旅から旅へ

2024年4月23日 (火)

中国の旅/烽火台

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翌朝は7時半に起床して、朝食は敦煌賓館のなかでとった。
もちろん水のサービスはなく、冷たいものはビールか缶コーラしかないという。
缶コーラは8元もして、これは日本円で110円くらいで、日本で買ってもそのくらいだから、彼らもよく研究しているなと感心する。

朝食のあと、まだチェックアウトには時間があったけど、さっさと引っ越すことにした。
全夜カップラーメンの手配をしてくれた可愛い服務員がいたから、ホテルのアンケート用紙の「よかったサービス員」の名前を書く欄に彼女の名前を書く。
荷物を持ったまま道路に出て、たまたま出くわしたリキシャをつかまえ、5元だ、5元だとわめいて金葉賓館まで走らせた。

金葉賓館は外見は立派だが、はやらないホテルだった。
ひとりしかいないフロントの娘が、わたしを300元の部屋に案内した。
2階部屋で、ざっと眺めてもやけに殺風景で、わたし以外に客はひとりもいないようだった。
中国のホテルに宿泊すると、ふつう宿泊カードというものをくれる。
これにはホテルの名前や部屋番号、宿泊日時などが記載されており、なれない外国人が街で道にまよったとき、タクシー運転手にこのカードを見せれば無事にホテルへ帰れるというわけだ。
金葉賓館のカードにはこまかい記載が何もなかったから、わたしは自分の泊まった部屋について、2階へ上がってすぐの右側としかおぼえてない。
カードは使えないというし、両替を頼むと銀行へ行ってくれといわれてしまう。
列車のチケットの手配なんかハナっからあきらめた。
どうやらわたしは早まったようだった。

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文句をいう相手もいないので、ふらりと近所へ外出し、レンタル自転車を探す。
敦煌市内は自転車でまわるのにちょうどいい大きさなのである。
このへんに出租自行車はありませんかと1軒の商店に飛び込んだら、いかにも欲の深そうなおばさんが、ああ、ウチにありますよという。
彼女が見せてくれたのは店の前に停めてあった買物カゴつきの女性用自転車で、どうもいつもはおばさんが使っている自分の自転車らしかった。
アホな外国人が自転車を求めて飛び込んできたので、こいつにアタシの自転車を貸せばいい金になると踏んだのだろう。
夕方の5時までいくらと訊くと、60元だという。
高いよというと50元にまけた。
しかし夕方までとくぎると、とちゅうでうんざりして返却しても50元をそっくり取られるかもしれない。
わたしのほうから提案して、1時間8元でどうだというと、それでもいいだろうということになった。
がめついおばさんは保証金を400元も取った。

自転車で勇躍、まず「月牙泉」に行ってみることにした。
これは敦煌の町のどこからでも見える雄大な砂丘で、ここには鳴砂山という山があり、莫高窟以外では敦煌最大の名所といっていいところである。

月牙泉の手前に敦煌城という、古い城郭を模した壮大なホテルがあった。
わたしは最初これを、西田敏行主演の日本映画「敦煌」の映画撮影用に造られたオープンセットかなと思ったくらいだけど、ここもあまり客の入りは多くなさそうだった。
中国人には、収支を考えずに儲かりそうとみれば何にでも手を出す傾向がある。
砂漠の近くなら立地条件はカッコいいけど、町へ出るのにこんな不便なホテルはないから、客なんか来ないだろう。

ガイドブックによると、月牙泉にはパラグライダーだとかサンドスキーだとか、観光客を喜ばせる施設がたくさんあって、いつも観光客でいっぱいのはずだったのに、そんなものやっている人間はひとりもいなかった。
あとで聞いたらちょうど12時ごろで、灼熱の砂漠へ昼間から行くバカはいないんだそうだ。
月牙泉の見ごろは夕方以降なのである。

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目的を変更して、月牙泉からそのまま町のはずれまでサイクリングをしてみた。
あてもなくさまようことに幸せを感じるのは、わたしの子供時代からの性癖である。
ふらふらペダルをこいでいくと、麦畑の向こうにポプラがきつ立し、麦が風にゆれて、あたりの風景はしだいに農村風景に変わっていく。
水路に水が流れており、泳ぐ少年たちや水遊びをしている子供たちがいた。
バードウォッチャーとしては、頭に三角の冠毛のあるヒバリのような小鳥、アオバトなどを見た。
自転車をこぎ続け、ぐるっとまわって市内にもどれるかと思ったら、ある村で道は行き止まりになってしまった。
ここも回族の村らしく、村の広場にはリヤカーの行商が来ていた。
どこか昭和の日本の田舎を観るような気がする。
村のはずれにある雑貨屋でジュースを飲もうとしたら、かわいらしい娘が留守番をしていた。
雛にはまれなということで、中国の田舎でもときどき可愛い娘に出会うことがあるものである(写真の女の子は別人)。

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行き止まりの村からもどる途中、農地の先の防砂林を透かして、砂丘の上に奇妙な大岩のようなものがあるのを発見した。
風化した古代の烽火台らしかったので、畑のわきに自転車を隠し、そばまで行ってみた。
烽火台そのものは完全に風化して、登ることもできず、あちこちにあいている小さな穴がツバメの巣になっているだけだった。
しかしそばまで行ってよかった。
というのは、そこまで砂丘を登ってみると、その向こう側に広大な空間が広がっていることがわかったからである。
砂漠はずっと彼方まで続いており、はるか先にはまた雪を頂いた山脈が見えた。
じつはわたしは知らなかったけど、この方角へ砂漠を10キロほど歩けば、莫高窟の上に出たのである。

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目線を手前にひきもどすと、砂の上のあちこちに砂盛りをした墓があるのに気がついた。
わたしが歩いた砂の下にも、砂漠とその周辺に生きた人々が眠っていたかもしれず、掘ればミイラがたくさん出てきたかも知れない。
この近くには「西晋画像甎墓」という古墳があるらしかったけど、有名じゃないからぜんぜん知らなかった。

乗りなれない自転車に長時間乗り続けていたので尻が痛くなってしまった。
早めに引き上げることにし、その前に町の商店で果物や野菜を仕入れていくことにした。
中国の野菜の美味さは格別なんだけど、難点は1、2コでは買いにくいということである。
けっきょくわたしはアンズ20コ、トマト5コ、キュウリ3本くらいを買いこむことになった。

自転車を返すまえに、敦煌賓館に寄って、前日にクリーニングに出したままだったシャツを引き取り、ついでに翌々日の列車のチケットが手配できるかどうか聞いてみた。
駅まで往復したら6時間かかってしまうので、また駅まで行ってくれといわれるんじゃないかと心配だったけど、相手にもそれはわかっているらしく、チケットは問題なく予約できた。

自転車を返そうとして店に入っていったらおばさんがいない。
そこにいた若者に、ママはいるかいというと、若い娘が顔を出して首をかしげている。
わたしは店を間違えたのだ。
保証金のあずかり証を見て、ようやく借りた店がわかったけど、自転車を返すとおばさんは、保証金を返すのがくやしくてならないという顔をしていた。
買ってきたトマトやキュウリを食べるのに塩が必要だから、この店に塩は売ってないかと訊くと、おばさんは塩のひと袋を出してきた。
そんなにいらないというと、わざわざ袋をやぶってほんの少量だけ売ってくれた。
やさしいというより、1円でも儲けようという執念がすごい。

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金葉賓館にもどって無性にビールが飲みたかった。
ホテルのラウンジで冷たいビールはあるかと訊くと、没有(アリマセン)である。
なんてホテルだとむかついて、金葉賓館のはす向かいにある「敦煌国際大酒店」まで、ビールを飲みにいくことにした。
このホテルにも日本語のわかる娘がいて、わたしがビールを飲みながらワープロを打っていると、日本語の訳をしてほしいといって、敦煌の観光案内を持ってきた。
この中の日本語の説明によくわからないところがあるという。
ああ、そういうことならお安い御用だと思ったものの、観光案内に書かれた日本語は、どうやら中国の年老いた日本語教師が草案したらしく、かた苦しい文章でなかなか手強かった。
“敦煌は中国歴史文化の名城のひとつであるが、古称は沙州で、古いシルクロードの明珠である”
ウーンとためつすがめつしたあげく、とくに直すところもないといって、彼女にいいところを見せそこなった。

ためしにこのホテルは1泊いくらかと尋ねてみた。
安い部屋なら320元からあるという。
金葉賓館とたいして変わらないし、なによりラウンジでビールが飲めるのに感動して、明日はこっちのホテルに引っ越すことにした。
なんだか敦煌に来てホテルの品定めばかりしているようだけど、みんな不景気な金葉賓館がいけないのである。
また失敗したくないから、いちおう部屋を見たいというと、フロントのふっくらした娘が案内してくれた。
そそっかしい娘で、間違えて他の客がいる部屋のドアを開けようとして、中から誰何され、あわてて謝っていた。

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2024年4月21日 (日)

中国の旅/敦煌へ

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敦煌の最寄り駅である「柳園」は西部劇のセットのような町だった。
駅まえからどーんと大通りが伸びており、その両側に立て看板のような家が建ち並び、保安官事務所はどこですかと聞きたくなってしまう。
駅舎から出るとすぐ目の前に路線バスの呼びこみがいたので、敦煌までいくらと訊くと10元だという。
わたしはさっさと乗り込んで左側の窓側に席を確保した。
左側で正解だった。
というのは、柳園から敦煌までは南へ向かう1本道で、右側に座った日には最後まで西日を受けっぱなしだ。
これはそうとうに暑い。

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路線バスを利用するのはみすぼらしい格好の中国人がほとんどで、わたし以外にはっきり観光客とわかるのは白人の若者と東洋娘のカップルのみだった。
わたしたちのバスは後ろ向きの座席までしつらえて満員で出発した。
運転手はいかにもモンゴル系と思える、目の細く切れこんだ若者である。
ほかに車掌らしい若者も乗っていたが、べつに切符を切るわけでもなし案内をするわけでもなく、なんのために乗っているのかわからない。

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現在では敦煌の駅模様もだいぶ変わったようだ。
もより駅である柳園は、いちどは敦煌駅と名称を変えたものの、2006年に新しい敦煌駅ができて、ふたたび柳園駅の名前にもどった。
ここに載せた上の写真か柳園駅で、ぜんぜんわたしの記憶にないのは、敦煌に到着したというので興奮して、駅舎の写真を撮り忘れたからのようだ。
下の写真は新しい敦煌駅で、わたしが行った97年にはまだなかった。
敦煌は交通の不便なところにあるので、飛行機で行ってしまう人が多いかも知れないけど、この年の6月には滑走路が改修中で飛行機は飛んでなかった。

