深読みの読書

2022年8月 6日 (土)

沖縄/船浮のみぎわ

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翌日の朝8時、儀助たちは崎山村から、さらに西進することにした。
このときのメンバーは儀助と県庁職員の後藤氏、それに案内と警護をかねた木場という巡査の3人だった。
彼らはサバニに乗って八重目(バイミ)崎を越えようとしたけど、ここは西表島の西端にあって、正面から波を受ける航海の難所で、波が高いために船頭がびびってしまい、やむを得ず舟を返して山道を行くことにした。

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当時この先には、南太平洋のカナカ族が移住した(とされる)鹿川(かのかわ)村という集落があったそうである。
この村は明治37年、ということは儀助が尋ねてから10年ほどあとに廃村になった。
しかし衛星写真をじっくり見分すると、鹿川湾のいちばん奥に耕地の跡らしきものがうかがえるから、村はそのへんにあったのではないか。
僻地の村でも人口は50人ちかくいて、男女の比率はほぼ半々だったというから、国家という暴虐者に縛られるのがイヤという厭世家たちが、集団で住みついていたのかもしれない。
仕事熱心な儀助がいろいろ聞き取り調査をしてみると、ほとんどの村人が漁業をおぼえることもなく、海岸で海人草を採ることを生業としており、イヌといっしょのその日暮らしで、生活に進歩や改善の努力がぜんぜん見られなかったそうだ。
憐れむべき人たちであるというのが儀助の感想だけど、彼らが西表島の海浜で、不自由でも幸せに暮らしていたのなら、余計なお世話である。
ここに載せた写真はシュノーケリング・ツアーの広告や、釣り愛好家のホームページから拾った鹿川湾のもので、現在はここに人の生活はまったくない。

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ダーウィン的話題としては、この土地では鹿ノ川貝(ジュセイラ)というめずらしい巻貝が名物だそうで、儀助もいくつか採集していたから、それを紹介しておく。
ネットで調べると、日本では紀伊半島以南(主に南西諸島)に生息するフジツガイ科の貝で、その美しい色と模様から色違いの近縁種ショウジョウラ、バンザイラと合わせ「日本三大美螺」と呼ばれています、とのこと。
似たような巻き貝で、ウミニナというのがマングローブの根もとにたくさんいるけど、灰色の汚い貝である(貝に罪はありませんけどね)。

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この日は宿舎に早めに着いたので、しばらく風呂に入ってなかった儀助たちは海水浴をすることにした。
明治時代の沖縄ならほんとうに手つかずのままのサンゴ礁が残っていて、さぞかし美しかっただろうし、青森県は弘前藩士あがりの儀助にとって、サンゴ礁の海で泳ぐのは初めての体験だったろう。
しかし泳いで気持ちがよかったと書いているだけで、儀助はそれ以上のことは書いてないから、笹森儀助の「南島探検」が、ダーウィンの「ビーグル号航海記」にならない所以はこのへんにある。

海でぽちゃぽちゃしているところへ、石垣島から飛脚船が到来し、与那国行きの汽船・大有丸が入港したからすぐに帰ってこいとのこと。
儀助は西表島のあと与那国島に行くつもりだったので、船が入ったら連絡するよう、あらかじめ話をつけておいたのである。
しかし、すぐ帰ってこいといわれてもすぐに帰れない場所にいるのだ。
帰るのは明日の朝いちばんでいいだろうと勝手に決め、大有丸には船浮港まで迎えに来てくれるよう折り返し連絡を入れて、儀助たちは鹿川村に一泊することにした。

そこまではいいけど、この当時連絡というのはどうやってしたのだろう。
これまで書いてきたことからわかるように、明治時代の西表島には村と村とをむすぶ道路はほとんどなく、往来はもっぱら舟によるばかりで、いまみたいにインターネット通信があったわけでもない。
糸満人のあやつるサバニが、鹿川村にいる儀助に文書を届けたとあるから、手紙1通を届けるために石垣から小舟でやってきたのだろうか。
それとも石垣から西表の祖納まではトンツー式の無線で、そこから舟がやってきたのか。
よくわからないけど、日本中を通信網でくるもうという明治政府の熱意、そしてそれを忠実に実行する電信会社の努力には感心してしまう。

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翌朝の7時、儀助たちは山道を使ってふたたび網取の海岸にもどると、そこからサバニで船浮村の駐在所にもどった。
船浮という部落はいまでもあるけど、西表島の東半分だけにある外周道路のいっぽうのはしである白浜から、さらに連絡船を乗り継がないとたどりつけない、まさに陸の孤島といっていい部落だ。

仕事熱心な儀助はここでまた(明治時代の)船浮村を調査している。
ただし儀助がこの村を訪問するより以前、西表では明和の津波(1771)というものがあり、そのとき船浮村もべつの場所に移転したことがあったという。
災害は忘れたころにやってくるの例えどおりで、台風以外の災害に縁のなさそうな八重山だけど、昭和8年(1933)の大津波といい、けっこう地震や津波の災害は多いみたいだ。
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儀助はすこしはなれた場所にあったその旧船浮村についても調べていた。
船浮の北方600メートルぐらいのところだったというから、この地図の〇のあたりのようだけど、現在は藪が茂っておいそれと確認もできない。
民宿のおかみさんたちは、食用の島タケノコを採るために藪にも立ち入るけど、ハブに噛まれるかも知れないから、都会人はむやみに入らないほうがよい。
蛇足だけど、この島タケノコの煮物はビールのつまみに好適。

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現在では船浮は竹富町に編入され、村という行政単位はつかないものの、まさにユネスコの自然遺産まっただ中のところで、わたしも何度かここの民宿に泊まったことがある。
そういうわけで現在の船浮を紹介しておこう。
これは戦前の写真(に似せて加工したわたしの写真)である。

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船浮の背後の山を越えると、徒歩15分ぐらいで「イダの浜」という無人の砂浜に出る。
わたしがはじめてこの海岸に立ったのは9年まえのことで、その美しさに感動したことは当時のこのブログに書いた。
同じことをまた書くのもナンだから、ここでは別の視点からこの海岸について書いておこう。

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いったいイダの浜のどこがわたしを惹きつけるのだろう。
ひとつ思い当たるのは、イダの浜の周囲には人工の建造物がまったくないということ。
しいていえば遠方の岬に小さな無人灯台が見えるけど、あとは後ろをふりかえっても、儀助が見たころのままの亜熱帯の森である。
人間の気配のまったくないという自然環境は、人間ギライの厭世家には大きな安らぎを与えてくれるもので、英国の女性探検家クリスティナ・ドッドウェルも、そんなことを書いていたのを読んだことがある。

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天然のままの海岸を愛することでは人後に落ちないわたしのこと、人間の気配のまったくないこの海岸で、カニとたわむれているのは幸せなことだっだ。
思えばわたしの世代は不思議な幸運にめぐまれていた。
わたしが子供のころはまだ郷里には、江戸時代から連綿と続いている素朴なアナログ社会が健在だったし、終活時期の昨今では、江戸時代の農民にはとうてい想像もできないデジタル社会も見ることになった。
橋のまん中でまったく異なる両岸の景色をながめたようなものだ。
くだらないことに感心しているという若い世代は、おそらくデジタル時代しか見ることが出来ず、数値でなんでも割り切れる社会が、人間のこころにうるおいを与えてくれるとは、わたしにはとても思えないんだけどね。

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願わくばイダの浜の美しさよ、永遠にというところだけど、そう書いている最中もわたしのこころは逡巡する。
こんなことを書いて、もの好きが殺到したらどうなるだろう。
あの美しい海岸を美しいまま、永遠にわたしだけのものにする方法はないだろうか。
あるじゃないか。
わたしはイダの浜の美しさを永遠に記憶にとどめたまま、あの世に行くんだから、そうか、そうか、案ずるより産むが易しだった。

イダの浜でしばしの陶酔のあと、わたしは船浮集落にもどった。
儀助も船浮にもどって昼メシを食うことにしたけど、彼らのこの日の昼食は、船浮駐在所の川崎という巡査がご馳走してくれた。
彼にいろいろ話を聞いてみると、最初は家族同伴で赴任したものの、2年まえに村の子供が脳膜炎で死んだということがあり、ここはマラリアが猖獗をきわめて危険なので、妻子は鹿児島の実家に帰しましたとのこと。
あなたはマラリアに罹らないのですかと訊くと、わたしはしっかり対策を立ててますからねという。
やはり夜は布団をひっかぶり、汗まみれになって寝るのだそうだ。
ついでに焼酎をあびるほど飲むかどうかは聞き漏らしたけれど、そんなことで蚊に喰われないなら、マラリアなんて恐るるに足らずではないか。
彼は外出するときもかならずいちど沸騰した湯を持参して、生水はけっして飲みませんという。
なーるほどと、登山の最中に川の水を牛飲した儀助が感心したかどうかわからない。

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鹿川村から急いで帰ってきたにしてはのんびりしているけど、まだ迎えの大有丸は影もかたちも見えないから、あわてる必要はなかった。
午後になってサバニに乗り込み、船浮を後にして、儀助たちは祖納の役場に帰り着いた。
ここは西表島における調査の出発点で、最初は時計まわり、つぎに反対まわりで、儀助は島の海岸線をほぼすべて見てまわったことになる。
マラリアには罹らなかったけど、虫に刺された足が腫れ上がって、儀助はだいぶ難儀していたそうだ。

翌日は内離島が目のまえなので、もういちどこの島に渡り、廃鉱間近の炭鉱で責任者の三谷氏から話を聞いた。
汽船の燃料コストや、荷物積み込み人夫の給料については、やっぱり赤字だそうて、起業家になるのも楽ではないようだった。
その後、島の最高地点に登ってみると、沖から汽船が近づいてくるのが見えた。
大有丸が約束どおり船浮まで儀助を迎えにきたのである。

三谷氏や案内をしてくれた木場巡査などに別れを告げ、儀助が大有丸に乗り込んだのは明治26年7月28日のことだった。
これで西表島の探検と調査は終わりなので、彼は船のなかでこれまで見てきた島の総括をした。
とはいっても、貧しい農民を苦しめる税法を改革するにはどうすればいいか、開墾地の必要性、人口を増やす方法など、くそまじめな儀助らしい。
現代のわたしたちには役に立たないことばかりだし、興味のある人もいないだろうから、詳細は省くことにする。

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荷物の積み込みなどで2日間を船上で過ごしたあと、「水落の滝」で給水をしたのち、7月31日に大有丸はつぎの目的地である与那国島に向かって出航した。
この滝はマングローブの森のとっつきにあり、垂直の岩から水が流れ落ちていて、むかしから島の人々にとっては貴重な飲料水の補給場所だったところである。
儀助が旅をしたころは、ここでクロダイやスズキなどが入れ食いで釣れたという。
わたしもいちど行ったことがあるけど、さすがに現在ではそれほど魚影が濃いようには見えない。
この滝を見たい人はシュノーケリング・ツアーにでも参加すれば、寄ってもらえる可能性がある。

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2022年7月19日 (火)

沖縄/自然とともに

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ゴーギャンという画家がいる。
いるなんて絶滅危惧種みたいな言いかたをしなくても、だれでも知っている有名な印象派の画家だ。
彼もそうとうの変人で、それなり平穏にすごしていたフランスでの生活をおっぽり出して、南海の楽園(とそのころは思われていた)タヒチに永住してしまった。
いったいどうしてそんなということは、女性には永遠の謎だろう。
しかしわたしのような厭世家にはわかるような気がする。
わたしももうたっぷり世間の荒波に揉まれて、いいかげん世間にうんざりして、自然がいっぱいの西表島に移住を夢見るじいさんなのだ。
実行しないのは、ただ勇気がないのと、先立つものがないせいである。
無人島だってタダでは住めないのだ。

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船浮の民宿のおやじさんに聞いた話では、近くの無人島にひとりで住みついて、田畑を作り、自給自足の生活をしている日本版ロビンソン・クルーソーみたいな男性がいるという。
不法滞在ですかと訊いてみたら、ちゃんと地主さんの許可をとっているよという。
無人島にも地主さんがいるのかとがっくりしたことはさておいて、うらやましい話であるけど、電気が引いてなければ、パソコンも使えないだろうから、それがないと生きていけないわたしには真似できない。
いまでもひとりで暮らしているのだろうか。
ちゃんと老齢年金なんかもらってんのかしら。
現在ならユーチューバーになって、無人島の生活を発信し続ければ金持ちになれていたかもしれない。

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さて、御座岳を越えた笹森儀助のその後だけど、いったん祖納(そない)村にもどって、内離島の炭鉱を視察したことはすでに書いた。
祖納村では彼は役場の建物を宿にしていた。
この建物はこのあたりでは立派なものだったけど、部屋のなかにトカゲやヤモリやクモ、ダニ、シラミが徘徊していて、儀助も2カ所ばかり食われてカユかったそうだ。
ここでは方言で「ヤネマブリ」というトカゲの名前が出てきた。
明治の日本人はトカゲやヤモリぐらいでは驚かないだろうから、これはキシノウエトカゲだったかもしれない。
これはトカゲにしては大きいもので、写真を撮ったことのあるわたしもヘビかと思ったくらいだ。

