旅から旅へ

2023年11月29日 (水)

中国の旅/長征列車の2

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朝4時ごろ目がさめた。
張おじいさんをおこさないようにそっとベッドからおりる。
明るくなれば景色を見る楽しみがあると思ったんだけど、そのあと40分たって洛陽に着いてもまだまっ暗だった。
線路と平行して、闇の中にポプラ並木があるのが、車のライトと、わずかに白い空をバックにしてわかった。
月の光のせいか、たまに通り過ぎる村落の家々はみなセメント工場のように白く見える。

昨夜は空いていた上段ベッドでさっさと寝た。
完全に日が沈むと景色はなにも見えないし、車内の明かりは本を読むには暗すぎたのだ。
明かりがついていてはわたしに迷惑と考えたらしく、張おじいさんもつきあって消灯してしまった。
明け方まで10時間以上あったから気のドクなことをした。
ところでわたしは、下段ベッドのほうが寝心地がいいだろうと思っていたけど、そうではなかった。
客が4人満室だったら、下段ベッドはソファ代わりにされて、昼間は横になることもできない。
それがわかってからは、ずぼらなわたしは特段の事情がないかぎり、列車に乗るときは上段ベッドを利用することにした。

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便所はとなりの硬臥車のものを利用した。
軟臥車にもトイレはついていたけれど、どういうわけか明かりがつかず、あまり利用されていなかった。
列車内の便所はきたない。
便所や通路はときどき車掌の朱さんがモップがけをしていたけど、よく絞ってやらないからそこら中が水びたしである。
便器は洋式ではなく日本式で、いちおう水洗であるものの、最近のわたしは長時間ウンチングの姿勢をとっていると足がしびれてしまう。

夜中に小用のためトイレに行ってみたら、硬臥車のトイレは使用中だった。
仕方がないからあまり使われてない軟臥車のトイレを使おうとしたら、こちらも使用中だったので、少しはなれたところで空くのを待っていると、ややあって女性が出てきた。
交代して入ってみると、明かりがつかないので中はまっ暗である。
わたしはドアを半開きにして通路の明かりを利用したからいいけど、あの女性はどうやって用を足したのかと思う。

うとうとして気がつくと三門狭のあたりで、夜がようやく明けていた。
わたしはふらふらと洗面所にいってみた。
洗面所は軟臥、硬臥客共用だから、利用者は多い。
水は過不足なしにちゃんと出たけど、足もとに水たまりができて、列車の動きにあわせて、あっちに行ったりこっちに来たりしていた。
わたしはつま先で立つような格好で、タオルを水でぬらし、それで寝グセのついた髪の毛を起こした。

軟臥車ではコンパートメントの片側が通路になっており、この窓ぎわには折り畳み式の椅子がついている。
座りごこちは悪いけど、個室と反対側の窓から景色を見るのに都合がいいので、わたしはしょっちゅうこれを利用した。
車掌や乗客が通るたびに肩をすぼめなければならないのか難点だけど。

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8時になったら車掌の朱さんが、食堂車がオープンしたと教えてくれた。
中国人の乗客はたいてい弁当を持参していて、食堂車なんか利用する人はほとんどおらず、張おじいさんもいちども利用しなかったけど、わたしは前日の乗車時から、今朝の朝食まで食堂車を利用しそびれ、とうとう20時間、ビスケットとミネラルウォーターだけで過ごしてしまっていた。
ようやくありついた朝食は、インドのナンのような平べったいパン(早油餅)と、お粥(餐稀飯)の定食しかなかった。
料金は8元(百円くらい)で安いけれど、どちらもあまり美味いとはいえない。
食事時になると車掌たちが弁当箱やお碗をかかえてぞろぞろと食堂車へいく。
これでは食堂車は社員食堂だなと思う。
食堂車のテーブルには造花の花とビールの瓶が飾ってあり、窓にはレースのカーテンがかかっていた。
この日のこの列車に乗っていた外国人はわたしひとりのようで、なんとなく痛快な気分である。

食事を終えて個室にもどり、また窓外の景色を見る。
霊宝という街の近くでは線路が大きくカーブしており、窓から前方をうかがうと、ディーゼル車を先頭にして、いま自分の乗っている車両まで、ずっとひとつながりに連なっている列車の全体が見える。
鉄道旅行をはっきりと実感できるダイナミックな景観である。

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目についたのは、畑や農家のまわりをかこむ土の塀で、かなり古いものらしく、全体が風雨で浸食されて、鋸の歯のようにぎざぎざになっているものが多かった。
土の塀も含めて、あたりの色彩は明るい肌色である。
江南地方の民家には、レンガの上から白いシックイを塗ったものが多かったけど、こちらではほとんどレンガがむき出しのままだ。
シックイを塗るのは水分の浸透をふせぐためということだから、乾燥地帯のこの地方の民家がレンガむき出しなのも納得がいく。
列車かときどき切り通しのようなところを抜けていくので、わたしはすぐ近くから土質を観察してみたけど、さらさらした土ではなく、踏み固めればアスファルトのように硬くなる土質らしかった。
土の塀もおそらく土を水で練って固めたものだろう。
中国の西域ではレンガが大量に使われるけど、日干しレンガといって、焼いたものではないそうである。

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張おじいさんは部屋で「若峰茶」というのを飲んでいて、わたしにも勧めてくれた。
わたしは茶碗を持っていなかったことがミスであることに気がついた。
中国ではお湯やお茶っ葉はわりあい簡単に手に入るものの、湯飲みがなくてははなしにならない。
勧められたお茶を飲んでみないのも残念なので、わたしは途中の駅で「洋河」というカップ酒を5元で買い、この空きカップを湯飲みに代用することにした。
ところがこれは45度もある酒だったので、わたしはお茶を飲むまえにいい気持ちに酔っぱらってしまった。
張おじいさんはこの酒のカップを見るとにやっと笑った。
あなたは酒を呑みますかと訊くと、呑まないといっていたけど、歳をとったから呑まないという意味らしかった。
空きカップにお茶っ葉を入れてもらったあと、おじいさんの湯飲みに残っていた出がらしのお茶っ葉を、わたしが気をきかせて捨ててきましょうかというと、おじいさんはいいやといって、その上から平気でお湯をそそいでいた。
そういうものなのか、それとも節約倹約の見本なのか。

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張おじいさんが、この沿線に「華山」という山があることを教えてくれたので、わたしはカメラを構えてその山が迫るのを待った。
この山は中国ではかなり有名な山らしく、NHKの中国語会話テキストの表紙でも、カメラマン、S・L・ライリーが何度か取り上げている。
帰国したあとで華山について調べてみると
華山は陝西省・華陰県にあって、古来より中国五岳(東岳泰山、西岳華山、南岳衡山、北岳恒山、中岳嵩山)のひとつとして数えられている。
複数の峰からなり、主なものは朝陽峰、蓮花峰、玉女峰、雲台峰などで、最高峰は落雁峰の2200メートル。

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線路上からはこの山の全貌を把握するのはむずかしいらしいけど、なにしろ線路のすぐわきだから、ま近にせまった華山は相当の迫力だ。
山頂はひとつではなく、いくつかの峰の集まった山塊で、列車の中からも山肌がむき出しの、かなり険しい絶壁などが見られる。
写真でみると、目もくらむような絶壁のとちゅうに板をわたして登山道がつくられていた。

