壮絶の映画人生

2025年1月 5日 (日)

インドへの道

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この正月に観た英国映画の3本目はデヴィッド・リーン監督の「インドへの道」。
この監督は「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」などでお馴染みの、とにかくスケールの大きな歴史大作で知られた人である。
わたしは「ロレンス」あたりからこの監督を神聖視してしまって、「インド」はDVDが発売されると、映画館で観たことがない映画なのに、ためらわず購入してしまった。

金を出して買ったものは観なくゃもったいない。
そのときちらりと眺めてみたら、だんだん話が神秘的なものに傾く兆しがあらわれたので、そういう非合理的なものが大キライなわたしは、とちゅうで観るのをやめてしまった。
どうせインドの古い寺院で卑猥な石仏を見たヒロインが、インドの陽炎のしたで抱いた白日夢、というような映画なんだろう。
だいたい英国人がインドで期待することは、ビートルズがインドの乞食坊主にとりつかれたように、そういう神秘主義に決まっているのだ。

デヴィッド・リーンもおいぼれたかと思ったけど、今回はどうせヒマだし、正月に観た英国映画3部作にするつもりで、じっくり最後まで観た。
その結果、「インドへの道」は・・・・やっぱりクソだった。
クソを観るために3時間も費やして、損したワ。

映画の出だしはヒロインが英国から船でインドに出発する場面で、船会社のキップ売り場の会話など、いかにもリーン監督の映画らしく手慣れたもの。
彼女は判事としてインドに赴任しているいいなずけに会うために、いいなずけの母親と共にインドへ向かうのである。
インドへ到着したあと、さらに鉄道で彼氏の赴任先へ向かうんだけど、列車が闇夜の鉄橋を渡っていくシーンなど、いちどでいいからインドにも行ってみたかったわたしのノスタルジーをかきたてる。
残念ながらわたしがインドに行くことは、永久に見果てぬ夢で終わりそうだ。

デヴィッド・リーン監督は、歴史に翻弄される人間を描いた大作で観衆の度肝をぬいたものの、人々が冷静になると、その影響でアジア人、アラブ人を一等下の民族であると馬鹿にするレイシストであると評判が立ってしまった。
これではいかんと、死ぬまえにあわてて罪滅ぼしのために作ったのがこの映画らしい。
この映画では、無理やりインド人の肩を持ちすぎているようで、英国至上主義者の監督らしくない。
ちなみにこれはリーン監督の遺作で、製作は1988年、マイノリティに対する差別が世界的に抗議のムーブメントになり始めていたころの映画である。

ヒロインは好奇心がいっぱいで、インドへ着くとひとりで自転車に乗って、あちこち見物に行き、ある古い寺院で、男女のからみをあけすけに彫った石像を見てどぎまぎする。
英国には女性探検家クリスティナ・ドッドウェルのような冒険家の系譜があって、こんな勇敢な女の子もいたのだろう。
しかし最近のインドは女性に乱暴するレイプ犯が多いらしいから、ひじょうに危険なはずだけど、これは英国がインドを植民地として統治していたころの話で、中国の上海のような租界でも、現地人は欧米人に恐れ入っているところがあったから、あまり危険な目には遭わずに済んだらしい。

ヒロインといいなずけの母親は、インドで知り合った若いインド人の医師の案内で、有名な観光地である古い洞窟を見物に行く。
ここでいくつかの偶然が重なり、ヒロインは医師と2人だけで洞窟の内を見て歩くことになる。
そして不運な事件に巻き込まれるんだけど、さて、お立ち合い。
たとえばあなたが暗い洞窟のなかで、ちょっとステキな女の子と2人きりになったとき、あなた彼女いるの?なんて思わせぶりに迫られたとする。
こういうとき相手を押し倒して、その場で生殖行為にのめりこむというのは、男として自然な行為である。
いや、オレはそんなことはしないというカタブツ男がいたら、そりゃ病気だね、病院で診てもらったほうがエエ。

全部が全部、生殖行為に及ぶかどうかは別にして、そういう男がいたって不思議じゃないのである。
この映画の欠点は、そういう男の本能を無視しているところだ。
インド人の医師はヒロインを犯そうとしたという疑いをかけられて裁判にかけられる。
植民地時代のインドだから、宗主国の女性に手を出した男の罪は深い。
彼の親友のイギリス人だけは絶対にそんなことはないと、医師の潔白を言い張るんだけど、親友の無実を信じるのはいいとして、普通なら魔がさしてそういうことになってもおかしくないと考えるほうが自然ではないか。
また教養をひけらかしちゃうけど、サムセット・モームの「雨」という短編小説は、ついに誘惑に打ち勝てず、救うべき娼婦に手を出してしまった宣教師の話である。
ここはどうも医師に味方する英国人のほうに無理がある。

