深読みの読書

2026年4月 6日 (月)

つげ義春と夏目漱石

アマゾンで注文しておいた、つげ義春の「紅い花」が届いた。
小学館の文庫シリーズで、同じ文庫の「ねじ式」を揃えれば、わたしがもういちど読みたい彼の作品はほとんどこの2冊に入ってるのだ。
以前にも持っていたんだけど、終活で処分してしまって、もったいないことをしたものだと思う。
そういうことはよくある。
処分した本を、ある日突然読みたくなることが。
脳梗塞で寝たきりのわたしは、作家の死を聞いて、むしようにその作品を読みたくなったのだ。
1冊300円の中古本だけど、これが与えてくれる喜びはとてつもなく大きい。

つげ義春と井伏鱒二の小説に共通点のあることは世間によく知られている。
意外かも知れないけど、わたしはそこに夏目漱石も加えようと思うのだ。
つげと夏目漱石という取り合わせはまだ論じた人はいないんじゃないか。

夏目漱石に「草枕」という小説がある。
これは主人公が熊本の那古井温泉をめぐったときの思い出を創作化したものだけど、物語の中に劇中劇のような感じでもうひとつの旅のエピソードがはさまる。
それが房総半島の小さな海辺の宿に泊まった時の回想で、主人公にいわせると草双紙にでもありそうな体験ということである。
このエピソードを読んでわたしがまっ先に連想したのがつげ義春のマンガだった。
つげの作品にも房総半島を舞台にしたものは多いし、わたしにも房総半島は思い出の多いところなのである。

わたしは若いころ、タンポポのいちめんに咲いていた季節だったけど、養老渓谷から外房の安房小湊まで縦走を試みたことがあって、あちこちで見た農村風景に、ついつい「西田部村事件」のようなつげ義春の作品を思わないわけにはいかなかった。
草双紙に出てきそうな宿屋というのが本当にあるなら、わたしもぜひ泊まってみたかった。
残念ながらそういう宿には出食わさなかったものの、わたしはいまでも草枕のこの部分をよむたびに、つげ義春のマンガから受けた感動と同じものを感じるのである。

草双紙の部分はとちゅうにはさまったエピソードに過ぎないけど、本題の那古井温泉の部分もつげの作品を思わせる。
明治の田舎はすべてそうだったのかも知れないけど、那古井の里温泉のある田舎にはひょうひょうとした空気が流れていて、その空気を破るのは宿のひとり娘で出戻りのお那美さんだけである。
彼女は漱石好みの大胆で先進的(当時としては非常識)な女性で、旅をしている主人公の絵描きが、結婚式のときのあなたはさぞかし美しかったでしょうね、見たかったなあというと、みなが寝静まった深夜にじっさいに花嫁衣装で画家の枕元に立ったり、画家と西洋の美術について談義したあと(けっこう知的な女性なのだ)入浴中の画家のわきに全裸で現れたりする。
もちろん明治の文学だからたちまち生殖行為に励むわけじゃないけど、その駘蕩とした雰囲気はまさにつげ義春の旅である。
わたしはつげのマンガから受けたと同じものを、草枕を読んで脳の中の同じ部分で感じていたのだ。
こういう名作をどんどん読んで、せめて旅を愛する人だけにでも、その素晴らしさを伝えるのは団塊の世代の義務じゃないだろうか。

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2025年10月 3日 (金)

源氏物語

1375

うちの団地でだれか年寄りが亡くなったのか。
部屋の片付けがあったらしく、建物のまわりに家具や雑貨が積み上げてあった。
孤独死ならそのうち我が身にもという可能性はあるけど、そんなものを気にするほどヤワな人間じゃない、わたしって。

雑貨のなかに本がいくつか目についたから、検分して、おもしろそうなものを引っこ抜いてきた。
中に木村朗子著の「紫式部と男たち」という文春新書があった。
紫式部といったらアレである、「源氏物語」の原作者である。
ひとりの作者が妄想をたくましくして書いたフィクションとしては、なんでも世界最古の小説だそうだ。

