壮絶の映画人生

2017年8月28日 (月)

猿の惑星

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さっきまで「猿の惑星」を観ていた。
何度もテレビ放映されているし、もう語り尽くされた映画なので、いまさら批評なんかしてたまるか。
今日はぜんぶ個人的所感を。

この映画はそれまでのSF映画の常識をくつがえすオールスター・キャストだ。
ただし主演のチャールトン・ヘストンをのぞけば、みんな猿のメイクなので顔がわからない。
そこで役者の名前から彼らの素顔を考察してみよう。

猿の女性科学者を演じたのはキム・ハンター。
ちょっと(うんと?)古い人だけど、彼女はエリア・カザン監督の「欲望という名の電車」で、マーロン・ブランドやヴィヴィアン・リーと共演していた。
わたしの部屋にはそのDVDがあるので、どんな顔をした女優さんなのかすぐわかる。
乱暴者のブランドから離れたくても離れられない、清楚でおとなしそうな美人だったので、猿のメイクがお気のドク。

猿の女性科学者の友人を演じたのはロディ・マクドウォール。
この人はいろんな作品に出演している有名俳優なので、あっちこっちで観たことがあるけど、わが家にあるDVDの中では、「クレオパトラ」のアウグストゥス役で観ることができる。
日本の映画データベースには名前が出てないものもあったけど、トニー・リチャードソン監督の「ラブド・ワン」でも印象的だった人。
マッチョの多いハリウッドスターの中では、ひょろりとした頼りなさそうなタイプの人だった。

猿の長老を演じているのはジエームス・ホィットモア。
どこかで聞いた名前だけど、どんな映画に出演していたのかとググッてみたら、わたしの部屋のDVDでは、ジョン・ヒューストン監督の「アスファルト・ジャングル」に出ていた。
大金をせしめようという強盗団メンバーの、個性ゆたかな面々の中では、ちょっとこすっからい印象の役柄。

CGを使った精緻なSFの氾濫するいまとなっては、つまらない「猿の惑星」だけど、顔のわからない役者の顔を思い浮かべながら観るという楽しみもある。
画像は上記の面々を左から。

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2017年7月22日 (土)

新説

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「ジュラシック・パーク」という映画があった。
大きな恐竜たちが出てくる映画で、ティラノザウルスがドタドタと人間を追いかけたりするスリルいっぱいの映画だった。
あのスピルバーグの映画だけど、いろいろじっさいの科学的根拠にもとずいて作られているんだそうだ。
そのひとつが人間をしつこく追いまわす、人間とあまり変わらないサイズの小型恐竜で、当時の新しい学説、恐竜はじつは恒温動物だったという学説にもとずいているという。
この恐竜が厨房の窓からのぞきこむと、鼻息でふっと窓ガラスがくもる。
むずかしい学説の説明は省略するけど、細かいところまで、ホント、よくこだわるよと感心してしまう。

そんな恐竜にまた新たな学説だ。
ネット版のナショナル・ジオグラフィックによると、T・レックスは、じつはそんなに足が速くなかったという。
大型恐竜があまり速く走ると、衝撃で足の骨が砕けてしまっただろうというのが新しい学説だそうだ。
これなら生身の人間が追いかけられても、逃げ切れた可能性のほうが高い。

恐竜には毛が生えていたというのも最近の学説だから、NG誌の参考動画を見てみたら、モフモフぎみの可愛らしい恐竜が出てきた。
可愛らしくて、しかも足が遅い。
あまりカッコよくないよな。
カッコわるくても機を見て敏なるアメリカ映画としては、新しい学説を取り入れないわけにはいかない。

森の奥から巨大なT・レックスが現れる。
出たあというわけで、人間たちが全力で逃げると、それに追いつけず、T・レックスは木に寄りかかって息をぜいぜいはずませる。
ジュラシック・パークの続編はコメディで決まりだ。
モフモフ恐竜なんて、子供たちの人気になりそう。

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2017年4月22日 (土)

またレッドタートル

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以前にこのブログでも取り上げたことのある「レッドタートル」というアニメを観た。
それ以前に予告編を観たことがあって、ディズニーの3Dや、ジブリアニメとも異なる、あっさりした水彩画ふうの背景や、いたって簡略化された人物などが気になっていたアレである。