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路線バスは柳園の町はずれで燃料補給をした。
このあとバス停でバスを待っていた中国人を乗せようとしたものの、座れねえのかい、じゃいいやと客のほうから断られてしまった。
町の郊外に出ると、あとはどこまでも続く直線道路である。
わたしは持っていたミネラル・ウォーターでハンカチをぬらして鼻にあてた。
こうしないと左側に座っていても、そのうち鼻の奥のほうまで乾燥してしまいそうだった。
わたしを悩ませている目の充血はまだ治っていなかったから、安物のサングラスをしたわたしは、米国のエージェントのようである。

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敦煌までは遠い。
40〜50分も走るとボタ山のような黒い大地は終わり、河床のような平原になる。
砂丘が起伏するような、いわゆる砂漠ではなく、見渡すかぎりの荒地に短い草がしがみつくように生えている感じ。
窓から首を出してみると、地平線の彼方にまでまっすぐ道路がのびており、前方に逃げ水が見える。
バスは、わたしのカンではおおむね50から60キロ程度のスピードで走っていたけど、かなりのポンコツだから、これでもわたしには飛ばしすぎに思えた。
砂漠の中に盛り土をして築いただけの道路なので、居眠り運転をしたら一巻の終わりである。
走行中に車の下でボコンという音がした。
とたんに運転手は車を停め、飛び降りて車の下側をのぞきこんだ。
ま、こういう用心深さは感心である。

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列車の中でいっしょだった裴傳哲さんがいうのには、柳園から敦煌まで2時間くらいだろうということだったので、1時間半ほど走ってようやくオアシスが見えてきたときにはホッとした。
ところがこれは中間にある小さな村で、ヒツジたちの群れ、ポプラの並木、なにか作物のある農地などをすぎたら、またいちめんの平原になってしまった。
このあたりで平原の中に点々と、古い城壁、あるいは逢火台の残骸のような土盛りが見える。

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けっきょく柳園から敦煌まで3時間かかり、このうち2時間以上がほんとうの直線道路だった。
この130キロの区間に信号はひとつもなく、すれちがう車もめったにない。
一箇所だけ、砂漠を拓いた空き地があって、カーキ色の軍用トラックが数台停まっていた。
新疆ではまだ数カ月まえにウイグル族の暴動があったばかりだから、軍隊が警戒のために駐屯していたようだ。

バスの終点近くで甘い草いきれが鼻をついた。
敦煌は緑の農地にかこまれた小さな町だった。
高層ビルなどひとつもなく、ちょっと走れば牧歌的な風景が広がっていて、町はずれの牧草地ではヒツジ飼いがヒツジを追っていた。
わたしの気持ちを十分にうるおしてくれるところである。

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バスの終点に着くと、わたしと白人カップルはそのまま汚い招待所へ案内されてしまった。
わたしは招待所なんかに泊まるつもりはなかったから、おい、別のホテルに行くよというと、運転手が必死で引き留めようとする。
彼は10元のバスを利用する客はみな貧乏人だと思っていたのだろう。
見損なうなってんだ!
なぜか無意味な虚勢を張ったわたしは、こころ細そうな白人アベックを置き去りにしてタクシーをつかまえ、あらかじめ調べてあった敦煌賓館に向かうことにした。
敦煌賓館は敦煌でいちばん格式が高い(料金も高い)とされているホテルである。
そんなところを選んだのは、くっついてくる運転手を振り切るためもあったので、そこでわたしが部屋を予約するのを見て、運転手もとうとうあきらめたらしかった。
それじゃせめて明日のタクシーの予約はいかがですかという。
敦煌の名を世界に知らしめたのは、もちろん莫高窟の古い遺跡だけど、それは敦煌の市内から東方へ10キロほど離れていて、タクシーを使わなければ行くことができない。
敦煌には3泊するつもりだったから、いずれ莫高窟に行ってみるつもりだったけど、初めから予定に縛られたくないので、ノー、サンキューとわたしは答えた。

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敦煌賓館は580元=8,100円だという。
フロントには日本語のわかる服務員がいたので、もっと安い部屋はないかと訊いてみたけど、アリマセンだった。
値段が高いだけあって部屋の設備に不満はない。
わたしの部屋は2階の221号室で、2階の服務員の女の子もなかなか可愛い子だった。
すぐに女の子の採点になっちゃうのがわたしの欠点だけど、かしづかれるなら可愛い女の子のほうがいいのは、男性なら誰でも感じることではないか。
現在このホテルはどうなっているのかと調べてみたら、わたしが泊まったときのままで、いまでも同じ場所にあるようだった。
しかし敦煌の名声は海外にも轟いているから、競合するホテルも増えていて、服務員の女の子もスカウト合戦になり、いまでも可愛い娘がいるかどうかワカラナイ。

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ホテルに荷物を下ろしたあと、買い物ついでに敦煌の町をふらふらした。
わたしは外国のホテルに泊まると、ホテル備えつけの石鹸はろくなものがないから、いつも外で石鹸を買うことにしているのである。
町のはずれに映画や写真で見るような、いかにも砂漠らしい雄大な砂丘(月牙泉)が見えるので、足は自然にそっちに向かった。
いまはどうか知らないけど、歩きながら眺めた感じでは、敦煌の町は知名度の割にはこんなところかと思うようなお粗末なところだった。
市内よりむしろ郊外のほうが、ヒツジや羊飼いなんかがいて、牧歌的で素敵なところである。
途中で日本でもなじみの佐川急便のトラックを見かけたけど、これは西安でも見たことがあるから驚かない。

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建物のすぐ向こうがもう砂丘で、風向き次第ではそのうち砂に埋もれてしまうのではないかと心配になる大きなホテルがあった。
1泊がいくらくらいするものか、フロントで訊いていくことにした。
このホテルは「金葉賓館」といって、300元(4,200円)ですという。
敦煌賓館なら1日で1万円くらいが飛ぶのに、こちらはその半分である。
その場で、明日は引っ越してきますと予約をしてしまったけど、じつはわたしは早まったのである。

ホテルへもどってシャワーを浴び、下着の洗濯をしたら、もうレストランは閉まってしまう時間だった。
めんどくさいから服務員の女の子にカップラーメンを売ってもらって、この晩の食事はそれだけですませてしまった。
ケチな日本人と思われたかもしれないけど、高級ホテルに泊まって、食事はインスタントでは、相手もわたしの正体を考えるのにさぞかし悩んだことだろう。
あまり乗り物に乗って砂漠ばかり見ていたので、この夜は目をつぶってもまぶたの裏に移動する砂漠が見えるほどだった。

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2024年4月17日 (水)

中国の旅/ウイグルの娘

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酒泉では裴傳哲さんが下車したあと、待ちかまえていたように隣りの部屋のごつい男性がわたしを手招きした。
男は丸坊主で、無精ヒゲをはやした相撲取りみたいな男である。
べつに友達になりたいとも思わなかったけど、この男の部屋にはどういう関係なのか、西洋人のような顔だちのかわいい娘が出入りしていた。
彼女はぴったりしたジーンズをはき、髪を茶色に染めていて、どうみても中国人らしくなかったので、わたしはずっと気にしていたのである。
彼らのほうはわたしと友だちになりたいらしかった。

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部屋へ招き入れられてお互いに自己紹介しあったところによると、彼らは兄妹で、兄はモンゴル人、妹はウイグルだという。
え、とわたしは首をかしげた。
両親のどちらかがモンゴル、一方がウイグルということなのかもしれないけど、顔がぜんぜん似ていないってのは、どういうことなのか。
夫婦のような感じはしないし、兄と妹といわれればそのほうがしっくりすることは確かなんだけど。
ひょっとすると、中国の漢族支配を打倒すべく、隠密理に活動しているモンゴルとウイグルの活動家なのかも知れない。
日本人を同志に引っ張りこもうと相談されても困るしなと、そんなアホなことを考えながら、彼らと話をした。

妹にウイグル文字で名前を書けますかと訊いてみた。
ええといって彼女はミミズがのたくったような文字をさらさらと書いた。
まるっきりわかりません、今度は漢字で書いて下さいというと
  庫尓班尼沙・克里木
と書いた。
これでクァバンニーシャ・クリムと読んで、おしまいの3文字は父親の姓だそうだ。
髪の毛の色は天然ですかと訊くとハイと答える。

彼女はモンゴルで撮ったというアルバムを見せてくれた。
その中に派手な衣装をつけて肌を露出したものがあった。
民族舞踊を見せてまわっている踊り子らしかったけど、日本語のひらがなが入っていては理解できないだろうと思い、漢字だけで“踊人”ですかと訊くとええと答えた。
現在19歳だそうで、踊り子の写真には94年の日付が入っていた。
ということは16の時から踊っているということか。
そんな小娘が踊り子になって中国各地をまわっているというのも理解しにくいけど、言葉の不自由なわたしのことで、どこかになにかの齟齬が入っているのかも。

彼女はまったくくったくがない無邪気な子で、ウルムチ市の住所まで教えてくれた。
もっとも、これは写真を送ってくれという意味である。

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モンゴル人の兄のほうは趙慧明さん。
考えてみるとウイグル人もモンゴル人も、わたしはこんな間近に見るのは初めてである。
しかしモンゴル語もウイグル語もまったく知らないわたしの会話がはずむわけがない。
司馬遼太郎のモンゴル紀行は繰り返し読んでいたけど、彼らが日本の作家に詳しいとも思えないし、大相撲にはモンゴル人の関取がいることはいたけど、あれは外モンゴルのほうだしなあと、なかなか話題が思いつかない。
わたしもいつかモンゴルに行ってみたいです、天幕で羊のシシカバブを食べてみたいですとしかいえなかった。
しかしこういうときは、すべての民族に漢語を教育する中国政府の方針に感謝するしかない。
民族が異なり言語も違っていても、表意文字の中国語を使うかぎり、わたしも自己紹介や相手の名前を聞くことぐらいはできたからである。

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昼になると朝の寒さがウソのように暖くなった。
あいかわらず日はさんさんと輝き、浮いた気分で車掌や旅の同行者たちと言葉をかわす。
嘉峪関で2人の若者がわたしの部屋に入ってきた。
ひとりは多少英語を話し、四川省の成都から来て、なにか果物の取引でハニまで行くという。
つぎからつぎへといろんな道連れができるものだ。

