壮絶の映画人生

2018年4月23日 (月)

ネットフリックス

今朝の新聞に、なんて書き出すと、あ、また朝日新聞をけなすんだなといわれてしまいそう。
そうじゃない。
今日の新聞の29面に、世界最大の動画配信サービス「ネットフリックス」についての記事が載っていた。
ネットフリックスと契約すると、好きなときに好きな映画が見放題になるんだそうで、わたしみたいな映画好きには興味をそそられるところだけど、はてね。

新聞記事では会員数が一億2500万人だとか、同社の純益が2億9千万ドルに達したとか、景気のいい話ばかり書いてあるけど、この会社ってもともとアメリカの会社でしょ。
映画は日本語字幕つきで配信してくれんのかしら。
この記事を書いたのはアメリカ在住のフリーライターみたいだけど、こちとら英語ワカランの骨董品的日本人だからね。
またこの記事だけでは、じっさいにどんな映画がメニューにあるのかわからない。
景気のいい話にはウラがあるのが普通、そんなに大騒ぎするような話か。

そもそもわたしは大の映画好きなので、これまでもテレピで放映された興味のある映画は、かたっぱしから録画して、DVD、最近ではブルーレイのディスクに保存してきた。
テレビで放映されにくいめずらしい映画も、YouTubeあたりを探すと見つかる場合がある。

そんな調子だから、「2001」も「アラビアのロレンス」も「荒野の決闘」も「灰とダイヤモンド」も「市民ケーン」も、もっと地味な「博士の異常な愛情」も「81/2」も「気狂いピエロ」も「東京物語」も「恐怖の報酬」も、またちょっとめずらしい「世界残酷物語」も「ビートルズのイエローサブマリン」も「妖精たちの森」なんて映画も、みんないつでも部屋で観られるのだ。
おかげでわたしが配信サービスを利用してまで、もういちど観たいと思う映画は、いま、エートと考えてみても、せいぜい数本しか思い浮かばない。
どんどん製作される最近の映画に観たいものはあまりないし、これじゃネットフリックスの会員になってもコスパが見合わないよな。

でも上記のような映画が字幕つきで見放題になるなら、これが不要なものであるとは思わない。
終活中のわたしが目ざわりな本を処分したように、部屋にたまったおびただしいDVDを、一掃したいと考えることもよくあるのだ。

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2018年4月10日 (火)

ナツメロ西部劇

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昨日と今日はBSでナツメロ調の映画が2本。
ちょうど中村錦之助や大川橋蔵、東千代之介、片岡千恵蔵なんかの東映映画みたいなもので、現代っ子のわたしからするとえらく古くさいとしか思えない映画だ。
でもその点を我慢しさえすれば、2本とも一世を風靡した映画である。
ひとつは「シェーン」で、もうひとつは「大砂塵」。
両方とも傑作、佳作として知られている西部劇だけど、そもそもこれを評価する世代ってまだ生きているんだろうか。
わたしはリアルタイムで観たわけじゃないけど、評判は知っているので、古くさいのは覚悟の上で観てみた。

「シェーン」のほうは、世話になった一家のために悪役のところへ殴り込みに行く流れ者の話で、任侠映画のルーツみたいなもの。
感心したのは悪役が単純なワルではなく、苦労して牧場を開拓したのに、あとからやってきた農民に土地を奪われる牧場主ということになっていて、このへんは考えさせられてしまう。
もとからいたアメリカ・インディアンを駆逐した米国の屁理屈を代弁する映画といったらいいか。
でもそれ以外は単純明快で、ぜんぜん考える必要がない映画。

この映画でいちばん目立つ欠点は、流れ者がそれらしくないキザな服装で登場することだ。
西部の流れ者なら、ずっと後世の「荒野の用心棒」のように、無精ひげでむさ苦しい格好でなければいけない。
でも東映のチャンバラ映画も、登場するサムライがみんな歌舞伎みたいに、ぱりっとノリの効いた着物姿だから、このへんはお約束ごとか。
悪役が雇った殺し屋役のジャック・バランスが、なかなか迫力があって、「007ロシアより愛を」みたいに、仇役のいい映画は魅力的だ。