水彩画ふうなんて説明をすると、ジブリの「かぐや姫の物語」を思い出す人がいるかもしれない。
ここから先はわたしの個人的主観になるので、同調してもらわなくてもいっこうにかまわないけど、かぐや姫のほうが登場人物のキャラや動きにしても、どうしてもジブリの呪縛から逃れられないのに対し、レッドタートルのほうは完全に日本アニメから脱却した個性的な作品になっている。
日本公開にはジブリも関わっているらしいけど、実質的な監督はマイケル・デュドク・ドウ・ヴィットというオランダ出身のアニメ作家で、ジブリ嫌いのわたしでも受け入れやすい映画なのだ。

じっさいに見てみると、最近のアニメにはめずらしいくらいシンプルな作品で、逆説的に聞こえるかもしれないけど、シンプルすぎて意味がよくわからないくらい。
ストーリーそのものは単純である。
難破して絶海の孤島に打ち上げられた若者が、島で出会ったウミガメの化身である女性とひととおりの人生を経験したあと、年老いて死んでしまい、女性はふたたびウミガメにもどって海に帰っていく、それだけの話である。
音楽と波や風のような自然音以外に、セリフはひとつもなく、あとは観る人が勝手に考えなさいという映画なのだ。

最初は浦島太郎みたいにカメの恩返しかと思ったけど、映画を観るかぎり、若者には復讐されることはあっても、恩返しをされるいわれはない。
これはいったい何を象徴しているのか、なんの寓意なのか。
意味がわからないとはそういうことだ。

理屈はつけようと思えばいくらでもつく。
いくらでも理屈をこねられるものに、あえて自説が正しいといっても始まらないから、ここではあくまで参考意見として、わたしの見解を。

随所にあらわれる満点の星空や、カニや小動物たち、そして若者が海の中でウミガメといっしょに泳ぐシーンなどは、天然のままの大自然を賛歌しているように思えるけど、よく観ると弱肉強食のひじょうに残忍な部分も描かれている。
どうもたんなる自然賛歌ではなさそうだ。

若者は文明社会にもどろうと、筏を作って何度も海に出る。
ところがそのたびにウミガメに妨害されてしまう。
怒った若者は海岸でこのウミガメをひっくり返して殺そうとする。
しかしとちゅうで気が変わって同情心を起こし、今度はなんとかウミガメを助けようとする。
助けられたウミガメはその後美女に変身して、彼の伴侶になるんだけど、いちどは殺されかかった相手を愛するなんて、いくら寓話だとしてもつじつまが合わないのではないか。

つまんないことにこだわってやがるなといわれるかもしれないけど、わたしだって細部にこだわるつもりはない。
ただ、全体としてみても、これはストーリーをうんぬんする映画ではないんじゃないかということだ。

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この映画を観たついでに、同じアニメ作家が作った短編アニメをいくつか観たけど、その中に「父と娘」という作品があった。
これは幼いころ父親と別れ別れになった娘が、老婆になったある日、ふたたび娘に返って父親と再会するまでを描いた8分程度の短編である。
「ドナウ川のさざなみ」の音楽にのって、単純な線と水彩で描かれた物語が、物語そのものまで一筆書きのように簡略化して描かれており、なぜ父親と別れることになったのか、どうしてまた再会したのかという説明はいっさいない。
それでいて観ていてじつに切ない感傷におそわれる。

中国に黄粱の一炊ということわざがある。
ひとりの人間の一生におよぶような長い夢を見たあと、目を覚ましてみたら、まだ寝るまえに火にかけた鍋のアワが煮えてなかったというもので、人生のはかなさを意味しているんだそうだ。
意味がちがうけど、「レッドタートル」も、無人島に打ち上げられた若者が、死ぬ寸前に見た長い長い幸福な夢だったといえないだろうか。

夢だと考えれば矛盾のあるストーリーも、みんな納得できてしまう。
そんないいかげんなというなかれ、最後の最後になって、正義の味方が都合よく勝利をおさめる最近の米国映画よりよっぽどマシだ。
人生の終わりのほんのひとときでもいい、いっさいを投げ打って、画家のゴーギャンのように、絶海の孤島で癒されたいと願う人はきっといるはず。
だからこの映画は、人生に疲れ果てた現代人の夢ともいえるのだ。
癒されたいと願うこころに、かならずしもストーリーは必要ないのである。

ところでわたしもまた西表島に行きたくなってきた。
わたしもだれもいない海岸でまどろんで、この映画の主人公のように、長い幸福な夢を見たいと思う。
「レッドタートル」は、ホント、わたしのために作られた映画といってよい。