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13時、依然として荒撫の砂漠をゆく。
左手にはあいかわらず雪をいただいた山、右手にも山脈が見えてきた。
雪山のふもとにエントツの立ち並ぶなにかの工場が小さく見える。
右側には線路にそって道路が走っているらしく、時おり屋根に荷物を積んたバスが走っているのが見える。
それにしてもなんて奇妙な光景だろう。
手前には不毛の砂漠、その向こうにしたたるような緑のベルト、その向こうにふたたび赤茶けた砂漠、そしてその向こうが白い雪山だ。
空気が澄んでいるのでこれらの間に何の障害物もない。

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13時40分に低高舗という駅に停車した。
ホームに下りてみると、ま夏のような日差しの中、ポプラのこずえが風にゆれ、綿毛が雪のように舞っていた。
青い麦の中にはちらほら菜の花(らしい花)も見える。
なんという素晴らしいところに来ただろうと思う。
玉門鎮では車掌たちがいっせいに上着を脱ぎ捨てて白いワイシャツ姿になった。

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15時ごろになって食堂者へメシを食いに行く。
メシというより、ビールを飲みに行ったようなもので、トマトと肉の炒めものは美味しかったものの、もうひとつ何がなんだかわからないものを頼んだら、またニラと肉の炒めものが出てきた。
これで36元!
毎度のことだけど、くそ、これでもう敦煌へ着くまで何も食べないぞと思う。
メシを食っているとき流鞘河という駅で停車した。
この駅のホームにはねじれた幹を持つ立派なヤナギの木があったけど、雨が降らないので葉がしわしわだ。

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景色を注視していると、砂漠の中にずぅーっと帯のように、そこだけ枯れ草が茂っている部分がいくすじもあった。
水が流れた跡にちがいない。
列車は河をなん本もまたぐけど、ほとんどの河は河床が干上がった水無し河である。
それでも大雨が降って洪水になることもあるそうで、あちこちで線路の下に水を流すための渠が作られているのを見た。
だだっ広い砂漠で洪水なんて信じられないと思っていたわたしは、このあとトルファンに行ったとき、じっさいにその痕跡を見ることになるのである。

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15時半、ふたたび砂漠、砂漠。
右手の地平線上に青く山脈がひとつ見え、地平線すれすれにはかげろうが立ちのぼり、遠くから見ると湖があるように見える。
渇死寸前のむかしの旅人がだまされたのも無理はない。
真昼の静寂の中で、聞こえるのは機関車がレールの継ぎ目をひろう単調な調べのみ。
砂漠の旅なんて、ふつうの人には退屈きわまりないものだろうけど、わたしは博物学者の目とこころを持っている(そのつもりでいる)ので、退屈はしない。
博物学者というものは、砂漠にいても海洋のまっただ中にいても、いや、虚無の宇宙空間にいてさえ退屈しない人種なのである。

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敦煌にいちばん近い駅、柳園に近づくと、あたりの砂漠はまた威容を変えた。
炭鉱のボタ山のような黒い丘がはてしなく積み重なったようで、植物などまったく生えていない。
可愛らしいウイグルの娘とお別れの時がきた。
列車は定刻どおりに柳園に到着し、わたしはここからバスで敦煌に向かうのである。
何か記念の品をあげて、わたしのことをおぼえておいてもらいたい。
そう思ったわたしはクァバンニーシャ嬢に、たまたまポケットにあった日本の500円玉を上げることにした。
ウイグルにしてもカザフにしても、中央アジアの女性はじゃらじゃらとアクセサリーをつけるのが好きである。
だから、これに鎖をつけて首飾りにするといいよとつけ加えて。

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2024年4月14日 (日)

中国の旅/祁連山脈

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昨夜はひじょうに寒かった。
朝4時ごろ、列車の窓から外をのぞいてみると、線路の両側に威圧するようにそびえていた山塊は影をひそめ、闇の中にゆるやかな丘陵がシルエットになっていた。
左手、そしてまもなく右手にも、町の明かりらしいものが点々とあらわれた。
時刻表によると蘭州を19時59分に出て、以降の駅は、天祝、武威、金昌、山丹、張掖、酒泉、嘉峪関、低高舗などとなっている。
武威には深夜の1時52分到着だから、血走った目のわたしに恐怖を感じた前夜の美人は夜中に降りたわけだ。
武威のつぎの停車駅が金昌で、ここに到着が夜明け前の4時ごろ。
わたしがねぼけまなこでながめた町の灯は、金昌のはずれのものだったのだろう。

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闇のなかをゆっくり動いていく明かりを見て、わたしはむかしのことを思い出した。
若いころのわたしが海上自衛隊にいたことは、このブログでも何回か書いているけど、新兵のころのわたしはよく見張り当直に立たされた。
自衛艦は夜でも航海中は、艦橋の両脇に見張りがひとりずつ立つ。
冬の夜の見張りは辛いけど、夏や春秋の暖かいころならこんな楽しい仕事はなかった。
見張り中はほかの訓練そっちのけでぼうっと夢想にひたっていていいのである。
これでよくわたしの艦(ふね)が衝突しなかったものだけど、好きこそものの上手なれ、わたしは優秀な見張りということで艦長からじきじきに褒め言葉をもらったこともあるんだよ。

んなことはどうでもよくて、敦煌行きの列車のなかのこと。
地平線もさだかでない闇夜のなかに、ときどきぽつんと明かりが現れてゆっくり後方に移動していく。
自衛艦の場合はすれ違う他船の明かりであることが多いけど、このとき見たものは民家の明かりか車のライトだっただろう。
砂漠を行く夜行列車の旅は船による夜間航海に似ている。
これが砂漠の旅というものか。
しみじみとノスタルジーにひたってはみたものの、わたしはまだ本格的な砂漠というものを見ていないのだ。
明るくなったらどんな景色が見られるのだろう。

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5時半ごろ、ようやく明るくなってきたのでベッドから抜け出した。
窓からのぞくと、あたりは短い草がちょぼちょぼと生えた砂礫地帯で、山というか丘というか、ゆるやかに盛り上がった、あるいはくぼんだ赤い大地がどこまでも続いている。
この歳まで日本で育ったわたしとしては奇異としかいいようのない景色で、いよいよシルクロードに到着したなと思う。

かってNHKが放映した「シルクロード」という番組によると、シルクロードには天山山脈の北をまわるもの(天山北路)と南をまわるもの(天山南路)があり、この南まわりはさらにふたつに分岐して、タクラマカン砂漠の北側と南側をまわるルートがあることになっていた。
今回、わたしがめざしているのは、西安から敦煌、トルファン、ウルムチをへて中央アジアの国境を越える天山北路と呼ばれるものだった。
むずかしくはない。
北京や上海から鉄道で西域を目指せば、蘭州から先はそれがそのまま天山北路だ。
現在はこの区間にも高速鉄道が出来ていて、蘭州から敦煌まで7時間半で行ってしまうようだ。

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明るくなってまもなく、左手正面に雪をいただいた山脈がすがたをあらわした。
時刻からして、これは祁連(きれん)山脈の東端ということになるだろう。
砂漠のなかに突如として雪をいただいた山、わたしはくいいるように景色を眺めた。
遠いむかし、使命をおびて初めてこの地に足を踏み入れた張騫や三蔵法師などは、この山を見てどんな感慨にふけったかと思う。
進行するにつれ、また新たな白い山脈がその向こうに長大な壁となってあらわれた。

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6時ごろ、樹木の多い街が見えてきた。
わたしの想像していたものよりずっと規模が大きいけど、これがいわゆるオアシスというものらしい。
わたしはこれまでオアシスというものは、砂漠のまん中に小さな泉があって、まわりにヤシか何かがちょぼちょぼ生えているだけのものと思っていた。
とんでもない、わたしがここで見たものは、日本のひとつの市町村くらいの広さがある。

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目がさめてから最初に停車した駅は山丹だった。
ポプラが高々とそびえたち、緑の農地がひろがる美しい土地に見える。
駅からそれほど遠くない場所に、朝日に照らされた褐色の岩山がそびえていていた。
駅のホームにおりてみると、まだ日がのぼったばかりなので、空気がひんやりしていて気持ちがいい。
列車のわきに立つ車掌の中にはコートをはおっている者もいた。

山丹をすぎると、左手には大きな湖があらわれた。
この文章を書くために念のため確認してみたら、これは川の一部のようだから人工的なダムだったかも知れない。
幅は広いところでも600メートルぐらいしかないけど、長さは5キロ以上あり、列車からは長辺のほうを見ることになるのである。

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わたしはなにか動物がいないかと砂漠に目をこらしてみた。
ウシ、ウマ、ラバ、ロバ、ヒツジ、ヤギ、そしてラクダまで、家畜ならけっこういろんなものを見られるんだけど、野生動物というと、緑のあるところで小鳥とカケスのような鳥をいくつか見ただけだった。
同室の中国人に筆談で質問をしてみた。
この人の名前は「裴傳哲」さん。
顔つきはわたしの弟の嫁さんの父親という人の若いころに似ていた。
人生は同じ役者が繰り返し登場する舞台劇のようなもの、という感慨がまたむらむら。

裴さんにこのあたりの砂漠にはなにか野生動物はいますかと尋ねると、狼、アナグマ、イタチ、タカ、ユキヒョウ、黄羊、青羊などを教えてくれた。
しかしユキヒョウなんて、線路のかたわらをうろうろしているわけがないし、黄羊、青羊なんてどんな動物なのか見当もつかない。
双眼鏡をかかえたえわたしでさえ、列車の中からなにか野生の動物を発見するのはむずかしかった。

こんな砂漠でヤギやヒツジは何を食べているんですかねと訊くと、裴さんは、このへんの草は根がとても深いんだという。
ああ、こういうことですかと、わたしがさらさらと根を深くはった植物の絵を描くと、キミは漫画家だなとほめてくれた。
この人の職業はわからないけど、つい最近敦煌にも行ったことがあるよといい、なかなか博識の人らしく、砂漠の由来などにについても教えてくれたようだったけど、わたしの語学力で学術的な話は無理である。

目をさましてから山丹まではまったくの荒撫の地といってよかったけど、山丹を過ぎてからはしばらく、ポプラの並木と民家の集落が点在する平野をゆく。
左手遠方の祁連山脈どこまでも続いている。

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山丹のつぎは張掖で、ここに停車したのは朝の7時17分。
停車中、ホームで記念写真を撮っている女性2人が、日本製のカメラを持っているのに気がついた。
日本人ですかと訊くと、けっこう上手な日本語でシンガポールですと答えた。
どうして日本語をと重ねて質問すると、コスモポリタンだからという。
世界を見てまわっている大先輩なのだろう。

