壮絶の映画人生

2019年6月 1日 (土)

スィート・チャリティ

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じつはわたしのバレエに対する興味は、昨日今日に始まったわけじゃない。
若いころ「スィート・チャリティ」という映画が封切られて、たまたまテレビでその予告編を見たことがある。
これはシャーリー・マクレーン主演の、よく出来たミュージカルで、この映画の中に劇中劇のようなかたちで、一風変わったダンス場面が出てきた。

当時はまだ田舎者のおもかげを色濃く残した青少年だったから、なにも知らなかったけど、これはこの映画の監督でもあったボブ・フォッシーが振り付けた、コンテンポラリー・ダンスだったのだ。
このころすでに隆盛を極めていたMGMのミュージカルについては、若いころのわたしはそういうものが苦手で、映画のダンスシーンというと、せいぜいアン・マーグレットやプレスリーの映画を観たくらい。
そういう奥手の少年にとって「スィート・チャリティ」のダンス・シーンは衝撃的で、あわてて劇場まで本番を観に行ったくらいだ。
このダンスシーンはいま観てもまったく古びてない(YouTubeに上がっているから興味のあるお方はこちらから)。

ひとつ不思議なのは、ボブ・フォッシーという振付師、ほかにも「キャバレー」「シカゴ」などの振り付けを担当していて、その方面ではかなり有名な人であるのに、わたしが集中して読んだバレエに関する本にほとんど名前が出てこない。
分野が違うのかもしれないけど、「ウエストサイド物語」のジェローム・ロビンスの名前は何度か目にしたことがあるのだ。

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2019年5月 6日 (月)

いま鑑賞中

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いま「風と共に去りぬ」を観てるんだけど、これも古きよき時代の映画だよなあ。
といっても褒めているわけじゃない。
むかしはこのていどの映画でも大騒ぎしたのかって、へんな意味で感心しているだけ。
監督のヴィクター・フレミングもそれほど大監督ってわけじゃないし、ヒロインのヴィヴィアン・リーの演技もやたらにオーバー。

でもこの映画に古くささしか感じないからといって、最近のアホらしいハリウッド映画に感心しているわけでもアリマセン。
やっぱり青春時代にキューブリックやジョン・ヒューストン、ハワード・ホークス、デヴィッド・リーン、エリア・カザン、ビリー・ワイルダーなどの傑作を観られたわたしが幸運なのかってトコ。

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2019年2月22日 (金)

ハッド

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昨日はテレビで映画「ハッド」を観た。
いい映画だとは聞いていたけど、観るのはなぜか初めて。
やはり生きている観られてよかったという映画だったねえ。

まだ理想主義が生きていたころのアメリカで、その見本のような生き方をする牧場主の親父と、それに反旗をひるがえす息子、両者のあいだに立って右往左往する孫。
この3人にきれいな家政婦がからむ物語なんだけど、苦心して育ててきた家畜を、親父がすべて口蹄疫で失うと、家族はばらばらになっていく。
うん、これはいいと、ブログ記事にまとめようとしたけど、わたしの頭のなかには観終わったあとの茫然自失のようなものが、まだ渦巻いているのだ。
なにか書くのはまたそのうちに。

ここはとうぜん、ネットから見つけた「ハッド」の写真を添付すべきところ、新しいパソコンがまだ届かないので困っている(その後ようやく来た)。
来週になったら、こっちから問い合わせなくちゃ。

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2018年12月27日 (木)

いちご白書

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わたしがジャンルにこだわらず、いろんな映画に興味があるという証明のために、わたしのライブラリーの中から、「いちご白書」 を取り出してみた。
これは1968年に起こった米国の大学紛争を扱った映画だけど、考えてみたら、この映画に登場する若者たちはわたしとほとんど同じ世代といっていい。
わたしは彼らと同時代を共有したわけだけど、それはいったいどんな時代だったのだろう。

1968年というと、米国の大学紛争が各国に飛び火し、日本も例外ではなかったころだ。
東大や日大で、ストだ団交だ内ゲバだと暴力が荒れ狂い、新宿駅では毎週のように投石デモが繰り広げられていた。
当時のわたしは東京に住み始めたばかりで、とある私塾の寮生だったから、幸か不幸か、そういう事件をリアルタイムで体験した。
友人のなかにも新宿駅へ石を投げに行って、機動隊にメガネをかち割られて帰ってきたのがいる。