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2017年1月29日 (日)

Kubo

Kubo

ちょっと前にこのブログで 「レッドタートル」 という映画のことを書いた。
そのときついでに、今年のアカデミー賞のアニメ部門にノミネートされた作品について調べてみたら、「Kubo and the Two Strings」 という作品が、日本を舞台にしているというで興味をひかれた。
製作したのは外国のアニメスタジオだけど、YouTube で予告編を観てみると、日本の鎧武者をカリカチュアライズしたような登場人物や、温泉に入ることでいまや国際的スターになった日本猿が有力なキャラクターとして出てきたり、最近の日本ブームに便乗した映画のようだった (まだ日本未公開)。

最初は全編CG映画かと思ったけど、制作のようすをとらえた映像を観たら、ストップモーション・アニメ (人形をひとコマづつ動かすもの) らしい。
といっても最近のストップモーションは、CGと組み合わせたものが多いから、この両者を厳密に区別するのはむずかしい。
どっちにしてもわたしの関心をひいたことには変わりがない。

Kubo の主人公は三味線を背負った少年で、彼が鎧武者やニホンザルを従えて、平安時代なのか戦国時代なのかワカランの、ようするにそのころの日本で冒険をする物語らしい。
これじゃ桃太郎だけど、わたしはそれより伊達政宗のような隻眼の少年が、旅のとちゅうでさまざまな妖怪変化と闘うというストーリー (らしい)から、手塚治虫の 「どろろ」 を連想した。
手塚治虫大先生が生きていれば、なにしろ新しいものを取り入れるのに熱心な人だったし、もともと医学博士だった人だったから頭もいい。
いち早くCGを取り入れ、手塚プロダクションの後継者たちが、いまごろは日本におけるCGアニメの先駆者になっていたかもしれない。
ところでときどき耳にするんだけど、CG版の鉄腕アトムってどうなったのかねえ。

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2017年1月25日 (水)

レッドタートル

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今年のアカデミー賞のアニメ部門にノミネートされた作品の中に、日本の「君の名は」がなかったことについてはなんとも思わない。
ノミネート作品の中に「レッドタートル/ある島の物語」という作品があったことも、これも不思議だとは思わない。
あいにくノミネート5作品のうち、予告編だけでも観たのはこれしかないんだけど、ジブリアニメということになってはいるものの(監督はオランダ人)、わたしがその風変わりな画風に興味を持った、最近ではめずらしい作品なのだ。

解説を読むと、セリフのまったくない詩みたいな映画らしい。
つまり、セリフは観る人が勝手に想像しろってヤツ。
ようするに絶滅危惧種みたいな映画じゃないか。
わたしはこんなふうに、イメージの中をゆるゆるとただよっているような映画が好きなんだけど。

気になって、その後観に行ってみたら、もう上映が終わっていた。
いまDVDが発売されるか、BSが放映してくれるのを待っている状態。

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2017年1月 3日 (火)

またゴッドファーザー

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この正月に、わたしが毛嫌いしている「ゴッドファーザー」がまた放映された。
新しいレコーダーを買って、BSが本来の美しさで映るようになってから初めての放映だから、いちおう録画してみたけど、映画そのものはあいかわらずアホらしい。
アホらしいと思うなら観なけりゃいいんだけど、やっぱり観て、それで怒り狂っているのは、いまだにこれを大傑作だと信じている人がいるからだ。

まあ、けなすにしても、その理由をあきらかにしないと、たんなるいちゃもんと思われてしまう。
だからこの映画のどこがアホらしいのか説明してみよう。

映画はまずイタリア式大家族の結婚式の場面から始まる。
華やかな式場のようすと同時に、マーロン・ブランド扮するドン・コルレオーネの裏社会における実力ぶりが描かれる。
義理人情と家族のきずなを大事にするマフィアと、その残酷さを並行して描いたってことのようだけど、うれしがるほど目新しい表現じゃない。
だいたいこのときの結婚式って、派手なわりにだれの結婚式だったのか、ぜんぜん印象に残らない。
シチリア人の性格を知りたければ、ちょっと古いけど、ヴィスコンティの「山猫」あたりを観るほうがよっぽどいい。

