壮絶の映画人生

2018年11月 5日 (月)

またまた2001

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ああ、またテレビで2001をやってるよ。
わたしの知り合いに4Kで、わたしのよりふたまわりもでっかいテレビを買ったって男がいるけど、それで観るならこういう映画を観てほしいやね。
ウラヤマシイ。

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2018年9月29日 (土)

ライフ・イズ・ミラクル

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「パルタザールどこへ行く」に続いて、もうひとつ、ロバが主要な役割をになう映画を紹介しよう。
だいぶむかしにテレビから録画した 「ライフ・イズ・ミラクル」 という映画。
わたしが録画したものでさえ 154分もある長尺モノだけど、これは部分的にカットされた短縮版で、ネットで見つけたオリジナル版は 270分(4時間半)近くある大作だった。

オリジナル版には字幕がついてないばかりか、セリフはすべてセルビア語?、つまりキリル文字を使う言語だから、さっぱり意味がわからない。
しかし短縮版とはいえ、わたしはすでに字幕つきのほうを見たあとだから、ストーリーはわかる。
というわけでこの両者を比較しながら、わたしの感想を書いてみよう。

これは 2004年のセルビア映画で、あの悪名高きボスニア紛争が終結して10年ほどあとに、その紛争を主題にして、その当事国で作られた映画である。
あらすじをひとことでいうと、戦争のさなかに知り合った男と女の、恋と別れの物語。
なんてことを書いたら、めちゃくちゃ湿っぽい映画と思われてしまいそう。
とんでもない、これは深刻な内容をユーモアでくるんだ、わたしの理想といっていいスタイルの映画だった。

まだクマやオオカミが出るようなボスニアの農村に、セルビア人の鉄道技師が、オペラ歌手の女房と、サッカー選手の息子の3人で暮らしている。
でっかい息子がいるわりには、この鉄道技師は、まだまだ中年になった西城秀樹か草刈正雄みたいで若々しい。
そして彼らをとりかこむイヌ、ネコ、ウマ、ヒツジ、ニワトリ、ガチョウなどのペットや家畜が、自然なままに演技していて楽しい。
中でも秀逸なのが、失恋して自殺願望を持ってしまったロバだ。
彼は轢死しようとして、しょっちゅう線路に立ちつくし、そのたびに列車をストップさせて人間を困らせる。

この映画を観て、わたしはまっ先にフェデリコ・フェリーニの 「アマルコルド」 を思い出した。
アマルコルドはフェリーニ監督の幼いころの思い出を映画化したものだそうだけど、さまざまな事件をユーモアとペーソスをまじえ、牧歌的ともいえる映像でつづったものである。
牧歌的というと、美しい田園地帯でのんびりと思う人がいるかもしれないけど、「ライフ・イズ・ミラクル」 の中には、サッカー場の大乱闘や、式典でのわい雑などんちゃん騒ぎもある。
これらも含めて牧歌的と、わたしはいうのである。
そういえばサッカー場でキーパーにおしっこをかけるなんていたずらは、アマルコルドにも似たような場面があったよな。

ネット上にこの映画の感想・批評があるけど、大半は短縮版を観たあとのものらしい。
4時間半の映画を2時間半に短縮したのだから、カットされた部分にも重要な場面がたくさん含まれているので残念だ。
たとえば軍隊に行く鉄道技師の息子の壮行会に、太った双子の兄弟が出てくるけど、彼らが何者なのかということは、短縮版を観ただけではわからない。
フェリーニの映画には唐突にサーカスの芸人が登場したりするから、そういうものかと思っていた。
この兄弟のことはカットされたシーンを見るとわかるのである。

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このほかにも、オリジナルからカットされた部分は多い。
まず新しいトンネルが開通して、その中を主人公夫婦と市長夫婦が、足こぎ式の軌道車で走りぞめをするシーン。
このシーンは、映画の予告編や、宣伝用のスチール写真に使われるくらい有名なのに、短縮版ではそのほとんどがカットされていた。

続いて新型機関車のお披露目式における列車内のどんちゃん騒ぎ。
登場人物のほとんど全員が参加したこの式典は、オーケストラも乗り込んでミュージカル仕立てになっており、本筋には関係なくとも、まちがいなくこの映画のハイライトのひとつである。
理性と欲望がうずまくこのシーン、観終わったあと、しみじみと、おもしろうてやがて悲しき◯◯かなという気分になるのにもったいない。

そのほか出征した鉄道技師の息子が戦場で戦う場面や、奥さんが庭で歌の練習をしているとき、息子の蹴ったサッカーボールの直撃をくらうところや、IT機器に不慣れなヒツジ飼いの女性が衛星アンテナに翻弄されるシーン、市長のふしだらな奥さんがはだかのまま駅で列車を見送るところなど、貴重な場面、抱腹絶倒なシーンが、短縮版ではみんなカットされていた。
このために映画の文学的味わいが、だいぶ抜け落ちたような気さえする。