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景色を見る以外には、あいかわらず張おじいさんと筆記を交えて会話をする。
この列車から黄河は見えますかと訊くと、見えないという返事だった。
北京に行ったことはありますかと訊くと、朝鮮戦争で韓国までなら行ったことがあるよという。
よくぞご無事でといいかけたけど、わたしのボキャブラリーではあとが続きそうもないから、やめておいた。
朝鮮戦争はもう40年前のことだから、計算してみるとおじいさんの20代のころではないか。

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車窓からの景色は、江南地方とだいぶ異なる異様なものになってきた。
このあたりは、スケールの小さいグランドキャニオンというか、あるいはスケールの大きい千枚田というか、いたるところに崖やくぼ地が多く、しかも段々畑のような小さな平地も多い。
平坦な部分はまず例外なしに耕地化されている。
全体を巨人の目でみれば壮大な丘陵地ともいえる。
雨がほとんど降らず、水のとぼしい土地ということで、畑には貧弱な麦のようなものが植えられていた。
木もひょろひょろしたものが多く、ヤドリギ、カバノキ、アカシア、そして畑の中に、すでに実が熟したあとのカキの木が多かった。
動物では白い山羊をあちこちで見た。
まさか野生ではないと思うけど、かなり険しい山の斜面に自由に群れていた。

西安が近づくと原子力発電所のような臼のかたちの煙突をもつ建物が出現し、それも列車で30分足らずの距離に2つもあった。
そして西安到着まえに車掌の朱さんが、乗車券の「引換え札」を回収に来た。
わたしは引換え札(金属製のプレート)のことをけろりと忘れていて、乗車券が見つからないと大騒ぎをした。
張おじいさんもいっしょになって探してくれたけど、こっちは乗車券そのものだと思っているから見つかるわけがない。
バタバタしているうちにポケットから引換え札がぽろりと出てきて、ようやく一件落着した。
西安到着は昼すこしまえで、わたしは駅のホームで張おじいさんと別れた。
おじいさんは荷物が多いから知り合いが迎えが来るという。

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2023年11月28日 (火)

中国の旅/長征列車の1

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西安行きの列車の発車は11時51分である。
わたしは1時間ほどまえに軟座(1等車)待合室に入り、売店などを見てまわった。
列車のようすがまったくわからないので、メシを食いそびれることもあるかもしれないと思い、携帯食として売店でビスケットとミネラルウォーターを買い込んだ。
待合室のすみに無骨というか、イロ気がないというか、緑に塗られたおそろしく頑丈そうなレンタル・ロッカーがあった。
コインかなにかを使用するのではなく、となりで監視しているおばさんにお願いして、刑務所でも通用しそうなデカい鍵をかけてもらうシステムだった。

発車の20分ほどまえになってホームへ移動した。
ホームには鉄のかたまりのような、色気も愛想もない、グリーンに黄色のストライプの列車が待っていた。
上海から中国の西の果て、新疆ウイグル自治区のウルムチに三日三晩かけて向かう、これぞまさしくの“長征”列車である。
いよいよ西安へ出発だけど、今回の旅では長距離列車に乗ることがテーマのひとつであったから、これについてはできるだけ詳細に記しておこう。

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軟臥車両は9号車となっており、最後尾から前方をうかがうと先頭車両ははるかかなたにかすんでいる・・・・ように見える。
ずいぶん長い列車のように思えたけど、ホーム上で数えてみると18~19両くらいらしかった。
先頭までひとっ走りして数えてみればいいんだけど、とちゅうで列車が動き出したら困るので実行できなかった。
列車の構成は、1号車から8号車までが硬臥(2等寝台)車、9号車が軟臥(1等寝台)車、食堂車をはさんであとはすべて硬座(2等の自由席)車という編成で、先頭にディーゼル・エンジンつきの動力車、ほかに郵便車も連結されているようだった。

軟臥車に乗り込むと、すぐにトイレと洗面所がある。
洗面所のとなりに車掌の控え室があって、その前の通路にはボイラーが設置されており、お湯だけはいつでも自由に手に入るようだった。
控え室を過ぎると、8つのコンパートメントが並んでいる。
軟臥車は1両だけで、1両に4人用のコンパートメントが8つだから、この長い列車に軟臥の客は、満員でも32人しかいないことになる。
この日のわたしの座席番号は31で、これは8号室ということだった。
軟臥の下段料金は、空調費と服務費をあわせてトータルで331元(日本円で4千3百円足らず)だからおどろくほど安い。
上海から西安まで距離は1500キロ(東京~西鹿児島にほぼ同じ)もあるから、日本でこのクラスの列車に乗ったら3万円ちかい金が吹き飛ぶだろう。

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軟臥(1等寝台)車から硬臥(2等寝台)車へは自由に行き来できるけど、硬座(2等の自由席)車はそうではない。
硬座車と軟臥車は食堂車ではっきりへだてられていて、そもそも硬座車からは食堂車にも入れないのである。
野次馬のわたしは行き来のできる硬臥車を見学に行ってみた。
こちらはなんとなくうす暗い中に3段ベッドが通路からまる見えで、わたしは子供のころ田舎でよく見たカイコ棚を思い出した。
男も女もみなごちゃまぜだから、硬臥車にプライバシーなんてないに等しい。
わたしは若い娘がぼんやりと硬臥車通路の折り畳み椅子にこしかけているのを見たけど、彼女も夜は着たきりスズメで寝るのだろう。

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このときの旅は1995年の暮れだけど、現在(2023)の上海から西安までは高速鉄道が走っていて、1日に10本の列車があり、最短だと5時間半ほどで行けるようである(料金は1万5千円~2万6千円ちかくかかる)。
まさに隔世の感があるな。
もっとも高速でぶっ飛ばされてもあまり楽しくないかも知れない。

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わたしが個室に入ってみてまずびっくりしたのは、テーブルにまえの客の残したゴミが放置されたままだったことである。
上海が始発のはずなのに、なんじゃ、これはと思う。
さいわい室内にゴミ箱が設置されていたので、わたしはゴミを捨て、テーブルクロスをばたばたと振った。
足もとを見わたしても、新しい乗客が乗り込んでくるまえに掃除をしたようすがぜんぜんない。
日本の新幹線の、東京駅における“7分間の奇跡”を見せてやりたいくらい。

個室の広さはタタミ3畳くらいである。
そのうちの2畳を2段のベッドが占め、まん中の1畳ほどのスペースの窓ぎわに小さなテーブルがついている。
テーブルの下にゴミ箱と、お湯を入れる金属性のポットが2本置かれていた。
ベッドには2つ折りにした毛布が1枚づつ用意されていて、きちんとたたんであったけど、シーツはどうもまえの客が使用したときのままらしい。
ベッドにはカーテンがなかった。

わたしは若いころいちどだけ1等寝台に乗ったことがあるけど、日本の列車なら昼間はベッドが折り畳んであるのが普通で、もちろんシーツは客が変わるたびに交換するのに、ここでは昼も夜もベッドは据えつけられっぱなしである。
したがって昼間はベッドをソファがわりに利用することになる。
ずぼらなわたしには昼間から横になれるのでウレシイけど。

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荷物を個室に置いて車内とホームを行ったり来たりしていると、そのうち5、6人の男たちがたくさんの荷物をどかどかと、8号室にかつぎこんできた。
これがわたしと同室になる連中か。
ひとり旅を愛するわたしとしては、見ず知らずのよそ者といっしょになりたくないんだけど。
わたしはいちおう「日本人です、ヨロシク」と挨拶をした。
みんなびっくりしたようで、また安心したようでもあった。
そして発車時間がせまると、ひとりだけを残してみんなぞろぞろ下りてしまった。
彼らの大半は見送りの人々で、乗客はそのうちのひとりだけだったのである。
わたしと同室になったのは“張”さんという、もと軍人のおじいさんで、牛のように大きな体の人だった。
あとで訊いたら68歳だという。
目的地はわたしと同じ西安で、おじいさんにとっては里帰りということらしい。
張おじいさんの見送りの人たちは、窓の外からわたしにも、よろしくお願いしますと挨拶をしていたから、わたしははいはいとうなづいた。