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このあと、なにがなにしてどうなったのか、裁判はヒロインが訴訟を取り下げることになって、急転直下で解決する。
そのへんが安直でぜんぜん感心しないけど、男に手ごめにされたいという被害妄想でも彼女にあったのだろうか。
リーン監督の映画の常連であるアレック・ギネスのインド行者も、彼は変人ですと紹介されている割には、全く神秘的なところがないフツーの人である。

晴れて無実を勝ち取ったインド人医師だけど、彼は自分が好きだったヒロインが、親友の英国人と結婚したと誤解していて、彼を許せない。
しかし映画のなかでは、医師とヒロインがそれほど親しい仲であるようには描かれてないし、医師はアラビアの砂漠で、かげろうの中から現れるオマー・シェリフのようなカッコいい人間でもない。
観光洞窟で誤解が生じるまで、彼らはヒロインがインドで知り合ったばかりの、ただの仲のよい友達関係だったのだ。
それがなんで恋敵みたいに恨みをあとに引きずることになるのか。
英国人が全く関係ない女性と結婚して、インドまで医師を訪ねてきたおかげで、ようやくこの誤解が晴れる。
それはまあ、いいとして、田舎の町の小さな事件が、どうして反英騒動にまで発展するのか、いくら歴史に翻弄される主人公を描いてきたリーン監督としても、ちと無理があるな。

わたしの部屋には現実のインドを捉えた「アラハバード・大沐浴」、「100万人の山車祭り」などのドキュメンタリー、映画でも「スラムドック・ミリオネア」、「ナヴァラサ」などのインド作品があるので、あとでじっくり観てみよう。
つまんない映画で時間を食ったけど、明日からはまたNHKの国際報道が始まるから、退屈しないで済むだろうけどね。

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2025年1月 4日 (土)

日の名残り

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正月に観た英国映画の第2弾。
だいぶまえに録画してあった「日の名残り」という映画である。
正直にいうと、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの原作(新聞にそう書いてあった)ということ以外に、この映画についてなにも知らなかった。
アカデミー賞にノミネートされてるんだぞという人がいるかもしれないけど、わたしって「ディア・ハンター」や「地獄の黙示録」あたりから、アカデミー賞をぜんぜん信用してないからね。

だいたい文学作品の映画化というと、(とくに日本の場合)ろくなものでないことが多いから、それだけで観たいという気が起きない。 
それで録画直後に早送りでざっと観てみたんだけど、すぐに気になる部分を発見した。
スーパーマン役者のクリストファー・リーブが出ていたことで、彼は不運な事故で首から下がマヒ状態になり、しばらくリハビリに励んでいたけれど、何年かまえに心臓発作で亡くなったはず。
そのリーブが元気なころのままだった。
これっていったいいつごろ製作された映画なのよ。
カズオ・イシグロがノーベル文学賞をもらい、日系人の作家だと騒がれたのは2017年のことで、わたしは「日の名残り」もその人気にあやかってつくられた映画だとばかり思っていた。
しかしリーブが事故に遭ったのは1995年のことだから、それ以前の映画ということになる。
どうも原作者のノーベル賞にこだわっていてはいけないらしい。

調べてみたら1993年の映画だった。
主演のアンソニー・ホプキンスにとって、これは「羊たちの沈黙」のわずか2年後の映画ではないか。
カズオ・イシグロって、けっこうむかしから有名な作家だったんだねと、余計な前置きはさておいて、じっくり観ると、いまどき珍しい外国映画でもある。

物語はある英国貴族の屋敷で働いていた執事と、同じ屋敷で働いていたメイド頭の女性のほのかな恋の物語。
第2次世界大戦まえから戦後にかけての2人の交友が、回想のかたちで交互にあらわれる。
こういう現在と過去が交差するスタイルの小説はけっしてめずらしくないし、傑作である場合が多い。
英国の作家サムセット・モームの代表作「お菓子と麦酒」もそうだし、森鴎外の「雁」もそうである。
ここで鴎外が出てくるのはあとあとの伏線なんだけどね。

日本人のわたしからすると、まず執事の仕事というものに興味がある。
リバプールから髪をふりみだした4人の青年が出現して、階級制度をひっかきまわしてしまったから、いまでもそうかは知らないけど、わたしたちは英国というと、すこしまえまで厳格な階級社会であったことを知っている。
この厳格さは貴族社会にかぎらない。
アーサー・C・クラークのセイロン島でのエッセイを読むと、英国の階級制度の恩恵は、作家や弁護士ごとき階級にも及んでいたことがわかるのである。
英国では、執事の機関紙まであるらしい。

