、たとえば糸のような清水の流れ、風もないのに散りかかる桜の一片ひとひら二片、山吹の花の黄色などを、あるがままに見せていながら、それらのすべてを幻燈の絵のようにぼうっとした線で縁取っていて、何か現実ばなれのした、蜃気楼のようにほんの一時空中に描き出された、眼をしばだたくと消え失せてしまう世界のように感じさせる・・・・・

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この小説は平安時代が舞台なので、まだソメイヨシノは存在してなかったはずだけど、ここはやっぱりソメイヨシノでなくちゃ話にならないと、強引に主張しておく。
わたしの住む大沢村が、かくれたサクラの名所であることはこのブログで広報ずみで、ここに載せた写真は、いちばん上が基督教大学の校内のもの、あとの2枚はウチの近所のものである。

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2017年3月20日 (月)

朝鮮

詩人の丸山薫に「朝鮮」という詩がある。
いま本が手もとにないので、詳しいことは忘れたけど、内容はこんなふうだ。

魔物がお姫様を追いかけている。
あと少しで追いつかれるというとき、お姫様は髪に挿したかんざしをうしろに投げた。
かんざしは山になって魔物の行く手をさまたげた。
舌打ちしながらもようやく山を越えた魔物は、ふたたびお姫様においすがる。
お姫様は今度は身につけた帯を投げる。
帯は川となって魔物の行く手をはばんだ。
じゃぶじゃぶと、それでもようやく川を越えた魔物は、ふたたびお姫様においすがり、お姫様はつぎに・・・・という具合に、似たようなことが繰り返されたあと、とうとうお姫様はすっぽんぽんになってその場にうずくまるという、神話や伝説によくあるような物語詩だ。

これは強国日本に併合されようとしていた朝鮮の悲劇を描いた詩であるとされる。
丸山薫という人がとくに左翼作家というわけではなく、これは普遍的なヒューマニズムが原点になって書かれた詩だという。
戦前にも日本の大陸進出を冷静にながめていた日本人もいたってことだ。

韓国が迎撃ミサイルシステム(THAAD)の配備を決めたり、日本と軍事同盟を結んだというので、中国のいやがらせが起きている。
フィリピンだとか韓国のように、相手が格下だとみれば中国は強気である。
このままいくと、中国、ロシア、日本のいずれかに併合されるしかなかった朝鮮(韓国)の悲劇が、また繰り返されるような気がしてならない。
そのさい、なにがなんでも日本はキライという人と、一党独裁の中国よりはマシという人で、国民が2分されるかも。
はたして韓国の未来はどうなるのか。
わたしが愛国的韓国人だったら平然としていられない。

わたしのいちばん好きな丸山薫の詩は以下のものだ。
    破片は一つに寄り添はうとしてゐた。
    亀裂はまた微笑まうとしてゐた。
    砲身は起き上つて、ふたたび砲架に坐らうとしてゐた。
    みんな儚い原形を夢みてゐた。
    ひと風ごとに、砂に埋れて行つた。
    見えない海――候鳥の閃き。

「砲塁」という作品だけど、そこに感じられるのは孤独と絶望のみ。
徹底的反日主義者が大統領になるかもしれないいまの韓国人に、なにか未来の希望があるだろうか。

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2016年6月27日 (月)

ヒッピー精神

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はからずも読み始めた沢木耕太郎著「深夜特急」。
そもそもは、これからわたしが行こうとしているタイという国について、どんなことが書かれているかを読みたかったんだけど、バンコクの評価はあまりいいものてはなかった。

それでもどんどん読み進んで、香港からスタートしたこの旅は、マレーシア半島を経てインド、ネパールへ、そしてシルクロードへとさしかかった。
もうこのへんでタイと縁のない国ばかりになってしまうので、読むのをやめてもよかったけど、シルクロードというから、わたしも行ったことのある中国の西域がでてくるのではないかと思って、もののついでに読んでみた。
シルクロードはシルクロードでも、この本のそれはネパール、カザフスタン、イランを通るコースで、中国はぜんぜん出てこない。
カザフスタンなどは、現在ではひじょうに危険な国になってしまったので、そういう意味では貴重な旅行記かもしれない。
と思ったけど、このへんの記述はちょっとあっさりしていてもの足りなかった。

この本はヒッピーのバイブルといわれることもあるそうだ。
たしかに主人公の、できるだけ安いホテル、安い交通機関をというケチケチぶりをみると、同じような貧乏旅行をこころざす若者にとってガイドブックとなってもおかしくない。