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列車はほぼ定刻に発車した。
けっきょくわたしと同室は張おじいさんだけだった。
発車してまもなく、女性車掌が部屋にやってきた。
彼女は“朱風蘭”さんといって、歳のころは30代半ばか、子供のいるお母さんといった感じだけど、ちょっと愛嬌のあるかわいらしい人だった。
彼女の名前を3文字すべて紹介するのは、フツー中国人の名前というのは、字づらを見ただけでは男か女かわからない場合が多いんだけど、“風蘭”というと、宝塚の女優みたいにきれいな名前で、いっぺんで女だとわかったからである。

わたしは朱さんに切符を預けさせられ、代わりに小さな金属製のプレートをもらった。
彼女は時々コンパーメントをのぞいて、お湯を持ってきてくれたりして、サービスは悪くなかった。
彼女の写真を撮ろうとすると、ダメダメというふうに手をふる。
しかしあまり強い拒否でもなさそうだったから、彼女が張おじいさんと話をしているときに強引にシャッターを押してしまった。
彼女はわたしに、どうしてそんなに写真を撮るのが好きなのかと訊く。
わたしがただの記念ですと答えると、ノートに「現在能不能取出照片」と書いた。
残念ながらわたしのカメラはポラロイドではないから、その場で写真を取り出すことはできない。

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上海から蘇州、無錫、南京までは過去に見たことのある景色で、日本の関東地方とみまごう農村とムギ畑、日がさしてきらきらと輝いているクリーク、そこをゆく運貨船など、日本の秋とあまり違わない景色がひろがる。
ちょうどイネ刈りが終わった時期で、江南の農村では庭に穀物をいっぱいに広げて乾燥させている家や、家族総出で脱穀をしている農家もあった
昔なつかしい脱穀機が稼働しているのも見た。
わたしは窓辺に座ってのんびり景色をながめた・・・・もっとも目のまえに座っている張おじいさんを無視するわけにもいかないので、時々筆談をまじえていろいろ話をした。
張おじいさんはよくしゃべる人ではなかったけど、べつにわたしを目ざわりと思っているわけでもないらしく、親切にいろいろなことを教えてくれた。
ベッドの下にスリッパがあるよと教えてくれたのもこの人だった。

南京到着は16時半ごろで、このあたりには山が多い。
その山のどれかは、日中戦争のとき、日本軍と中国軍が山頂を争った山かもしれないなと思う。
運河のほとりではヤナギが風にゆれていた。
またあちらこちらで線路ぎわに黄色い花が咲いているを見て、気になったものの、べつの場所でこれが野菊であることがわかった。
ススキも多く、お墓にま新しい花輪が飾ってあるのもよく見かけた。

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停車駅に到着すると女性車掌がひとりづつ、列車の出入り口の下に直立不動で立つ。
彼女らは自分の職業に誇りを持っているようで、なかなかカッコいい。
南京駅では、朱さんは「烏鉄人歓迎你」と書かれた赤いたすきを肩からかけた。
日本のテレビでなになにの鉄人という番組がはやっていたけど、これは「烏魯木斉(ウルムチ)鉄道の職員たちはあなたを歓迎します」という意味らしかった。

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南京を発車してまもなく、列車はがらがらと大きな音をたてて南京大橋を渡った。
橋の下は長江である。
わたしは第1回目の中国旅行で、橋のたもとから橋を渡っていく列車をながめていたものだ。
つまりここまではわたしにとって概知の世界、ここから先はいよいよ見たことのない土地になるわけだ。

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南京大橋をすぎるとまた起伏にとぼしい平野になる。
このあたりでもうたそがれで、窓の外にきれいな夕焼けが見られた。
わたしが日本で見る夕日は、ほとんどの場合奥多摩の山かげに沈むのに、ここでは平野の農地の上にちょくせつ沈んでいく。
あたりが農村であるから、夕日もことさら暖かな色をしているように感じられた。
日が沈むころになると線路ぞいの民家に電球がともる。
ほとんどがオレンジ色の裸電球で、ながめているとなんともいえないなつかしさにおそわれ、おもわず子供のころの自分にもどり、あぜ道をたどって、ただいまとその家に飛び込んでいきたくなってしまう。

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2023年11月27日 (月)

中国の旅/Kクン

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上海に着いて、無事に新亜大酒店に部屋を取ったけど、まだ西安に出発しないぞ。
じつは新亜大酒店でひとりの日本人に会ったので、彼についても書いておこう。
内容が個人のプライバシーに触れることなので、写真は上海市内のもので間に合わせる。

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わたしが両替をしているとき、カウンターの横にいた若者が「日本人ですか」と話しかけてきた。
彼はKクンといって、両替をしようとして営業時間が過ぎているからダメだと断られたのだそうだ。
わたしの場合は、時間外でも両替をしないことにはホテル代を払えないわけだから、両替所も不承々々で時間外営業をしてくれたのである。
わたしはKクンに、部屋に荷物を置いたあと、ちょっとホテル内のカフェで話でもしましょうといっておいた。
相手が初心者とみると、すぐ先輩風を吹かしたくなるのがわたしの欠点なのだ。

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わたしの部屋は前回の旅と同じ4階だった。
荷物をかかえてエレベーターに乗った。
上へあがるときは間違えようがないものの、下るときは注意をしないといけない。
どういうわけか、1階にある新亜大酒店のフロントは0階のボタンを押すことになっている。
フロントに行くつもりで、降りてみたらそこは2階だっということが何回かあって、わたしは最初ちょっととまどった。

4階の服務台で部屋のキーをもらう。
正確にはキーではなく、今ふうの磁気カードである。
これを差込口にさしこんで青ランプがついたら、ドア・オープンだ。
いまでは珍しくないけど、当時としては新しいシステムで、なれないとやはり使いにくい。
カードの使い方を説明をしてくれた、ちょっとしゃくれた顔の服務員の娘に見おぼえがあったけど、前回の旅であっためてあげたいと思ったカワイ子ちゃんの服務員は見えなかった。

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わたしはまた日本に出稼ぎに行ってる上海娘に頼まれて、その実家に渡す現金を預かってきていた。
それを届けてしまわないうちは落ちつけないので、部屋から相手の実家に電話をかけてみた。
ところが部屋の電話は市内は無料のはずなのに、どうしてもつながらない。
あきらめてまた1階にまで下りて、エレベーターのわきにある公衆電話を使うことにした。
公衆電話は市内が10元だった。
こんなことを書くといかにも中国語がペラペラに聞こえるけど、じっさいにはそんなことはないのである。
それでも事情は国際電話で連絡してあったから、なんとかかんとか相手のお姉さんに、こちらのホテルの部屋番号を教えて電話を切った。
お姉さんが金を受け取りに来るまで、ホテルの1階にあるカフェでKクンと話をしていることにした。

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Kクンは千葉県に住む床屋さんで、上海娘と結婚手続きのため訪中しているのだそうだ。
手続きがめんどくさいのでもう訪中3回目ですよなどという。
相手の写真を見せてくれたけど、えらい美人であった。
いまのロシアや東欧の娘たちがネコも杓子も日本に来たがるように、当時の日本は中国娘に絶大な人気があったのである。