ある日、わたしも新宿駅までデモの見物に行ってみた。
そのへんの路地から30人ほどの、ヘルメットにマスクのデモ隊があらわれると、周囲の大群衆から、いよっ、待ってました、ガンバレ!と声援が飛んで、ほんと、お祭り騒ぎ。
これっぽっちの人数じゃとても機動隊にかなわないと思ったけど、アホらしくなってとちゅうで帰ってきたから、彼らがその後どうなったのかわからない。
タノシイ時代だったよなあ。

ただわたしみたいな名門校でもないそのへんの私塾の学生からすると、大学生そのものが一種の特権階級に見えてしまい、学生デモに共感なんか感じられなかった。
しかもアメリカの学生ならベトナム戦争という、ヘタすりゃそのまま地獄行き、ヘタしなくても当時から格差というものは、いやおうなしに目に飛び込んできただろうから、校内でピケを張りたくなる気持ちも理解できるけど、日本の学生になに世間に文句をいう必要があるのか、まして革マルだ、中核だと激しいセクト争いをくりひろげるに至っては、わたしは完全に傍観者だった。

それから半世紀、そのころの騒ぎの結果はもう出た。
あの当時に大学生だった人たちは、死者さえ出した当時の混乱についてどう思っているのだろう。

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さて映画のハナシ。
見ているだけで楽しい女優さんがいると、たいていの映画は、それだけで最後まで観られてしまうという不真面目なわたし。
「いちご白書」 でわたしを惹きつけたのは、キム・ダービーという、むっちり肉体にあどけない顔がアンバランスな女優さん。
この映画の中ではミニスカートで登場し、パンチラがわたしのこころをときめかした、なんてことはどうでもいいか。

彼女は活動家であり、それにオルグされちゃうのがまじめなボート部の学生で、アメリカでも日本でも、体育会は保守的で右寄りという証明みたい。
彼は大学の学生寮にいるんだけど、部屋に女をひっばりこむえらい進歩的?な学生もいて、このへんは坪内逍遥の 「当世書生気質」 のころから、日本でも変わってないなあと思ってしまう。

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そんなことはべつにして、この映画がこの時代の空気をよく伝えていることも事実だ。
大学のなかにはアジ演説をする者、カルト宗教にかぶれたような学生もいて、まじめなんだかふざけているのかわからない。
こういう連中を一掃するために機動隊が導入される。
学生のほうはジョン・レノンの Give Peace a Chance なんか歌っちゃって、無抵抗主義。
そんな彼らに催涙ガス弾や警棒が容赦なくおそいかかる。
ラストシーンでの機動隊導入の混乱のなか、ストップモーションで静止した画面に、バフィ・セント=メリーの 「サークル・ゲーム」 がかぶさると、もうわたしって、いたずらに胸がじーんとしてしまうのよね。
あのころはわたしも人間が純粋だったって、しみじみ実感したワ。

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2018年12月 8日 (土)

美食の報酬

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録画しておいた「刑事コロンボ」シリーズの 『美食の報酬』 という作品を見た。
これはある料理評論家が、高評価とひきかえにレストランから賄賂をもらっていたものが、レストランから逆に恐喝されて殺人を犯すというもので、殺人にフグの毒を使うというのがミソ。
ところが出てきたフグが、これ、どう見てもハリセンボン。
ハリセンボンに毒はないぞ。

そのくらい日本人なら知ってるはずだと、ググッてみたら、案の定この点を指摘する人が多かった。
ついでに映画のなかのハリセンボンはあまり生きがよくないなんて、余計なことを指摘する人も。

現在ならアメリカ人も寿司や刺身の味に目覚めてきたから、こういうドジはしなかったと思うけど、なんせコロンボ・シリーズはもう40年もまえの作品だからね。
そんなふうに善意で理解していたら、なんと映画のなかにフグ刺しを食べるシーン(ついでに日本の芸者まで)があらわれた。
ホントいじわるな映画だけど、これも謎解きのヒントになっているから、文句はいえない。