道中のあちこちにヒッピー宿というものが出てくる。
貧乏旅行をする若者たちが、あそこへ行ったらこの宿屋が安いと、口コミで伝えた情報が評判になり、いつのまにかヒッピーのたまり場になったホテルのことだ。
この本の中にはそうした宿も実名で出てくるから、わずかな金で旅をする若者たちにとっては頼りになる本だったろう。
ただこの本からは、貧乏旅行のガイドというだけではなく、もうすこし突っ込んだものまで感じられる。

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主人公は旅の途中で、ロッテルダムから来た貧しいヒッピーと出会う。
バスの乗客がみな食事をしているのに彼だけは何も食べず、落ちたクラッカーをひろって食べたりしているところからして、貧乏なヒッピーの中でもとりわけ貧しい人間にちがいないけど、この彼が現地の子供たちにもの乞いをされると、なけなしの金を等分して分け与えてしまう。
いったいこの先どうする気だろうと心配になってしまうくらい。
主人公は自分なりの考えから、けっしてもの乞いに応じない決意だったのに、彼を見て貧しさや豊かさとはなんなのかと考える。

なんだかできすぎた話に思えるかもしれないけど、沢木耕太郎という人の文章には誇張や創作めいたものが感じられないし、いかにもありそうなことばかりだから、これも彼がじっさいに体験したことなのだろう。

イランのドミトリーでは、病気で宿屋にふせっているヒッピーに出会う。
同情した主人公は食べ物を差し入れたりするのだけど、相手は世捨て人のような拒絶を示して、なかなか打ち解けようとしない。
それでもじょじょに言葉を交わすようになり、主人公の出発する日になると、彼はいっしょに行こうかななどと、ちょっと弱気な発言をする。
しかし主人公もさすがにそれ以上面倒をみられないというので、ひとりでさっさと出発してしまうのである。
あとで後悔するのだけど、わたしにはこのあたりの描写が、ちょっとオーバーだけど、ヒッピー精神を象徴しているようで興味深かった。

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グループでにぎやかに旅をするヒッピーもたしかにいただろうけど、その反面、失恋や挫折、自責、迷いなどがきっかけで、孤独な旅に出た若者もけっして少なくなかったと思う。
旅先での出会いなんて一期一会で、頼りになるのは自分だけという強固な意志がなければ、ノミシラミのわくホテルに泊まり、おんぼろバスにゆられ、故国から遠くはなれたヒッピー宿で行き倒れになるかもしれない、そんな自虐的ともいえる旅なんぞできるはずがない。
他人の助けなど期待するほうがまちがっているのだ。
この本の主人公がわたしでも、やはり病気の彼を置いて出発したんじゃないか。
そして同じように後悔したんじゃないだろうか。

これは若者が自由に海外に飛躍できた景気のいい時代の物語だという人がいるかもしれないけど、最近のISに身を投ずる若者たちも、人生に投げやりになって旅に出たヒッピーと、遠いところでつながっているのではないかと、つい思ってしまう。

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2016年6月22日 (水)

インドの悲劇

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新刊を買ったり、図書館を利用したりして、タイ出発まえに全巻を読み終えてしまいそうな「深夜特急」という本。
現在はバンコクやマレー半島を読み終えて、インドあたりへ差しかかったところだ。

香港やバンコクあたりでは、主人公の旅がわたしのそれと似てるなんてうそぶいていたけど、このあたりにくると、わたしは愕然としないわけにいかなくなってきた。
いやはやね、ひどいもんだね。
この世で地獄を体験したかったらインドでカースト最下位の、さらに下にある “不可触民” とよばれる階層に生まれればよい。
そういいたくなるほど。

若いころ、わたしもインドに行ってみたいと思ったことがある。
若者たちが猫も杓子もインドにかぶれていた時代で、ビートルズもいちじインドの行者に帰依していたことがあるし、インドにはヒッピーたちの桃源郷があるって聞いていたもので。
でも知れば知るほど、この国が桃源郷どころか、目も当てられないひどい国ということがわかってきた。

現在のインドはIT先進国で、それなり域内の大国でもあるけど、これはすべて上流階級だけのハナシ。
不可触民と呼ばれる層の悲惨さは、いまでもほとんど変わってないようだ。
戦前の上海あたりがインドに似ていたようだけど、少なくともわたしが最初に出かけたころの中国でさえ、そんなにひどい国ではなかった。
インドに出かけたら、わたしは人間の残酷さ、業の深さをまっ正面からながめることになっていただろう。

