壮絶の映画人生

2025年10月30日 (木)

フェリーニの映画評

20251030

冒頭に載せたのはギャングのボスでもないし、そのへんの中小企業の社長さんでもない。
わたしが尊敬する映画監督のフェデリコ・フェリーニだ。
YouTubeを閲覧していたらこのフェリーニ監督が、他の映画監督の作品を評価している映像があった。
以前この手の映像で、マーティン・スコセッシが映画評をしているものを観て感心したことがあるし、わたしはフェリーニ監督も好きなので、どおれと拝見してみた。

フェリーニ監督というと、とかく難解な、わけのわからない映画を作る人というイメージがあるけど、「道」や「甘い生活」、「サテリコン」、「アマルコルド」のような、わけのわからなくない映画も作っている。
とくにアマルコルドはユーモアもあって、その牧歌的なほのぼの感で、わたしのお気に入りの映画である。
そんな巨匠が選んだ映画とはどんなものだろう。

フェリーニ監督が選んだベスト6映画は以下の通り。
6位 駅馬車
5位 鳥
4位 ブルジョワジーの秘かな愉しみ
3位 羅生門
2位 チャプリンの殺人狂時代
1位 2001年宇宙の旅

このフェリーニ監督が選んだベスト6というのが、いつごろ作られたものか知らないけど、いささか彼らしくない評価もある。
しかし映画評というものは、100人いれば100の評価があるものだし、質問がいつどんな時にされたかにもよって変わってくるだろう。
監督がこれからメシを食おうとしているとき、どんな映画を評価しますかと聞かれたら、まあなと、たまたま頭に浮かんだ適当な映画を選ぶこともあるかも知れない。
だからこれは参考ていどにしておこう。

6位は「駅馬車」だけど、これはジョン・フォード監督のデビュー作といっていい古い作品(1939)で、いま観るとべつに大騒ぎするようなものじゃない。
それでも公開された当時としては斬新な西部劇だったから、フェリーニ監督もそんなところに惹かれたのかも知れない。
この年には、フェリーニはまだ監督デビューもしてなかった。
J・フォードのほうはこの作品以降、だんだんマンネリになってきて、終いにはアメリカ・ファーストの、マイノリティ差別主義者であることがあきらかになったから、わたしはあまり感心してないのである。

5位はヒッチコックの「鳥」である。
最近の傾向としては、熊が人間に反旗をひるがえしたのではないかと思えるフシがあるけど、これは鳥たちが人間に反旗をひるがえすというホラーである。
でもいま観ると、合成画面も安っぽいし、わたしはやっぱりあまり感心しないんだけどね。

4位は「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」である。
名作のほまれの高い映画であるとはいえ、遺憾ながらわたしはいちども観たことがない。
観てないものをけなす(ほめる)のもナンだからパス。

3位は黒澤明の「羅生門」だ。
むずかしいところだな。
黒澤明という人はいくつになっても子供みたいなところがあって、時代が進めば進むほど、そのヒューマニズムも時代遅れになってゆく。
この映画はまだそんなボロが出るまえの作品だし、まだ映画には大きな可能性があったころだから、生まれた作品といえなくもない。
わたしはクロサワを、欧米人ほどには買ってないんだけどね。

2位は「チャプリンの殺人狂時代」。
チャプリンの映画は「黄金狂時代」や「モダンタイムス」、「独裁者」などの、ドタバタとシリアスの混在した作品にこそ真価があると思うんだけど、この作品はかならずしもそうではなく、シリアスな社会派部分にかたよりすぎた映画であることがミソ。
世間の評判はよくても、わたしはあまり好きじゃない。

評価を全体的にながめると、フェリーニらしからぬ映画評であると思う。
やっぱり食事まえに呼び止めて質問をしたので、監督もとっさに出てきた映画を挙げたんじゃないかね。
フェリーニ監督も出発はリアリズムだったから、「市民ケーン」や「灰とダイヤモンド」、ベルイマンの「第七の封印」なんかのほうが彼らしいんだけど、このへんはあまり簡単に意見をいえる映画じゃないしね。

1位は「2001年宇宙の旅」で、こればかりはわたしももろ手をあげて賛同する。
これはわたしにとって生涯最良の映画なのである。
わたしがこの映画を最初に観たのは、銀座にあったテアトル東京というシネラマ映画館で、20代の前半だった。
人間がいちばん感受性の豊かなころに、この映画に出会ったことは奇跡に近かった。
もしもわたしがもっと若ければ、この映画の哲学的な部分で居眠りをしていたかも知れないし、もっと大人になって、人生にくたびれたころ観たのなら、その特撮技術にべつに感心もしなかっただろう。
わたしはまさにぴったりの好時期にこの映画に出会ったのである。
この文章を読んで、あわてて40代、50代になったおっさんが、レンタルビデオかなんかで観ようと思ってもダメだぞう。
人生にチャンスはそうそうあるわけじゃないのだ。

このブログで何度も取り上げているから、これ以上いわないけど、わたしが多感な時期にこの映画に出会ったということは、偶然を通り越して、そうさな、生きているときに木星のアップや、土星の輪をすぐ近くで見られたのと同じくらいの僥倖であると、わたしはいまでも、いや、いまさらながら思っているのだよ。

| | | コメント (0)

