深読みの読書

2024年7月 9日 (火)

ニューズウィーク

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いつか書こうと思っていて、表紙の画像を用意しておいた。
「ニューズウィーク(日本版)」という時事週刊誌がある。
わたしは図書館に行ったときなど、ほかに読むものがないと、これの最新版にざっと目を通すことがよくある。
たまたま図書館に行ったら、この本の古いもの(2022年号)が賞味期限切れになっていて、持ち帰り自由のリサイクル本になっていた。
さっそく頂いてきたけど、時事雑誌というのは、じつは賞味期限が切れたほうがおもしろい場合もあるのだ。

このリサイクル本を読んであきれた。
書かれたことはデタラメばかり、というか、つまりアメリカ視線の内容ばかりだ。
表紙にでかでかと“うなだれる中国経済”とか“アメリカの針路”と謳ってあるけど、現実には、中国はその後もけっして落ち込んでないし、米国が目指していたものの実態についても、的はずれなことばかりだ。
ニューズウィークの記事は署名記事がほとんどなので、的はずれを執筆していたKさん(外交アナリストだそうだ)という人は、恥ずかしくて表を歩けないかと思ったら、最近の号にもまたなにか書いていたな。

もちろん未来のことは誰にもわからないのだから、記事を書いた人間を責めるのは酷かも知れない。
わたしはこの号が発行されたときより、1年以上あとにこの本を読んでいるので、ニューズウィークが予想したことが正しいかどうかを確かめることができるのである。
そしてあまりの的はずれに、つい笑ってしまうのだ。
賞味期限が切れたほうがおもしろいというはこのことである。
また結果がわかったあとで読むと、その本がリベラルか保守か、右か左か、どのていど信用できるかなどということもわかってしまう。

こんなことを書く気になったは、昨日のネットニュースに、ソースがニューズウィークの記事で、こんなものがあったからだ。
「反日投稿を大量削除『ナショナリズム』を焚き付けない当局の本音と、日本人を守って死亡した中国人女性の実像」
いったいなんでこんなひねくれた解釈しかできないのだろう。
いまのところ相手は誰でもいいというたんなる通り魔事件で、たまたま居合わせた中国人女性が止めに入って刺された、というそれだけの事件ではないか。
わざわざ大騒ぎをして日中関係を悪化させるほどのものではない、そう考えて中国政府は冷静なのに、なにかウラがあるのだろう、経済的に困っているから日本の支持を失いたくないのだと決めつける。
死んだ女性の境遇までせんさくして、貧しい農民の出身だとか、中国の発展に取り残されていたなどと書く。
習近平さんが貧困一掃をはかって、その試みはかなり成功しているけど、ひとりひとりの国民まで豊かにすることは簡単ではない。
どんな国にも貧しい人たちはいる。
他国のことを心配する余裕が、どこの国、たとえばアメリカにあるというんだろうか。
もういまでさえ、中国は多くの途上国を支援するほどゆとりがあるではないか。

これもなんとか中国との対立を煽ろうという危険な記事にしか思えない。
つまり世界的に知られたニューズウィーク誌の記事も、ためにする記事である場合があるということだ。
わかってくれよ、未来をしょって立つ若いみなさんはと書こうとして、わたしは一瞬頭がボケてしまったのかと思った。
先日の都知事選でもそうだけど、わたしみたいなじいさんの常識では理解できない時代に突入したみたいで、もはやわたしが関わるには遅すぎたのかも知れない。
いいとも、みんな揃ってあの世に行きたいというんだな。
台湾有事でも核戦争でも、勝手にすればとしかいいようがないね。

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2024年6月30日 (日)

マルケス

ネットニュースにガルシア・マルケスの「百年の孤独」が、なぜかバカ売れという報道があった。
そういえばこの本は長いあいだわたしの本箱にあったなと思い出した。
全部読み切らず、けっきょく途中で放り出したことも思い出した。
読めもしない本をなぜ買ったのかと訊く人がいるかも知れぬ。
じつは1982年に彼がノーベル文学賞を受賞したとき、どんなものかとその短編集を読んだことがあって、これがとてもおもしろかったから、代表作の長編もということになったのである。
若いころ小笠原まで船旅をして、航海中に読もうと持ち込んだ記憶があるんだけど、アテがはずれて、長編のほうはあまりおもしろくなかった。

短編集に含まれていた作品の名前はぜんぶおぼえてないけど、たしか「エレンディラ」、「大きな翼のある、ひどく年取った男」、「この世でいちばん美しい水死人の話」などがあったはず。
読んで面食らった。
こんなまじめなナンセンス文学はないんじゃないか。
まじめでナンセンスというのは矛盾してるかも知れないけど、つまりドタバタで無理やり笑わせるのではなく、じっくりと読ませてそこはかとない笑いを誘うようなものだ。
「大きな翼のある・・・」というのは、ニワトリ小屋に転落して見せ物にされる天使の話で、「この世でいちばん・・・」というのは、エステーバンという美しい?水死人を描いたものだった。
いずれもバカバカしくてあり得ない筋立てだけど、それをおおまじめに語る文章がおかしい。

「エレンディラ」の中には、強欲な祖母に強要されて売春をする少女が登場する。
何人もの男を相手にして、もうくたびれたー、死にそうと叫ぶ少女を、祖母は容赦せずに働かせる。
この作品は映画化されているので、それっと(期待して)観に行ったことがあるけど、金をかけてないことがあきらかな凡作だった。

悪いことはいわない、これからマルケスを読んでみようという人は、短編集から入るとよい。
わたしも最初に読んだのが40年ちかくまえのことだから、ちっとは精神的に成長したかも知れず、もういちど長編の「百年の孤独」を読んでみようと思っているのだ。
と思って行きつけの図書館を検索してみたら、このタイトルの本はのこらず貸し出し中だった。
あわてて読んでも仕方ないから、じっと待つものの、そのまえにわたしの寿命が尽きるかも知れない。

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2023年11月23日 (木)

読書

わたしのブログのつぎの中国紀行連載のために、いまむかし読んだ本を読み返し始めた。
戦前の上海で聯合通信社にいたジャーナリスト松本重治の「上海時代」という本である。
この松本という人は、西安で蒋介石が部下の造反にあってピンチに陥ったとき、それをだれよりも早くかぎつけて、大スクープとして世界に報じた人である。
これを最初の数ページ読んで昨今のジャーナリストの世界と比較すると、むかしはアメリカ人も中国人も、そして日本人も正しい見識を持った人が多かったなあと愕然とする。
しかしそうはいっても文庫本で上、中、下の3冊、しかもかなり硬い内容なので、読み終えるには時間がかかりそう。
たぶん書評のようなものは書かないだろう。
そのかわり紀行記のなかでこの本に触れることがあると思う。

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2022年8月22日 (月)

沖縄/波照間島

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笹森儀助は西表島の視察を終えて、つぎの目的地の与那国島に向かった。
彼の船が与那国に着くまでのあいだに、わたしのブログでは彼が寄らなかった波照間島に寄ってしまおう。
これはわたしが去年の11月に行ったときの(じつにアホらしい)旅の記録である。
あまりにアホらしいから最後まで読めとはいわないけど、最後まで読めばどのくらいアホらしいかわかります。

コロナで亡くなった知り合いの散骨のために、その家族らとともに西表島に行ったわたしは、家族と別れたあと、ひとりで沖縄のほかの離島を見てまわった。
残り少ない人生をおおいに活用すべく、今回はまったく予定を立てない自由旅行をしてみるつもりだった。
ところが石垣島の離島桟橋にいってみたら、本日は波照間便は欠航ですという。
原因は海が荒れているからだそうだ。
明治の笹森儀助のころならいざ知らず、21世紀の日本に、荒天で連絡船が欠航する場所があるということが新知識だったけど、これでは八重山では海の荒れる冬期に、あらかじめ予定を組んだ旅行はむずかしそうである。

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仕方がないからこの晩は、石垣島の予定になかった宿に飛び込みで泊まり、翌朝はまた離島桟橋に行ってみた。
この日は波照間便はちゃんと出るということだったけど、今度こそカッコいい双胴船にでも乗れるかと思ったら、やってきた連絡船は西表島、竹富島に行く安栄観光の船とそれほど変わらないもので、11月では観光目的の客は多くなく、通勤通学で島外に通う波照間島民が多いようだった。
朝早いのがニガ手なわたしはのんびりと昼ごろの便に乗り込んだ。

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波照間島は、果てのうるま(サンゴ礁)という意味だそうである。
名前を聞いただけで「珊瑚礁の彼方に」という曲が浮かんできそうだけど、わたしにはビリー・ボーン楽団の曲より、「世界残酷物語」や「太陽がいっぱい」のテーマのほうがイメージとしてはピッタリなんだけどね。

波照間島の先にまだひとつ、果ての果てのうるまがあるという伝説が、柳田国男や司馬遼太郎の本に書いてある。
それを南波照間(はえはてるま)島というそうだけど、これは伝説や迷信の範疇に入るものだから、衛星写真を見てもらえばわかるように、現実にはその先の島というものはない。

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船に乗っている時間は1時間半ほどで波照間島に着いた。
行き当たりばったりの旅だから、宿の予約もしてなくて、もちろんだれも迎えに来ているわけではない。
とりあえず1本しかない道を島の中心に向かってみたら、すぐに1軒の民宿があった。
台風で飛ばないようにコンクリート製の建物だけど、そのぶん味も素っ気もないという宿である。
しかし前方を見て思案してしまった。
道はずうっとカーブして先まで続いており、集落のあるところまでどのくらい歩くのか見当もつかない。
そのボロい民宿ではレンタル自転車もやっていたから、とりあえずこの宿に一泊し、自転車で島内を調査してから、翌日はあらためて別の宿に移ればいいではないか。
最初の晩だけ適当な宿にということは、むかし中国をひとり旅したときもよくあったのだ。

