壮絶の映画人生

2018年1月10日 (水)

ブリキの太鼓

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なんとなく思い出した映画のこと。
フォルカー・シュレンドルフ監督の「ブリキの太鼓」である。
もとはノーベル賞作家ギュンター・グラスの小説で、わたしは原作を読んでないからそっちについてはなんともいえないけど、文芸作品の映画化としては成功したもののひとつだと思う。

物語の中心をなすのは第二次世界大戦の前夜に生まれた、悪魔的能力をもつ少年オスカル。
映画は彼の成長を軸として進んでいく、といいたいところだけど、じつは彼は成長を自分の意思でストップさせていて、成長はしないのである。
なんだ、それというなかれ。
この映画は子供のままのオスカルの目を通し、ナチスが登場する前後のドイツの世相を、寓意やグロテスクなユーモアをこめて描いた傑作なのだ。
ただ作品の意味や思想なんてことをいいだすと、プロの作家でもないし、書いても一文にもならないわたしには時間の無駄だ。
だからここでは、映画の中で、とくにわたしの印象に残った部分について書いてみよう。

この映画のなかに、オスカルの母親が浮気をする場面がある。
彼女の浮気相手は従兄弟のヤンで、映画の中で、じつはオスカルの父親はこの浮気相手であることが暗示される。
母親は幼いオスカルを連れて外出するよう見せかけ、彼を懇意のおもちゃ屋に預けて、そのあいだにヤンとの逢瀬を楽しむのである。
このおもちゃ屋を演じたのが、シャンソン歌手として有名だったシャルル・アズナブール。
じつは彼も母親が好きなのだが、彼女の浮気に目をつぶって協力しているのだ。

自分の好きな女性が、べつの男に逢いに行くのを見送らなければならないとしたら、男はどういう顔をすればいいだろう。
わたしは以前このブログの「盲目物語」という項で、自分の好きな女性に相手にされない豊臣秀吉について書いたことがある。
どうもこういうもてない男には、すぐ感情移入してしまうのがわたしのわるいクセだ。

母親が愛人と密会をしているはずの建物を、おもちゃ屋はじっと見上げる。
この場面で当て馬にされた男を演じるアズナブールの切ない表情がじつにいい。
その後ナチスの台頭とともに、おもちゃ屋は迫害されて自殺するのだけど、まじめで気弱な小市民を演じたアズナブールが、わたしには映画の中でいちばんこころに残った。

この映画には、へたなポルノ顔負けのひわいな場面も出てきて、もちろんわたしはそういうところもキライじゃないけど、ほかにも印象的な場面がある。

第二次世界対戦の発端となった、ポーランドにおける抵抗運動のひとつにライツィヒの郵便局事件というものがあるそうだけど、オスカルのほんとうの父親ヤンは、ここでドイツ軍を相手の戦闘にまきこまれてしまう。
敗戦濃厚で、仲間とやけっぱちのトランプをしているところを逮捕された彼は、いい手がきていたんだけどなと、ハートのクィーンをオスカルに示したあと銃殺されるのである。

映画も傑作だけど、わたしはこういう場面について書きたかった。
悲しいこころをまぎらわすには、わたしは他人の悲しみを見つめるのだ。

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2018年1月 6日 (土)

またまた2001

2001

正月に放映された「2001年宇宙の旅」を観て。
この映画については、いくら褒めても褒め足りないのわたしだけど、あらためて監督のスタンリー・キューブリックの先見性に感心した。

この映画は1968年の製作なので、パソコン元年とされる1995年(ウイン95の発売年度)よりずっと古い。
したがってパソコンもインターネットも、それ以前にあったワープロでさえ出てこない。
これでは時代遅れという人がいるかもしれない。
しかしアメリカの批評家がいっていたように、キューブリックはテクノロジーを描こうとしたわけではない。
彼が描こうとしたのは、もっと哲学的なものだけど、あまりむずかしいことをいうと、解釈は個人の勝手でしょという迷路にはまり込むので、わかりやすいところをひとつ。