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西表島はユネスコの自然遺産にも選ばれたくらい自然の豊富なところである。
最近観光客が増えてそうした自然をおびやかしているけど、この島では本土ではなかなか見られないめずらしい動物が、手の届くような近距離に見られる。
民宿に泊まれば壁にヤモリが張りついているし、海辺に出れば、いたるところにヤドカリやシオマネキがうごめいてる。
食堂でカレーを食べていると、庭の樹木に赤い鳥が舞い降りる。
あれはナンダということで、とりあえずビデオに収めておいて、あとで確認したらアカショウビンだったということを、わたしはじっさいに経験した。
哺乳類(イリオモテヤマネコ)、野鳥、爬虫類から両生類、魚類、昆虫など、自称ナチュラリストにインスピレーションを与える動物はひじょうに多いのだ。
これなら自然が豊富だということで、ナショナル・ジオグラフィックが取材に来てもおかしくない。
そんなことをいわれたって、明治時代にNG誌はまだなかっただろうという人がいるかもしれないけど、この本は1888年の創刊だから儀助の旅より5年も古いのである。

今回は西表島の自然についての画像をどさどさ載せておこう。
遅ればせながら、わたしは西表に行くたびダーウインになった気分だ。

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内離島の炭鉱を視察したあと、儀助はサバニに乗り、崎山村の網取(あんとぅり)という場所に上陸した。
場所はこの地図のとおりで、写真は現在の網取だ。

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わたしがダイビング目的で西表島に行ったのは44年まえの1978年、ということはもはや半世紀ちかくまえのことである。
沖縄に行ったのはこのときが最初で、サンゴ礁の海を見たのも初めてだったけど、網取の浜に上陸したときのことを忘れはしない。
昼メシを食べたあと、砂浜で素潜りをして吃驚した。
腰までぐらいしかない深さの海底に、盆栽のようなサンゴや、触手をゆらせたイソギンチャクが点々としていて、そのひとつひとつに小さな熱帯魚が群れていた。
イソギンチャクと共生するという不思議な生態のクマノミもいた(実物をはじめて見た)。
すこし深みには丸太ん棒のようなコブシメ(イカの仲間)が、水中をただよいながらじっとこちらを見つめていた。
そこはまさに天然の水族館だったのだ。

この海に魅せられて、わたしはその後3回も同じ海岸に上陸している。
陸から行く道はないので、ダイビングやシュノーケリング船に便乗して行ったのだ。
40数年まえには戦争中の遺物のような、崩れかかった桟橋しかなかったけど、現在の網取には東海大学の海洋研究所があって、桟橋も立派なものがある。
それでも研究所はふだん無人だし、見渡すかぎりの周囲には、わたしが初めて見たときと同じように、ヒカゲヘゴやアダン、巨大シダの茂る原始のままの密林が静まりかえっている。
自然に抱かれる幸せはゴーギャンでなくともわかるだろう。

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西表島でシュノーケリング・ツアーに参加すると、網取湾のあたりに行くことが多い。
このあたりは貴重なサンゴ礁の宝庫で、潮が引くと腹をこするんじゃないかと思えるほどの浅瀬に、エダサンゴ、ウチワサンゴ、テーブルサンゴなど、種類の異なるサンゴ礁のみごとな群落が見られる。
タンクを背負って本格的なダイビングをすれば、イボヤギなどのソフトコーラルと、そのまわりに色とりどりの小魚が群れる幻想的なお花畑を見ることも可能だ。
ただ、ちと心配だ。
こんなことを書くと観光客が押し寄せて、ただでさえ荒廃のすすむ沖縄のサンゴ礁の破壊につながらないだろうか。
しかし自分はもう十分楽しんでしまったから、ほかの人は来るなというのでは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」になってしまう。
観光地と自然保護を両立するのはむずかしい。
まったく立ち入り禁止にするのもナンだから、屋久島のように上陸制限でもするか、富士山のように入山料を請求するか。

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網取には古い集落の廃墟が残っている。
これは昭和46年まで存在した“あんとぅり”という村の跡だ。
西表島ではマラリアで全滅する村も多かったのに、儀助が尋ねた当時、この村は戸数11で、人口は68人ほどいて、いくらか増える傾向があったという。
増えた原因はわからないけど、村人が村を棄てたのは沖縄が本土に復帰したあとだから、風土病に追い立てられたわけではなく、過疎と交通の不便というべつの要因だったようである。
いまここに村民たちが残した石碑が建っていて、廃村に至った理由が刻まれている。

網取村は西表島の最南端に300有余年の歩みを残した。
耕地や交通の不便と人頭税の重圧に耐えて村人は父祖の築いた繁栄を守ってきた。
しかし、政治の貧困による経済の行きづまりと医療、教育の不備を始めとする孤島苦がつのり、ついに昭和46年7月14日に全員離村を余儀なくされた。
ここに私たちは全体の祖先の霊を祀り、四散した村人のよりどころとするためこの碑を建てる。
            平成8年9月  うるち会建立

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網取村のとなりにあるのが崎山村で、ここでも儀助は役場の建物に泊まった。
役場があったということは、崎山村のほうがこのあたりの村の中心だったらしく、儀助が尋ねたころは戸数が15、人口は73人だったという。
村としての機能はまあまあ備えていたようで、多いときには160人にも住人がいたそうである。
この村も昭和20年(1945)に廃村になり、ためしに現在の衛星写真をにらんでみたけど、上空からでは村の痕跡すら発見できなかった。
儀助の文章では、“港は北に向かって開き、東・南・西に山がそびえていた”、あるいは“港から数キロ行くと、左右に大きな岩が屹立していた”、また“村は崎山湾の西岸に接し、山の中腹にある”などとあるけど、衛星写真では土地の高低まではわからないので、探しようがない。
村のはずれに泉があって、オタマジャクシやガマが棲んでいたそうだけど、いくら高精度の衛星写真でもそりゃ写らんだろう。

崎山村が廃村になったのは網取に先立つこと26年だから、現地に行ってみれば石垣くらい見つけるのはむずかしくないと思われる。
しかし、おそらく成長の早い熱帯の植物に埋もれてしまっているだろう。
YouTubeには廃墟を探訪するというチャンネルもよくあるけど、だれか西表島の廃村を訪ねるチャンネルを制作してくれないか。
これまで書いてきたように西表島には、風土病で全滅した村、かってそこに人間の営みがあったことの痕跡がたくさん残っているはずなのだ。
さいわい最近では登山や探検のための用具も儀助の時代とは比較にならないし、個人で海を渡れるカヌーやカヤックもあり、薬品も発達しているからヤマビルやマラリアの恐れもない。
うん、わたしがもっと若けりゃ自分でやっていたんだけどね。

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でも人々が死に絶え、なにもかもが大自然のなかに還ったというのは、西表島にとって幸せだったかもしれない。
かってNHKKの「ワイルドライフ」という番組が、「奇跡の島々」というタイトルで南西諸島を特集したことがある。
日本人ならゴーギャンのようにタヒチまで行く必要はない。
世間の波にもまれ、人間関係にイヤ気がさし、絶海の孤島にでも出奔したくなったら、この南北に細長い列島で、わたしたちはいつでもパスポートなしに奇跡の島々に行くことができるのである。

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2022年7月 7日 (木)

沖縄/御座岳を越えて

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西表島に着いた翌日、祖納村のコーヒー試植地を視察したおりに、儀助は船浮湾を遠望した。
この湾内は軍艦でも停泊できる好錨地であるし、近くには優良な炭坑もあるので船の燃料にも不自由はしない。
惜しむらくはまわりが山ばかりで、集落がないことだ。
まごまごしていて外国にでも目をつけられたら、国防上も問題アリだから、ここはひとつ自分が島内をこまかく探検し、地理を把握して日本政府に報告しておこう。
ということで儀助が考えたのが、仲間川をさかのぼり、御座岳山頂を経由して、島の西側にある船浮湾へ抜けるコース。
舟を使って行けるところまで行けば、徒歩の区間はおそらく10キロぐらいだろう。

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そう考えて、視察のあい間にだれか探検に協力してくれる者はいないか、金はいくらでも出すぞと尋ねてまわったけど、だれもかれもマラリアに罹りに行くようなものだといって尻込みした。
県庁職員の後藤氏も、あなたはここ数日もうだいぶ疲労していますよ、そんな体で島の横断なんて無理ですという。
こういわれると儀助の浪花節精神がうずく。
キミのいうことはもっともだ。
しかしいかなる危険があろうとも、世のため人のため、日本帝国のために、たとえひとりであってもオレは行く。
あきらめたのか、あきれたのか、ついに後藤職員も、あなたがそれほどまでの覚悟ならわたしも命は惜しみますまい、あなたとともにどこまでもと、ここは浪花節兄弟ということになった。

まだパソコンもネットもない時代だから、儀助は出発のまえに地元の古老や猟師を集めていろいろ情報を収集した。
ベテラン猟師がいうには、いまだかってこの山脈を無事に越えた者はいない。
猟師は獲物を追って山に入るけど、せいぜい1キロか2キロ入るていどである。
まえに植物学者の田代安定、あとに県庁の役人だった田村熊治が挑戦したことがあるけど、とにかく道なき道で、田代さんは山を横断するのに3泊を要したばかりか、このときマラリアに感染して村に5、60日も滞在するはめになった。
そんなところだから、金をいくら積まれてもとても島の横断なんてする気にはなれない。
そこをなんとかと口説き落とし、儀助はようやく2人の案内人を確保した。

西表島の最高峰は古見岳で、これは標高が470メートル。
たいしたことがないと思う人がいるかもしれないけど、海からすぐに計った高さだし、まわりは亜熱帯のジャングルだから甘くはない。
御座岳はこれにつぐ高さで421メートル。
現代ではヒマラヤや、南米のギアナ高地でさえトレッキングツアーがあるくらいだから、西表島のこのふたつの山も征服してみたいという人は多いらしく、ガイドつきで比較的かんたんに登るツアーもあるようだ。

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儀助の旅は、奇しくも日本登山史に名をとどめる英国人ウエストンが、日本アルプスを探検しまくっていたころと重なるけど、そういうことはべつにして、まだ日本人が探検目的で山に登るのはめずらしい時代だった。
そこに山があるからなどと、道楽みたいな登山もあるはずがない。
現在のようにゴアテクスの合羽や、わたしの持っているL・L・Beanの登山靴のようなグッズのない時代である。
儀助のスタイルは合羽の代わりに油紙、足もとはワラ草履だったそうだ。
雨にそなえて西洋式のコウモリ傘を持っていったとあるけど、ナニ考えてんだろうね。
山中での食事に備えて、人数分の糧食と煮炊きするための用具、例によってコンデンスミルクなどを携えていた。

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儀助が島を横断するための探検に出発したのは、明治26年7月23日のことで、夏の暑さのまっ最中だった。
仲間村役場で一泊したあと、朝の7時に、彼は県庁の後藤職員と、ほか2名の案内人とともにサバニ(沖縄独特の丸木舟)を使って仲間川をさかのぼった。
川の両側には髭木という木が繁茂していたというけど、これはマングローブのことで、儀助にしてはめずらしく、ヒルギの実というのは中指ぐらいの大きさで、上下がとがり、落ちたあと流れに乗って適当な場所で繁殖すると、その生態についての講釈がある。
こういう記述がたくさんあると、ダーウィンみたいでおもしろいんだけど、儀助は博物学者ではなく、あくまで政府の視察官であるから、彼の関心事はべつのところにあった。
彼は周囲の観察に余念がなく、もしも有為な人物が相応の資本を投じ、マングローブを切り拓いてこのあたりに田畑を開発すれば、気候温暖なところだから二毛作もできるだろうし、そうやって住人が増えれば外敵に対する関門にもなるだろうと、経世済民について考えてしまう。
やっぱり彼は明治のひと。

サバニで2里ほど川をさかのぼったところで、浅瀬に舟をすて、歩くことにした。
舟の出発点が不明のため歩き始めた場所がわからないけど、2里という距離から考えて、おそらくいま仲間川展望台のあるあたりと思われる。
このあたりミヤケという地名になっていて、木材を切り出すための作業小屋がいくつかあった。
強欲を絵に描いたような琉球王朝時代の村長は、自宅を新築するときとうぜんのように村人を夫役にかり出していて、この小屋はそういうときに作業員が寝泊まりするためのものだったけど、このときはだれもいなかった。
ここまで仲間村から1里半で、御座岳の山頂までさらに1里半の行程である。