日本にはそもそも貴族制度というものがなかったから、執事という仕事もなじみがない。
映画では執事の仕事がどんなものかを詳細に見られるのがよかった。
わたしは動物園でパンダを見るようにそれに注目した。
そうして思ったのは、英国の貴族ってホント、怠け者だなということ。
メンドくさいことは横のものを縦にもしないくらいで、そのくせ屋敷の中ではつねにネクタイとスーツ姿だ。
日本人は豪華な晩餐会や、美しい庭園、大勢で馬に乗ったキツネ狩りのシーンなどにあこがれるけど、その裏には見栄と虚飾に覆われた、我慢できない固っ苦しい生活があるのだ。
カズオ・イシグロさんはこういう点を逆手にとったのかも知れない。

執事は屋敷で絶大な権力を持っていて、使用人を雇ったりクビにするのも彼の仕事だ。
ある日、メイド頭として雇われたのがこの映画のヒロインてことになるけど、残念ながら彼女の仕事のほうは詳細に描かれているとはいいがたい。
彼女は屋敷のなかをうろうろするだけで、メイド頭という重責をしっかりこなしているようでもない。
メイドの仕事について知りたければ、サムセット・モームに「掘り出し物」という好短編もある。

いろいろと貴族の邸宅をのぞく楽しみのある映画だけど、第2次世界大戦が終わり、戦争中はナチスの肩をもった屋敷の持ち主も零落して、屋敷は成金のアメリカ人の手に渡る。
使用人たちもほとんどが解雇されて散り散りになる。
執事の首は新しいアメリカ人の主人のもとでなんとかつながったけど、ほのかにこころを寄せていたヒロインとは別れざるを得なかった。
そして戦後のある日、結婚して地方に移住していたヒロインが、亭主と別れたと聞いて、彼はもういちど彼女に会いに行く決心をする。
だんだん渡辺淳一か高橋治の空想恋愛小説みたくなってきたけど、この映画の欠点も目立ってきた。

ストーリーの大半は、戦前のヨーロッパの事情も、戦後のアメリカ人に買い取られた屋敷の話も、恋愛ドラマの構築のためにとってつけたようなもので、あまり意味のあるものとは思えない。
主役を演じたアンソニー・ホプキンスは、どうもレクター博士の印象が強すぎて、こういうタイプに女性が惚れるだろうかという疑問がある。
主人公とヒロインが、読んでいる本をめぐって、暗い一室でふざけ合うところなんか、一歩間違えばホラーになってしまいそう。
自然に相手に惹かれていく心理描写もうまく描かれているとはいえない。
感心したのは、最後に2人が再会して、そのままなにごともなしに雨の中で別れるシーンのみだ。
この場面だけは“日本人なら”ジーンと来るだろう。

ふと思ったのだけど、カズオ・イシグロが日系の作家であるとするなら、「日の名残り」というタイトルはなかなか意味深長じゃなかろうか。
大胆な仮説だけど、このタイトルを“日本の影響”という意味にとれば、作品が日本文学のよい伝統から完全に脱却していないことを、タイトルが暗示しているともいえるからである。
つまりこの小説では、伝統的な日本文学にみられる、遠慮や気遣い、しっとりとした情感のようなものが描かれているからである(わたしにはそう思える)。
映画が終わったあと、わたしは森鴎外の「雁」を読んだとき感じたような、せつない感傷におそわれた。

なにかを期待していたのに、けっきょくなにも(濃厚なベッドシーンも)なく終わるという小説は、欧米の文学にはかってなかったものじゃないかね。
ハルキ君に教えてやらなくちゃ。
ノーベル文学賞をもらいたかったら、ぜんぜん日本とは歴史も文化もちがう国に行って、その国の特異な風習を紹介しつつ、なおかつ日本文学のよさを失わない小説を書くんだね。
中国かロシアなんてどうだろう。
中国には「金瓶梅」があり、ロシアには浮気女の系統小説があるけど、両方とも遠慮しないで行き着くとこまで行ってしまう小説で、日本のおくゆかしさとは無縁だ。

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2025年1月 3日 (金)

わが命つきるとも

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夏目漱石の正月の災難が、年始の客の相手をしなければいけないことだったそうで、そういう点でひきこもりのわたしは優雅なもの。
うるさいかみさんもやかましいガキもいないし、わざわざ訪ねてこようという酔狂もいないので、年末から正月にかけては、静かで落ち着いた正月をすごしているけど、3日も4日も部屋にとじこもっているのは大変なので、こういう機会にふだんあまり観る機会のない映画を観ることにした。