わたしが「平家物語」のファンであることは、ちょっと前のこのブログに書いたけど、源氏のほうはほとんど読んだことがない。
読もうと思ったことは何度もあり、古典がダメなら谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴の現代語訳でと思ったこともあるくせに、いちども読み通したことがない。
理由はこれが勇壮華麗な軍記物語ではなく、宮中で男が女をくどくだけの女々しい物語だかららしい。
もちろんそういうイロ恋沙汰が好きだという人もいるだろうけど、すべて女の創作だと思うと、もともと芸能界のスキャンダルにも興味のないわたしが読みたがるものじゃなかったのだ。
宮廷内の恋物語なら平家物語にもいくつか実例はあるし、若いころネクラでもてなかったわたしには、男女のむつみ事なんておよそ縁のない世界だったのである。

それでも拾ってきたのは古典そのものではなく、解説書だから、読み始めから半分くらいまではおもしろかった。
日本の言語が書き言葉とやまと言葉との2種類を使い分けていたとか、当時から女性にも名前があったとか、どうして源氏物語の原作が紫式部とわかったかという裏話を、きちんとした検証で説明されると、もともと歴史好きのわたしには興味が尽きない。

でもやっばり半分ほど読み進んだところで放り出した。
源氏物語によらずとも、この世界にはフジテレビの中居正広クンや、ラブホテルの前橋市長さんなど、イロ恋沙汰のスキャンダルがあとを絶たない。
身近のそういう事件にも興味がないわたしが、遠つ世の殿上人の話題に関心を持っても仕方がない。
もう冥土の近いわたしが、古典の源氏物語を読むことは、永遠にないだろう。

ただ、わたしはときどき思い出すことがある。
源氏物語の各帖のタイトル、桐壺、箒木、空蝉、若紫、末摘花、紅葉賀(もみじのが)、花宴(はなのえん)、葵、賢木(さかき)、花散里、須磨、明石、澪標(みおつくし)などという言葉を、自分なりの抑揚をつけて読んでいくと、それだけでどこか侘び寂びを含んだ、絢爛たる日本美の世界が浮かび上がるような気がする。
中身は知らなくても、妄想好きでその名を知られたわたしには、源氏物語が永遠の小説であることは事実なのだ。

うちの花壇では彼岸花がみじかい盛りを終えるけど、それでも今年は想像以上に花の数が多かった。
来年もまた元気に咲いてほしいね。
ええ、まだ来年まで生きるつもりなんですよ、わたし。

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2025年9月21日 (日)

詩集から

図書館でリサイクル本として、タダでもらってきた「現代詩集」という本、どこかにピカリと光る詩がないかと探しているけど、なんせ収められた詩の数が多すぎて、まだ全部チェックしてない。
昨夜はひさしぶりに湯船につかって、小一時間ほどこれに読みふけっていたら、サウナにいるみたいで、汗がだらだら、あやうくのぼせるところだった。
それとは別に、風呂場で読書すると、老眼もますます悪化しそうで心配である。

この本で取り上げられた詩人のなかに、壷井繁治というひとがいた。
「二十四の瞳」の壷井栄なら知っているけど、調べてみたらその旦那だった。
旦那のほうは初めて読む人である。

彼の「神のしもべいとなみたもうマリア病院」という詩が気になった。
治安維持法違反で刑務所に入って重い病気になった友人を、病院に入院させようと四苦八苦する仲間たちを描いた、詩らしからぬ詩だ。
長い詩だから引用はしないけど、治安維持法違反ということで気がついたのは、繁治さんは戦前に共産党員だった人で、これはそういう人たちに生きづらい時代の作品だった(台湾有事なんてものがホンモノになったら、わたしみたいなノンポリにも住みにくい世の中になるんでないかと、いまから不安だ)。

病院には特高警察が先まわりしていて、そんな前科者はダメだとどこの病院でも入院を断られる。
仲間たちは一計を案じ、カトリック系のマリア病院に、患者は島原の乱のカトリック教徒の子孫だとデタラメをいって、入院させようとする。
病院の返事が、いまは徳川の時世ではではありませんと。
なるほどねえというため息が3つ重なって、計画はおじゃんになった。
こういうのは風刺詩集というそうで、どことなく貧乏ったらしいユーモアがあっておかしい。