やがて戦争が始まり、軍隊に行った息子は敵の捕虜になってしまう。
精神的に不安定だった女房はほかの男と駆け落ちしてしまう。
この奥さん、行動が極端でいろいろもめ事を起こすけど、美人だし、おっちょこちょいに描かれていて憎めない人である。

ショックのダブルパンチでしょげている鉄道技師のところへ、息子と交換するために、敵方の若い娘が捕虜として預けられる。
彼女の面倒をみているうちに恋がめばえ、というとずいぶん調子がよすぎるけど、これはそもそもおとなの(男の)ためのおとぎ話である。
若い娘を家に預かるなんて、男なら誰でももっているひそかな願望ではないか。

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しかし相思相愛になったとはいえ、しょせん娘は交換要員だ。
いつか息子と交換するために別れなければならないことはわかっていた。
駆け落ちした女房も帰ってきた、息子も無事に取り返した。
おとぎ話の世界から、たちまち現実にひきもどされてしまう。
恋があまりに甘美であったがゆえに、傷心の鉄道技師は発作的に線路に身を横たえる。
しかし間一髪のところで列車を止めたのは、そう、あの自殺願望のロバだった。

というのがこの映画のオチなんだけど、どうせ日本人のなかには、ふざけた映画だという人が多いんだろうな。
わたしにいわせれば、爆発でふっとんでも絶対に死なない「M:I」のトム・クルーズのほうがよっぽどふざけてるけど。

不幸な結末でありながら、見終わったあとほのぼのとした幸福感を感じる映画、「ライフ・イズ・ミラクル」も、やはり生きているうちに観られてよかった映画だった(ついでにニーノ・ロータを思わせるテーマ・ミュージックも聴けてよかった)。
このネタの最後がちょっと駆け足になったのは、ブログに載せるために5ページ分の原稿を3ページに短縮したせいである。
わたしがカットした部分は、特に意味があるわけではないから詮索は無用だ。

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2018年9月22日 (土)

パルタザール

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先日放映された 「パルタザールどこへ行く」 という映画、1964年の映画である。
なんとなく傑作みたいな気がしたので、ずっとむかしにレンタルビデオを借りて観たことがある。
つまらない映画だったので、そのときはとちゅうで放り出したけど、それがまたタダで観られるというので、わたしもむかしに比べれば相応に大人になったつもりだから、今度はじっくり観ようと録画してみた。

結論としては、やっぱりわからん。
つまり駄作だということである。
駄作であるならこんな映画評を書くこともないんだけど、わたしがいつも利用している映画データベースも含めて、いまだにこれを傑作だと信じている人もいるようだから、そういう蒙昧の徒を覚醒させるためにも、あえて書く。

この映画はパルタザールというロバと、飼い主の娘の交情をを描いたものだそうだけど、ロバが愛らしい動物で、ヒロインも目もとのパッチリしたかわいい娘であることはよくわかった。
注意しなくちゃいけないことは、ウブな青少年のなかには、映画のヒロインにひと目惚れして、それだけで映画も忘れられない傑作だと信じてしまう人がいることだ。
水をぶっかけるようなことをいうけど、このヒロイン、なみだを流す場面はあっても、喜怒哀楽の表情がほとんどない。
こういうのを世間では白痴美というんだけどね。

まず冒頭に娘の子供時代という設定で、数人の少年少女が出てくる。
みんな子供のロバをかわいがっているんだけど、彼らのなかには病死する少女もいるのに、それがロバとどんな関係で、どういう事情なのかさっぱりわからない。
セリフが少ないというのは、ときに深遠な哲学的雰囲気をかもし出すことは事実。
しかしそんなものに騙されないのがわたしのブログだ。
これはどうみても脚本が悪い。
登場人物やあらすじを、もっと要領よく説明する方法がありそうなものだ。

子供が父親に、このロバを買ってと頼む。
父親はダメだと答える。
つぎの瞬間には、なんの説明もなしに、親子はロバを自宅に連れて帰る。
獣医がこのロバはもう助からないねというのに、つぎの場面では浮浪者にひきとられて、ふつうに歩いているロバが映る。
さっぱり意味がわからない。

父親が娘を探しまわる場面があるけど、ここでは父親はほとんど棒立ちのままうろうろするだけ。
ほかの登場人物にしても、ぶっきらぼうな態度のままというのが多い。
おそらく監督にこうやってくれといわれて、はいはいとそのままやっているだけなのだろう。
これでは演技とはいえない。