沢木耕太郎さんがこの本のもとになった旅をしたのは70年代の始めらしい(まだパソコンもインターネットもないころだ)。
主人公が街を歩いていると、まだ10歳にもならない少女が体を買ってくれとつきまとってくる。
こればっかりはフィクションだろうと思ったけど、ずっとあとに作られた「スラムドック・ミリオネア(2008)」という映画にも、人身売買の犠牲になる子供たちが出てくるから、これはけっして創作ではなさそうなのだ。

悲劇に遭うまえに子供たちを救おうと、外国からの支援で浮浪児を保護する施設を経営している人々がいる。
「深夜特急」の主人公も、ボランティアと知り合って、ほんの束の間だけそんな施設で働いてみることになる。
彼は施設までトラックに乗って行くのだけど、たまたま保護されたばかりの幼い少女2人が、施設に入るためにいっしょに乗せられる。
身寄りがないわけではないのに、誰ひとり彼女たちの見送りにこない。
不可触民の親たちにとって、これは口べらしの方便なのだろうと、主人公は理解する。
この少女たちが、自分の運命に対して、絶望的なまでに無関心、無表情という描写には胸をうたれた。

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椎名誠さんの紀行記には、インドは神様がやたらに多いという記述がある。
日本でいえばお地蔵さんだとか、道祖神、台所の神様、厩の神様みたいな、あまりご利益のありそうもない神様が、街中のいたるところに飾られているらしい。
しかし救いようのないインドの状況を見ていると、神様は雁首さえそろえれば役に立つというものでもないようだし、むしろこの連中の存在が人々の無知を増大させているような気がしてならない。
わたしの無神論にますます拍車がかかりそうだ。

早朝の川べりで、大勢の人々が沐浴するすばらしい写真を見たことがある。
敬虔ということばがふさわしい感動的な写真だったけど、そこへ人間の死骸も流れてくるのだ。
わたしがけっきょくインドへ行かなかったのは、そんな景色を見たいと思わなかったからだ。

「深夜特急」を読むんじゃなかった。
タイで歓楽街を見て歩くぞというわたしは、これを読んだおかげで、自分がいかに下らない人間であるかをつくづく思い知らされることになってしまった。
自分は屑だ、ヘンタイだ、人間以下だ。
そうはいっても、いまから世界のためになにか貢献できそうもないわたしは、せめてタイでは品行方正な男でいるしかないようだ。

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2016年6月21日 (火)

カジノ必勝法

ぜんぜん「旅から旅へ」というカテゴリーに入らないけど、もののついでに沢木耕太郎さんの「深夜特急」にまた触れてしまう。

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わたしは賭け事をやらない。
勇気がないということもあるし、賭け事の大半が偶然に賭けるだけで、自分の頭をふりしぼって結果を出せるわけではないらしいから。
でも賭け事にすなおに熱中する人を見ると、熱中できない自分がなにか大きなハンデを背負って生まれたようなくやしさもある。

ところで賭け事っていうのはほんとうに偶然に賭けるものだろうか。
なにかで読んだ文章によると、ある財閥のお嬢さんが、知り合いといっしょにカジノに行ったそうである。
この知り合いというのはカジノに顔のきく有力者で、ディーラー(サイコロやルーレットの球を操作する人)に対して、この人はわたしの友達だから勝たしてやってくれといったそうだ。
するとじっさいに、ほどほどに勝てたという。
このお嬢さんは、カジノというのはそういうところかと納得したというのである。

香港にしばらく居すわった「深夜特急」の主人公は、当然のようにマカオに立ち寄り、当然のようにカジノにも顔を出す。
最初は見ているだけだったけど、そのうち必勝方法があるのではないかと推理を働かせ始める。
サイコロの目が大か小かを当てるゲームがある。
前記のお嬢さんのことを主人公は知らないはずだけど、じっと見ているうちに、どうやらディーラーは自由に目を操作できるらしいことを悟る。
それならディーラーのくせを呑み込んでしまえばいいではないか。

そう考えてディーラーをじいっと観察し、あるていど効果を上げるんだけど、そのうちディーラーが交代してこの方法はおじゃんになった。

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つぎに彼が考えたのはゾロ目を見抜くことである。
詳しい説明ははぶくけど、ただ大小に賭けさせるだけでは、客のあいだをお金が行ったり来たりしているだけで、カジノの儲けにならない。
そこでゾロ目が出た場合だけ、カジノ側の総取りになる規定があるのだそうだ。
三つのサイコロの目がそろうなんてことはめったにないから、このときゾロ目に賭けていれば客も大儲けできる。