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張掖は日本アルプスをのぞむ信州の田舎のような、どこか日本の農村を思わせる水気の多い田園地帯だった。
空は雲ひとつない快晴で、さわやかな風が吹きわたっているらしく、立ち並ぶポプラの葉がみな同じ方向にゆれている。
腹をすかせたわたしは食堂車に行き、朝食はパン、ハムエッグ、それにお粥で20元。

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張掖を出るとまもなく、驚くべきことに水田があらわれた。
四角く区切られた田んぼのなかに、日本に比べるとだいぶ乱雑だけど、ちゃんと稲らしきものが等間隔で植えられている。
え、おい、ここはシルクロードだぞ、砂漠の国だぞ、田んぼなんかあっていいのかと、大きな疑問につきあたったわたしはうめいた。
うめいても仕方ないから、帰りに寄れたら張掖に寄ってみることにした。

9時半、あいかわらず荒涼とした風景が続いている。
空気が澄んでいるせいだろう、左手の雪を頂いた山脈がすぐそこにあるようにくっきりと見える。
目測で山までの距離が計りにくいので裴さん
  空気明瞭 我不能計算 到那是山脈的距離
こう訊ねたところ 20キロから50キロくらいだろうという。
あそこに見える山はどのくらいの高さがありますかと訊くと、彼は紙に4千メートル以上と書いた。
そんな高さに見えないけど、いま列車が走っている場所ですでに1700から1900メートルあるというし、空気の澄みぐあいはまさに高原のそれだから、さもありなんである。
日本の鉄道でいちばん標高の高い場所は、信州の野辺山の1346メートルだから、このあたりはそれより高いということになる。
それなのに7月、8月には大雨が降って洪水になることもあるという。

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10時ごろ、左手の山すそに緑の帯のようにオアシスが広がっているのが見えた。
もしあれがずっと昔からあるものなら、けっこう想像していたよりオアシスの数は多いなと思う。
このあたりでは旅人の視界内に、つねにいくつかのオアシスが見えていたんじゃないか。
ただ右手には山も丘も見えず、ただもうだだっ広い空間が広がっていた。
こちら側は内モンゴル自治区で、ゴビ砂漠のへりをかすめているはずだ。

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2024年4月 6日 (土)

中国の旅/蘭山

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白塔山からタクシーで蘭州市内にある東方紅広場へ行ってみた。
ここは蘭州市内の中心だけど、行ってみると大きな体育館を中心にしただだっ広い広場で、スポーツにあまり興味のないわたしには、人間以外にとくに見るものはなかった。
広場をぶらついているうち、この地下全体が商店街になっていることがわかった。
デパートを地下にもぐらせたみたいで、店の数は多かったけど、上海を見てきたわたしには、とくべつに目を引く店があるわけでもない。
充血した目が気になって仕方ないので、広場の近くでたまたま見つけた薬屋へ寄ってみた。
紙に「我疲了=わたしは疲れた」と買いて、サングラスをはずしてみせると、なるほどとうなづいて、薬屋が出してくれた点眼薬が2元プラス。
予想よりだいぶ安かったけど、漢方の秘薬というようなものではなく、日本でもよく見かけるプラスチックの小瓶に入った気休めみたいな薬だったので、効果は期待できない。

金城賓館まで歩けない距離ではないはずなので、タクシーに乗らず徒歩でぶらぶらして、ホテルの近所の食堂がずらりと並ぶ横丁で食事をしていくことにした。
回族の店や新彊料理なんて店もあったけど、ま、そのへんのありきたりの蘭州料理の店へ。
この日も朝からろくなものを食べてないから、栄養補給のつもりで鉄板焼牛肉、キノコと豚肉炒め、マーボ豆腐、例によって生トマトなどを注文した。
鉄板焼がこないうちに腹がいっぱいになってしまった・・・・ところへ、女の子が牛肉を切らしてますと言い訳にきた。
これ幸いと鉄板焼はキャンセル。
それでは申し訳ないので、何か水果(果物)はないかと訊くと、彼女は香蕉、苹果とふたつの果物の名前を書いた。
あとのほうはリンゴのことだけど、前のほうはなんだっけ。
わからないほうでいいといったら、女の子はとなりの露店でバナナを1本買ってきた。

蘭州には2泊して、その後敦煌に向かう予定でいたから、この日のうちに列車のチケットを確保しておきたい。
金城賓館へもどってフロントで、このホテルでは列車の切符を手配できますかと尋ねると、駅へ行けばありますって、そんなことは当たり前だ。
駅は混むからイヤなんだとぼやきつつ、いちおう駅へ行ってみることにした。

時刻表を片手に駅の窓口で声をかけると、売場の女の子がぱっぱっとパソコンをたたいて、その便はありません、こっちの便ならありますという。
こっちの便というのが気に入らなかったので、もうひとつ別の希望を出してみたが、やはり没有である。
どうも態度を見ていると、いちどこれを売ると決めたらなにがなんでもそれしか売らないつもりのようにも見える。
中国の駅では客の抵抗は無駄である。
おかげで最初の希望は11:43分発だったのに、けっきょく19:59分発のものにされてしまった。
これだと敦煌のもより駅である柳園到着が16:59である。
この時間は西域ではまだ昼間だけど、なんせ初めての土地だから、その日のうちに敦煌まで行けるかどうかわからないし、ホテルもぜんぜん予約してないのである。
しかしこれが中国の旅だと思って納得することにして、なんとか手に入れた切符は、例によって軟臥車(1等寝台)で230元くらい。
はっきり覚えてないけど、300元出しておつりをもらったことだけは確かである。

この晩はホテルで濡れタオルを目の上にのせて寝た。
翌朝には充血がひいているようにと祈りながら。

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翌日は朝7時半起床。
前日はたっぷり休養をとり、いろいろ手をくだしたにもかかわらず、目の充血はひいていなかった。
やれやれ、血走った目のまま、この日の夜に蘭州を発たなければならないのかとがっかり。
列車の時間が夜なので、どこかで時間をつぶさなければならないから、この日は蘭州で、黄河をはさんで白塔山の対極にある蘭山公園に行ってみることにした。
朝食はまたホテル近所の食堂街へ行く。

釜から湯気の立っている店に食い気を誘われたから、首をつっこみ、たまたまテーブルで麺を食っていた客がいたので、これと同じものをというと、店員はなんとかかんとかという。
これと同じものといって指さしているのだから、誰にだったわかりそうなものなのに、やはり店員はなんとかかんとかを繰り返す。
そのとき店のなかにいた若者が、日本語で、「太い麺にしますか、細い麺にしますかと聞いてるんですよ」と声をかけてくれた。
意味はわかったけど、今度はどうしてこんな店に日本語のわかる人がといぶかしく思った。
たまたまこの店の隣りのビルの5階に、甘粛省シルクロード旅行者という会社があり、そこの従業員がこの店に食事に来ていたのだそうだ。
おかげで無事にメシを食い終えて、これが1元7毛。
これでは栄養失調になってしまわないか。

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11時にホテルをチェケアウトして、大きな荷物はホテルに預け、カメラやモバイルギアだけを持って蘭山に出かけた。
蘭山の高さは、えーと、2000メートルと書いたネット記事もあったけど、いくらなんでもそんなに高い山には見えない。
蘭州市そのものがかなり標高の高いところにあるのかも。

ホテルのまえでタクシーをつかまえ、あの山のてっぺんまでいくらだというと10元だという。
見た感じそんな金額で行けるようには見えないと思っていたら、山のふもとにあるリフト乗り場で降ろされてしまった。
ここからリフトを利用すればいいとのことである。

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リフトはかなり長く、30~40分は乗っているだろう。
場所によっては足のすくむ高さではあるし、女性は乗る前にオシッコをすませておいたほうがいい。
リフトから見下ろすと、蘭州の市内は高層ビルが乱立し、足もとの山すそに褐色の民家がびっしりと立ち並んでいるのが見える。
おそらく近代建築がそびえる前の蘭州のおもかげを残すのは、このあたりの風景なのだろう。
10元という金額は中国人にとっては安くないらしく、徒歩で登っていく人もたくさんいた。

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蘭山山頂からの眺めはけっこうなものである。
白塔山より高いだけあって、蘭州市街とその背景の山並みまで一望だ。
はるか彼方に樹木のほとんどない、富士山の5合目以上のような不毛の山脈が連なっているのが見える。
日本の山脈と異なる異様な風景で、ここから先はシルクロードの砂漠なのだという感慨がひしひしと伝わってくる。

山頂に塔があり、近くに観光客相手のウマやラクダがいた。
回族の若者がウマに乗らないかとしきりにすすめてきたけど、一巡する時間も料金もわからないし、いまいる場所以上にいい景色が見えるとも思えないからやめておいた。
ウマの待機場の近くにゴミ捨て場があって、例のネズミの化け物みたいなやつ(マーモットの仲間)が餌をあさっていた。
民家のわきや集落の裏山にすぎないような場所に、これだけ自然が残っているとはうれしい話だけど、発展する中国で彼らはいつまでのんきにゴミをあさっていられるだろう。

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帰りは山頂から小型の路線バスで下山することにした。
客がいっぱいになるまで発車しないのが難点だけど、乗り合いでひとり5元だったし、わたしには急ぐ理由がひとつもなかったのだ。
しかしこいつはポンコツのくせに、運転手がつづれ織りの山道をやたら飛ばすので恐ろしかった。
これではリフトのほうがよほどマシだと思い、とちゅうにあった見晴らし台のようなところで、ここでいいやと下りてしまった。
そこからなら徒歩でも街まで30分もあれば下りられるだろう。
樹木のほとんど生えてない山だからどこからでも下界が見えるので、初めて来た者でも迷いようがない。
ここに載せた4枚組の写真は下山する途中、あるいは下山した場所で見た景色。

下山はしたものの、列車の発車までまだ5時間もある。
ヤケクソになって、タクシーをつかまえて前日に行った中山橋まで行ってみることにした。
ここには川べりに休憩所があって、レンタルの寝椅子もあった。
黄河の川岸で川風に吹かれて昼寝でもしたらさぞかし気持ちがいいだろう。
寝椅子は八宝茶のドリンクがついて、5元だった。

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河べりでワープロを打っていたら、目の前に奇妙な乗り物があらわれた。
NHKの「シルクロード」にも出てきたけど、「羊皮筏子」といって、羊の皮に空気を入れてふくらませたものを、10個ばかり束ねてイカダにしたものである。
観光用で船頭が乗ってみないかという。
20元は高い、そのへんまででいいから10元にしろよとねぎって乗ってみることにした。
荷物をとなりの寝椅子にすわっている娘に、勝手に「お願いしまーす」といい置いて、ふらりふらりと川面をただよってみる。
あまり遠くまで行くともどってくるのが大変だし、預けた荷物も心配だから、ほんの30メートルほどこぎだしてすぐ陸にもどった。