2025年9月13日 (土)

スラムドック・ミリオネア

20250913

「スラムドック$ミリオネア」という映画があった。
インドのカースト下位の境遇に生まれた青年が、テレビのクイズ番組に挑戦し、驚異の正解率で勝ち進み、懸賞の大金を手にする物語である。
おかしいじゃないか、学校もろくに出ていないやつがなんであんなにいろんなことを知ってるんだということで、視聴者から疑問を持たれ、なにかインチキをしてるだろと警察にリンチされたりする。
賞金が高額になるにしたがい、彼は少しづつ自分の過去を語り始める。
最後にあきらかにされるのは、青年が貧しい人生の実践的経験を通して、知識を得たということだった。

クイズの質問に“クリシャナ神の歌”を書いた詩人はというものがあったけど、青年は答えを知っていた。
幼いころにスラムのゴミ捨て場で、妹とともに人買いに買われた彼は、人買いのところでこの歌をうたわされたことがあったのである。
映画はスラムに生きる子供たちの悲惨な境遇とともに進行していく。

わたしも大学は出てない(入ってもいない)けど、それでもNHKの若手アナウンサーなんかを観ると、その無知ぶりに驚くことがある(前項を参照のこと)。
そんなわたしの知識のほとんども、社会に出てから、じっさいの自分の体験から学んだことが多いのだ。

たとえばわたしは旅が好きで、しかも中国やロシアのような、異なる歴史や文化を持った国に興味があり、いつかそういう国に行ってみようと、映画やテレビ、書物などでさんざん研究した。
だからロシアがどんな国か、プーチンがどんな大統領なのか、ウクライナ戦争が始まるまえからよく知っていた。
NHKがデタラメばかり言ってることもすぐわかったのである。

旅以外にも趣味・道楽で好きだったものに、読書全般と、具体的には歴史やサイエンスがある。
本を読むのも道楽のうちだから、手当たり次第にいろんな本を読みふけった。
それこそ文学作品から大衆雑誌、日本の古典、詩歌の類い、週刊朝日から新潮、文春などの週刊誌まで、ほとんど活字中毒といっていいくらい。
科学については専門書はムリでも、昆虫記やダーウィンの航海記、ナショナル・ジオグラフィックや、アシモフの科学エッセイなど、このへんは通常の読書ファンと変わらない。

つまりわたしの知識は、変な言い方だけど、趣味や道楽から得たものが多いのである。
それでもわたしは自分の知識を誇ろうとは思わない。
教師になろうという人ならそれなりの勉強を、電気技師なら電気に関する勉強を、寿司職人なら魚に関する知識やメシの炊き方、アナウンサーならいかに時間通りに終わらせるか、みんな必死で自分の専門分野の勉強をしていたとき、わたしはのんべんだらりんと趣味と道楽に明け暮れていたのである。
まあ、極楽トンボみたいな人生だったなと、いまでも自責の念にかられることがあるくらいだ。

なにか専門の勉強をしたって、わたしの場合、引っ込み思案や対話能力の不足などの欠陥があったので、行く先はたかが知れていた。
もうひとつの問題は、わたしは極端に奥手らしく、人間としてかなりの歳になるまで世間知らずだったことがある。
NHKの欺瞞にはっきり気づいたのは、ウクライナ戦争が始まってからだったのだ(それまでわたしはNHKしか観ないくらい公共放送のファンだった)。
そんなわたしが人生の終わりころに、ブログという世界にはまり込んで、言いたいことをいえるのは、なんかの奇遇だったのかと思ってしまう。

| | | コメント (0)

2025年2月13日 (木)

ミツバチのささやき

さあ、また旅に出よう。
無一文で、足もへなへなのじいさんだけど、今度はスペインに行くのだ。
ええっと驚いたアナタ。
いいや、わたしがいうのは現在の旅じゃない。
行くのは時空を超えた1960年代のスペインだ。
そう、わたしのお得意のバーチャル旅行というやつだよ。

1339

じつは今日は録画したスペイン映画の「ミツバチのささやき」という映画をじっくり観たんだけどね。
映画のストーリーは独裁者フランコと、抵抗する市民たちの内戦(ヘミングウェイの小説やキャパの写真で有名だ)が終わった直後の、スペインの片田舎を舞台にしているのだそうだ。
“のだそうだ”というのは、わたしはこの映画の裏事情をよく知らなかったし、映画にも派手な戦争場面はひとつも出て来ないからだ。
でもそんなことはたいして重要じゃない。
この映画の眼目は別にあり、わたしにとってその別のところにしか興味がないのだから。

1339a

これは1973年公開の映画で、すべて当時のスペインの田舎で現地ロケしたらしいから、背景は50年まえのスペインそのままといっていいだろう。
広大な丘陵地が広がる田園風景や、そこで遊ぶ子供たち、汽車が到着する素朴な駅のたたずまいなどに、わたしは無限のノスタルジーを感じてしまう。
わたしは過去に、自分の旅で似たような景色をたくさん見た。
中国に行ったとき同じツアーに参加していた絵描きさんが、江南のシックイを塗った民家はスペインの家に似ているといっていた。
トルコに行ったときは、地の果てまで続くような丘陵地帯を観た。
わたしはバスや列車の窓にしがみついて、そんな景色をあかず眺めていたものだ。