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やがてギャングの抗争になり、父親のコルレオーネが襲撃されて重傷を負う。
ところが息子のマイケルが病院に行ってみると、護衛がひとりもいない。
護衛は敵方のギャングに買収された警察官に追い出されたってことらしいけど、ちょっと考えられない展開である。
命を狙われているボスを放り出して護衛がひとりもいなくなるなんて、アメリカのギャング界ではそういうことがあるのかしら。

しかもまもなく暗殺者たちがやってくるのだ。
マイケルの機転で危機を脱出すると、今度は買収された警察官(スターリング・ヘイドンがみっともない役で泣かせる)がやってくる。
警官たちにマイケルがボコられているとき、やっと兄貴のソニーや弁護士のトムたちが駆けつけてことなきを得る。
ここでことなきを得るくらいなら、どうして護衛が追い出されるとき弁護士が抗議をしなかったのか。
そもそも政治家に顔がきき、義理人情で政財界とも緊密につながった大物であるはずのコルレオーネが、なんでそのへんのチンピラみたいな警部補に裏切られなくちゃいけんの。

これは一例にすぎないけど、総じて調子のよいご都合主義が多すぎる。
コルレオーネは麻薬に手を出さない思慮深いギャングであり、敵役はそうではない。
善玉悪玉の色分けも、子供にでもわかるくらい単純だし、そのくせボスの専用運転手だとか、義理の弟だとか、どうでもいい三下を殺害するシーンだけはやけにていねいな描写だ。

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ブランドが死ぬシーンは、幼い孫と遊んでいるとき心臓発作を起こしてということらしいけど、これもとってつけたような場面で、お涙チョウダイが見え見え。
家族愛を描いた映画なら、本場のイタリアに秀作が数え切れないほどある。
そこまでのプロセスがいいかげんで、かたちだけ整えて、これが家族のきずなですなんて言われたって、はいそうですかってわけにはいかないのだ。

この映画ではマーロン・ブランドはオーデションで役を手に入れたという。
いくらこの当時落ち目だったとはいえ、マーロン・ブランドという米国のカリスマ的俳優を、監督のコッポラは同じ映画人のくせして知らなかったのだろうか。
あまり有名でない俳優たちの中に、そこにいるだけで存在感を示す役者をはめこんで、映画にハクをつけるというのは、むかしからハリウッドの常套手段だし、ブランドの凝りに凝った役作りが映画の宣伝に一役かったところをみると、どうもオーデションうんぬんは製作陣の捏造みたいな気もする。
ブランドを主役にするのは最初から既定のコースだったんじゃないか。

短気な兄貴のソニーが、敵に買収された妹の亭主に図られて、機関銃で蜂の巣にされたあと、まじめな性格の弟マイケルが、兄貴のあとを継いでファミリーのボスに成り上がる。
成り上がったあとの弟の手際のよさ。
日本のヤクザ映画でも、耐えに耐えた主人公が、最後に敵地に乗り込んで相手方を切りまくるというのはよくあるけど、その場合はこちらも殺されるかもしれないという覚悟でやっている。
ところがゴッドファーザーでは、放たれたヒットマンは一方的に相手方を殺戮するだけ。
そんな簡単に片付けられるなら、なんでもっと早く殺らなかったのといいたくなってしまう。
ようするにカッコよさだけを追求した、安っぽい劇画みたいな映画というのが、わたしのこの映画の評価だ。
何度観てもアホらしく、何度観てもやっぱり腹がたつ。

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2016年12月 8日 (木)

妖精たちの森

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マーロン・ブランドが主演しているということで興味を持った「妖精たちの森」という映画を観てみた。
ブランドが主役というだけでおわかりのように、かなり古い映画(1971)である。
若いころのブランドは男も魅了する役が多かったけど、後半の彼は変態専門の役者になったようなところがあるから、さて、どんな映画かしら。
以降の文章はネタバレになるけど、ネタがバレてもおもしろいという映画は存在するから無視。

この映画には「回転」という後日談があって、そっちのほうが先にあり、「妖精たち」のほうは、後日談のちょっとあいまいな部分を説明する映画になっている。
つまり英国の郊外にある屋敷に、なぜ幽霊が出るのか、どんな因縁があるのかということの種明かしになっているのである。
これは一種のホラー映画なのだ。

この屋敷には幼い姉弟が暮らしている。
彼らの両親は事故で亡くなり、後見人だった叔父も、扱いにくい子供たちをもてあましてロンドンへ帰ってしまった。
屋敷に残ったのは子供たち以外に、家をまかされている年配の家政婦、粗野な使用人であるクイント、若い女性の家庭教師だけ。

