壮絶の映画人生

2020年10月 1日 (木)

常識のむずかしさ

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やっぱり認知症かな。
毎日のんべんだらりんと生活しているもので、頭がぼけてきたんじゃないかと思わせられたことがあった。
広い世間には信じられない映画があるものだ。
あまり信じられないので、一般公開されたかどうかも知らないけど、顔に肛門がついていて、お尻に口がついている女性の物語。
アニメかと思ったら、これを一部CGで加工された生身の人間が演じてた。

むかしのどの奥にクリトリスがついている女性というポルノ映画かあったけど、こちらはポルノではなく、見かけで人間を判断してはいけないという、差別意識をテーマにしたきわめてまじめな映画である(そうだ)。
だからいちゃもんはつけないものの、認知症の入口あたりをさまっている年寄りが観たら、現実と夢想のさかいがますます曖昧になって、いよいよ来るべきものが来たかと愕然としてしまう。
罪つくりな映画。

年寄りには毒だから、リンクを張ったり、キーワードのヒントを与えるようなことはしないけど、興味のある人はYouTubeを探してみるといい。

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2020年9月26日 (土)

バニー・レークは行方不明

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いっぺんに秋めいてきた夜はなにをするか。
昨夜は録画した映画を観ていた。
「バニー・レークは行方不明」という、かなり古い(1965)モノクロのミステリー映画だ。
最近のせせこましい映画に閉口している当方としては、コーヒーをわきに置いて、ミステリー映画をじっくりと鑑賞するのは、なかなか優雅な楽しみといえる。

この映画のあらすじを説明すると、英国に引っ越ししてきたばかりの、アメリカ人の若い母親の4歳の娘が行方不明になる。
母親は従兄弟の青年とともに、必死になって娘を探しまわる・・・・この先はネタバレだけど、いまどきわざわざ観ようという人がいるかしらという古い地味な映画だし、わたしはそのうち老衰で死んでしまうのだから、無責任にバラしてしまうのだ。
バラされたくない人は、このあと話がすこし脱線するから、そのあいだにこのブログを閉じたらいい。

例によって映画を観ながら、ああでもないこうでもないと雑念にふける。
2001年宇宙の旅」でボーマン船長を演じたキア・デュリアが重要な役で出ていたけど、おそらくこの映画あたりがキューブリック監督の目にとまって、抜擢されたんだろうと思う。
ちなみに「バニー・レーク」は英国映画であり、勘違いしている人もいるかもしれないけど、「
2001年」も大半は英国のスタジオで撮影されている。
だから監督が役者を知る機会はいくらでもあったわけで、デュリアには申し訳ないけど、ボーマン船長はそれほど演技や個性が必要という役柄ではないから、うん、こいつで間に合わせておくかと、
2001年の準備で大忙しのキューブリックは考えたのかも。

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さあ、ネタバレだ。
じつはデュリアの演じた従兄弟の若者は、ふだんはまともだけど、倒錯した意識をもつ異常性格者で、彼が娘を隠匿していたというのがオチ。
宇宙船の船長は健全な科学者だったけど、「バニー」のほうは病的な青年の役なのだ。

この映画を観て思い出すのは、ヒッチコックの有名な「サイコ」という映画。
「サイコ」のほうは、大人になっても母親の呪縛から逃れられないノーマンという若者が主人公で、彼は母親と息子の二重人格者である。
息子にちょっかいを出す女は許せないと、息子のなかの母親が殺人を犯すのだ。
ややこしいけど「サイコ」は1960年の映画だから、このころは精神医学をテーマにした映画がブームだったのかも。

ノーマン君の場合はマザコンだけど、ほかにもロリコン、ファザコン、同性愛からナルシシズム、サディズム、マゾヒズム、異常に肥満した女が好きだとか、オシッコを飲みたがるとか、馬が好きとか犬がいいとか、最近ならフィギュアや二次元妻に凝ってみたり、倒錯にもいろんなタイプがあるそうである。
でもわたしは精神分析医ではないから、この映画に出てくる幼児性倒錯なんてものがあるかどうかは知らない。