話は変わるけど、これを観て思ったのは、評論家というものは権威を持ちすぎるとロクなことをしない(場合がある)ということ。
むかしなんとかいう車の評論家が、誰でも知っているようなこと(わたしみたいにずっとカー・グラフィックを愛読していた人間には常識)をならべた本を書き、それが売れて有名になったということがあった。
すると彼はいっぱしの評論家みたいな顔をして、つまり彼がほめる車はいい車だというお墨付きを得たようなものだから、メーカーも彼にほめてもらいたい。
するとそこに馴れあいが生まれる。
そういうわけで、この評論家はそれをメシの種にしていたということがあった。

いまやネットでも食べものやレストランの評価が花盛りだ。
他人の評価ばかりをアテにしていると、往々にこういうことが起きるから、へそ曲がりといわれようとなんといわれようと、やっぱり自分の評価を大切にするべきである。

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おまけ。
気のドクなハリセンボンについては、本来は南方系の魚という説明があるけど、関東地方でもけっしてめずらしい魚ではなく、江ノ島あたりでも提灯にされて売られているし、わたしは外房の勝浦で、港にこいつがたくさん打ち上げられているのを見たことがある。
沖縄ではアバサーといって、市場に出すほど貴重な魚ではないから、水揚げされるとたいてい近所の年寄りたちが、味噌汁のだしをとるために自宅に持って帰る。

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2018年12月 7日 (金)

ウィンチェスター銃73

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「ウィンチェスター銃73」という古い西部劇があり、なかなかおもしろいという評判は聞いていたから、ライブラリーのなかからひっぱり出してみた。
この映画が作られた1950年ごろは、おそらくいくつかの傑作をのぞけば、かっこいいヒーローが悪人やインディアンと闘う、安物の西部劇が氾濫していたころじゃないか。
それなのにこの映画は評判がいい。
どうして評判がいいのか、確認しようというわけだ。

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これもそうとうにむかし録画したものだけど、じっくり観るのははじめてである。
特製のウインチェスター銃を軸にして、親の仇をねらう主人公に、悪党たちや美女(わたしにはおばさんのイメージしかないシェリー・ウインタースの若いころだ)がからむ異色西部劇である。
監督のアンソニー・マンという人は、これ以前に「ララミーから来た男」なんて西部劇も作っているけど、これもラストシーンがしまらないのをのぞけば、なかなか味わいのある作品だった。

彼はほかにも歴史大作「エル・シド」などでおなじみの、まあ、巨匠といっていい人である。
巨匠と呼ばれるような人ならアメリカ・インディアンを、一方的に極悪非道の原住民としては描かなかったようで、たとえばジョン・ヒューストン監督の「許されざる者」では、牧場主がカイオワ・インディアンに執拗に襲われるけど、彼らには白人に奪われた肉親の娘を取り返したいという正当な理由があった。
ハワード・ホークス監督の、アフリカを舞台にした「ハタリ!」という映画には、マサイ族がちらりと出てくるけど、けっして無知な原住民という描き方はされてない。

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「ウィンチェスター銃73」でも、登場するインディアンはまじめで強そう。
むしろインディアンにインチキ商品を売りつけようとする、狡猾な白人の武器商人が出てくるくらいだ(おれたちをバカにするのかって頭の皮をはがされちゃうけど)。
日本人と同じモンゴロイドで、共通の遺伝子をもつアメリカ・インディアンを、一級下の存在とみなす白人優位主義の映画に、わたしは強い拒否感を持っているのだ。
この点では「シャイアン」以前のジョン・フォードも、インディアンが登場する場面はクソである。

よけいなことはさておいて、「ウィンチェスター」の主題は白人同士の仇討ち物語である。
主人公のジェームス・スチュワートが、親の仇の白人を追跡する話で、悪漢でもマカロニ・ウエスタンのように、すぐに銃をぶっ放す単純なワルでないのがいい。
ヒロインのS・ウィンタースがまだおばさんではなく、若くてきれいなのもいい。
この若くてきれいなヒロインにいやらしい悪漢が迫るんだけど、悪漢でも最低限のモラルは持っていて、強引にベッドに押し倒したりしないのは、うん、これは残念というか・・・・