話をしていて気になったのは、Kクンがしょっちゅう運勢だとか相性だとかを口にすることだ。
上海娘との結婚についても、2人の姓名鑑定をしまして相性がよかったからなどという。
わたしは奇妙な宗教や迷信が氾濫する最近の世相に批判的な人間だから、Kクンのこういう態度がガマンならず、ずけずけとイヤミをいってしまった。
彼もいちおう参考にしているだけだからと弁解をしていたけど、参考にするだけでもわたしはガマンできないのである。
結婚前からこんな調子では、Kクンの前途はあやしいものだと思う。

そのうちお金の届け先のお姉さんがやってきたから、お金を無事に渡して、すこし3人で懇談した。
ここでKクンが中国語をぜんぜん理解しないことに気がついた。
婚約者とはどうやって意思の疎通をはかっているのと訊くと、英語ですという。
翌日婚約者とデイトだというので、わたしは適当なところで切り上げて部屋に引き下がった。
カフェのお茶代は42元で、わたし持ち(先輩はツラい)。

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この日の夜は新亜大酒店のすぐとなりにある「海島漁村」へ晩メシを食いにいってみた。
この店は前回の旅のときに顔見知りになり、その後も何回か入りびたった店で、庶民的な顔立ちのかわいい娘たちがいるのである。
ところがこの晩は知った顔の娘はひとりしかいなかった。
ひとりだけいた顔見知りの名前は“王”さんらしく、前回の旅で撮った写真を渡すと嬉しそうだったけど、わたしのいちばんのお気に入りだった娘はもういないようだった。
中国の娘たちは写真が大好きだ。
そのうち店の女の子たちがたくさんあらわれて、興味深そうに写真をながめた。

和気あいあいはいいけど、全員が出てくると、このそれほど大きくないレストランに、金のネックレスをぶら下げたママを合わせて、10人も店員がいることがわかった。
こういうのもワーキングシュアというのだろうか。
人件費の安い中国ではまだ機械化や効率化より、人を増やしちまえという安直な姿勢なのかもしれない。

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翌日は、まず西安までの列車の切符を買いに、駅のとなりの龍門賓館へ出かけた。
ホテルの前でつかまえた3輪タクシーは10元。
上海市内のちょい乗りはだいたい10元であることを、わたしはもう知っていた。
駅の近くでタクシーを下り、駅前広場を横切って龍門賓館1階の切符売場へ。
ここで翌日の西安行き列車のチケットを買う。
このころはまだ中国の一般市民で旅行する者が少なかったのか、あるいはわたしが買うのが軟座(1等車)だったせいか、上海を午前11時51分発のウルムチ行き列車、軟臥(1等寝台)、下段ベッドという希望で、西安までなんの問題もなくすんなり買えた。
料金は空調費、服務費を含めて、331元(4千3百円足らず)である。
西安までほとんど一昼夜の行程であることを思えば、予想していたよりずっと、おどろくほど安かった。

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切符を手に入れたあと、安心して駅前をぶらぶらしてみた。
駅前広場はあいかわらず混雑しているものの、特に変わったようすはない。
駅まえの群衆の中に、頭にタオルをまき、紺の上着にまえだれというスタイルの少数民族のおばさんが2人いた。
この服装(と色の黒さ)からして、たしか南のほうのなんとかいう少数民族だったと思うけど、南方、西方だけでも、中国にはペーとかプイとかサニ、ミャオとかいういろんな民族がいる。
おばさんたちは2人して手作りらしい指輪や首輪を売っていた。
ユニークな服装なので写真を撮らせてもらうかわりに、指輪を2つ買うことにした。
わたしが買った指輪は金色で、1個10元である。
おばさんはもっと買わせようとしつこかったけど、どうせすぐメッキがはげるだろう。

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駅前の「名品MP商厦」というデパートにも寄ってみた。
1階は日本の最新のデパートにもまけないくらい華やかだが、2階、3階と、上にいくほどダサい売場になる・・・・と前回の旅のとき書いたけど、今回の印象ではそのダサさが1階づつ下にくり下がってきた感じである。
前よりいっそうダサくなり、いちばん上の階の売場は廃止されてしまったらしい。
デパートのわきあたりで見かけた女運転手のモーター三輪に乗り、15元でホテルにもどる。
八百屋か魚屋のおかみさんみたいに威勢のいいお姉さんであった。

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ホテルにもどり、また海島漁村でビールを飲む。
食事はすんでいるからといって、おつまみにピーナツを頼んだら、塩煮したピーナツが出てきた。
中国にもピーナツがあることはわかったけれど、ぜんぜん美味しくなかった。
厨房の従業員らしい娘が、帰宅する仕度でわたしの近くをうろうろしていた。
ちょっとかわいい娘で、わたしに写真を撮ってもらいたいそぶりだから、用事がないのならどこかそのへんでわたしのモデルになるかいなどとくどいていると、店のママがさっさと帰れと娘を追い出してしまった。
このママは日本から来てスケコマシみたいなことばかりしているわたしに、あまりいい印象を持ってないようだ。

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夜はホテルでKクンとそのいいなづけに会い、ホテルのレストランで会食をした。
この日は2人で動物園に行ってきたそうだ。
目の前で見る彼女は写真で見るより美しく、名前は“兪”さんといい、英語がぺらぺらで、なんだかすごいエリートのようだから、ぶしつけだけど彼女は上海でこれまでいくらくらい給料をもらっていたのと訊いてみた。
2万5千円という返事である。
見栄が入っているかも知れないけれど、上海娘としてはかなりの高給取りだ。
しかし美人で頭がいい、しかもひとり娘となったら、この世でいちばん扱いにくい生きものではないか。
ちょっと気の弱そうなKクンに御せるかどうか。

この晩の会話はややこしい三角関係になった。
兪さんは中国語と英語を話す。Kクンは日本語と英語を話す。わたしは日本語と中国語、英語がカタコトである。
わたしとKクンの会話は兪さんにわからない。Kクンと兪さんが話していることはわたしによくわからない。わたしと兪さんの話はKクンにはさっぱりわからない。
こういう三すくみの状態で、それでもわたしたちは和気あいあいで会話を続けた。

美しい顔をした兪さんはイヌが好きよと平気な顔をしていう。
イヌは美味しいわと嬉しそうで、わたしとKクンが、日本ではイヌは食べるものではないのだと説明すると、なんとなく釈然としない顔つきである。
兪さんに食事の注文をまかせたら、自分はあまり食べないくせにどんどん注文して、全部で231元も食べることになった(さすがに今度はわたしとKクンでワリカンだ)。
中国の女性はよく食べるんですよとは、Kクンも同感。

わたしは兪さんを見て、遠慮や気取りのない人だなと思った。
これはべつに悪いことではないけど、彼女は自分にそうとう自信を持っているようである。
こんな女性に床屋の手伝いなんか勤まるだろうか。
あとで2人だけのときKクンと話したら、そうなんですよという。
彼女は、ワタシも床屋の仕事をおぼえなくてはいけないんでしょうかと心配していたそうだ。
兪さんの父親は彼らの結婚に猛烈に反対しているらしい。
彼女としてはなんとしても日本に行きたいらしいけど、なにしろひとり娘ですからねとKクンはいう。
中国も日本も父親の気持ちは同じである。
厳格な父親が彼女とのデイトを夜8時までしか許可していないというので、そのまえに彼らと別れた。

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2023年11月25日 (土)