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藪をかきわけ、昼なお暗い樹木の下をゆく。
上からぼたぼたとヤマビルが落ちてくる。
立ち止まってこれを叩き落せば、今度は新手がむずむずと足もとからよじのぼってくる。
こいつの対策としてはタバコがいいそうだ。
ケチケチ旅行で有名な下川裕治サンは、朝日新聞の仕事でネパールに行って、盛大にヤマビルに襲われたけど、タバコの火を押しつけるとポロリと落ちたという。
儀助がタバコを吸ったかどうかはわからない。

ヒルというのは医学のほうで使い道があるので、気色わるいことばかりではない。
うっ血した部位の血を吸い出したり、天然の抗凝血物質を分泌して損傷した組織への血行を改善するというので、北米では医療用ヒルが1匹10ドルくらいで売れるという。
で、こいつを大量に密輸しようとして、空港で見つかった男がいるということが、まだそれほどむかしではないナショナルジオグラフィックに書いてあった。
空港職員も荷物を開封してさぞかし驚いたことだろう。

儀助たちは竹藪に飛び込んでようやくヤマビルの襲撃をのがれた。
この竹藪は赤茶色の光沢のあるめずらしい美竹で、それが御座岳の山頂ふきんに繁茂していたというから、つねにそういう竹を探している熊本の篠笛作家のKさんに教えてやらなくちゃ。

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昼の12時、御座岳の山頂に着いた。
ここからの展望では、東に仲間湾、西に船浮湾、北には西表島の最高峰、古見岳が見え、消えかかっていたものの、ここまでかろうじて人の歩いた跡がついていたという。
御座岳は現代ではそれほど困難ではないトレッキングコースになっているから、とちゅうの山道や山頂からの写真もかんたんに見つかるだろうと思ったら、意外とそうではない。
九州の最高峰がある屋久島なんかに比べると、いまいち魅力がないのかもしれない。

山頂で昼飯を食ってただちに下山を開始。
ながめた景色からおおよその見当をつけて歩き出したものの、また森林に入り込み、なにがなんだかわからなくなって絶壁の上に出てしまった。
崖のへりを行ったり来たりしたものの、これを乗り越える道が見つからず、やむを得ずして別の方向から谷底に下りた。
山で道に迷った場合は尾根を歩くのが鉄則だけど、その禁を破ったわけで、西表というそれほど大きくない山塊だからよかったものの、北アルプスだったら彼ら全員が遭難していたかもしれない。
谷川にそって進むとまたヤマビルに襲われるし、杖代わりにしていたコウモリ傘は、とっくに骨だけのホウキのようになっていた。

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のどの渇きに迫られたけど、谷川の水はどこまで行っても赤茶色に濁っていて、とても飲みそうになかった。
ヤケになった儀助は、オレは毒の有無を調べるための実験台になる、もしも飲んで死んだら献体をして、日本の医学のために役立ててほしいと宣言して、あとはもうヤケッパチ、手ですくって牛飲したそうだ。
牛飲というのは牛のようにガブガブ飲むということで、このくらいの根性がないと秘境で行きづまったとき生き延びることはできないのだ。

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べつに腹下しにもならず、ときどき木に登って方向を確認しながら、前進を続けた。
この辺には陸棲のカメが多かったという。
20センチぐらいの大きさというから、現在では天然記念物のセマルハコガメだろう、
去年の暮れに西表島に行ったときは、その数が減っているのが気になった。
以前西表の船浮に行ったときは、民家の庭で朝早くイヌの餌を横取りしていたのをよく見かけたのに、去年の暮れに行ったときは1匹も見なかった。
11月のある日を見ただけだから、激減したとはいいきれないけど、最近はYouTubeでカメやヘビを飼って、その映像で稼ごうという人が多いからちと心配だ。
カメくらい密猟が楽な動物はいないのである。
毒や牙をもつタイプはめったにいないし、捉まえるのも簡単だし、濡れたタオルか何かでくるんでおけば、バッグの底でおいそれと死ぬ心配もないし、鳴くわけでもないし、暴れるわけでもない。
ひょっとすると本土から、プロ、アマを問わず、密猟業者が乗り込んでいる可能性がある。

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午後4時になった。
このころには全員がなんどか転倒して、手足にスリ傷をつくったり、足の爪を失ったりしていて、もう歩けねえと悲鳴を上げるのを、儀助は冗談をいって励ます。
またかすかな人の歩行跡を発見していくらか安堵したころ、ようやく中良川(現在の仲良川)の水源に到達した。
もう日が暮れていたからこのあたりで夕食にすることにして、荷物をといてみたら、陶器製の釜が粉々になっていて、これではご飯を炊くこともできない。
ここでも儀助は強引というか、ヤケッパチというか、なんの、米を水にひたして生で食べ、あとで焚火にあたれば腹のなかでご飯になるさ、イノシシ肉もあるし醤油もある、飢え死にするほうがむずかしいと全員を叱咤する。
もっとも彼はこのとき虫歯が痛んで、コンデンスミルクひと缶だけで食事をすませたそうだ。
そしてやっぱりヤマビルに盛大に襲われて、安眠するどころじゃなかったそうだ。

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朝の5時、夜営地を出発。
中良川にそって下ると、川岸に水田が見えてきた。
このあたりに住んでいる農民がいるわけではなく、やはりべつの島からの通い農民の田んぼだった。
わらじもどこかに飛んで、泥だらけの裸足になりながら歩き続けると、ようやくたまたま舟で川を上ってきた農民に出会った。
儀助はタフだけど、スーパーマンではない。
ああ、殺す神あれば助くる神もある、天はわれを見捨てずと、あいかわらず歌舞伎役者か浪花節である。
内務大臣の秘書待遇をふりまわして、この舟を強引に借り上げ、儀助はようやく祖納の役場にもどった。

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2022年6月24日 (金)

沖縄/密林のはざま

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ようやく雨が止んだので、儀助たちは南風見村からふたたび仲間村にもどった。
まえにキナ丸を与えた老夫婦に会うと、あまり薬に縁のない人々だから予想以上に効き目があったようで、病気が回復しましたと嬉しそう。
ただ中央から来た役人からじきじきに薬をもらったことについて、地元の役人をはばかる口調だったという。

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仲間村はなにもないところだけど、現代では仲間川の河口からクルーズ船が出ていて、両岸に生い茂るマングローブを眺めながら、上流にある天然記念物のサキシマスオウノキを見物に行くことができる。
西表島では浦内川のクルーズも知られていて、こちらは船の終点からその先のふたつの滝まで、山道をけっこう歩くことになるので、足の弱い年寄りや幼児を連れた家族などは仲間川クルーズのほうが楽である。
ここではわたしか体験した仲間川クルーズの写真をすこし。

儀助たちは仲間村では役場の建物に泊まることになった。
ここは村のなかのよさそうな家を貸間として利用していただけで、竹で作られた床にゴザを敷き、戸板は立てかけてあるだけ、それをロープで縛ってあったというから、あまり上等な家ではなさそうだ。
となりの部屋におばあさんが2人いて、3匹のイヌといっしょに暮していた。
晩飯のとき儀助は彼らの食事のようすを観察してみた。
主食はサツマイモで、イモの本体を人間が食べ、イヌにはむいた皮を与える。
最後にあまったものは人間とイヌが仲良く分け合っていたというから、明治時代のイヌの食生活がうかがえる。
ネコも当時はご飯にみそ汁をぶっかけた猫マンマで文句をいわなかったから、このころの犬猫は身のほどをわきまえていたようだ。

儀助たちが食事をすると、イヌは土足でゴザの上に上がってきて尻尾をふった。
八重山では人間も土足で部屋を歩きまわるのがフツーだったから、儀助は文句もいわずにイヌの目のまえで玉子かけご飯を食べた。
たぶん黙々と。
憮然として。
このイヌはペットではなく、イノシシを追い払うためのもので、どんな貧しい家でも3匹~6匹は飼っていたそうである。
孔子の言葉に“苛酷な政治は虎よりひどい”というものがあるけど、八重山ではイノシシの害が苛酷な政治よりさらにひどかったのだ。

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この家で儀助は琉球式の雪隠(トイレ)について、よほど感動したのか、詳しく書いている。
その構造は、丈が4尺、巾が3尺、萱で囲いが作ってあり、敷板は2、3寸の丸太だったという。
あまり詳しい説明はしたくないけど、ウンコを落とす穴は3寸(10センチほど)4方ぐらいの穴で、オシッコはそのまま丸太のあいだに流すとか。
慣れれば簡単でいいとはいうものの、周囲の萱が生い茂って大蛇の巣窟みたいだなと儀助は思う。
たまたまこのとき彼は下痢ぎみで、夜中にトイレに行かざるを得なかった。
雨が降ったり止んだりしていたので、まっ暗ななかを傘をさして出かけていき、トイレでうーんと力んでいると、何物かが彼の尻をぺろりとなめた。
うわあ、出たあ。
てっきり毒蛇でもあるか、志しはまだ道半ばであるのに、オレはついにこんなところで果てるのか(儀助はときどきオーバーな言い方をする)。
ところがこれはトイレの下で飼われていたブタの仕業だった。
沖縄では農家がみんなブタを飼っていることはすでに書いた。
ブタは人間が落としたものをよろこんで食べ、人間はそのブタを食べる。
べつにめずらしくない。
わたしはロシアの農村で、やはり下がブタ小屋になっているトイレを見たことがある。
便秘になったらブタに気のドクだなと、儀助はいらん心配をしていた。

このあと儀助はガイドを仕立てて、仲間川から御座岳を経由し、西表島を縦断することになるけど、それは次項にゆずって、ここでは縦断したあとの彼の足跡をたどることにしよう。

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島を縦断して、儀助はようやく出発地点の租納に帰りついた。
租納でまた村のつまらない経済白書を点検したあと、翌日、彼は内離(うちばなり)島にある三井炭鉱の視察をする。
儀助が旅をしたころ、ここには成屋村という村があり、大正年間に廃村になったというから、衛星写真に痕跡が残ってないか探してみた。
写真の◯印の中に畑の跡のようなものが写っていて、東の方角に租納村が見えたという位置的にも合致するから、これがそうらしい。
すぐ上の3番目の写真は、白浜港から眺めた現在の内離島だ。

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現在、内離島には連絡船がないから、一般の観光客がここへ渡ることはできない。
しかし最近ではシーカヤックやカヌーによるアクティビティがたくさんあるので、観光客が内離島や外離島などの離島はもちろん、西表島を一周してしまうことも可能なようだ。
え、わたし?
カヤックなら前々からいちどやってみたいと思っているんだけど、じいさんがやるものじゃないから一度もやったことがないワ。

西表島は石炭の島である。
儀助が島を縦断中にも、あちこちに露出した石炭の鉱脈を見たという記述がある。
石炭というのは数千万年から数億年まえの植物が地中に埋もれて出来たということを、これは小、中学のころ教わったから、ということは西表島はそんなむかしからそこにあったということになるのか。
これは思索に値するけど、わたしの手に負えない科学の専門分野のようなので割愛。

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成屋村には三井炭鉱の第1鉱区があった。
まだ汽車も船も石炭で走っていたころだから、燃料を産出する西表島は貴重な島だった。
儀助はここの事務所で、三井の代理人である三谷なにがしから、創業以来の沿革や経営状況についていろいろ説明を聞く。
じつは彼が訪問したころ、すでに炭鉱経営は山に乗り上げていた。

この島の石炭層はいちばん厚いところで4尺2寸(130センチほど)、それ以外でも3尺2寸を下らなかったという。
そんなことを聞いても素人にはわからないけど、島全体では埋蔵量は300万トン以上あり、さらに掘り進めれば下のほうにはもっと優良な鉱脈が埋蔵されている可能性があって、ほとんど無尽蔵だったという。
産出した石炭は中国の福建省、アモイ、香港などでも販売されていた。
三井財閥が乗り出したくらいだから、まあ、優良な炭田だったのではないか。

経営状態を尋ねると、ある年の経費が3100円あまりで、販売実績は2402円だったそうだ。
これでは赤字である。
このあとに経費の内訳があって、鉱夫として現地の沖縄県民以外に、仮監獄を作って懲役人を150人ぐらい使っていたらしい。
囚人まで労働にかり出すのはひどいかも知れないけど、そんなことはたいていの国がやっていた。
ジャニス・ジョプリンの歌で知られる「ボール・アンド・チェン」という曲は、米国の囚人労働を歌っているし、「レ・ミゼラブル」でジャン・バルジャンは、囚人として使役されているとき海に飛び込んで脱走しているのだ。
しかしここも例のとおりマラリアで死ぬ人間があとを絶たず、3年間で100名以上の鉱夫が失われた。
儀助が視察したころ、炭鉱は経営不振で閉山の決定が出されたばかりだったのだ。