中山橋を渡って白塔山の下の清真寺(モスク)まで歩いてみる。
清真寺は白塔山ロープウェイからま下に見える茶色の建物群の中にあり、ここは回族の部落らしかった。
山の斜面にレンガの建物が複雑に重なり、なんとなく写真で見たカスバを想像したものの、よそ者が寄りつける雰囲気てはないので、外からながめただけで引き上げた。

タクシーでまた東方紅広場までいく。
広場の地下商店街でビール、チャーハン、マーボ豆腐などの食事をして、これは22元。
ついでにトイレを借用し、さらに街をぶらぶらして、ようやく駅へ行ってもいい時間になった。

金城賓館で預けてあった旅行用のスーツケースを受け取り、タクシーで駅前に到着したのが18時20分ごろで、列車の発車までまだ1時間半あったけど、このあとは駅の待合室で時間をつぶすことにした。
列車は蘭州発のウルムチ行きで、時間がくるとわたしの席へは車掌が案内してくれた。

個室へ入ってびっくりした。
ものすごい美人がベッドに腰をおろしているではないか。

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彼女はわたしの同室で、武威まで行くといっていたけど、こんな美人といっしょなら南極まででも行きたい。
残念というか気のドクというか、彼女は目を血走らせたわたしに度肝を抜かれたらしく、あとでべつの部屋に移動(遁走?)してしまった。
残念だけど、どうせたんと会話ができるはずがないのだ。
部屋に残ったのは無骨そうな中国人男性ひとりになったので、わたしはさっさと寝ることにした。
出発してまもなく日が暮れた。
空には三日月、地には荒涼とした山の影が黒々と、わたしはすでにウルムチまでの距離の半分以上を超えた。

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2024年4月 2日 (火)

中国の旅/花瓶姑娘

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さあまたスタートだ。どこまで行ったっけ。

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蘭州のホテルで朝おきて、鏡を見てギョッとした。
右目の白目の部分に血がにじんでいたのだ。
いまなら旅先でもネットでいろいろ調べられるけど、当時はまだインターネットもWI-FIもなかったし、こんなことは生まれてはじめての体験だったので、いささか狼狽した。
これは結膜下出血といって、命や眼球に影響はないそうだけど、どうも見た目がわるい。
はたから見ると、文字通り目を血走らせた、前科10犯の強姦魔のように見えてしまう。
こんな状態で街を散策する気にもなれやしない。
疲れている気はしないけど、空は曇っているし、今日いちにちホテルで休養していようかと思う。

そういうことで、朝メシも食わずにベッドでワープロを打っていた。
わたしはこの旅に35ミリの一眼レフを持ってこないかわり、買ったばかりのミニワープロを持参していたのである。
わたしの大きな欠点は記憶力が弱いことで、旅先で見たもの、驚くべきものなどの詳細をすぐに忘れてしまう。
将来紀行記を書いてやろうと大望(妄想?)を抱いていたわたしには、旅を記録するメモ帳がどうしても必要だったのに、わたしのもうひとつの欠点が乱筆ということで、肉筆となると、もう自分でもイヤになるようなふざけた文字しか書けないのだ。
ありがたいことに97年当時はワープロという、わたしのために生まれたような筆記用具が普及していた。
乱筆が印刷文字のように美しく変貌するのをみて、わたしはたちまちワープロのとりこになってしまい、逆にワープロがなければなにも書けなくなってしまった。
わたしみたいなタイプがどのくらいいるか知らないけど、とにかくわたしには、旅先に持ち歩けるワープロはカメラ以上の必需品だったのだ。

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そういうわけで、発売されたばかりのNECのモバイルギアを打って時間をつぶした。
しかし部屋でごろごろしていたのでは体にいいわけがないし、体によくなければ目の充血もいつになってもひかないかも知れない。
そこで9時ごろ、金城賓館のすぐ横にある市場や食堂のならぶ路地に出かけ、平べったいパンを2枚、缶コーラ、それに今度はモモを5コばかり買ってもどる。
部屋へもどってもぐもぐやっていたら、服務員たちが掃除にきて部屋を追い出されてしまった。

目の充血はひけてなかったけど、さすがに1日寝ている気にもなれないので、甘粛省博物館へ行ってみることにした。
これまでの経験からどうせろくなもんじゃあるまいと覚悟していたけど、やはりろくなもんじゃなかった。
建物は立派であるものの、現在ではホコリだらけの倉庫のようなていたらくになってしまっていた。
ずかずかと建物に入っていったら、ロビーに机をならべて受け付けみたいな若者が数人いて、正面に香港返還までの足どり展みたいな看板が出ている。
そんなものに興味はない。
横のほうでは革命戦士のなんとかかんとか展。
これも見たくない。
机の前の若者に尋ねると、2階を指すからいわれるままに上がってみたら、1室で清の故宮展とか、あまり甘粛省と関係ない催し物をしていた。

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腹を立てて外に出ると、博物館の近くに人のごったがえす市場があった。
博物館よりよっぽどおもしろいやってわけで、人込みの中へ入っていくと、サングラスを売っている露店があった。
充血した目を気にしていたところだから、これ幸いとひとつ買っていくことにした。
レーバンを模したサングラスが、なんと25元=350円だという。
どうせ安物に決まっているけど、これだけ安いと、たとえ2日3日で壊れても惜しくない。
いったいいつまでもつか、試してみてやれと買ってしまった。
よく見たらレーバンがRoyBarになっていた。

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つぎに蘭州一の観光地である白塔山公園へ向かう。
白塔山は蘭州市内の黄河北岸にそびえる山で、そんな高い山ではないけど、それでも標高が1700メートルあるという。
ここに載せた写真は蘭州にいる知り合いに頼んで、最近のものを送ってもらったもので、当時とようすは変わってない。
手前の橋が中山橋だ。

白塔山は黄河にかかる中山橋のたもとから登り始めるので、そこまでとタクシーに指示。
タクシーは軽が基本料金6元=85円くらいで、シャレードが9元=125円くらい。
市内のたいていのところは200円もあれば行ってしまうので、つい気軽に利用してしまうのはどこでもいっしょ。

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中山橋のたもとには観光客がたくさんいて、独特の帽子をかぶった回族が多かった。
このあたりは観光名所になっていて、地面につまらない景品をならべた輪投げ屋や射的屋、ビリヤード、土産もの屋などが多く、観光客が写真を撮ったり、遊戯施設で遊んだりしていて、ひと昔まえの日本の温泉地と変わらない景色だった。

徒歩で橋を渡って白塔山の登り口に向かう。
白塔山公園の山頂まで、とちゅうにある寺や展望台で休憩をしながら登っても1時間はかからない。
公園の入場料は、外国人は10元と書いてあったけど、だまって1張といったら5元ですんだ。

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山道を登っていく途中に「花瓶姑娘」という看板を出した見せ物小屋があった。
花瓶と若い娘をモチーフにした彫刻でも展示してあるのかなと、深く考えずに中へ入ってみた。
見せ物小屋の中は10人も入ったらおしあいへしあいする程度の広さだ。
先に入っている人の肩ごしにのぞいてみて、あらら!
小屋の奥に仏壇のような小房があり、まん中にクビの細い花瓶が置かれている。
その花瓶の上にニッコリほほ笑んだ美しい小姐の顔が乗っていた。
乗っているだけではなく、この顔は「みなさん、コンニチワ」と挨拶をする。
作り物ではなく、どう見ても本物の人間の顔である。
中国人はかって、子供を小さいうちから箱に閉じ込めて成長させ、奇形化した子供を残酷で非人間的な見せ物にしたという。
しかしいくらなんでも、人間の腕さえ入らない細い花瓶の中に美女の体を押し込めるものか。
よくマジックで、箱に入った美女を箱ごと裁断して、それでも箱からつき出た美女の顔はニッコリほほ笑んでいるというのがあるけど、これもどうもその手のトリックらしい。

わたしはマジックのタネをあばこうとじっと目をこらした。
最初は水平に寝た女性が、顔を花瓶の上に突き出し、肩から下をどうにかして隠したのかと思った。
しかし壁までの奥ゆきは30センチくらいある。
ろくろ首でもないかぎり、向こうからこちらへ首を突き出して肩を隠せるものではないし、だいいちそんな体勢でいつまで寝ていられるものか。
花瓶の周囲に鏡を置いて、目を錯覚させるということも聞いたことがある。
しかし鏡があるようでもない。
けっきょくわたしは首をかしげたまま小屋をあとにした。
ほかの客もみんな首をかしげていた。

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白塔山公園も山頂あたりでは眺めはなかなかのものだ。
眼下には茶色く濁った黄河が流れ、渡ってきたばかりの中山橋が見え、その向こうに蘭州市街が一望である。
ネットで蘭州を検索すると、ここから撮った写真がたくさんヒットするから、まず蘭州いちの展望台であることは間違いない。
寺院もあるけど、そんなものに興味はないので無視。

山頂ふきんにはいかにも観光地にありがちな安っぽい食堂や、ヨシズ張りの休憩所などがあった。
そんな場所でバーベキューをやっているグループもいた。
新鮮な魚肉類を屋外で焼いて食べるのは美味しいもののはずだけど、彼らが焼いていたのはどうも干した川魚らしく、親指くらいのフナの煮干しでパーティなんてどうもダサいものばかりである。

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腹がへったので売店でチマキを2コばかり買ってみた。
小さな女の子が5元ですというから、高いよ、おいといって、頭をこつんとこづくと、えへへと笑った。
チマキを食っているとどこかでイヌの吠える声がする。
売店の近くに1匹のシェパードが飼われていた。
売店でパンを買ってシェパードに食わせてみると、食べることは食べたけど、あまり嬉しそうでもなかった。
イヌに餌を買ってやるくらいなら、とちゅうで見かけた乞食にめぐむべきだったかもしれない。

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下山は黄河をまたぐロープウエイに乗ることにして、これが8元。
やはり知り合いから送られてきた写真で見ると、最近ではゴンドラも97年当時に比べれるとカラフルになり、近くにジップラインと呼ばれる、人間が直接ロープにぶら下がって黄河を横目に見ながら山を下る遊戯施設もできていた。