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そう考えて「西浜荘」という民宿に泊まることにした。
わたしの部屋は灰色のコンクリート製4畳半の個室で、鍵はあることはあるけど、おとなが力を入れて引っ張ればかんたんに開いてしまいそう。
自炊するための共用のキッチンが別にあって、ガスボンベつきの携帯コンロがひとつ備わっており、インスタントラーメンぐらいは作れる。
この日の客はわたし以外に釣り人らしい3人連れがいたけど、彼らは道路の向こう側のコテージに泊まっていた。

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頑固親父という感じの宿の亭主に荷物を預け、電動アシスト自転車で島内へくり出した。
天気はあまりよくなかったものの、自転車でまわれないほど大きな島でないことはわかっていたし、じっさいにサイクリングは快適だった。
すぐに島の中心にある集落に着いた。
ご多聞にもれず、この島にも、集落の規模からすれば立派すぎる小学校があり、これは災害のさいの避難所にもなるのだろう。
問題があるとすれば、11月のこの季節には、集落に気楽に入れそうな食堂が1軒もないことで、これでは食糧調達を頭に入れておかないと飢え死してしまう。

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集落をざっと眺めただけで、そのまま自転車で島を一周することにした。
農夫のすがたも見えないサトウキビ畑のあいだを抜けると、草っぱらのなかに波照間飛行場があった。
わたしは以前、東京の調布飛行場のわきに住んでいたことがあるけど、そこに比べても国際空港と地方空港ぐらいの差があって、飛行機なんかいつ飛んでいるのかといいたくなるくらいちっぽけな飛行場だった。
しかもこの日は連絡便が終了して、ターミナルビルも店じまいしており、建物のなかにも入れなかった。

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つまらんとぼやいて、さらに自転車をこぐ。
どこになにがあるのかも調べてなかったけど、小さい島だからぐるぐる見てまわっているだけで、たいていのところに行けるだろう。
畑のあいだをあてもなくただよっていくと、「星空観測センター」というものがあった。
ここにもだれもいなかったし、わたしも興味がないから写真を撮っただけで素通りだ。
つまらんとぼやく。

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またさらに行くと「日本最南端の碑」というものがあって、ここにはさすがに幾人かの観光客が来ていた。
うまい具合に若い娘が碑のまえで、ほかに行くところもないしと、ぐったりしていたから写真を撮らせてもらった。
この碑の背後は荒涼とした岩場である。
そこかしこに奇妙なかたちをした海岸性の植物が生えていたけど、あまり興味がわかない。
岩場から見下ろすと、どーんと波が打ち寄せていて壮観だ。
しかしこれではとても泳げそうもないし、サンゴが隆起した島であったとしても、波照間島は海水浴には向かないところのようだった。

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わたしと同じように自転車でまわっているひとり旅らしい若い娘にも出会ったけど、彼女はとっても寂しそうだった。
それはそうだろう。
ひとり旅の目的は自分自身を見つめ直すことであり、生きるとはなにか、人生の目標とはなにか、世界の人類を救済するにはどうしたらいいかなど、孤独な思索にふけることにある。
ひとりでニタニタと楽しそうにしていたら病院に電話されてしまう。
この娘とは3メートルほどの距離ですれ違ったのに、じいさんのわたしは身のほどをわきまえて、それ以上関わりを持たなかった。

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天気が気がかりなので、集落に引き返し、明日泊まる宿を物色した。
島に上陸してすぐに目についた西浜荘に宿をとったのは失敗だった。
集落まで行くと、この島にはもっとマシな民宿がたくさんあるし、二階建てのでっかいホテルもあったくらいだから、行き当たりばったりとしてももっとマシな宿に泊まれただろう。
たまたま目をつけたよさそうな民宿に当たってみた。
楽しそうなおかみさんが出てきて、今日はどこに泊まっているのですかと聞くから、これこれしかじかと答えると、わかりました、明日の朝迎えに行ってあげますという。

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安心して西浜荘にもどった。
自転車を返却しようとしたら親父の姿がない。
しかし借りた当人がその家に泊まっているのだから、なにも問題はなかろうというわけで、自転車を置き場に並べ、集落で買ってきたカップラーメンを作ることにした。
共用のキッチンに行き、ガスコンロを使おうとしたら、そうとうにくたびれたコンロで、ボンベがうまく密着しない。
どうしたらいいだろうとまわりを見渡すと、キッチンのとなりが民宿経営者の住まいらしく、そこに西洋人のような感じの臈たけたご婦人がいるのに気がついた。
彼女の教えに従ってカップラーメンを作るくらいのお湯を沸かすことはできたけど、いったいなんだなんだ、あの女性は。
民宿の親父は頑固そうなじいさんで、その奥さんにしては若すぎるから、娘なのか、あるいは息子の嫁さんなのか。
掃きだめの鶴のようなこの女性については、いまだに謎である。

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翌朝の約束の時間に西浜荘のまえで、迎えに来るという民宿の女主人を待つ。
彼女は軽バンでやってきて、今朝の連絡船で客がひとり到着することになっているので、それをついでに迎えに行きますという。
2人で港に行き、連絡船を待つあいだ、彼女はターミナルに顔を出して情報を仕入れてきた。
大変ですよ、海が荒れるので、明日からしばらく船の往来がないかもしれないといってますけど、大丈夫ですか。
( ・∇・)
そういえば笹森儀助の本でも、波照間島に視察にきた県庁の役人が、4カ月も島に缶詰になったと書いてあった。
いくら気楽な自由旅行でも、そんなことがあったらたまらない。
おかみさんが大丈夫ですかと訊いたのは、わたしの都合を案じてのものだったのだ。

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石垣島に確実にもどるためには、これから到着する連絡船を利用するしかないと聞いてわたしは動揺した。
やがて到着した連絡船からひとり旅の若者が下りてきたけど、おかみさんは彼にも同じことを聞いていた。
やむを得ない、この船でもどろう。
わたしはとうとう確実にもどるほうを選んでしまったのだ。
せっかく迎えに来てもらったのに宿はキャンセルだけど、こういうことはよくあるらしく、おかみさんはなにもいわなかった。

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けっきょくわたしは波照間島で、到着した日の午後に島を自転車でまわっただけ、その翌朝はもう石垣島にもどることになってしまったのである。
おかげでこの島にある「ニシ浜」という美しい海岸を見逃してしまったけど、天気はずっと悪かったから、たとえ海水浴場に行っても泳ぐ機会はなかっただろう。
11月のこの島に、これ以上見るべきものがあったかどうかわからないから、わたしの旅はちょうどよかったのかも知れない。

どうじゃ、こんなアホな旅もめずらしいだろう。
最後まで読んでごくろーさま。

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2022年8月 6日 (土)

沖縄/船浮のみぎわ

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翌日の朝8時、儀助たちは崎山村から、さらに西進することにした。
このときのメンバーは儀助と県庁職員の後藤氏、それに案内と警護をかねた木場という巡査の3人だった。
彼らはサバニに乗って八重目(バイミ)崎を越えようとしたけど、ここは西表島の西端にあって、正面から波を受ける航海の難所で、波が高いために船頭がびびってしまい、やむを得ず舟を返して山道を行くことにした。

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当時この先には、南太平洋のカナカ族が移住した(とされる)鹿川(かのかわ)村という集落があったそうである。
この村は明治37年、ということは儀助が尋ねてから10年ほどあとに廃村になった。
しかし衛星写真をじっくり見分すると、鹿川湾のいちばん奥に耕地の跡らしきものがうかがえるから、村はそのへんにあったのではないか。
僻地の村でも人口は50人ちかくいて、男女の比率はほぼ半々だったというから、国家という暴虐者に縛られるのがイヤという厭世家たちが、集団で住みついていたのかもしれない。
仕事熱心な儀助がいろいろ聞き取り調査をしてみると、ほとんどの村人が漁業をおぼえることもなく、海岸で海人草を採ることを生業としており、イヌといっしょのその日暮らしで、生活に進歩や改善の努力がぜんぜん見られなかったそうだ。
憐れむべき人たちであるというのが儀助の感想だけど、彼らが西表島の海浜で、不自由でも幸せに暮らしていたのなら、余計なお世話である。
ここに載せた写真はシュノーケリング・ツアーの広告や、釣り愛好家のホームページから拾った鹿川湾のもので、現在はここに人の生活はまったくない。

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ダーウィン的話題としては、この土地では鹿ノ川貝(ジュセイラ)というめずらしい巻貝が名物だそうで、儀助もいくつか採集していたから、それを紹介しておく。
ネットで調べると、日本では紀伊半島以南(主に南西諸島)に生息するフジツガイ科の貝で、その美しい色と模様から色違いの近縁種ショウジョウラ、バンザイラと合わせ「日本三大美螺」と呼ばれています、とのこと。
似たような巻き貝で、ウミニナというのがマングローブの根もとにたくさんいるけど、灰色の汚い貝である(貝に罪はありませんけどね)。

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この日は宿舎に早めに着いたので、しばらく風呂に入ってなかった儀助たちは海水浴をすることにした。
明治時代の沖縄ならほんとうに手つかずのままのサンゴ礁が残っていて、さぞかし美しかっただろうし、青森県は弘前藩士あがりの儀助にとって、サンゴ礁の海で泳ぐのは初めての体験だったろう。
しかし泳いで気持ちがよかったと書いているだけで、儀助はそれ以上のことは書いてないから、笹森儀助の「南島探検」が、ダーウィンの「ビーグル号航海記」にならない所以はこのへんにある。

海でぽちゃぽちゃしているところへ、石垣島から飛脚船が到来し、与那国行きの汽船・大有丸が入港したからすぐに帰ってこいとのこと。
儀助は西表島のあと与那国島に行くつもりだったので、船が入ったら連絡するよう、あらかじめ話をつけておいたのである。
しかし、すぐ帰ってこいといわれてもすぐに帰れない場所にいるのだ。
帰るのは明日の朝いちばんでいいだろうと勝手に決め、大有丸には船浮港まで迎えに来てくれるよう折り返し連絡を入れて、儀助たちは鹿川村に一泊することにした。