総じてこの映画では、拳銃をぶっ放すまえに会話があり、登場人物の人間性が、たとえ悪漢でもていねいに描かれている。
こういうところが目新しいので評判になったのだろうか。
不満があるとすれば、肝心の特製ウィンチェスターが、結末でとくに重要な意味をもたないこと。
タイトルにもつけるくらいだから、ぜったいにこの銃でなければ収まらないという結末にしてくれれば完ぺきだったのに。

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映画の最後は、岩山でライフルを使った1対1の闘いになり、主人公が親の仇の悪党を射殺して終わりである。
このへんがもの足りない。
そこまでが異色でおもしろい西部劇なのだから、もっとひねった結末のアイディアはないだろうか。
主人公が危機におちいったとき、インディアンか騎兵隊が現れて、急場を救うなんて結末を考えてみたけど、これじゃスピルバーグの映画みたいで調子がよすぎる。

最後は主人公とヒロインが、悪党と対決することになり、運わるく主人公のほうが先に弾を撃ち尽くした。
ヒロインは特製のウィンチェスターを持っている。
しかしその銃には弾が入ってないはずである。
それを知っている悪党が、余裕しゃくしゃくで主人公に銃を向けると、入ってないはずのウィンチェスターから弾が発射され、悪党をノックアウトなんてのはどうだろう。
調子がいいのは同じじゃないかといわれそうだけど、これには伏線があるのだ。

映画のなかほどにインディアンの襲撃があり、いよいよ助かりそうもなかったら、辱めを受けるまえに最後の一発で自殺しなさいと、主人公がヒロインに拳銃を渡すシーンがある。
けっきょくふたりとも助かって、拳銃は無用の長物になるんだけど、その一発の弾丸を、お守りだと思って持っていなさいと主人公はいう。
その一発が土壇場になって効力を発揮するという結末はどうだ。
ウィンチェスターとコルトは弾丸を共有していたという事実が、このアイディアを支えている。
うん、ほんとわたしって天才だよな。

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2018年11月 5日 (月)

またまた2001

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ああ、またテレビで2001をやってるよ。
わたしの知り合いに4Kで、わたしのよりふたまわりもでっかいテレビを買ったって男がいるけど、それで観るならこういう映画を観てほしいやね。
ウラヤマシイ。

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2018年9月29日 (土)

ライフ・イズ・ミラクル

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「パルタザールどこへ行く」に続いて、もうひとつ、ロバが主要な役割をになう映画を紹介しよう。
だいぶむかしにテレビから録画した 「ライフ・イズ・ミラクル」 という映画。
わたしが録画したものでさえ 154分もある長尺モノだけど、これは部分的にカットされた短縮版で、ネットで見つけたオリジナル版は 270分(4時間半)近くある大作だった。

オリジナル版には字幕がついてないばかりか、セリフはすべてセルビア語?、つまりキリル文字を使う言語だから、さっぱり意味がわからない。
しかし短縮版とはいえ、わたしはすでに字幕つきのほうを見たあとだから、ストーリーはわかる。
というわけでこの両者を比較しながら、わたしの感想を書いてみよう。

これは 2004年のセルビア映画で、あの悪名高きボスニア紛争が終結して10年ほどあとに、その紛争を主題にして、その当事国で作られた映画である。
あらすじをひとことでいうと、戦争のさなかに知り合った男と女の、恋と別れの物語。
なんてことを書いたら、めちゃくちゃ湿っぽい映画と思われてしまいそう。
とんでもない、これは深刻な内容をユーモアでくるんだ、わたしの理想といっていいスタイルの映画だった。

まだクマやオオカミが出るようなボスニアの農村に、セルビア人の鉄道技師が、オペラ歌手の女房と、サッカー選手の息子の3人で暮らしている。
でっかい息子がいるわりには、この鉄道技師は、まだまだ中年になった西城秀樹か草刈正雄みたいで若々しい。
そして彼らをとりかこむイヌ、ネコ、ウマ、ヒツジ、ニワトリ、ガチョウなどのペットや家畜が、自然なままに演技していて楽しい。
中でも秀逸なのが、失恋して自殺願望を持ってしまったロバだ。
彼は轢死しようとして、しょっちゅう線路に立ちつくし、そのたびに列車をストップさせて人間を困らせる。