戦前の同じような立場の詩人に小熊秀雄がいて、彼の「馬の胴体の中で」という詩を読んだことがある。
そちらが社会の偏見と官憲の弾圧に苦しんだ悲観と絶望の詩であるのに対し、繁治さんのほうはきびしい現実をユーモアで表現している。
同種の作品には、小説ではソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの1日」、映画ではキューブリックの「博士の異常な愛情」などがあり、ヘソ曲がりのわたしは、こういう逆手を使った作品が好きなのである。
ひとつ気になったのは、最近ではパソコンに質問すると、回答は生成AIによるものが多いようだ。
これはユーモアも、ひねりもない真面目くさったもので、わたしは大っキライだよ。

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2025年9月20日 (土)

平家物語を読む

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板坂燿子著「平家物語」を読んで、すぐに気がついたのは、研究者というのはここまでやるのかということ。
歌舞伎や戯曲、浄瑠璃、黄表紙、はては外国文学まで、平家に関するもの、こじつけられるものは徹底的に持ち出して、まあ、わたしにいわせるとしつこいくらい。
わたしは研究者ではなく、いっかいの平家物語ファンにすぎないし、読み物として読んでいるのであって、これが板坂おばちゃまとわたしの相違である。
読んですぐに気がついたというのはこのことだ。

だから平家の侍の名前を間違えずにいえるかというと、いくつかこころもとないところもある。
たとえば唱歌「青葉の笛」に登場するのは、薩摩守忠度と、もうひとりの笛吹き貴公子はだれだっけ、壇ノ浦で生きたまま囚われになって生き恥をさらした親子は宗盛とあとだれだっけと、思い出せない人物もいく人かいる。
しかし、ここが肝心で、わたしがいやらしく強調したいのは、板坂おばちゃまから平家についてレクチャーされ、熱心に勉強をした学生たちより、わたしのほうが平家物語をずっとよく覚えているだろうということだ。

わたしは青春時代に、だれからも教わらずにこの本に出会い、冒頭の祇園精舎の鐘の声の心地よい七五調のリズムに酔い、豪華絢爛たる鎧武者たちの合戦シーンに胸をときめかせ、やがて海上で滅びてゆく強者の運命に涙を流した。
以前に書いたことがあるけど、「小宰相」の巻を読んで、シェークスピアよりはるかにむかし、日本にもこんな悲恋の物語があったのだと感心もした。
隆盛をほこった王朝や帝国が落ちぶれるのは、中国の歴代王朝、ロシアのロマノフ王朝、映画「山猫」に描かれたイタリアの貴族社会のように、世の習いである。
わたしの中で平家物語は、こういう革命の物語という認識がつよい。
いま全盛のアメリカと西側先進国が、落ちぶれていくのに落涙するかどうかは知らんけど。

革命の物語であることは事実でも、物語の細部について、事実かどうかを確認するのはもはや不可能に近い。
平家のなかで平清盛という人は、トランプさんのような悪逆の暴君として描かれているけど、歴史というのは伊達藩の原田甲斐が、「樅の木は残った」で忠臣として描かれたように、しょっちゅうひっくり返るから注意を要する(だからわたしはトランプさんを正面から非難することはない)。
じっさいの清盛は対宋貿易で国庫をおおいにうるおわせたくらいだから、世間でいわれているよりも施政者として有能であったことは事実だし、権力者だからきれいなネエちゃんを取っ替え引っ替えしたことも当然だろうけど、祇王と仏の挿話なんか、ほんとうにあったことなのか。
那須与一の挿話も、あまり出来過ぎの話なので、だれだかわからない原作者が、物語ばえするように勝手にこしらえたエピソードじゃないのか。

疑えばキリがないので、わたしは細部にはこだわらず、あくまで読み物としてこれを読む。
それもイーリアスやアーサー王やイワン雷帝のような、ロマンに満ちた叙事詩として。
そうやって想像(や妄想)の助けを活用して読むのがわたし流の読み方だ。
これはけっして研究者である板坂おばちゃまの行き方を非難するつもりじゃないんだけど、最近のおばちゃまは、燃える女、怒れるバッコス信者の本性を現してきたみたいで心配だ。

おばちゃまはあまり取り上げてなかったけど、最後の灌頂の巻「大原御幸」にいたっては、これがなければ収まらないというくらい感動した。
後白河法皇が牛車の隊列を組んで、大原の寂光院を訪ねると、裏山から2人の尼さんが手に花をつんで降りてくる。
山寺の寂光院のありさまもきわめて美しく、一幅の日本絵画を見ているようで、じっさいに絵描きのなかにこの場面を描いた者もたくさんいる。