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ロープウエイのゴンドラは3つづつかたまってやってきて、わたしの前のゴンドラに小さな女の子が乗った。
わたしの乗ったゴンドラが白塔山の山肌をかすめるとき、ネコぐらいの大きさのネズミのような動物が草をはんでいるのが見えた。
数メートル離れたところから見ている人間なんぞまったく気にするようすがない。
わたしは窓から顔を出して、前のゴンドラの女の子に、おーい、あそこになにかいるよと教えてやる。
あとでわかるけど、この小動物は蘭州ではめずらしいものではなかった。
べつの場所ではゴミ捨て場で、盛大に残飯をあさっているのを見たから、習性はネズミに似ており、リスほどふさふさしているわけではないけど、短い尻尾に毛が生えていたから、最近YouTubeで人気者のマーモットの仲間だろう。

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2024年3月16日 (土)

中国の旅/蘭州

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蘭州の駅に降り立ったわたしは、異様な雰囲気に息をのんだ。
駅前はこれまで見てきた中国の街と同じように、どこかやぼったい雰囲気はあったものの、ほかに特に変わったところがあるわけではない。
わたしが気がついたのは、広場のあちこちに、白い帽子の集団がたむろしていたことである。
これはすべて回族(中国のイスラム教徒)で、べつに通勤通学のサラリーマンや学生ではなく、昼間から用事もないのに集まっている人たちらしかった。
風貌はふつうの漢族と変わらない中国人だから、白い帽子をかぶってなければ回族ということはわからない。
西安で回族の居住区を見たことがあるけど、あそこでは回族は特定の範囲内にかたまって生活していたのに対し、ここでは街全体が、まるでカルト宗教に乗っ取られたみたいだった。
蘭州は回族の街だったのだ。

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わたしはこれまで洛陽から鄭州、開封まで、徹底的に黄河にこだわってきたけど、たいていの場合それは車で行く郊外にあった。
しかし蘭州では黄河はほとんど街のまん中を流れているといってよい。
川が先にあったのか、街が先にあったのかと問えば、まあ、川があってそのまわりに自然発生的に街が形成されたんだろうけど、蘭州について詳しいことはまたウィキペディアを参照のこと。
ウィキは97年にはまだなかったし、わたしもじっさいに行ってみるまでなにも知らなかったのだから、エラそうなことはいわないけど、蘭州は当時でも高層ビルが立ちならぶ大都会だった。
いまでもたまにメールをくれるわたしの中国人の知り合いはここに住んでいて、わたしはその後、この街に何回も行っているのである。

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蘭州ではあらかじめ調べてあった金城賓館というホテルに行ってみることにした。
ちなみに“金城”というのは蘭州の古い雅称で、日本の奈良を斑鳩というようなものらしい。
と思っていたら、じつはこの名前のホテルは北京にもあるし、広州にもあって、中国では固有名詞ではなくほとんど普通名詞。
それも同系列のチェーンホテルというわけでもなく、いまのところ本家争いも起きてないようだった。
駅から北に向かって大通りがのびていて、金城賓館はそれをまっすぐ2、3キロ行ったところにあった。
駅からタクシーに乗って7元だったから、歩いても行けない距離ではないので、わたしはあとでじっさいに歩いてみた。

金城賓館は高層の建物で、なかなか立派なホテルだった。
フロントで1晩いくらと訊くと、4種類くらいの料金を示した。
高いほうの2種はスィートだったから、安いほうの2種のうち、見栄をはって高いほうを選んだ。
385元(5千円くらい)だから、このていどの見栄ではまだ日本の民宿より安い。
部屋は3階の331号室で、窓の下に花壇があり、きれいな花が咲いているのが見えた。
さらに視線をずうっと遠方に持っていくと、駅の方角になり、その先に山がそびえているのが見える。
この山は蘭山で、全体が公園になっており、歩いても登れるし、歩くのが嫌いな人はリフトに乗って山頂まで行ける。

ホテルの写真を撮ってなかった。
じつは今回のわたしは荷物を軽くするために、カメラはニコンのコンパクトカメラである35Tiしか持参しなかったのだ。
おかげで交換レンズやストロボも不要になったのはいいけど、よっぽどおもしろい写真でないと撮りこぼしが多くなった。
中国旅行も最初のうちは、ナショナル・ジオグラフィックに投稿するぞと、リバーサルフィルムまで持ち込んだのに、そんなことをしたら帰国後に現像代で破産することがわかってしまったのだ。

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ネットで探してみても、金城賓館の全景をとらえた写真が見つからず、やっと見つけたのがこんな小さなもの。
おかげでホテルの細かい部分が思い出せない。
蘭州ではこのあと移動した蘭州飯店や、べつの機会に泊まった天馬大酒店のほうがはっきり記憶に残っているんだけどね。

金城賓館ではまずシャワーを浴びることにした。
中国の鉄道に1日ゆられると体中がススぼけた気分になってしまう。
バスルームの見た目は悪くなかったけど、排水が不調で、不要の水が栓を抜いてもいつまでたっても出ていかない。
見えないところで手抜きをするのは中国人の悪いクセだ。
ついでに下着の洗濯もした。
洗濯物は洗面台でゆすいだけど、こんどはこの栓がきっちりはまって抜けなくなってしまった。
若い男性服務員においおいと訴えると、やっこさん、部屋の備品の中から小さな針を持ち出して奮闘してくれた。
洗濯ずみのパンツや靴下を部屋中の突起物にひっかけ、ようやく落ちついて外出しようという気になる。

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蘭州に到着したのは中国時間で19ごろだったけど、こちらでは時差の関係でまだ明るい。
体感としては、こちらの夜の7時が、日本の夕方5時という感じだ。
洗濯を終えたころ、ようやく日はとっぷり暮れた。
ホテルの前で軽タクシーをつかまえて駅まで走らせる。
駅前で市内の地図を売っている店を探してみたら、ようやく見つけた店では、店員がごそごそやって、何かボールペンの書き込みのある古い地図を出してくれた。
どうも誰かが使用したもので、売り物ではなかったらしい。
それでも2元だというから、わたしは無抵抗でそれを買い込んだ。
日本人は職人の腕は確かだけど、売ったり買ったり売りつけられたりでは、とても中国人やユダヤ人にかなわないのである。

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このあとホテルにもどるつもりで、駅前の大通りをぶらぶら歩く。
蘭州は甘粛省の省都なので、この通りには甘粛省の最高学府である蘭州大学もある。
ホテルの近くには、路地に屋台をならべた食堂街があった。
いい匂いにつられてここで晩メシを食っていくことにした。
白い帽子の回族の若者の屋台で、まず串に刺した羊肉4本(1本1元)を食べて、これは日本でヤキトリというんだよとつまんないうんちくを述べる。
つぎに近くのこぎたない食堂に入ってみた。
べつの席の女の子が食べていた、見るからに辛そうなスープの中の餃子が美味しそうだった。
あれは鄭州で食べて味をしめた酸辣湯に餃子を加えたものではないか。
それをぜひ食べたかったけど、言葉の齟齬もあって、皿に持られただけの水餃子を出されてしまった。
このときわたしが食べたのは“大肉餃子”というものだそうで、ビールこみで8元くらい。

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帰りに屋台の八百屋で、最近日本でも見かけるようになった、果物のライチを買って、これが29元。
ぼられたような気がするけど、ライチは中国語で“茘枝”といって、かっては楊貴妃も愛したという貴重な果物だそうだ。
このころはまだ日本でも珍しかったので、わたしは部屋で食べるつもりで、両手いっぱいに買い込んだ。
これで晩メシは終わりである。
この程度の浪費じゃ、金がいつになっても減らない。

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2024年3月13日 (水)

中国の旅/渭水にそって

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列車は洛陽の駅を定刻の21時13分に発車した。
ここに洛陽が出てくるのは、また女医のカクさんに会う予定があったからで、それはすでに書いたから、この旅は洛陽を出発するところから始めよう。

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わたしが軟臥車(1等寝台)の自分の個室にたどりつくと、その入口に3人の女性が立っているではないか。
若い女性たちならハーレムになるところだったけど、みなおばさんたちで、中のひとりは白人だった。
そしてひとりだけ英語と日本語の話せるおばさんがいた。
わたしは(外国映画によくあるように)礼儀正しく自己紹介をして、ワタシひとりが男ですけど、同室してかまいませんかと挨拶した。
かまいませんよと、みなさん一致した返事である。
日本語の話せるおばさんに聞いたところでは、彼女は中国人、白人女性は彼女の兄嫁で、もうひとりのおばさんは関係ない1人客だという。

もう夜だったし、あまり話をするのもはばかれたので、わたしはさっさと上段寝台で、頭のすぐ上にある扇風機に吹かれたまま横になった。
おばさんたちはみな、まだ夜の明けきってない4時ごろ、西安で下りていった。
白人女性が小さな声でわたしにバーイという。
わたしも予定していた言葉を小さな声で投げかける。
ボン・ボャージュ。
彼女たちが下車したあと、2人連れの男性が部屋に入ってきた。
天水まで行くそうだけど、相手が男なので、わたしの役者きどりもそこで終わってしまった。

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西安を過ぎるとわたしにはまったく初めての土地ということになり、わたしのシルクロードの旅は、実質的にここからがスタートである。
ここでこの旅についておおざっぱに説明しておくと
今回の旅の目的地は新疆ウイグル自治区のトルファンだった。
当時はトルファンが旅行雑誌などで“夢のトルファン”と称されていたから、わたしはぜひそこに行ってみたかったのである。
しかし諸般の事情から、まずシルクロード鉄道の終点であり、新疆の省都でもあるウルムチまで行ってしまうことにした。
ウルムチからトルファンまでは列車でせいぜい3時間だから、引き返すのはそれほどむずかしくないのである。

この旅も最初は上海に泊まった。
上海からウルムチまでは、列車で4000キロちかくあって、これは東京から鹿児島までのほぼ3倍ということになり、ノンストップで行っても3日以上かかる距離だ(ただしこの区間にはその後高速鉄道ができて、現在は42時間で行けるらしいから、これはあくまで1997年当時の目安)。
わたしには洛陽で女医のカクさんと会う予定があったし、それ以外にも列車に乗り続けというのも気が利かない話なので、途中で何ヶ所か寄り道をして行くことにした。
西安を過ぎてほぼ1日行程の場所に甘粛省の省都である蘭州があり、そこからまた1日行程には、莫高窟で有名な敦煌がある。
そういうことで、わたしは蘭州と敦煌にも寄って行くことにしたのである。

洛陽から蘭州までの列車料金は・・・・メモを確認しようとしたら、保証金を200元取られたとしか書いてなかった。
上海から洛陽までが400元ぐらいだったから、たぶんそれと同じぐらいだったと思う。
このときの人民元レートは、えーと、日本円で3万円を両替したら、2100元プラスになった。
旅慣れたつもりのわたしは、もういちいち細かい金に拘泥しないから、必要ならみなさんで勝手に計算してほしい。