録画コレクションから引っ張り出したのは、フレッド・ジンネマン監督の古い映画で「わが命つきるとも」。
1966年のアカデミー賞受賞作品だ。
まえに「エルマー・ガントリー」のときにも書いたけど、若いころ、いい映画だとわかっていても、内容が固そうなので観る気のしない映画というのがいくつかあった。
これもそのひとつで、英国の暴君ヘンリー8世と、彼に抗議して処刑された大法官のトーマス・モアの史実を映画化したものである。
この正月にじっくり観て、固くてもおもしろい映画ってあるんだねと、あらためて思った。
いいや、年をとったせいで、ようやくそういう境地に達したのかも知れない。

冒頭に枢機卿(すうきけい)の使者がやってくると、ちょうどトーマス・モアは、家族や近所の主婦たちを集めて世間話をしているところだった。
父親のいない子供の半分は司祭の子だそうだと、これはまたなかなか世情にもたけた、話のわかる大法官だなと思ってしまう。
この大法官さまが、国王のヘンリー8世が教義を破って新しい女と結婚すると言い出すと、それはダメですと猛烈な原理主義者ぶりを発揮する。
これを観て、モアはまるでわたしみたいだなと思った。
わたしもウクライナ戦争でロシアを擁護することでは、頑固で、けっして譲らない原理主義者なのだ。

しかしウクライナ戦争でもロシアにはロシアの言い分があるように、この映画でも国王の側からの言い分もあるだろう。
ヘンリー8世は北朝鮮の正恩クンのような暴君だけど、それでも男子の世継ぎが欲しいという切迫つまった事情があった。
よろこび組のきれいな姉ちゃんを、取っ替え引っ替えしたかったばかりじゃなかったのだよ。

映画ではヘンリー8世は、変に律儀なところがある人物として描かれている。
彼はモアのガンコさに手をやいているものの、その曲げない姿勢を愛しており、なにがなんでも自分の思い通りに相手を屈服させようとする。
気にいらないならさっさと処刑してしまえばいいものを、百点満点をとるまで納得しない偏執狂みたいな人物として描かれているのだ。
かくして、なにがなんでも相手を屈服させなければ承知しない暴君と、融通のきかない原理主義者のガチンコ勝負は延々と続くことになる。

トーマス・モアの敵役として登場するのが、国王にゴマをするのが得意の官吏であるトーマス・クロムウェルだ。
長いものには巻かれろと、要領よく世間を渡っていくタイプで、世間にはこういう人間のほうが多い。
どこかおかしいと思っても、局の方針に逆らえないNHKのアナなんかもそうかも知れない。
気のドクなアナウンサーを責めても仕方ないから、これ以上いわない。

モアやクロムウェルは、名前ぐらいしか知らなかったので、あらためて勉強してみた。
たかが映画を観るために大英帝国の歴史まで勉強するのだから、いい映画にかけるわたしの情熱も偏執狂的である。
このころの英国の王室の歴史は、国家間の紛争や世継ぎ争いの陰謀や、似たような名前の王様が入り混じって、ひじょうにわかりにくい。
いちど観ただけでは内容がサッパリだから、また例によってパソコンやタブレットで難解な部分を調べてみて、登場人物の経歴や関係をすっきりさせてからもういちど観た。
これだけやればたいていの馬鹿にも理解できるだろうけど、そのくらいおもしろい映画だったんだよ。

いい映画であることはわかったけど、わたしはあいにく無神論者だし、お稲荷さんや仏さんの支配下にある日本人としては、いささか理解に苦しむ部分もある。
ありていにいわせてもらえば、女房や娘の、家庭を守ってえ、もうすこし妥協してえという願いさえ無視するモアのガンコぶりには、病的なものを感じてしまうのだ。
森鴎外なんて、聖者としてあがめられた尼さんを、 「PERVERSE(倒錯者)の方角に発揮したに過ぎない」とさえいってるぞ。
全体に軽いユーモアがあるから救われているけど、こういう人物を尊敬できるかというと、日本なら小言幸兵衛さんみたいに落語のネタにされるのがオチ。

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映画のいちばん大きな見せ場が、当時の教会における審問裁判所の裁判のようすである。
このシーンは徹頭徹尾、当時の裁判所のありさまをリアルに再現してあって、赤い服の司祭が壇上にならび、被告、検察官、陪審員、見守る人々など、史劇にふさわしいコスチュームプレイ映画になっている。
とはいうものの、ここまでひとつだって合戦シーンや、裸のオンナの人が出てくるわけじゃない。
それでもモアとクロムウェルの、丁々発止のやりとりは手に汗をにぎるおもしろさ。

