壮絶の映画人生

2018年7月12日 (木)

第七の封印

日曜の夜はBSでバレエやオペラを放映する。
バレエはまだしも、オペラにはあまり興味はないんだけど、このあいだのそれはイングマール・ベルイマン監督の映画 「秋のソナタ」 をもとにしたオペラだというので、念のため録画してみた。

わたしはもとになった映画のほうは観たことがある。
ベルイマン監督の映画は、どれもひじょうに哲学的で、難解でもあるんだけど、「秋のソナタ」 については、母と娘の確執を描いた現代劇で、ぜんぜんおもしろくなかったと正直に告白しておこう。
最後まで観るのが苦痛で、途中で放り出したので、もちろんオペラのほうも途中で放り出した。
だいたい日ごろからオペラなんてものには縁がないので、ここではわたしが最後まで観通すことのできた 「第七の封印」 という映画について書くことにする。
いえ、けっして感動したとか、素晴らしかったなんてエラそうなことをいうつもりはないんだけどね。

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「封印」 のほうは「ソナタ」 より古い作品で、十字軍の遠征から帰国する途上の騎士が、死神と出会う場面から始まる。
迎えにきたのかと問う騎士に、そのとおりだと死神は答える。
死神を演じている役者は、これは1956年の映画だからCGではないし、地のままの顔で不気味な雰囲気がいかにも適役(1枚目の画像)。

騎士がちょっと待ってくれというと、だれでもそういう、待つことはできないと、死神はさすがに自分の仕事に忠実だ。
なんとか時間稼ぎをしようという騎士は、相手にチェスの試合を申し込む。
死神というのはむかしからチェスが好きなんだそうだ。

こうして彼らがチェスをしているあいだに、同時進行というかたちで、騎士は旅を続ける。
つまり時間稼ぎをしている騎士と、時間稼ぎのおかげで先に進める騎士の、ふたつの設定が同時に描かれるわけで、話はなかなかややこしい。
難解であることはまちがいないけど、それでもこちらの作品には、まだわたしを飽きさせない見どころがたくさんあるので、最後まできちんと観ることができた。

見どころというのは、当時の旅芸人の生活ぶりや、因習にとらわれた農村のようす、疫病を怖れる人たち、魔女の疑いをかけられて火あぶりにされる娘など、暗い中世の時代風俗がリアルに描かれていたこと。
しかしそういう見どころは、ストーリーとして重要ではなく、観念的なものの積み重ねとして描かれる。

わたしは以前にマルタ島というところに行って、教会の壁に斬首されるヨハネの縁起でもない絵がかかげられているのを見たし、また街のあちこちに骸骨のような、死をモチーフにした飾り物が多いのに気がついた。
これは当時の騎士たちの、死と隣り合わせの過酷な状況を物語るものだそうだ。
イスラム教徒たちとの戦いからもどる騎士も、当然多くの死を見てきたはずで、映画のなかの彼は神の存在に疑問をいだいている。
わたしみたいな凡人でさえ、東北大震災の現場でそう感じたくらいだから、これは外国でもよくある疑問なのだろう。

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この映画のなかに神はいちども姿をあらわさないけど、主要登場人物である死神の姿で、あるいは行倒れの巡礼、疫病払いの行列、火刑に処される娘、ペストで死ぬ男など、死の象徴はいたるところにあらわれる。
姿を見せない神をなんとか信じようとする騎士に対して、そんなものはおりませんと、彼の従者はあくまで冷静だ。
うん、この従者の考えはわたしに似ているな。

芸人一座の座長と鍛冶屋の女房の浮気という、民話のような寸劇をはさんで、騎士はようやく妻の待つ自分の城に帰り着く。
古い城の食堂で騎士と同行の人々が食事をしているところへ、チェスの決着をつけた死神があらわれる。
神も仏もないものかと、苦悶する騎士。
最後まで、そんなものはありませんの従者。
ベルイマン監督は、古い宗教観と無神論者を対比させるつもりでこの映画を作ったのかもしれない。
わたしもすこしまえに、いくつかの法事が重なって、儀礼ばかりにこだわるそのやり方に、無性に反発をおぼえたばかりだ。
これはもしかしたら、わたしみたいな偏屈のための映画なのかも。