炭鉱の歴史というのは日本経済の変転をよく物語っている。
戦後になってエネルギー政策の変更があり、石炭が石油にとって変わられると、炭鉱の閉山が相次いだ。
九州の筑豊、三池炭鉱、北海道の夕張炭鉱などなど、それまで基幹産業だった炭鉱の閉鎖は社会的にも大きな問題になった。
五木寛之の「青春の門」や、映画「にあんちゃん」などに、当時の炭鉱町のようすが描かれている。

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連絡船がない内離島に比べると、西表島の炭鉱のうち一般観光客がもっとも簡単に見学できるのが、浦内川のクルーズ船の発着場から1キロほど入ったところにあるウタラ炭鉱跡だ。
炭鉱というとどうしても非人道的で過酷なイメージがついてまわるけど、この炭鉱は、少なくとも開業当初は文明的なものだったようだ。
経営者の野田小一郎社長は、劣悪な条件の改善を進めていた。
十数万円の費用をかけて総2階建て400名収容の独身寮や、十数戸の夫婦用宿舎、売店などの各種設備が備わり、労働者の娯楽のため300名を収容できる集会場では、芝居の上演や映画の上映が行われた。
注目すべきは、衛生状態を改善するため住居にガラス窓が多用され、上下水道や防蚊装置、大浴場、診療室が整備されていたことである。
おかげでマラリアの罹患率は、西表島の炭鉱の中でも抜きん出て低かったそうだ。
どうやらウタラ炭坑は例外的に文明的・模範的な炭鉱だったらしい。
長崎の軍艦島も厚生施設の完備した炭鉱で、韓国の坑夫たちはいい給料にひかれてやってきた者がほとんどであることがわかっている。

しかし太平洋戦争の勃発で、ウタラ炭鉱も採掘が立ち行かなくなり、昭和18年(1943)に閉山になった。
いま建物はほとんど残っていないけど、レンガの柱にまきついたガジュマルの根が、アンコールワットの廃墟のようで一見の価値はある。
わたしがここへ行ったときは、廃墟にビール瓶が散乱しているのを見たけど、あれは閉山でヤケッパチになった坑夫たちが、最後の宴会でもしたのかしら。

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西表島の炭鉱については、台湾人の坑夫に焦点をあてた「緑の牢獄」というドキュメンタリー映画がある(そうである=わたしは観ていないのだ)。
台湾の監督が作った2021年の映画だから、公開されてからまだ1年ほどの映画だ。
この島で台湾の坑夫がひじょうに過酷な労働に従事させられたというんだけど、なんだか韓国人が騒いでいる軍艦島みたいである。
ネットで“西表島”、“炭坑”で検索してみると、たしかに過酷な条件で働かされたようなことが書いてある。
しかしわたしみたいな怠け者にいわせれば、戦前は農民にせよ、駕籠かき人夫にせよ、吉原の娼婦にせよ、過酷でない仕事なんかほとんどなかった。
日本人としては慰安婦問題のように、話が勝手にひとり歩きされては困るので、強者が弱者を食いものにする歴史のひとつであり、人類共通の宿痾と考えてほしいといっておく。
現在の日本では、タコ部屋は労働基準法で禁止されている。

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西表島の炭鉱について調べていたら、「監獄部屋」という本がそれに触れているというので、例によって図書館で借りてきて読んでみた。
推理小説全集に入っていたくらいだから、歴史や思想的なものもあるわけじゃないし、ただ読者をひっかけるためのアイディアを優先させた短編小説で、無理に読むことを勧めはしない。

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2022年6月 8日 (水)

沖縄/南風見

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儀助たちは仲間村から、南風見(はえみ)村に移動した。
現在の西表島は、おおざっぱにいうと、島の東半分だけに道路があって、それは北と南でぷっつんと途切れている。
南のぷっつんにあったのが南風見村(現在は竹富町の一部になっていて “村”はつかない)である。
仲間村から南風見村に行くためには仲間川を渡らなければならないけど、ここはサバニで渡ったというから、西表島で2番目の大河であるこの川にはまだ橋がなかったようだ。

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現在の南風見には「ラ・ティーダ西表」というホテルがある。
高級の部類なので泊まったことはないけれど、建物のまえまでならわたしも行ったことがある。
本館は映画にでも出てきそうな南欧ふうの建物で、これ以外にコテージふうの別館がある。
しかしホテルの宣伝をしても1円ももらえるわけではないから、ま近に見た現実は宣伝写真のようではないとだけいっておく。

儀助のやってきた南風見村の戸数は9軒、人口は29人で、ほかに新城、黒島などから開墾のために送り込まれた農民が数十人合宿していた。
こんなふうによそから送り込まれた人のことを、八重山では「寄せ人」といったそうだけど、彼らはたちまち正面からマラリアに攻められ、背後からは過酷な年貢米(人頭税)に追い立てられていた。
儀助が視察したとき、寄せ人たちは風雨のため舟が出せず、食料が尽き、飢え死の直前だったという。
広い日本にこんな不遇な人々がいることを、ああ、政治家は知っているのかと、儀助はまた歌舞伎役者みたいにおおげさになげく。
寄せ人の運命がその後どうなったか知らないけど、大臣の秘書待遇の儀助がそれなりの手当てをしたのではないか。

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儀助の旅よりずっとあとになるけど、このあたりにはもうひとつ悲惨な歴史があった。
太平洋戦争の末期、波照間島の島民1590人が日本軍によって西表島に移住を命じられたのだ。
西表島はマラリアが猖獗をきわめる土地だということを知っていた島民は、抵抗したものの、抜刀して脅迫する軍人に逆らうことはできず、最終的には移住させられた島民の3分の1ちかくが、この病気で亡くなったという。
南風見村近くの海岸に「忘勿石(ワスレナイシ)」と命名された岩がある。
これは移住命令を解除してもらおうと、石垣島の師団長に直訴をした、波照間国民学校の識名信升校長が、悲劇を忘れないようにと文字を彫りつけた岩のことだ。
この写真は忘勿石と、そのすぐ近くに作られた記念碑で、天気のいい日にこの岩のある海岸から、彼らの故郷の島は正面に見える。

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儀助のころは南風見村でぷっつんだった道路は、現在では農道がもうすこし先まで伸びていて、サトウキビ畑や牧草地のある農地を抜けると、行き止まりが南風見田キャンプ場だ。
キャンプ場のまえの海岸はこんな感じで、沖に珊瑚礁のリーフが防波堤のように連なり、東家とシャワーがひとつだけという天然のままの海水浴場である。
シーズンオフは人っ子ひとりいない、カニとたわむるだけの、孤独な詩人にふさわしい海岸になってしまう。

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わたしは8年まえにこの海岸をぶらついたことがあって、そのとき海岸の岩場に大地が煮えくり返ったような地形があるのを見た。
波打ちぎわにあるのだから、ジュラ紀、白亜紀ほどむかしの地形なら波の浸食ですぐに消えてしまうだろう。
噴火のあと溶岩がそのまま冷えて固まったように見えたから、地質学的に比較的最近、西表島で火山の噴火があっただろうかと考えてしまった。
大津波ならあった。
沖縄は地震と無縁のような気がしてしまうけど、八重山も過去に何度か震災に見舞われていて、とくに昭和8年(1933)の地震と大津波では、1万2千人もの死者を出している。
やはり地震列島では、どこへ行っても福島の教訓を忘れるべきではないようだ。

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儀助は雨に降りこめられて、南風見村の総代の家に釘づけになってしまった。
この村に本土語を話す者はいなかったので、ヒマつぶしに民家にめずらしい品物や古書類でもあれば調べてみようと考えたけれど、価値のありそうなものはみんな以前の役人が持ち帰ったという。
それでも古い文書がわずかに残っていたので、それをチェックしてみた。
樹木の調査帳だとか、農産物の生産表、物品輸出入の代価覚書などで、そんなものをここで紹介しても退屈なだけなんだけど、なにかおもしろいことが書いてないかと、わたしもざっと目を通してみた。

樹木の調査帳に出てくる樹木の名前は、以前この紀行記の「国頭」の項で書いたものと重複するものが多い。
後注を読んてみたら、「国頭」のときの後注も参考にしろと書いてあったから、前にもどってそっちも参考にした。
めんどくさい本である。

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黒木は黒檀の1種で、1尺以上の太さのものが島内に500本、赤木はサトウキビを絞るときの圧搾車の台に使う木材で、4尺以上のものが島内に200本と、現代のわたしたちにはどうでもいいようなことばかりだ。
飢饉のときなどに食べる救荒植物として、方言のカタカナ名前の植物が出ていたけど、わかったのはソデツ(ソテツ)とアタン(アダン)くらい。
アダンは沖縄ではそのへんに適当に生えている植物の実で、かたちはパイナップルに似ているものの、これを食べるのはヤシガニくらいだ。
サルムシルはオオタニワタリのことだそうで、このシダ植物の新芽は、西表ではラーメンの薬味に使われるけど、ネギに親しんだわたしには、あまり薬味らしくなかった。

すこし古いけど明治18年の輸出物品の代価表というものがあって、輸出品は海人草が170斤で米2俵2斗あまりに、山藍400斤がやはり2俵2斗に値したとある。
輸入品のほうでは、砂糖が7斤で米1斗4升に値したという。
まだこのころ西表島では砂糖は外から輸入していたらしく、こんなにサトウキビの栽培に向いた土地なのにと、儀助は残念がる。
家庭用品もみんな輸入品で、夜食用のお膳や、すり鉢10個、安物の壺10個なんてのもあった。
家畜の牛も輸入されていて、雄牛のほうが高いところをみると、これは食用ではなく農耕用だろう。
とくに書いてないけど、亜熱帯で使役するのだから水牛だったかも知れない。

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当時は本土でもまだ税金を、米や穀物などの作物で物納するのがフツーの時代だったから、だれが作物をどのくらい納めたか、いちいち現物を役所に持ち込まなくてもすむように、板の札や縄をひねった符丁のようなものを作っておいて換算の目安にした。
ここに載せたのが「板札の図」と「藁(ワラ)算の図」というその符丁で、笹森儀助の本ではめずらしく図が載っていたから、参考のために載せておく。
板札のほうはたんなる◯や△の記号に過ぎなかったから、わたしがフォトショップを使って同じものをこしらえ、藁算のほうは本からコピーした。

この符丁を使って、たとえば米1石は大縄1本、1俵は結び目をつけた小縄、1斗は結び目がないもの、1升はこれこれという具合に、納税した穀物量を記録したのである。
じっさいの使用では役人の裁量がかかわって、かなりいいかげんだったらしい。
わたしが少年のころ、初めて免許証を受け取りに行ったら、警察署の待合室に年寄りがたむろしていて、むかしは免許証なんて木の鑑札だったよなんて話をしていたっけ。

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当時の本土と沖縄の貨幣価値の違いについても記述があり、沖縄の500文は本土の1銭、5貫文は本土の10銭という具合である。
ここに八重山の方言で「トナー」という言葉が出てきた。
これは“十縄”という意味で、まえにこの紀行記で紹介した、鳩目銭という安っぽい銅銭1貫目を、縄に通したものが10本という意味である。
1貫は3,97キロだから、トナーというと40キロ近い重さの銅銭ということになり、こんなものをかついで市場へ買い出しに行くのは大変だ。
もっとも家や土地を買う場合以外に、そんな大金が動くことはなかっただろう。

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儀助の本のもうひとつの図は、ウシが迷子になったときすぐ持ち主がわかるように、ウシにつけた目印だそうだ。
しかしウシの足型でもなさそうだし、耳を切ったと書いてあっても切り口の図とも思えない。
アメリカなら焼き印だし、最近の日本はマイクロチップを埋め込む時代なので、こんなものに頭を使っても仕方がないから、図だけを紹介して、いったいなんの図なのかということははしょることにした。

どうでもいい書類はこのほかに、雨乞いの通知状なんてものもあり、これはその最中の衣服の決まりや、殺生、家の建築・修繕を禁ずるというお達しで、違反した者は禁固刑や罰金が科せられたという。
しかし役人に酒や豚肉の饗応をして、それを逃れる者もいたらしく、わが日本帝国にそんないいかげんな法があっていいのかと、まじめでカタブツの儀助は手きびしい。

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米国の18代大統領だったグラント将軍は、南北戦争の北軍の英雄で、その勢いで大統領までのぼりつめた人だけど、米国の大統領としては、汚職やスキャンダルまみれで、ロクでもないほうの代表だったといわれている。
それでも好奇心に富んだ人で、退任したあと世界を見てまわった。
彼は中国でイスラム教徒(回族)が豚肉を食うのを見て仰天した、ということが邱永漢さんの本に書いてあった。
そんな彼が来日したおり(1879)に、日本には極端な金持ちがいないかわり極端な貧乏人もいない、なかなか公平な国だと誉めたそうである。
日本は当時から格差の少ない国で、アメリカは当時から格差のある国だったわけで、沖縄を視察してきた儀助は、国民のあいだの不公平を放っておけば、やがては日本でも貧乏人が増え、虚無党や社会主義者も増えるだろうとクールだ。