しかし、さてさてである。
クロムウェルによって人民裁判のように吊し上げをくらったモアはいう。
『これはキリストが地上におわしたとき、救世主自らの口で、聖ペテロとローマ司教に授けた言葉である』
『その言葉こそがこの地上における聖職者推薦権だ』
『従って首長令でキリスト教徒を服従させるのは不適切である』
『さらに教会の治外法権は、マグナカルタと戴冠誓約で保証されている』
こんな言葉を並べられても、宗教研究者でもなく、キリスト教と縁もないわたしにわかりようがない(観ているイギリス人にだってたぶんわからない)。
しかしこの映画の着目点はべつにある。
これはもともとは舞台劇だったそうだけど、舞台の上で役者がこんな言葉でやりあったら、意味がわからなくても観客にはたいそうな迫力だったんじゃないか。
そして最後にモアが絶叫する、「(わたしの罪は)国王の結婚を認めないからだ」という言葉は人間的で理解しやすい。

映画はモアが作法にのっとって、ロンドン塔で首をはねられる場面で終わりだけど、さらにその後の人々の運命がナレーションで簡潔に語られる。
モアを罪に落としたクロムウェルも、数年後に謀反の罪で斬首され、ヘンリー8世もそのうち梅毒で亡くなったというのである。
無神論者のわたしは、いったいあの騒動はなんだったのかといいたくなってしまう。

内容に感心しない部分はあったものの、それを無視して、セリフのやりとりを楽しむ舞台劇だと思えば、「わが命・・・」はひじょうにいい映画だった。
さて、日本のトーマス・モアであるわたしは、今年もロシア擁護でガンコぶりを発揮することになるのか。
しかしガンコさでいえば、いまだにゼレンスキーさんをプッシュするNHKや、ウクライナを可哀想な弱小国と信じる大半の人たちもいっしょだよ。
今年もまだガチンコ勝負は続きそうだな。

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2024年9月21日 (土)

浮雲と放浪記

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たまには映画のことでも書こう。
先日、成瀬巳喜男監督の「浮雲」がテレビで放映されたので、ひさしぶりに日本映画をじっくり観たけど、ヒロインを演じる高峰秀子のステキなこと。
この映画は林芙美子の原作の映画化で、ついでに部屋にあった同じコンビの「放浪記」を引っ張り出してみた。
じつはわたしが観たのは「放浪記」が先で、高峰秀子を名優と思ったのもその映画のせいだ。

「放浪記」のなかに貧乏娘の芙美子が、職を求めてあちこち当たってみる場面がある。
たまたまある会社で簿記の仕事を得るんだけど、じつは芙美子にまるで経験のない仕事で、当然ながら1日やっただけで出社に及ばずという電報をもらってしまう。
情けないというか、ふてくされるというか、この場面はわたしが本を読んで想像していた林芙美子に、まさにぴったりだった。
うまい役者だねえと思ったのはこの映画のせいだ。

うまい役者はさておいて、「浮雲」「放浪記」とも、最近のせせこましい映画がニガ手の、わたしみたいな年寄りの感性にぴったりの進行スピード。
このふたつの映画を観ながら、わたしは映画の背景に見惚れた。
「浮雲」が製作されたのは1955(昭和30)年、「放浪記」は1962(昭和37)年のことで、これは両方ともわたしがまだ高校生にもなってなかったころだ。
林芙美子は昭和の初めごろに活躍した人だけど、映画は背景までぜんぶセットを組んだわけではなく、街並みや建物などは製作当時の実景をそのままを使ったらしい。
映画のなかの景色はわたしの少年期により近く、これを見ていると懐かしい景色がまざまざとよみがえる。
女の人がまだひとりで和服を着られた時代、わたしも母親が自分で帯をぐるぐると巻いて、和服を着るすがたを覚えている。
そんな光景がなつかしいねえと思うのも、棺桶に片足突っ込んだトシのせいか。
こういう映画のなかには、CGや作り物でない本物のむかしが封じ込められているのだ。

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2024年4月28日 (日)

ケイン号の叛乱

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映画「ケイン号の叛乱」がテレビ放映されたので観た。
傑作とかいう評価があったような、ないようなという映画で、ようするにわたしもこれまで関心を持つような、持たないようなという中途半端な映画で、真剣に観たのは今回が初めてである。
観るまえは、似たような映画にバウンティ号の叛乱というのがあったから、てっきり帆船時代の映画かと思っていた。
そうではなく、第2次世界大戦のころの映画で、タラップで艦橋に登ったり、頑丈な鉄製の防水隔壁などの艦内装備が、ちょうどわたしが自衛隊にいたころ乗り組んでいた艦と同じようなものだったから、そういう点では興味が湧いた。