ブランドの役はこの使用人クイントで、幼い姉弟に乗馬だとか、凧揚げ、弓の撃ち方、カエルの捕まえ方、夜更かし、大人のからかい方などいろんなことを教えている。
女性教師は言葉使いや礼儀など、たてまえの部分を教えるのに対し、クイントのほうは人生の本音の部分を教えるといっていい。
もちろん子供たちはクイントのほうが好きである。

クイントは女性教師を暴力的に犯しており、体面を重んずる教師は秘密にしているものの、ふたりは愛人関係にある。
幼い姉弟はこのことを知っていて、お気に入りのクイントと教師の仲をとりもとうといろいろ画策する。
しかし、やがてクイントと教師の関係は、家の実権をにぎる家政婦に知られることとなり、ふたりは屋敷を解雇されてしまう。
このあと子供たちは異様な行動に走るのである。

死者はあの世で愛しあっているんだよと教え込まれた姉弟は(クイントは一般的な意味でいったにすぎないのだけど)、別れ別れになるクイントと教師をあの世でいっしょにしてやろうと、これはもうお節介というかなんというか・・・・

わたしはこの作品と、後日談にあたる「回転」の両方を観たけど、「妖精たち」のほうがおもしろかった。
登場するふたりの子供が、どういうわけか前日談にあたる「妖精たち」のほうが年長に見え、なおかつ姉を演じるヴァーナ・ハーベイという子役がやけにませていて(経歴をみると彼女はこのとき9歳)、いじわるな妖精のようで、ひじょうに魅力的だったから。

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映画の終わりでは、新任の家庭教師のまえで、姉弟が意味深な笑みを浮かべる。
後日談の「回転」はここから始まるんだけど、そちらは子供たちが幼すぎてあまりおもしろくない。
話がややこしいけど、後日談にあたる「回転」は、前日談にあたる「妖精たち」より10年もまえのモノクロ映画で、当時は子供が魅力的すぎておとなをたぶらかすのはイケナイなんて、やぼな映倫の規則があったのかもしれない。

ゾンビが100匹も登場するわけじゃないけど、わたしにとって「妖精たちの森」は、ちょっと異常な姉弟に見とれているうち、最後に衝撃的な結末を迎えるという、なかなか見ごたえのあるホラーだった。

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2016年12月 5日 (月)

君の名は

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観てきました、「君の名は」。
わたしの世代なら、どっちかというとハルキとマチコのほうに馴染みがあるけれど、もちろんいまの若いもんには、戦後の昭和にそんなラジオ番組があったなんてことは通じない。
観てきたのは、つまり、いま巷で話題になっているアニメのこと。

感想を書くまえに前置きを。
わたしはむかしマンガ家を志していたと公言しているくせに、アニメやゲームにぜんぜん関心がない。
それは事実なんだけど、ちと弁解しておくと、最近日本で氾濫していて、アニメ文化の主流になっている宮崎駿ふうのアニメに興味がないというだけで、アニメが全部キライというわけではない。
わたしが過去に見ていちばん感動したアニメは、このブログでも書いたことがある「ビートルズのイエローサブマリン」(理由はもう書かない)。

ほかにも、土曜日の夕刊でも取り上げられていた、ロシアのアニメーション作家ノルシュテインの、「霧の中のハリネズミ」などにも感心した。
これを上映するというので、わざわざラピュタ阿佐ヶ谷まで観に行ったくらいだ。
もはや若者とはいえないわたしは、いまだに手作りの芸術的アニメに愛着があるということなんだろう。

おまえは「アナと雪の女王」にも感心していたではないかと言われてしまいそう。
あれはコンピューターによる技術の進歩に興味があったのだと、ヤボな言い訳はしない。
わたしがアニメを評価するもうひとつの基準は、登場するヒロインにそこはかとない色気を感じるかどうかってことである。
だんだん話がオタク方向に進むけど、ディズニーやピクサーのアニメに出てくる女の子たちは、そのへんのへたな生身の女の子よりイロっぽい。

それでは「君の名は」はどうか。
映画がはじまったとたんにガッカリ。
ほとんどのキャラが、(文字通り)鼻の下が長くて、横顔がへたくそという宮崎アニメからの伝統どおりで、アニメらしい誇張されたキャラクターデザインや動きはぜんぜんない。
そんなにリアルにこだわるなら、どうして青柳祐介みたいな肉感的なキャラにしてくれなかったのか。
アニメにはアニメの良さがあると理解を示そうとしたけど、これならやっぱり生身の人間を使った実写映画にしたほうがよっぽどいい(そのさいは女子高生だったころの北乃きいや蒼井優を使ってくれるともっといい)。