最近、2045年問題というのが話題になっていると、去年の12月にこのブログに書いたばかりだ。
これはどういうことかというと、つまりいま囲碁将棋の世界で、ITの知能が人間を超えようとしてしているように、コンピューターがもっとあたりまえの思考の世界で、人間に追いつき、並ぶのが2045年ごろじゃないかといわれているのだ。

コンピューターが人間を超えるというのは、じつはSFの世界ではかなり古くからあるテーマである。
キューブリックがやったのは、その古くからあるテーマを、荒唐無稽なフィクションを排し、現実の科学に立脚したうえで、シネラマの壮麗な映像美で描き出すことだった。
そして半世紀が経過した。
わたしたちはいままさに、HAL9000が現実になるのではないかと怖れているところじゃないか。

現実がちょうど映画に追いついたということで、わたしのいうキューブリックの先見性とはこのことだ。
もちろんこればかりが映画の主要テーマじゃない。
人間が生み出したものが人間を裏切るという問題以外に、わたしたちは何者か、どこから来てどこへ行くのかという、ゴーギャンのノアノア時代からの哲学的な意味も含んでいるんだけど、わたしはいまそこまでは踏み込まない。

添付したのは、ネットで見つけたディスカバリー号の詳細な内部構造。
この映画のマニアックなファンが、図説入り学術論文を書いたらしい。

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2018年1月 4日 (木)

また2001

そんな大量の年賀状が来たわけでもないのに、やっぱり返信用の年賀状が足りなくなった。
昨日、あわてて郵便局(本局)へ行ってみたら長蛇の列だ。
あきらめて帰ってきたから、出したのに返事が来ないとお怒りのアナタ、このブログを読んでいるなら、忘れたころにはきっと届くといっておく。

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今日は部屋でぼんやりしていたら、ああ、また2001だよ。
わたしにとって生涯最高の映画というべき「2001年宇宙の旅」が、またテレビ放映されている。
わたしは市販されたDVDも持っているし、アナログ時代、デジタル時代に放映されたものも録画した。
さすがにもういらんと思っていたけど、念のため録画してみたら、これって時代時代にあわせて進化してんのね。
今日の放映ではブルーレイ時代にふさわしいように画像処理がしてあるみたいで、またいちだんとキレイ。
キレイにしすぎて、ものの輪郭線がくっきりしすぎる難点はあるものの、でっかいテレビでくり返し観るためには、やっぱりまたディスクに焼くことになりそう。

わたしはすでに2001年を通過した。
残念ながら、スタンリー・キューブリックが予想した未来はまだまだ遠く、わたしはおそらく、人類が木星圏に到達するのを見届けることはできないだろう。
それでも最近のアホらしいSFしか知らない子供たちに比べれば、たとえフィクションとはいえ、これほどすばらしい夢を見ることができた青春に感謝している。
わたしの残り少ない人生では、これをしのぐ映画はあらわれそうにないから、2001はあの世にまで持っていく永遠不滅の映画なのだ。

添付したのは、過去に作ったわたし御謹製による2001のディスク。

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2017年11月27日 (月)

KUBOの2

昨日、ウチの仲間どもは人形劇を観に行ったはず。
わたしも行きたかったけど、あいにく出演者というか、あやつり師というか、人形を操作する知り合いにアルメニア・コニャックを送ったばかりだ。
その直後に行くと、酒1本であたしをくどこうってえのかと、相手が逆上すること必至なので、コワイから行かなかった。

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そのかわり昨日はわたしも人形劇を観てきた。
正確にいうと、「KUBO/二本の弦の秘密」というアニメ。
まえにも触れたことがあるけど、これは人形を少しづつ動かすストップモーションという技法で撮影されたアニメなのだ。
オタクと呼ばれそうだけど、わたしはこういう映画が好きである。
しかもこの作品は、アメリカ人が作った日本が舞台の映画なので、そっちのほうにも興味があった。

結論を先にいうと、生身の人間が演じるとどうにもならない失敗作に当たる場合もあるけど、アニメの場合そこまで破綻する映画はめったにない。
まあまあおもしろかったといっておこう。

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ストーリーは片目の少年が、サルとクワガタムシの変じた鎧武者を従えて、悪役である祖父や叔母たちと闘いながら、いまは亡き両親の秘密を探る旅に出るというもの。
日本のサルというと、温泉に入ることで世界的に有名だから、これでまた訪日観光客が増えるんじゃないか。

