壮絶の映画人生

2018年9月18日 (火)

緑の光線

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たまには新しい映画だって観るぞというわけで、4、5日まえに録画しておいた「緑の光線」という映画の感想。
出てくる女の子たちの服装や水着がいま風なので、新しい映画だろうと思ったけど、調べてみたら1985年の公開だったから、もう30年以上もまえの映画だ。
映画には詳しいつもりのわたしがぜんぜん知らなかったフランス映画である。

最初に早送りでざっとながめたら、アスリートみたいなアメリカとは異なる、もっと女らしいきれいな女優さんの水着シーンがあったので、ついつい最後まで観てしまった。
以前に観た「ストレンジャー・ザン・パラダイス」みたいな脱力系の映画だった。
ぽわんとした娘がバカンスを利用して、シェルブールまで海水浴に行くんだけど、べつに刺激的な事件が起こるわけでもなし、ぽわんとしたまま結末を迎えるだけ。
刺激的な映画ばかりの昨今では、そのぬるま湯につかったようなのんびり感がかえって新鮮というやつ。

主演女優はきれいだけど、これにからむ男がどうも頼りないやつらばかりだ。
なんでもほんの少数のスタッフだけで、16ミリカメラで撮影されたゲリラ的な映画だというから、予算をケチって、そのへんの素人に出てもらったんじゃないか。
でも予算をかけるばかりが映画じゃない。
ゴダールだって低予算でいい映画を作ってるし、そういうことでは伝統のあるフランスだ。
そういえば登場人物のさして重要ではない会話や、カレンダーで日にちの推移を表現するところなど、ゴダール的風景が随所にあらわれるのは、この監督もヌーベル・バーグの申し子である証拠なんだろう。

さて、映画のヒロインのこと。
きれいな娘だけど、なぜかひとり旅である。
どうも理屈が先に立っちゃう娘のようで、友人たちと食事をしても、あたしってベジタリアンなのと、食事に水を差すようなことを平気でいってしまう。
アヴァンチュールに興味がないわけじゃないんだけど、いざとなるとなかなか踏ん切れない。
海辺でおっぱい丸出しのスウェーデン娘と出会って、もっと自由に生きなくちゃなどとはっぱをかけられても、やはり煮え切らない態度。
いるねえ、こういうタイプ。
このへんは、ひとり旅を愛するわたしにも理解できる部分がある。

ひとり旅って優雅であるけど、倦怠や疎外感におそわれることもしょっちゅうあるのだ。
素敵な女の子との出会いでもないかと期待して、やたらにあちこち彷徨してみても、現実にはなかなかそういうことはない。
ましてニートの傾向があるし、わたしって。
そんな個人的なことはどうでもいいけど、なにも起こらないってのがおおかたの女性の現実だろうし、監督が描きたかったのは、こういうありふれた女性を通して、現代の孤独を追求することだったのかもしれない。
でも工夫もスリルもあるわけじゃない。
女優さんがアメリカ型で、厚着をした冬のニューヨークが舞台だったら、とても観たいと思う映画じゃないね。

いちゃもん大好き人間のわたしにいわせると、ちと気になる点も。
このヒロインは旅に出るまえに彼氏にふられたらしい。
でも電話での会話や、バカンス先で彼氏の別荘を貸してくれなどと頼んでいるところをみると、それまではけっこう親密な関係だったようである。
つまり彼女がすでに男を知っているとしたら、旅先での行動があまりにも潔癖すぎるのだ。
シナリオ的には、彼女を文学好きで、おくての女子大生にでもしたほうがよかったと思う。

ついに失望したまま彼女はパリに帰ることになる。
ところが駅で話しかけてきた男に、これが最後のチャンスというわけなのか、誘われるままにふたりで夕日を見に行くことにする。
で、ベッドインかと思うと、そういうシーンはぜんぜんなくて、夕日を眺めるだけで映画は終わり。
沈む夕日のなかに緑色の光が見えれば幸福になれるという言い伝えがあるそうで、これが映画のタイトルでもあるんだけど、彼女はじっさいにそれを見るから、このあとふたりは(たぶん)ホテルにもう一泊してシアワセになったんだろうなって、つまらない妄想をかきたてられるのは、わたしが下品すぎるのか。
ファッショナブルでロマンチックな映画だと信じている人たちには、すみません。

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2018年9月16日 (日)

朱旭さん

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今朝の新聞の訃報欄に朱旭さんの名前が。
小さいながらも写真つきだったので、わたしはすぐにこの人がわかった。
むかし中国語の勉強をしているころ、NHKの中国語講座でひょうひょうとした演技をみせていたおじいさんである。

この人はその後、日中共同制作の「大地の子」というドラマでも重要な役を演じていたけど、あいにくわたしは日本のそういう番組にはあまり興味がないので、へえ、あのおじいさんかと思ったていど。