そこまではいいけど、この当時連絡というのはどうやってしたのだろう。
これまで書いてきたことからわかるように、明治時代の西表島には村と村とをむすぶ道路はほとんどなく、往来はもっぱら舟によるばかりで、いまみたいにインターネット通信があったわけでもない。
糸満人のあやつるサバニが、鹿川村にいる儀助に文書を届けたとあるから、手紙1通を届けるために石垣から小舟でやってきたのだろうか。
それとも石垣から西表の祖納まではトンツー式の無線で、そこから舟がやってきたのか。
よくわからないけど、日本中を通信網でくるもうという明治政府の熱意、そしてそれを忠実に実行する電信会社の努力には感心してしまう。

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翌朝の7時、儀助たちは山道を使ってふたたび網取の海岸にもどると、そこからサバニで船浮村の駐在所にもどった。
船浮という部落はいまでもあるけど、西表島の東半分だけにある外周道路のいっぽうのはしである白浜から、さらに連絡船を乗り継がないとたどりつけない、まさに陸の孤島といっていい部落だ。

仕事熱心な儀助はここでまた(明治時代の)船浮村を調査している。
ただし儀助がこの村を訪問するより以前、西表では明和の津波(1771)というものがあり、そのとき船浮村もべつの場所に移転したことがあったという。
災害は忘れたころにやってくるの例えどおりで、台風以外の災害に縁のなさそうな八重山だけど、昭和8年(1933)の大津波といい、けっこう地震や津波の災害は多いみたいだ。
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儀助はすこしはなれた場所にあったその旧船浮村についても調べていた。
船浮の北方600メートルぐらいのところだったというから、この地図の〇のあたりのようだけど、現在は藪が茂っておいそれと確認もできない。
民宿のおかみさんたちは、食用の島タケノコを採るために藪にも立ち入るけど、ハブに噛まれるかも知れないから、都会人はむやみに入らないほうがよい。
蛇足だけど、この島タケノコの煮物はビールのつまみに好適。

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現在では船浮は竹富町に編入され、村という行政単位はつかないものの、まさにユネスコの自然遺産まっただ中のところで、わたしも何度かここの民宿に泊まったことがある。
そういうわけで現在の船浮を紹介しておこう。
これは戦前の写真(に似せて加工したわたしの写真)である。

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船浮の背後の山を越えると、徒歩15分ぐらいで「イダの浜」という無人の砂浜に出る。
わたしがはじめてこの海岸に立ったのは9年まえのことで、その美しさに感動したことは当時のこのブログに書いた。
同じことをまた書くのもナンだから、ここでは別の視点からこの海岸について書いておこう。

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いったいイダの浜のどこがわたしを惹きつけるのだろう。
ひとつ思い当たるのは、イダの浜の周囲には人工の建造物がまったくないということ。
しいていえば遠方の岬に小さな無人灯台が見えるけど、あとは後ろをふりかえっても、儀助が見たころのままの亜熱帯の森である。
人間の気配のまったくないという自然環境は、人間ギライの厭世家には大きな安らぎを与えてくれるもので、英国の女性探検家クリスティナ・ドッドウェルも、そんなことを書いていたのを読んだことがある。

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天然のままの海岸を愛することでは人後に落ちないわたしのこと、人間の気配のまったくないこの海岸で、カニとたわむれているのは幸せなことだっだ。
思えばわたしの世代は不思議な幸運にめぐまれていた。
わたしが子供のころはまだ郷里には、江戸時代から連綿と続いている素朴なアナログ社会が健在だったし、終活時期の昨今では、江戸時代の農民にはとうてい想像もできないデジタル社会も見ることになった。
橋のまん中でまったく異なる両岸の景色をながめたようなものだ。
くだらないことに感心しているという若い世代は、おそらくデジタル時代しか見ることが出来ず、数値でなんでも割り切れる社会が、人間のこころにうるおいを与えてくれるとは、わたしにはとても思えないんだけどね。

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願わくばイダの浜の美しさよ、永遠にというところだけど、そう書いている最中もわたしのこころは逡巡する。
こんなことを書いて、もの好きが殺到したらどうなるだろう。
あの美しい海岸を美しいまま、永遠にわたしだけのものにする方法はないだろうか。
あるじゃないか。
わたしはイダの浜の美しさを永遠に記憶にとどめたまま、あの世に行くんだから、そうか、そうか、案ずるより産むが易しだった。

イダの浜でしばしの陶酔のあと、わたしは船浮集落にもどった。
儀助も船浮にもどって昼メシを食うことにしたけど、彼らのこの日の昼食は、船浮駐在所の川崎という巡査がご馳走してくれた。
彼にいろいろ話を聞いてみると、最初は家族同伴で赴任したものの、2年まえに村の子供が脳膜炎で死んだということがあり、ここはマラリアが猖獗をきわめて危険なので、妻子は鹿児島の実家に帰しましたとのこと。
あなたはマラリアに罹らないのですかと訊くと、わたしはしっかり対策を立ててますからねという。
やはり夜は布団をひっかぶり、汗まみれになって寝るのだそうだ。
ついでに焼酎をあびるほど飲むかどうかは聞き漏らしたけれど、そんなことで蚊に喰われないなら、マラリアなんて恐るるに足らずではないか。
彼は外出するときもかならずいちど沸騰した湯を持参して、生水はけっして飲みませんという。
なーるほどと、登山の最中に川の水を牛飲した儀助が感心したかどうかわからない。

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鹿川村から急いで帰ってきたにしてはのんびりしているけど、まだ迎えの大有丸は影もかたちも見えないから、あわてる必要はなかった。
午後になってサバニに乗り込み、船浮を後にして、儀助たちは祖納の役場に帰り着いた。
ここは西表島における調査の出発点で、最初は時計まわり、つぎに反対まわりで、儀助は島の海岸線をほぼすべて見てまわったことになる。
マラリアには罹らなかったけど、虫に刺された足が腫れ上がって、儀助はだいぶ難儀していたそうだ。

翌日は内離島が目のまえなので、もういちどこの島に渡り、廃鉱間近の炭鉱で責任者の三谷氏から話を聞いた。
汽船の燃料コストや、荷物積み込み人夫の給料については、やっぱり赤字だそうて、起業家になるのも楽ではないようだった。
その後、島の最高地点に登ってみると、沖から汽船が近づいてくるのが見えた。
大有丸が約束どおり船浮まで儀助を迎えにきたのである。

三谷氏や案内をしてくれた木場巡査などに別れを告げ、儀助が大有丸に乗り込んだのは明治26年7月28日のことだった。
これで西表島の探検と調査は終わりなので、彼は船のなかでこれまで見てきた島の総括をした。
とはいっても、貧しい農民を苦しめる税法を改革するにはどうすればいいか、開墾地の必要性、人口を増やす方法など、くそまじめな儀助らしい。
現代のわたしたちには役に立たないことばかりだし、興味のある人もいないだろうから、詳細は省くことにする。

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荷物の積み込みなどで2日間を船上で過ごしたあと、「水落の滝」で給水をしたのち、7月31日に大有丸はつぎの目的地である与那国島に向かって出航した。
この滝はマングローブの森のとっつきにあり、垂直の岩から水が流れ落ちていて、むかしから島の人々にとっては貴重な飲料水の補給場所だったところである。
儀助が旅をしたころは、ここでクロダイやスズキなどが入れ食いで釣れたという。
わたしもいちど行ったことがあるけど、さすがに現在ではそれほど魚影が濃いようには見えなかった。
この滝を見たい人はシュノーケリング・ツアーにでも参加すれば、寄ってもらえる可能性がある。

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2022年7月19日 (火)

沖縄/自然とともに

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ゴーギャンという画家がいる。
いるなんて絶滅危惧種みたいな言いかたをしなくても、だれでも知っている有名な印象派の画家だ。
彼もそうとうの変人で、それなり平穏にすごしていたフランスでの生活をおっぽり出して、南海の楽園(とそのころは思われていた)タヒチに永住してしまった。
いったいどうしてそんなということは、女性には永遠の謎だろう。
しかしわたしのような厭世家にはわかるような気がする。
わたしももうたっぷり世間の荒波に揉まれて、いいかげん世間にうんざりして、自然がいっぱいの西表島に移住を夢見るじいさんなのだ。
実行しないのは、ただ勇気がないのと、先立つものがないせいである。
無人島だってタダでは住めないのだ。

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船浮の民宿のおやじさんに聞いた話では、近くの無人島にひとりで住みついて、田畑を作り、自給自足の生活をしている日本版ロビンソン・クルーソーみたいな男性がいるという。
不法滞在ですかと訊いてみたら、ちゃんと地主さんの許可をとっているよという。
無人島にも地主さんがいるのかとがっくりしたことはさておいて、うらやましい話であるけど、電気が引いてなければ、パソコンも使えないだろうから、それがないと生きていけないわたしには真似できない。
いまでもひとりで暮らしているのだろうか。
ちゃんと老齢年金なんかもらってんのかしら。
現在ならユーチューバーになって、無人島の生活を発信し続ければ金持ちになれていたかもしれない。

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さて、御座岳を越えた笹森儀助のその後だけど、いったん祖納(そない)村にもどって、内離島の炭鉱を視察したことはすでに書いた。
祖納村では彼は役場の建物を宿にしていた。
この建物はこのあたりでは立派なものだったけど、部屋のなかにトカゲやヤモリやクモ、ダニ、シラミが徘徊していて、儀助も2カ所ばかり食われてカユかったそうだ。
ここでは方言で「ヤネマブリ」というトカゲの名前が出てきた。
明治の日本人はトカゲやヤモリぐらいでは驚かないだろうから、これはキシノウエトカゲだったかもしれない。
これはトカゲにしては大きいもので、写真を撮ったことのあるわたしもヘビかと思ったくらいだ。