このサルと鎧武者がじつは〇〇だったと、ネタバレだからそこまで書かないけど、そんなにややこしい話にする必要があるのかと思う。
最近のアメリカ映画は、タイムマシンを利用して、未来世界から暗殺者がやってくるとか、まだ結婚前の自分の母親を、息子がどうしたこうしたというような、えらくややこしい話が多い。
単純な話だとそのへんのガキも満足しないようだ。

赤い鳥居や折り紙みなど、日本的なものもたくさん出てくるけど、期待していたほど日本カラーが打ち出されているわけではなく、日本人が見るとおかしなシーンがいくつか。
KUBOというのは主人公の苗字かと思ったら名前だった。
わたしなんか、公方と書いてお公家さんのことかと思ったのに。
父親の名前はハンゾウだというから、こちらは半蔵だろうとすぐわかる。

主人公はようやく見つけ出した剣と鎧、兜という三種の宝器を身につけて、悪の化身の祖父と闘うんだけど、あまり宝器の威力が感じられない。
結局は使いなれた三味線の出番となる。
これでは三種の宝器を苦労して探す意味がないじゃんといたくなる。

三種の宝器にしても、鎧兜はどうみても中国のものに見える。
豊臣秀吉が韓国を征伐したとき、日本の織豊時代の鎧兜の華麗さが、敵国の将兵を驚嘆させたことを思えば、アニメでも鹿の角でも生やした、本格的な日本の鎧兜をそのまま登場させたほうが効果的であったと思う。
しかしこれは日本だけをマーケットにしている映画ではないのだからと、無理に納得しておこう。

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悪役の叔母姉妹が登場するシーンは、日本の幽霊が登場するシーンとしてもなかなか秀逸だ。
もっともこの2人には足があり、このあとはカンフー映画みたくなってしまう。
どこかで見たような彼女たちの能面のような顔は印象的で、人形浄瑠璃にでもあった顔かなと悩んでしまった。

技術的な問題では、人形を使ったストップモーションだというんだけど、口もとの動きにちょっと違和感があり、その部分だけは本物のCGかもしれない。
セリフと人形の口もとをシンクロさせるのは、たしかにメンドくさそう。
いずれにしたってどこまで人形で、どこまでCGなのかわからない映画だ。

これがお約束ごとなのか、最後は祖父の化身である巨大なムカデ?と切ったり張ったり。
主人公の片目については、祖父がもう一方の目ん玉を狙っているというややこしい因縁があったはずなのに、映画ではそのへんが曖昧なまま終わってしまう。
どうやらこの映画には続編がありそうだ。

最近の映画では、最後に制作に関わった人々の名前が延々とクレジットされる。
短気なわたしは終いまで観ているのが苦痛で、たいていそれが終わるまえに席を立つけど、最近のアニメでは最後まで座席にしばりつけておこうと、ショートコントや制作秘話のような映像をくっつけたりと、いろいろ苦心している。
この映画ではラスト・クレジットに、三味線にアレンジされた、ビートルズ(ジョージ・ハリソン)の While My Guitar Gently Weep が流れた。
わたしの世代なら知らぬ者のいない名曲だから、とうとうクレジットが完全に終わるまで椅子に座りっぱなし。

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2017年11月 4日 (土)

炎の人ゴッホ

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昨夜はBSで、「炎の人ゴッホ」 という古い映画が放映されたので、それを観ていた。
画家のファン・ゴッホの生涯を描いた映画で、なにしろアメリカ映画で、監督がヴィンセント・ミネリだから、奇をてらったところがぜんぜんなく、子供でもわかる伝記映画になっていた。
元祖ニートだったゴッホがかっこ良すぎなのが欠点だけど、印象派が早くも壁に突き当たったころの、フランスの世相風俗を知るには役に立ちそう。