1339b

「ミツバチのささやき」については、最初は美人の人妻が不倫する話かと思ったけど、そうでもないようだし、主人公の少女が戦場から逃走してきた兵士と、巡回映画館で観たフランケンシュタインを重ねあわせるというのも、ちと無理がある。
ありていにいえば、素晴らしいのは映画の背景しかない。
ほかの部分のもやもや感は、内戦で傷ついたスペイン人の心情を象徴するものだと強引に解釈しておけば、それでもいい詩を読んだような余韻が残る。
それしかないけど、それだけで十分だった。

バーチャル旅行というのは便利なもので、芭蕉はまだ見ぬ土地にあこがれて、あこがれ途中に死んだけど、現在はインターネットの時代で、情報は溢れているのだから、部屋にいながら、ベッドに横たわりながら、世界を旅できるのだ。
わたしが幸せな時代の旅人であることは疑いを入れない。

ところでトランプさんと日鉄副会長の面談はすんだのか。

| | | コメント (0)

2025年2月12日 (水)

映画の話題

[閑話休題]
ようすを見守りたいことが多すぎるので。

20250212

SNS上には個人が選定したベスト映画というのが腐るほどある。
音楽などでもそうだけど、たいていはその人の好みを選んだだけで、わたしみたいな変人とは、ほとんど評価が一致しない。
「ゴッドファーザー」や、スピルバーグ、ジェームス・キャメロンなどの映画が上位に来てたりすると、もうそれだけでわたしは放り投げる
しかしわたしの評価が絶対ということはないし、他人がなにを好もうとその人の勝手だから、やかましいことはいわないことにしよう。

ここに映画監督のマーティン・スコセッシが選んだベスト映画12選というものがある。
彼の「レイジング・ブル」や、ストーンズのドキュメンタリーには感心したことがあるから、どんな映画を選んでいるのか興味があって、それを拝見してみた。
以下がその順位。

1位 81/2
2位 2001年宇宙の旅
3位 灰とダイヤモンド
4位 市民ケーン
5位 山猫
6位 戦火の彼方
7位 赤い靴
8位 河
9位 シシリーの黒い霧
10位 捜索者
11位 雨月物語
12位 めまい

さすがというか、上位の6位あたりまでは、わたしも文句のつけられないものばかりだ。
もちろん、わたしにはほかにもベストに入れたい映画はあるので、ここに挙げたものは上位で異論がないということである。
5位までは、わたしのブログでも取り上げているからご参考までに。

6位は、戦争をテーマにしたオムニバス映画で、第二次世界大戦のとき、ポー河の河畔で全滅するパルチザンという記憶に残るエピソードもあるけど、すべての話を思い出せない。
7位の「赤い靴」は、ずっとむかしに録画してDVDに焼いた記憶があるものの、じっくり観た記憶がないから、このへんにベルイマンの「野いちご」ぐらい入れたいね。
8位の「河」は、噂だけは聞いているけど、テレビで放映されたことがないのか、いちども観たことがない。
9位の「シシリーの」は、紀行作家のポール・セローと地中海をバーチャル旅行したとき、シチリア島で触れたことがあるよ。
10位の「捜索者」はジョン・フォードの西部劇で、何度も録画しているのにあまり感心したおぼえがないから、ここにはほかのところでスコセッシが触れていた、マーロン・ブランドの「片目のジャック」を入れたい。

11位は、日本人のわたしには日本の美だ、伝統様式だといわれてもピンと来ないので、やはり外国でも評価の高い小津安二郎の「東京物語」を入れたいね。
え、クロサワ?
彼の作品は最初に見たときしか素晴らしいと思わないからボツ。
12位も、ほかにもっと上位に挙げたい映画がたくさんあるんだけど、ゴダールの「気狂いピエロ」なんかどうだろう。

| | | コメント (0)

2025年1月 5日 (日)

インドへの道

20250105a

この正月に観た英国映画の3本目はデヴィッド・リーン監督の「インドへの道」。
この監督は「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」などでお馴染みの、とにかくスケールの大きな歴史大作で知られた人である。
わたしは「ロレンス」あたりからこの監督を神聖視してしまって、「インド」はDVDが発売されると、映画館で観たことがない映画なのに、ためらわず購入してしまった。

金を出して買ったものは観なくゃもったいない。
そのときちらりと眺めてみたら、だんだん話が神秘的なものに傾く兆しがあらわれたので、そういう非合理的なものが大キライなわたしは、とちゅうで観るのをやめてしまった。
どうせインドの古い寺院で卑猥な石仏を見たヒロインが、インドの陽炎のしたで抱いた白日夢、というような映画なんだろう。
だいたい英国人がインドで期待することは、ビートルズがインドの乞食坊主にとりつかれたように、そういう神秘主義に決まっているのだ。

デヴィッド・リーンもおいぼれたかと思ったけど、今回はどうせヒマだし、正月に観た英国映画3部作にするつもりで、じっくり最後まで観た。
その結果、「インドへの道」は・・・・やっぱりクソだった。
クソを観るために3時間も費やして、損したワ。