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このときの雨はだいぶ激しいものだったようで、翌日も儀助は総代の家に釘づけだった。
腹がへったねとぼやくと、総代の家の主人が、んじゃイノシシでも獲ってくるべと、槍を持ち、イヌを連れて出かけていった。
なんだか山の中へ山菜でも摘みに行くような案配だったから、儀助がいぶかしんでいると、主人はたちまち獲物を捕まえてもどってきた。
いかに西表島にイノシシが繁殖していたかわかるというものだと、これは儀助の感想である。
わたしは去年の11月に、船浮の民宿でイノシシ肉のスライスをご馳走になったので、そのときの写真をもういちど。

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2022年5月26日 (木)

沖縄/珊瑚と疫病

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西表島に到着した翌々日、儀助は県庁職員の後藤なにがしとともに鳩間島に渡った。
ご覧の地図が鳩間島で、西表島の上原港から5キロほど沖にあり、朝の8時にサバニで出発して、1時間半で到着したという。
とちゅうで刈り取った稲を山のように積んだ船をいくつも見た。
あれはなにをしてるんだいと後藤職員に尋ねると、鳩間島は珊瑚礁の島なのでマラリアがありません。
島民は水の豊富な西表島で稲作をし、収穫した稲をわざわざ鳩間島へ運ぶのです。
このへんは人頭税なので、田んぼがあろうがなかろうが、15歳以上のおとなは決められた量の年貢米を納めなけりゃなりませんからね。
八重山では西表島まで通勤で農業をしている島民は多いですよとのこと。

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わたしは初めて西表島に行った1983年に、この島をま近に見て、珊瑚礁の島というのは、天候次第でぜんぜんべつの風景になってしまうものだということを痛感した。
そのときは晴天で、コバルトブルーの海の中心にぽっかり浮かんだ鳩間島は、まるで化粧品会社のポスターのように美しく見えたのである。
その後西表に行くたび、鳩間島を見られるようできるだけ上原航路で行くことにしてるんだけど、なかなか好天にぶつからず、島がそんな美しく見えたことがいちどもない。

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鳩間島のついでに、この島の近くにあるふたつのダイビングポイントを紹介してしまう。
ひとつは鳩離(はとばなり)島という小さな無人島で、この海域でダイビングをすると、よくこの島に上陸して昼メシにすることがあるので、知っている人がいるかも。
もうひとつはバラス島といって、これは草ひとつ生えていない完璧に砂だけの島である。
海の上から見ると砂だけでも、このあたりの海底はサンゴやソフトコーラルの花畑で、ひじょうに美しい。
4枚組の写真はこの海域でダイビングをした1983年のもの。
そんな私的な写真を載せるなという人もいるかもしれないけど、これはわたしの私的なブログであることをお忘れなく。
わたしにとってはかけがえのない思い出なのだ。

儀助が旅をしたころの鳩間島の人口は173人というから、西表島の全人口1,214人に比べても、小さい島の割には多いほうだった。
マラリアがないだけでこれだけ違うのだ。
ここで1時間半ほど聞きとり調査したあと、午後から海が荒れるといわれ、儀助は大急ぎで帰途についた。
油紙の合羽をひっかぶった儀助は、荒天の海でびしょぬれになり、それでもなんとか無事に上原港へ舞いもどった。
下の写真は上原港で、ここから上陸すると目の前に数軒の民宿がある。
ハイシーズン以外は、主人が副業(本業?)をしていて、宿のほうは留守のことが多いから、飛び込み客は注意が必要だ。

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わたしはここで「カンピラ荘」という民宿に2度ほど泊まっている。
この宿はまじめに営業していて、主人が留守ということはないから、シーズンオフでも安心して泊まることができる。
そして現代的に清潔でもある。
儀助が泊まった上原村の役場は、わりあいいい感じの建物だったけど、ノミやダニがいて、彼はそれに食われ、カユイカユイとぼやきながらの旅だった。

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儀助は視察のため島の東部に向かい、夕方の5時に高那村に着いた。
高那村というのは、かって西表でゆいいつの温泉を売り物にしていたホテル・パイヌマヤ(南のネコという意味だそうだ)があったあたりである。
このホテルはジャングルのなかのようなユニークな環境にあって、わたしもいちどは泊まってみたいと思っているんだけど、西表では高級なほうの部類なので、まだ泊まったことはない。
県道からこのホテルに入るかどに染色の店があって、魅力的な女性が働いていたということはどこかで書いた。
そんなことはどうでもいいんだけど、去年の11月に寄ってみたら、コロナのせいで店は営業してなかった。

高那村は戸数13、人口41人の貧しい村で、それでも役場の支所があり、こういうところにはかならず女性の小間使いが働いていた。
全体に島内に女性の少ないところだから、これも女性の雇用機会均等法のせいかしらと、明治時代に儀助がそう思ったかどうか、たぶん思わなかっただろうな。
どうしてよそから嫁をとらないのと訊くと、ここは疫病の島だからだれも来たがりませんとのこと。
儀助が見てまわると、マラリアのせいでこの村の西南に、やはり住人の死に絶えた廃屋が数軒あった。

そんな悲惨な村で儀助はまたケシカラン徴税の仕組みを聞いた。
ここでは正規の年貢米以外に、村民は運賃米という役人へのワイロに相当する米まで納めさせられていて、儀助の記述では、そのために男は生涯耕作してもサトイモしか食えず、女は生涯反物を織ってもボロをまとうしかなかったとある。
明治政府は種々の改革を断行し、これは当時のよその国の政治と比較してもよくやっているほうだったけど、現場ではまだ不正がまかり通っていたのだ。
なんとかしなくちゃいけないと、儀助はしっかりチクリ帳(報告書)に書いた。
彼の報告が功を奏したのか、儀助の旅の10年後に新税法が施行されて、島民はやっとこの仕組みから解放された。

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高那村のあたりでヨナラという地名が出てきた。
儀助に同行している後藤職員は、以前に小笠原で製塩業を経営した経験があり、ここは塩田にするのにふさわしいところですねという。
それはたぶん地図上のウ離島とのあいだあたりのことで、3千円ほどの資金を投じるだけで、150町ぐらいの塩田が拓けそうですという。
しかし儀助は投機や経営に興味がなかったらしく、そのまま通り過ぎた。
夏目漱石もそうだったけど、明治時代の日本人には金儲けをいやしむ風潮が残っていて、弘前藩士の末裔である儀助もそういうタイプだったのかも知れない。
現在のダイビングをする若者には、西表と小浜島とのあいだの「ヨナラ水道」は、マンタの出るところとして有名である。

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高那村で一泊したあと、儀助たちは雨のなかを出発し、野原村を経由して古見村へ向かった。
古見村は租納以前に島の行政の中心だったところで、前良(マエラ)川、後良(クシラ)川という二つの川にはさまれた場所にあり、康熙54年(1715)製という石造りの立派な橋がかかっていたという。
康熙というのは中国の元号だから、そのころの西表島も琉球王朝のもとで、あっちについたりこっちについたりしていたらしい。

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島の中心だったころは人口700名以上の大きな村だったのに、儀助が行ったころは140人ほどに減っていた。
村の村長は相撲取りみたいに太っていて、重ね芭蕉布に支那錦の帯をしめた豪華な礼装で儀助を迎えた。
なかなか学のある人間で、本土語(大和語)を話すことができて、八重山ではいちばん上等な役人に見えたという。
島民の悲惨な境遇を聞いていた儀助は、なぜこの村では人口が減り続けるのか、どうして貧しい島民のために働かないのかと村長に問い正した。
わたしは給料をもらって家族を養っているだけで、島民を増やす方法なんて知りませんと、村長はしゃあしゃあとして答えた。
笹森はおおいにいきどおってまたチクリ帳に書く。
その後村長がクビになったかどうかはわからない。

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古見村ではサトウキビと山藍、牧場の家畜などの経済調書もあらためた。
ウシの数では、オス牛が89頭いるのにメス牛が26頭しかいないことに気がついた。
ウシを増やしたいならメス牛のほうが多くなければならない。
現在でもそうだけど、八重山のウシは高級牛として知られていたので、どうしてこれをもっと増やして、島民の家計の足しにしないのかと尋ねてみた。
後藤職員にいわせると、県営牧場の主任は安全な島にいて、風土病がコワイものだから西表島まで来ません。
ほかにも一種のカルテルのようなものがあって、沖縄本島や石垣島の牧場主は、西表の島民が自主的にウシを飼うのをこころよく思ってませんのでという。
つねに庶民の味方である儀助は、不合理なことだと考える。

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古見村についてさらに調べてみると、以前は存在していた学校も廃止、病院は祖納にあったけど、ここも医師がいなくて廃院になり、あとは年に1回、医師の巡回があるかどうかだという。
これじゃ隔離島じゃないかと儀助の顔はくもる。
古見村の近くの村では、人口は男4人、女5人の都合9人で、そのうちの4人はよその島から強制的に移住をさせられた者だった。
15歳以下の子供はひとりもいなかったから、少子高齢化どころじゃない、この調子では村の消滅は確実だと儀助は思う。

翌日は小浜島に渡ろうとして、風雨のため断念し、島の南東部にある仲間村に向かった。
仲間村は仲間川の河口にあって、河口の対岸には、石垣島からの連絡船が着く大原港がある。
冬は海が荒れるので、連絡船は上原よりこっちに着く場合が多い。

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わたしは去年の11月にこの村にある「花ずみ」というカフェで食事をした。
小さい店だったけど、店内に芭蕉布や民芸品が展示してあって、凝った造りが興味深かった。
料理のほうはチャーハンで、挽肉の入った料理はわたしはニガ手である。

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この村は東、西、南を川と海にかこまれていて、往年の屋敷跡が多数あった。
琉球王朝はマラリアの恐ろしさに無知で、新城島や黒島など、近くの島から移民をつぎつぎと送り込んだから、ここも一時はにぎわったらしかった。
屋敷跡はそのころのもので、そしてやはりマラリアで荒廃したのである。

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村役場で病人はいないのかと訊くと、例によってイマセンという。
本当かいと、一軒ずつ当たってみたら、寝たきりの老人のいる家があった。
看病をしていたおばあさんにキナ丸を与えると、ふたりは手を合わせて儀助を拝んだ。
とにかくマラリアの猛威はすさまじい。
仲間村の近くに耕地に向いた草原があって、1年ほどまえに屈強の農夫15人で開墾を始めたところ、たちまち全員がマラリアで倒れ、事業は中止になってしまった。
西表には炭坑が多く、三井財閥のような大手の資本も入ったことがある。
坑夫として、囚人も含めた300人もの人間が送り込まれたこともあるけれど、ここもつぎからつぎへと風土病に倒れて、事業は中止のやむなきに至った。
ビキニの姉ちゃんたちがキャアキャアと遊びたわむれる現在の西表島とは、想像もできない時代のことである。

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2022年5月15日 (日)

沖縄/マングローブの森

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西表島で浦内川の遊覧船に乗ると、まわりは亜熱帯のジャングルで、日本のほかの土地ではあまり見られないめずらしい景色をながめることができる。
山歩きの好きなわたしが、終点から出発点まで歩いて帰って来れませんかと聞いてみたら、登山のフル装備で3日かかりますといわれたことがある。
これは観光客にむやみに山歩きをされないよう、オーバーなことをいわれたらしいけど、笹森儀助の旅を読み進んでいくと、彼の西表島ジャングル・トレッキングが出てくるから、どんなものかはそちらを参考にしてもらいたい(このブログにもそのうち出てきます)。

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遊覧船から注意していると、とちゅう河岸の藪が途切れて、上陸する桟橋の痕跡らしきものがあるのに気がつく。
これはかってそこにあった小さな部落の入口だ。
この部落は住人のほとんどがマラリアに冒されて、残る者がひとりもいなくなり、ついに廃村になってしまったのである。
かっての西表島はそれほど怖るべき瘴癘の島であった。

どうしてそんなにマラリアが、いや、それを媒介する蚊が多かったのだろう。
気温が蚊の発生にふさわしかったことに加えて、この島は竹富島や宮古島のように珊瑚礁で出来たものではなく、山あり谷ありで、おまけに雨も多く、しぜん水たまりもたくさんあって、蚊にとっては天国みたいなところだったせいだ(蚊はシベリアでも有名だけど、マラリア原虫は寒いところが苦手だから、被害はそれほどでもない)。
この紀行記に出てきた田代安定や西常央などもそんな風土病の被害者だった。
彼らは研究や視察にやってきて、蚊にくわれ、おお、カユイカユイといってるときには、すでに体内にマラリア原虫が入り込んでいたのである。
まだキニーネという特効薬が知られてなかった時代、この病気は西表でいくつもの村を廃墟にするほど猛威をふるっていた。