まあ、そんな手前勝手な解釈はやめておこう。
暗い一方の映画のなかで、騎士と別れて別行動をとる芸人夫婦は、明るい未来を象徴しているように思えるけど、これもその気になれば理屈はいくらでもつけられる。
しかし、いくら立派な理屈をこねても、どうせわたしには1円にもならないし、そんなものを無理にひねくり出さなくても、わたしは映像を目で追うだけで満足してしまったのだ。
「第七の封印」 はそういう見方、つまりひとつひとつの出来事を無理に意味づけなくても、全体として無神論者の代弁をしてくれる映画のように思えてしまう。

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映画の最後に、旅芸人の妄想として、死神に先導されていく人たちが映る。
興味をもってわたしなりにメンバーを分析してみたけど、先頭に大鎌を持った死神が立ち、あとは騎士、従者に使われている娘、従者、鍛冶屋、鍛冶屋の女房、最後尾に竪琴を持った芸人一座の座長という順番らしい。
全員が異なるポーズで、踊るようにひかれていくというのが印象的だった(添付した3枚目の画像)。

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2018年7月 7日 (土)

Stranger Than Paradise

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「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という映画を観た。
公開当時いくらか話題になったみたいだけど、「ラスト・ショー」や「ニュー・シネマ・パラダイス」みたいな映画が連想され、あまり観る気が起きなかったのである。

二級酒を水で薄めたような、どうにもやる気のない映画だった。
ストーリーは、ハンガリーから米国にやってきた若い娘が、いとこの若者の部屋に転がり込み、部屋のなかで意味のない会話をし、いとこの友人を含めた3人でフロリダへドライブするというもの。

出てくる男ふたりがどこにでもいそうな若者なのはいいけど、まあ、やる気のないこと。
もしかしたらゴダールの映画のように、男女の反社会的な行動や、放埓な三角関係を描いた映画かもしれないと思ったけど、べつに彼らが銀行強盗をするわけでも、桃色遊戯にふけるわけでもない。
いまどきの草食系男子ならともかく、なにかを期待するわたしの世代にはぜんぜんもの足りない。

そのまえには、テレビで「荒野の用心棒」をまた観たけど、用心棒が悪党の家に押し入り、拳銃で5、6人をあっという間になぎ倒す。
倒れた悪党の横を、飼われていた子犬がキャンキャン鳴きながら逃げていく。
映画の出来はともかく、細かいところに凝るものだと感心したものだ。
ところが「ストレンジャー・ザン」では、お金がかかってないことだけははっきりしていて、とにかくあるものだけで間に合わせたという感じ。
気の利いたセリフや、おもしろい仕掛けはまったくない。

でもこのやる気のなさに、どこかぬるま湯につかっているような心地よさを感じることも事実。
たぶん映画が制作された当時もいまも、これでもかこれでもかと、向こうから押しつけてくる映画が多すぎたせいだろう。
そしていちばん大きいのは、寝起きみたいな髪型で、終始口数のすくないこの娘の魅力かも。
べつにイヤらしい場面がなくても、ただ魅力的なヒロインを見ているだけで楽しいという映画も、たまにあるのだ。

最後に娘はハンガリーにもどることにする。
いとこは追いかけて飛行機に乗る。
帰国したと思った娘は、3人が寝泊まりしていたモーテルにぼんやりともどってくる。
それでどうなったのか。
べつにどうにもならなかったんじゃないか。
最近なにごとにも覇気のないわたしは、こういうのがユーモアであるという屁理屈をならべて、この映画を賞賛しようとは思わない。

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2018年6月28日 (木)