ところがさらにそのあと、この人は中国映画の「變臉(へんめん)」という作品で、みたびわたしのまえに姿をあらわした。
はずかしいけどこれが、見終わったあと、大のおとなのわたしに涙ぼろぼろという感動作だったので、朱旭さんは忘れたくても忘れられない存在になってしまった。

わたしはいまでもときどき、大陸中国を旅していたころのことを思い出すけど、朱旭さんと、彼に(後継ぎのつもりで)買われた薄幸の少女のことも、そのたびに思い出してしまう。
もちろん彼らは映画のなかの架空の人物なんだけどね。

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2018年9月10日 (月)

華麗なる激情

また映画の話題だよ。
全方位的ブログをめざす当方としては、ネタが映画にばかり偏るのはいい気分じゃないけど、目下ひきこもり。
テレビから録画した映画を観るのが、金のかからないいいヒマつぶしなのだ。

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今回は法廷劇じゃないけど、カタそうな映画の第4弾だ。
先日テレビ放映された「華麗なる激情」って映画、チャールトン・ヘストンとレックス・ハリソンというアカデミー賞役者の共演した歴史大作だ。
「ベン・ハー」や「クレオパトラ」みたいに、豪華絢爛さを前面に押し出したコスチュームプレイ映画(最近のコスプレとは異なる)といっていい。
内容はうすうす知っていたけど、なんでもルネッサンス期の彫刻家ミケランジェロと、時の権力者ユリウス2世の対立を描いた作品だという。
派手な戦車競走があったり、半裸のきれいな姉ちゃんが出てくるわけでもなさそうだから、これまでじっくり観ようという気にならなかったのである。

でもじっさいにはなかなかおもしろかった。
監督は「第三の男」などで知られる巨匠キャロル・リードである。
彼はこの映画を喜劇として作ったのかもしれない。
たとえばシスティーナ大聖堂の天井画を依頼されたミケランジェロが、戦争大好きユリウスのところへ下絵を持ってくると、戦争中であるにもかかわらず、ふたりは芸術談義を始めてしまう。
部下たちが、相手が攻撃を開始しました、こっちも反撃したほうがよかないですかと進言してもおかまいなしだ。

またべつのシーンでは、高いやぐらを組んで、その上でミケランジェロが作業をしている大聖堂へ、ユリウスがとりまきを引き連れて礼拝にくる。
ミケランジェロはけっつまづいて塗料のバケツをひっくり返してしまう。
せっかくコスチュームプレイにふさわしいきれいな衣装を着た坊さんたちが、ペンキまみれになるところがおかしい。

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監督が意図してこういう映画にしようと思ったのなら、彼はなかなかの策士だ。
喜劇というものは、ほかの部分に手抜きすることなく、お金をたっぷりかけ、重厚な役者を起用し、まじめな顔でやったなかに、おかしい部分をさりげなく挟むのが、上質のテクニックだからである。

喜劇だとすれば、絵の構想を得るためにミケランジェロが、雲の形から啓示を得るといういいかげんなところや、個性派俳優のハリー・アンドリュースが、薄っぺらい人物を演じているのも納得できる。
「華麗なる激情」だなんて、大げさで、どこか感心しない映画のタイトルにも合点がいく。
そういうわけで、監督がどういおうと、わたしはこれは喜劇であると信ずるのである。
まじめなシーンが多すぎるのが欠点といえばいえるけど。

ただ、ぜったいに喜劇であると断言しにくいのは、じつはビデオデッキの不調で、2時間以上ある映画の最後の10分を録画しそこなったからだ。
その最後の10分間で、登場人物全員が殴り合いでも始めていれば、喜劇だという確信は不動のものになるのだが。

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そういうことはべつにしても、芸術に興味のある人には、へえ、ああやって描くのかって、当時のフレスコ画の制作風景を見られるのが楽しい。
ルネッサンス時代の壁画や彫刻、そして人々の生活ぶりも、随所で小道具、大道具として使われているので、そういうものを見るのも楽しい。

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2018年9月 7日 (金)

またまた法廷劇

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法廷劇の3弾だ。
録画するまえは、まさか法廷劇だとは思ってなかったんだけど、意外だったその映画のタイトルは 「ゾラの生涯」。
ゾラというのはフランスの文豪エミール・ゾラのことで、印象派の絵画と同時代を生きた人だから、ゴッホやゴーギャンと同じくらい古い人である。
映画も負けずおとらず古くて、戦前の1937年製だ (それでももうサイレントではないぞ)。

作家の生涯なんていうと、もう焼き冷ましの餅みたいに硬そうなイメージだけど、なんでそんなものを録画しようという気になったのか。
じつは主人公を演じているのが、ギャング映画の名作 「暗黒街の顔役」 で、主役をつとめたポール・ム二という人なのだ。
この人が生きているうちに、一度もこの人の映画を観たことがなかったくせに、わたしは彼のファンなのである。