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裏山から降りてきたのは平家の生き残りの建礼門院で、美人として知られていた人だから、ここで色好みの後白河法皇と、なにがなにしてなんとかなったのではないかと、江戸時代のゴシップ誌の話題になったそうだ。
そんなことはどうでもエエ。
建礼門院が涙ながらに、平家一門の運命を語るところは、簡にして要を得たこの物語の総括になっており、本を読むのがキライという昨今の受験生たちは、この部分だけ読めばいいかも。

やがて彼女も病に伏し、阿弥陀如来の像の指と自分の指を糸でつないで、という古風なしきたり通りに往生する。
天人五衰という三島由紀夫の小説のタイトルの意味も、いまこそ思い知られけれである。
詩として読めば完璧な結末であり、わたしには大原御幸のない平家は考えられないのだ。

わたしは「太平記」も読んだことがあるけど、平家ほどには感心しなかった。
原因は平家にある諸行無常という悲しみの感情が、太平記には欠落していたせいだろう。
ひとつだけつまらないことをおぼえたのは(どっちがどっちだか忘れたけど)、太平記と谷崎潤一郎の作品で、登場人物の名が、一方では大塔(オウトウ)の宮に、もう一方ではダイトウの宮になっていたことぐらい。
漢字は表意文字だからなと、そのいいかげんさに感銘を受けたことはある。

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2025年9月19日 (金)

平家物語

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予約しておいた本が届いたというので、また自転車で図書館へ。
怒れる板坂燿子おばちゃんが作家として本格的なフォームを見せ始めたので、とりあえず彼女の本を読んでみようってことで。
図書館で借りたのでは、おばちゃんには1円にもならないけど、彼女はわたしよりずっと金持ちだから、公平の観点からもこれでいいんじゃないかね。
いちばん新しい更新では、知り合いからタダで本を贈呈されたなんていってたし。

おばちゃんの本で有名なのは江戸時代の紀行文学らしいけど、そんなの、わたしは芭蕉の「奥の細道」ぐらいしか知らんし、菅江真澄は読んでみたけど、あまりおもしろくなかった。
おもしろかったのは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」だけど、これは紀行記といえるかどうか。
関心を持てるのはやはり明治以降の紀行記で、たとえばイザベラ・バードや、モースの日本体験記、このブログで連載した笹森儀助あたりからだよな。
文章がいまふうにならないと、読んでいてまだるっこしいかららしい。

今回借りてきたのは「平家物語」で、“あらすじで楽しむ源平の戦い”という副題つき。
以前に書いたように、わたしは古典のこの本にはまって、ページがすり切れるくらい読みこんだことがある。
だから、おばちゃんの本のなかでは、紀行記よりこっちを先に読もうという気になったものだ。
最初の数ページを読んでみて、たちまち気がついたことがあるけど、まだ結論を出すには早すぎるので、おばちゃんにこんなことを書いてるやつがいますよとチクらんどいて。
わたしが他人の作品になにかいうと、かならず悪口と受け取られてしまう。
カッサンドラーの悲しみをわたしくらい心得ている者はいないんだよ。

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2025年9月18日 (木)

現代詩集

図書館に行ったついでにふと見ると、ここにもリサイクル本がダンボールの中に幾冊か。
転んでもタダで起きないわたしであるから、その中から「現代詩集」という本を引っこ抜いてきた。
筑摩書房の現代日本文學大系に属する本で、ハードカバーだから本屋に並んでいるときはけっこうしたと思える本である。

ところでわたしは別の図書館で「現代詩手帖」という本をもらってきて、そのとき現代詩なんかに興味はないと書いたばかりだ。
しかし今日もらってきた本に登場するのは
富永太郎、安西冬衛、逸見猶吉、田中冬ニ、竹中郁、大手拓次、丸山薫、壷井繁治、北園克衛、谷川俊太郎、竹内勝太郎、飯島耕一、山本太郎、谷川雁、鮎川信夫、田村隆一、大岡信、倉田綱雄、吉岡実、清岡卓行、岩田宏、安東次男、天澤退二郎、中村稔、入澤康夫、石垣りん、澁澤孝輔など27名で、ほとんどが聞いたことのない名前だけど、田中冬ニや丸山薫のように、わたしが熱心に愛読した詩人も含まれるのだ。
わたしにいわせれば萩原朔太郎や宮沢賢治に近く、もはや現代詩とはいえない面々である。