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そういうことは抜きにして、ちょっと気になったのは、誘拐された少女が英国製の小さなスポーツカーのトランクの中で、そんなにいつまでおとなしく寝ているだろうかということ。
睡眠薬がさめたらぎゃあぎゃあ暴れて、人に気づかれてしまうんではないか。

ところがよく観ると、保育園にあずけた娘が行方不明になる、警察に届けて捜査が始まる、テレビがニュースにする、母親がいやらしい大家に迫られる、娘の存在を疑う警視と母親がパブで話し合う、母親が人形作りの家を訪問する、警視は米国から到着した客船の乗客を調べる、従兄弟が母親に暴行し、母親は病院に収容され、そこから逃げ出す、自宅にもどって従兄弟の正体を見抜く・・・・そんなふうにやたらにいろんな出来事を詰め込んであるけれど、これって行方不明から事件解決まで、すべて24時間以内の出来事なんだよね。
だったらいちおうつじつまは合う。
いちゃもんに目のないわたしだけど、監督はオットー・プレミンジャーで、こちらもまあまあ巨匠といっていい人だし、サー・ローレンス・オリビエも出ているし、このくらいはフィクションだからということで大目にみておこう。

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2020年8月 6日 (木)

情婦

暑い。
暑くなくても一日ひきこもりだから、あまり変わらないけど。
今日はいいネタがない(考えてる時間がない)ので、ずっとまえに書いた文章でお茶をにごしとく。

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ミステリーの結果を語るのはモラル違反という説がある。
へそ曲がりのわたしは、もちろんそんなものは無視してしまう。
というのは、これから触れようとする映画は1957年の古い映画で、わたしがモラル違反だからとあいまいな説明をしておいたほうがいいか、いや、この映画のトリックは素晴らしいと、こまかい種明かしをしたほうがいいか。
はたしてどっちがいまどきの若い人たちに関心を持ってもらえるだろうということである。
うん、どうしても結末を聞きたくないという人は、この先を読まなければいいだけの話だ。

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映画というのはアガサ・クリスティーの原作を、ビリー・ワイルダーが監督した「情婦」という作品である。
わたしは原作を読んでないけど、これについてはたぶん映画のほうがおもしろいのではないか。
なぜなら映画のなかにヒロインのひとり二役があって、ここはいかに映画を観ている観衆をだますかという、役者の変装ぶりにポイントがあるからである。
つまり視覚的なトリックで、文章からではこれほどみごとに引っかかったかどうか。
じっさいに種明かしをされるまで、わたしも見事に引っかかった。

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しかしトリックだけで傑作というのでは監督に失礼だ。
この映画のおもしろさは、事件の裁判にとりかかるまえの、登場人物の気のきいた会話などにある。
たとえば冒頭に、いかにもたくさんの成人病をかかえたような太った弁護士が出てくるんだけど、皮肉屋の彼と、世話を焼きすぎる女性看護師のやりとりがおもしろい。
いい映画というのは背景も念入りに考えられているもので、最近のせせこましい映画ではそのへんを飛ばしてしまうものが多くて困る。
どうでもいいけど、この映画のタイトルなんとかならんかね。

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2020年7月31日 (金)

影武者と黒澤明

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BSのアナザーストーリーで、「天才の衝突・黒澤明VS勝新太郎」という番組をやるというので、録画しておいた。
これは「影武者」という映画で、主役に決まっていた勝新太郎がとつぜん降格させられた事件があり、そのことについて関係者があれこれ話す番組だった。

映画は武田信玄とその影武者を描いたもので、丸顔で太った信玄の肖像画からすれば、勝新太郎はぴったりだから、さすがは世界のクロサワと、この取り合わせにわたしも喝采したものである。
それがいきなり細おもての仲代達也に交代させられてしまい、芸術家ってのはピリピリしていることが多いからなあ、クロサワもそのクチかあと失望した記憶がある。