中国の旅/新しい旅立ち

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唐の都「長安」を知ってマスカ。
知ってるよね、いまどきのボンクラ大学生でなければ。
それじゃ日中戦争のおりに、蒋介石が腹心の部下だった張学良の“兵諫(へいかん)”にあって、ピンチになった街は知ってマスカ。
こちらは中国の歴史に関心がないと、そう簡単にはわからない。
正解はどちらも「西安市(長安)」である。
という前置きから、わたしの5度目の中国の旅が始まるのだ。

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1995年の1月に無錫からもどって、同じ年の11月に今度は西安に行くことにした。
おまえも中国が好きだなあという人がいるかも知れない。
その理由は、近くて費用が安いからということはこれまでも書いてきたけど、ほかにもみんなが納得するような理由が考えられないだろうか。
自分を国際通であると主張するためには、あちこちできるだけたくさんの国を見てまわらなければいけないという人がいる。
それもたしかにひとつの見識だ。
しかしわたしのように、ある特定の国を、深く徹底的に知ろうというのもまたひとつの見識じゃないか。
4度も訪問したおかげで、わたしはようやく、興奮にとりまぎれて見るべきものを見失ったり、忘れたりすることなしに、たとえば上海の街を、じっくりながめることができるようになった。

なぜわたしはこれほどまでに中国が好きなのだろう。
わたしはずぼらでだらしがない人間なので、ずぼらの極致のような中国の街に来ると、なんとなく古巣に帰ったような安堵感をおぼえるのだろうか。
ある知り合いは、優越感さとかんたんに切り捨てた。
それも当たっているかもしれない。
わたしは貧乏人だから日本にいては、たとえば帝国ホテルやホテル・オークラへどうどうと入っていくだけの勇気がない。またその資格もない。
しかし中国ではわたしは特権階級である。
ここではわたしはうす汚れた賤民の羨望のまなざしをあびながら、さりげなく高級ホテルに出入りすることができるのだ。
これを快感といわなければなんといおう。
しかしわたしはこういうものの考え方が愚劣なものであることもよく承知しているので、大慌てで弁解をする。
それだけじゃないんだ、それだけじゃないんだぜと。

ただ優越感を味わいたいだけなら、ほかにも日本人が特権階級になれる国はいくらでもある。
たとえば貧しいことでは中国より上といわれるインドあたりでもいいはずだし、フィリピンでもベトナムでも、東南アジアの大半の国、いや、アフリカでも中近東でもロシア、南米でも、世界中のほとんどあらゆるところで日本人は特権階級になれるはずだ。
好奇心旺盛なわたしはむろんインドにも行ってみたい。
しかしインドで、中国で感じたと同じ印象をうけるとは思わない。
いったいインドと中国ではどこが違うのか。

わたしが中国語の勉強をしていたころ読んだ中国語テキストの中で、著者の鐘ケ江信光という先生がこんなことをいっていた。
「つまり、すべての人に郷愁をいだかせるふしぎな魅力をもった国と国民なのでしょう」
わが意を得たりという感じがする。
わたしが中国で感じて、たぶんインドでは感じないものは、つまり“郷愁”というやつなのだ。
中国の街を歩いていると、わたしはなぜかとてもなつかしい気持ちになってしまうのである。
たぶんわたしの前世は上海のチンピラやくざで、敵対する組織につかまって簀巻きにされ、蘇州河にでもたたっこまれたことがあり、それがいまでも遺伝子のかたすみに染み込んでいるんじゃないか。

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目的地が西安なのだから、列車に乗るところから始めてもいいんだけど、メモを読み返してみると、やはり上海行きの飛行機のことが、自分で書いたものだけど捨てがたい。
で、今回もまた成田空港から始めることにする。
これまでわたしが中国へ行くのに利用した飛行機は、ユナイトをのぞいてあとの3回はすべてNU(東方航空)だったけど、今回は初めてCA(中国国際航空)を使ってみた。

いつもと同じ手続きをへて、てきとうな時間に乗客待合室に入ると、上海行きの飛行機はおじいさん、おばあさんの団体といっしょだった。
やはり郷愁を誘われる国だとそうなるのかもしれない。

掲示パネルを見ると上海行きは15時55分に出発のはずが、遅延していて、じっさいに搭乗開始したのは16時半だった。
ゲートも変更になっていた。
それでも上海行きはまだいいほうで、14時55分のセブ島行きなんか21時15分に変更になっていた。
もし3泊4日くらいのツアーで6時間の遅延としたら、フイになった時間の割合はかなり大きいゾ。

飛行機はまあまあ混んでいるほうだった。
乗客が全員乗り込んでメインの扉が閉め切られたあと、わたしは首をのばして機内を観察し、気密ドアの横のシートが空いているのを発見した。
そこは出入りの通路に面したハンパな場所だから、いちばん最後に売られるシートなのだろう。
しかし通路に面しているということは、誰に遠慮することもなく、足を思いきりのばせる場所でもある。
わたしは勝手に席を移動してそちらに座ってしまった。
斜めまえには離着陸時に、空中小姐(スチュワーデス)が向かい合わせに座るし、窓からは半分翼に視界をさえぎられるものの、なんとか下界を眺めることもできた。
離陸したのは17時12分。
飛行機が高度を上げていくとき、西の茜空がとてもきれいだった。

離陸してすぐにうとうととしてしまった。
目をさますとひざの上に小さな箱が置かれていた。
なにかと思ったら、小さなジャンボのプラモデルで、中国国際航空(CA)の景品らしかったけど、そんなものを大のおとながもらっても仕方がないから、上海でホテルの服務員にあげてしまった。

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食事のときにながめると、CAのスチュワーデスはスラックス姿で、ストライプのシャツにニットのベストである。
イロ気がねえなと、つまらないことを観察しながら機内食を食べた。
食事のあと、わたしのとなりにひとりの男性がやってきて、いきなりタバコをふかし始めた。
わたしは禁煙席を頼んだはずであり、勝手に席を移動したけれど、そこもやはり禁煙席のはずだった。
わたしが注意をすると、相手は、おかしいなあ、客室乗務員にこっちで吸えといわれたんだけどという。
わたしがチケットを確認しようとすると、すぐ後ろの席のアベックが、ここは禁煙席ですよと口を出したので、喫煙者はそそくさと姿を消した。

外は月夜らしかった。
わたしの席から月は見えないものの、空には星が光り、飛行機は月光に照らされた草原のような雲海の上をゆく。
いつもながらわたしを魅了する幻想的、詩的な光景だ。
イヤホーンで機内放送を聴いてみると、どこかで聴いたことのある印象的な旋律が流れていた。
なんだっけと考えて、しばらくしてようやく、それは“リリー・マルレーン”だったことを思い出した。
機内のアナウンスももちろん中国語だけど、それさえ耳に心地よい。

上海の上空に着いたのは20時ごろ(ここから中国時間)で、夜とはいえ、こちらは雲ひとつない天気で、上空からわたしはまだ10カ月まえにやってきたばかりの上海の街をながめた。
なつかしい街よと、もうこのへんでいいようのない郷愁で胸がいっぱいになる。

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このときの空港はまだ虹橋空港で、タクシー乗り場にいくと、男がひとり、どこへ行くかと訊く。
タクシーの整理係かと思って「新亜大酒店」と答えると、わたしの荷物を持ってこっちこっちという。
ついていくと乗り場から離れた場所に停めてあったタクシーの前である。
いくらだと訊くと200元以上の値段をいう。
こんちくしょうめ、こちらも上海は初めてじゃない、60元がいいところだろといって、わたしは荷物をとりもどし、正規のタクシー乗り場に引き返した。
やれやれ。