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西表島はユネスコの自然遺産にも選ばれたくらい自然の豊富なところである。
最近観光客が増えてそうした自然をおびやかしているけど、この島では本土ではなかなか見られないめずらしい動物が、手の届くような近距離に見られる。
民宿に泊まれば壁にヤモリが張りついているし、海辺に出れば、いたるところにヤドカリやシオマネキがうごめいてる。
食堂でカレーを食べていると、庭の樹木に赤い鳥が舞い降りる。
あれはナンダということで、とりあえずビデオに収めておいて、あとで確認したらアカショウビンだったということを、わたしはじっさいに経験した。
哺乳類(イリオモテヤマネコ)、野鳥、爬虫類から両生類、魚類、昆虫など、自称ナチュラリストにインスピレーションを与える動物はひじょうに多いのだ。
これなら自然が豊富だということで、ナショナル・ジオグラフィックが取材に来てもおかしくない。
そんなことをいわれたって、明治時代にNG誌はまだなかっただろうという人がいるかもしれないけど、この本は1888年の創刊だから儀助の旅より5年も古いのである。

今回は西表島の自然についての画像をどさどさ載せておこう。
遅ればせながら、わたしは西表に行くたびダーウインになった気分だ。

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内離島の炭鉱を視察したあと、儀助はサバニに乗り、崎山村の網取(あんとぅり)という場所に上陸した。
場所はこの地図のとおりで、写真は現在の網取だ。

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わたしがダイビング目的で西表島に行ったのは44年まえの1978年、ということはもはや半世紀ちかくまえのことである。
沖縄に行ったのはこのときが最初で、サンゴ礁の海を見たのも初めてだったけど、網取の浜に上陸したときのことを忘れはしない。
昼メシを食べたあと、砂浜で素潜りをして吃驚した。
腰までぐらいしかない深さの海底に、盆栽のようなサンゴや、触手をゆらせたイソギンチャクが点々としていて、そのひとつひとつに小さな熱帯魚が群れていた。
イソギンチャクと共生するという不思議な生態のクマノミもいた(実物をはじめて見た)。
すこし深みには丸太ん棒のようなコブシメ(イカの仲間)が、水中をただよいながらじっとこちらを見つめていた。
そこはまさに天然の水族館だったのだ。

この海に魅せられて、わたしはその後3回も同じ海岸に上陸している。
陸から行く道はないので、ダイビングやシュノーケリング船に便乗して行ったのだ。
40数年まえには戦争中の遺物のような、崩れかかった桟橋しかなかったけど、現在の網取には東海大学の海洋研究所があって、桟橋も立派なものがある。
それでも研究所はふだん無人だし、見渡すかぎりの周囲には、わたしが初めて見たときと同じように、ヒカゲヘゴやアダン、巨大シダの茂る原始のままの密林が静まりかえっている。
自然に抱かれる幸せはゴーギャンでなくともわかるだろう。

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西表島でシュノーケリング・ツアーに参加すると、網取湾のあたりに行くことが多い。
このあたりは貴重なサンゴ礁の宝庫で、潮が引くと腹をこするんじゃないかと思えるほどの浅瀬に、エダサンゴ、ウチワサンゴ、テーブルサンゴなど、種類の異なるサンゴ礁のみごとな群落が見られる。
タンクを背負って本格的なダイビングをすれば、イボヤギなどのソフトコーラルと、そのまわりに色とりどりの小魚が群れる幻想的なお花畑を見ることも可能だ。
ただ、ちと心配だ。
こんなことを書くと観光客が押し寄せて、ただでさえ荒廃のすすむ沖縄のサンゴ礁の破壊につながらないだろうか。
しかし自分はもう十分楽しんでしまったから、ほかの人は来るなというのでは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」になってしまう。
観光地と自然保護を両立するのはむずかしい。
まったく立ち入り禁止にするのもナンだから、屋久島のように上陸制限でもするか、富士山のように入山料を請求するか。

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網取には古い集落の廃墟が残っている。
これは昭和46年まで存在した“あんとぅり”という村の跡だ。
西表島ではマラリアで全滅する村も多かったのに、儀助が尋ねた当時、この村は戸数11で、人口は68人ほどいて、いくらか増える傾向があったという。
増えた原因はわからないけど、村人が村を棄てたのは沖縄が本土に復帰したあとだから、風土病に追い立てられたわけではなく、過疎と交通の不便というべつの要因だったようである。
いまここに村民たちが残した石碑が建っていて、廃村に至った理由が刻まれている。

網取村は西表島の最南端に300有余年の歩みを残した。
耕地や交通の不便と人頭税の重圧に耐えて村人は父祖の築いた繁栄を守ってきた。
しかし、政治の貧困による経済の行きづまりと医療、教育の不備を始めとする孤島苦がつのり、ついに昭和46年7月14日に全員離村を余儀なくされた。
ここに私たちは全体の祖先の霊を祀り、四散した村人のよりどころとするためこの碑を建てる。
            平成8年9月  うるち会建立

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網取村のとなりにあるのが崎山村で、ここでも儀助は役場の建物に泊まった。
役場があったということは、崎山村のほうがこのあたりの村の中心だったらしく、儀助が尋ねたころは戸数が15、人口は73人だったという。
村としての機能はまあまあ備えていたようで、多いときには160人にも住人がいたそうである。
この村も昭和20年(1945)に廃村になり、ためしに現在の衛星写真をにらんでみたけど、上空からでは村の痕跡すら発見できなかった。
儀助の文章では、“港は北に向かって開き、東・南・西に山がそびえていた”、あるいは“港から数キロ行くと、左右に大きな岩が屹立していた”、また“村は崎山湾の西岸に接し、山の中腹にある”などとあるけど、衛星写真では土地の高低まではわからないので、探しようがない。
村のはずれに泉があって、オタマジャクシやガマが棲んでいたそうだけど、いくら高精度の衛星写真でもそりゃ写らんだろう。

崎山村が廃村になったのは網取に先立つこと26年だから、現地に行ってみれば石垣くらい見つけるのはむずかしくないと思われる。
しかし、おそらく成長の早い熱帯の植物に埋もれてしまっているだろう。
YouTubeには廃墟を探訪するというチャンネルもよくあるけど、だれか西表島の廃村を訪ねるチャンネルを制作してくれないか。
これまで書いてきたように西表島には、風土病で全滅した村、かってそこに人間の営みがあったことの痕跡がたくさん残っているはずなのだ。
さいわい最近では登山や探検のための用具も儀助の時代とは比較にならないし、個人で海を渡れるカヌーやカヤックもあり、薬品も発達しているからヤマビルやマラリアの恐れもない。
うん、わたしがもっと若けりゃ自分でやっていたんだけどね。

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でも人々が死に絶え、なにもかもが大自然のなかに還ったというのは、西表島にとって幸せだったかもしれない。
かってNHKKの「ワイルドライフ」という番組が、「奇跡の島々」というタイトルで南西諸島を特集したことがある。
日本人ならゴーギャンのようにタヒチまで行く必要はない。
世間の波にもまれ、人間関係にイヤ気がさし、絶海の孤島にでも出奔したくなったら、この南北に細長い列島で、わたしたちはいつでもパスポートなしに奇跡の島々に行くことができるのである。

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2022年7月 7日 (木)

沖縄/御座岳を越えて

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西表島に着いた翌日、祖納村のコーヒー試植地を視察したおりに、儀助は船浮湾を遠望した。
この湾内は軍艦でも停泊できる好錨地であるし、近くには優良な炭坑もあるので船の燃料にも不自由はしない。
惜しむらくはまわりが山ばかりで、集落がないことだ。
まごまごしていて外国にでも目をつけられたら、国防上も問題アリだから、ここはひとつ自分が島内をこまかく探検し、地理を把握して日本政府に報告しておこう。
ということで儀助が考えたのが、仲間川をさかのぼり、御座岳山頂を経由して、島の西側にある船浮湾へ抜けるコース。
舟を使って行けるところまで行けば、徒歩の区間はおそらく10キロぐらいだろう。

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そう考えて、視察のあい間にだれか探検に協力してくれる者はいないか、金はいくらでも出すぞと尋ねてまわったけど、だれもかれもマラリアに罹りに行くようなものだといって尻込みした。
県庁職員の後藤氏も、あなたはここ数日もうだいぶ疲労していますよ、そんな体で島の横断なんて無理ですという。
こういわれると儀助の浪花節精神がうずく。
キミのいうことはもっともだ。
しかしいかなる危険があろうとも、世のため人のため、日本帝国のために、たとえひとりであってもオレは行く。
あきらめたのか、あきれたのか、ついに後藤職員も、あなたがそれほどまでの覚悟ならわたしも命は惜しみますまい、あなたとともにどこまでもと、ここは浪花節兄弟ということになった。

まだパソコンもネットもない時代だから、儀助は出発のまえに地元の古老や猟師を集めていろいろ情報を収集した。
ベテラン猟師がいうには、いまだかってこの山脈を無事に越えた者はいない。
猟師は獲物を追って山に入るけど、せいぜい1キロか2キロ入るていどである。
まえに植物学者の田代安定、あとに県庁の役人だった田村熊治が挑戦したことがあるけど、とにかく道なき道で、田代さんは山を横断するのに3泊を要したばかりか、このときマラリアに感染して村に5、60日も滞在するはめになった。
そんなところだから、金をいくら積まれてもとても島の横断なんてする気にはなれない。
そこをなんとかと口説き落とし、儀助はようやく2人の案内人を確保した。

西表島の最高峰は古見岳で、これは標高が470メートル。
たいしたことがないと思う人がいるかもしれないけど、海からすぐに計った高さだし、まわりは亜熱帯のジャングルだから甘くはない。
御座岳はこれにつぐ高さで421メートル。
現代ではヒマラヤや、南米のギアナ高地でさえトレッキングツアーがあるくらいだから、西表島のこのふたつの山も征服してみたいという人は多いらしく、ガイドつきで比較的かんたんに登るツアーもあるようだ。