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「大砂塵」のほうは、じつはじっくり観たのは初めてなんだけど、主題歌の“ジョニーギター”はよく知っていた。
この映画では主役はヒロインのほうなんだけど、現代っ子のわたしには、主演女優はあまり魅力的ではない。
男のほうの主役には、わたしがいい役者だなと思っていたスターリング・ヘイドンが出ていた。
彼はジョン・ヒューストンやスタンリー・キューブリックの映画に出演してわたしのお気に入りになるんだけど、この映画ではなんとなく影がうすい。

わたしの歳になると他人の死因が気になるので、ついでだからヘイドンの経歴をググッてみた。
ヘイドンは70歳でガンで亡くなっていた。
ま、それなり華やかな人生をまっとうした人だから、文句をいうこともないだろうと思ったものの、たちまち我が人生との比較になってしまう。
わたしはどうしていつまで健康で長生きするんだろうとぼやいたばかりだけど、つまり地味で目立たない人生を送っていれば、死神もあきれて手を出さないってだけじゃないのか。
ああ、また自虐的な考えに堕ちてしまう。

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2018年3月 5日 (月)

エデンの東

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ときどきセンチな気分になって、古い小説や映画を観たりする。
今日はたまたまブルーレイで録画してあった「エデンの東」、ジェームス・ディーンのアレ、を観てみた。
若いころ観て感動した映画なんだけど、このたびはどうも、あまり感心しないねえ。
なぜだろう。
やっぱり人間が成長したせいか。
いや、わたしの場合、若いころはなんにでも感動しやすく、早い話が精神的に未熟だったってことかもしれない。
いまでもこの映画を傑作だと信じている人がいたら、理由を聞いてみたいものだ。
昨今の荒唐無稽なCG映画が好きという人は問題外。

この映画、どう観ても図式が単純すぎる。
真面目で優秀な息子を愛し、いささかグレている息子を邪険にする親父が登場するんだけど、いくら優秀でも、アメリカってところは、こういう融通のきかないアホ息子のほうが見込みがあると思われているんだろうか。
こういう親父のもとじゃ、ナィーブなせがれが不良になるのも当然という気がする。
日本じゃまじめすぎる息子の将来を案じて、不良友達に吉原へ誘ってやってくれと頼む親父が、江戸のむかしからいたくらいなのに(落語/明烏)。
モルモン教徒じゃあるまいし、こういう話のわかる親父のほうが人情味があっていいじゃん。

それでも映画の中でゆいいつ感動したのが、事業に失敗した親父の損害をカバーするために、不良息子が穀物の投機で儲けた金を差し出すシーン。
ところがこのカタブツ親父は、戦争で儲けた金なんかいらんとつっかえしてしまう。
相手に喜んでもらいたいと思ってしたことなのにと、息子は泣いて親父にしがみつく。
この場面だけはこたえた。
わたしの両親は、生前に、はたしてわたしのことを理解してくれていただろうか。

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2018年2月15日 (木)

ひまわり

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BSで放映されたデ・シーカの「ひまわり」って映画。
もう何度も放映されているのに、まともに観終えたことがいちどもないし、音楽以外はあまり気にしてなかった映画なので、批評はさしひかえる。
ただストーリーは知っているので、そのへんから思ったことを。

これは第二次大戦中にロシアに派兵されて行方不明になったイタリア兵と、生き別れになった奥さん(ソフィア・ローレン)の悲恋の物語。
どうも悲恋をまっ正面からとらえたといわれると、それだけでひいてしまうのがわたしの悪いクセだ。
イタリア映画なら、ましてデ・シーカの映画なら、もっと庶民的ユーモアを前面に押し出した映画にしてほしかったね。

戦争が終わったのに帰国しない旦那を探して奥さんが右往左往。
けっきょくわかったのは、旦那はロシアで知りあった娘と再婚し、いまは家族をもって幸せに暮らしていて、奥さんは泣く泣くあきらめるという物語だそうだ。
日本でも太平洋戦争が終わったとき、こんな話は山ほどあった。

これはなにかで読んだ話だけど、戦争中捕虜になって抑留されているあいだに、ロシア娘と恋仲になった日本人がいた。
現在の北朝鮮や、かっての日本なら、周囲から白い目で見られるところ、ロシア人というのはヒトがいいのか、日本人は多産系だと聞いている、ロシア娘と結婚してじゃんじゃん子供をつくってほしいといったとか。
多民族国家というのはそういうものらしいけど、人類愛がどうのこうのと屁理屈をいうよりずっといい話ではないか。