文字が小さくて老眼のわたしには読みにくいのが難点だけど、そのかわり、数えてはないけど、載せられた詩の数はそうとうなものになるだろう。
読みたくない解説は最後にまとめてあって、すべてのページに詩ばかりがずらりと並んでいるのはいい。
小説じゃないから一気呵成に読み進むというものではなく、好きなときに好きなだけ拾い読みできるのもいい。
なにかわたしの知らない詩で、印象に残るものがあったら、おいおい紹介しよう。

わたしの幼なじみで、大人になってから会って話をしたら、文章を書くのが好きで、あちこちに投稿しているなんていう女性がいた。
わたしより頭のいい人だったけど、その後小説家になったとも聞かないから、たぶん世間にたくさんいる作家志望の人妻として、無名のまま埋もれてしまったのだろう。
最後に会ったのはまだパソコンやネットが普及するまえだったから、最近であれば、わたしみたいに趣味として文章を発表できたかも知れない。
彼女の胸のうちを知りたいものだ。

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2025年9月 5日 (金)

リサイクル本

20250902

せっかくもらってきたリサイクル本をブログのネタにしない手はないので、とりあえずそれについてさらっと書いておこう、さらっと。

最初に目を通したのは「現代詩手帖」。
詩の批評雑誌だけど、現代詩なんかに興味はないし、そんなものの批評にはさらに興味がない。
それでも読者の投稿詩のなかに、きらりと光る作品でもありやしないかと、屁理屈の部分はすべて無視して、ざーっと早送りでながめてみた。
ある場所に宮沢賢治の「青森挽歌」のほんの一部が引用されていたのに気がついたきりで、それに匹敵するほど素晴らしい詩はないようだから、現代詩手帖は、ハイ、それまでよ。

つぎに読んでみたのが、古い「ニューズウィーク」のうちの1冊(2024.9月号)で、例によってアメリカ目線のかたよった記事ばかりだけど、おもしろいと思ったのは、ちょうどアメリカ大統領選挙と、自民党の総裁選挙直前のものだったこと。
大統領選挙のほうはトランプさんの勝利だったことがご存知の通りで、ニューズウィークの予想はまるでペケ、民主党のハリスさん優勢なんて書いてあるワ。
あいかわらず絶望的にアテにならない雑誌だな。
ま、わたしはやさしい男なので、未来のことはだれにもわからないのだと好意的に解釈しておこう。
NHKの選挙番組でも、識者や御用解説者など、総崩れだったもんな。

日本の総裁選挙じゃゲル君が当選したけど、それがどうなったか、まさにいま揉めているところ。
ニューズウィークの記事が正しかったわけじゃない。
党4役が辞める気になっても、御大将はまだねばっている。
やっぱりこの雑誌は、図書館でほかに読むものがないとき、時間つぶしに読むくらいの価値しかないみたいよ。
最初のほうにある時事マンガがおもしろいんだけどね。

もうひとつは「PEN」という雑誌で、これは本屋で何度か買ったことがあるのに、そのうち見かけと内容が伴わないことがわかって、図書館でもほとんど読まなくなった。
頂いてきたPENの今回は、“未来はどうなる?”というアーサー・C・クラークみたいな内容だから、近未来がどうなるか、つねづね関心を持っているわたしは興味を持ってながめてみた。

いちじメーカーとタイアップして、品物の解説のようでありながら、じつは商品の宣伝というカタログ雑誌というものが流行ったことがある。
このPENにも、素晴らしいデザインの車や電動バイク、腕時計の話題があったけれど、やっぱりカタログ雑誌以外のなにものでもなかった。
写真をふんだんに使ったカッコいい本だから、作るのに金がかかるのはわかるけど、わたしみたいに猫又の古参読者だと、いいかげんうんざりする。
こういう本は欲しくても買えない貧乏人に、いっときの夢を見させるためにあるのだ。
ということをかっての貧乏人で(いまでもそうだけど)、そんな夢をたっぷり見させてもらったわたしが保証する。

まだ読んでない本もあるけど、機会があったらそのうちに。
わたしは忙しいんだよ。
日本が戦争にまきこまれないようにと、全人類を滅亡から救うためにと・・・・ホント。

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2025年5月 5日 (月)