作品ではなく、それを書いた作家の映画だから、もちろんぜんぜんおもしろそうではない。
でも観てみたら、まずのっけから若いころのゾラが、どこかひょうきんな若者として描かれ、全体に軽いユーモアがあって、予想とは違っていた。
雨の中、彼がボロ傘をさして出版社に前借りに行くとちゅう、傘売りから新しい傘をすすめられると、古い友人と別れろっていうのかと、断るセリフがおもしろい。
このほか、画家のセザンヌとぼろアパートに同居していて、まだ未完の大器であるふたりのやりとりも興味深い。

まだ国民健康保険も失業保険もない時代だ。
売れない作家だったゾラが、セーヌに入水する娼婦や、落盤事故に遭う炭鉱労働者の悲惨な境遇を目の当たりにして、しだいに社会主義にめざめていくようすが要領よく語られる。
やがて彼は 「ナナ」 という、娼婦を描いた小説でベストセラー作家になるのである。

映画はゾラの生涯ということになっているけど、大部分を占めるのは、当時フランスをゆるがした、ドレフュス事件という冤罪事件の裁判がメインだ。
これは隊内にスパイをかかえたフランス軍が、その不名誉を隠匿しようと、ドレフュスという軍人に罪をかぶせた事件のことである。
作家のゾラは被告の無実を立証しようと、これは本当にあった話。
それにしてもこの映画のフランス軍の姑息なこと。
大戦中の日本軍の悪口ばかりいう人もいるけど、組織が大事、組織を守るためならインチキもでっちあげもアリだなんて、軍隊の本質なんて、どこの国でも変わらないじゃん。

まえに書いた 「私は死にたくない」 のように、この映画の裁判長も、ゾラ側の証人や証拠はかたっぱしから却下して、一方的にフランス軍の肩をもつ。
しかしこちらはもともと、裁判所が軍と結託してゾラの訴えを却下しようとした、不条理な社会情勢を描いているのだから、映画がわるいわけではない。

そういうわけで法廷シーンもなかなかおもしろいんだけど、ただ、なにぶんにも古い映画だから欠点もある。
軍の密命を受けたほんの数人のために群衆が扇動されたり、逆に英国に亡命したゾラの記事で、こんどは反対方向に扇動される民衆を見ていると、現代のアメリカを見るよう。
陸軍大臣が代わって、隠匿を続けた軍隊が処断されるあたりの事情がはしょってあって、これじゃまるで中・高校生むけの伝記映画ではないかと思える部分もある。

そんなわけで傑作なのかそうでないのか、わたしにはにわかに判断のできない映画なんだけど、この映画はこの年のアカデミー賞を総なめにしているから、おそらく傑作なんだろう。

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すばらしいと思ったのは、主役のP・ムニの演技で、裁判のとちゅうで自分の意見をとうとうと述べるあたりでは、もう完全に文豪になりきっており、ギャング・スターのイメージはさらさらない。
マシンガンをぶっ放していたときはスリムでイケメンだったのに、この映画では開高健さんみたいな、ずんぐりむっくりの老作家になっていた。
全体に軽いユーモアを感じるというのは、このどこか憎めない文豪の演技によるところ大だ。

ムニはおなじ年にパール・バックの 「大地」 の映画化でも主役をつとめているから、ギャングと中国の農民と文豪という、まったく異なるタイプの人間を演じわけたことになる(写真)。
ほんと、名優といっていい人なのだ。

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2018年9月 5日 (水)

また法廷劇

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法廷づいているけど、またひとつ法廷劇といっていい映画の話題。
こういう映画はカタすぎるのが欠点だけど、いい映画というものは硬くても柔らかくてもおもしろいと書いたばかりだ。
今度の映画はどうだろう。

その映画のタイトルは 「私は死にたくない」。
スーザン・ヘイワードという、もしも生きていればゾンビがふさわしい女優さんが出演しているくらいだから、そうとうに古い映画だ(1958)。
いまのわたしは、生きているうちに観ておかなくちゃといういきごみで、せっせと古い映画を引っ張り出しているんだけど、残念ながら新しい映画に、生きているうち観たいなんてのはほとんどないのである。

この映画のストーリーは、ドラッグ、詐欺、売春なんでもござれのあばずれ女が、やくざ仲間の背信で殺人事件の犯人に仕立てられ、ガス室で死刑になるまでを描いた、これは実話にもとづいた話だそうだ。

現代ならあばずれにふさわしい女優はいくらでもいるけど、ヘイワードさんは、ほっぺたのあたりがふっくらしたベビーフェイスで、良家のお嬢さんみたいなタイプなのが欠点。
でも考えてみると、これはビートルズ出現以前の映画なので、いまみたいに鼻ピアスにタトゥーのような、わかりやすいあばずればかりがいたわけじゃない。
いいうちのお嬢さんタイプが意表をつく汚れ役ということで、ヘイワードさんはこの年のアカデミー賞をもらっていた。
アカデミー賞をもらっているからいい映画なのかといわれると、さてね。