映画の出だしはヒロインが英国から船でインドに出発する場面で、船会社のキップ売り場の会話など、いかにもリーン監督の映画らしく手慣れたもの。
彼女は判事としてインドに赴任しているいいなずけに会うために、いいなずけの母親と共にインドへ向かうのである。
インドへ到着したあと、さらに鉄道で彼氏の赴任先へ向かうんだけど、列車が闇夜の鉄橋を渡っていくシーンなど、いちどでいいからインドにも行ってみたかったわたしのノスタルジーをかきたてる。
残念ながらわたしがインドに行くことは、永久に見果てぬ夢で終わりそうだ。

デヴィッド・リーン監督は、歴史に翻弄される人間を描いた大作で観衆の度肝をぬいたものの、人々が冷静になると、その影響でアジア人、アラブ人を一等下の民族であると馬鹿にするレイシストであると評判が立ってしまった。
これではいかんと、死ぬまえにあわてて罪滅ぼしのために作ったのがこの映画らしい。
この映画では、無理やりインド人の肩を持ちすぎているようで、英国至上主義者の監督らしくない。
ちなみにこれはリーン監督の遺作で、製作は1988年、マイノリティに対する差別が世界的に抗議のムーブメントになり始めていたころの映画である。

ヒロインは好奇心がいっぱいで、インドへ着くとひとりで自転車に乗って、あちこち見物に行き、ある古い寺院で、男女のからみをあけすけに彫った石像を見てどぎまぎする。
英国には女性探検家クリスティナ・ドッドウェルのような冒険家の系譜があって、こんな勇敢な女の子もいたのだろう。
しかし最近のインドは女性に乱暴するレイプ犯が多いらしいから、ひじょうに危険なはずだけど、これは英国がインドを植民地として統治していたころの話で、中国の上海のような租界でも、現地人は欧米人に恐れ入っているところがあったから、あまり危険な目には遭わずに済んだらしい。

ヒロインといいなずけの母親は、インドで知り合った若いインド人の医師の案内で、有名な観光地である古い洞窟を見物に行く。
ここでいくつかの偶然が重なり、ヒロインは医師と2人だけで洞窟の内を見て歩くことになる。
そして不運な事件に巻き込まれるんだけど、さて、お立ち合い。
たとえばあなたが暗い洞窟のなかで、ちょっとステキな女の子と2人きりになったとき、あなた彼女いるの?なんて思わせぶりに迫られたとする。
こういうとき相手を押し倒して、その場で生殖行為にのめりこむというのは、男として自然な行為である。
いや、オレはそんなことはしないというカタブツ男がいたら、そりゃ病気だね、病院で診てもらったほうがエエ。

全部が全部、生殖行為に及ぶかどうかは別にして、そういう男がいたって不思議じゃないのである。
この映画の欠点は、そういう男の本能を無視しているところだ。
インド人の医師はヒロインを犯そうとしたという疑いをかけられて裁判にかけられる。
植民地時代のインドだから、宗主国の女性に手を出した男の罪は深い。
彼の親友のイギリス人だけは絶対にそんなことはないと、医師の潔白を言い張るんだけど、親友の無実を信じるのはいいとして、普通なら魔がさしてそういうことになってもおかしくないと考えるほうが自然ではないか。
また教養をひけらかしちゃうけど、サムセット・モームの「雨」という短編小説は、ついに誘惑に打ち勝てず、救うべき娼婦に手を出してしまった宣教師の話である。
ここはどうも医師に味方する英国人のほうに無理がある。

20250105b

このあと、なにがなにしてどうなったのか、裁判はヒロインが訴訟を取り下げることになって、急転直下で解決する。
そのへんが安直でぜんぜん感心しないけど、男に手ごめにされたいという被害妄想でも彼女にあったのだろうか。
リーン監督の映画の常連であるアレック・ギネスのインド行者も、彼は変人ですと紹介されている割には、全く神秘的なところがないフツーの人である。

晴れて無実を勝ち取ったインド人医師だけど、彼は自分が好きだったヒロインが、親友の英国人と結婚したと誤解していて、彼を許せない。
しかし映画のなかでは、医師とヒロインがそれほど親しい仲であるようには描かれてないし、医師はアラビアの砂漠で、かげろうの中から現れるオマー・シェリフのようなカッコいい人間でもない。
観光洞窟で誤解が生じるまで、彼らはヒロインがインドで知り合ったばかりの、ただの仲のよい友達関係だったのだ。
それがなんで恋敵みたいに恨みをあとに引きずることになるのか。
英国人が全く関係ない女性と結婚して、インドまで医師を訪ねてきたおかげで、ようやくこの誤解が晴れる。
それはまあ、いいとして、田舎の町の小さな事件が、どうして反英騒動にまで発展するのか、いくら歴史に翻弄される主人公を描いてきたリーン監督としても、ちと無理があるな。

わたしの部屋には現実のインドを捉えた「アラハバード・大沐浴」、「100万人の山車祭り」などのドキュメンタリー、映画でも「スラムドック・ミリオネア」、「ナヴァラサ」などのインド作品があるので、あとでじっくり観てみよう。
つまんない映画で時間を食ったけど、明日からはまたNHKの国際報道が始まるから、退屈しないで済むだろうけどね。

| | | コメント (0)