ゴッホを演じたのはカーク・ダグラスで、この人はゴッホ自身の自画像をみると、じっさいのゴッホに似たところがあるから適役。
ついでにいわせると、彼と因縁で結ばれた画家のゴーギャン役はアンソニー・クインで、彼が演じると、本物のゴーギャンもこんな感じだったのではないかと思えるから、これも適役。
わざわざセットを組んだらしいアルルの跳ね橋や、郵便配達人ジョゼフ・ルーランや、医師ガシェのそっくりさんのように、ゴッホに詳しい人なら思わずニンマリという風景、人物も出てくるから、注意して観るとおもしろい。

映画の中に、ゴーギャンが日本の浮世絵をほめるシーンもある。
映画は通俗的で、わたしは傑作といわないけど、美術史に興味のある人にとっては参考になるかも。
いま上野で 「ゴッホ巡りゆく日本の夢」 と、「北斎とジャポニスム展」 というふたつの展覧会が開かれている。
わたしはそれを観に行くつもりだけど、まだオープンしたばかりだから、混雑しているんだろうなあと、もうすこし待機中だ。

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2017年8月28日 (月)

猿の惑星

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さっきまで「猿の惑星」を観ていた。
何度もテレビ放映されているし、もう語り尽くされた映画なので、いまさら批評なんかしてたまるか。
今日はぜんぶ個人的所感を。

この映画はそれまでのSF映画の常識をくつがえすオールスター・キャストだ。
ただし主演のチャールトン・ヘストンをのぞけば、みんな猿のメイクなので顔がわからない。
そこで役者の名前から彼らの素顔を考察してみよう。

猿の女性科学者を演じたのはキム・ハンター。
ちょっと(うんと?)古い人だけど、彼女はエリア・カザン監督の「欲望という名の電車」で、マーロン・ブランドやヴィヴィアン・リーと共演していた。
わたしの部屋にはそのDVDがあるので、どんな顔をした女優さんなのかすぐわかる。
乱暴者のブランドから離れたくても離れられない、清楚でおとなしそうな美人だったので、猿のメイクがお気のドク。

猿の女性科学者の友人を演じたのはロディ・マクドウォール。
この人はいろんな作品に出演している有名俳優なので、あっちこっちで観たことがあるけど、わが家にあるDVDの中では、「クレオパトラ」のアウグストゥス役で観ることができる。
日本の映画データベースには名前が出てないものもあったけど、トニー・リチャードソン監督の「ラブド・ワン」でも印象的だった人。
マッチョの多いハリウッドスターの中では、ひょろりとした頼りなさそうなタイプの人だった。

猿の長老を演じているのはジエームス・ホィットモア。
どこかで聞いた名前だけど、どんな映画に出演していたのかとググッてみたら、わたしの部屋のDVDでは、ジョン・ヒューストン監督の「アスファルト・ジャングル」に出ていた。
大金をせしめようという強盗団メンバーの、個性ゆたかな面々の中では、ちょっとこすっからい印象の役柄。

CGを使った精緻なSFの氾濫するいまとなっては、つまらない「猿の惑星」だけど、顔のわからない役者の顔を思い浮かべながら観るという楽しみもある。
画像は上記の面々を左から。

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2017年7月22日 (土)

新説

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「ジュラシック・パーク」という映画があった。
大きな恐竜たちが出てくる映画で、ティラノザウルスがドタドタと人間を追いかけたりするスリルいっぱいの映画だった。
あのスピルバーグの映画だけど、いろいろじっさいの科学的根拠にもとずいて作られているんだそうだ。
そのひとつが人間をしつこく追いまわす、人間とあまり変わらないサイズの小型恐竜で、当時の新しい学説、恐竜はじつは恒温動物だったという学説にもとずいているという。
この恐竜が厨房の窓からのぞきこむと、鼻息でふっと窓ガラスがくもる。
むずかしい学説の説明は省略するけど、細かいところまで、ホント、よくこだわるよと感心してしまう。

そんな恐竜にまた新たな学説だ。
ネット版のナショナル・ジオグラフィックによると、T・レックスは、じつはそんなに足が速くなかったという。
大型恐竜があまり速く走ると、衝撃で足の骨が砕けてしまっただろうというのが新しい学説だそうだ。
これなら生身の人間が追いかけられても、逃げ切れた可能性のほうが高い。