だから主人公は、ディーラーがゾロ目を出すタイミングを見計らって、相手の裏をかこうとする。
賭場が過熱して客が大金を賭ける。
そういうときにゾロ目を出せばカジノは大儲けだ。
だから自分もそういうときにゾロ目に賭けてやろう。
主人公は賭場の過熱具合を慎重に見きわめて、ここぞというときになけなしの金をぶちこむのである。

で、どうなったかというと、少ない旅行費がますます少なくなっただけだった。
カジノのディーラーも百戦錬磨のプロだから、そんな推理をする客がたまにいるということをとっくに承知しているのだろう。
やっぱりカジノなんて素人が勝とうと思って出かけるところじゃない。
それでもこのあたりの描写は、この本のハイライトのひとつといっていいくらいおもしろい。

敗北感に打ちひしがれてカジノをあとにする主人公だけど、じつはカジノ必勝法というものも存在するのである。
この本の中に、姉妹らしい2人連れが、みごとにディーラーの裏をかく場面が出てくる。
彼女らがどんな手を使ったのか、興味のある人は本を読んでみればよい。
べつにむずかしいことじゃないので、それができるかどうかはあなた次第だ。
でも、そもそもバクチで熱くなるような人には無理だな。

添付した写真は、両方ともマカオで、下はカジノと、顔にぼかしを入れる必要はないんだけど、このブログでおなじみの金持ちのO君。

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2016年3月27日 (日)

旅の道連れ

来月になったら富山湾のホタルイカを見物に行く予定。
相手は生きものだから都合よく出現してくれるかどうかわからないし、見られなかった場合、ほかにヒマつぶしを考えなくてはならない。
能登半島を一周してくる手もあるけど、だいぶくたびれそうだ。
それよりも寝ている時間の比率が、世間の標準よりだいぶ長いわたしにとって、宿屋でごろごろしているあいだのヒマつぶしが大切だ。
湯沢温泉で「雪国」を読んだように、読書はお手軽でいいヒマつぶしになるものだから、なんか能登のあたりを舞台にした小説はないだろうかと考えた。

過去に読んでみようと思ってまだ読んでなかった、高橋治という作家の「風の盆恋歌」という小説がある。
この小説は、富山市のすぐとなりの八尾市を舞台にしており、タイトルを聞いただけで幼いころの郷愁をさそわれるような気分になる。
でも、このブログの2009年9月3日にも書いたことがあるけど、わたしはこの作家も作品も、その時点までほとんどなにも知らなかった。
いい機会だからこれを読んでやろう。

そう考えて図書館で新潮社版の文庫を借りてきた。
たちまち読み終えてしまって、これじゃヒマつぶしにならないと困っているけど、どうもわたしの好みの小説じゃないね。
若いころ野坂昭如の小説を読みふけったわたしとは、方向性がぜんぜんちがうのである。
でもまあ、仕方がない。
今回は風の盆を道連れにして、ふらふらと思索(と妄想)の旅。

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2015年5月19日 (火)

気まぐれ美術館

前項の外口書店の均一台から引っこ抜いてきた文庫本は、洲之内徹という人の書いた 「気まぐれ美術館」 という本である。
わたしはこの著者についてなにも知らなかった。
調べてみると、戦前の生まれで、召集されて兵隊も経験しているし、プロレタリア運動に傾注して当局ににらまれ、転向したあとは作家をしたり、出版会社や映画プロダクションを作ったり、最後は銀座で小さな美術商を営んでいたという。

写真で見ると、風貌は作家の吉行淳之介か漫画家のはらたいらみたいで、なかなかハンサムな人なんだけど、収入もないのに小説を書くことに熱中したというから、家計はどうしていたのかと心配してみたら、案の定、そのため一家離散の憂き目に遭ったとか。
1987年に他界しているけど、なんかむかしの文士の典型みたいな人である。
この本の中で、四畳半ひと間のアパートに20年以上居座っていたと書いているから、好きなことをやれれば住まいなんぞ気にしない人だったようだ。
うん、わたしにも似たところがあるな。

芥川賞の候補になること数回というくらいなので、文章はしっかりしていて、なかなかおもしろい。
本の内容は、彼が美術商時代に関わりを持った、たくさんの画家たちとその因縁話について書いたものである。
無知をさらすようだけど、出てくる名前は、井上肇、佐藤哲三、杉本鷹、吉岡憲、岡鹿之助、林倭衛、松本竣介などなどで、わたしの知らない画家がほとんどだ。
美術商ではないわたしが画家の名前に詳しい必要はないんだけど、どうもわたしには、日本の油絵なんてみんな欧米の模造じゃないかという偏見があるらしい。
おまけに日本人が西洋の絵画に出会ったのは印象派以降なので、日本にはレンブラントやゴヤがいないもんねとうそぶいてしまう。