「ひまわり」では、マルチェロ・マストロヤンニのイタリア兵がそういうロシアに取り込まれちゃったわけだ。
イタリア人が多産系かどうか知らないけど、男は多情で、女を見ればすぐにくどくことぐらいは知っている。
そういう血が入れば、人間が陽気になるので、これはわるい話ではない。
え? いえ、これはコメディではありません。

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2018年1月25日 (木)

気狂いピエロ

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とっくに書いたことがあると思っていたけど、調べてみたらまだいちども書いてなかった。
生きているうちに書いておかないと後悔するから、ジャン・リャック・ゴダール監督の「気狂いピエロ」について書いておこう。

ゴダール監督といえば、「勝手にしやがれ」で、女のヒモとして生きるチンピラやくざ(ジャン・ポール・ベルモンドが彼以外にないくらい適役)の、アナーキーな青春を描いて世界中の若者の共感を得た映画監督だ。
この映画では、警官に銃で撃たれ、それでもパリの街を走り続ける主人公が、最後にタバコをくわえたまま車道に倒れこみ、最低だなとぼやきつつ息絶えるシーンが評判になった。
こういう若者がいまもむかしもいるってことは、テロに身を投じて、自らも他人も吹き飛ばすことをためらわない若者がいることでわかる。

しかしゴダール監督の最高傑作は、まちがいなく「気狂いピエロ」である(とわたしは思う)。

この映画のストーリーは、とあるパーティで若い娘にひかれた男(ベルモンド)が、じつは犯罪者の仲間であったこの娘に誘われるまま、ギャングの金を奪って逃避行を続けるというもので、内容は 「勝手に」と同じ虚無とヤケッパチの延長線上にある。
原作はたいして有名でもない犯罪小説らしいけど、映画の大半は犯罪をおかす無軌道な男女の、べつにスリルやサスペンスがあるわけでもない、意味がありそうでなさそうな、詩や文学についての屁理屈がならぶ。
つまり左翼の文学青年に好まれそうな映画なんだけど、「勝手に」になくてこの映画にあるものは、ヒロインを演じたアンナ・カリーナの小悪魔的魅力だ。
彼女のこの魅力があるからこそ、ラストシーンの衝撃も大きい。

アンナ・カリーナという女優さんは、いちじゴダール監督の女房だった人で、彼女にふられたあと、まだ未練たっぷりな監督が、精いっぱい彼女の魅力を引き出したのが「気狂いピエロ」であるそうだ。
そのせいか、逃避行中の彼と彼女の映像がきわめて美しく、けっしてベタベタしてるわけじゃないけど、好きな女とふたりきりでいる男の幸せが画面からあふれてくる。

だがしかし現実と同様に、やがて映画の中のヒロインは主人公をふって、新しい恋人と逃げてしまうのだ。
怒り狂った主人公は拳銃片手にふたりのあとを追い、怒りに任せて彼らを射殺する。
そのあとで彼は、海を見下ろす岬のてっぺんで、顔にペンキを塗りたくり、ダイナマイトを巻きつけて爆死するのである。
自分は馬鹿だった、自分の人生は徒労だった、自分のような人間は生きている資格がない。
この場面はクラゲなすただよえる青春を送っていたわたしの述懐でもある。

爆発の煙が風にのって流れたあと、恋人たちのささやきが聞こえる。
  見えた
  なにが?
  永遠が
  海にとけこむ太陽が・・・・・
これはランボーの詩の一節だそうだけど、そんなものよりわたしには、本人が木っ端微塵になった直後の、すうっと全身の力が抜けるような虚脱感がたまらない。
わたしはこの最後の場面だけで、この映画を永遠の名作にしてしまうのだ。

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2018年1月10日 (水)

ブリキの太鼓

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なんとなく思い出した映画のこと。
フォルカー・シュレンドルフ監督の「ブリキの太鼓」である。
もとはノーベル賞作家ギュンター・グラスの小説で、わたしは原作を読んでないからそっちについてはなんともいえないけど、文芸作品の映画化としては成功したもののひとつだと思う。