ちゃんとメーターで走るタクシーで新亜大酒店へ。
前回の旅で泊まったこのホテルが気に入ったので、予約はしてなかったけど、わたしはまっすぐそこへ行くことに決めていた。
車内でさっそく上海のタクシー事情を考察する。
初乗りが14・4元で、新亜大酒店までは高速道路を使って65元くらいだった。
高速道路は市内循環線で、十六浦のほうから外灘を眺めつつ北上するので、だいぶ迂回することになるけど、日本でいえば新宿から上野に行くのに、首都高速を使って芝浦まわりで行くようなものなので、これはやむを得ない。

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飛行機が遅れたので新亜大酒店到着は21時ごろになっていた。
赤い制服をきたドアガールもフロントの服務員も、両替所の高慢ちきな娘も見おぼえのある顔だけど、メガネをかけた日本語の話せる服務員はいなかった。
予約なしでも宿泊はOKで、ホテル代は1泊が560元(7千円)くらいだという。
もっと安い部屋もあるはずだけど、どうせ2泊だけだということであえて要求しなかった。

この日の円の相場は1万円が約785元で、1元が13円ぐらい。
ホテル代は前払いだそうだ。
両替してもらわないとホテル代が払えないんだけど、ホテルの両替は朝7時から夜9時までだという。
勤務終了まぎわで、帰宅の準備をしていた高慢ちきな娘が不承不承両替してくれた。
わたしは3万円をいちどに両替した。
両替した金のつりを数えてみるとだいぶ少ない。
どういうことかとすったもんだすると、デポジット・マネー(保証金)だという。
つまり“押金”かと紙に書いて、わたしもようやく納得した。
保証金は両替時に2日分まとめて取られた。

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2023年11月20日 (月)

中国の旅/冬の夜の妄想

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無錫からもどって上海をうろうろしているけど、これではいつになっても先に進めないので、あとは上海で体験したこと、見たものについてさらりと記述して、この旅を終えよう。
わたしの旅はまだ先が長いし、上海にふれる機会もまだまだアリマス。

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新亜大酒店から上海一の繁華街てある南京路までは、徒歩で15分か20分なので、わたしはサンダルでもつっかけるような気楽さで、何度も出かけた。
いまでは消滅したようだけど、このころ南京路を西に行くと、人民公園の近くに「雲南路灯光夜市」という屋台街があって、縁日の屋台みたいな店で、目のまえでさまざまな料理がつくられていた。
つくる人はみな医者のような白衣である。
清潔さをウリモノにしているつもりかもしれないが、うす汚れていてかえって逆効果だ。
わたしは市場と同じくらいこういうところが好きなので、とりあえずその屋台の写真をずらりと並べる。

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これまで書いてきたことでわかるように、わたしは開高健さんのような健啖家じゃないから、料理についてエラそうなことを書く資格がまったくない。
それでもある露店で強引にテーブルにつかされ、強引に焼きソバを食わされてしまった。
焼きソバをじっとにらんでいろいろ考える。
焼きソバは日本にもある。
あんまり奥義だとか秘訣なんてものと関係のない、だれでも作れる料理である。
うーむと、この思索はこのあとの文章に続いていくのだ。

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上海の街をうろついていて、発見した事実はほかにもある。
街を歩いていると、足にぴったりしたタイツ(最近はレギンスというらしい)をはいた女性が多いのに気づく。
世界中の若い人たちにとってジーンズが普遍的な文化のはずなのに、中国ではジーンズが手に入りにくいのだろうか、若い女性からおばさんまでみんなタイツだ。
はきやすさからいえば、ごわごわしたジーンズより伸びちぢみするタイツのほうが楽に決まっているし、わたし個人の意見からしても、足の長い、若い女性たちがタイツをはくのをカッコいいと思う。
そして中国の女性たちはみな健康的で、たくましい足をしている。
日本では足のあいだから向こうの景色が見えてしまうような女の子が多いけど、わたしはよく注意して観察していたにもかかわらず、そんな女の子にほとんど出会わなかった。
こういう点では、粗食に耐え、どこに行くにも自分の足か、自転車しかない国の女の子のほうが圧倒的に美しい。
もっとも足がたくましいというだけではなく、おばさんたちの中にはタイツを2枚重ねてはいている人もたくさんいた。

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ある晩、和平飯店の近くの雑踏の中で、うしろからアベックに呼び止められた。
ふりかえると身なりのいい男女が立っており、そのうちのコートを着た太めの男が、日本人ですか、ワタシたちは日本語を勉強しています、よろしかったらそのあたりでお茶でも飲みませんかと、流暢な日本語で話しかけてきた。
わたしはこれが上海のポン引きの常套句であることを知っていたから、そら来たと思った。
上海の南京路、しかも和平飯店のあたりは、ポン引きやキャッチガールの暗躍するそっち方面の名所である。

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わたしは度胸のあるほうではないし、浪費する金もなかったから、こんな相手にくっついていくことはほとんどなかった。
かっては有名だった上海の娼婦の値段は、いまはどうなっているのかという経済的、人文科学的なことにしか興味はなかったのだ。
そういえば人民公園の近くには、租界時代に悪徳の象徴だった「大世界」という遊戯場がいまでも残っていた。
これはフランス租界にあって、「ダスカ」と呼ばれ、植民地では快楽のために羽目をはずす欧米人のための、バーや飲食店、歌劇場、賭博場、曲芸などの見せ物、阿片窟、娼館など、人間の欲望を満たすあらゆる設備が備わっていた場所だという。
映画「フットライト・パレード」で、最後にJ・キャグニーが“上海リル”を歌うどんちゃん騒ぎの背景を想像すればよい。

こういうものにひたすら興味のあるわたしは、ある日大世界に行ってみた。
歩道橋の上から眺めると、現在では若者向けのゲームセンターになっているようだったから、そういうもののキライなわたしは、入ってもみないで退散してしまった。
そういうわけで、いまでも赤ん坊を箱に入れて成長させ、四角いスイカみたいに奇形児になった子の見せ物があるのかどうか、アヘン(いまなら大麻)を吸えるのか、金髪の娼婦がいるのか、そういうことはぜんぜんわからない。

くだらない話題にかたむくまえに、料理の思索の続きにもどろう。
例の一期一会で終わった四川路の酒屋の美人、彼女から洋酒を1本仕入れた翌日、わたしは上海の知り合いの家を訪問した。
中国に知り合いがいるほど世間の広くなかったわたしだけど、じつは日本に出稼ぎに行ってる中国人女性から、上海に行くならついでに荷物を届けてくれと頼まれていたのである。
あらかじめ連絡してあったから、相手の家族は準備して待っていて、家庭料理で歓迎してくれた。
これは私用だから詳しく触れないけど、ご馳走になった料理がとても美味しかったことだけは書いておく。

料理はなかなか豪華で、上海蟹やスッポン料理が含まれていた。
いまでも日本に「〇〇の家庭料理」というのを売りモノにしている飲み屋、小料理屋があるけど、これぞ本物の上海家庭料理というわけである。

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上海蟹は相手の家のお父さんのうんちくを少々聞かされた。
この蟹はオスよりメスのほうが人気があり、お店で注文する場合、黙っているとオスばかり食わせられるから要注意とのこと。
わたしは最初、市場で大量に売られているワタリガニ(ガザミ)を上海蟹と思っていたけど、じつは淡水性の、ハサミの根もとに手袋をはめたようなモクズガニの仲間だった。