恐竜には毛が生えていたというのも最近の学説だから、NG誌の参考動画を見てみたら、モフモフぎみの可愛らしい恐竜が出てきた。
可愛らしくて、しかも足が遅い。
あまりカッコよくないよな。
カッコわるくても機を見て敏なるアメリカ映画としては、新しい学説を取り入れないわけにはいかない。

森の奥から巨大なT・レックスが現れる。
出たあというわけで、人間たちが全力で逃げると、それに追いつけず、T・レックスは木に寄りかかって息をぜいぜいはずませる。
ジュラシック・パークの続編はコメディで決まりだ。
モフモフ恐竜なんて、子供たちの人気になりそう。

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2017年4月22日 (土)

またレッドタートル

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以前にこのブログでも取り上げたことのある「レッドタートル」というアニメを観た。
それ以前に予告編を観たことがあって、ディズニーの3Dや、ジブリアニメとも異なる、あっさりした水彩画ふうの背景や、いたって簡略化された人物などが気になっていたアレである。

水彩画ふうなんて説明をすると、ジブリの「かぐや姫の物語」を思い出す人がいるかもしれない。
ここから先はわたしの個人的主観になるので、同調してもらわなくてもいっこうにかまわないけど、かぐや姫のほうが登場人物のキャラや動きにしても、どうしてもジブリの呪縛から逃れられないのに対し、レッドタートルのほうは完全に日本アニメから脱却した個性的な作品になっている。
日本公開にはジブリも関わっているらしいけど、実質的な監督はマイケル・デュドク・ドウ・ヴィットというオランダ出身のアニメ作家で、ジブリ嫌いのわたしでも受け入れやすい映画なのだ。

じっさいに見てみると、最近のアニメにはめずらしいくらいシンプルな作品で、逆説的に聞こえるかもしれないけど、シンプルすぎて意味がよくわからないくらい。
ストーリーそのものは単純である。
難破して絶海の孤島に打ち上げられた若者が、島で出会ったウミガメの化身である女性とひととおりの人生を経験したあと、年老いて死んでしまい、女性はふたたびウミガメにもどって海に帰っていく、それだけの話である。
音楽と波や風のような自然音以外に、セリフはひとつもなく、あとは観る人が勝手に考えなさいという映画なのだ。

最初は浦島太郎みたいにカメの恩返しかと思ったけど、映画を観るかぎり、若者には復讐されることはあっても、恩返しをされるいわれはない。
これはいったい何を象徴しているのか、なんの寓意なのか。
意味がわからないとはそういうことだ。

理屈はつけようと思えばいくらでもつく。
いくらでも理屈をこねられるものに、あえて自説が正しいといっても始まらないから、ここではあくまで参考意見として、わたしの見解を。

随所にあらわれる満点の星空や、カニや小動物たち、そして若者が海の中でウミガメといっしょに泳ぐシーンなどは、天然のままの大自然を賛歌しているように思えるけど、よく観ると弱肉強食のひじょうに残忍な部分も描かれている。
どうもたんなる自然賛歌ではなさそうだ。

若者は文明社会にもどろうと、筏を作って何度も海に出る。
ところがそのたびにウミガメに妨害されてしまう。
怒った若者は海岸でこのウミガメをひっくり返して殺そうとする。
しかしとちゅうで気が変わって同情心を起こし、今度はなんとかウミガメを助けようとする。
助けられたウミガメはその後美女に変身して、彼の伴侶になるんだけど、いちどは殺されかかった相手を愛するなんて、いくら寓話だとしてもつじつまが合わないのではないか。

つまんないことにこだわってやがるなといわれるかもしれないけど、わたしだって細部にこだわるつもりはない。
ただ、全体としてみても、これはストーリーをうんぬんする映画ではないんじゃないかということだ。

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この映画を観たついでに、同じアニメ作家が作った短編アニメをいくつか観たけど、その中に「父と娘」という作品があった。
これは幼いころ父親と別れ別れになった娘が、老婆になったある日、ふたたび娘に返って父親と再会するまでを描いた8分程度の短編である。
「ドナウ川のさざなみ」の音楽にのって、単純な線と水彩で描かれた物語が、物語そのものまで一筆書きのように簡略化して描かれており、なぜ父親と別れることになったのか、どうしてまた再会したのかという説明はいっさいない。
それでいて観ていてじつに切ない感傷におそわれる。