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儀助の旅は、奇しくも日本登山史に名をとどめる英国人ウエストンが、日本アルプスを探検しまくっていたころと重なるけど、そういうことはべつにして、まだ日本人が探検目的で山に登るのはめずらしい時代だった。
そこに山があるからなどと、道楽みたいな登山もあるはずがない。
現在のようにゴアテクスの合羽や、わたしの持っているL・L・Beanの登山靴のようなグッズのない時代である。
儀助のスタイルは合羽の代わりに油紙、足もとはワラ草履だったそうだ。
雨にそなえて西洋式のコウモリ傘を持っていったとあるけど、ナニ考えてんだろうね。
山中での食事に備えて、人数分の糧食と煮炊きするための用具、例によってコンデンスミルクなどを携えていた。

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儀助が島を横断するための探検に出発したのは、明治26年7月23日のことで、夏の暑さのまっ最中だった。
仲間村役場で一泊したあと、朝の7時に、彼は県庁の後藤職員と、ほか2名の案内人とともにサバニ(沖縄独特の丸木舟)を使って仲間川をさかのぼった。
川の両側には髭木という木が繁茂していたというけど、これはマングローブのことで、儀助にしてはめずらしく、ヒルギの実というのは中指ぐらいの大きさで、上下がとがり、落ちたあと流れに乗って適当な場所で繁殖すると、その生態についての講釈がある。
こういう記述がたくさんあると、ダーウィンみたいでおもしろいんだけど、儀助は博物学者ではなく、あくまで政府の視察官であるから、彼の関心事はべつのところにあった。
彼は周囲の観察に余念がなく、もしも有為な人物が相応の資本を投じ、マングローブを切り拓いてこのあたりに田畑を開発すれば、気候温暖なところだから二毛作もできるだろうし、そうやって住人が増えれば外敵に対する関門にもなるだろうと、経世済民について考えてしまう。
やっぱり彼は明治のひと。

サバニで2里ほど川をさかのぼったところで、浅瀬に舟をすて、歩くことにした。
舟の出発点が不明のため歩き始めた場所がわからないけど、2里という距離から考えて、おそらくいま仲間川展望台のあるあたりと思われる。
このあたりミヤケという地名になっていて、木材を切り出すための作業小屋がいくつかあった。
強欲を絵に描いたような琉球王朝時代の村長は、自宅を新築するときとうぜんのように村人を夫役にかり出していて、この小屋はそういうときに作業員が寝泊まりするためのものだったけど、このときはだれもいなかった。
ここまで仲間村から1里半で、御座岳の山頂までさらに1里半の行程である。

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藪をかきわけ、昼なお暗い樹木の下をゆく。
上からぼたぼたとヤマビルが落ちてくる。
立ち止まってこれを叩き落せば、今度は新手がむずむずと足もとからよじのぼってくる。
こいつの対策としてはタバコがいいそうだ。
ケチケチ旅行で有名な下川裕治サンは、朝日新聞の仕事でネパールに行って、盛大にヤマビルに襲われたけど、タバコの火を押しつけるとポロリと落ちたという。
儀助がタバコを吸ったかどうかはわからない。

ヒルというのは医学のほうで使い道があるので、気色わるいことばかりではない。
うっ血した部位の血を吸い出したり、天然の抗凝血物質を分泌して損傷した組織への血行を改善するというので、北米では医療用ヒルが1匹10ドルくらいで売れるという。
で、こいつを大量に密輸しようとして、空港で見つかった男がいるということが、まだそれほどむかしではないナショナルジオグラフィックに書いてあった。
空港職員も荷物を開封してさぞかし驚いたことだろう。

儀助たちは竹藪に飛び込んでようやくヤマビルの襲撃をのがれた。
この竹藪は赤茶色の光沢のあるめずらしい美竹で、それが御座岳の山頂ふきんに繁茂していたというから、つねにそういう竹を探している熊本の篠笛作家のKさんに教えてやらなくちゃ。

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昼の12時、御座岳の山頂に着いた。
ここからの展望では、東に仲間湾、西に船浮湾、北には西表島の最高峰、古見岳が見え、消えかかっていたものの、ここまでかろうじて人の歩いた跡がついていたという。
御座岳は現代ではそれほど困難ではないトレッキングコースになっているから、とちゅうの山道や山頂からの写真もかんたんに見つかるだろうと思ったら、意外とそうではない。
九州の最高峰がある屋久島なんかに比べると、いまいち魅力がないのかもしれない。

山頂で昼飯を食ってただちに下山を開始。
ながめた景色からおおよその見当をつけて歩き出したものの、また森林に入り込み、なにがなんだかわからなくなって絶壁の上に出てしまった。
崖のへりを行ったり来たりしたものの、これを乗り越える道が見つからず、やむを得ずして別の方向から谷底に下りた。
山で道に迷った場合は尾根を歩くのが鉄則だけど、その禁を破ったわけで、西表というそれほど大きくない山塊だからよかったものの、北アルプスだったら彼ら全員が遭難していたかもしれない。
谷川にそって進むとまたヤマビルに襲われるし、杖代わりにしていたコウモリ傘は、とっくに骨だけのホウキのようになっていた。

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のどの渇きに迫られたけど、谷川の水はどこまで行っても赤茶色に濁っていて、とても飲みそうになかった。
ヤケになった儀助は、オレは毒の有無を調べるための実験台になる、もしも飲んで死んだら献体をして、日本の医学のために役立ててほしいと宣言して、あとはもうヤケッパチ、手ですくって牛飲したそうだ。
牛飲というのは牛のようにガブガブ飲むということで、このくらいの根性がないと秘境で行きづまったとき生き延びることはできないのだ。

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べつに腹下しにもならず、ときどき木に登って方向を確認しながら、前進を続けた。
この辺には陸棲のカメが多かったという。
20センチぐらいの大きさというから、現在では天然記念物のセマルハコガメだろう、
去年の暮れに西表島に行ったときは、その数が減っているのが気になった。
以前西表の船浮に行ったときは、民家の庭で朝早くイヌの餌を横取りしていたのをよく見かけたのに、去年の暮れに行ったときは1匹も見なかった。
11月のある日を見ただけだから、激減したとはいいきれないけど、最近はYouTubeでカメやヘビを飼って、その映像で稼ごうという人が多いからちと心配だ。
カメくらい密猟が楽な動物はいないのである。
毒や牙をもつタイプはめったにいないし、捉まえるのも簡単だし、濡れたタオルか何かでくるんでおけば、バッグの底でおいそれと死ぬ心配もないし、鳴くわけでもないし、暴れるわけでもない。
ひょっとすると本土から、プロ、アマを問わず、密猟業者が乗り込んでいる可能性がある。

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午後4時になった。
このころには全員がなんどか転倒して、手足にスリ傷をつくったり、足の爪を失ったりしていて、もう歩けねえと悲鳴を上げるのを、儀助は冗談をいって励ます。
またかすかな人の歩行跡を発見していくらか安堵したころ、ようやく中良川(現在の仲良川)の水源に到達した。
もう日が暮れていたからこのあたりで夕食にすることにして、荷物をといてみたら、陶器製の釜が粉々になっていて、これではご飯を炊くこともできない。
ここでも儀助は強引というか、ヤケッパチというか、なんの、米を水にひたして生で食べ、あとで焚火にあたれば腹のなかでご飯になるさ、イノシシ肉もあるし醤油もある、飢え死にするほうがむずかしいと全員を叱咤する。
もっとも彼はこのとき虫歯が痛んで、コンデンスミルクひと缶だけで食事をすませたそうだ。
そしてやっぱりヤマビルに盛大に襲われて、安眠するどころじゃなかったそうだ。

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朝の5時、夜営地を出発。
中良川にそって下ると、川岸に水田が見えてきた。
このあたりに住んでいる農民がいるわけではなく、やはりべつの島からの通い農民の田んぼだった。
わらじもどこかに飛んで、泥だらけの裸足になりながら歩き続けると、ようやくたまたま舟で川を上ってきた農民に出会った。
儀助はタフだけど、スーパーマンではない。
ああ、殺す神あれば助くる神もある、天はわれを見捨てずと、あいかわらず歌舞伎役者か浪花節である。
内務大臣の秘書待遇をふりまわして、この舟を強引に借り上げ、儀助はようやく祖納の役場にもどった。

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2022年6月24日 (金)

沖縄/密林のはざま

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ようやく雨が止んだので、儀助たちは南風見村からふたたび仲間村にもどった。
まえにキナ丸を与えた老夫婦に会うと、あまり薬に縁のない人々だから予想以上に効き目があったようで、病気が回復しましたと嬉しそう。
ただ中央から来た役人からじきじきに薬をもらったことについて、地元の役人をはばかる口調だったという。

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仲間村はなにもないところだけど、現代では仲間川の河口からクルーズ船が出ていて、両岸に生い茂るマングローブを眺めながら、上流にある天然記念物のサキシマスオウノキを見物に行くことができる。
西表島では浦内川のクルーズも知られていて、こちらは船の終点からその先のふたつの滝まで、山道をけっこう歩くことになるので、足の弱い年寄りや幼児を連れた家族などは仲間川クルーズのほうが楽である。
ここではわたしか体験した仲間川クルーズの写真をすこし。

儀助たちは仲間村では役場の建物に泊まることになった。
ここは村のなかのよさそうな家を貸間として利用していただけで、竹で作られた床にゴザを敷き、戸板は立てかけてあるだけ、それをロープで縛ってあったというから、あまり上等な家ではなさそうだ。
となりの部屋におばあさんが2人いて、3匹のイヌといっしょに暮していた。
晩飯のとき儀助は彼らの食事のようすを観察してみた。
主食はサツマイモで、イモの本体を人間が食べ、イヌにはむいた皮を与える。
最後にあまったものは人間とイヌが仲良く分け合っていたというから、明治時代のイヌの食生活がうかがえる。
ネコも当時はご飯にみそ汁をぶっかけた猫マンマで文句をいわなかったから、このころの犬猫は身のほどをわきまえていたようだ。