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スッポンのほうは、わたしは以前仲間たちと蘇州に行ったとき、途中でレストランに全員で繰り込んで食べたことがある。
そのときは予約もなしに押しかけて、いきなり注文したものだから、ただスッポンをぶった切りにして鍋で煮込んだというだけで、べつに旨いとも思わなかった。
だからわたしは中国の料理について、一種の誤った固定概念を持ってしまっていた。
世界の3大料理とされる中国料理に畏れ多いことであるけど、気のドクなスッポンをまえにして、まだわたしの思索は続いていくのだ。

中国料理は世界中で、安い材料を使った廉価で栄養満点の食べ物として、それなりの地位を占めている。
もちろんそこにも奥義や秘伝はあるだろうし、ツバメの巣だのアヒルの肝臓だのと、めずらしい材料もあるにはあるけど、おおまかにいえば、こんないいかげんな料理はないんじゃないか。
その作り方は焼きソバに代表されるように、基本的にはごった煮、ごった炒めである。
野菜くずや豚肉、そのほかそのへんにある材料をみんないっしょくたにして油で炒めてしまう。
これなら多少材料が古くても、痛んでいても問題は没有である。
ギョーザや包子(パオツ)にしたって、年期を積んだ調理師にしか作れないようなものではない。
だから世界中のどこでも、いちばん手っとり早く開業できるレストランは中華料理店である。
邱永漢さんの本には、あまった料理をごった煮にしたのがいちばん美味いという記述もあり、わたしは意を得たような気がした。
冬になるとわたしはよくダイコンを煮るんだけど、残り汁で作る雑炊はわたしの大好物なのである。

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誤った固定概念というのは、中国料理はろくなもんじゃないということで、雲南路灯光夜市や、街の食堂で食べたものに感動するようなものはなかったのだ。
ところが、上海の知り合いの家でご馳走になったスッポンは、腹を十文字に割き、香辛料を詰め込んだ手のこんだもので、とくにそのスープが絶品といってよかった。
わたしは完全に意表をつかれた。
知り合いの家のお母さんは料理の達人らしく、この国にも手のこんだ作り方だってあるということを教えてくれたのである。
中国では美味しいものをレストランで食べようと思ったら、しかるべき人の紹介で、あらかじめの予約が必要であり、貧乏な旅人が街をうろついているだけでは、なかなか真実には出会えないものなのだ。

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この晩のわたしはホテルにもどると、シャワーを浴びてさっさと寝た。
夜中の12時に電話が鳴った。
寝ていたわたしが受話器を取り上げると、女性の声でしきりに何かいっている。
さっぱりわからないのであなたは誰ですかと訊くと、フーイン、フーインという言葉が何度も聞こえる。
ようやく、ああ服務員ですか、4階の服務員ですかと訊くとそうだという。
通路に出てみると、ひざに枕をかかえこんだ服務員の娘(4階でいちばん可愛い娘だった)が、服務台で寒さにちぢこまっていた。
新亜大酒店では客室内に暖房は効いているけど、通路はそうではないのである。
服務員の娘は、ここに釣り銭があるけど心当たりはありますかという。
それは昼間、服やズボンをクリーニングに出したとき、釣りがありませんというから、そんなもの、あとでいいやと放っておいたものだった。

しかしそれにしても、そんな用事で夜中の12時に客を起こすやつがあるか。
いやいや、彼女はあまりに寒いものだから、ひょっとするとわたしの部屋であっためてもらいたいと考えたのかもしれない。
夜になると(たぶん)4階のフロアは彼女ひとりで詰めているので、少しぐらいサボってもわからない。
そんならそうとはっきり言ってもらえば、わたしも決してキライじゃないから、すぐにあっためて上げたのに。

彼女の名誉のために書き添えると、もちろんあっためる部分はわたしの妄想なんだけど、他人に迷惑をかけるわけでもないし、冬の夜長の勝手な妄想は楽しいものである。
わたしは自分のダウンジャケットを朝まで彼女に貸してあげることにした。
こんなことがきっかけで彼女と仲良くなれるのではないかと、妄想はまだずっと続いたけど、いくら中国でもそんなうまい話がごろごろしているわけはなく、わたしは朝までひとり寂しく寝たのでありました。

書くことに事欠いてくだらないことばかりになってしまったけど、わたしにはつぎの目的地が待っている。
無錫の旅のときの報告はこれくらいにしよう。

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2023年11月13日 (月)

中国の旅/東方明珠

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最近ではまわりにできた高層ビルに埋もれてしまった感のある東方明珠テレビ塔は、一時期上海のランドマークタワーといっていい建造物だった。
わたしが初めて上海ひとり歩きをした92年の暮れには、この塔はまだ建設中で1/3ぐらいしか出来上がってなかった。
この塔の外観が完成してはじめてライトアップされたのは、建国45周年の国慶節にあたる94年の9月24日、事実上の完成は11月だったというから、今回(95年)の旅ではまだ完成して3カ月しか経ってなかったわけだ。
何度も上海に出かけたわたしは、はからずもこの塔の成長するさまを、順ぐりに目で追ってきたことになる。

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この塔をバックに太陽がのぼる瞬間を撮れば、ステキな写真になりそうな気がしたので、ある朝早起きして出かけてみた。
まだ日の出まえだからまっ暗だけど、すでに通りにはロータリーバスが動き出し、仕事を始めている人たちもいて、危険はなにも感じなかったから、徒歩で蘇州河づたいに上海大厦に向かう。
ひとつ上流の橋の上で三脚をかまえて、外白渡橋に太陽がかかる瞬間を待ちかまえる。
いい写真かどうかは、見る人の主観によるといったのは、わたしの写真にケチをつけた先輩の意見。
もちろんわたしもいい写真だとは思ってイマセンけど。

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写真を撮ったあと、そのまま黄浦江ぞいの外灘(わいたん)公園まで行ってみた。
早起きの老人たちが太極拳やラジオ体操をしていた。
剣舞をしている人たちがいたので、本物の剣なのか、持たせてもらうと、いわゆる竹光みたいな軽いオモチャの剣だった。
この人たちを見下ろす銅像が建っていたから、説明を読んでみると、革命後、最初の上海市長だった“陳毅”の像だった。
彼は抗日戦争や国共内戦で戦った共産党の軍人で、1972年に亡くなったけど、中国の、その変貌をもっともよく象徴する上海の外灘に置かれて、なにを思うやら。

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いったん新亜大酒店にもどってまたひと眠りし、午後になってから今度は昼間の東方明珠に、日本語通訳を2人連れて上ってみることにした。
通訳2人というとずいぶん豪華な旅みたいだけど、早くいえば(遅くいっても)、つまり女の子をナンパしちゃったのである。
引っ込み思案のわたしにしてはめずらしいことだけど、このまえの日に上海駅の売店で印鑑を購入して、書体をなににするかといろいろ考えていたとき、売り子が日本語を話すということを発見した。
日本語のわかる相手がいるとなにかと便利である。
あれやこれやと日本の話などするうち、翌日デイトすることになってしまったのだ。
食事やホテルはケチるわたしも、女の子のまえではついカッコをつけてしまい、気前のいいところを見せたがるのである。
ところが相手の頭のなかには、残虐非道な日本軍の記憶が反日思想で叩き込まれていたのか、ひとりではなく2人で来るという。
ああ、いいよと、わたしの見栄の張りっぷりもスゴイ。

この2人の名前は、年長のほうが“剛”さん、若いほうが“初”さんである。
女性の登場する文章で肝心なことは、相手がどんな容姿かということだ。
剛さんはもっそりしたおばさんタイプ、初さんは鼻の下にうぶ毛をはやしたまだ大学生みたいな娘で、2人とも恋愛小説向きではなかった。
いくら中国でも、変なことを想像してはダメである。