中国に黄粱の一炊ということわざがある。
ひとりの人間の一生におよぶような長い夢を見たあと、目を覚ましてみたら、まだ寝るまえに火にかけた鍋のアワが煮えてなかったというもので、人生のはかなさを意味しているんだそうだ。
意味がちがうけど、「レッドタートル」も、無人島に打ち上げられた若者が、死ぬ寸前に見た長い長い幸福な夢だったといえないだろうか。

夢だと考えれば矛盾のあるストーリーも、みんな納得できてしまう。
そんないいかげんなというなかれ、最後の最後になって、正義の味方が都合よく勝利をおさめる最近の米国映画よりよっぽどマシだ。
人生の終わりのほんのひとときでもいい、いっさいを投げ打って、画家のゴーギャンのように、絶海の孤島で癒されたいと願う人はきっといるはず。
だからこの映画は、人生に疲れ果てた現代人の夢ともいえるのだ。
癒されたいと願うこころに、かならずしもストーリーは必要ないのである。

ところでわたしもまた西表島に行きたくなってきた。
わたしもだれもいない海岸でまどろんで、この映画の主人公のように、長い幸福な夢を見たいと思う。
「レッドタートル」は、ホント、わたしのために作られた映画といってよい。

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2017年1月29日 (日)

Kubo

Kubo

ちょっと前にこのブログで 「レッドタートル」 という映画のことを書いた。
そのときついでに、今年のアカデミー賞のアニメ部門にノミネートされた作品について調べてみたら、「Kubo and the Two Strings」 という作品が、日本を舞台にしているというで興味をひかれた。
製作したのは外国のアニメスタジオだけど、YouTube で予告編を観てみると、日本の鎧武者をカリカチュアライズしたような登場人物や、温泉に入ることでいまや国際的スターになった日本猿が有力なキャラクターとして出てきたり、最近の日本ブームに便乗した映画のようだった (まだ日本未公開)。

最初は全編CG映画かと思ったけど、制作のようすをとらえた映像を観たら、ストップモーション・アニメ (人形をひとコマづつ動かすもの) らしい。
といっても最近のストップモーションは、CGと組み合わせたものが多いから、この両者を厳密に区別するのはむずかしい。
どっちにしてもわたしの関心をひいたことには変わりがない。

Kubo の主人公は三味線を背負った少年で、彼が鎧武者やニホンザルを従えて、平安時代なのか戦国時代なのかワカランの、ようするにそのころの日本で冒険をする物語らしい。
これじゃ桃太郎だけど、わたしはそれより伊達政宗のような隻眼の少年が、旅のとちゅうでさまざまな妖怪変化と闘うというストーリー (らしい)から、手塚治虫の 「どろろ」 を連想した。
手塚治虫大先生が生きていれば、なにしろ新しいものを取り入れるのに熱心な人だったし、もともと医学博士だった人だったから頭もいい。
いち早くCGを取り入れ、手塚プロダクションの後継者たちが、いまごろは日本におけるCGアニメの先駆者になっていたかもしれない。
ところでときどき耳にするんだけど、CG版の鉄腕アトムってどうなったのかねえ。

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2017年1月25日 (水)

レッドタートル

Redt

今年のアカデミー賞のアニメ部門にノミネートされた作品の中に、日本の「君の名は」がなかったことについてはなんとも思わない。
ノミネート作品の中に「レッドタートル/ある島の物語」という作品があったことも、これも不思議だとは思わない。
あいにくノミネート5作品のうち、予告編だけでも観たのはこれしかないんだけど、ジブリアニメということになってはいるものの(監督はオランダ人)、わたしがその風変わりな画風に興味を持った、最近ではめずらしい作品なのだ。

解説を読むと、セリフのまったくない詩みたいな映画らしい。
つまり、セリフは観る人が勝手に想像しろってヤツ。
ようするに絶滅危惧種みたいな映画じゃないか。
わたしはこんなふうに、イメージの中をゆるゆるとただよっているような映画が好きなんだけど。

気になって、その後観に行ってみたら、もう上映が終わっていた。
いまDVDが発売されるか、BSが放映してくれるのを待っている状態。

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