芸術が円熟期に達すると、新しい表現を求めてさまざまな実験が行われるように、「パルタザール」も、監督がこころみた実験映画だったのかもしれない。
しかしこの映画より以前に、「戦火のかなた」「道」「自転車泥棒」「恐怖の報酬」「勝手にしやがれ」「突然炎のごとく」など、さまざまな傑作・佳作・異色作(わたしのライブラリーにあるものだけでも)が生まれているところをみると、この映画は失敗作としか思えないのである。

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やがてヒロインの娘は不良仲間にレイプされてしまうんだけど、この場面は大幅に省略されているのでもの足りない。
映倫がうるさかったから、この時代には “もの足りる” ような過激な映像は撮れなかったとお思いか。
デ・シーカの「ふたりの女」はこれより4年まえの映画なんだぞ。

この映画は観念的なものを映像化した、ストーリー無視の、詩のような作品ではないかと好意的に考えてみた。
しかし詩ならばなにかしらこころに残るものがあるはず。
観終わったあと、ほんわりとあたたかな気持ちになれるフェリーニの「81/2」は、この前年の作品なんだけどね。

ろくでもない監督が、ろくでもないジコチュウを押しつけてくる映画、というのがわたしの、「パルタザール」に対する正直すぎる評価だ。
でもこの映画はヴェネチアで賞をもらってるという人がいるかもしれない。
それこそ事大主義だ。
おまえは他人がほめるからすばらしいというのかと、そんなノータリンな考えを一蹴してしまう。

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2018年9月18日 (火)

緑の光線

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たまには新しい映画だって観るぞというわけで、4、5日まえに録画しておいた「緑の光線」という映画の感想。
出てくる女の子たちの服装や水着がいま風なので、新しい映画だろうと思ったけど、調べてみたら1985年の公開だったから、もう30年以上もまえの映画だ。
映画には詳しいつもりのわたしがぜんぜん知らなかったフランス映画である。

最初に早送りでざっとながめたら、アスリートみたいなアメリカとは異なる、もっと女らしいきれいな女優さんの水着シーンがあったので、ついつい最後まで観てしまった。
以前に観た「ストレンジャー・ザン・パラダイス」みたいな脱力系の映画だった。
ぽわんとした娘がバカンスを利用して、シェルブールまで海水浴に行くんだけど、べつに刺激的な事件が起こるわけでもなし、ぽわんとしたまま結末を迎えるだけ。
刺激的な映画ばかりの昨今では、そのぬるま湯につかったようなのんびり感がかえって新鮮というやつ。

主演女優はきれいだけど、これにからむ男がどうも頼りないやつらばかりだ。
なんでもほんの少数のスタッフだけで、16ミリカメラで撮影されたゲリラ的な映画だというから、予算をケチって、そのへんの素人に出てもらったんじゃないか。
でも予算をかけるばかりが映画じゃない。
ゴダールだって低予算でいい映画を作ってるし、そういうことでは伝統のあるフランスだ。
そういえば登場人物のさして重要ではない会話や、カレンダーで日にちの推移を表現するところなど、ゴダール的風景が随所にあらわれるのは、この監督もヌーベル・バーグの申し子である証拠なんだろう。

さて、映画のヒロインのこと。
きれいな娘だけど、なぜかひとり旅である。
どうも理屈が先に立っちゃう娘のようで、友人たちと食事をしても、あたしってベジタリアンなのと、食事に水を差すようなことを平気でいってしまう。
アヴァンチュールに興味がないわけじゃないんだけど、いざとなるとなかなか踏ん切れない。
海辺でおっぱい丸出しのスウェーデン娘と出会って、もっと自由に生きなくちゃなどとはっぱをかけられても、やはり煮え切らない態度。
いるねえ、こういうタイプ。
このへんは、ひとり旅を愛するわたしにも理解できる部分がある。

ひとり旅って優雅であるけど、倦怠や疎外感におそわれることもしょっちゅうあるのだ。
素敵な女の子との出会いでもないかと期待して、やたらにあちこち彷徨してみても、現実にはなかなかそういうことはない。
ましてニートの傾向があるし、わたしって。
そんな個人的なことはどうでもいいけど、なにも起こらないってのがおおかたの女性の現実だろうし、監督が描きたかったのは、こういうありふれた女性を通して、現代の孤独を追求することだったのかもしれない。
でも工夫もスリルもあるわけじゃない。
女優さんがアメリカ型で、厚着をした冬のニューヨークが舞台だったら、とても観たいと思う映画じゃないね。

いちゃもん大好き人間のわたしにいわせると、ちと気になる点も。
このヒロインは旅に出るまえに彼氏にふられたらしい。
でも電話での会話や、バカンス先で彼氏の別荘を貸してくれなどと頼んでいるところをみると、それまではけっこう親密な関係だったようである。
つまり彼女がすでに男を知っているとしたら、旅先での行動があまりにも潔癖すぎるのだ。
シナリオ的には、彼女を文学好きで、おくての女子大生にでもしたほうがよかったと思う。