この映画を観て、わたしはまっ先にフェデリコ・フェリーニの 「アマルコルド」 を思い出した。
アマルコルドはフェリーニ監督の幼いころの思い出を映画化したものだそうだけど、さまざまな事件をユーモアとペーソスをまじえ、牧歌的ともいえる映像でつづったものである。
牧歌的というと、美しい田園地帯でのんびりと思う人がいるかもしれないけど、「ライフ・イズ・ミラクル」 の中には、サッカー場の大乱闘や、式典でのわい雑などんちゃん騒ぎもある。
これらも含めて牧歌的と、わたしはいうのである。
そういえばサッカー場でキーパーにおしっこをかけるなんていたずらは、アマルコルドにも似たような場面があったよな。

ネット上にこの映画の感想・批評があるけど、大半は短縮版を観たあとのものらしい。
4時間半の映画を2時間半に短縮したのだから、カットされた部分にも重要な場面がたくさん含まれているので残念だ。
たとえば軍隊に行く鉄道技師の息子の壮行会に、太った双子の兄弟が出てくるけど、彼らが何者なのかということは、短縮版を観ただけではわからない。
フェリーニの映画には唐突にサーカスの芸人が登場したりするから、そういうものかと思っていた。
この兄弟のことはカットされたシーンを見るとわかるのである。

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このほかにも、オリジナルからカットされた部分は多い。
まず新しいトンネルが開通して、その中を主人公夫婦と市長夫婦が、足こぎ式の軌道車で走りぞめをするシーン。
このシーンは、映画の予告編や、宣伝用のスチール写真に使われるくらい有名なのに、短縮版ではそのほとんどがカットされていた。

続いて新型機関車のお披露目式における列車内のどんちゃん騒ぎ。
登場人物のほとんど全員が参加したこの式典は、オーケストラも乗り込んでミュージカル仕立てになっており、本筋には関係なくとも、まちがいなくこの映画のハイライトのひとつである。
理性と欲望がうずまくこのシーン、観終わったあと、しみじみと、おもしろうてやがて悲しき◯◯かなという気分になるのにもったいない。

そのほか出征した鉄道技師の息子が戦場で戦う場面や、奥さんが庭で歌の練習をしているとき、息子の蹴ったサッカーボールの直撃をくらうところや、IT機器に不慣れなヒツジ飼いの女性が衛星アンテナに翻弄されるシーン、市長のふしだらな奥さんがはだかのまま駅で列車を見送るところなど、貴重な場面、抱腹絶倒なシーンが、短縮版ではみんなカットされていた。
このために映画の文学的味わいが、だいぶ抜け落ちたような気さえする。

やがて戦争が始まり、軍隊に行った息子は敵の捕虜になってしまう。
精神的に不安定だった女房はほかの男と駆け落ちしてしまう。
この奥さん、行動が極端でいろいろもめ事を起こすけど、美人だし、おっちょこちょいに描かれていて憎めない人である。

ショックのダブルパンチでしょげている鉄道技師のところへ、息子と交換するために、敵方の若い娘が捕虜として預けられる。
彼女の面倒をみているうちに恋がめばえ、というとずいぶん調子がよすぎるけど、これはそもそもおとなの(男の)ためのおとぎ話である。
若い娘を家に預かるなんて、男なら誰でももっているひそかな願望ではないか。

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しかし相思相愛になったとはいえ、しょせん娘は交換要員だ。
いつか息子と交換するために別れなければならないことはわかっていた。
駆け落ちした女房も帰ってきた、息子も無事に取り返した。
おとぎ話の世界から、たちまち現実にひきもどされてしまう。
恋があまりに甘美であったがゆえに、傷心の鉄道技師は発作的に線路に身を横たえる。
しかし間一髪のところで列車を止めたのは、そう、あの自殺願望のロバだった。

というのがこの映画のオチなんだけど、どうせ日本人のなかには、ふざけた映画だという人が多いんだろうな。
わたしにいわせれば、爆発でふっとんでも絶対に死なない「M:I」のトム・クルーズのほうがよっぽどふざけてるけど。

不幸な結末でありながら、見終わったあとほのぼのとした幸福感を感じる映画、「ライフ・イズ・ミラクル」も、やはり生きているうちに観られてよかった映画だった(ついでにニーノ・ロータを思わせるテーマ・ミュージックも聴けてよかった)。
このネタの最後がちょっと駆け足になったのは、ブログに載せるために5ページ分の原稿を3ページに短縮したせいである。
わたしがカットした部分は、特に意味があるわけではないから詮索は無用だ。