儀助たちが食事をすると、イヌは土足でゴザの上に上がってきて尻尾をふった。
八重山では人間も土足で部屋を歩きまわるのがフツーだったから、儀助は文句もいわずにイヌの目のまえで玉子かけご飯を食べた。
たぶん黙々と。
憮然として。
このイヌはペットではなく、イノシシを追い払うためのもので、どんな貧しい家でも3匹~6匹は飼っていたそうである。
孔子の言葉に“苛酷な政治は虎よりひどい”というものがあるけど、八重山ではイノシシの害が苛酷な政治よりさらにひどかったのだ。

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この家で儀助は琉球式の雪隠(トイレ)について、よほど感動したのか、詳しく書いている。
その構造は、丈が4尺、巾が3尺、萱で囲いが作ってあり、敷板は2、3寸の丸太だったという。
あまり詳しい説明はしたくないけど、ウンコを落とす穴は3寸(10センチほど)4方ぐらいの穴で、オシッコはそのまま丸太のあいだに流すとか。
慣れれば簡単でいいとはいうものの、周囲の萱が生い茂って大蛇の巣窟みたいだなと儀助は思う。
たまたまこのとき彼は下痢ぎみで、夜中にトイレに行かざるを得なかった。
雨が降ったり止んだりしていたので、まっ暗ななかを傘をさして出かけていき、トイレでうーんと力んでいると、何物かが彼の尻をぺろりとなめた。
うわあ、出たあ。
てっきり毒蛇でもあるか、志しはまだ道半ばであるのに、オレはついにこんなところで果てるのか(儀助はときどきオーバーな言い方をする)。
ところがこれはトイレの下で飼われていたブタの仕業だった。
沖縄では農家がみんなブタを飼っていることはすでに書いた。
ブタは人間が落としたものをよろこんで食べ、人間はそのブタを食べる。
べつにめずらしくない。
わたしはロシアの農村で、やはり下がブタ小屋になっているトイレを見たことがある。
便秘になったらブタに気のドクだなと、儀助はいらん心配をしていた。

このあと儀助はガイドを仕立てて、仲間川から御座岳を経由し、西表島を縦断することになるけど、それは次項にゆずって、ここでは縦断したあとの彼の足跡をたどることにしよう。

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島を縦断して、儀助はようやく出発地点の租納に帰りついた。
租納でまた村のつまらない経済白書を点検したあと、翌日、彼は内離(うちばなり)島にある三井炭鉱の視察をする。
儀助が旅をしたころ、ここには成屋村という村があり、大正年間に廃村になったというから、衛星写真に痕跡が残ってないか探してみた。
写真の◯印の中に畑の跡のようなものが写っていて、東の方角に租納村が見えたという位置的にも合致するから、これがそうらしい。
すぐ上の3番目の写真は、白浜港から眺めた現在の内離島だ。

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現在、内離島には連絡船がないから、一般の観光客がここへ渡ることはできない。
しかし最近ではシーカヤックやカヌーによるアクティビティがたくさんあるので、観光客が内離島や外離島などの離島はもちろん、西表島を一周してしまうことも可能なようだ。
え、わたし?
カヤックなら前々からいちどやってみたいと思っているんだけど、じいさんがやるものじゃないから一度もやったことがないワ。

西表島は石炭の島である。
儀助が島を縦断中にも、あちこちに露出した石炭の鉱脈を見たという記述がある。
石炭というのは数千万年から数億年まえの植物が地中に埋もれて出来たということを、これは小、中学のころ教わったから、ということは西表島はそんなむかしからそこにあったということになるのか。
これは思索に値するけど、わたしの手に負えない科学の専門分野のようなので割愛。

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成屋村には三井炭鉱の第1鉱区があった。
まだ汽車も船も石炭で走っていたころだから、燃料を産出する西表島は貴重な島だった。
儀助はここの事務所で、三井の代理人である三谷なにがしから、創業以来の沿革や経営状況についていろいろ説明を聞く。
じつは彼が訪問したころ、すでに炭鉱経営は山に乗り上げていた。

この島の石炭層はいちばん厚いところで4尺2寸(130センチほど)、それ以外でも3尺2寸を下らなかったという。
そんなことを聞いても素人にはわからないけど、島全体では埋蔵量は300万トン以上あり、さらに掘り進めれば下のほうにはもっと優良な鉱脈が埋蔵されている可能性があって、ほとんど無尽蔵だったという。
産出した石炭は中国の福建省、アモイ、香港などでも販売されていた。
三井財閥が乗り出したくらいだから、まあ、優良な炭田だったのではないか。

経営状態を尋ねると、ある年の経費が3100円あまりで、販売実績は2402円だったそうだ。
これでは赤字である。
このあとに経費の内訳があって、鉱夫として現地の沖縄県民以外に、仮監獄を作って懲役人を150人ぐらい使っていたらしい。
囚人まで労働にかり出すのはひどいかも知れないけど、そんなことはたいていの国がやっていた。
ジャニス・ジョプリンの歌で知られる「ボール・アンド・チェン」という曲は、米国の囚人労働を歌っているし、「レ・ミゼラブル」でジャン・バルジャンは、囚人として使役されているとき海に飛び込んで脱走しているのだ。
しかしここも例のとおりマラリアで死ぬ人間があとを絶たず、3年間で100名以上の鉱夫が失われた。
儀助が視察したころ、炭鉱は経営不振で閉山の決定が出されたばかりだったのだ。

炭鉱の歴史というのは日本経済の変転をよく物語っている。
戦後になってエネルギー政策の変更があり、石炭が石油にとって変わられると、炭鉱の閉山が相次いだ。
九州の筑豊、三池炭鉱、北海道の夕張炭鉱などなど、それまで基幹産業だった炭鉱の閉鎖は社会的にも大きな問題になった。
五木寛之の「青春の門」や、映画「にあんちゃん」などに、当時の炭鉱町のようすが描かれている。

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連絡船がない内離島に比べると、西表島の炭鉱のうち一般観光客がもっとも簡単に見学できるのが、浦内川のクルーズ船の発着場から1キロほど入ったところにあるウタラ炭鉱跡だ。
炭鉱というとどうしても非人道的で過酷なイメージがついてまわるけど、この炭鉱は、少なくとも開業当初は文明的なものだったようだ。
経営者の野田小一郎社長は、劣悪な条件の改善を進めていた。
十数万円の費用をかけて総2階建て400名収容の独身寮や、十数戸の夫婦用宿舎、売店などの各種設備が備わり、労働者の娯楽のため300名を収容できる集会場では、芝居の上演や映画の上映が行われた。
注目すべきは、衛生状態を改善するため住居にガラス窓が多用され、上下水道や防蚊装置、大浴場、診療室が整備されていたことである。
おかげでマラリアの罹患率は、西表島の炭鉱の中でも抜きん出て低かったそうだ。
どうやらウタラ炭坑は例外的に文明的・模範的な炭鉱だったらしい。
長崎の軍艦島も厚生施設の完備した炭鉱で、韓国の坑夫たちはいい給料にひかれてやってきた者がほとんどであることがわかっている。

しかし太平洋戦争の勃発で、ウタラ炭鉱も採掘が立ち行かなくなり、昭和18年(1943)に閉山になった。
いま建物はほとんど残っていないけど、レンガの柱にまきついたガジュマルの根が、アンコールワットの廃墟のようで一見の価値はある。
わたしがここへ行ったときは、廃墟にビール瓶が散乱しているのを見たけど、あれは閉山でヤケッパチになった坑夫たちが、最後の宴会でもしたのかしら。

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西表島の炭鉱については、台湾人の坑夫に焦点をあてた「緑の牢獄」というドキュメンタリー映画がある(そうである=わたしは観ていないのだ)。
台湾の監督が作った2021年の映画だから、公開されてからまだ1年ほどの映画だ。
この島で台湾の坑夫がひじょうに過酷な労働に従事させられたというんだけど、なんだか韓国人が騒いでいる軍艦島みたいである。
ネットで“西表島”、“炭坑”で検索してみると、たしかに過酷な条件で働かされたようなことが書いてある。
しかしわたしみたいな怠け者にいわせれば、戦前は農民にせよ、駕籠かき人夫にせよ、吉原の娼婦にせよ、過酷でない仕事なんかほとんどなかった。
日本人としては慰安婦問題のように、話が勝手にひとり歩きされては困るので、強者が弱者を食いものにする歴史のひとつであり、人類共通の宿痾と考えてほしいといっておく。
現在の日本では、タコ部屋は労働基準法で禁止されている。

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西表島の炭鉱について調べていたら、「監獄部屋」という本がそれに触れているというので、例によって図書館で借りてきて読んでみた。
推理小説全集に入っていたくらいだから、歴史や思想的なものもあるわけじゃないし、ただ読者をひっかけるためのアイディアを優先させた短編小説で、無理に読むことを勧めはしない。

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2022年6月 8日 (水)

沖縄/南風見

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儀助たちは仲間村から、南風見(はえみ)村に移動した。
現在の西表島は、おおざっぱにいうと、島の東半分だけに道路があって、それは北と南でぷっつんと途切れている。
南のぷっつんにあったのが南風見村(現在は竹富町の一部になっていて “村”はつかない)である。
仲間村から南風見村に行くためには仲間川を渡らなければならないけど、ここはサバニで渡ったというから、西表島で2番目の大河であるこの川にはまだ橋がなかったようだ。

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現在の南風見には「ラ・ティーダ西表」というホテルがある。
高級の部類なので泊まったことはないけれど、建物のまえまでならわたしも行ったことがある。
本館は映画にでも出てきそうな南欧ふうの建物で、これ以外にコテージふうの別館がある。
しかしホテルの宣伝をしても1円ももらえるわけではないから、ま近に見た現実は宣伝写真のようではないとだけいっておく。