ケイン号は軍艦であるものの、これは戦争映画ではなく、一種の法廷劇である。
無能な艦長に操られて座礁しかける艦を、無理やり艦長を交代した副長が救うんだけど、そのために副長は軍規違反で叛乱者の汚名を着せられ、軍法会議にかけられる。
軍隊で叛乱の罪は重く、有罪なら絞首刑だ。
ただわたしなんかが見ると、この程度で絞首刑はひどすぎるような気もする。
いくら軍隊といえども、緊急時で、双方の言い分が対立する場合、有罪としても禁錮◯◯年で済むんじゃないか。

それはともかく、最初のうち相手の検事(軍法会議だから検事も弁護士も軍人である)が有能で、おまけに味方だと思っていた軍人が裏切ったりで、副長のほうは分が悪い。
しかし最後になって副長の弁護士が当事者の艦長を追及し、艦長の無能ぶりを暴く。
つまりハラハラさせながら、最後の土壇場で形勢逆転のある、そういう話なのかと思った。
しかしそれにしてはハンフリー・ボガートの演じる艦長が、追求されるとまもなくポケットから鉄製の玉を取り出し、手で弄ぶという異常者の本質をさらけ出して、これではあっけなさすぎる。
映画「ニュルンベルク裁判」にもモンゴメリー・クリフト演じる異常者が登場するけど、そっちのほうは執拗な追求に耐えきれなくなって、徐々に知恵遅れを発揮するところが真に迫っていた。

こんなふうに簡単に形勢が逆転してしまったので、わたしは期待したほどいい映画ではないと思った。
ところがこの映画の主題は、軍法会議で勝った負けたではなかったのだ。
無実を勝ち取った副長らが乾杯をしているところに、弁護を担当した軍人があらわれて、勝ったことは勝ったけど、後味が悪いという。
じつはこの映画の主要テーマは、軍隊というところは上官がどんなに無能でも、おとなしく従うところなんだということだったのである。
そういわれれば、似たような例はいくらでもある。
ウクライナで兵士たちがむざむざ死んでいくのもそうだし、日本の首相のもとに役人の原稿を読むしかない政治家が集まったり、南アフリカに飛ばされるのが怖くて従順なアナばかり揃った某公共放送など。
最後まで観てようやく傑作たる所以がわかった。

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2023年12月10日 (日)

復讐の荒野

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録画しておいた「復讐の荒野」という西部劇を観た。
モノクロの古い映画だけど、むしろこういう映画のほうが、まだアメリカの良心が残っていたころに作られたということで、安心して観られる(ことがある)。

これもちょっとひねるのが得意のアンソニー・マン監督の作品で、善悪のはっきりした単純な西部劇ではなく、想像していたよりおもしろかった。
主演は、わたしの歳ではあまり縁のなかった、バーバラ・スタンウィックという女優さんで、彼女が西部劇版のモンテ・クリスト伯爵を演じるという、意表をついたウエスタン。
ドンパチもあることはあるけど、映画の後半は恋人を無理解な父親に殺されたヒロインが、その復讐をしようと決心し、それも武器を使うわけではなく、父親が発行した牧場の債権を失墜させて大損をさせるというトレーダー的やり方。
マン監督はここでも敵対する人間同士の一方だけをワルとは描かず、いずれの側も血の通った人間として描いている。
少々荒っぽい筋書きも目立つけど、最近のウクライナ戦争のように、単細胞的な世界観のアメリカよりよほどマシだ。
人々を納得させるには公平で客観的な姿勢というものがなにより必要なんだよと、あ、これは日本の公共放送へ。

ところでBSのプレミアムがどっかに行っちゃったね。
4Kというところに移動したらしいけど、うちのテレビじゃ映らないらしい。
いまさらわたしみたいなじいさんが、家電メーカーとNHKの謀略にのせられて新しいテレビを買っても仕方がないし、精緻な画面で偏向報道を見せられるのもイヤだから、たぶん死ぬまでこのまま。

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2022年9月24日 (土)

エルマー・ガントリー

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わたしの部屋には古今東西の、いや、どっちかというと古えの映画が多いけど、それがDVDやブルーレイに焼いて600枚も保存してある。
市販されていた作品もあるものの、大半はNHKが放映したものを録画してディスクに焼いたもので、これだけあるとわたしの世代の名画はほとんど網羅しているといっていい。
今日はその中からリチャード・ブルックス監督の「エルマー・ガントリー」を引っ張り出してみた。
もちろんというか、いまの世代には内容はおろか、タイトルでさえまったく記憶にない映画だろう。