「君の名は」は草食系化した現代の若者にはいいかも知れないけど、わたしみたいな肉食系の生き残りには満足できないということなんだろうね、きっと。
こんな映画が世界的ヒットだというのはどうしても理解できないし、理解するよりもわたしみたいな時代遅れの年寄りは、さっさと死んじまったほうがいいと思う。

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2016年8月29日 (月)

ジャングル・ブック

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ひさしぶりに映画館で映画を観てきた。
とくに観たい映画があったわけではなく、ほんのヒマつぶしのつもりで選んだのがディズニーの「ジャングル・ブック」。
公開されてからだいぶ経つ映画なので、すいているだろうと思ったら、天気がわるくてほかに行き先がないせいか、立川の映画館はけっこう混んでいた。

この映画は、なんでも主役の人間以外はぜんぶコンピューター・グラフィック(CG)なんだそうだ。
漫画家をこころざしたことがあり、SFが大好きなわたしだけど、基本的にこういう映画が好きではない。
スターウォーズにしてもジュラシックパークにしても、現実にいるはずのない生きものが、人間と同時に画面に現れると、もうこれだけでアホらしくなってしまう。
科学に詳しい人なら、緑色の宇宙人や、羽根のはえた恐竜がいるはずのないことを知っているからだろう。
それ以上にCG映画の大半は、子供向けのマンガみたいな内容になってしまったことが大きい。

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ジャングル・ブックでは、CGをなぜ叙情的な場面のために使わないのだろうという、わたしの長年の疑問にこたえるような場面がいくつも出てくる。
多種多様な動物たちが池のほとりに集まったり、険しい山腹を移動する動物たちなど、まるでナショナル・ジオグラフィックから借用したような美しい光景である。
あちらのCGプログラマーもちゃんとわかってるらしい。

この映画に登場する動物はすべて実在するものばかりだ。
中にはゴリラより大きなオランウータンや、アフリカゾウにしか思えないインドゾウも出てくるけど、このていどに目をつぶれば、ほんとうにインドの奥地を舞台にしているような錯覚にひたることができる(原作の舞台はインド)。

であるからして、これは博物学に興味のある人には、まあまあおもしろい映画だ。
もちろんCG映画の定番どおり、ハラハラさせて、間一髪で危機をのがれるというご都合主義も目立つけど、いつもわたしのことをオタクといって馬鹿にする、いっしょに行った知り合いも身を乗り出していたし。

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この映画を観ていて思ったこと。
ジャングルの中にはいろんな動物がいるけど、種類の多さや、かたちの複雑なことでは、とても海の中にはかなわない。
今度はひとつ、「オーシャン・ブック」なんて映画をつくって、本物の海の中の冒険映画を作ってくれないか。
「ファインディング・ニモ」があるじゃんといわれるかもしれないけど、あれは登場人物?がデフォルメされたマンガみたいなキャラばかりだ。
わたしがいうのは、じっさいの生きものをそのままCGで再現して、それと人間がまじわる話である。
そのさい、ここだけは科学の法則を無視して、人間がイワシくらいの大きさになっていれば完璧だ。
海の中はきびしい生存競争の世界だし、汚染や資源枯渇など問題も多いのだから、スリルいっぱいで、いろいろ考えさせられる映画ができることは間違いがない。

こんなことを考えたのは、昨夜放映された「深海大峡谷」という番組の影響かもしれない。
これは深海に棲む奇妙な生きものを捉えたドキュメントだったけど、わたしは美しくきらめく発光生物や、ものすごい牙をもった深海魚のあいだを、ひらりすらりと泳ぎまわれたら愉快だろうなあと、いつも空想しているのだ。

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2016年8月18日 (木)

市民ケーン

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ぜんぜん話がちがうけど、タイから帰りの飛行機の中で映画を観ていた。
タイ航空では観られる映画の数は、新旧とりまぜて70本ぐらいあり、映画好きなら感謝感激ってトコだけど、わたしの観たい映画はほんの数本しかなかった。
で、わたしの選んだのが、あの歴史的名作「市民ケーン」。