団塊の世代には心地よいていどのスピードで物語は進行し、映画は中盤から先は裁判と刑務所内部の描写になる。
あちらでは弁護士が途中で逃げ出してもいいのか、アメリカの女性刑務所では囚人もきれいにお化粧してんなとか、つまらないつっこみを入れたくなるのはさておいて、たまげたのは死刑に使う毒ガスを、執行の当日に、刑務所内で薬品を調合して発生させること。
まるでオウム真理教だけど、その手順まで詳細に描かれること。
そういうものは外部から、タンク入りのものを買ってくるか、ガス管を伝って送ってくるのだろうと思っていた。

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ヘイワードさんの死刑理由は、強盗に入って老婆を撲殺したってことなんだけど、肝心の犯行シーンは省略されている。
強盗仲間の男が司法取引をして、べらべらしゃべって彼女に罪をおっかぶせるんだけど、じっさいに彼女が殺してないなら、男のいってることはすべてでたらめということになる。
そもそも証拠がないくせに、同じ犯行に加わった男のひとりがいったことを、全部信じてしまうなんてことが、あちらの裁判ではあるのだろうか。

また彼女は罪をまぬがれるために、窮余の一策で、外部の男にアリバイ工作を依頼するんだけど、じつはこの男は警察官で、巧妙に仕組まれたおとり捜査であったことがわかる。
しかし彼女の立場であれば、おとり捜査にひっかかってしまうことは十分考えられるのに、あちらの陪審員はそういうことをまったく考慮しないのだろうか。
わたしが 「十二人の怒れる男」 のひとりなら、ゼッタイに異論をとなえるぞ。

まあ、むかしの米国の司法というものはそういうもので、警察官は早く家に帰りたいし、陪審員もいま以上に馬鹿ばっかりだったのだといわれれば、返す言葉がないけれど。
どうもすこしでも納得できないところがあると、わたしの映画評はそれだけで厳しいものになってしまうのだ。

だいたいこの映画では、最初から彼女のガス室は既定方針で、すべてがそっちの方向にすすんでいるようにみえる。
彼女にとって重要な証拠になるはずの手紙は裁判長に却下されてしまうし、彼女の精神分析をして無実を確信する精神科医は、なにもしないうちに病死してしまう。
彼女にとって有力なアリバイ証人になるはずの亭主も、どうしてそうなるのかよくわからないうちに、翌日の新聞になすすべもなかったと書かれる始末。
そのくせ相手方の、憎々しそうな弁護士が持ち出す証拠はみんな採用だ。

精神科医の話を聞いて、ひとつ彼女の記事を書いてみようという、正義の味方みたいな新聞記者もあらわれるんだけど、これは小太りのおっさんだから、これでは彼女の美貌に狂ったたんなるすけべ親父にしかみえない。
このおっさん、最後に死刑囚から手紙を託されるんだけど、無罪でも証明する手紙かと思ったら、べつに意味もない手紙で、それじゃカポーティみたいに小説でも書くのかと思ったら、それもない。

「ニュルンベルク裁判」 を観たあとでこれを観ると、脚本の弱さがはっきりわかるよな。
それでもヘイワードさんの色気だけは観る価値がある、そういう映画。

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2018年9月 1日 (土)

ニュールンベルグ裁判C

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なんとしても第三帝国のもと法務大臣の罪を問いたい軍人検事のリチャード・ウィドマークは、つぎにフェルデンシュタイン事件の一方の当事者をかつぎ出した。
この事件は、あるユダヤ人がドイツ人の少女を誘惑して、イヤらしいことをしたというもので、当時はアーリア人(ヒトラーが勝手に定めたドイツ人のこと)と他の民族との混交は法律で禁止されていたから、このユダヤ人は問答無用で死刑になった。

ところが被害者であるはずの少女にいわせると、状況はぜんぜん異なる。
少女とユダヤ人は年の離れた、ただの仲のよい隣り同士で、あちらの国だから、たまにはほっぺたにキスをしたり、ひざに乗ったりする。
それだけの関係だと主張したにもかかわらず、ユダヤ人は処刑されてしまった。
このときの裁判で死刑判決にOKを出したのが、B・ランカスター扮する、もと法務大臣のエルンスト・ヤニングだったのである。

Nbe13

軍人検事は、もうそんな事件のことは思い出したくないという、すでにいいトシのおばさんになっている少女を説き伏せて、証言台に立ってもらう。
このおばさんを演じたのは「オズの魔法使い」の子役であり、「スタア誕生」のミュージカル・スター、ジュディ・ガーランド。
わたしには子役時代の可憐な少女か、スリムなダンサーのイメージしかないんだけど、この映画ではあごに肉のついた貫禄のあるおばさんになっていた。