映画と歴史

「アメリカ アメリカ」という映画を観ていろいろ考えている。
この映画は移民や民族という、いまでも通じる普遍的、国際的、歴史的な問題を、客観的に描いているので、考えてもバチは当たらない。
むしろ、いまだからこそ考えたい。

国内の少数民族の反乱に手をやいたトルコ政府は、なにしろ第一次世界大戦よりまえ、まだ国連も国際連盟もなかったころだ。
めんどくさい、ひとり残らず片付けてしまえと、そこまで乱暴だったかどうかは知らないけど、いまでも問題になっているアルメニア人の大量虐殺をやってのけた。

こんな書き方をすると、トルコ人は残忍だということになってしまう。
しかしアルメニア人虐殺についてウィキペディアなんかを調べてみると、原因はそうとうに根深く、たどればたどるほど過去へさかのぼらざるを得なくなる。
さればこそ、知性と理性をかねそなえたエリア・カザン監督は、この映画を単純な勧善懲悪の映画にしなかったようだ。

映画のなかでトルコの将校が、アルメニア人の知り合いをつかまえて、われわれの銀行を焼き討ちしてただですむと思ったのかという場面がある。
これだけ観れば、虐殺の原因を作ったのはアルメニア人という見方もできる。
トルコ軍の襲撃やむなしを悟ったアルメニア人たちが、教会に集まって祈りを捧げるシーンもある。
このあと彼らは焼き討ちされて皆殺しにされるんだけど、アルメニア人はキリスト教徒であり、トルコ人はイスラム教徒だから、これは宗教紛争であったともいえる。
宗教紛争であるならば、十字軍を持ち出すまでもなく、ヨーロッパの歴史は焼き討ちだ虐殺だと、おびただしい血で塗りかためられている。
ジェノサイドということでトルコ人を責めるのも気のドクだし、アルメニア人も一方的に気のドクがられるわけでもない。
教会で皆殺しにされたアルメニア人たちは、同じアルメニア人過激派のために、トルコの憎しみを買うことになったわけだけど、この場合、いったいだれがだれを恨めばいいだろう。

映画の主人公であるカザン監督の祖父は、アルメニア人と同じ、トルコ国内の少数民族であるギリシア人だった。
映画のなかにトルコ人が、ギリシア人はおとなしいけど、アルメニア人はうるさいと発言するシーンがある。
トルコ人もおとなしく商売をしているギリシア人には手荒なマネをしなかったようだ。
この映画は事実に基づいているけど、カザン監督の祖父はやがて米国で成功し、家族をアメリカに呼び寄せる。
成功するまでに何年かかったか知らないけど、家族はトルコで虐殺されることもなく、それまでなんとか商売を続けていたわけだ。

わたしの書きようは奥歯にものがはさまったようなところがあるので、ちょっとわかりにくいかもしれないけど、民族が異なっても、たいていの人は平和に暮らすことを望んでおり、それをひっかきまわすのは一部の過激な人間、問題をさらに拡大させるのは扇動にのりやすい人々ということだ。
最近の映画(ネット上の掲示板なども)は、シロクロのはっきりした単細胞的主張が多いので、「アメリカ アメリカ」を観てしみじみと考えてしまう。

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2018年6月26日 (火)

アメリカ アメリカの3

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エリア・カザン監督の祖父をモデルにした若者は、金を稼ぐためにコンスタンチノープルで沖仲仕の重労働を始める。
ところが彼もまだ血の気の多い若者だ。
悲惨な生活のあいまに、魔がさしたというか、たまたま買った娼婦に枕探しをされて、数ヶ月間、必死に働いて貯めた金を盗まれ、努力は振り出しにもどってしまう。
ちなみにイスラムの戒律のきびしいトルコにも娼婦は存在したらしい。
わたしもトルコに行ったことがあるけど、なんせカタブツだったからなあ。
そういえば女性は肌を見せるなとうるさいくせに、おへそ丸出しでおどる官能的なベリーダンスはトルコの名物だよ。