2025年1月 4日 (土)

日の名残り

20250104b

正月に観た英国映画の第2弾。
だいぶまえに録画してあった「日の名残り」という映画である。
正直にいうと、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの原作(新聞にそう書いてあった)ということ以外に、この映画についてなにも知らなかった。
アカデミー賞にノミネートされてるんだぞという人がいるかもしれないけど、わたしって「ディア・ハンター」や「地獄の黙示録」あたりから、アカデミー賞をぜんぜん信用してないからね。

だいたい文学作品の映画化というと、(とくに日本の場合)ろくなものでないことが多いから、それだけで観たいという気が起きない。 
それで録画直後に早送りでざっと観てみたんだけど、すぐに気になる部分を発見した。
スーパーマン役者のクリストファー・リーブが出ていたことで、彼は不運な事故で首から下がマヒ状態になり、しばらくリハビリに励んでいたけれど、何年かまえに心臓発作で亡くなったはず。
そのリーブが元気なころのままだった。
これっていったいいつごろ製作された映画なのよ。
カズオ・イシグロがノーベル文学賞をもらい、日系人の作家だと騒がれたのは2017年のことで、わたしは「日の名残り」もその人気にあやかってつくられた映画だとばかり思っていた。
しかしリーブが事故に遭ったのは1995年のことだから、それ以前の映画ということになる。
どうも原作者のノーベル賞にこだわっていてはいけないらしい。

調べてみたら1993年の映画だった。
主演のアンソニー・ホプキンスにとって、これは「羊たちの沈黙」のわずか2年後の映画ではないか。
カズオ・イシグロって、けっこうむかしから有名な作家だったんだねと、余計な前置きはさておいて、じっくり観ると、いまどき珍しい外国映画でもある。

物語はある英国貴族の屋敷で働いていた執事と、同じ屋敷で働いていたメイド頭の女性のほのかな恋の物語。
第2次世界大戦まえから戦後にかけての2人の交友が、回想のかたちで交互にあらわれる。
こういう現在と過去が交差するスタイルの小説はけっしてめずらしくないし、傑作である場合が多い。
英国の作家サムセット・モームの代表作「お菓子と麦酒」もそうだし、森鴎外の「雁」もそうである。
ここで鴎外が出てくるのはあとあとの伏線なんだけどね。

日本人のわたしからすると、まず執事の仕事というものに興味がある。
リバプールから髪をふりみだした4人の青年が出現して、階級制度をひっかきまわしてしまったから、いまでもそうかは知らないけど、わたしたちは英国というと、すこしまえまで厳格な階級社会であったことを知っている。
この厳格さは貴族社会にかぎらない。
アーサー・C・クラークのセイロン島でのエッセイを読むと、英国の階級制度の恩恵は、作家や弁護士ごとき階級にも及んでいたことがわかるのである。
英国では、執事の機関紙まであるらしい。

日本にはそもそも貴族制度というものがなかったから、執事という仕事もなじみがない。
映画では執事の仕事がどんなものかを詳細に見られるのがよかった。
わたしは動物園でパンダを見るようにそれに注目した。
そうして思ったのは、英国の貴族ってホント、怠け者だなということ。
メンドくさいことは横のものを縦にもしないくらいで、そのくせ屋敷の中ではつねにネクタイとスーツ姿だ。
日本人は豪華な晩餐会や、美しい庭園、大勢で馬に乗ったキツネ狩りのシーンなどにあこがれるけど、その裏には見栄と虚飾に覆われた、我慢できない固っ苦しい生活があるのだ。
カズオ・イシグロさんはこういう点を逆手にとったのかも知れない。

執事は屋敷で絶大な権力を持っていて、使用人を雇ったりクビにするのも彼の仕事だ。
ある日、メイド頭として雇われたのがこの映画のヒロインてことになるけど、残念ながら彼女の仕事のほうは詳細に描かれているとはいいがたい。
彼女は屋敷のなかをうろうろするだけで、メイド頭という重責をしっかりこなしているようでもない。
メイドの仕事について知りたければ、サムセット・モームに「掘り出し物」という好短編もある。

いろいろと貴族の邸宅をのぞく楽しみのある映画だけど、第2次世界大戦が終わり、戦争中はナチスの肩をもった屋敷の持ち主も零落して、屋敷は成金のアメリカ人の手に渡る。
使用人たちもほとんどが解雇されて散り散りになる。
執事の首は新しいアメリカ人の主人のもとでなんとかつながったけど、ほのかにこころを寄せていたヒロインとは別れざるを得なかった。
そして戦後のある日、結婚して地方に移住していたヒロインが、亭主と別れたと聞いて、彼はもういちど彼女に会いに行く決心をする。
だんだん渡辺淳一か高橋治の空想恋愛小説みたくなってきたけど、この映画の欠点も目立ってきた。