ついに失望したまま彼女はパリに帰ることになる。
ところが駅で話しかけてきた男に、これが最後のチャンスというわけなのか、誘われるままにふたりで夕日を見に行くことにする。
で、ベッドインかと思うと、そういうシーンはぜんぜんなくて、夕日を眺めるだけで映画は終わり。
沈む夕日のなかに緑色の光が見えれば幸福になれるという言い伝えがあるそうで、これが映画のタイトルでもあるんだけど、彼女はじっさいにそれを見るから、このあとふたりは(たぶん)ホテルにもう一泊してシアワセになったんだろうなって、つまらない妄想をかきたてられるのは、わたしが下品すぎるのか。
ファッショナブルでロマンチックな映画だと信じている人たちには、すみません。

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2018年9月16日 (日)

朱旭さん

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今朝の新聞の訃報欄に朱旭さんの名前が。
小さいながらも写真つきだったので、わたしはすぐにこの人がわかった。
むかし中国語の勉強をしているころ、NHKの中国語講座でひょうひょうとした演技をみせていたおじいさんである。

この人はその後、日中共同制作の「大地の子」というドラマでも重要な役を演じていたけど、あいにくわたしは日本のそういう番組にはあまり興味がないので、へえ、あのおじいさんかと思ったていど。

ところがさらにそのあと、この人は中国映画の「變臉(へんめん)」という作品で、みたびわたしのまえに姿をあらわした。
はずかしいけどこれが、見終わったあと、大のおとなのわたしに涙ぼろぼろという感動作だったので、朱旭さんは忘れたくても忘れられない存在になってしまった。

わたしはいまでもときどき、大陸中国を旅していたころのことを思い出すけど、朱旭さんと、彼に(後継ぎのつもりで)買われた薄幸の少女のことも、そのたびに思い出してしまう。
もちろん彼らは映画のなかの架空の人物なんだけどね。

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2018年9月10日 (月)

華麗なる激情

また映画の話題だよ。
全方位的ブログをめざす当方としては、ネタが映画にばかり偏るのはいい気分じゃないけど、目下ひきこもり。
テレビから録画した映画を観るのが、金のかからないいいヒマつぶしなのだ。

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今回は法廷劇じゃないけど、カタそうな映画の第4弾だ。
先日テレビ放映された「華麗なる激情」って映画、チャールトン・ヘストンとレックス・ハリソンというアカデミー賞役者の共演した歴史大作だ。
「ベン・ハー」や「クレオパトラ」みたいに、豪華絢爛さを前面に押し出したコスチュームプレイ映画(最近のコスプレとは異なる)といっていい。
内容はうすうす知っていたけど、なんでもルネッサンス期の彫刻家ミケランジェロと、時の権力者ユリウス2世の対立を描いた作品だという。
派手な戦車競走があったり、半裸のきれいな姉ちゃんが出てくるわけでもなさそうだから、これまでじっくり観ようという気にならなかったのである。

でもじっさいにはなかなかおもしろかった。
監督は「第三の男」などで知られる巨匠キャロル・リードである。
彼はこの映画を喜劇として作ったのかもしれない。
たとえばシスティーナ大聖堂の天井画を依頼されたミケランジェロが、戦争大好きユリウスのところへ下絵を持ってくると、戦争中であるにもかかわらず、ふたりは芸術談義を始めてしまう。
部下たちが、相手が攻撃を開始しました、こっちも反撃したほうがよかないですかと進言してもおかまいなしだ。

またべつのシーンでは、高いやぐらを組んで、その上でミケランジェロが作業をしている大聖堂へ、ユリウスがとりまきを引き連れて礼拝にくる。
ミケランジェロはけっつまづいて塗料のバケツをひっくり返してしまう。
せっかくコスチュームプレイにふさわしいきれいな衣装を着た坊さんたちが、ペンキまみれになるところがおかしい。

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監督が意図してこういう映画にしようと思ったのなら、彼はなかなかの策士だ。
喜劇というものは、ほかの部分に手抜きすることなく、お金をたっぷりかけ、重厚な役者を起用し、まじめな顔でやったなかに、おかしい部分をさりげなく挟むのが、上質のテクニックだからである。

喜劇だとすれば、絵の構想を得るためにミケランジェロが、雲の形から啓示を得るといういいかげんなところや、個性派俳優のハリー・アンドリュースが、薄っぺらい人物を演じているのも納得できる。
「華麗なる激情」だなんて、大げさで、どこか感心しない映画のタイトルにも合点がいく。
そういうわけで、監督がどういおうと、わたしはこれは喜劇であると信ずるのである。
まじめなシーンが多すぎるのが欠点といえばいえるけど。