現実の重さに絶望した若者は、誘われてテロリストの仲間に入ったり、しかもそこを官憲に襲撃されて重傷を負ったり、このへんは現代のテロリストと同じ心情かもしれない。
わたしには真似どころか想像もできない悲惨さだ。
あまり苦労もしないで外国に行ったなんてイバっているわたしは、生まれた時代がよかったのか、生まれた場所がよかったのか。
あ、またオカルトになってしまいそう・・・・

単純労働で金持ちになることのむずかしさを知った若者は、いとこの手引きで金持ちの娘と結婚することにする。
これじゃ結婚詐欺だけど、若者はイケメンだし、相手の娘は不器量ということになっているから、できすぎた話でもない。
でも不器量のはずの娘が、これが不器量なら日本の娘はどうなるのかというくらいの美人だし、やさしくておとなしくて性格もいいのだ。
いくら映画とはいえ、これは調子がよすぎるワ。

しかしどうしてもアメリカに渡りたい若者は、せっかくの逆玉の輿をすてて、今度は金持ちの人妻のツバメに成り下がる。
この人妻の欲求不満も、丁寧に、要領よく描かれているので、ストーリーに無理はない。
こうなるともうなりふり構わずという感じだけど、映画はわたしの文章みたいに不真面目なものではないのである。
目的のためには堕落もやむを得ないと、教訓的でないのはいい。

この人妻が旦那とともに米国航路の船に乗り込むのに、若者はなんとか同船を許される。
こうして艱難辛苦のはてに、若者はようやく自由の女神を見ることになるんだけど、上陸まえに最後の関門が待っていた。
それがどんなものか、どうやって危機を脱出するのか、ネタバレがすぎて不興を買いたくないから、この最後の山場には触れないでおく。
興味のある人はレンタルビデオ屋に行けばよいと書こうとしたけど、わたしの文章に誘発されて、観てみようなんて人がいるだろうか。

逆効果みたいな気がしないでもないけど、なんとか最後の関門を突破して米国上陸を果たした若者は、ニューヨークでまず靴磨きを始める。
最下層からのスタートだけど、彼の顔にようやく希望があふれたところで、この映画は終わりである。
エリア・カザン監督の祖父は、やがて認められ、米国で確固たる地位を築くのは周知の事実だから、その後のことははしょってもいいのである。

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2番目の写真は、映画の撮影風景。

この映画を要約すると、ひとりの若者が苦労して身を立てる物語といえばそのとおり。
でもそれだけじゃないような気がする。
むずかしい理屈をならべても1円にもならないわたしは、また映画のなかでとくに印象に残った人物をあげて、そのへんの感想をはしょってしまうのだ。

映画の始めのほうに登場する、物乞いをしながら、徒歩(!)でアメリカを目指そうとする、元祖ヒッピーみたいなアルメニア人の若者。
彼は映画の終わりにふたたび登場して、重要な役割をになうんだけど、こうした若者を異国に駆り立てたのはいったいなんなのか。
時代が変わってもぜんぜん変わらない、あるいはもっとひどくなっているものが存在するではないか。

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というわけで、できればわたしたちが、たまには思い出すべきだという写真を最後に載せておこう。

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2018年6月25日 (月)

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「アメリカ アメリカ」は、苦労してアメリカに渡り、そこで足場を築いたエリア・カザン監督の祖父の人生を映画化したものだという。
時代背景はというと、映画のはじめに1896年のことという説明があるから、日本でいうと明治29年ごろのことである。

映画を観てもわかるとおり、このころのトルコはギリシアやアルメニアなどの少数民族をかかえこみ、各地で民族紛争が勃発して、それをトルコ軍が鎮圧するという状況だった。
それなら少数民族同士は仲がよかったかというと、けっしてそうでもなかったようだから、当時から欧州の民族問題は、幸せな日本人には想像もできないくらい複雑怪奇なものだったのである。