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朝8時に列車のなかで目をさますと、山あいの小さな駅だった。
どんよりした曇り空で、このときわたしは丸首のシャツ(『欲望という名の電車』でマーロン・ブランドが着ていたやつ)だったけど、それでちょうど心地よいくらいである。
朝食は餐車に行って、お粥とパン3コ、ハムエッグをとった。
食事をしながらながめると、列車の左側を大きな川が蛇行しながら流れている。
これは黄河ですかと訊くと、コックやウェイトレスがいっせいに違うと答えた。
あとで調べたら、渭水(いすい)だとわかった。
黄河の支流で、このあたりでは長江、黄河のつぎに有名な川であり、中国の歴史書などでよく目にする名前である。
西安を出たらすぐに砂漠になるのかと思っていたけど、予想に反して行けども行けども山あいの景色だった。
中国の川は東に流れるといわれ、わたしは西に向かっているのだから、とうぜん川と反対向きである。

そのうち列車はどこかの駅で停車して、しばらく動かなくなってしまった。
わたしは停車中に用便をすませたけど、これは本来は禁止行為である。
正規の停車駅ならトイレに鍵がかけられてしまうはずだけど、臨時停車だったので車掌が忘れたらしい。
おかげでお腹がすっきりし、現在のところ旅は快調である。

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列車は両側に山のせばまった谷間のようなところを行く。
山にほとんど木は生えておらず、段々畑が天に近いところまで刻まれている。
耕して天に至る、貧しきかなとつぶやき、その荒々しい景色から、まるで列車でいく“三峡下り”だなと思う。
わたしは窓ガラスごしではなく、じかに写真を撮りたいから、どこか開く窓はないかとあちこち探してみた。
その結果、右側の場合は部屋から出てすぐまん前の通路の窓の上部、左側は洗面所の窓が少し開くのを発見した。
あまり清潔じゃないけど、そうはいってられないので、わたしはときどき窓からカメラを突き出して、シャッターチャンスをうかがった。

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10時半ごろ鉄橋を渡った。
川は右側になった。
5分後にまた川を渡った。
川と線路はゲームをしているように、ときどきお互いの位置を変える。
あちこちでわびしい集落を見たけど、そのまわりだけは緑が濃く、果樹園がたくさんあった。
いったい何が取れるのかと、じっと目をこらしてみたものの、ウメのサイズの青い実がちらりと見えただけだった。

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山はどこまでも続く。
ひとつ山をすぎると、その向こうからまた新たな山塊があらわれる。
どこまで行ってもどこまで行っても同じ褐色の大地だ。
山肌につづれ折れの細い道が通じているけど、あまり登山家の食指をさそう山には見えない。
あの山のてっぺんまで農作業に行くとしたら、このへんの農民はそのたびに登山をしているようなものだから、みんな足が丈夫になってしまうなと思う。
川岸にヤナギやアカシア、ポプラなどが並んでおり、じっと目をこらすと青い葉が風になびいているのがわかった。

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ときどき大きな村や小さな集落を通過して、広場で市場が開かれているのが見えたりする。
農作業にいそしんでいる農夫たちは、大きなおとなは大きなワラ束、小さな子供は小さなワラ束を運んでいた。
線路ぎわでウシに餌の草を刈ってやっている少女もいれば、子供たちが畑の中でとっくみあいをしているのも見た。
微笑ましく、どこか郷愁をさそわれる景色だ。

町が見えてきたと思ったら、12時54分、列車は甘谷という小さな町に停車した。
列車が停車するとワッともの売りが集まってくる。
ただしそれはほとんど硬座の客が目当てで、わたしの車両のほうにはやってこない。
それもそのはずで、1等車の客はほとんどいないのに、2等車ではすべての窓から客が顔を出して、弁当や惣菜、果物などを買い求めるのだ。

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甘谷をすぎた列車は、まだ青々とした麦畑のあいだをゆく。
西に進むにつれて麦はどんどん若くなって、まだ穂も出ていない畑さえあらわれた。
野菜の手入れをしている農民の姿がぽつんぽつんと見える。

昼ごろ車掌から“健力宝”という缶ビールを買う・・・・と思ったら、これは甘ったるいジュースだった。
缶のパッケージがなんとなくバドワイザーに似ているのでビールだと思ってしまったのだ。

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13時40分ごろにまた餐車で昼メシにしたけど、このころから外では雨が降り始めていた。
メニューがないからと、服務員が紙に書いてくれた料理が5つほどあって、そのなかからニラと豚肉の炒め物、なんとかいう麺にビールを頼んだ。
厨房は汚いけど、まもなくいい匂いがただよってきた。
麺は薄味でいただけなかったけど、炒め物のほうはまあまあ。
猪八戒を思わせる服務員がやけに愛想よく話しかけてくる。
まあ、飲めよと調子をあわせていると、やっこさん、勤務中なのに平気でわたしのビールを飲む。
腹の中でうんざりして、いくらと訊くと食事のトータルは46元だった。
餐車の服務員は男女7、8名いて、みんな愛想がいいけど、よってたかってむしられたみたいな気がする。

16時ごろ外をうかがうと、窓の外にはあいかわらず荒涼とした山が連なり、かたわらを濁った渭水が流れている。
単純な色彩の中で、まだ青々とした麦だけが、遠い山塊に美しい縞模様を描いている。
軟臥車のなかでは車掌以外の往来が少なくなって、ひょっとすると軟臥車の客はわたしひとりになってしまったかも知れない。
窓のすきまから侵入してくる風が冷たく、雨はまだ降っているようだから、これではわたしの西域のイメージとだいぶ異なるんだけど。

大きな煙突から煙をはいている、わりあい近代的な工場のわきを通ったら、その近くには、まっ黒な顔のヒツジの群れを追う人がいた。
通路側の窓から菜ノ花畑が見えて、これはこの地方が洛陽より寒いということだろうと思い、わたしはトレーナーを引っ張り出した。
雨は蘭州に着くまえに上がるかもしれない。

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時刻は18時半だけど、曇り空であるにもかかわらず、まだけっこう明るい。
考えてみれば、東京と北京で1時間の時差があるとすれば、東京と蘭州では2時間の時差があるかもしれない。
蘭州の手前で通路側の窓から見ると、いつのまにか、これまでよりずっと水量の多い濁流が線路のすぐ横を流れていた。
車掌に訊くと黄河だという。
山の向こうに蘭州の街が見えてきた。

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2024年3月12日 (火)

中国の旅/絲綢之路

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司馬遼太郎の書いた文章のどこかに、なんで日本人はそんなにシルクロードが好きなんですかと、中国人がおどろく場面がある。
生まれてこのかた、シルクロードに親戚もいないわたしには、なんでと聞かれてもわからないけど、個人的なことをいわせてもらえば、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンが書いた「さまよえる湖」の影響かも知れない。
これは第1次世界大戦から2次世界大戦にかけてのころ、ヘディンが現在の中国の新疆ウイグル自治区を探検した紀行記で、夢と冒険(と妄想)に明け暮れていた青少年のわたしの胸を激しく揺り動かしたものだった。
ヤルダン、メサといった砂漠の地形や、タマリスクという植物名などは、この本のせいでいまでもよくおぼえている。

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もうひとつシルクロードにあこがれる原因をつくったのは、映画「アラビアのロレンス」かも知れない。
何度も観ていると鼻につく場面があるけれど、そういうものを超越して、とにかくロレンス映画で素晴らしいのが雄大な砂漠の景色だった。
かげろうのもえる砂漠の彼方から、ラクダに乗った黒ずくめのアラビア人がやってくる。
映画史に残る名場面といえる。
けっして冒険家を名乗るほど肉体派じゃないけど、ロマンチストで空想好きなわたしは、砂漠の国へ行ってみたくてたまらなかった。

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わたしの中国の旅を追うこの紀行記は、1992年の江南地方をまわる団体旅行から始まって、蘇州や無錫、西安、洛陽や開封を通過して、とうとうシルクロードをのぞむ位置にまでやってきた。
わたしは西安にいるとき、ここから先がシルクロードなんだという気持ちをかたときも忘れたことがない。
考えると、それまで体験してきた中国の旅は、これすべてシルクロードの旅のための足慣らしだったかも知れない。
海外旅行をしたこともないわたしは、外国ですんなり宿を見つけられるのか、すんなり列車の切符が買えるのか、そういうものをゆっくりと確実にクリアしてきたのだ。

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洛陽、開封からもどって半年ほどあと、わたしは銀行へ行って貯金を下ろした。
そんなにしょっちゅう中国旅行をするほど金があったのかいという人は、わたしの中国紀行の冒頭の辞を振り返ってほしい。
わたしはあいかわらず独身で、世間から頼りにされていない生活をしていたうえ、刻一刻と過ぎ去っていく時間をムダにはできないという焦りにもとりつかれていたのだ。
無責任といわばいえ、こじんまりとした家庭の亭主に収まるくらいなら、雄大な砂漠で行き倒れたほうがマシだと、引っ込み思案のわたしには、いささか誇大妄想のケもあったかも知れない。

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慎重なわたしのことだから、出発まえにいろいろ調べた。
ただしまだインターネットなんていう便利なものは身近になっていなかったし、現代のようにグーグル、ウィキペディアで何でも調べられる時代ではなかった。
ひとくちにシルクロードというけど、それっていったいナーニ?