Nbe06

なにもイヤらしいことはしていません、あなたの言わせたいことはしていませんと、おばさんは必死で説明をするんだけど、ここでも熱血弁護士の反論は容赦なく、なにがなんでもワイセツ事件を印象づけようとするものだから、ついに彼女は泣き出してしまう。
そのときだ。
これまでずっとだんまりを続けていたヤニングが、すっくと立ち上がって、叫んだ。
「いいかげんにしろ」
「何度同じことをいわせるんだ」

この部分は映画「ニュールンベルグ裁判」の最大の山場で、劇的効果は絶対満点、耐えに耐えたヤクザの健さんが、ついに相手の組に殴り込むような痛快感がある。
考えてみると、ユダヤ人が死刑になった裁判のとき、まだ少女だったおばさんは、ヤニングのまえで同じことを何度も訴えたはずなのだ。

このあとは急転直下だ。
ヤニングはすべての罪を認めてしまう。
被告席に座った同僚の罪をあばき、そんな同僚たちに協力した自分の罪をあばく。
ドイツ人が大量虐殺を知らなかったはずがない、それを知らなかったとしたら、自分たちはいったいどこにいたのか、わたしは愛国のために盲目になっていたと、彼の悔恨はとどまるところを知らない。
この場面、「独裁者」におけるチャプリン顔負けで、時計を測ってみたらヤニングは5分半近くもひとりでしゃべりっぱなしだった。

被告が罪を認めてしまったら、裁判はふつうそこで終わりである。
映画もここで終わったら、シロクロのはっきりした映画ということで、観衆は喜ぶかもしれないけど、作品の価値はいくぶんか目減りしたかもしれない。

逆に追いつめられることになった熱血弁護士マクシミリアン・シェルはどうするか。
アカデミー主演男優賞を獲得するには、ここでひっこんではいけないのである。
彼はニュルンベルク裁判を、もっと普遍的な、全人類の罪という方向に転換させるのだ。
映画の中にユダヤ人の死体が山をなすホロコーストの実写映像がはさまるけど、これを許したのはヤニングひとりの責任ではなく、傍観していた世界中の人々にあるのではないかと、彼は法廷で力説する(彼の演説も3分以上ある)。
これは、たとえば北朝鮮の無慈悲な独裁者を放置している、現代に生きるわたしたちへの問いかけでもあるだろう。

Nbe10

彼らがこんな演説をぶっているあいだにも、時代は刻一刻と変化する。
田舎判事が判決を出すまえに、ソ連軍がチェコに侵入したという連絡が入る。
冷戦の始まりだ。
こうなるとドイツ国民を味方につけたいアメリカの立場は微妙なものになり、判決も情状酌量の余地やむなしということになってしまう。
映画では最後に被告全員に終身刑が下されるんだけど、これは数年後に保釈という暗黙の了解つきなのだ。

裁判が終わるとちょっと気の抜けた感じがある「ニュールンベルグ裁判」だけど、最後は理性や信念だけではどうにもならない現実を、わたしたちに突きつけて終わる。
わたしも長年映画を観続けてきたけど、これほど感動した作品はあまりないね。
やっぱり生きているうちに観といてよかった。

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2018年8月31日 (金)

ニュールンベルグ裁判B

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最近の日本では、障害者に対する過去の強制不妊手術が問題になっている。
その是非はともかくとして、障害者や薄弱者に対する迫害は、過去にどの国にもあった。
だからナチスの断種(去勢)法はわるくないと力説するのは、熱血弁護士のマクシミリアン・シェル。

最初に証言台に立った老教授、彼は大学でヤニングの教師をつとめた人だけど、ナチスによってドイツの司法制度が崩壊していくさまをたんたんと説明する。
自分はそれに危機感を感じて教職をしりぞいたと、この教授の説明はしごく良識的なものだ。
しかし熱血弁護士は、この教授がそれ以前に、みずからすすんでナチスに入党したではないかと詰め寄る。
当時のドイツ人ならだれでもそうするよりほかはなかったと教授は弁解するんだけど、ああ、そうなんですかと、弁護士は手持ちのメモをわざとらしく破って捨てる。
わたしのいいたいことはこれだけですを強調するしぐさのようである。
つまり裁判というものは、いかに裁判官に自説を印象づけられるかで決まってしまうものらしい。

みかねた軍人検事のリチャード・ウィドマークが、異議ありで割り込み、熱血弁護士と取っ組み合いに・・・・はならんけど、このへんのやりとりは早くも手に汗にぎる迫力だ。

Nbe05

軍人検事は証人として、断種政策の犠牲者となったユダヤ人を法廷に呼ぶ。
このユダヤ人を演じたのが、ゲイじゃないかと噂された米国の人気俳優モンゴメリー・クリフトで、わたしの映画ライブラリーの中には、彼の出演作として「赤い河」、「地上より永遠に」、「荒馬と女」などがある。