トルコと少数民族の軋轢というと、民族浄化ではないかとされるアルメニア人の大量虐殺が有名だ。
この映画にもトルコ軍による虐殺が出てくる。
しかし虐殺する側にも情け深い軍人はいたとか、少数民族の側にもこすっからい人間はいたというふうに、わりあい客観的で、ナショナリズムを鼓舞するような描き方はされてない。
わたしはこういう映画が好きである。

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映画のなかに、トルコの寒村にある少数民族の部落が出てくるけど、あちらの役者が無精ヒゲを生やすと、ドキュメンタリーではないかと思うくらいリアル。
こういう点、どうも日本や中国の役者はにやけていてダメだな。
余計なことはさておいて、その貧しい境遇、置かれた不安定な立場も描かれていて、これじゃ移民したくなる気持ちもよくわかる。

トルコの圧政に苦しんだ少数民族の若者たちは、こぞって、まだトランプさんのいなかった新天地アメリカをめざした。
映画のなかに、物乞いをしながら徒歩で首都をめざすアルメニア人の若者が出てくるけど、ヒゲぼうぼうで、肺を病んでいるこの若者の、せっぱつまった気持ちもよくわかるのである。
トルコ生まれのギリシア人だったカザン監督の祖父も、けっきょくはこの物乞いのあとを追うのだ。

中国の華僑などもそうだけど、一族のなかの優秀な人間に望みをかけて、親戚の金をかきあつめ、そのひとりを異国へ送り出すということが、外国ではよくあった。
送り出された人間の大半が異国で野たれ死したとしても、ひとりかふたりが成功して故郷に錦を飾れればいいという、一将功なって万骨枯るの精神である。
これもまたノーテンキな日本人には想像しにくいことだ。

主人公の若者も一族の期待をになって、首都のコンスタンチノープル(現イスタンブール)へ向かう。
ここからはアメリカ行きの船が出ているのである。
しかしロバに乗って出発した若者は、途中でゴマの蠅や汚職警察官にあって、たちまち身ぐるみはがれてしまう。
一文なしで首都にたどりついたものの、そのへんのはなたれ小僧でさえ、気楽に外国旅行ができる現代とはちがい、当時の船賃は貧しい青年には手も足も出ないものだった。

ということで、この項はまだ続きます。

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2018年6月22日 (金)

アメリカ アメリカ

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エリア・カザン監督の「アメリカ アメリカ」を観た。
監督が古い人だから、映画も古い映画である(1963)。
この監督の映画については、すこしまえにこのブログで、「エデンの東」を、図式が単純すぎるとけなしたばかりだけど、はたして「アメリカ」のほうはどうだろう。

映画好きなわたしのことだから、この映画にも多少の知識はあった。
でもモノクロの地味な映画のせいか、日本ではあまり評判にならず、わたしも観たのは今回BSで放映されたのが初めてである。
欧州でしょぼくれた生活をおくっていた青年が、自由の国アメリカをめざすという話らしいので、ゴッドファーザー・パート2みたいな映画かと、ずっと思っていた。

ところが予想外だったのは、若者がアメリカに到着するのが、3時間ちかくもある映画の、ほんとうにラスト1/10あたり。
映画の大半は、ギリシア人の主人公がトルコから米国に出発するまでの、現地の複雑な民族問題を描いている。

そして感心したのが、映画の冒頭ちかくにギリシア人とアルメニア人のコンビが、トルコの軍隊から検問を受けるシーンがあるんだけど、安っぽい映画なら敵味方がはっきりしていて、二人はねちねちといじめられることになるのが相場。
じっさい二人はいじめられるけど、このトルコ軍の隊長というのが情け深い味わいのある人物で、もうこのへんから、この映画はただモノではないなと思わせる。

で、映画の感想でも書こうと思ったけど、見ごたえのある作品だけに、軽々しいことは書けない。
この映画からは、いま世界的に問題になっている移民の問題、生まれ故郷を捨てざるをえない人間の心境がうかがえる。
ま、今回はこのくらいにしておこう。