もちろん中国の絹をヨーロッパに運ぶための輸送路ていどのことは知っていたけど、これの意味する範囲は広く、広義にはアフガ二スタンやイランを経てローマまでのイタリア半島も含まれる。
わたしが目指したのは中国のシルクロード、つまり西安からタクラマカン砂漠の周辺をめぐり、国境の街ウルムチあたりまでである。
これより先になるとまだ言葉の壁もあるし、列車の乗り方も勉強してないので、おとなしく新疆ウイグル自治区までで我慢しておくしかない。

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わたしがシルクロードに出発する17年まえの1980年ごろ、日本の公共放送が「NHKスペシャル・シルクロード」という番組を放映した。
これは新中国になってから日中和解の方針にそって実現した、世界で初めてシルクロードを紹介するという謳い文句つきの番組だった。
この番組はNHKのお宝らしく、その後も何度か編集しなおされたり、規格を変えたりして放映されているから、わたしの部屋にはそのDVDがそっくり保存されている。
ほかにも敦煌の莫高窟なども、何度も繰り返し取材され、放映されているので、いまわたしの録画コレクションのなかに敦煌に関するものだけでも3本はある。
この紀行記のためにそれらをまた引っ張り出してみると、西安から蘭州、武威、張掖、敦煌、トルファン、ウルムチ、カシュガルなど、わたしの行ったことのある土地の記憶がまざまざとよみがえる。

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わたしは現在のように、日本が先進国ぶって世界を分断させることに熱中する以前、中国やロシアと仲のよかった時代を思って悲しくなる。
“山川異域 風月同天”という精神はいったいどこへ行ったのか。
他国の歴史や文化を知ることぐらい、人間のこころを豊かにしてくれることはないのに、そして若者たちが世界を旅するのは、わたしのころよりずっと楽になっているのに、どうしてわざわざ障壁を作ろうとするのだろう。
現在は片手に乗るスマホが翻訳機になる時代だから、言葉の壁というものは死語になりつつある。
自分の目では何も見ず、他人(と公共放送)の言い分を鵜呑みにするくらい危険なことはない。
将来悲劇に見舞われるのは、わたしではなく、いまの若者とその子供たちなのだ。

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嘆いていても仕方がない。
さあ、もう出発しよう。
死にかけたじいさんのわたしには、残された時間は多くないのだ。
ここに書こうというのは1997年6月、いまから27年まえの旅のてんまつである。

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2024年3月 7日 (木)

中国の旅/サニ族の娘

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洛陽、鄭州、開封と3つの街をめぐって、わたしはふたたび上海にもどってきた。
ここでもひとつ特筆すべきことを体験したので、最後にそれを書いておこう。

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上海ではホテルの予約なんかしてないから、また新亜大酒店に行こうか、あるいは蒋介石の別荘だったとされる瑞金賓館にと考えたけど、このときは新機軸として、うわさに聞いていたドミトリーホテルの「浦江飯店」に行ってみることにした。
海外旅行に詳しい人なら知っているだろうけど、これはようするに相部屋ホテルということで、貧乏旅行をするヒッピーや学生などにとって重宝な宿である。
しかしわたしは金持ちを自認する日本人であるから、無理に相部屋に泊まる理由はなく、あくまでドミトリーってどんなものかと見物のつもりだった。

フロントでドミトリーですかと訊かれたから、いえというと、300元の部屋と360元の部屋がありますという。
安いほうの部屋へ案内してもらった。
このホテルは入り口がふたつあり、正面から入ると、1階のフロアは大部分が、なにかいかめしい感じのオフィスとして使われているようだった。
フロントに行くには正面横にある小さい入り口のほうが入りやすい。

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ボーイにエレベーターで先導されて、わたしは3階の服務員に引き渡された。
浦江飯店の内部はあちこち改装中で、3階のわたしの部屋に通じる廊下も工事現場みたいにごたごたしていた。
部屋を見せてもらうと、やけに広々していて殺風景な部屋である。
板張りの床は、むかしなつかしい木造の小中学校の廊下みたいで、窓からとなりのビルの壁しか見えない。
こんな部屋じゃいやだ、高いほうの部屋に替えてくれというと、今度は4階の部屋に案内された。
窓からすぐ目の前にロシア領事館の建物と、外白渡橋(ガーデン・ブリッジ)が見える。
あとで外からこのホテルを眺めたら、わたしの部屋は最上階のいちばん位置のいい場所にあった。
つまり360元(5000円ぐらい)の部屋が、このホテルの最上級の部屋ということになるらしい。

新しい部屋も、わたしには不安を感じるほど広々としていた。
どうももともとは、家具の完備した事務所や個人の住宅として使われていた部屋だったようで、ベッドふたつと小さな机、タンスだけでは、まだ卓球台を置いてピンポンができるくらいの余裕がある。
ひび割れた板の床には年代が染みついていた。
部屋まで案内してくれた服務員が、窓わくはペンキ塗りたてですから気をつけて下さいという。
ホテルというより廃校になった校舎にほうりこまれたような感じだけど、360元だから文句をいう気にもなれず、まあいいやとわたしは納得した。
窓わくも指でこすってみたら、おおかた乾いていた。

後学のために5階にあるドミトリーの部屋を見せてもらうと、シーツもきれいだし、昼間からベッドにいすわっているアラブ系らしい男性もいた。
ドミトリーは1泊55元だそうで、この値段ならわるい部屋ではない。
上海に相部屋の格安ホテルありということで、浦江飯店の名は外国にも轟いているらしく、どおりでフロントあたりにバックパックを背負った若い欧米人の旅行者が多いはずだ。
欧米の若者は物価の安い中国でも徹底的にケチる。
それはまあ、ひとつの見識である。
廊下で金髪の娘がホテルの従業員に、シャワーはどこなのと尋ねていたから、共同シャワーがべつの場所にあるらしい。

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宿が決まったあとはまた外灘や南京路をぶらぶらした。
浦江飯店は中国人の差別の象徴だった外白渡橋を渡ってすぐ、バットマンのようなシルエットの上海大厦と、道路1本をはさんだとなりにあって、租界時代の上海を見物するのに好適な場所にあるのだ。

この夜は伊藤屋で食事をすることにした。
ここは蘇州への旅のとき知り合った某大企業の会長さんに教わった店で、その後何度か行ったことがあるけど、本格的な日本食が、それほど高くない料金で食べられる店である。
メニューの中からいちばん安いA定食を選ぶと、店員の娘が日本語で、それでは量が少ないのでもの足りないと思いますという。
わたしは極端な小食なんだけど、彼女は平均的中国人を基準にして親切に忠告してくれたのだろう。
それじゃこっちのでいいですと、下から2番目のB定食にした。
ついでにあなたは日本人ですかと訊いてみると、彼女はイイエと答えた。
日本人の女の子もひとりいましたが、仕事をしないのでクビになりましたという。
どうせもうすぐ帰国だといい気になって、B定食+日本酒+生トマト+オシンコ+塩辛+50元の中国酒などを食ったり呑んだりした。
勘定を頼んだら500元(7千円)近くになっていた。
もう二度と行かないぞと毒づく。

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翌朝は、前夜の食事に金を使いすぎたので、ささやかにいこうと新亜大酒店の近くまで歩き、立ち食いスナックみたいな店で、包子と豆乳だけの食事をすませた。
浦江飯店から虹口地区や新亜大酒店へも、徒歩でまわれるくらい近いのである。
おかげでこの日の朝食は 3.2元(45円くらい)ですんでしまった。

朝食のあと、日本租界のあった虹口地区をぶらぶら。
四川路の橋の上に靴みがきが出ていたから、磨かせてみたら、例のとおり、靴墨を使って、最初の言い値より高い10元とられた。
例のとおりというのは、最初は◯元だというくせに、磨いている最中、靴墨を使いますかと聞いてくる。
こっちは墨も料金に含まれていると思うから、いいよと返事をすると、あとでその分も加算されるのである。
ひどいときには、こっちの足も磨きますかと聞かれることがある。
靴というのはたいてい左右でひとつと決まっているのだから、うっかりいいよと返事をすると・・・・
わたしももう中国式靴磨きには慣れているつもりだったけど、このときは相手がひとのよさそうな老人だったのでつい引っかかってしまった。

冬の旅でも上海にいるかぎりあまり寒い思いをすることはない。
街をふらついたあと、人民公園の地下にある香港名店街の喫茶店でサンドイッチをかじりつつ、フランス式コーヒーを飲む。
ぬるくてまずいコーヒーをフランス式というのかなと思う。
それでも上海のよさは、こうして寒かったり歩き疲れたら休憩する場所がいくらでもあることだ。

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街の散策からもどると、浦江飯店の建物のわきで少数民族の女性が2人、手編みの刺繍製品を売っていた。
ひとりは野性的な顔立ちをした若い娘で、かんたんな日本語を話す。
2人とも南方の少数民族をあらわす変わった形の帽子をかぶり、そで口に美しい刺繍のある上着を着ていた。
苗族ですかとあてずっぽうで訊くと、あまりうまくない字で「撒尼族」という字を書いた。
文字どおりに読めばこれはサニ族ということになる。
雲南省の昆明から来たといっていて、そういわれればこういう名称の少数民族の名を聞いたことがあるような気がする。

帰国してからサニ族について調べてみた。
手元にある本のうち、周達生という人が書いた「中国民族誌」という本が中国の少数民族について詳しかったけど、この中の一覧表にはサニ族の名がない。
そんなバカなというわけで、図書館へでかけて「地球の歩き方/雲南・貴州編」を借りてきたら、こちらにはかなり詳しく記述されていた。

サニ族とは雲南省で最大の人口を誇るイ族の自称で、勇猛果敢で、プライドが高く、義理と人情を重んじ、礼儀正しく、女性のたしなみなどを大切にする少数民族とある。
雲南省の観光名所・石林にいくと、土産ものを売るサニ族の女性が多いという。
中国で感心するのは、彼女たちが自分のことをどうどうと、少数民族の◯◯ですと自己紹介することである。
このことからこの国では民族による差別はないことがわかる。

若いほうが、いくらの部屋に泊まっているのと日本語で訊くから、高い部屋だよとてきとうに答えておくと、いくらとしつこい。
360元と答えると、ちょっとためいきをつくような顔をした。
それだけではなく、成金の日本人に対して、いまに見ておれというような挑戦的なまなざしがあるようにも感じた。
じつはわたしはこの質問に答えたくなかったのである。
360元といえば彼女たち2人の何日分の稼ぎになるのだろう。
申しわけないと思ったわたしは、20元で刺繍入りのサイフを買って、罪ほろぼしというか、せめてもの気休めをしておいた。

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部屋にもどってテレビをつけたら、中国語の字幕つきで黒澤明の「生きる」をやっていた。
戦後すぐにつくられたこの映画の背景は、現代の中国に似ているところもあるから、かっては日本もこのように貧しかったのに、いまでは先進国のひとつにまで発展したのだと、国民を奮起させる意味があるのかもしれない。
テレビを見ているかぎり、中国はりっぱな資本主義国である。
やたらコマーシャルの数が多く、その切り替わりは日本よりもさらにせわしい。
番組が終わったあと、タイトルやクレジットを読み終わらないうちにつぎの画面に切り替わってしまうことがよくあった。

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帰国日に浦江飯店をチェックアウトすると、例のサニ族の娘がこれから店をひろげるところだった。
わたしがサヨナラというと、このホテルよくないのかと訊く。
まあねとあいまいな返事をして、そのうちわたしも雲南へ行ってみますよというと、ホント?と日本語で返事をした。
ホントなんて言葉がとっさに出てくるくらいだから、彼女の日本語は聞きおぼえていどのものではない。
いったいどこで勉強したのか訊いてみればよかった・・・・と、わたしはいつでもあとで後悔する。

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