この番組ではそんなクロサワに批判的な意見もちらほらしていたけど、批判というのは本人が生きているときにしなけりゃ意味がない。
生前の黒澤明に面と向かって、「影武者」は失敗作だねといったのは、わたしの知っているかぎり、サヨナラサヨナラの淀川長治さんただひとり。
彼の場合はふだんからクロサワと親交が厚く、忌憚のない会話のできる人だったからいえたもので、天皇といわれた黒澤明に、当時の映画関係者でそんなことをいえる人間はひとりもいなかった。

なんで天皇といわれたのか。
たしかに初期の作品「羅生門」や「七人の侍」は素晴らしかった。
まだ大戦の傷も癒えないころで、日本の映画文化がほとんど知られていなかったころに、とつぜん欧米人を瞠目させる映画があらわれたのだ。
という点を考慮しなければならない。
と、へそまがりのわたしは考えてしまう。
そういう栄光がいつまでも彼を大御所にしておく。
相撲の横綱のように、いったん地位を確立したら、いつまでもその地位に安住できるという、日本のウツクシイ伝統のひとつだ。

「用心棒」にも感心した。
そのころのわたしは歌舞伎役者がそのまま出てきたようなキンキラキンの時代劇しか知らなかったから、薄汚い着物で、むさ苦しい主人公というだけで感心したものだ。
しかし冷静に考えれば、この映画もただの荒唐無稽なアクション映画にすぎない。
そう考えればなかなかよくできた映画で、むかしの日本の武家社会をぜんぜん知らない欧米人に受けたのも当然だ。

「影武者」はコッポラやルーカス、スピルバーグら、世界の有名監督の後押しで製作できたというけど、この3人を並べただけで、ロクなもんではないというのがわたしの意見。
ロクなもんではない人間が後押ししたら、できた映画はロクなもんではないのが相場。
映画の試写会のとき、来日したあちらの映画関係者が作品の出来栄えを問われて、ううんと口ごもっていたのが印象的だった。

だいたい黒澤明の作品は、カラーになってからひとつも傑作と呼べるものがない。
わたしは「どですかでん」あたりで、そのヒューマニズムがおそろしく旧態依然としたものであることに愕然とした。
クロサワの思考はモノクロ時代でストップしていたのだ。
理由は、やはり面と向かって批判するものがいなかったせいだろう。
本人がイヤがるようなきびしい評価なしでは、
進歩もないのである。

話がもどるけど、この番組では降格された勝新太郎に同情していたものの、けっきょく最後は「影武者」は傑作でしたみたいな言葉で終わっていた。
とんでもない。これは駄作である。
黒澤明を評価するときは、世間のそれから3割くらいは減点することにしているのだ、わたしって。
あ、またいつものいちゃもんになってしまった。

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2020年7月22日 (水)

チェリスト

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英国ロイヤル・バレエの「ザ・チェリスト」を観た。
で、なにか文章を書こうとしたけど、なかなかうまくまとめられないと書いたばかりだ。
しかしそれを口実にして、ブログの更新をサボってばかりというのもマズイ。
今月は16日、17日、18日の三日間だけでアクセスが1000を突破したのに、これじゃまたもとの木阿弥ではないか。
中途半端でも、やっつけ仕事で更新してしまうことにする。

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「ザ・チェリスト」は夭折した天才チェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯をバレエ化したものである。
デュ・プレというと、わたしは映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を思い出す。
なかなかいい映画だったけど、どっちかというと、ジャクリーヌよりも姉のヒラリーに焦点が当てられ、天才の妹をもった凡才の姉のこころの葛藤が描かれていたように思う。
映画のなかでジャクリーヌがかなりぶっ飛んだ女性として描かれていて、いいのかい、これじゃ(まだ生きている)旦那のバレンボイムから訴えられないかと心配になったものだ。

じつはわたしはデュ・プレのことを、音楽を通して知っていただけで、その私生活については、有名な指揮者のバレンボイムと結婚したこと、そして多発性硬化症という難病に冒され、42歳という若さで亡くなったことぐらいしか知らない。
ほんとうにそんなぶっ飛んだ女性だったのか、はたしてバレエではどう描かれているだろう。