物語の中心をなすのは第二次世界大戦の前夜に生まれた、悪魔的能力をもつ少年オスカル。
映画は彼の成長を軸として進んでいく、といいたいところだけど、じつは彼は成長を自分の意思でストップさせていて、成長はしないのである。
なんだ、それというなかれ。
この映画は子供のままのオスカルの目を通し、ナチスが登場する前後のドイツの世相を、寓意やグロテスクなユーモアをこめて描いた傑作なのだ。
ただ作品の意味や思想なんてことをいいだすと、プロの作家でもないし、書いても一文にもならないわたしには時間の無駄だ。
だからここでは、映画の中で、とくにわたしの印象に残った部分について書いてみよう。

この映画のなかに、オスカルの母親が浮気をする場面がある。
彼女の浮気相手は従兄弟のヤンで、映画の中で、じつはオスカルの父親はこの浮気相手であることが暗示される。
母親は幼いオスカルを連れて外出するよう見せかけ、彼を懇意のおもちゃ屋に預けて、そのあいだにヤンとの逢瀬を楽しむのである。
このおもちゃ屋を演じたのが、シャンソン歌手として有名なシャルル・アズナブール。
じつは彼も母親が好きなのだが、彼女の浮気に目をつぶって協力しているのだ。

自分の好きな女性が、べつの男に逢いに行くのを見送らなければならないとしたら、男はどういう顔をすればいいだろう。
わたしは以前このブログの「盲目物語」という項で、自分の好きな女性に相手にされない豊臣秀吉について書いたことがある。
どうもこういうもてない男には、すぐ感情移入してしまうのがわたしのわるいクセだ。

母親が愛人と密会をしているはずの建物を、おもちゃ屋はじっと見上げる。
この場面で当て馬にされた男を演じるアズナブールの切ない表情がじつにいい。
その後ナチスの台頭とともに、おもちゃ屋は迫害されて自殺するのだけど、まじめで気弱な小市民を演じたアズナブールが、わたしには映画の中でいちばんこころに残った。

この映画には、へたなポルノ顔負けのひわいな場面も出てきて、もちろんわたしはそういうところもキライじゃないけど、ほかにも印象的な場面がある。

第二次世界対戦の発端となった、ポーランドにおける抵抗運動のひとつにライツィヒの郵便局事件というものがあるそうだけど、オスカルのほんとうの父親ヤンは、ここでドイツ軍を相手の戦闘にまきこまれてしまう。
敗戦濃厚で、仲間とやけっぱちのトランプをしているところを逮捕された彼は、いい手がきていたんだけどなと、ハートのクィーンをオスカルに示したあと銃殺されるのである。

映画も傑作だけど、わたしはこういう場面について書きたかった。
悲しいこころをまぎらわすには、わたしは他人の悲しみを見つめるのだ。

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2018年1月 6日 (土)

またまた2001

2001

正月に放映された「2001年宇宙の旅」を観て。
この映画については、いくら褒めても褒め足りないのわたしだけど、あらためて監督のスタンリー・キューブリックの先見性に感心した。

この映画は1968年の公開なので、パソコン元年とされる1995年(ウイン95の発売年度)よりずっと古い。
したがってパソコンもインターネットも、それ以前にあったワープロでさえ出てこない。
これでは時代遅れという人がいるかもしれない。
しかしアメリカの批評家がいっていたように、キューブリックはテクノロジーを描こうとしたわけではない。
彼が描こうとしたのは、もっと哲学的なものだけど、あまりむずかしいことをいうと、解釈は個人の勝手でしょという迷路にはまり込むので、わかりやすいところをひとつ。

最近、2045年問題というのが話題になっていると、去年の12月にこのブログに書いたばかりだ。
これはどういうことかというと、つまりいま囲碁将棋の世界で、ITの知能が人間を超えようとしてしているように、コンピューターがもっとあたりまえの思考の世界で、人間に追いつき、並ぶのが2045年ごろじゃないかといわれているのだ。

コンピューターが人間を超えるというのは、じつはSFの世界ではかなり古くからあるテーマである。
キューブリックがやったのは、その古くからあるテーマを、荒唐無稽なフィクションを排し、現実の科学に立脚したうえで、シネラマの壮麗な映像美で描き出すことだった。
そして半世紀が経過した。
わたしたちはいままさに、HAL9000が現実になるのではないかと怖れているところじゃないか。