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7月15日の朝、笹森儀助は役所の職員を案内に立てて、石垣島から西表島へ向かった。
本には伝馬船を使ってとあるけど、ふつう伝馬船というのはオールや櫓を使って前進するボートのことをいう。
石垣から西表島の目的地まで、距離が50キロぐらいあることを考えると、すべて手漕ぎで行ったとは考えられないから、後注を読んでみたら帆も使える船だった。
現在では連絡船で西表島に向かう場合、上原港か大原港に入港するのが一般的で、儀助たちは鳩間島を右に見たというから、これなら上原港ということになる。
しかし儀助のころは、さらにその先の祖納(そない)という村が行政の中心だったらしく、そっちにちょくせつ上陸した。
儀助はこの旅でもっとも危険とされた島にやってきたのである。

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祖納というのは島の行政の中心であったことからもわかるように、西表ではわりあい古い地区で、フクギ並木なども立派なものがある。
儀助の記述によると、この村は東側以外は三方を海にかこまれてとあり、南西に小さな山があったという。

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儀助たちはこの晩は祖納の役場に泊まった。
現在では役場は祖納の公民館になっているというので、探してみたのが上の写真。
南西の小さな山も、山というほどおおげさなものではなく、それはこの飛び出た半島のことのようで、白浜南風見(しらはま・はえみ)線の道路からながめるとこんなふうに見える。

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いまのようにスーパーなんぞない時代だから、儀助たちは糧食を持参していて、持ち込んだ米を炊き、現地で調達した卵に醤油をたらして夕食にした。
お新香も汁もない、まさに貧乏旅行と自嘲ぎみだけど、登山やキャンプの食事と思えば文句をいうほど悲惨でもない。
わたしなんかいまでも自炊がメンドくさいと、卵かけご飯に自家製のお新香だけですませているワ。

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翌日、儀助はさっそく租納村のまわりの視察に出た。
西表島は山が多く、雨もたくさん降るところだから、川や沼がたくさんあり、田んぼや畑にむいた土地が多かった。
問題はマラリアで、これを避けるために、わざわざ近くの島から耕作のためだけに通っている農民も多かった。
そこまでして農民が土地を耕すのは、琉球王朝時代、および薩摩藩時代の税制が過酷だったせいで、明治の新政府になっても不合理な慣習は依然として続いていたらしい。

儀助は同行していた県庁職員の後藤なにがしに、この島の徴税のしくみについて話を聞く。
これまでは租税の農産物は農民がいったん村の役場に納め、役場でまとめて県庁に上納することになっていましたんですが、それだと役場の職員が、たとえば米は1俵に3斗入れることになっていたのに、升と秤の2種類の測り方を使いわけ、差額をふところに入れたり、ひどいときには米を粟にしたり、粟を大豆にしたりのインチキが常態化していました。
この悪習を改めるために今年から租税は村役場を経由せず、ちょくせつ県庁へ向かう船に積み込むことにしましたんで、おかげで不正ができなくなって、農民は喜び、役場はしぶい顔をしていますとのこと。
ひとつのシステムが長期にわたって維持されると、なんとか金儲けの手段はないかと日夜研究している輩につけこまれるから、なにごともときどきは改革をすることが必要なようだ。

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儀助は農業試験場で機那と珈琲の試植地を視察した。
機那というのは、まえにも書いたけど、マラリアの特効薬をとるキナの木(キニーネ)のことである。
試植の結果は、コーヒーは前途有望で、キナの木のほうは47本植えてみて、ちゃんと成長したのは2本だけだったそうだ。
それでも2本が成長したということは、まったく見込みがないわけではないというので、この年もさらに38本の苗木を植え、明治政府の悪戦苦闘は続いていた。

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葉っぱが虫に食われているねなどと、キナの木を見分していた儀助は、ここで無数のヤマビルに襲われた。
あまりゾッとしないけど、かっての西表島の特産物はヤマビル(山蛭)で、こいつは木の上や草むらにひそみ、通りかかった獣や人間に手当たり次第にくっついて血を吸う生きものである。
誤解なきよういっておくけど、現在の西表島には、少なくても人家のあるようなところや、観光スポットにヤマビルはいない。
わたしは何度も西表に行っていて、たまには森のなかに分け入っているけど、いちどもそんなものを見たことがない。
だからこれも絶滅危惧種かもしれないと思うくらいだ。

キナの木については現地の人々の無理解があった。
キニーネがマラリアの特効薬であることはわかっていたけど、島民の役所に対する不信感はそうとうなもので、苦労してキナの木を育てても、みんな本土に持っていかれるんだろうと、熱心にこの木を育てようとする農民はいなかったという。
租納村で役場の職員に患者はいないかと尋ねると、みんなかならず、そんな者はいませんと答える。
しかし儀助がじっさいに村のなかを歩いてみると、寝たきりの病人のいる家がいくつもあった。
彼が患者にキニーネを与えてみると、ふだん薬を飲みつけてないせいか、劇的に薬効のあらわれる患者が多かった。
キナの木の重要性についてもっと島民を啓蒙しなくちゃだめだと、儀助はあとで役場の職員のまえでぶちぶちいってみたけど、職員からして無知無理解で、まじめに話を聞く者はいなかったそうである。

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午後からは祖納村の北側にある干立から、島の北部、東部にかけての視察に出た。
現在ではこのコースには白浜南風見道路という立派な県道があるけど、もちろん明治時代にはそんなものはなく、儀助たちは荷物をウマにくくりつけて歩くことにした。
これで行くと浦内川の河口を横断することになり、そこには広大なマングローブの森がある。
マングローブというのは特定の植物名ではなく、八重山のそれはオヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ、ヒルギモドキなどの総称で、ということは浦内川か仲間川の遊覧船に乗るとかならず説明されるので、何度も行っているとおぼえてしまう。

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儀助の旅でこのあたりの記述は
“道幅は30センチあまり、左右灌木におおわれ、いたるところで渓流が氾濫して、膝がしらまで泥に埋まる”
“汚水滞留し、樹木繁茂して、腐敗ガスが発生していた”とある。
写真で見るとマングローブの森というのは、いかにも腐臭がただよって不潔そうだけど、現代ではここは生命のゆりかごといわれるくらい、生物学上貴重な場所である。
海の魚が陸上生物に進化したのは、マングローブの森だっただろうといわれているし、そこは小動物が安全に成長するための場所でもあり、また複雑な酸素や二酸化炭素の循環過程で、地球温暖化の防波堤にもなっているといわれているくらいだ。

泥に足をとられながら、儀助たちは浦内川の河口を横切り、オナラ岬(現在の宇奈利崎のこと)を遠目に見たあと、浦内村、上原村という村にたどりついた。
このふたつの村は儀助の旅のあとで廃村になった(この上原は連絡船ターミナルのある現在の上原とはべつの場所)。
いわずとしれたマラリアのせいである。
この旅はさながらマラリアとの戦争で敗北した村を訪ねるようなもので、行く先々にその古戦場は累々と横たわっていた。

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上原からさらに行くと船浦村にさしかかったけど、この近くにもマラリアのために沈黙した村が残っていた。
というのは明治時代のハナシ。
現代ではレンタカーで走っていた観光客が、交通量が少ないのに安心してついぼんやりしていると、道路から飛び出してしまいかねない急カーブがあるところだ。
ぼんやりしていることの多いわたしも、いちどびっくりしたことがある。

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船浦村のはずれで白浜南風見道路は湾の入口をまたぐ橋になっており、橋のたもとに車を停めて入江の奥をながめると、遠方の山のなかに垂直に落ちるひとすじの瀑布が見える。
これは「ピナイサーラの滝」といって、落差55メートルの沖縄でもっとも落差のある滝で、そこまでカヌーやトレッキングツアーがたくさんあって、若い人たちにはいいアクティビティになっている。
残念ながらわたしは行ったことがないけど、明治時代に笹森儀助がながめた滝が、いまでも変わらずにとうとうと水を落としていると思うと不思議な気持ちになる。

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2022年5月 2日 (月)

沖縄/竹富島

笹森儀助は石垣島を視察したあと西表島に行くことになるけど、そのまえに彼の本には出てこない竹富島に寄っていこう。

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わたしが竹富島のことを知ったのは司馬遼太郎の「街道をゆく・先島紀行」によってで、これは作家が昭和49年(1974)に旅をしたときの紀行記だから、そこに書かれているのはいまから半世紀ちかくまえのことになる。
わたしが生まれて初めて沖縄(竹富島と西表島)に出かけたのは、「街道をゆく」よりも9年後の、昭和58年(1983)のことだった。
当時の竹富島の写真が残っていればいいんだけど、まだデジタルカメラなんてものもなく、紙焼きした写真やネガは、引っ越しを繰り返すうちどこかに散逸してしまった。
写真がないのは残念だけど、八重山の思い出はわたしの脳みそのなかでいよいよ美しさを増してきたようだ。
強烈な太陽に照らされた赤瓦の民家と集落のあいだの白い道、灰色の珊瑚の石垣の向こうにゆらぐ大きな芭蕉の葉、ハイビスカスやブーゲンビリアの花など、それまで外国に行ったこともなかったわたしには異次元の美しさだった。

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竹富島は石垣島から連絡船で6キロほど先の海上に、カレーの皿をひっくり返したようなかたちで浮かぶ、周囲9キロほどの小さな珊瑚礁の島だ。
上から見ると両側が耳のようにとがったいびつな楕円形で、いちばん広いところで3キロちょい。
島内にタクシーもレンタカーもないから、若い観光客はレンタル自転車で、年寄りは牛車でゆるゆるとまわるのが一般的だ。
この画像はストリートビューで石垣島のほうから見た竹富島。

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竹富島に行くには、わたしはひとり旅の場合が多いので、たいてい離島ターミナルのチケット売り場に行く。
すると、竹富島の桟橋にはいろんなかたちの船が着いているのに、いつも安栄観光か八重山観光の船である。
けっしてこの両社の船がボロいとかケチ臭いというわけじゃないけど、たまには双胴船にでも乗ってみたいのに、これまでそんな船に当たったことがない。
あ、この4枚組写真の右下は、たまたま乗り合わせた、もう南国ムードいっぱいでやる気むんむんの美人だ。

司馬遼太郎が行ったのは沖縄の本土復帰直後で、まだ沖縄旅行がめずらしかったころだから、竹富島のことを知っている人はあまりいなかっただろう。
しかしその後 “(日本の)天国にいちばん近い島” なんてキャッチフレーズで有名になり、アンノン族や、最近では「るるぶ」なんて本を持った女の子たちが大挙して押し寄せるようになったから、現在ではこの島を知らない人はまずいまい。
最近では島もずいぶん様変わりした。
わたしは司馬遼太郎が見た景色をかろうじて見ることができた世代である。

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「街道を」のころのこの島は、周囲をギンネムの茂みにかこまれていて、上陸した作家と挿し絵担当の須田剋太画伯らは、桟橋から人家のひとつも見えないのに途方に暮れたとある。
わたしが行ったときにはまだその途方に暮れた景色がそのままで、島の中心に行くためには、桟橋から茂みのあいだの1本道をたどるような感じだった。
舗装道路なんかひとつもなく、道はサンゴの砂を敷きつめたベージュ色の素朴なものがあるだけだった。

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現在では桟橋から島の中心部、あるいは外周に、舗装された立派な車道が出来ている。
美しい娘は強欲な官吏の所有になるのが当然だったように、これほど魅力的な島を本土の観光資本が放っておくはずがなかったのだ。
「街道を」を読むと、島内の申し合わせで、この島では家を新築するにもこまかい決まりがあったそうだけど、現在では島内にいまふうのレストランやカフェがあるし、島の東のはずれには星野リゾートという大きなホテルもある。

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司馬遼太郎が泊まったのは高那旅館という宿で、ここで彼はひとりの青年と知り合った。
青年は沖縄で教師になるため研修中で、毎年この島にやってきて旅館の手伝いをするうち、いつのまにか宿の仕事を全部引き受けることになってしまって、本来の宿の主人であるおかみさんは洗濯だけをしていたという。
ちなみに「先島紀行」は1998年にテレビ映像化されており、顔を笑みくずしながら挨拶をして、沖縄人も本土の人間と共通の挙動をすると作家を感心させた高那旅館のおかみさんも、92歳のおばあさんになって登場していた。
教員志望だったというこの青年は出てこなかったけど、彼はその後どうなっただろう。
そのまま旅館にいすわっていればつげ義春のマンガのネタになりそうだけど、現在の高那旅館の経営者は高那姓の姉妹らしいから、青年はけっきょく教員になって、沖縄のどこかの島で教壇に立っているのだろうか。
いやいや、だとしてもそれから半世紀だ。
彼もとっくに定年退職をして、たまにはこの宿で働いたことを思い出しているだろうか。