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バレエと同時に彼女のドキュメンタリー映像が放映された。
バレエのほうは観念的なところがあって、予備知識がなかったら彼女の生涯がどんなものだったのかわかりにくい。
両方を並行して観れば、彼女の実像がわかるんじゃないかと期待したけど、ドキュメンタリーのほうは彼女の演奏が観られる(聴ける)だけだった。
ここでジャクリーヌはエルガーのチェロ協奏曲を弾いている。

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映画でもバレエでも、この曲が使われていた。
恥ずかしながら、わたしがはじめてエルガーを聴いたのは、デュ・プレの悲劇に誘発されてのことだった。
全編を通して聴きたくなるような曲じゃなかったけど、1カ所、ガーンと盛り上がるところがあって、そこだけはよく覚えている。
映画ではこの部分が、幼いころに海岸で、姉といっしょに遊んだという回想シーンに使われて、効果的だった。
しかしバレエでは海岸を持ち出すわけにはいかず、どうしても舞台の上の踊りだけで情況を説明することになる。
だからむずかしいのか、わたしの感受性がにぶいのか。

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ストーリーもまともすぎて、前半はチェリストとして有名になる彼女、後半で病に苦しむ彼女が描かれる。
チェロという楽器が擬人化されて出てくるのはいいアイディアかもしれない・・・・と書いたところで、なんでいいアイディアなのかと屁理屈をこねているうち、このあとがうまくまとめられなくなってしまった。
わたしにはほかにもやることがあるのだ。
ヤケになって、擬人化したからなんだってのさと、強引にオチをつけてしまう。

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わたしがバレエに期待するのは女性の美なのであって、男がチェロを演じてもおもしろいと思わない。
最後は回想シーンになって、少女時代のジャクリーヌや両親、姉などが出てきて、聴衆が感涙にむせぶ、というのも月並み。
でもヒロインを演じたダンサーはローレン・カスバートソンといって、ロイヤル・バレエらしからぬ美人だったから、彼女の踊りを観ているだけで最後まで退屈しなかった。
どうじゃ。

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2020年6月19日 (金)

フリー・ソロ

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先日録画した「フリー・ソロ」という映画を観た。
最近のわたしは映画にかってほどの熱意があるわけじゃないから、この映画についてなにも知らなかった。
なんでも岩登りの映画らしい。
またBSのグレートサミットみたいなもんかと、まあ、へんなドラマよりおもしろそうというわけで録画しておいたのだ。

録画したあとでちらりと冒頭の部分を観てみたら、見なれた黄色い四角の枠の、ナショナル・ジオグラフィックのロゴが現れた。
これだけでタダ者じゃないなという気がする。
まあ、これ以上説明するのはよそう。
フリー・クライミングの記録映画なんだけど、そのスリルを文章で説明しても仕方がない。
わたしにはそんな能力はない。

興味があったのは、岩肌にへばりついたクライマーをどアップで撮影するチームの仕事ぶり。
他の映像でもそうだけど、NG誌は、いったいどうやって撮影したのかという驚異の写真や映像で定評がある。
そういう裏方さんたちの仕事を観られたのがよかった。
録画しておいてほんとうによかったとしかいいようがない。

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2020年5月19日 (火)

飢餓海峡

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日本映画の傑作(とされる)「飢餓海峡」がまた放映されたので、また録画してまた観てみた。
傑作であると断言しないのは、わたしはこの映画を映画館で観たことがないし、テレビで放映されたものは何度も録画しているのに、最後までいちども観とおしたことがないからだ。
なにしろ3時間もある映画なので、家ではほかにも雑用があって、とても最後までテレビのまえに座っていられない。

でも傑作だといわれているから興味はある。
公開されたのが1965年だから、わたしがまだ紅顔の美少年だったころで、当時の社会や風俗をふりかえるにも具合がいい。
で、今回もブログの更新をしたり、メシの支度をしたりしながら、ちらりちらりと観た。

見終わるとどこか釈然としないものが残る。
これはミステリーだそうだけど、それならなおさらのこと、ストーリーに納得しにくい部分があると、それだけで傑作とはみなされなくなってしまうのだ。