若いころ、評判は聞いていたのに、どうしても観る気の起こらなかった映画というものはいくつかある。
これもそのひとつで1960年の映画なんだけど、アカデミー賞の作品賞にノミネートされ、主演男優賞も受賞しているから、いい映画にはちがいない(このころのアカデミー賞はいまとは重みが違っていた)。
ただ、内容がやたらにカタそうなので敬遠していたのである。

今日ようやく全編を通して観て、これはまことに時宜にかなった映画だなと思った。
内容は宗教がテーマで、といってもキリストが奇跡を起こすようなハリウッド製のスペクタクルではなく、もっと世俗的な、教会と人間の関係を描いた、いま騒がれている統一教会のドタバタにも通じる作品だった。

主人公はバート・ランカスター扮する口の達者なセールスマンで、彼はひょんなことから美貌の宣教師が布教を務める、移動教会の人気伝道者になってしまう。
彼が大ボラを吹いて教会に集まった信者を熱狂させるところなんか、いまでも種の起源より聖書を信じる国民が半分くらいいるという、現代アメリカの縮図を見ているようで、カタくてもおもしろい映画は存在するという見本のような映画だった。

この映画にはなんでも神に結びつけてしまう無知な人々と、本気で神を信じようかどうしようかと悩む人、神さままで商売に使おうとする実業家たち、最初からさめている(ワタシみたいに)皮肉屋の人間など、さまざまな人間が登場して、宗教のおもてと裏(の裏の裏)を描いてみせる。
宗教もけっして神聖とか尊敬に値するものではないと、いたずらにバカ正直でないのがいいし、これをにやにやしながら観られる人なら、統一教会なんぞに引っかかることもなかっただろう。
最後に奇跡のようなことが起きるけど、これは現代医学では突発性ナントカ症とでもいうべきものだろうから、あまり真剣に考えなくてもいい。

今日は草むしりをするつもりが、雨が降るというので中止して、この映画を観ていた。
こんな機会でもないとなかなか観ようという気にならない映画で、じっさい部屋の押し入れのなかで、ホコリに埋もれさせておくにはもったいない映画だった。

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2022年9月21日 (水)

地獄の黙示録

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ウクライナばかりではなく、たまにはほかの話題も書かねばならぬという、不必要な義務感に迫られて、今日は戦争以外の、いや、やっぱり戦争と無縁というわけじゃないけど、コッポラの「地獄の黙示録」が放映されたばかりなので、そっちの話題を書こう。
最近のNHKの偏向ぶりに怒髪天をつく状態のわたしは、コッポラ君にも八つ当たりしてしまうのだ。
いや「ゴッドファーザー」からこっち、もともとコッポラ君は嫌いなんだけどね。

ただその後、この映画に影響を与えたとされるコンラッドの「闇の奥」という本をちょっとだけ読んだこともあり、なにかわたしの心境に変化が生じたかも知れないから、いちおう録画してみた。
とはいうものの、小説の「闇の奥」にも感心したわけではないから、影響がどうのこうのといわれても困ってしまう。
ファイナルカット版という注釈がついていたけど、下らない映画であるところは、もちろん変わっていなかった。

あっちこっちに常識で考えられない描写がある。
その最たるものが、ベトナムというそれほど大きな国ではない場所で、ベトナム人相手の戦争をしている米国人が、ジャングルの奥地で、ベトナム人を支配して王様のような生活をしていること。
これが暗黒大陸といわれ、白人が圧倒的に有利な立場でいたアフリカでもあれば納得できないこともない。
あるいはジャック・スパロウのような海賊が横行していたカリブ海でもあれば、そういうこともあったかも知れない。
しかしベトナムでそりゃ無理な設定だ。

けしからんのはベトナム戦争という、米国人のこころを傷つけた戦争であるにもかかわらず、反省や罪の意識がぜんぜん見られないこと。
全体としてはアメリカインディアンを騎兵隊がやっつけていたころと、ぜんぜん変わらないアメリカ至上主義の映画であること。
これでは主人公が悩みようがないではないか。

一歩ゆずって、これは寓意なのだ、目の前に見えるものはなにかの象徴なのだということにしよう。
だとしても、いったいこの映画はなにをいいたいのか。
いちおうのストーリーからすれば、ベトナムの奥地に王国を築いてる米軍将校の暗殺命令を受けた兵士が、彼の王国に潜入して、首尾よく任務を遂行するという「ランボー」みたいな活劇映画であるといえる。
むしろそのほうが映画としてもおもしろそう。