ほんとにゲイだったのかどうか、ネットをいろいろ調べてみたけど、はっきりそうだと書いた記事はひとつも見つからなかった。
でもマッチョのロック・ハドソンでさえゲイだったのだから、わたし個人的にはモンティ(M・クリフトの愛称)もそうだったろうと思っている。
断種された被害者にゲイ役者を当てるというのは、適役といえなくもないではないか。

軍人検事が被害者を目のまえに置いてナチスの非道を訴えれば、熱血弁護士は被害者が精神的に不安定な薄弱児であることを暴露して、冒頭の、どこの国にも断種法はあったと反論するのである。
しかも彼がひきあいに出した法令は、アメリカの法学者が書いた文章だったから、軍人検事もたじたじだ。

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ここでは弁護士に追及されて、じょじょに自分の知恵遅れを露呈するモンティの演技が圧巻だ。
どことなく落ち着きがないものの、最初はまともに受けごたえしていたのが、弁護士の執拗な追及に耐えきれなくなって、顔をゆがめて絶叫するところは、キューブリックの「博士の異常な愛情」で、狂気を発するスターリング・ヘイドンの司令官と双璧だな。

この間、B・ランカスターふんする被告のエルンスト・ヤニングは、あいかわらずひとこともしゃべらない。
しかし拘置所にもどると、共闘しましょうとささやく他の被告に、きみに対等の口を聞かれるおぼえはないと一喝するから、その心情はあるていど理解できる。

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スペンサー・トレイシーの田舎判事は、裁判のあいまにコンサートに行ったり、そこで紹介されたドイツ人貴族の女性と食事をしたりする。
この女性役が、リリー・マルレーンの歌で知られるマリーネ・ディートリッヒだけど、彼女は現実にナチスを嫌って米国に亡命したドイツ人なのだ(残念ながらこの映画は、色気の介入する余地のないまじめな映画なので、彼女の百万ドルの脚線美は披露されない)。

彼女は田舎判事にいう。
わたしにはすべてのドイツ人が怪物ではないことを、アメリカ人に知らせる義務があります。
わたしの夫はドイツ軍の将軍でしたけど、ヒトラーを嫌っていました。
おかげで罪をこうむって、第三帝国の法律で粛清されました。
勝者による報復であったことはあきらかですと、目下ナチスの被告を裁いている最中の田舎判事にはぐさりとくるようなことをいう。

そして被告のヤニングについては、立派な人ですと支持をする。
ものごしは丁寧だけど、彼女もアメリカ人の判事に好感はもってないのである。
だから彼女の丁寧さはあくまで京都人のそれで、内心を隠したまま、冷ややかにコーヒーをそそぐのだ。

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彼女だけではない。
映画に登場するドイツ人たちは、悪いことばかりじゃなかったと、微妙な言い方でナチスを擁護する。
あの時代は食べ物にも事欠いていました。
でもヒトラーのおかげで仕事が増えました、道路も整備されましたなどと。
こんなドイツ人の話ばかり聞いて、判事のほうもいくらか影響されないわけにはいかない。

そんなこんなで、映画の前半は熱血弁護士の優勢勝ちというところだけど、さて後半は。
というわけで、このブログネタはまだ続きます。

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2018年8月30日 (木)

ニュールンベルグ裁判A

ちょっとまえに、これからは映画の話題が増えるかもと書いたけど、さっそく映画の話題だ。
わたしのDVDライブラリーの中から引っぱり出したのは、スタンリー・クレイマー監督の「ニュールンベルグ裁判」。
1961年の映画なので、映画に出演した俳優はいまひとりも生存していない。
映画のタイトルでは “ニュールンベルグ” だけど、現代では “ニュルンベルク” のほうが一般的なので、はっきり映画のタイトルとして使う場合以外はそれでいくことにする。
評判は聞いていたけど、じっくり観るのは初めてだ。

第二次世界大戦が終了したあと、ドイツのニュルンベルクでナチスの戦争犯罪を追及する裁判が行われた。
この映画では、戦争の直接の責任者ではなく、ナチスドイツの第三帝国で、法律を担当した責任者に対する裁判が描かれる。
つまり法が法を裁くわけで、堅っ苦しい映画になるという予感がありありだけど、よい映画というのはカタくてもヤワラカくても、たいていおもしろいものだから、悲観的になるのは早い。