儀助のやってきた南風見村の戸数は9軒、人口は29人で、ほかに新城、黒島などから開墾のために送り込まれた農民が数十人合宿していた。
こんなふうによそから送り込まれた人のことを、八重山では「寄せ人」といったそうだけど、彼らはたちまち正面からマラリアに攻められ、背後からは過酷な年貢米(人頭税)に追い立てられていた。
儀助が視察したとき、寄せ人たちは風雨のため舟が出せず、食料が尽き、飢え死の直前だったという。
広い日本にこんな不遇な人々がいることを、ああ、政治家は知っているのかと、儀助はまた歌舞伎役者みたいにおおげさになげく。
寄せ人の運命がその後どうなったか知らないけど、大臣の秘書待遇の儀助がそれなりの手当てをしたのではないか。

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儀助の旅よりずっとあとになるけど、このあたりにはもうひとつ悲惨な歴史があった。
太平洋戦争の末期、波照間島の島民1590人が日本軍によって西表島に移住を命じられたのだ。
西表島はマラリアが猖獗をきわめる土地だということを知っていた島民は、抵抗したものの、抜刀して脅迫する軍人に逆らうことはできず、最終的には移住させられた島民の3分の1ちかくが、この病気で亡くなったという。
南風見村近くの海岸に「忘勿石(ワスレナイシ)」と命名された岩がある。
これは移住命令を解除してもらおうと、石垣島の師団長に直訴をした、波照間国民学校の識名信升校長が、悲劇を忘れないようにと文字を彫りつけた岩のことだ。
この写真は忘勿石と、そのすぐ近くに作られた記念碑で、天気のいい日にこの岩のある海岸から、彼らの故郷の島は正面に見える。

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儀助のころは南風見村でぷっつんだった道路は、現在では農道がもうすこし先まで伸びていて、サトウキビ畑や牧草地のある農地を抜けると、行き止まりが南風見田キャンプ場だ。
キャンプ場のまえの海岸はこんな感じで、沖に珊瑚礁のリーフが防波堤のように連なり、東家とシャワーがひとつだけという天然のままの海水浴場である。
シーズンオフは人っ子ひとりいない、カニとたわむるだけの、孤独な詩人にふさわしい海岸になってしまう。

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わたしは8年まえにこの海岸をぶらついたことがあって、そのとき海岸の岩場に大地が煮えくり返ったような地形があるのを見た。
波打ちぎわにあるのだから、ジュラ紀、白亜紀ほどむかしの地形なら波の浸食ですぐに消えてしまうだろう。
噴火のあと溶岩がそのまま冷えて固まったように見えたから、地質学的に比較的最近、西表島で火山の噴火があっただろうかと考えてしまった。
大津波ならあった。
沖縄は地震と無縁のような気がしてしまうけど、八重山も過去に何度か震災に見舞われていて、とくに昭和8年(1933)の地震と大津波では、1万2千人もの死者を出している。
やはり地震列島では、どこへ行っても福島の教訓を忘れるべきではないようだ。

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儀助は雨に降りこめられて、南風見村の総代の家に釘づけになってしまった。
この村に本土語を話す者はいなかったので、ヒマつぶしに民家にめずらしい品物や古書類でもあれば調べてみようと考えたけれど、価値のありそうなものはみんな以前の役人が持ち帰ったという。
それでも古い文書がわずかに残っていたので、それをチェックしてみた。
樹木の調査帳だとか、農産物の生産表、物品輸出入の代価覚書などで、そんなものをここで紹介しても退屈なだけなんだけど、なにかおもしろいことが書いてないかと、わたしもざっと目を通してみた。

樹木の調査帳に出てくる樹木の名前は、以前この紀行記の「国頭」の項で書いたものと重複するものが多い。
後注を読んてみたら、「国頭」のときの後注も参考にしろと書いてあったから、前にもどってそっちも参考にした。
めんどくさい本である。

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黒木は黒檀の1種で、1尺以上の太さのものが島内に500本、赤木はサトウキビを絞るときの圧搾車の台に使う木材で、4尺以上のものが島内に200本と、現代のわたしたちにはどうでもいいようなことばかりだ。
飢饉のときなどに食べる救荒植物として、方言のカタカナ名前の植物が出ていたけど、わかったのはソデツ(ソテツ)とアタン(アダン)くらい。
アダンは沖縄ではそのへんに適当に生えている植物の実で、かたちはパイナップルに似ているものの、これを食べるのはヤシガニくらいだ。
サルムシルはオオタニワタリのことだそうで、このシダ植物の新芽は、西表ではラーメンの薬味に使われるけど、ネギに親しんだわたしには、あまり薬味らしくなかった。

すこし古いけど明治18年の輸出物品の代価表というものがあって、輸出品は海人草が170斤で米2俵2斗あまりに、山藍400斤がやはり2俵2斗に値したとある。
輸入品のほうでは、砂糖が7斤で米1斗4升に値したという。
まだこのころ西表島では砂糖は外から輸入していたらしく、こんなにサトウキビの栽培に向いた土地なのにと、儀助は残念がる。
家庭用品もみんな輸入品で、夜食用のお膳や、すり鉢10個、安物の壺10個なんてのもあった。
家畜の牛も輸入されていて、雄牛のほうが高いところをみると、これは食用ではなく農耕用だろう。
とくに書いてないけど、亜熱帯で使役するのだから水牛だったかも知れない。

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当時は本土でもまだ税金を、米や穀物などの作物で物納するのがフツーの時代だったから、だれが作物をどのくらい納めたか、いちいち現物を役所に持ち込まなくてもすむように、板の札や縄をひねった符丁のようなものを作っておいて換算の目安にした。
ここに載せたのが「板札の図」と「藁(ワラ)算の図」というその符丁で、笹森儀助の本ではめずらしく図が載っていたから、参考のために載せておく。
板札のほうはたんなる◯や△の記号に過ぎなかったから、わたしがフォトショップを使って同じものをこしらえ、藁算のほうは本からコピーした。

この符丁を使って、たとえば米1石は大縄1本、1俵は結び目をつけた小縄、1斗は結び目がないもの、1升はこれこれという具合に、納税した穀物量を記録したのである。
じっさいの使用では役人の裁量がかかわって、かなりいいかげんだったらしい。
わたしが少年のころ、初めて免許証を受け取りに行ったら、警察署の待合室に年寄りがたむろしていて、むかしは免許証なんて木の鑑札だったよなんて話をしていたっけ。

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当時の本土と沖縄の貨幣価値の違いについても記述があり、沖縄の500文は本土の1銭、5貫文は本土の10銭という具合である。
ここに八重山の方言で「トナー」という言葉が出てきた。
これは“十縄”という意味で、まえにこの紀行記で紹介した、鳩目銭という安っぽい銅銭1貫目を、縄に通したものが10本という意味である。
1貫は3,97キロだから、トナーというと40キロ近い重さの銅銭ということになり、こんなものをかついで市場へ買い出しに行くのは大変だ。
もっとも家や土地を買う場合以外に、そんな大金が動くことはなかっただろう。

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儀助の本のもうひとつの図は、ウシが迷子になったときすぐ持ち主がわかるように、ウシにつけた目印だそうだ。
しかしウシの足型でもなさそうだし、耳を切ったと書いてあっても切り口の図とも思えない。
アメリカなら焼き印だし、最近の日本はマイクロチップを埋め込む時代なので、こんなものに頭を使っても仕方がないから、図だけを紹介して、いったいなんの図なのかということははしょることにした。

どうでもいい書類はこのほかに、雨乞いの通知状なんてものもあり、これはその最中の衣服の決まりや、殺生、家の建築・修繕を禁ずるというお達しで、違反した者は禁固刑や罰金が科せられたという。
しかし役人に酒や豚肉の饗応をして、それを逃れる者もいたらしく、わが日本帝国にそんないいかげんな法があっていいのかと、まじめでカタブツの儀助は手きびしい。

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米国の18代大統領だったグラント将軍は、南北戦争の北軍の英雄で、その勢いで大統領までのぼりつめた人だけど、米国の大統領としては、汚職やスキャンダルまみれで、ロクでもないほうの代表だったといわれている。
それでも好奇心に富んだ人で、退任したあと世界を見てまわった。
彼は中国でイスラム教徒(回族)が豚肉を食うのを見て仰天した、ということが邱永漢さんの本に書いてあった。
そんな彼が来日したおり(1879)に、日本には極端な金持ちがいないかわり極端な貧乏人もいない、なかなか公平な国だと誉めたそうである。
日本は当時から格差の少ない国で、アメリカは当時から格差のある国だったわけで、沖縄を視察してきた儀助は、国民のあいだの不公平を放っておけば、やがては日本でも貧乏人が増え、虚無党や社会主義者も増えるだろうとクールだ。

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このときの雨はだいぶ激しいものだったようで、翌日も儀助は総代の家に釘づけだった。
腹がへったねとぼやくと、総代の家の主人が、んじゃイノシシでも獲ってくるべと、槍を持ち、イヌを連れて出かけていった。
なんだか山の中へ山菜でも摘みに行くような案配だったから、儀助がいぶかしんでいると、主人はたちまち獲物を捕まえてもどってきた。
いかに西表島にイノシシが繁殖していたかわかるというものだと、これは儀助の感想である。
わたしは去年の11月に、船浮の民宿でイノシシ肉のスライスをご馳走になったので、そのときの写真をもういちど。

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2022年5月26日 (木)