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わたしは高那旅館ではなく、まだインターネットのない時代だったから、ガイドブックでいろいろ調べてみて、南方の花の生垣に埋もれたような「泉屋」という民宿を選んだ。
去年の暮れに行ったとき確認してみたら、まだハイビスカスの生垣と、門のブーゲンビリアのアーチがそのままだった。

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竹富島には赤瓦の特徴のある沖縄ふうの民家がよく保存されており、どの民家も屋根にシーサーという魔よけのお守り像を乗せている。
なんだか瓦屋さんか左官屋さんが、家を作る片手間に作ったようなものばかりで、その洗練されてないところがかえって素朴な民芸品を見ているようでおもしろかった。
とはいうものの、竹富島に瓦屋根が認可されたのは明治38年以降だというから、笹森儀助のころにはまだ茅葺き屋根ばかりで、これではシーサーも安置しようがない。
竹富島を沖縄の原風景とするのは、すくなくとも民家の様式としては間違いである。

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わたしは泉屋で、沖縄の言語をコレクションしに来たという大学生と同室になった。
彼と話をしているとき、沖縄の街路を彩る赤い花について、ディゴの花がというと、デイゴですと訂正されてしまった。
小さいか、大きいかのほんのわずかな違いだけど、少しのことにも先達はあらまほしけれである。
こういう学術的な目的をもって来る人もいれば、わたしみたいに文学に影響され、クラゲみたいにただよってきた者もいる。
当時のわたしは初めて見る美しい島という以外に、竹富島についてなんの知識もなかったから、この宿のすぐとなりに、上勢頭亨(うえせどとおる)というお坊さんが民芸品を集めた喜宝院蒐集館があったのに、ちらりとのぞいただけで特別な感慨もなかった。
館長の上勢頭という人はわたしが行った翌年に亡くなってるけど、司馬遼太郎が行ったときはまだ元気で、作家と言葉を交わし、蛇味線で沖縄節を唄ってみせている。

泉屋にはほかに若い娘のグループが5、6人くらいいて、わたしは到着した翌日に近くの珊瑚礁までシュノーケリングに行った。
そのことをよく覚えているのは、女の子たちのグループと、みんなでワイワイいいながら出かけたのがとても楽しかったからである。
そして感心したのは海のなかの豊穣さで、ご飯つぶを撒くだけで、オヤピッチャという熱帯魚がわたしの手をついばむほどに集まってきた。
しかしそんな都会人からみると奇跡のような光景も、何度も行っていると確実に減っていることがわかる。

わたしは自分の旅ではぼんやりしていて、肝心なものを見逃す場合が多いので、あらためてストリートビューで島内をながめてみよう。
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竹富島に興味を持った人がいちばん多く目にする写真が、島内でゆいいつの展望台である「なごみの塔」から撮ったこのアングルの写真だろう。
わたしの写真に独自のところがあるとしたら、わたし自身の自撮りになっていることか(塔の下で肩からカバンを下げているのがわたしで、撮影したのは友人である御曹司のO君)。
なごみの塔は1953年建立とあるから司馬遼太郎の旅のときにはもうあったはずだけど、作家はひとことも触れていない。
司馬遼太郎という作家は山登りがまったくダメな人なので、たかが4、5メートルの塔でも登るのを断念したのかもしれない。
そのかわり海抜48メートルの牛岡という山(丘?)を勧められて、やっぱり断念していた。

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現代ではなごみの塔は老朽化のために登るのが禁止になっていて、島の東部にできた星野リゾートの展望台がその代わりになっているようである。

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竹富島の観光は牛車でまわるのが一般的だけど、わたしが初めて行ったころ、そんなものがあったかどうか記憶にない。
司馬遼太郎の本にもひとつも出て来ないばかりか、どうもそんなものがあるという雰囲気でもないから、まだなかったのだろう。
水牛だけならわたしは西表島に渡ってから、アフリカみたいにサギを背中にのせて、農作業に使われているのを見たおぼえがある。

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「街道を」の中に変わった植物がが出てきた。
変わった植物というと見たくなるのがわたしの習性だ。
これはハスノハキリ(蓮ノ葉桐)といって、海岸ではめずらしくない木で、桐というより、たいてい桑のようにひねくれた古木である場合が多い。
実はこんなへんてこりんな形をしていて、外殻が白蝋質でけっこう固く、むかしの沖縄ではこのなかにホタルを入れて提灯替わりにしたという。

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ほかに「街道を」には“犬が見つけた井戸”のことが出てくる。
これがその「ナージの井戸」。
現在はたいていの離島にひねるだけで真水の出る水道が設置されているけど、井戸というのはむかしの離島ではひじょうに貴重なものだったので、神格化されている場合もある。
竹富島のこの井戸も御岳(うたき)として祀られているというから、発見したイヌが神さまになったのかと思ったら、神格化されているのはイヌの飼い主だそうだ。
イヌが文句をいったかどうかは知らない。

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御岳で神事をつかさどるのは、沖縄では祝女(ノロ)といって代々女性が務めることになっており、「街道を」には神事のさいのノロに触れた箇所もあって、男どもを従えたその威厳はたいしたものである。
テレビ放送された「街道を」のころは、ノロもだいぶ近所の主婦なみになっていて、ふだんは民宿のおかみさんをやっていた。
現代はそういう時代である。
笹森儀助が旅をしたころ、司馬遼太郎やわたしが旅をしたころ、そして現代の若者たちが旅をするころと、竹富島はどんどん変わってゆく。
それぞれの人々にそれぞれの竹富島があるのだから、わたしが現代の竹富島は堕落したと嘆くのはたいていにしておこう。
伝説の美人オクマのようなおばあさんを見て、あの人も若いころは美しかったとため息をついてもむなしいばかりだから。

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2022年4月26日 (火)

沖縄/開墾地

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石垣島では徳島出身の実業家、中川虎之助という人物が開墾地を経営していた。
この画像が虎之助さんで、阿州の人とあるから徳島県出身の実業家である。
沖縄で砂糖農場を経営したあげくに失敗して、台湾で再起を計って成功したという波乱万丈を絵に描いたような人だ。
本人は帰京中だったので、儀助は代理人にいろいろ状況を聞いてみた。
うんと儲かっていますとはいわないのが経営者の習性なのかもしれないけど、問題点がいくつかありましてという。
この開墾地ではよく火事が起きます。
原因を尋ねると、これは沖縄県人とよそから来た開墾者の軋轢によるもので、トラブルのあげくに、開墾者の建物に火をつけたり、サトウキビを切り倒すようないやがらせがあるのだそうだ。
アメリカで白人の開拓移民とインディアンが衝突したようなトラブルが、ここ沖縄にもあったらしい。

ほかにも、この年はサトウキビに「コウリョウ」という害虫が発生してましてという。
カイコのようで縞模様のある虫だというから、どんなやつか調べてみた。
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この画像がコウリョウで、気色わるいイモムシであった。
イモムシのせいかどうか、資本が底をつき、虎之助さんが本土にもどったのは、新たな社債を募集するためだったのである。
こんなことを聞くと、江戸時代にすでに似たような制度の経験があるにしても、明治時代の日本はすでに欧米にまけない資本主義の国になっていたことにおどろいてしまう。
夏目漱石の「吾輩は猫である」にも株に熱中する人物が出てくるから、資本主義をおぼえたばかりの国で投資が過熱するのは、歴史的必然なのかもしれない。
日本より短期間に資本主義国になったのが中国で、あの国の人民はとにかく金儲けが好きだから、ほうっておくと猫も杓子も投機にのめりこんで、損した得したが日常になってしまう。
それではマズイというので政府が規制をすると、今度は社会主義のままだと悪口をいわれる。
そういう気のドクなのがいまの中国なんだよ。

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儀助は経営の収支についてしつこく訊いた。
1反の畑から砂糖8俵ぐらいの収穫があります。
むかしは砂糖を木の樽で運んでいたけど、樽はひとつでこれこれの費用がかかるのに比べ、カヤで編んだ俵ならこれっぽっちで済みますんで、砂糖の値段が下落してもなんとかやっていけるだろうと。
この年は18俵ぐらいの収穫が見込めますとも。
ほかにサトウキビの苗の値段は〇本でいくら、肥料代がいくら、農夫を◯人雇って賃金がいくら、畑で使うウマの輸送費がこれこれ、その餌代がしかじかと、儀助の調査はあいかわらずマルサの女なみ。

このあと儀助たちは宿にもどり、翌日も役場や警察署、織物工場、農事試験場などを見て歩いた。
あちこちで先に本土から派遣されていた役人や警察官から、不穏当な経済システムや慣習が耳に入ってくる。
石垣島は沖縄県庁の統括下にあるけど、役所の下に蔵元という支所があって、そこで128人もの人間が働いていますという人がいた。
そのため役所の人間は少なくてすむけど、仕事の効率を考えると不経済きわまりないので、この点は改める必要があるでしょうと。
そうだねえ、尻尾が大きすぎると、動物も自由に動けないものなと儀助。

明治26年には、本土では維新の改革がだいぶ軌道に乗っていたけど、沖縄ではまだまだ改めるべき問題点がいくつもあった。
琉球時代の沖縄というのは、どっちかというと中国や韓国に似た政治システムの国だったようだ。
これは民族の所属ではなく、あくまで政治のことだけど、皇帝や貴族に搾取され、庶民は重税にあえいでいた古い王朝国家ということである。
もっとも琉球にかぎらず、中国の中華思想に染まっていたアジアの国はどこも似たりよったりだったから、日本が沖縄で積弊からの脱却を図ったというのは、わが国がいちはやく脱亜して、近代国家になったことの証明でもあるだろう。

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まだ琉球王朝の時代、石垣島には赤蜂という英雄がいた。
重税が度を越すと、そんなもの払えるかと考える不届き者が出てきて、まわりも払いたくないのはいっしょだから、ガスが集まって星になるように、いつしかそこに英雄が誕生する。
赤蜂は琉球王朝の命令に従わず、貢献をこばんで討伐軍に殺されたけれど、八重山ではいまでも島民から英雄として慕われているというから、平安時代に日本の北関東で、新天皇を名乗って謀反した平将門みたいな人だったらしい。
歴史はつねに勝者によって書かれるので、彼は謀反人ということになっているものの、柳田国男の文章では
 静かに考えてみると、赤蜂本瓦も八重山の愛国者であった とある。
もともと波照間島の人で、石垣島に上陸した場所に、銅像と記念碑が立っている。

この夜になると、過去22年間(中途半端な数字だけど儀助の本にはそう書いてある)なかったようなものすごい暴風雨がやってきた。
宿屋に泊まった人たちは、降りこむ雨風に衣類や荷物が水びたしになったものの、宮良殿内に泊まっていた儀助に被害はなかった。
石垣島から数キロしか離れていない竹富島でもなんともなかったそうだから、このへんは台風に慣れている人とそうではない人の違いだったかも。

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この暴風雨のなか、汽船大有丸の船長は、操船の匠とされる糸満人を雇い、危険を犯して船にもどった。
糸満人というのは沖縄本島糸満市の人のことで、代々漁師を本業としていて、船を操ることでは他に抜きん出ているとされる人たちである。
日露戦争のさい、八重山の近海を北上してくるバルチック艦隊を発見して、本土に通報したのが糸満人だったという。
ただし連絡が東郷平八郎のもとに届いたときには、もう海戦は終わっていたとかなんとか。
司馬遼太郎は「街道をゆく・先島紀行」のなかでわざわざ糸満に立ち寄っており、興味をひかれたわたしも去年の暮れに立ち寄ってみた。
さすがはウミンチュの街で、未来の漁師を育成する水産高校が大きいのに感心したくらいで、ほかはとくに印象的な町ではなかった。

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儀助が旅をしたころ、台風などで船を避難させる場合、八重山では西表島の船浮湾がもっとも安全な場所として知られていた。
船浮というと、船でしか行くことのできない「陸の孤島」として有名で、わたしが西表に行くたびに泊まっている部落ではないか。
ここには道路が通じてないがら、行こうと思ったら1日5本の連絡船しかなく、イリオモテヤマネコが初めて発見されたのもここというくらい辺鄙なところである。
ヤマネコは数が少ないから、行けば誰でも見られるわけではないけど、去年暮れの訪問では、セマルハコガメやオオコウモリなどの天然記念物もかなり数を減らしていた。
自称ナチュラリストのわたしの憂鬱は大きい。

儀助たちがぬれたものを干しているとき、沖縄県庁を辞めたばかりの田村熊治という人物がやってきた(写真は見つからなかった)。
彼も八重山で開墾事業を興そうとする新進気鋭の実業家だったから、このころの沖縄はひと山当てようという人間にとって、ひじょうに有望な土地に見えたらしい。
この前年には彼以外にも高知県出身で開墾を始めた人間がいて、労働者の争奪戦になり、賃金が高騰して起業家たちを困らせたけど、けっきょく高知県のほうは事業に失敗して引っ込んだ。
そんな話や開墾地の経営状態について、儀助はまたねちねちと訊く。
山林では主としてコーヒー、山藍を植え、原野にはサトウキビを植えるとのこと。
南方系の植物としてコーヒーを育てようというのはいいアイディアだけど、明治26年にコーヒーがブームというのは、日本人の新しモノ好きに驚かされる。