しかし自分を大作家であるとカン違いしたコッポラ君の、余人に計り知れない傑作を作るという野望の下に、とにかくひたすら芸術大作(らしきもの)を目指したケッ作になってしまった。
始めから終いまでまじめな顔ばかりしている主人公、やさしそうなこの主人公が川をボートでさかのぼる途中、足手まといになりそうだというので、いきなりゴルゴ13になってベトコン女を射殺する。
どうも前後の脈絡がとれてないよな。
ほかにも戦場でサーフィンに凝る将校、とつぜん現れるディエンビエンフーのフランス軍、密林の奥の王国をうろつきまわる正体不明のカメラマン、王国の周辺にぶらさがるリンチにあったらしい死体など、どれもこれも意味ありげな映像をつなぎあわせただけ。
最後に登場するマーロン・ブランド(カーツ大佐)がひねくる屁理屈も、彼はいったい何に悩み、どうしてジャングルの奥で孤高の帝王になったのか、さっぱり明らかにしてくれない。
コッポラ君の意欲はわかるけど、彼の才能では釣りあげようとした獲物が大きすぎたようだ。

こういう映画をありがたがるファンが、ウクライナ戦争でも、なにも考えずにロシアを非難してるんだよなと、八つ当たりで締めくくって、この項終わり!
ああ、プーチンがんばれ。

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2022年2月 7日 (月)

観ました

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観ました、張芸謀の中国映画「金陵十三釵」。
中国人が作った南京虐殺の映画だということで、もう観るまえから日本では公開禁止の映画。
ウィキペディアの解説を読んでみたけど、ウィキの記述すら、こちらも映画を観ないで書きやがったなと思わせる内容だ。
なんでも中国でも製作費が記録破りだとか、年間興行収入が1位だとか、中国社会に大きな影響を与えたなんて書いてあるけど、ホントかよ。

南京城内に取り残された女学生たちが、米国人男性と娼婦たちの協力で脱出する話なんだけど、最後もどうもあっさりしすぎてスリルに欠けるし、たとえば米国なら「プライベート・ライアン」や「硫黄島からの手紙」のような、敵味方が殺したり殺されたりするふつうの戦争映画で、そんなに感心するような映画じゃないね。
米国で作品の評判がよくなかったというのは、おそらく期待していたほど日本兵の残虐ぶりが描かれてなかったからじゃないか。
下っ端の日本兵はどうしようもないけど、指揮官や上級士官なんか、いかにも日本軍人らしい立派な人物に描かれていて、いまでは国際的映画監督になった張芸謀のこれが良識というか、限界というか。
あちらのネットにもこの映画をもって、日本をあしざまにいうサイトがあるようだけど、戦争を公平客観的に見つめようとする映画に対して、日本のほうが狭量な考えに陥って、映画の公開もさせんというのはどうなのさ。
文句をいいたい人のためにリンクを張っておくから、自分の目で確認してみて。

https://www.youtube.com/watch?v=T6P0_a9ltk4&t=2910s

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2022年2月 2日 (水)

芸術作品、欲しい!

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ずっと以前だけど、あるデパートで谷内六郎さんの絵が販売されていた。
その中に欲しい絵があったけど、考えてみるとオリジナルの谷内さんの絵は週刊新潮の表紙用に描かれたもので、純粋の絵画とはいえない。
そこに展示されていたものも、どこかの制作会社が油絵ふうに作り直したレプリカだった。
それでもわたしはその絵がほしくてたまらなかった(安ければ買っただろう)。

最近あらためてビートルズ主演のアニメ「イエロー・サブマリン」を見直してみた。
わたしの部屋にはDVD版のこの映画があるので、見ようと思えばいつでも見られるんだけど、見ているうちに物足りなくなってきた。
というのは、このアニメはジブリ・アニメなどと違って、ひとコマひとコマの絵の芸術的センスが素晴らしい。
若いころ、はじめてこのアニメを見て衝撃を受けたわたしは、レンブラントやゴヤの絵と同じような畏敬の念を、いまでも抱いているのだ。
物足りないというのは、これがDVDであることである。
最近ブルーレイ規格のテレビ番組ばかり見ているわたしには、やっぱり画質がイマイチなのだ。
調べてみたら、この映画のブルーレイ版もとっくに発売されていた。
こうなるとアニメの原画をぜったいに自分のものにしたいというマニアの気持ちもよくわかって、いてもたってもいられなくなる。
しかし年金暮らしのじいさんには、清水から飛び降りる覚悟が必要な値段だった。

こうなると頼みの綱はNHKのBSだ。
プレミアムシネマで放映してくれんものか。
また調べてみたら、今日はスピルバーグの「激突!」というアホな映画が放映されていた。
くそ、いくら放映権料か安いからといって、こんなつまらん映画ばかり流しているんじゃ視聴料を払わんぞ。

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