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2018年6月18日 (月)

万引き家族

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「万引き家族」はつまらない映画だった。
と書くと、わたしの頭のほうが疑われそう。
たんに成功した映画に嫉妬する意見じゃないかと思われてしまいそう。

ネタバレにならないように、なんでつまらなかったのか説明しとこう。
映画自体はとくに欠点があるわけでもないし、演技者も芸たっしゃな人ばかりだから、わるい映画ではない。
しょぼくれたおっさん役のリリー・フランキー、樹木希林のおばあさん演技なんかたいしたものである。

いっしょに行った知り合いにいわせると、これはいじめや虐待が横行する現代に、異色の家族を通して、家族のきずなというのは何かを追求した映画でしょうとのこと。
それはそうかもしれないけど、わたしはこういうまじめなテーマを、正面からふり下ろす映画がニガ手である。

映画が始まってすぐに彼らの住まいの内部が映るけど、生活用品を山積みにして、その中で6人家族がなんとかスペースを確保している部屋のようすには、どこかなつかしい気持ちがした。
考えてみると、むかし(戦後10年目くらいまで)は6畳2間に、夫婦と子供、おばあさんの、5人、6人家族はめずらしくなかった。
団塊の世代というのは、本物の家族のきずなが存在していた時代を知っているのだ。
そしてそろそろこの世からおさらばしようとしているのだ。
家族のいないわたしが、いまさら家族のきずなについて考えても、なんの役にも立たない。

この映画は、現代や、これからの時代を生きる若者が観れば、それなり意義のあるものだろうけど、わたしにはもどってくるはずのない、過去のある時間をながめさせてくれるだけだった。
そこへもってきて、皮肉やユーモアが欠如しているので、退屈するばかりである。
そこにいるだけでしょぼいおっさんだとか、見舞金をありがたく押し頂いたおばあさんが、相手の家を出るなり、封筒の中味を確認してぼやくなどという、おかしい場面はいくつかあったけど、それは創意されたものではなく、日常にありふれた人間の行動のひとコマをそのまま描いたもので、わたしがいうところのユーモアではない。

わたしぐらい年期を重ねると、もうなにがあっても驚かないのだ。
子供が虐待死しても、こういう時代にはこういうバカ親も出てくるんだろうなと、諦観の方が先に立ってしまう。
かわいそうな子供を生んだのは、この社会全体の、流され感、余裕のなさに決まってると無力感におそわれてしまう。
ひょっとすると小津安二郎の映画のように、ほのぼの感でも残るかと思ったら、逆にあと味のわるさのほうが残ってしまった。
「万引き家族」はそういう映画だった。

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2018年6月17日 (日)

話題の映画

是枝裕和監督の「万引き家族」を観てきた。
監督については自民党政権に批判的だとか、そうではないとか、いろいろいわれているけど、そんなことはどうでもいい。
問題はいい映画なのかどうかということだ。

カンヌ映画祭でパルムドール賞をもらって、それをウチの新聞が1面のトップ記事にしたくらいだから、いい映画なんだろうという人がいるかもしれない。
しかし最近はアカデミー賞もカンヌも、ノーベル文学賞も、芥川賞も、さらにいえば朝日新聞も、マンネリや特権階級クラブみたいになっちゃって、かってほどの権威はなくなっているのだ。
疑いぶかいわたしの満足できる映画なのか、ま、観もしないでごちゃごちゃいっても始まらない。

というわけで観てきたんだけど、帰りにイッパイやって、いい機嫌で帰宅したもんだから、感想を書くまえに眠くなってしまった。
ひと眠りして、いまようやく起きたけど、まだ頭はもうろう、ブログに書くのは明日以降にしよう。

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2018年5月 8日 (火)