ただ、ぜったいに喜劇であると断言しにくいのは、じつはビデオデッキの不調で、2時間以上ある映画の最後の10分を録画しそこなったからだ。
その最後の10分間で、登場人物全員が殴り合いでも始めていれば、喜劇だという確信は不動のものになるのだが。

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そういうことはべつにしても、芸術に興味のある人には、へえ、ああやって描くのかって、当時のフレスコ画の制作風景を見られるのが楽しい。
ルネッサンス時代の壁画や彫刻、そして人々の生活ぶりも、随所で小道具、大道具として使われているので、そういうものを見るのも楽しい。

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2018年9月 7日 (金)

またまた法廷劇

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法廷劇の3弾だ。
録画するまえは、まさか法廷劇だとは思ってなかったんだけど、意外だったその映画のタイトルは 「ゾラの生涯」。
ゾラというのはフランスの文豪エミール・ゾラのことで、印象派の絵画と同時代を生きた人だから、ゴッホやゴーギャンと同じくらい古い人である。
映画も負けずおとらず古くて、戦前の1937年製だ (それでももうサイレントではないぞ)。

作家の生涯なんていうと、もう焼き冷ましの餅みたいに硬そうなイメージだけど、なんでそんなものを録画しようという気になったのか。
じつは主人公を演じているのが、ギャング映画の名作 「暗黒街の顔役」 で、主役をつとめたポール・ム二という人なのだ。
この人が生きているうちに、一度もこの人の映画を観たことがなかったくせに、わたしは彼のファンなのである。

作品ではなく、それを書いた作家の映画だから、もちろんぜんぜんおもしろそうではない。
でも観てみたら、まずのっけから若いころのゾラが、どこかひょうきんな若者として描かれ、全体に軽いユーモアがあって、予想とは違っていた。
雨の中、彼がボロ傘をさして出版社に前借りに行くとちゅう、傘売りから新しい傘をすすめられると、古い友人と別れろっていうのかと、断るセリフがおもしろい。
このほか、画家のセザンヌとぼろアパートに同居していて、まだ未完の大器であるふたりのやりとりも興味深い。

まだ国民健康保険も失業保険もない時代だ。
売れない作家だったゾラが、セーヌに入水する娼婦や、落盤事故に遭う炭鉱労働者の悲惨な境遇を目の当たりにして、しだいに社会主義にめざめていくようすが要領よく語られる。
やがて彼は 「ナナ」 という、娼婦を描いた小説でベストセラー作家になるのである。

映画はゾラの生涯ということになっているけど、大部分を占めるのは、当時フランスをゆるがした、ドレフュス事件という冤罪事件の裁判がメインだ。
これは隊内にスパイをかかえたフランス軍が、その不名誉を隠匿しようと、ドレフュスという軍人に罪をかぶせた事件のことである。
作家のゾラは被告の無実を立証しようと、これは本当にあった話。
それにしてもこの映画のフランス軍の姑息なこと。
大戦中の日本軍の悪口ばかりいう人もいるけど、組織が大事、組織を守るためならインチキもでっちあげもアリだなんて、軍隊の本質なんて、どこの国でも変わらないじゃん。

まえに書いた 「私は死にたくない」 のように、この映画の裁判長も、ゾラ側の証人や証拠はかたっぱしから却下して、一方的にフランス軍の肩をもつ。
しかしこちらはもともと、裁判所が軍と結託してゾラの訴えを却下しようとした、不条理な社会情勢を描いているのだから、映画がわるいわけではない。

そういうわけで法廷シーンもなかなかおもしろいんだけど、ただ、なにぶんにも古い映画だから欠点もある。
軍の密命を受けたほんの数人のために群衆が扇動されたり、逆に英国に亡命したゾラの記事で、こんどは反対方向に扇動される民衆を見ていると、現代のアメリカを見るよう。
陸軍大臣が代わって、隠匿を続けた軍隊が処断されるあたりの事情がはしょってあって、これじゃまるで中・高校生むけの伝記映画ではないかと思える部分もある。

そんなわけで傑作なのかそうでないのか、わたしにはにわかに判断のできない映画なんだけど、この映画はこの年のアカデミー賞を総なめにしているから、おそらく傑作なんだろう。

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すばらしいと思ったのは、主役のP・ムニの演技で、裁判のとちゅうで自分の意見をとうとうと述べるあたりでは、もう完全に文豪になりきっており、ギャング・スターのイメージはさらさらない。
マシンガンをぶっ放していたときはスリムでイケメンだったのに、この映画では開高健さんみたいな、ずんぐりむっくりの老作家になっていた。
全体に軽いユーモアを感じるというのは、このどこか憎めない文豪の演技によるところ大だ。

ムニはおなじ年にパール・バックの 「大地」 の映画化でも主役をつとめているから、ギャングと中国の農民と文豪という、まったく異なるタイプの人間を演じわけたことになる(写真)。
ほんと、名優といっていい人なのだ。