西表/山の音

1360

西表島には文庫本を数冊持ってきた。
なかでも読みたかったのが、川端康成の「山の音」という小説。
ほかの本はまえに読んだことのある本ばかりで、これだけがわたしにとって初見の本である。
どうして選んだかというと、ちょっと前にこの本を映画化した成瀬巳喜男監督の同名映画を観て、内容と主演の山村聰の老け役演技に感心したからだ。
映画は1954年の古い作品で、このとき山村聰は44歳、共演の上原謙より若いにもかかわらず、その父親を演じていた。
この映画がなかなかよかったので、西表島で原作をじっくり読んでみようという気になったのである。

小説のストーリーを要約すると、鎌倉に家をかまえて東京に通勤する初老の主人公と、くたびれた女房、息子夫婦、子供をかかえた出戻り娘、彼らがひとつ屋根の下で暮らしていて、ぶつくさ不平をいいあうだけのようなものである。
ほかはとくにスリルもドラマもあるわけじゃないんだけど、それだけでもなつかしい思いがするし、それを視覚化した映画では、背景になっている家のたたずまいや、女性たちがふだんにも和服を着ている場面などが、涙がこぼれるくらいなつかしかった。
わたしはこういう2世代もしくは3世代が、同じ家に暮らしていたころの日本を知っている団塊の世代の生き残りなのだ。
半分くらい読んだところで、この本はわたしにまことにふさわしい小説だと思ってしまった。

ささいな描写だけど、ボケの始まった年寄りにありがちな、小さな失敗があちこちに出てくる。
自分でお茶をいれるつもりで、ぼんやりして灰皿に湯をそそぎ、注意される場面がある。
笑いごとじゃない。
わたしにだって似たようなことはしょっちゅうあるのだ。
この本はわたしが幼いころの日本にいた普通のサラリーマンが、しみじみと老いと向かい合う物語でもある。

登場人物の会話からは、なつかしい昭和の響きが聞こえてくる。
そのあたりが傑作の所以なんだろうけど、この小説にはじつに多くの作家、評論家が、最大限の賛辞を寄せていて、文庫本の解説を担当した山本健吉さんなどは、「戦後最大の文学」とまで書いている。
しかしわたしはもはや昭和を生きているわけではなく、デジタル時代を知っていて、キチガイじみた未来にまで鼻を突っ込んでしまった年寄りだから、こうした意見にかならずしも賛同しない。

1360b

昭和までの日本の、上流の下くらいの家庭をよく描いているなと感心したのは前半だけ。
後半になると家庭内のゴタゴタが出てくるんだけど、これがちょっと現実ばなれしていて、ウソっぽくなる。
息子の嫁が妊娠した子供を堕したとか、出戻り娘の亭主が麻薬の密売で逮捕されたとか、なんだか無理にとってつけたようなエピソードに思えてしまう。
もちろんそういうことがあっても不思議じゃないけど、わたしは昭和の平凡な家庭のありさまに陶酔していたので、ちょっと違和感を感じてしまうのだ。

初老の主人公は都内の会社に重役として勤めている。
同じ会社に息子も勤めているから、縁故採用というやつで、こういうことも昔はよくあった。
会社が同じだから、息子の勤務ぶりも筒抜けで、彼が女遊びに狂っていることまで、秘書として勤めている若い娘の口から入ってくる。
この秘書の娘が小説のなかにひんぱんに出てくるけど、彼女のこともけっこう細やかに描かれていて、女性を描くのが得意だった作家の力量をうかがわせる。
映画でこの秘書の娘を演じているのが、当時としてはモダーンな顔立ちの杉葉子で、わたしには息子の従順な嫁を演じた原節子よりずっと魅力的に思えてしまった。
ほかに女遊びに狂っている息子の浮気相手として、ゾッとするほど美しかった木暮三千代が出てくるけど、映画の監督の成瀬巳喜男は、けっして彼女らをおろそかにしなかった。
映画は初老の男性と、若い娘を対象的にならべた作品でもあるのだ。

小説は川端康成の晩年に書かれたものだけど、こんなふうにあちこちに若い娘への思慕の気持ちが描かれているから、作家はまだ気持ちまで枯れてないことがわかる。
しかしそういう煩悩をどうすることもできない。
頭は20代のままなのつもりなのに、肉体はどんどん衰えていく。
友人を見て、シミの浮き出た見苦しいじいさんになったなと思うくせに、鏡を見ると似たようなじいさんの自分がいる。
これでは読んでいてわたしも身につまされる。