日本語の字幕なしだから、ふつうだったら意味がわからないはずが、過去に何度も観たことのある映画なので、セリフなんかなくったってストーリーはわかる。
それで、耳では iPod の音楽を聴き、目では映画を観るという変則的な鑑賞方法でこれに見入った。

当節ではこんな映画を観ようって人は、若い人ばかりじゃなく、わたしの同輩にもあまりいないようだ。
観終わって、目じりに涙がじっとりという傑作なのにザンネンな気がする。
で、今回は旅の報告ではなく、映画評。

「市民ケーン」は、技術的にもおもしろい試みのされた映画なんだけど、どんな革新技術があっても、肝心のストーリーがつまらなければ映画の価値は下がる。
で、技術的な話は無視して、もっぱら感動的な部分にしぼって話をすすめる。

この映画は、新聞王として一代で莫大な財産を築いた男の物語で、実在の新聞王ハーストがモデルとされるというけど、そんな裏話も無視。
彼がありあまる財産にかこまれながら、絶望と孤独のうちに死んでいくという物語だから、お金より大切なのは愛情であるなんて教訓的な部分も無視。
みんな無視したらいったい何に感動するっていうのさ。

老いた主人公ケーンは、ある日、“ローズバッド(バラのつぼみ)” とつぶやいて往生する。
この言葉に興味を持った新聞記者が、彼の過去にまつわるさまざまな人物を訪ねて、バラのつぼみの意味を探ろうとするんだけど、それは映画を最後まで観ている観客にしか明かされないのである。

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ケーンはまだ幼いころ、たまたま母親が持っていたいわくつきの権利書のおかげで、大金持ちになってしまう。
当時の彼は雪深い山村に、両親とともに暮らしていた。
父親は家族に暴力をふるうようなだらしない男である。
そんな境遇を見かねた母親は、親子が離れ離れになるにもかかわらず、こころを鬼にして息子を教育のために東部へ送り出す。
この母親を演じたアグネス・ムーアヘッドという女優さんは、その毅然とした演技が、まず最初の感動的。

成人に達したあと、莫大な財産を引き継いだケーンは、新聞社を買いあさり、強引ともいえる手法で新聞王として成り上がり、ついには合衆国大統領に立候補するまでになる。
ところが彼は、金持ちになった男によくある話だけど、自分の古女房に飽き足らなくなって、街で出会った歌手志望の若い娘を愛人にしていた。
これが政敵に突かれて、けっきょくスキャンダルがらみで、選挙から撤退する。
このあたりから彼の没落の始まり。

彼は愛人にした娘を、みずからの権力と財産で強引に有名歌手にしようとする。
オペラ劇場を自分で造ってしまい、そこでいきなりプリマに抜てきし、もちろん世間からは酷評されるんだけど、なにしろ新聞王だ。
自分の所有する新聞ではめちゃくちゃ絶賛させる。
そんな記事を書かされた盟友たちもあきれかえって、ひとり去り、ふたり去りと彼のもとを去ってゆく。
自分に歌手としての才能がないことを自覚している愛人との関係も冷えてくる。
ワンマン経営者のケーンには、もはや暴走を止める人間もいなかった。
そう、北朝鮮のぼんぼんみたい。

ありあまる贅沢をさせているにもかかわらず、とうとう愛人は家を、ものすごい大邸宅なんだけど、そこを飛び出してしまう。
年老いて彼女以外にこころを許せる相手のいなくなっていたケーンは、必死で行かないでくれと哀願する。
愛人のセリフ。
そんなこと知るもんか、いい気味よ!

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捨てぜりふを残して愛人が家を出ていったあと、ケーンはヤケッパチで暴れまくるんだけど、ふとガラス玉に入ったミニチュアの家の模型に気がつくと、それをポケットに入れて悄然と部屋にもどる。
このガラス玉というのは、よく観光地などで売られている、中に水と細かい銀片が封じ込まれていて、玉をかたむけることで銀片が雪景色を再現するありふれた品である。

ケーンが死んだのはそれからほどなくしてだった。
彼は死ぬ寸前に、ガラス玉の中に幼いころの思い出を、母親と過ごした雪の山村のなつかしい風景を見出したのである。
というのがこの映画のてんまつ。
最後の最後に、映画の観衆にだけに明かされる “バラのつぼみ” の意味が、じつにしみじみと感動的で、うん、身につまされちゃうよ。
これは老人ホームなんかで余生をおくっている老人の、まじで共感をよぶ映画だな。
そう、わたしにも。

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