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2018年9月 5日 (水)

また法廷劇

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法廷づいているけど、またひとつ法廷劇といっていい映画の話題。
こういう映画はカタすぎるのが欠点だけど、いい映画というものは硬くても柔らかくてもおもしろいと書いたばかりだ。
今度の映画はどうだろう。

その映画のタイトルは 「私は死にたくない」。
スーザン・ヘイワードという、もしも生きていればゾンビがふさわしい女優さんが出演しているくらいだから、そうとうに古い映画だ(1958)。
いまのわたしは、生きているうちに観ておかなくちゃといういきごみで、せっせと古い映画を引っ張り出しているんだけど、残念ながら新しい映画に、生きているうち観たいなんてのはほとんどないのである。

この映画のストーリーは、ドラッグ、詐欺、売春なんでもござれのあばずれ女が、やくざ仲間の背信で殺人事件の犯人に仕立てられ、ガス室で死刑になるまでを描いた、これは実話にもとづいた話だそうだ。

現代ならあばずれにふさわしい女優はいくらでもいるけど、ヘイワードさんは、ほっぺたのあたりがふっくらしたベビーフェイスで、良家のお嬢さんみたいなタイプなのが欠点。
でも考えてみると、これはビートルズ出現以前の映画なので、いまみたいに鼻ピアスにタトゥーのような、わかりやすいあばずればかりがいたわけじゃない。
いいうちのお嬢さんタイプが意表をつく汚れ役ということで、ヘイワードさんはこの年のアカデミー賞をもらっていた。
アカデミー賞をもらっているからいい映画なのかといわれると、さてね。

団塊の世代には心地よいていどのスピードで物語は進行し、映画は中盤から先は裁判と刑務所内部の描写になる。
あちらでは弁護士が途中で逃げ出してもいいのか、アメリカの女性刑務所では囚人もきれいにお化粧してんなとか、つまらないつっこみを入れたくなるのはさておいて、たまげたのは死刑に使う毒ガスを、執行の当日に、刑務所内で薬品を調合して発生させること。
まるでオウム真理教だけど、その手順まで詳細に描かれること。
そういうものは外部から、タンク入りのものを買ってくるか、ガス管を伝って送ってくるのだろうと思っていた。

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ヘイワードさんの死刑理由は、強盗に入って老婆を撲殺したってことなんだけど、肝心の犯行シーンは省略されている。
強盗仲間の男が司法取引をして、べらべらしゃべって彼女に罪をおっかぶせるんだけど、じっさいに彼女が殺してないなら、男のいってることはすべてでたらめということになる。
そもそも証拠がないくせに、同じ犯行に加わった男のひとりがいったことを、全部信じてしまうなんてことが、あちらの裁判ではあるのだろうか。

また彼女は罪をまぬがれるために、窮余の一策で、外部の男にアリバイ工作を依頼するんだけど、じつはこの男は警察官で、巧妙に仕組まれたおとり捜査であったことがわかる。
しかし彼女の立場であれば、おとり捜査にひっかかってしまうことは十分考えられるのに、あちらの陪審員はそういうことをまったく考慮しないのだろうか。
わたしが 「十二人の怒れる男」 のひとりなら、ゼッタイに異論をとなえるぞ。

まあ、むかしの米国の司法というものはそういうもので、警察官は早く家に帰りたいし、陪審員もいま以上に馬鹿ばっかりだったのだといわれれば、返す言葉がないけれど。
どうもすこしでも納得できないところがあると、わたしの映画評はそれだけで厳しいものになってしまうのだ。

だいたいこの映画では、最初から彼女のガス室は既定方針で、すべてがそっちの方向にすすんでいるようにみえる。
彼女にとって重要な証拠になるはずの手紙は裁判長に却下されてしまうし、彼女の精神分析をして無実を確信する精神科医は、なにもしないうちに病死してしまう。
彼女にとって有力なアリバイ証人になるはずの亭主も、どうしてそうなるのかよくわからないうちに、翌日の新聞になすすべもなかったと書かれる始末。
そのくせ相手方の、憎々しそうな弁護士が持ち出す証拠はみんな採用だ。

精神科医の話を聞いて、ひとつ彼女の記事を書いてみようという、正義の味方みたいな新聞記者もあらわれるんだけど、これは小太りのおっさんだから、これでは彼女の美貌に狂ったたんなるすけべ親父にしかみえない。
このおっさん、最後に死刑囚から手紙を託されるんだけど、無罪でも証明する手紙かと思ったら、べつに意味もない手紙で、それじゃカポーティみたいに小説でも書くのかと思ったら、それもない。

「ニュルンベルク裁判」 を観たあとでこれを観ると、脚本の弱さがはっきりわかるよな。
それでもヘイワードさんの色気だけは観る価値がある、そういう映画。

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2018年9月 1日 (土)