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アメリカから裁判長を務めるために、スペンサー・トレイシー扮する判事が、まだ戦争の傷跡もいえないドイツ・ニュルンベルクにやってくる。
判事はメイン州の田舎出身という設定である。
自殺したヒトラーやヒムラーは別として、この時点でゲーリングやガルテンブルンナーら、戦争責任者の裁判は終了していたけど、法曹関係者の裁判については、彼以外にだれも裁判長を引き受けたがらなかったのだそうだ。

全体にがちがちの法廷劇であるけど、ほんのりユーモアの感じられるシーンも、ないわけじゃない。
田舎判事が街を散策しているとき、若い美人からなにかいわれ、ドイツ語のわからない彼が、なんていったんだろうとかたわらの人に尋ねると、“じゃあね、おじいちやん” だったことがわかり、残念ともなんともいえない表情をするところがおかしい。

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裁判は被告の罪状認否から始まる。
被告席にならぶのは、第三帝国時代のドイツ法曹界の重鎮が4人で、バート・ランカスター扮する、もと法務大臣だったエルンスト・ヤニングが最重要人物だ。
この映画は事実にもとづいているけど、ヤニング(ほかの登場人物もすべて)は映画のために創出された架空の人物である。
彼は第三帝国の法務大臣であったと同時に、ワイマール憲法を廃止して第三帝国憲法をつくった最高責任者だったから、いわばナチスの戦争犯罪に法的お墨付きを与えた人物といえる。
同じ立場の人間は現実にもいたのだろう。

ここでのB・ランカスターは、「ヴェラクルス」の粗暴なならず者ではなく、知性と重厚さをあわせ持った人物として描かれ、その存在感は圧倒的だ。
ヴィスコンティの「山猫」がこの2年後だから、ニュルンベルクの演技がシチリア貴族につながったのはまちがいがない(とわたしは思う)。

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そしてヤニングの責任を追及する、米軍軍属の検事リチャード・ウィドマークと、ヤニングの弁護を担当する、熱血のドイツ人弁護士マクシミリアン・シェル。

話が脱線するけど、熱血弁護士を演じるM・シェルを観て、なにかの映画でわりあいひんぱんに見たことのある役者だなと思った。
ところがググッてみると、彼の出演した映画で、わたしが観たことのあるのは 「トプカピ」、「遠すぎた橋」、「ジュリア」ぐらいしかなかった。
これは彼が「俺たちに明日はない」のウォーレン・ベイティに似ているので、わたしがカン違いをして、ふたりをごちゃまぜにしていたせいだった。
ちなみにシェルは「ニュールンベルグ裁判」で、1961年のアカデミー主演男優賞を受賞している。

この軍人検事と熱血弁護士が、被告の法的責任をめぐって丁々発止の論戦をくりひろげるんだけど、被告であるヤニングだけは、なぜか最初から黙して語らず、熱血弁護士にすべてを一任したようにみえる。
法律の専門家である彼は、自分の裁判を他人がどう裁くか、客観的に見極めようとしている設定かもしれない。

映画の前半は、第三帝国に存在した断種(去勢)法という非人道的な刑罰に、後半では、あるユダヤ人を抹殺するためにでっち上げられた事件に、ヤニングが関わったかどうかが問われる。
断種法の裁判には米国の人気俳優だったモンゴメリー・クリフトが、でっちあげ事件の裁判にはミュージカル・スターのジュディ・ガーランドが、そして法廷の外の重要人物としてドイツ人の女優マリーネ・ディートリッヒが出演している。

はじめから終わりまで論争ばかりのおカタい法廷劇だけど、息抜きのようにところどころに休廷中の場面がはさまり、当時のドイツの置かれていた状況が、市民の口を借りたりして語られる。
たとえば田舎判事は、ニュルンベルク滞在中に身のまわりの世話をしてくれるドイツ人夫婦に、この近くのバッハウを知っているかいとさりげなく尋ねるんだけど、彼らは知りませんと口ごもる。
バッハウは強制収容所があったところで、ユダヤ人の大量虐殺が行われたところだから、ふつうのドイツ人なら知っていても話したがらない場所だ。

こんな具合に、あちらこちらで終戦時のドイツ人の心境が描かれるけど、当時のドイツ人なら当然そうするだろうということばかりだ。
ストーリーをわかりやすくするための作為や、これっておかしいんじゃないのと矛盾を指摘できる部分がひとつもない。
だいたいわたしは、趣味があら探しというヒトのわるい男だけど、そんな人間からみても、見つかるアラがひとつもないのである。
この映画はまず脚本がすばらしい。

前置きが長くなったので、このブログネタはひとまずここまでにして、次回でまず断種法をめぐるやりとりに話をしぼってみよう。

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2018年8月23日 (木)