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2018年9月22日 (土)

パルタザール

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先日放映された 「パルタザールどこへ行く」 という映画、1964年の映画である。
なんとなく傑作みたいな気がしたので、ずっとむかしにレンタルビデオを借りて観たことがある。
つまらない映画だったので、そのときはとちゅうで放り出したけど、それがまたタダで観られるというので、わたしもむかしに比べれば相応に大人になったつもりだから、今度はじっくり観ようと録画してみた。

結論としては、やっぱりわからん。
つまり駄作だということである。
駄作であるならこんな映画評を書くこともないんだけど、わたしがいつも利用している映画データベースも含めて、いまだにこれを傑作だと信じている人もいるようだから、そういう蒙昧の徒を覚醒させるためにも、あえて書く。

この映画はパルタザールというロバと、飼い主の娘の交情をを描いたものだそうだけど、ロバが愛らしい動物で、ヒロインも目もとのパッチリしたかわいい娘であることはよくわかった。
注意しなくちゃいけないことは、ウブな青少年のなかには、映画のヒロインにひと目惚れして、それだけで映画も忘れられない傑作だと信じてしまう人がいることだ。
水をぶっかけるようなことをいうけど、このヒロイン、なみだを流す場面はあっても、喜怒哀楽の表情がほとんどない。
こういうのを世間では白痴美というんだけどね。

まず冒頭に娘の子供時代という設定で、数人の少年少女が出てくる。
みんな子供のロバをかわいがっているんだけど、彼らのなかには病死する少女もいるのに、それがロバとどんな関係で、どういう事情なのかさっぱりわからない。
セリフが少ないというのは、ときに深遠な哲学的雰囲気をかもし出すことは事実。
しかしそんなものに騙されないのがわたしのブログだ。
これはどうみても脚本が悪い。
登場人物やあらすじを、もっと要領よく説明する方法がありそうなものだ。

子供が父親に、このロバを買ってと頼む。
父親はダメだと答える。
つぎの瞬間には、なんの説明もなしに、親子はロバを自宅に連れて帰る。
獣医がこのロバはもう助からないねというのに、つぎの場面では浮浪者にひきとられて、ふつうに歩いているロバが映る。
さっぱり意味がわからない。

父親が娘を探しまわる場面があるけど、ここでは父親はほとんど棒立ちのままうろうろするだけ。
ほかの登場人物にしても、ぶっきらぼうな態度のままというのが多い。
おそらく監督にこうやってくれといわれて、はいはいとそのままやっているだけなのだろう。
これでは演技とはいえない。

芸術が円熟期に達すると、新しい表現を求めてさまざまな実験が行われるように、「パルタザール」も、監督がこころみた実験映画だったのかもしれない。
しかしこの映画より以前に、「戦火のかなた」「道」「自転車泥棒」「恐怖の報酬」「勝手にしやがれ」「突然炎のごとく」など、さまざまな傑作・佳作・異色作(わたしのライブラリーにあるものだけでも)が生まれているところをみると、この映画は失敗作としか思えないのである。

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やがてヒロインの娘は不良仲間にレイプされてしまうんだけど、この場面は大幅に省略されているのでもの足りない。
映倫がうるさかったから、この時代には “もの足りる” ような過激な映像は撮れなかったとお思いか。
デ・シーカの「ふたりの女」はこれより4年まえの映画なんだぞ。

この映画は観念的なものを映像化した、ストーリー無視の、詩のような作品ではないかと好意的に考えてみた。
しかし詩ならばなにかしらこころに残るものがあるはず。
観終わったあと、ほんわりとあたたかな気持ちになれるフェリーニの「81/2」は、この前年の作品なんだけどね。

ろくでもない監督が、ろくでもないジコチュウを押しつけてくる映画、というのがわたしの、「パルタザール」に対する正直すぎる評価だ。
でもこの映画はヴェネチアで賞をもらってるという人がいるかもしれない。
それこそ事大主義だ。
おまえは他人がほめるからすばらしいというのかと、そんなノータリンな考えを一蹴してしまう。

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2018年9月18日 (火)