ニュールンベルグ裁判C

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なんとしても第三帝国のもと法務大臣の罪を問いたい軍人検事のリチャード・ウィドマークは、つぎにフェルデンシュタイン事件の一方の当事者をかつぎ出した。
この事件は、あるユダヤ人がドイツ人の少女を誘惑して、イヤらしいことをしたというもので、当時はアーリア人(ヒトラーが勝手に定めたドイツ人のこと)と他の民族との混交は法律で禁止されていたから、このユダヤ人は問答無用で死刑になった。

ところが被害者であるはずの少女にいわせると、状況はぜんぜん異なる。
少女とユダヤ人は年の離れた、ただの仲のよい隣り同士で、あちらの国だから、たまにはほっぺたにキスをしたり、ひざに乗ったりする。
それだけの関係だと主張したにもかかわらず、ユダヤ人は処刑されてしまった。
このときの裁判で死刑判決にOKを出したのが、B・ランカスター扮する、もと法務大臣のエルンスト・ヤニングだったのである。

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軍人検事は、もうそんな事件のことは思い出したくないという、すでにいいトシのおばさんになっている少女を説き伏せて、証言台に立ってもらう。
このおばさんを演じたのは「オズの魔法使い」の子役であり、「スタア誕生」のミュージカル・スター、ジュディ・ガーランド。
わたしには子役時代の可憐な少女か、スリムなダンサーのイメージしかないんだけど、この映画ではあごに肉のついた貫禄のあるおばさんになっていた。

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なにもイヤらしいことはしていません、あなたの言わせたいことはしていませんと、おばさんは必死で説明をするんだけど、ここでも熱血弁護士の反論は容赦なく、なにがなんでもワイセツ事件を印象づけようとするものだから、ついに彼女は泣き出してしまう。
そのときだ。
これまでずっとだんまりを続けていたヤニングが、すっくと立ち上がって、叫んだ。
「いいかげんにしろ」
「何度同じことをいわせるんだ」

この部分は映画「ニュールンベルグ裁判」の最大の山場で、劇的効果は絶対満点、耐えに耐えたヤクザの健さんが、ついに相手の組に殴り込むような痛快感がある。
考えてみると、ユダヤ人が死刑になった裁判のとき、まだ少女だったおばさんは、ヤニングのまえで同じことを何度も訴えたはずなのだ。

このあとは急転直下だ。
ヤニングはすべての罪を認めてしまう。
被告席に座った同僚の罪をあばき、そんな同僚たちに協力した自分の罪をあばく。
ドイツ人が大量虐殺を知らなかったはずがない、それを知らなかったとしたら、自分たちはいったいどこにいたのか、わたしは愛国のために盲目になっていたと、彼の悔恨はとどまるところを知らない。
この場面、「独裁者」におけるチャプリン顔負けで、時計を測ってみたらヤニングは5分半近くもひとりでしゃべりっぱなしだった。

被告が罪を認めてしまったら、裁判はふつうそこで終わりである。
映画もここで終わったら、シロクロのはっきりした映画ということで、観衆は喜ぶかもしれないけど、作品の価値はいくぶんか目減りしたかもしれない。

逆に追いつめられることになった熱血弁護士マクシミリアン・シェルはどうするか。
アカデミー主演男優賞を獲得するには、ここでひっこんではいけないのである。
彼はニュルンベルク裁判を、もっと普遍的な、全人類の罪という方向に転換させるのだ。
映画の中にユダヤ人の死体が山をなすホロコーストの実写映像がはさまるけど、これを許したのはヤニングひとりの責任ではなく、傍観していた世界中の人々にあるのではないかと、彼は法廷で力説する(彼の演説も3分以上ある)。
これは、たとえば北朝鮮の無慈悲な独裁者を放置している、現代に生きるわたしたちへの問いかけでもあるだろう。

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彼らがこんな演説をぶっているあいだにも、時代は刻一刻と変化する。
田舎判事が判決を出すまえに、ソ連軍がチェコに侵入したという連絡が入る。
冷戦の始まりだ。
こうなるとドイツ国民を味方につけたいアメリカの立場は微妙なものになり、判決も情状酌量の余地やむなしということになってしまう。
映画では最後に被告全員に終身刑が下されるんだけど、これは数年後に保釈という暗黙の了解つきなのだ。

裁判が終わるとちょっと気の抜けた感じがある「ニュールンベルグ裁判」だけど、最後は理性や信念だけではどうにもならない現実を、わたしたちに突きつけて終わる。
わたしも長年映画を観続けてきたけど、これほど感動した作品はあまりないね。
やっぱり生きているうちに観といてよかった。

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2018年8月31日 (金)