余計な私感はさておいて、古本屋の均一台で見つけた 「気まぐれ美術館」 は、くだらない映画やアホらしいテレビ番組にうんざりして、たまにはおもしろい本をじっくり読みたいと思ったときにふさわしい本だ。
わたしにとってやっぱり掘り出し物である。

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2015年3月23日 (月)

谷崎潤一郎

新聞を読んでいたら、今年は谷崎潤一郎の没後50年だそうだ。
おお、それじゃ彼の作品もいよいよネット上の「青空文庫」で読めるんじゃないか。
そう期待したけど、今日の時点じゃまだ彼の作品は上梓されてないね。

わたしは目下終活に精を出していて、本棚もだいぶ整理をしてしまったから、かってはたくさんあった谷崎潤一郎の本も、ひとつもなくなってしまった。
彼の本は、もちろん本屋に行けばいつでも買えるけど、やっと整理した本をまた買うわけにはいかない。
図書館に行く手もあるけど、借りたり返したりがメンドくさい。
それより簡単なのがネットで読むことだ。

そういうわけで、青空文庫に載る日をこころ待ちにしている本の代表が、谷崎潤一郎なのである。
おそらく青空文庫のボランティアも、すでにデジタル化をすませ、手ぐすねひいて上梓する日を待ちかまえていることだろう。
早くしてくれないと、わたし死んでしまうからね。

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2014年10月 7日 (火)

童貞消失

前項でくだらないことを書いているうちに、ふと疑念が生じた。
三四郎は福岡県の真崎村出身の学生である。
福岡にかぎらないけど、むかしの地方の農村には “よばい” という風習があった。
うらやましいと思うのは早計で、当時の若衆組 (青年団みたいなもの) が、これについても、身勝手なことはさせないようにきちんと取り仕切っていたそうである。

若い男が発情期になると、先輩が、おまえもそろそろいいんじゃないか、今夜はおハナ坊のところへ行ってこいと、童貞消失のための段取りを整えてくれる。
当時は娘のほうも、やたらにセクハラだなんて騒がないだけの器量をもっていたから、これは想像だけど、古風なモラルにしばられていたはずの明治の男の童貞率は、ソドムの市みたいに乱脈をきわめる現代より、ずっと少なかったのではないか。

「三四郎」 の時代にはすでによばいという風習がすたれていたとしても、なんたってまだ赤線があった時代だ。
芸者の廃業と童貞がいっきに増えたのは、赤線廃止にも大きな原因があったと、これはわたしの勝手な想像じゃなく、文献にもそう書かれている。
先輩が先輩風を吹かして、後輩をそういうところに連れていく余裕はたっぷりあったはずなのに、なぜ三四郎は童貞なのか。

ここで考えるんだけど、漱石は熊本で教べんをとっていたことがあるから、ふつうなら三四郎をそのあたりの出身にしそうなものだ。
しかし九州でも熊本や鹿児島となると、伝統的に尚武の気のつよいところで、先輩の後輩に対する面倒みのよさで知られるところである。
三四郎がかりに熊本の田舎者なら、上京前にすでによばいに送り出され、童貞を失っていたと考えるほうが無理がない。
だから福岡の真崎村なんて聞いたことのない田舎を持ち出したのは、そのあたりの学生なら、設定が童貞でもおかしくないという漱石の深慮遠謀かもしれない。

こういう小説上の作為でないとすれば、三四郎がいいうちの坊ちゃんで、幼いころから勉学を強要され、よばいなどという下賎なしきたりに染まらなかったということも考えられる (じつはこれがいちばん可能性が高いんだけど)。
漱石とならびたつ文豪・森鴎外の 「ヰタ・セクスアリス」 にもよばいが出てこないけど、この本は明治の作家がかなりあけすけに性的体験をつづった本であるから、作家がそれを体験していればとうぜん記述があっておかしくない。
鴎外は田舎の若衆たちから隔離された、いいうちの息子だったのである。
だからやむを得ないにしても、三四郎はそれほど名家の息子に思えないんだけどな。

またアホなことを考えたけれど、三四郎が童貞か否かで、この小説の展開は大きく変わったはずである。
そっちが読みたい。

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