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翌日には朝8時に出発して、刑務所の職員らと島の南岸を視察に出かけた。
目的地は白保というから、離島ターミナルから現在の石垣空港に向かう途中である。
白保というとなんとなく白砂の浜を想像するけど、じっさいにはこの浜は写真でわかるとおり、タイドプールのある岩ばかりの海岸だ。
それでも風光はなかなかよろしいところで、石垣島に住むわたしの知り合いは、最初家を買うのにこのあたりも候補だったそうである。
けっきょく北部の川平湾に近い家を買って、いまではすこし後悔しているようだ。
彼の若いころはまだ沖縄の離島というと、女の子たちのあこがれの対象だったのに、その後の景気の変動やコロナによる観光客の激減などで、わたしとほぼ同じ年の彼は、いまも嫁さんももらわず購入した家にひとり暮らしだ。
彼もまた、自分一代のあいだに、世の中がこれほど変化するとは思わなかった被害者のひとりなのだろう。

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儀助たちが1里ほど行くと、石垣島第一の大河である宮良川が流れていた。
この川は標高526メートルの於茂登岳より発し・・・・ま、山が驚くほどの山ではないだけに川も大河というほどのものじゃないけど、現在のこの河口はカヌーやカヤック愛好家のベースキャンプになっている。
この川の左岸に監獄の候補地があったらしいけど、それがどうなったのかわからない。

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午後11時、白保村(現在は石垣市の一部)に着いた。
この役場も新しく、白保村とまえに書いた川平村の役場は、石垣島ではめずらしい新しい建物だったそうである。
戸数は121で、役場の職員は12人いたとあるから、明治時代の石垣島では大きい村だったろう。
この村は作家の椎名誠が「うみ・そら・さんごのいいつたえ」という映画を作るためにロケハンしたところで、いまでも公共施設や民宿などでその映画ポスターを見かけることがある。
映画について YouTube に上がってないかと調べてみたら、見つかったのは予告編だけだった。
ま、べつに残念とは思わないけど。

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儀助は白保村から近い田村熊治の開墾地を見学した。
場所は現在の石垣空港とその周辺らしく、石垣島に到着した観光客のだれもが最初に目にする、サトウキビ畑や牛舎の点在するのどかな農牧地帯である。
明治時代には天然のままの広々とした原野で、こんな開墾にむいた土地を遊ばせておくのはモッタイナイと儀助は書いていた。
現在、そんな儀助の心配は杞憂になったけど、歴史は変転を繰り返し、いまでは八重山全体が、中国や韓国からの土地買い占めにおびえる時代にまでなったようである。

石垣島から儀助は波照間島に行こうとして悩んだ。
現在の波照間島にはエンジンつきの連絡船が就航しているけど、明治時代には風まかせの船しかなく、いい風が吹かないと往来もままならないところだったそうだ。
じっさいにまえの八重山支庁の所長が、波照間を視察に行ったとき、帰りは適切な風が吹かず、そのまま4カ月も島に缶詰になったことがあるという。
現代ではいくらなんでもそういう状況は払しょくされた。
と思ったら大間違いで、わたしは去年の暮れに波照間島まで行って、そこでわたしも缶詰になるところだった(この件は後述)。
儀助はけっきょく波照間島に行くことを断念した。

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2022年4月16日 (土)

沖縄/石垣島

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干瀬はさながら一条の練絹のごとく、白波の帯をもって島を取り巻き、海の瑠璃色の濃淡を劃している。
虹がこの海に橋を渡す朝などがもしあったら、今でも我々は綿津見の宮の昔語りを信じたであろう。
笹森儀助の紀行記は公務の報告書のようなもので、珊瑚礁の海が美しい、ゴーヤチャンプルーが美味しいなどと、ミーハーの女の子みたいなことは書いてないから、また柳田国男に代弁してもらった。
石垣島は珊瑚礁の島ではないけど、周囲はほとんどサンゴのリーフに縁どられていて、「海南小記」のなかの“干瀬の人生”に描かれているように美しい。
この本を読むたびに詩のようだと思い、詩を読むのは音楽を聴くのと同じ脳の中枢による体験なので、いい音楽を聴いたような気持ちにもなる。

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笹森儀助は石垣島にやってきた。
この島は本土からの飛行機が離着陸するところで、西表島や竹富島、与那国島、波照間島などなど、八重山の離島へ行くための起点になる島である。
わたしはこの島に何度も行っていて、泊まった宿もピンからキリまである。
去年の暮れにはついにゲストハウスなる宿にも泊まったし、まだまだ若いころのヒッピー精神は抜けておらんようだ。

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明治時代の石垣島には旅人宿が2軒あって、儀助に同行した教員の一行や船舶会社の職員らはそっちに泊まった。
内務大臣の秘書待遇である儀助は、現在では国の重要文化財になっている「宮良殿内(みやらどんち)」という士族屋敷に泊めてもらった。
彼の食事は3食とも旅人宿で作ったものを殿内まで運んでもらい、おかげで料亭に大勢が押し込められ、夜中まで騒々しくて眠れなかった宮古島に比べれば、極楽みたいだったそうである。

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作家の司馬遼太郎も宮良殿内を見物していて、「街道をゆく・先島紀行」にその描写があるから、わたしは昭和49年(1974)ころの当主が、宮良当智という明治生まれの老人であることも知っていた。
この家の建築材料がイヌマキであることも。
イヌマキは“一つ葉”とも呼ばれ、葉が扁平なので、一見すると照葉樹の仲間に見えなくもないけど、いちおう針葉樹で、シロアリに強いという特性のために沖縄では高級建材だそうだ。
この家の屋根は沖縄ふうの赤瓦で、明治時代には一般平民に瓦ぶきの屋根は許可されてなかったから、何度も役所の指導を受けている。
もっと詳しいことを知りたい人はここをクリック。

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庭に枯山水式の日本庭園があり、庭の木々をすかして、その向こうにとなりのタクシー運転手さんの家が見える。
こちらもなかなか立派な家である。
となりの家のことはこのさいどうでもよくて、宮良殿内で儀助はパパイアをご馳走になった。
大きさや色などを詳しく書いているから、彼がパパイアを初めて見たことは間違いなく、本土の樽柿のようで美味しいと、ここではミーハーの女の子のようなこと書いていた。
最近ではパパイアもだいぶ値がこなれてきたけれど、明治以前には献上品として、将軍さまぐらいしか食べられない果物じゃなかったろうか。

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ついでといってはナンだけど、ここで石垣島の珍味をいくつか紹介しておこう。
豆腐ヨウはアンキモのようなねっとりした食感で、酒のつまみに好適。
ウミブドウは口のなかでプチプチとはじける食感が楽しく、わたしはむかし沖縄本島の古宇利島で、ご飯が見えないくらい豪快にこれを乗せたウミブドウ丼を食べたことがある。

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モズクは、うーん、テンプラよりそのまま酢醤油で流し込むほうがわたしは好きだな。
これについては、公設市場で石油缶で買えば本土まで送料がタダになる。
ひとりでそんなに食べるのは大変だけど、このおばさんたちはグループ買いをしていた。

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ヤシガニはずっとむかし、たまたま入った食堂のメニューにあったので、話の種に注文してみたもの。
現在では天然記念物の禁制品だから、やたらには食べられないようだ。

儀助は翌日、石垣島に新しい監獄を作る計画があって、その下調べに来ていた監獄職員たちと川平湾へ行ってみることになった。
職員たちははじめて石垣島に来た者が多く、全員が駕籠に乗るというので、儀助もここでは駕籠に乗った。
駕籠はひとつに6人の人夫がつき、みんな裸足でジャリ道でもそのまま走り、料金は1里9銭だったそうである。
宮良殿内から川平湾まで、距離は20キロ以上あり、これを儀助の駕籠は4時間あまりで走っている。
とちゅう原野があるたびに見分しながらの道中だったけど、乗り心地はよくなく、儀助は3回も駕籠から落っこちた。

石垣島もマラリアのはびこる瘴癘の地だったので、儀助は医師にいわれたとおり、朝と晩にキナ丸(キニーネ)を飲み、蚊対策として泡盛を飲み続けた。
蚊というのは泡盛の匂いがキライなんだそうだ。

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川平湾は入口に大きな島をかかえて内陸に深く入り込んだ湾で、風光が明媚なところから、いまでは石垣島屈指の観光地になっている。
ここは明治以前は八重山でもっとも重要な港で、中国や本土への輸出品はすべてこの港を経由していたそうだけど、儀助が旅をしたころ、港湾関係の仕事は現在の石垣市のほうに移ってしまっていて、川平港もたいそう寂れていた。
当時の川平村の全戸数は68、人口は301人だったそうである。
ちなみに現在は、ということで調べてみたら平成22年(2010)のデータが見つかり、それによると戸数516の人口1005人だという。
わたしは川平湾に行ったことがあり、グラスボートにも乗ったことがあって、もっとにぎやかなところというイメージを持っていたけど、ここにある小学校の生徒数が、1年生から6年生を合計しても50人くらいというから、いまでもにぎやかというほどではない。

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儀助が見たとき、役場の建物だけは新しかった。
建築材はセンダン、マキ、モッコクなどと、ここでは建物の材料にまで触れている。
紀行記作家というものは見かけた建物の材料にも触れなければいけないようなので、わたしも調べてみた。
マキというのは前記の宮良殿内のイヌマキのことだろう。
センダンというのは“栴檀は双葉よりかぐわしい”と、香りのよいことで知られる栴檀(白檀)とはべつの植物である。
以前わたしの散歩道であった調布飛行場のわきに生えていて、盛りをすぎても葉が水々しい木だったけれど、鳥が勝手に種をまいて勝手に成長した木だったので、そのうち切られてしまった。
モッコクのほうは、いわれてみれば庭木として誰でも見たことのある木だった。

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この道すがらでパイナップルのような実をつけた植物を見た。
儀助さん、ごらんなさい、これはトゲナシアダンですと、随行員のひとりがいう。
どっか珍しいのかい。
ふつうのアダンは葉のへりに鋸歯状のギザギザがあるんですが、これにはありません。
あっ、ほんとうだ。
小笠原などには自生しているらしいですけど、八重山ではここにしか生えてない貴重な木です。
むかしこのあたりで難破したドイツの船が、種を持ってきたんじゃないかといわれてますと、儀助たちは1本の木(アダンは大きめの草だけど)をまえにワイワイ詮索した。

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例によって村の人口や経済状況を尋ねたあと、川平村の視察を終えて、儀助たちは名蔵村へ向かった。
名蔵という地名はいまでもあって、ラムサール条約に登録された「名蔵アンバル」という大きな汽水湖があるところである。
自称ナチュラリストのわたしはもちろん行ってみたことがある。
広大な干潟があって、アウトドア派には興味のつきないところだけど、広すぎてわたしの歳では見てまわるのがしんどい。
田んぼの間の小川でカニでも釣れないかと試してみたものの、なにも釣れなかったからわたしには釣りの才能はないみたいだ。
近くに素泊まりの宿があるから、野鳥観察でもしようというなら、ここに泊まるといい。
パイナップル農園もあるから、女の子には喜ばれそうだ。

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儀助が名蔵村に着いたのは夕方の6時ごろだった。
当時の役場の正確な位置はわからないけど、名蔵村役場は荒れ果てて人間はひとりもいなかった。
随行の警察官に尋ねると、村の戸数は6戸、人口は男女あわせて16人しかいないとのこと。
これじゃ村というより部落だけど、石垣島の税務署はこんな貧乏な村にも職員を置いて、容赦なく島民から税金を取り立てていた。
有名なのは琉球王朝の支配時代からある「人頭税」というもので、これは金があろうがなかろうが、人間ひとりにつき一定額の税金を取り立てるという、乱暴かつ無慈悲な制度だった。
もともと面倒な徴税の手間をはぶくために導入されたもので、累進課税の原則に反していたから、現在ではこの制度を残している国はほとんどない。
沖縄で人頭税が廃止されたのは明治36年のことだった。
ごれは儀助の旅の10年後だから、彼の報告と提言も制度の改革に効果があったのかもしれない。
儀助の視察では、貧しい人たちにつねに温かい眼差しがそそがれていた。

視察を終えて宮良殿内にもどると、人夫たちが駕籠代をちょくせつ自分たちに払ってくれと騒いだ。
駕籠を斡旋した役人に払うと、みんなピンハネされてしまうということで、いつの時代も最下層の人々の境遇はきびしかったようだ。

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