また十戒

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いや、ひどいもんだねえ。
先日放映された「十戒」って映画。
そうとうに古い映画だから、ひさしぶりに観返してみたけど、これってカルト映画だよな。

悪魔が乗り移った指導者モーゼが、いうことを聞かないエジプトの王様にいやがらせをする。
最初は杖をぽんと投げると、それがヘビに変わる。
なんだ、そんなヘボ手品かとエジプト王に看破されると、つぎにナイルの水を血に変える。
民衆がのどの渇きに苦しんでもエジプト王がへこたれないとみると、今度は疫病を流行らして民衆を苦しめる。

こんなふざけた神様がいてたまるか。
奇跡を起こせるなら、どうして宝くじを当てるとか、ナイルの水をアルコールに変えるとか、末期ガンの患者をその場で完治させるとか、もっとマシなことをやらないのか。
これでは疫病でわが子を奪われて苦悩するエジプト王のほうがよっぽど人間的ではないか。
こんな神様を信じているアメリカ人が、いまでも人口の半分ぐらいはいるというからオドロキ。

なんてことを真剣に考えているわけじゃない。
このていどの映画に感動していた古きよき時代もあったんだなってコト。
最後の紅海がまっぷたつに割れるスペクタクル・シーンだって、アナログの合成映画からデジタル合成に変貌する、そんな映画の歴史を見つめ続けてきたわたしには、時代の移り変わりの方がずっと身にしみるわ。

ところでこの映画のウラをとろうと、映画DBに “じゅっかい” と打ち込んだアナタ。
これはじつは “じっかい” と読むんだからね(わたしも3回目ぐらいにようやく気がついた)。
ホント、宗教用語ってひねくれているよな。

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2018年4月23日 (月)

ネットフリックス

今朝の新聞に、なんて書き出すと、あ、また朝日新聞をけなすんだなといわれてしまいそう。
そうじゃない。
今日の新聞の29面に、世界最大の動画配信サービス「ネットフリックス」についての記事が載っていた。
ネットフリックスと契約すると、好きなときに好きな映画が見放題になるんだそうで、わたしみたいな映画好きには興味をそそられるところだけど、はてね。

新聞記事では会員数が一億2500万人だとか、同社の純益が2億9千万ドルに達したとか、景気のいい話ばかり書いてあるけど、この会社ってもともとアメリカの会社でしょ。
映画は日本語字幕つきで配信してくれんのかしら。
この記事を書いたのはアメリカ在住のフリーライターみたいだけど、こちとら英語ワカランの骨董品的日本人だからね。
またこの記事だけでは、じっさいにどんな映画がメニューにあるのかわからない。
景気のいい話にはウラがあるのが普通、そんなに大騒ぎするような話か。

そもそもわたしは大の映画好きなので、これまでもテレピで放映された興味のある映画は、かたっぱしから録画して、DVD、最近ではブルーレイのディスクに保存してきた。
テレビで放映されにくいめずらしい映画も、YouTubeあたりを探すと見つかる場合がある。

そんな調子だから、「2001」も「アラビアのロレンス」も「荒野の決闘」も「灰とダイヤモンド」も「市民ケーン」も、もっと地味な「博士の異常な愛情」も「81/2」も「気狂いピエロ」も「東京物語」も「恐怖の報酬」も、またちょっとめずらしい「世界残酷物語」も「ビートルズのイエローサブマリン」も「妖精たちの森」なんて映画も、みんないつでも部屋で観られるのだ。
おかげでわたしが配信サービスを利用してまで、もういちど観たいと思う映画は、いま、エートと考えてみても、せいぜい数本しか思い浮かばない。
どんどん製作される最近の映画に観たいものはあまりないし、これじゃネットフリックスの会員になってもコスパが見合わないよな。

でも上記のような映画が字幕つきで見放題になるなら、これが不要なものであるとは思わない。
終活中のわたしが目ざわりな本を処分したように、部屋にたまったおびただしいDVDを、一掃したいと考えることもよくあるのだ。

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