ニュールンベルグ裁判B

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最近の日本では、障害者に対する過去の強制不妊手術が問題になっている。
その是非はともかくとして、障害者や薄弱者に対する迫害は、過去にどの国にもあった。
だからナチスの断種(去勢)法はわるくないと力説するのは、熱血弁護士のマクシミリアン・シェル。

最初に証言台に立った老教授、彼は大学でヤニングの教師をつとめた人だけど、ナチスによってドイツの司法制度が崩壊していくさまをたんたんと説明する。
自分はそれに危機感を感じて教職をしりぞいたと、この教授の説明はしごく良識的なものだ。
しかし熱血弁護士は、この教授がそれ以前に、みずからすすんでナチスに入党したではないかと詰め寄る。
当時のドイツ人ならだれでもそうするよりほかはなかったと教授は弁解するんだけど、ああ、そうなんですかと、弁護士は手持ちのメモをわざとらしく破って捨てる。
わたしのいいたいことはこれだけですを強調するしぐさのようである。
つまり裁判というものは、いかに裁判官に自説を印象づけられるかで決まってしまうものらしい。

みかねた軍人検事のリチャード・ウィドマークが、異議ありで割り込み、熱血弁護士と取っ組み合いに・・・・はならんけど、このへんのやりとりは早くも手に汗にぎる迫力だ。

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軍人検事は証人として、断種政策の犠牲者となったユダヤ人を法廷に呼ぶ。
このユダヤ人を演じたのが、ゲイじゃないかと噂された米国の人気俳優モンゴメリー・クリフトで、わたしの映画ライブラリーの中には、彼の出演作として「赤い河」、「地上より永遠に」、「荒馬と女」などがある。

ほんとにゲイだったのかどうか、ネットをいろいろ調べてみたけど、はっきりそうだと書いた記事はひとつも見つからなかった。
でもマッチョのロック・ハドソンでさえゲイだったのだから、わたし個人的にはモンティ(M・クリフトの愛称)もそうだったろうと思っている。
断種された被害者にゲイ役者を当てるというのは、適役といえなくもないではないか。

軍人検事が被害者を目のまえに置いてナチスの非道を訴えれば、熱血弁護士は被害者が精神的に不安定な薄弱児であることを暴露して、冒頭の、どこの国にも断種法はあったと反論するのである。
しかも彼がひきあいに出した法令は、アメリカの法学者が書いた文章だったから、軍人検事もたじたじだ。

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ここでは弁護士に追及されて、じょじょに自分の知恵遅れを露呈するモンティの演技が圧巻だ。
どことなく落ち着きがないものの、最初はまともに受けごたえしていたのが、弁護士の執拗な追及に耐えきれなくなって、顔をゆがめて絶叫するところは、キューブリックの「博士の異常な愛情」で、狂気を発するスターリング・ヘイドンの司令官と双璧だな。

この間、B・ランカスターふんする被告のエルンスト・ヤニングは、あいかわらずひとこともしゃべらない。
しかし拘置所にもどると、共闘しましょうとささやく他の被告に、きみに対等の口を聞かれるおぼえはないと一喝するから、その心情はあるていど理解できる。

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スペンサー・トレイシーの田舎判事は、裁判のあいまにコンサートに行ったり、そこで紹介されたドイツ人貴族の女性と食事をしたりする。
この女性役が、リリー・マルレーンの歌で知られるマリーネ・ディートリッヒだけど、彼女は現実にナチスを嫌って米国に亡命したドイツ人なのだ(残念ながらこの映画は、色気の介入する余地のないまじめな映画なので、彼女の百万ドルの脚線美は披露されない)。

彼女は田舎判事にいう。
わたしにはすべてのドイツ人が怪物ではないことを、アメリカ人に知らせる義務があります。
わたしの夫はドイツ軍の将軍でしたけど、ヒトラーを嫌っていました。
おかげで罪をこうむって、第三帝国の法律で粛清されました。
勝者による報復であったことはあきらかですと、目下ナチスの被告を裁いている最中の田舎判事にはぐさりとくるようなことをいう。

そして被告のヤニングについては、立派な人ですと支持をする。
ものごしは丁寧だけど、彼女もアメリカ人の判事に好感はもってないのである。
だから彼女の丁寧さはあくまで京都人のそれで、内心を隠したまま、冷ややかにコーヒーをそそぐのだ。

Nbe12

彼女だけではない。
映画に登場するドイツ人たちは、悪いことばかりじゃなかったと、微妙な言い方でナチスを擁護する。
あの時代は食べ物にも事欠いていました。
でもヒトラーのおかげで仕事が増えました、道路も整備されましたなどと。
こんなドイツ人の話ばかり聞いて、判事のほうもいくらか影響されないわけにはいかない。

そんなこんなで、映画の前半は熱血弁護士の優勢勝ちというところだけど、さて後半は。
というわけで、このブログネタはまだ続きます。

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