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いちゃもんをつけるところは多いけど、ひとつ挙げておこう。
戦後の混乱期に、三国連太郎扮する強盗殺人犯が、青森で娼婦を買い、彼女にほだされて、盗んだ大金を彼女に分け与えて去る。
殺人犯はこのあとそしらぬ顔で市井にまぎれ込み、まっとうな社会人になって、とある地方の有名人になっている。
そこへ新聞記事で偶然に彼のことを知った娼婦が訪ねてくると、前科を暴露されることを恐れた殺人犯は、今度は彼女を殺してしまう。

さて、お立ち会い。
ひと晩だけの行きづりの客の顔を、
10年後まで娼婦が覚えているだろうか。
まして相手はジャン・ヴァルジャンみたいに、服装もものごしも一変しているのだ。
そりゃ人違いだね、他人の空似だよといわれれば、そこでふつうはおしまいだ。

これは脚本がわるい。
だからわたしだったらこうすると、あ、また余計なお節介だ。

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殺人犯たちが金を独り占めしようと殺し合ったとき、三国扮する殺人犯は抵抗されて手の甲に傷を負ってしまう。
そのあとたまたま知り合った娼婦が傷の手当てをしてくれて、これがそもそもの馴れ初めで、ふたりはひと晩の契りをむすぶことになる。
女はこの傷のことを覚えていて、
10年後に再会したとき、男がしらを切ると、ちょっと手の甲を見せてという。
そこに動かぬ証拠が残っており、やっぱりあなたは愛しい
○○ちゃんじゃないのと、女は男にしなだれかかる。
正体がバレたことを知った男は、やむを得ず女を殺す決意をする、なんて脚本はどうだ。
うん、やっぱりわたしって天才ね。

ミステリーで大事なのはつじつまが合っていることだ。
完璧なつじつま合わせで感心させられたマーチン・リット監督の「寒い国から帰ったスパイ」は、同じ年の映画である。
「飢餓海峡」は、当時の日本人の映画鑑賞レベルはこんなものだったと、そっちのほうで感心すべき映画じゃないか。

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どうもわたしのいちゃもん好きにも困ったもんだけど、余計なお節介はさておいて、ある場面でふと画面に目が止まった。
殺人犯が青森県の大湊でバスを降りる、なんてことのないシーンだけど、背景に特徴のある山が見える。
これって3年まえに大湊でわたしが見た釜臥山じゃないか。
有名な恐山はこの山のすぐうら側だ。

それだけじゃない。
若いころ海上自衛隊にいたわたしは、ひとつ間違えば大湊に赴任させられて、朝な夕なにこの山を見ていた可能性があるのだ。
この映画の公開時とわたしの自衛隊時代は、時期的にそれほど変わるわけではないから、わたしもこの映画と同じような風俗を目の当たりにしたかも。
ああ、思えば遠く来たもんだ・・・・

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2020年2月 7日 (金)

舞踏会の手帖

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VHSビデオが全盛のころ、名画であるといううわさを聞いてレンタル店で借りたことのある「舞踏会の手帖」という映画。
あまりおもしろいと思えず、最後まで観なかった記憶があるんだけど、それがデジタル修復版で再放映されたので、今度はじっくり腰をすえて観てみた。
名画であることは始まってすぐにわかった。
いちばん最初に「修復とデジタル化、協力:国立映画センター」という字幕がでる。
名画でなければこんな扱いはしてもらえない。
おかげで戦前(1937年)の映画であるにもかかわらず、古いフィルムにありがちな雨降りもなく、画質はすこぶるいい。

映画の内容は、亭主に死なれた大富豪の妻が、若いころ参加した舞踏会で、彼女にいい寄った男たちを訪ねる(手帳に彼らの住所が記してあった)というもの。
もっか終活中のわたしも、むかしの友人や知人と会っておきたいと考えているところだから、まことに時宜にかなった映画ではないか。
若いときに観ておもしろいと思わなかったのは、わたしがまだ終活なんて心境にほど遠かったせいだろう。