ホンドー

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また映画の話題で、先日テレビ放映された「ホンドー」という西部劇。
主演がジョン・ウェインだけど、あまり聞いたことのない映画だから、念のため録画してみた。
でもなんとなくいやな予感。
彼の映画で傑作と呼べるのは「駅馬車」や「赤い河」、「リオ・ブラボー」、「騎兵隊」あたりで、それ以降となるとマンネリという言葉がぴったりの作品が多い。
だからわたしは、ひとりの俳優の生涯のうちに、西部劇の隆盛から衰退までを体現した役者と、皮肉をこめて彼のことを呼ぶ。

ただ録画した映画の冒頭部分を観てみたら、アパッチの酋長がなかなかものわかりのいい人物として描かれていた。
これはひょっとすると、白人至上主義ではなく、アメリカ・インディアンを公平な見方で描いた映画かと思い、調べてみたら製作されたのは1953年になっていた。
ジョン・フォードがインディアンを、あまりに悪役として描きすぎたと反省の意味をこめて、「シャイアン」を作ったのは1964年だから、「ホンドー」の時代には、まだインディアンを被害者とするムーヴメントは起きてなかったと思う。

案の定、観ているうちにボロが出て、内容は通俗すぎて鼻持ちならないものになった。
アパッチは頼りない連中ばかりで、ものわかりのいい酋長、ものわかりのよくない後継ぎの酋長、獰猛なはずの飼い犬、これらはみんなあっけなく死んでしまう。
テレビ番組の「ガンスモーク」に出ていたジェームス・アーネスが、こすっからい白人の仇役で出ていたけど、彼もなにもしないうちに終わっちゃうし。
けっきょくジョン・ウェイン映画によくあるような、白人以外はその他大勢というレイシスト映画だった。

わたしがこの映画を録画しようと思った理由はもうひとつあって、このブログで「渇いた太陽」という映画について書いたとき、観ているだけでタノシイ年増女優と評価した、ジェラルディン・ペイジという女優さんがヒロインだったこと。
あのときの女優が、今度はどんな顔をして西部劇に出てくるのかと興味があったんだけど(じっさいにはこっちの映画のほうが古い)、彼女の役割も荒野で家庭を守るしっかり者の主婦という、よくあるパターンだった。
ウェインとのラブシーンも野暮ったいし、わたしの好きな女優さんだけど、この映画については残念な結果。

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2018年8月21日 (火)

また「モア」

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家のブルーレイ録画機がイカれた。
わたしにとって情報収集のために必要不可欠の機械なので、すぐさま新しいものを購入した。
値段は4万円くらいだから、そんなに高級品でもないけど、こういう機械も安くなったなあ(同時に小さくなった)と思う。
むかしならテレビの録画機がこんな値段で買えたはずがないと、VHSから8ミリビデオ、DVDまでの流れを知ってるおじさんは、しみじみ感慨にふけってしまう。

このあいだまで使っていたBD録画機は、むかしDVDで保存した映像を観ようとすると、縦横比が変わってしまうという欠点があった。
新しい機械ではどうかという実験のために、たまたま引っ張り出したDVDが、古い映画で「モア」。
最近の若者にはわからんと思うけど、ピンク・フロイドが音楽を担当したアレである。

今回の録画機では縦横比も調整できるので、その点は文句がなかった。
DVDだからもちろん画像はBDより粗いけど、ちゃんとしたサイズで観られるというだけで、映画好きにはありがたいのである。

前置きが長くなったけど、ついしみじみと最後まで観てしまった「モア」。
この映画については、以前にもこのブログに書いたことがある。
とくべつに素晴らしいわけじゃないけど、青春の思い出を回顧させてくれる映画、というのがわたしの感想だった。
劇場で初めて観たのが、わたしが20代のころで、いまのわたしはそろそろ棺桶に片足つっこむ歳だ。
なつかしい気持ちはいよいよつのる。

映画は、まじめな青年が麻薬におぼれて破滅するまでを描いたもので、彼に麻薬を指導するヒッピー娘が、すっぽんぽんをいとわないミムジー・ファーマー。
ヒロインを観てるだけで退屈しない映画もあると書いたことがあるけど、これもそのひとつだ。
マリファナやLSDに興味はあるけど、じっさいに体験する勇気のないわたしみたいなヒッピーかぶれには、代わって体験してくれるような映画だった。

映画の主舞台はスペインに近い、地中海にあるイビザ島というところ。
風光が明媚で、自由な雰囲気と独特の民族音楽などで、当時からヒッピーたちのたまり場として有名だったところだそうだ。
行ってみたいなと思ったけど、若いころのわたしには金がなく、行けるほど金ができたころは、もうヒッピーやってる歳じゃなかったし。

ネット上の映画評のなかには、だらだらしていてつまらないというものもあったけど、わたしはあらためて観て、それが最近のアップテンポでせせこましい映画に比べたら、かえってちょっとした文学作品にあたったみたいで、好ましいと思えるようになった。
同じ映画でもそれを観る人の重ねた年月が、評価をプラスにさせてくれることがあるものだ(逆のほうが多いんだけどね)。

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