沖縄/珊瑚と疫病

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西表島に到着した翌々日、儀助は県庁職員の後藤なにがしとともに鳩間島に渡った。
ご覧の地図が鳩間島で、西表島の上原港から5キロほど沖にあり、朝の8時にサバニで出発して、1時間半で到着したという。
とちゅうで刈り取った稲を山のように積んだ船をいくつも見た。
あれはなにをしてるんだいと後藤職員に尋ねると、鳩間島は珊瑚礁の島なのでマラリアがありません。
島民は水の豊富な西表島で稲作をし、収穫した稲をわざわざ鳩間島へ運ぶのです。
このへんは人頭税なので、田んぼがあろうがなかろうが、15歳以上のおとなは決められた量の年貢米を納めなけりゃなりませんからね。
八重山では西表島まで通勤で農業をしている島民は多いですよとのこと。

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わたしは初めて西表島に行った1983年に、この島をま近に見て、珊瑚礁の島というのは、天候次第でぜんぜんべつの風景になってしまうものだということを痛感した。
そのときは晴天で、エメラルドブルーの海の中心にぽっかり浮かんだ鳩間島は、まるで化粧品会社のポスターのように美しく見えたのである。
その後西表に行くたび、鳩間島を見られるようできるだけ上原航路で行くことにしてるんだけど、なかなか好天にぶつからず、島がそんな美しく見えたことがいちどもない。

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鳩間島のついでに、この島の近くにあるふたつのダイビングポイントを紹介してしまう。
ひとつは鳩離(はとばなり)島という小さな無人島で、この海域でダイビングをすると、よくこの島に上陸して昼メシにすることがあるので、知っている人がいるかも。
もうひとつはバラス島といって、これは草ひとつ生えていない完璧に砂だけの島である。
海の上から見ると砂だけでも、このあたりの海底はサンゴやソフトコーラルの花畑で、ひじょうに美しい。
4枚組の写真はこの海域でダイビングをした1983年のもの。
そんな私的な写真を載せるなという人もいるかもしれないけど、これはわたしの私的なブログであることをお忘れなく。
わたしにとってはかけがえのない思い出なのだ。

儀助が旅をしたころの鳩間島の人口は173人というから、西表島の全人口1,214人に比べても、小さい島の割には多いほうだった。
マラリアがないだけでこれだけ違うのだ。
ここで1時間半ほど聞きとり調査したあと、午後から海が荒れるといわれ、儀助は大急ぎで帰途についた。
油紙の合羽をひっかぶった儀助は、荒天の海でびしょぬれになり、それでもなんとか無事に上原港へ舞いもどった。
下の写真は上原港で、ここから上陸すると目の前に数軒の民宿がある。
ハイシーズン以外は、主人が副業(本業?)をしていて、宿のほうは留守のことが多いから、飛び込み客は注意が必要だ。

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わたしはここで「カンピラ荘」という民宿に2度ほど泊まっている。
この宿はまじめに営業していて、主人が留守ということはないから、シーズンオフでも安心して泊まることができる。
そして現代的に清潔でもある。
儀助が泊まった上原村の役場は、わりあいいい感じの建物だったけど、ノミやダニがいて、彼はそれに食われ、カユイカユイとぼやきながらの旅だった。

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儀助は視察のため島の東部に向かい、夕方の5時に高那村に着いた。
高那村というのは、かって西表でゆいいつの温泉を売り物にしていたホテル・パイヌマヤ(南のネコという意味だそうだ)があったあたりである。
このホテルはジャングルのなかのようなユニークな環境にあって、わたしもいちどは泊まってみたいと思っているんだけど、西表では高級なほうの部類なので、まだ泊まったことはない。
県道からこのホテルに入るかどに染色の店があって、魅力的な女性が働いていたということはどこかで書いた。
そんなことはどうでもいいんだけど、去年の11月に寄ってみたら、コロナのせいで店は営業してなかった。

高那村は戸数13、人口41人の貧しい村で、それでも役場の支所があり、こういうところにはかならず女性の小間使いが働いていた。
全体に島内に女性の少ないところだから、これも女性の雇用機会均等法のせいかしらと、明治時代に儀助がそう思ったかどうか、たぶん思わなかっただろうな。
どうしてよそから嫁をとらないのと訊くと、ここは疫病の島だからだれも来たがりませんとのこと。
儀助が見てまわると、マラリアのせいでこの村の西南に、やはり住人の死に絶えた廃屋が数軒あった。

そんな悲惨な村で儀助はまたケシカラン徴税の仕組みを聞いた。
ここでは正規の年貢米以外に、村民は運賃米という役人へのワイロに相当する米まで納めさせられていて、儀助の記述では、そのために男は生涯耕作してもサトイモしか食えず、女は生涯反物を織ってもボロをまとうしかなかったとある。
明治政府は種々の改革を断行し、これは当時のよその国の政治と比較してもよくやっているほうだったけど、現場ではまだ不正がまかり通っていたのだ。
なんとかしなくちゃいけないと、儀助はしっかりチクリ帳(報告書)に書いた。
彼の報告が功を奏したのか、儀助の旅の10年後に新税法が施行されて、島民はやっとこの仕組みから解放された。

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高那村のあたりでヨナラという地名が出てきた。
儀助に同行している後藤職員は、以前に小笠原で製塩業を経営した経験があり、ここは塩田にするのにふさわしいところですねという。
それはたぶん地図上のウ離島とのあいだあたりのことで、3千円ほどの資金を投じるだけで、150町ぐらいの塩田が拓けそうですという。
しかし儀助は投機や経営に興味がなかったらしく、そのまま通り過ぎた。
夏目漱石もそうだったけど、明治時代の日本人には金儲けをいやしむ風潮が残っていて、弘前藩士の末裔である儀助もそういうタイプだったのかも知れない。
現在のダイビングをする若者には、西表と小浜島とのあいだの「ヨナラ水道」は、マンタの出るところとして有名である。

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高那村で一泊したあと、儀助たちは雨のなかを出発し、野原村を経由して古見村へ向かった。
古見村は租納以前に島の行政の中心だったところで、前良(マエラ)川、後良(クシラ)川という二つの川にはさまれた場所にあり、康熙54年(1715)製という石造りの立派な橋がかかっていたという。
康熙というのは中国の元号だから、そのころの西表島も琉球王朝のもとで、あっちについたりこっちについたりしていたらしい。

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島の中心だったころは人口700名以上の大きな村だったのに、儀助が行ったころは140人ほどに減っていた。
村の村長は相撲取りみたいに太っていて、重ね芭蕉布に支那錦の帯をしめた豪華な礼装で儀助を迎えた。
なかなか学のある人間で、本土語(大和語)を話すことができて、八重山ではいちばん上等な役人に見えたという。
島民の悲惨な境遇を聞いていた儀助は、なぜこの村では人口が減り続けるのか、どうして貧しい島民のために働かないのかと村長に問い正した。
わたしは給料をもらって家族を養っているだけで、島民を増やす方法なんて知りませんと、村長はしゃあしゃあとして答えた。
笹森はおおいにいきどおってまたチクリ帳に書く。
その後村長がクビになったかどうかはわからない。

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古見村ではサトウキビと山藍、牧場の家畜などの経済調書もあらためた。
ウシの数では、オス牛が89頭いるのにメス牛が26頭しかいないことに気がついた。
ウシを増やしたいならメス牛のほうが多くなければならない。
現在でもそうだけど、八重山のウシは高級牛として知られていたので、どうしてこれをもっと増やして、島民の家計の足しにしないのかと尋ねてみた。
後藤職員にいわせると、県営牧場の主任は安全な島にいて、風土病がコワイものだから西表島まで来ません。
ほかにも一種のカルテルのようなものがあって、沖縄本島や石垣島の牧場主は、西表の島民が自主的にウシを飼うのをこころよく思ってませんのでという。
つねに庶民の味方である儀助は、不合理なことだと考える。

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古見村についてさらに調べてみると、以前は存在していた学校も廃止、病院は祖納にあったけど、ここも医師がいなくて廃院になり、あとは年に1回、医師の巡回があるかどうかだという。
これじゃ隔離島じゃないかと儀助の顔はくもる。
古見村の近くの村では、人口は男4人、女5人の都合9人で、そのうちの4人はよその島から強制的に移住をさせられた者だった。
15歳以下の子供はひとりもいなかったから、少子高齢化どころじゃない、この調子では村の消滅は確実だと儀助は思う。

翌日は小浜島に渡ろうとして、風雨のため断念し、島の南東部にある仲間村に向かった。
仲間村は仲間川の河口にあって、河口の対岸には、石垣島からの連絡船が着く大原港がある。
冬は海が荒れるので、連絡船は上原よりこっちに着く場合が多い。

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わたしは去年の11月にこの村にある「花ずみ」というカフェで食事をした。
小さい店だったけど、店内に芭蕉布や民芸品が展示してあって、凝った造りが興味深かった。
料理のほうはチャーハンで、挽肉の入った料理はわたしはニガ手である。

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この村は東、西、南を川と海にかこまれていて、往年の屋敷跡が多数あった。
琉球王朝はマラリアの恐ろしさに無知で、新城島や黒島など、近くの島から移民をつぎつぎと送り込んだから、ここも一時はにぎわったらしかった。
屋敷跡はそのころのもので、そしてやはりマラリアで荒廃したのである。

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村役場で病人はいないのかと訊くと、例によってイマセンという。
本当かいと、一軒ずつ当たってみたら、寝たきりの老人のいる家があった。
看病をしていたおばあさんにキナ丸を与えると、ふたりは手を合わせて儀助を拝んだ。
とにかくマラリアの猛威はすさまじい。
仲間村の近くに耕地に向いた草原があって、1年ほどまえに屈強の農夫15人で開墾を始めたところ、たちまち全員がマラリアで倒れ、事業は中止になってしまった。
西表には炭坑が多く、三井財閥のような大手の資本も入ったことがある。
坑夫として、囚人も含めた300人もの人間が送り込まれたこともあるけれど、ここもつぎからつぎへと風土病に倒れて、事業は中止のやむなきに至った。
ビキニの姉ちゃんたちがキャアキャアと遊びたわむれる現在の西表島とは、想像もできない時代のことである。

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