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あのころは楽しかったわーという気持ちは誰でも持っている。
現実はキビシイというのも相場である。
未亡人の彼女が訪ねた最初の男はとっくに亡くなっていて、家には息子のおもかげを追う、気のふれたマザコンみたいな母親がいただけだった。
つぎに訪ねた男は悪徳弁護士になっていて、彼女の目のまえで警察にしょっぴかれていった。
つぎの男は、かって音楽家をこころざしていたはずが、どうやらこの未亡人にふられたのが原因らしいけど、いまでは教会の神父になって、子供たちに神の福音と聖歌を教えるのが生きがいという、世俗を超越した男になっていた。

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つぎの男はもと詩人だったけど、いまでは山岳ガイドになって、雄大な山ふところで山小屋を経営していた。
これなら再婚してもいいかしらと思ったものの、男は遭難救助に駆り出され、彼女をほっぽり出してさっさと出動していってしまった。
ヤケになった未亡人がつぎに訪ねた男は、田舎で町長になっていたけど、召使いに手を出して、その召使いとちょうど結婚式を挙げるところだった。

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夢もロマンもありやしないわと彼女がつぎに訪ねた男は、落ちぶれた堕胎医になっていて、秘密は守りますからさっさと服を脱いでくださいという。
わたしよ、わたし、むかしあなたに口説かれたでしょと、ようやく自分のことを思い出させたものの、前途有望だった彼は、戦場で片目を失い、同棲相手に暴力をふるう男だった。

くじけそうな未亡人が最後に訪ねたのは、美容師になったちょっとお調子者の男で、彼女をもういちど舞踏会に誘ってくれた。
ただし彼女の思い出にある上流階級のハイソな舞踏会ではなく、そのへんの商店の旦那やおかみさんが集う庶民的な舞踏会だった。
みんなが楽しければなんだっていいのよね、ええ、はい、トホホ

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こんなことを書くと、なんだ、コメディかという人がいるかもしれない。
とんでもない、これは立派な文芸作品である。
むかしの舞踏会のあと、男たちにはそれぞれの人生があったはずだけど、それが具体的に描かれることはほとんどなく、たいていの場合、男の告白と、あとはそのまま現在のすがたを見せるだけである。
派手なドンパチがあるわけでもないこんな映画を、いまどき観たがる人がいるとは思わない。
しかしわたしはすてきだと思う。
この映画のヒロインのように、わたしも若いころの思い出のなかをしょっちゅうさまよっているロマンチックな男なのだ。

思い出は甘美なものだけど、冷静に考え、現実に立ち返れば、この映画と同じ結末になることはよくわかる。
もう若くはない男性なら、われとわが身をふりかえって、苦い感慨をいだくか、あるいは苦笑するだろう。
人のこころのうちをのぞかせるもの、それは立派な芸術である。
最近は体の外側の装飾品だけを見せるような映画が多くて困る(とわたしは思ってんのだ)。

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未亡人が幻滅して屋敷に帰ってくると、手帳の最後に書かれていて、消息不明と思っていた男は、じつは近所に住んでいることがわかった。
あまり気がすすまないまま未亡人は彼に会いに行く。
ところが男は亡くなったばかりで、家には彼のおもかげを残す息子がいただけだった。
その息子もまもなく家をたたんで去るという。
この結末がわかりにくい。
ここまでだけでも名画に値することは認めるけど、最後のオチが不明瞭で未練が残る。
「舞踏会の手帖」はそういう映画だった。

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2019年12月 8日 (日)

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先日BSで放映された「アパートの鍵貸します」という映画。
最後に真実を悟ったヒロイン、いちばん可愛かったころのシャーリー・マクレーンが、夜の街のなかを恋人のもとに走るシーンは、何度観ても泣ける。
有名な映画なのでもういちいち内容に触れないけど、こういう映画がわたしの生きている間に、この地球上に存在したというのは奇跡といっていい。
このころのアカデミー賞はほんとうに価値のある賞だった。