現実がちょうど映画に追いついたということで、わたしのいうキューブリックの先見性とはこのことだ。
もちろんこればかりが映画の主要テーマじゃない。
人間が生み出したものが人間を裏切るという問題以外に、わたしたちは何者か、どこから来てどこへ行くのかという、ゴーギャンのノアノア時代からの哲学的な意味も含んでいるんだけど、わたしはいまそこまでは踏み込まない。

添付したのは、ネットで見つけたディスカバリー号の詳細な内部構造。
この映画のマニアックなファンが、図説入り学術論文を書いたらしい。

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2018年1月 4日 (木)

また2001

そんな大量の年賀状が来たわけでもないのに、やっぱり返信用の年賀状が足りなくなった。
昨日、あわてて郵便局(本局)へ行ってみたら長蛇の列だ。
あきらめて帰ってきたから、出したのに返事が来ないとお怒りのアナタ、このブログを読んでいるなら、忘れたころにはきっと届くといっておく。

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今日は部屋でぼんやりしていたら、ああ、また2001だよ。
わたしにとって生涯最高の映画というべき「2001年宇宙の旅」が、またテレビ放映されている。
わたしは市販されたDVDも持っているし、アナログ時代、デジタル時代に放映されたものも録画した。
さすがにもういらんと思っていたけど、念のため録画してみたら、これって時代時代にあわせて進化してんのね。
今日の放映ではブルーレイ時代にふさわしいように画像処理がしてあるみたいで、またいちだんとキレイ。
キレイにしすぎて、ものの輪郭線がくっきりしすぎる難点はあるものの、でっかいテレビでくり返し観るためには、やっぱりまたディスクに焼くことになりそう。

わたしはすでに2001年を通過した。
残念ながら、スタンリー・キューブリックが予想した未来はまだまだ遠く、わたしはおそらく、人類が木星圏に到達するのを見届けることはできないだろう。
それでも最近のアホらしいSFしか知らない子供たちに比べれば、たとえフィクションとはいえ、これほどすばらしい夢を見ることができた青春に感謝している。
わたしの残り少ない人生では、これをしのぐ映画はあらわれそうにないから、2001はあの世にまで持っていく永遠不滅の映画なのだ。

添付したのは、過去に作ったわたし御謹製による2001のディスク。

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2017年11月27日 (月)

KUBOの2

昨日、ウチの仲間どもは人形劇を観に行ったはず。
わたしも行きたかったけど、あいにく出演者というか、あやつり師というか、人形を操作する知り合いにアルメニア・コニャックを送ったばかりだ。
その直後に行くと、酒1本であたしをくどこうってえのかと、相手が逆上すること必至なので、コワイから行かなかった。

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そのかわり昨日はわたしも人形劇を観てきた。
正確にいうと、「KUBO/二本の弦の秘密」というアニメ。
まえにも触れたことがあるけど、これは人形を少しづつ動かすストップモーションという技法で撮影されたアニメなのだ。
オタクと呼ばれそうだけど、わたしはこういう映画が好きである。
しかもこの作品は、アメリカ人が作った日本が舞台の映画なので、そっちのほうにも興味があった。

結論を先にいうと、生身の人間が演じるとどうにもならない失敗作に当たる場合もあるけど、アニメの場合そこまで破綻する映画はめったにない。
まあまあおもしろかったといっておこう。

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ストーリーは片目の少年が、サルとクワガタムシの変じた鎧武者を従えて、悪役である祖父や叔母たちと闘いながら、いまは亡き両親の秘密を探る旅に出るというもの。
日本のサルというと、温泉に入ることで世界的に有名だから、これでまた訪日観光客が増えるんじゃないか。

このサルと鎧武者がじつは〇〇だったと、ネタバレだからそこまで書かないけど、そんなにややこしい話にする必要があるのかと思う。
最近のアメリカ映画は、タイムマシンを利用して、未来世界から暗殺者がやってくるとか、まだ結婚前の自分の母親を、息子がどうしたこうしたというような、えらくややこしい話が多い。
単純な話だとそのへんのガキも満足しないようだ。