ストーリーの大半は、戦前のヨーロッパの事情も、戦後のアメリカ人に買い取られた屋敷の話も、恋愛ドラマの構築のためにとってつけたようなもので、あまり意味のあるものとは思えない。
主役を演じたアンソニー・ホプキンスは、どうもレクター博士の印象が強すぎて、こういうタイプに女性が惚れるだろうかという疑問がある。
主人公とヒロインが、読んでいる本をめぐって、暗い一室でふざけ合うところなんか、一歩間違えばホラーになってしまいそう。
自然に相手に惹かれていく心理描写もうまく描かれているとはいえない。
感心したのは、最後に2人が再会して、そのままなにごともなしに雨の中で別れるシーンのみだ。
この場面だけは“日本人なら”ジーンと来るだろう。

ふと思ったのだけど、カズオ・イシグロが日系の作家であるとするなら、「日の名残り」というタイトルはなかなか意味深長じゃなかろうか。
大胆な仮説だけど、このタイトルを“日本の影響”という意味にとれば、作品が日本文学のよい伝統から完全に脱却していないことを、タイトルが暗示しているともいえるからである。
つまりこの小説では、伝統的な日本文学にみられる、遠慮や気遣い、しっとりとした情感のようなものが描かれているからである(わたしにはそう思える)。
映画が終わったあと、わたしは森鴎外の「雁」を読んだとき感じたような、せつない感傷におそわれた。

なにかを期待していたのに、けっきょくなにも(濃厚なベッドシーンも)なく終わるという小説は、欧米の文学にはかってなかったものじゃないかね。
ハルキ君に教えてやらなくちゃ。
ノーベル文学賞をもらいたかったら、ぜんぜん日本とは歴史も文化もちがう国に行って、その国の特異な風習を紹介しつつ、なおかつ日本文学のよさを失わない小説を書くんだね。
中国かロシアなんてどうだろう。
中国には「金瓶梅」があり、ロシアには浮気女の系統小説があるけど、両方とも遠慮しないで行き着くとこまで行ってしまう小説で、日本のおくゆかしさとは無縁だ。

| | | コメント (0)

2025年1月 3日 (金)

わが命つきるとも

20250103a_edited1

夏目漱石の正月の災難が、年始の客の相手をしなければいけないことだったそうで、そういう点でひきこもりのわたしは優雅なもの。
うるさいかみさんもやかましいガキもいないし、わざわざ訪ねてこようという酔狂もいないので、年末から正月にかけては、静かで落ち着いた正月をすごしているけど、3日も4日も部屋にとじこもっているのは大変なので、こういう機会にふだんあまり観る機会のない映画を観ることにした。

録画コレクションから引っ張り出したのは、フレッド・ジンネマン監督の古い映画で「わが命つきるとも」。
1966年のアカデミー賞受賞作品だ。
まえに「エルマー・ガントリー」のときにも書いたけど、若いころ、いい映画だとわかっていても、内容が固そうなので観る気のしない映画というのがいくつかあった。
これもそのひとつで、英国の暴君ヘンリー8世と、彼に抗議して処刑された大法官のトーマス・モアの史実を映画化したものである。
この正月にじっくり観て、固くてもおもしろい映画ってあるんだねと、あらためて思った。
いいや、年をとったせいで、ようやくそういう境地に達したのかも知れない。

冒頭に枢機卿(すうきけい)の使者がやってくると、ちょうどトーマス・モアは、家族や近所の主婦たちを集めて世間話をしているところだった。
父親のいない子供の半分は司祭の子だそうだと、これはまたなかなか世情にもたけた、話のわかる大法官だなと思ってしまう。
この大法官さまが、国王のヘンリー8世が教義を破って新しい女と結婚すると言い出すと、それはダメですと猛烈な原理主義者ぶりを発揮する。
これを観て、モアはまるでわたしみたいだなと思った。
わたしもウクライナ戦争でロシアを擁護することでは、頑固で、けっして譲らない原理主義者なのだ。

しかしウクライナ戦争でもロシアにはロシアの言い分があるように、この映画でも国王の側からの言い分もあるだろう。
ヘンリー8世は北朝鮮の正恩クンのような暴君だけど、それでも男子の世継ぎが欲しいという切迫つまった事情があった。
よろこび組のきれいな姉ちゃんを、取っ替え引っ替えしたかったばかりじゃなかったのだよ。

映画ではヘンリー8世は、変に律儀なところがある人物として描かれている。
彼はモアのガンコさに手をやいているものの、その曲げない姿勢を愛しており、なにがなんでも自分の思い通りに相手を屈服させようとする。
気にいらないならさっさと処刑してしまえばいいものを、百点満点をとるまで納得しない偏執狂みたいな人物として描かれているのだ。
かくして、なにがなんでも相手を屈服させなければ承知しない暴君と、融通のきかない原理主義者のガチンコ勝負は延々と続くことになる。

トーマス・モアの敵役として登場するのが、国王にゴマをするのが得意の官吏であるトーマス・クロムウェルだ。
長いものには巻かれろと、要領よく世間を渡っていくタイプで、世間にはこういう人間のほうが多い。
どこかおかしいと思っても、局の方針に逆らえないNHKのアナなんかもそうかも知れない。
気のドクなアナウンサーを責めても仕方ないから、これ以上いわない。