川端康成という作家は83歳にもなってから、自殺した。
その歳で自殺とはめずらしいといわれたけど、原因はこういう、こころと肉体の乖離にあったんじゃないか。
まだ若い娘をベッドに転がしたいという気持ちはある、しかし自分はもうそういうことに縁のないじいさんなのだという、どうにもならない矛盾。
ここに川端康成という人の悲しみがあるような気がするし、同時にわたしにとっての悲しみもある。
偉大な作家がそんな色ボケ老人みたいな悩みで死ぬはずかないといわれるかも知れないけど、同じ作家が晩年に書いた「眠れる美女」は、老人が若い娘をもてあそぶ物語である。
真理は意外と単純なものである場合が多いのだ。

1360c

西表島の密林のはざまでこの本を読みながら、ふと時刻を見ると、深夜の1時だった。
つくねんと自分のこれまでの人生を考える。
女性関係についていうと、わたしの人生はまことに甲斐のないものだった。
しかし、そのせいで最晩年になって、ようやく帳尻が合ったような気がする。
このときのわたしは、人生に完全に満たされて、世間の一般男性がなかなか体験できない贅沢をしていたのだ。
耳をすませば “森(ジャングル)の音”が聞こえる。
英国の女性探検家クリスティナ・ドッドウェルが、同じような幸福について書いていたことを思い出す。
どうしてこんなに豊かな気持ちになれるのだろう。

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2024年12月 2日 (月)

とつぜんに平家物語

20241202

図書館に行ったら吉川英治の「新・平家物語」が、タダでもらえるリサイクル本になっていた。
わたしは吉川英治のファンではないけど、古典の「平家物語」は文庫本のページが擦り切れるくらい愛読したことがある。
それで比較してみるつもりで6巻あるうちの5、6巻をもらってきた。
5、6巻は平家物語の最終段で、屋島、壇ノ浦の合戦と、生き残った人々のその後が描かれるはず(とわたしは思った)。
残念ながらこの作家が大衆作家であることを確認しただけだった。

この本には平家物語のうちのもっとも美しい段が抜けている。
壇ノ浦における那須与一の挿話では、古典にはない玉虫という女官まで登場させて、話もずっと長くなっているのに、「大原御幸」のような大衆受けしそうもない話はぜんぜん出てこないのである。
「大原御幸」は壇ノ浦で平氏が滅亡したあと、生き延びて京都の山寺に隠遁した建礼門院(きわめて美人のおんなの人)を、かげの権力者である後白河法皇が訪ねる話で、平家物語の総括であると同時に、山寺である寂光院のありさまが散文詩のような美しい文章でつづられている。
華やかな一門の滅亡の終局を語るにふさわしく、なんともいえない詩的な余韻を残す重要なエピソードなのだ。
わたしはここが吉川文学ではどんなふうに描かれているかと興味を持ったんだけど、残念ながら肩すかし。

もうひとつわたしが興味を持ったのは「海道下り」の段。
一ノ谷で囚われになった平重衡は、平家が滅んだあと生きたまま奈良の興福寺に送られる。
彼はそれ以前にここで神社仏閣から大仏様まで焼き払い、大勢の僧侶や大衆を殺したことがあったから(この「南都炎上」の段では、あふれ出てくる仏教用語や、古風な文語体文に圧倒される)、その罪を奈良の大衆みずからが復讐できるようにとの配慮だった。
中国や韓国なら、それこそ皮をはげ、目ん玉をくり抜け、ノコギリで首を切れと、残酷な処刑をされてもおかしくないところだ。
しかしここで日本人が見せたやさしさは、後世のわたしたちが子々孫々に言い伝えてもおかしくないものだった。
いきりたつ大衆のまえに高僧が出てきて、乱暴なことをいうんじゃない、首をはねるだけで十分じゃないかと言い聞かせたのである。

日本人は残酷な民族だという外国人がいたら、ぜひこの話を聞かせてやってほしい。
冒頭に転写した絵は杉本健吉画伯の新平家の挿絵で、重衡が鎌倉から奈良に送られる途中で入浴をする場面。
この街道下りという段も、古典では七五調の美しい文章なので、吉川文学ではどんなふうに描かれているか興味があったけど、やはりフツーの文章でしかなかった。