緑の光線

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たまには新しい映画だって観るぞというわけで、4、5日まえに録画しておいた「緑の光線」という映画の感想。
出てくる女の子たちの服装や水着がいま風なので、新しい映画だろうと思ったけど、調べてみたら1985年の公開だったから、もう30年以上もまえの映画だ。
映画には詳しいつもりのわたしがぜんぜん知らなかったフランス映画である。

最初に早送りでざっとながめたら、アスリートみたいなアメリカとは異なる、もっと女らしいきれいな女優さんの水着シーンがあったので、ついつい最後まで観てしまった。
以前に観た「ストレンジャー・ザン・パラダイス」みたいな脱力系の映画だった。
ぽわんとした娘がバカンスを利用して、シェルブールまで海水浴に行くんだけど、べつに刺激的な事件が起こるわけでもなし、ぽわんとしたまま結末を迎えるだけ。
刺激的な映画ばかりの昨今では、そのぬるま湯につかったようなのんびり感がかえって新鮮というやつ。

主演女優はきれいだけど、これにからむ男がどうも頼りないやつらばかりだ。
なんでもほんの少数のスタッフだけで、16ミリカメラで撮影されたゲリラ的な映画だというから、予算をケチって、そのへんの素人に出てもらったんじゃないか。
でも予算をかけるばかりが映画じゃない。
ゴダールだって低予算でいい映画を作ってるし、そういうことでは伝統のあるフランスだ。
そういえば登場人物のさして重要ではない会話や、カレンダーで日にちの推移を表現するところなど、ゴダール的風景が随所にあらわれるのは、この監督もヌーベル・バーグの申し子である証拠なんだろう。

さて、映画のヒロインのこと。
きれいな娘だけど、なぜかひとり旅である。
どうも理屈が先に立っちゃう娘のようで、友人たちと食事をしても、あたしってベジタリアンなのと、食事に水を差すようなことを平気でいってしまう。
アヴァンチュールに興味がないわけじゃないんだけど、いざとなるとなかなか踏ん切れない。
海辺でおっぱい丸出しのスウェーデン娘と出会って、もっと自由に生きなくちゃなどとはっぱをかけられても、やはり煮え切らない態度。
いるねえ、こういうタイプ。
このへんは、ひとり旅を愛するわたしにも理解できる部分がある。

ひとり旅って優雅であるけど、倦怠や疎外感におそわれることもしょっちゅうあるのだ。
素敵な女の子との出会いでもないかと期待して、やたらにあちこち彷徨してみても、現実にはなかなかそういうことはない。
ましてニートの傾向があるし、わたしって。
そんな個人的なことはどうでもいいけど、なにも起こらないってのがおおかたの女性の現実だろうし、監督が描きたかったのは、こういうありふれた女性を通して、現代の孤独を追求することだったのかもしれない。
でも工夫もスリルもあるわけじゃない。
女優さんがアメリカ型で、厚着をした冬のニューヨークが舞台だったら、とても観たいと思う映画じゃないね。

いちゃもん大好き人間のわたしにいわせると、ちと気になる点も。
このヒロインは旅に出るまえに彼氏にふられたらしい。
でも電話での会話や、バカンス先で彼氏の別荘を貸してくれなどと頼んでいるところをみると、それまではけっこう親密な関係だったようである。
つまり彼女がすでに男を知っているとしたら、旅先での行動があまりにも潔癖すぎるのだ。
シナリオ的には、彼女を文学好きで、おくての女子大生にでもしたほうがよかったと思う。

ついに失望したまま彼女はパリに帰ることになる。
ところが駅で話しかけてきた男に、これが最後のチャンスというわけなのか、誘われるままにふたりで夕日を見に行くことにする。
で、ベッドインかと思うと、そういうシーンはぜんぜんなくて、夕日を眺めるだけで映画は終わり。
沈む夕日のなかに緑色の光が見えれば幸福になれるという言い伝えがあるそうで、これが映画のタイトルでもあるんだけど、彼女はじっさいにそれを見るから、このあとふたりは(たぶん)ホテルにもう一泊してシアワセになったんだろうなって、つまらない妄想をかきたてられるのは、わたしが下品すぎるのか。
ファッショナブルでロマンチックな映画だと信じている人たちには、すみません。

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