モアやクロムウェルは、名前ぐらいしか知らなかったので、あらためて勉強してみた。
たかが映画を観るために大英帝国の歴史まで勉強するのだから、いい映画にかけるわたしの情熱も偏執狂的である。
このころの英国の王室の歴史は、国家間の紛争や世継ぎ争いの陰謀や、似たような名前の王様が入り混じって、ひじょうにわかりにくい。
いちど観ただけでは内容がサッパリだから、また例によってパソコンやタブレットで難解な部分を調べてみて、登場人物の経歴や関係をすっきりさせてからもういちど観た。
これだけやればたいていの馬鹿にも理解できるだろうけど、そのくらいおもしろい映画だったんだよ。

いい映画であることはわかったけど、わたしはあいにく無神論者だし、お稲荷さんや仏さんの支配下にある日本人としては、いささか理解に苦しむ部分もある。
ありていにいわせてもらえば、女房や娘の、家庭を守ってえ、もうすこし妥協してえという願いさえ無視するモアのガンコぶりには、病的なものを感じてしまうのだ。
森鴎外なんて、聖者としてあがめられた尼さんを、 「PERVERSE(倒錯者)の方角に発揮したに過ぎない」とさえいってるぞ。
全体に軽いユーモアがあるから救われているけど、こういう人物を尊敬できるかというと、日本なら小言幸兵衛さんみたいに落語のネタにされるのがオチ。

20250103b

映画のいちばん大きな見せ場が、当時の教会における審問裁判所の裁判のようすである。
このシーンは徹頭徹尾、当時の裁判所のありさまをリアルに再現してあって、赤い服の司祭が壇上にならび、被告、検察官、陪審員、見守る人々など、史劇にふさわしいコスチュームプレイ映画になっている。
とはいうものの、ここまでひとつだって合戦シーンや、裸のオンナの人が出てくるわけじゃない。
それでもモアとクロムウェルの、丁々発止のやりとりは手に汗をにぎるおもしろさ。

しかし、さてさてである。
クロムウェルによって人民裁判のように吊し上げをくらったモアはいう。
『これはキリストが地上におわしたとき、救世主自らの口で、聖ペテロとローマ司教に授けた言葉である』
『その言葉こそがこの地上における聖職者推薦権だ』
『従って首長令でキリスト教徒を服従させるのは不適切である』
『さらに教会の治外法権は、マグナカルタと戴冠誓約で保証されている』
こんな言葉を並べられても、宗教研究者でもなく、キリスト教と縁もないわたしにわかりようがない(観ているイギリス人にだってたぶんわからない)。
しかしこの映画の着目点はべつにある。
これはもともとは舞台劇だったそうだけど、舞台の上で役者がこんな言葉でやりあったら、意味がわからなくても観客にはたいそうな迫力だったんじゃないか。
そして最後にモアが絶叫する、「(わたしの罪は)国王の結婚を認めないからだ」という言葉は人間的で理解しやすい。

映画はモアが作法にのっとって、ロンドン塔で首をはねられる場面で終わりだけど、さらにその後の人々の運命がナレーションで簡潔に語られる。
モアを罪に落としたクロムウェルも、数年後に謀反の罪で斬首され、ヘンリー8世もそのうち梅毒で亡くなったというのである。
無神論者のわたしは、いったいあの騒動はなんだったのかといいたくなってしまう。

内容に感心しない部分はあったものの、それを無視して、セリフのやりとりを楽しむ舞台劇だと思えば、「わが命・・・」はひじょうにいい映画だった。
さて、日本のトーマス・モアであるわたしは、今年もロシア擁護でガンコぶりを発揮することになるのか。
しかしガンコさでいえば、いまだにゼレンスキーさんをプッシュするNHKや、ウクライナを可哀想な弱小国と信じる大半の人たちもいっしょだよ。
今年もまだガチンコ勝負は続きそうだな。

| | | コメント (0)

2024年9月21日 (土)

浮雲と放浪記

20240921a

たまには映画のことでも書こう。
先日、成瀬巳喜男監督の「浮雲」がテレビで放映されたので、ひさしぶりに日本映画をじっくり観たけど、ヒロインを演じる高峰秀子のステキなこと。
この映画は林芙美子の原作の映画化で、ついでに部屋にあった同じコンビの「放浪記」を引っ張り出してみた。
じつはわたしが観たのは「放浪記」が先で、高峰秀子を名優と思ったのもその映画のせいだ。

「放浪記」のなかに貧乏娘の芙美子が、職を求めてあちこち当たってみる場面がある。
たまたまある会社で簿記の仕事を得るんだけど、じつは芙美子にまるで経験のない仕事で、当然ながら1日やっただけで出社に及ばずという電報をもらってしまう。
情けないというか、ふてくされるというか、この場面はわたしが本を読んで想像していた林芙美子に、まさにぴったりだった。
うまい役者だねえと思ったのはこの映画のせいだ。

うまい役者はさておいて、「浮雲」「放浪記」とも、最近のせせこましい映画がニガ手の、わたしみたいな年寄りの感性にぴったりの進行スピード。
このふたつの映画を観ながら、わたしは映画の背景に見惚れた。
「浮雲」が製作されたのは1955(昭和30)年、「放浪記」は1962(昭和37)年のことで、これは両方ともわたしがまだ高校生にもなってなかったころだ。
林芙美子は昭和の初めごろに活躍した人だけど、映画は背景までぜんぶセットを組んだわけではなく、街並みや建物などは製作当時の実景をそのままを使ったらしい。
映画のなかの景色はわたしの少年期により近く、これを見ていると懐かしい景色がまざまざとよみがえる。
女の人がまだひとりで和服を着られた時代、わたしも母親が自分で帯をぐるぐると巻いて、和服を着るすがたを覚えている。
そんな光景がなつかしいねえと思うのも、棺桶に片足突っ込んだトシのせいか。
こういう映画のなかには、CGや作り物でない本物のむかしが封じ込められているのだ。

| | | コメント (0)