赤い鳥居や折り紙みなど、日本的なものもたくさん出てくるけど、期待していたほど日本カラーが打ち出されているわけではなく、日本人が見るとおかしなシーンがいくつか。
KUBOというのは主人公の苗字かと思ったら名前だった。
わたしなんか、公方と書いてお公家さんのことかと思ったのに。
父親の名前はハンゾウだというから、こちらは半蔵だろうとすぐわかる。

主人公はようやく見つけ出した剣と鎧、兜という三種の宝器を身につけて、悪の化身の祖父と闘うんだけど、あまり宝器の威力が感じられない。
結局は使いなれた三味線の出番となる。
これでは三種の宝器を苦労して探す意味がないじゃんといたくなる。

三種の宝器にしても、鎧兜はどうみても中国のものに見える。
豊臣秀吉が韓国を征伐したとき、日本の織豊時代の鎧兜の華麗さが、敵国の将兵を驚嘆させたことを思えば、アニメでも鹿の角でも生やした、本格的な日本の鎧兜をそのまま登場させたほうが効果的であったと思う。
しかしこれは日本だけをマーケットにしている映画ではないのだからと、無理に納得しておこう。

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悪役の叔母姉妹が登場するシーンは、日本の幽霊が登場するシーンとしてもなかなか秀逸だ。
もっともこの2人には足があり、このあとはカンフー映画みたくなってしまう。
どこかで見たような彼女たちの能面のような顔は印象的で、人形浄瑠璃にでもあった顔かなと悩んでしまった。

技術的な問題では、人形を使ったストップモーションだというんだけど、口もとの動きにちょっと違和感があり、その部分だけは本物のCGかもしれない。
セリフと人形の口もとをシンクロさせるのは、たしかにメンドくさそう。
いずれにしたってどこまで人形で、どこまでCGなのかわからない映画だ。

これがお約束ごとなのか、最後は祖父の化身である巨大なムカデ?と切ったり張ったり。
主人公の片目については、祖父がもう一方の目ん玉を狙っているというややこしい因縁があったはずなのに、映画ではそのへんが曖昧なまま終わってしまう。
どうやらこの映画には続編がありそうだ。

最近の映画では、最後に制作に関わった人々の名前が延々とクレジットされる。
短気なわたしは終いまで観ているのが苦痛で、たいていそれが終わるまえに席を立つけど、最近のアニメでは最後まで座席にしばりつけておこうと、ショートコントや制作秘話のような映像をくっつけたりと、いろいろ苦心している。
この映画ではラスト・クレジットに、三味線にアレンジされた、ビートルズ(ジョージ・ハリソン)の While My Guitar Gently Weep が流れた。
わたしの世代なら知らぬ者のいない名曲だから、とうとうクレジットが完全に終わるまで椅子に座りっぱなし。

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2017年11月 4日 (土)

炎の人ゴッホ

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昨夜はBSで、「炎の人ゴッホ」 という古い映画が放映されたので、それを観ていた。
画家のファン・ゴッホの生涯を描いた映画で、なにしろアメリカ映画で、監督がヴィンセント・ミネリだから、奇をてらったところがぜんぜんなく、子供でもわかる伝記映画になっていた。
元祖ニートだったゴッホがかっこ良すぎなのが欠点だけど、印象派が早くも壁に突き当たったころの、フランスの世相風俗を知るには役に立ちそう。

ゴッホを演じたのはカーク・ダグラスで、この人はゴッホ自身の自画像をみると、じっさいのゴッホに似たところがあるから適役。
ついでにいわせると、彼と因縁で結ばれた画家のゴーギャン役はアンソニー・クインで、彼が演じると、本物のゴーギャンもこんな感じだったのではないかと思えるから、これも適役。
わざわざセットを組んだらしいアルルの跳ね橋や、郵便配達人ジョゼフ・ルーランや、医師ガシェのそっくりさんのように、ゴッホに詳しい人なら思わずニンマリという風景、人物も出てくるから、注意して観るとおもしろい。

映画の中に、ゴーギャンが日本の浮世絵をほめるシーンもある。
映画は通俗的で、わたしは傑作といわないけど、美術史に興味のある人にとっては参考になるかも。
いま上野で 「ゴッホ巡りゆく日本の夢」 と、「北斎とジャポニスム展」 というふたつの展覧会が開かれている。
わたしはそれを観に行くつもりだけど、まだオープンしたばかりだから、混雑しているんだろうなあと、もうすこし待機中だ。

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