わたしはいい映画はテレビで観るだけじゃ飽きたらず、録画して保存して、好きなときに観られるようにしているんだけど、この映画については過去に放映されたものをDVDに焼き、さらに正規の市販版DVDまで持っている。
ところがそれがブルーレイ時代になって、さらにきれいな画質で保存しておけるということになると、ほうってはおけない。
わたしが生涯最高の映画と信ずる「
2001年宇宙の旅」なんか、市販版DVD、録画して自分でDVDに焼いたもの、ブルーレイに焼いたもの、さらにその予備と、都合4枚も保存してある。
これだけあれば心配ないと、思い切り生命保険に入っている、先のみじかいじいさんみたいだ。

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2019年10月25日 (金)

レイジング・ブル

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ちょっと古い映画ファンならたいてい知っているはずのボクシング映画に「レイジング・ブル」という作品がある。
若いころ、これを観てきた友人が、すげえ映画だよとほめていたけど、あいにくわたしは他人の映画評というものを信用しない男なのて、そのときはついつい見逃した。
それが先日テレビ放映されたので、いい機会だと、録画しておいてじっくり観てみた。

あらかじめの予想では、主人公のボクサーが努力してのしあがっていき、その合間に家族のきずなのようなものが描かれ、最後に宿敵との大勝負があって、その決着をつけたあと、はい、ジ・エンドという映画じゃないかと思っていた。
そうじゃなかった。
ボクシング場面もたくさん出てくるけど、それよりもヒーローらしからぬ主人公の生きざまに焦点が当たった、なかなか見応えのある映画だった。

主人公はジェイク・ラモッタという実在したボクサーである。
こういう映画を漫然と観てもつまらないから、ウィキペディアでいろいろ調べながら観た。
彼の経歴はおおむね映画に描かれたとおりで、なぐられてもなぐられても立ち上がってくるしつこいボクサーだから、レイジング・ブル(荒れ狂う雄牛)と呼ばれたそうだ。
ボクサーをやめてからは、コメディアンをしたり、バーの経営をしたこともあるそうだから、ちょっと異色のボクサーである。

チャンピオン戦の挑戦資格を得るために、マフィアと取引して八百長をしたことや、バーを経営しているとき、客に未成年の娘を紹介してムショ暮らしをしたことがあり、映画はそういう場面まで忠実に描く。
ホントかよと思うのはわたしのわるい癖で、ひょっとするとウィキペディアの記述が、映画の脚本に影響されてんじゃないかと心配になる。

彼は史上最高のボクサーとされるシュガー・レイ・ロビンソンと6回も試合をしており、特に最後の闘いとなった1951年の試合は、セントバレンタインの虐殺と呼ばれるほど凄惨なものであったそうだ。
映画でもこの場面は、主人公が血まみれになるほどすさまじいものだった。

それを観ていてふと思ったけど、この13回TKOとなったラモッタ、ロビンソン戦て 、後世にのこる名勝負だったらしいから、記録映像が残っているんじゃないか。
そう思って調べてみたら、図星で、最初から最後まで、ほぼ完全な映像が
YouTube に上がっていた。
ただし、じっさいの映像を観るかぎり、映画ほど血なまぐさいものではなかったようである。

主役を演じたロバート・デ・ニーロは、この映画でアカデミー主演男優賞をもらった。
演技もいいけど、たまげたのはデ・ニーロの激変ぶりだ。
ボクサー時代はいかにもボクサーらしいスマートな体型なのに、廃業したあとはお腹の出た中年太りのおっさんになってしまう。
じつはこの映画の最大の見せ場は、このデ・ニーロの肉体改造ぶりにあり、それが彼にアカデミー賞をもたらしたのである(とわたしは思う)。

しかしいくら役者でも、そんなに簡単に太ったり痩せたりできるものなのか。
まだCGのない時代だから、太ったシーンは腹にさらしでも巻いているんじゃないか。
あいかわらず疑い深いわたしはそう思ったけど、太ったおっさんのデ・ニーロが裸になる場面があって、そんな細工はしていないことがわかった。
ボクサーというのは減量に苦労するらしいけど、ホント、この映画はそれをリアルに見せてくれる。

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