2024年4月28日 (日)

ケイン号の叛乱

20240428

映画「ケイン号の叛乱」がテレビ放映されたので観た。
傑作とかいう評価があったような、ないようなという映画で、ようするにわたしもこれまで関心を持つような、持たないようなという中途半端な映画で、真剣に観たのは今回が初めてである。
観るまえは、似たような映画にバウンティ号の叛乱というのがあったから、てっきり帆船時代の映画かと思っていた。
そうではなく、第2次世界大戦のころの映画で、タラップで艦橋に登ったり、頑丈な鉄製の防水隔壁などの艦内装備が、ちょうどわたしが自衛隊にいたころ乗り組んでいた艦と同じようなものだったから、そういう点では興味が湧いた。

ケイン号は軍艦であるものの、これは戦争映画ではなく、一種の法廷劇である。
無能な艦長に操られて座礁しかける艦を、無理やり艦長を交代した副長が救うんだけど、そのために副長は軍規違反で叛乱者の汚名を着せられ、軍法会議にかけられる。
軍隊で叛乱の罪は重く、有罪なら絞首刑だ。
ただわたしなんかが見ると、この程度で絞首刑はひどすぎるような気もする。
いくら軍隊といえども、緊急時で、双方の言い分が対立する場合、有罪としても禁錮◯◯年で済むんじゃないか。

それはともかく、最初のうち相手の検事(軍法会議だから検事も弁護士も軍人である)が有能で、おまけに味方だと思っていた軍人が裏切ったりで、副長のほうは分が悪い。
しかし最後になって副長の弁護士が当事者の艦長を追及し、艦長の無能ぶりを暴く。
つまりハラハラさせながら、最後の土壇場で形勢逆転のある、そういう話なのかと思った。
しかしそれにしてはハンフリー・ボガートの演じる艦長が、追求されるとまもなくポケットから鉄製の玉を取り出し、手で弄ぶという異常者の本質をさらけ出して、これではあっけなさすぎる。
映画「ニュルンベルク裁判」にもモンゴメリー・クリフト演じる異常者が登場するけど、そっちのほうは執拗な追求に耐えきれなくなって、徐々に知恵遅れを発揮するところが真に迫っていた。

こんなふうに簡単に形勢が逆転してしまったので、わたしは期待したほどいい映画ではないと思った。
ところがこの映画の主題は、軍法会議で勝った負けたではなかったのだ。
無実を勝ち取った副長らが乾杯をしているところに、弁護を担当した軍人があらわれて、勝ったことは勝ったけど、後味が悪いという。
じつはこの映画の主要テーマは、軍隊というところは上官がどんなに無能でも、おとなしく従うところなんだということだったのである。
そういわれれば、似たような例はいくらでもある。
ウクライナで兵士たちがむざむざ死んでいくのもそうだし、日本の首相のもとに役人の原稿を読むしかない政治家が集まったり、南アフリカに飛ばされるのが怖くて従順なアナばかり揃った某公共放送など。
最後まで観てようやく傑作たる所以がわかった。

| | | コメント (0)

2023年12月10日 (日)

復讐の荒野

20231210b

録画しておいた「復讐の荒野」という西部劇を観た。
モノクロの古い映画だけど、むしろこういう映画のほうが、まだアメリカの良心が残っていたころに作られたということで、安心して観られる(ことがある)。

これもちょっとひねるのが得意のアンソニー・マン監督の作品で、善悪のはっきりした単純な西部劇ではなく、想像していたよりおもしろかった。
主演は、わたしの歳ではあまり縁のなかった、バーバラ・スタンウィックという女優さんで、彼女が西部劇版のモンテ・クリスト伯爵を演じるという、意表をついたウエスタン。
ドンパチもあることはあるけど、映画の後半は恋人を無理解な父親に殺されたヒロインが、その復讐をしようと決心し、それも武器を使うわけではなく、父親が発行した牧場の債権を失墜させて大損をさせるというトレーダー的やり方。
マン監督はここでも敵対する人間同士の一方だけをワルとは描かず、いずれの側も血の通った人間として描いている。
少々荒っぽい筋書きも目立つけど、最近のウクライナ戦争のように、単細胞的な世界観のアメリカよりよほどマシだ。
人々を納得させるには公平で客観的な姿勢というものがなにより必要なんだよと、あ、これは日本の公共放送へ。

ところでBSのプレミアムがどっかに行っちゃったね。
4Kというところに移動したらしいけど、うちのテレビじゃ映らないらしい。
いまさらわたしみたいなじいさんが、家電メーカーとNHKの謀略にのせられて新しいテレビを買っても仕方がないし、精緻な画面で偏向報道を見せられるのもイヤだから、たぶん死ぬまでこのまま。

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