それでもわたしも大衆のひとりだから、古典と吉川文学は別物だと割り切れば、おもしろいことはおもしろかった。
本をもらってきたあとで、1巻も読みたくなり、あわてて図書館に行ってみたら、わたし以外にもこれを読みたいという年寄りがいたとみえて、もう1巻から4巻も無くなっていた。
それで読み終わったあと、5、6巻はまたリサイクル本の箱に返した。
図書館にしてみれば不要だからリサイクルに出したのであって、返してもらっても迷惑かも知れないけど、読みたいひとがいるなら、そのままわたしが処分するわけにはいかないのである。

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2024年7月 9日 (火)

ニューズウィーク

20240709

いつか書こうと思っていて、表紙の画像を用意しておいた。
「ニューズウィーク(日本版)」という時事週刊誌がある。
わたしは図書館に行ったときなど、ほかに読むものがないと、これの最新版にざっと目を通すことがよくある。
たまたま図書館に行ったら、この本の古いもの(2022年号)が賞味期限切れになっていて、持ち帰り自由のリサイクル本になっていた。
さっそく頂いてきたけど、時事雑誌というのは、じつは賞味期限が切れたほうがおもしろい場合もあるのだ。

このリサイクル本を読んであきれた。
書かれたことはデタラメばかり、というか、つまりアメリカ視線の内容ばかりだ。
表紙にでかでかと“うなだれる中国経済”とか“アメリカの針路”と謳ってあるけど、現実には、中国はその後もけっして落ち込んでないし、米国が目指していたものの実態についても、的はずれなことばかりだ。
ニューズウィークの記事は署名記事がほとんどなので、的はずれを執筆していたKさん(外交アナリストだそうだ)という人は、恥ずかしくて表を歩けないかと思ったら、最近の号にもまたなにか書いていたな。

もちろん未来のことは誰にもわからないのだから、記事を書いた人間を責めるのは酷かも知れない。
わたしはこの号が発行されたときより、1年以上あとにこの本を読んでいるので、ニューズウィークが予想したことが正しいかどうかを確かめることができるのである。
そしてあまりの的はずれに、つい笑ってしまうのだ。
賞味期限が切れたほうがおもしろいというはこのことである。
また結果がわかったあとで読むと、その本がリベラルか保守か、右か左か、どのていど信用できるかなどということもわかってしまう。

こんなことを書く気になったは、昨日のネットニュースに、ソースがニューズウィークの記事で、こんなものがあったからだ。
「反日投稿を大量削除『ナショナリズム』を焚き付けない当局の本音と、日本人を守って死亡した中国人女性の実像」
いったいなんでこんなひねくれた解釈しかできないのだろう。
いまのところ相手は誰でもいいというたんなる通り魔事件で、たまたま居合わせた中国人女性が止めに入って刺された、というそれだけの事件ではないか。
わざわざ大騒ぎをして日中関係を悪化させるほどのものではない、そう考えて中国政府は冷静なのに、なにかウラがあるのだろう、経済的に困っているから日本の支持を失いたくないのだと決めつける。
死んだ女性の境遇までせんさくして、貧しい農民の出身だとか、中国の発展に取り残されていたなどと書く。
習近平さんが貧困一掃をはかって、その試みはかなり成功しているけど、ひとりひとりの国民まで豊かにすることは簡単ではない。
どんな国にも貧しい人たちはいる。
他国のことを心配する余裕が、どこの国、たとえばアメリカにあるというんだろうか。
もういまでさえ、中国は多くの途上国を支援するほどゆとりがあるではないか。

これもなんとか中国との対立を煽ろうという危険な記事にしか思えない。
つまり世界的に知られたニューズウィーク誌の記事も、ためにする記事である場合があるということだ。
わかってくれよ、未来をしょって立つ若いみなさんはと書こうとして、わたしは一瞬頭がボケてしまったのかと思った。
先日の都知事選でもそうだけど、わたしみたいなじいさんの常識では理解できない時代に突入したみたいで、もはやわたしが関わるには遅すぎたのかも知れない。
いいとも、みんな揃ってあの世に行きたいというんだな。
台湾有事でも核戦争でも、勝手にすればとしかいいようがないね。

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