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「東方明珠」まではタクシーを使った。
このころは車で対岸へ渡るのに、南浦大橋か楊浦大橋しかなかったから、わたしにとって初めての楊浦大橋を使って、料金は70元近くとられた。
東方明珠については、出来たばかりの塔なので、2人もまだ上ったことはないという。
東方明珠は“東洋の真珠”という意味で、その当時世界で2位、アジアで最高の高さを誇るテレビ塔だった。
東京タワーやパリのフッフェル塔は鉄骨でできているけど、こちらはコンクリートで、全体にボリュームのある構造になっている。
ウルトラマン映画に出てくる未来の建物みたいという人がいたけど、わたしはウルトラマンを観たことがないのでわからない。

東方明珠のある浦東新区は、上海を象徴するめざましい開発地区だということだけど、少なくとも塔のまわりは殺風景で、建築現場がいくつかあったものの、みやげ物屋やきれいなレストランが乱立しているわけではなかった。
東方明珠のまえで女の子たちにお金を渡し、入場券を買ってきてくれと頼んだ。
2人は出かけていって、やがてテレビ塔の写真が印刷された、日本の観光地でもよく見るようなきちんとした入場券を買ってきた。
料金はひとり50元(600円)である。
入場券にそう印刷してある。
正式の切符売場がどこにもないんですよと彼女らはいい、やむを得ずダフ屋から購入したという。

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塔の入口には赤い制服を着た女の子たちが、なにかのセレモニーのように整列して客を迎えていた。
まだオープンして間がないので、中国人もたくさん見物に来ており、エレベーターのまえは見学者たちが行列している。
わたしはこういうところに並ぶのが大嫌いなんだけど、2人の娘と話をしたり、塔の内側を観察したりして、まあ退屈はしないで済んだ。
日曜日だったらもっと混んだだろう。

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わたしはこれまで、このテレビ塔を日本の東京タワーのようなものだろうと思っていた。
その中にはレストランやみやげ物屋、遊戯場がそろっていて、半日くらいは遊べる場所だろうと思っていた。
ところが東方明珠の中には何もなかった。
客を展望台に運ぶエレベーターは、20人乗りくらいの小さいのがひとつ稼働しているだけで、ほかにレストランや土産もの屋、遊戯場などもない。
1階のホールは全体にがらーんとした雰囲気で、それどころか、まだあちこち工事をしている箇所も見受けられた。
壁に諸外国の大きな観光写真が飾られていたけど、ありきたりの写真でおもしろくもなんともない。
見てくれはいいが、中身がぜんぜん伴っていない・・・・まるで現在の中国経済を象徴しているみたいだなと、そのときのわたしは思った。

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さすがに展望台からの眺めはよかった。
見学者が上れるのはふたつある球形の下の展望台までだけど、それでもここから見る上海の景色はさすがのものだった。
黄浦江をはさんで、外灘の租界時代のビル群や、蘇州河の河口あたりが一望である。
その後メチャクチャといっていいほど、高層ビルが乱立した現在の上海ほどではないけど、戦前に租界時代の上海を初めて見た欧米人が、ウォールフロント(偽りの正面)と呼んだ、その心境をほうふつとさせる景色だった。
わたしはうなった。
うなったけど、同時にこの繁栄はホンモノだろうかと、中身のない東方明珠のていたらくを思い出してつぶやいてしまう。

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帰りに剛さんが入場券の裏に押してあるスタンプを見つめて首をかしげた。
スタンプには20元の料金が読み取れる。
おかしいわねえ、おもてには50元と印刷されているのに、裏はそうではない、ダマされたのかしらと彼女はいう。
最初は意味がわからなかったけど、そのうち思いついた。
ようするにダフ屋は外国人向けのチケットを中国人料金で購入し、わたしには外国人の料金で売りつけたのだろう。
似たようなことは列車の切符で経験したことがあって、当時の中国ではダフ屋の常識だった。

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帰りは黄浦江の連絡船に乗った。
平らな船台に屋根をつけたような船で、桟橋からひとまたぎで船内である。
広さはテニスコートの一面にも足りない程度だけど、船内にはしきりもなにもないから、詰めこめばそれでも2百人くらいは乗れそうだ。
乗客は平らな船室に立ちっぱなしで、自転車、オートバイもごちゃまぜである。
フェリーではないから自動車は乗れない。
黄浦江の河幅は6百から7百メートルくらいだろうか。
乗船している時間はせいぜい15分から20分。
わたしたちが乗ったのは、外灘のはずれに発着場のある公共の連絡船で、浦東地区へは3隻でピストン往復をしているようだった。
地図を見るとこれ以外にも黄浦江を往復するフェリー路線はたくさんある。

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料金は、と書こうとしたけど、タダだった。
ここでも2人はおかしいわねえといっていたけど、これもあとになってから原因がわかった。
黄浦江を渡るための料金は往復5角(6円)で、往路で支払い、到着すると切符は改札の箱に放り込んでしまうので、帰路の改札はないのだった。
こういうのは鷹揚というのか、デタラメというのか。
まだ中国の一般人民が黄浦江を渡るには、連絡船しかなかったころで、連絡船のなかに物乞いがまわってきたのにはおどろいた。

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2023年11月11日 (土)

中国の旅/長江の河口

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新亜大酒店の朝食はユニークだった。
この当時から大きなホテルでも朝食はバイキングというところが多かったけど、ここでは早朝から専従のコックがいて、火を使った出来立ての食事ができた。
当時のわたしはワープロ通信で、ニフティサーブの中国語フォーラムに入っていて、これから上海に行くんだけど、どこかいいホテルはありませんというメンバーからの質問に、このことを書き込んで感謝されたことがある。

テーブルに座わると、まずお茶が運ばれ、同時に注文表が渡される。
レストラン内の一画に、目のまえで材料を揚げてくれるかんたんな調理台があって、客はこのまえに出向いて、ならべられた食材の中から好きなものを注文すればよい。
中国の屋台でよく見られるスタイルで、そのとき注文表にチェックがつけられる。
それとは別に、テーブルのまわりをカートにのせた小籠包や点心が回遊しているから、客はこのなかから欲しいものをとりあげ、また注文表にチェックをしてもらう。
食事が終わったらカウンターでチェックを合計してもらい、勘定をすませるというシステムである。
ホテルのランクは上海駅のとなりの龍門賓館より下がるものの、こちらの朝食はあちらさんより凝っていて、わたしのささやかな食事量だと、料金はおおむね30元前後だった。

この日は朝食のあと、まず部屋を変えてもらうことにした。
最初に入れられた部屋は値段が540元で、貧乏なわたしにはゼイタクである。
日本円で6500円くらいだから、外国旅行でこのていどに目クジラたてても仕方ないんだけど、もっと安い部屋があるならそれにこしたことはない。
もっと安い部屋をというと、たぶん客の少ない季節なのだろう、フロント係りの男女(女は美人だ)は不満そうだったものの、4階のべつの部屋を見せてくれた。
前の部屋から廊下をはさんではす向かいにある423号室で、スペースが狭いこと、窓から汚いビルしか見えないことをのぞけば、設備は高い部屋とほとんど変わらない。
こっちは400元である(じっさいにはこれにサービスチャージがつく)。
400元なら5千円だから、日本のヘタな民宿より安いし、食事はどこかそのへんの立食スタンドで取れば、1食200円でもまにあってしまう。
わたしはフロントにもどってベリーグッドという。
この新しい部屋は、客がいないとき、4階の服務員たちが休憩したり、サボったりするのに使っていたようで、それをわたしが占領してしまったから、服務員たちは内心不満だったようだ。

このあとは、上海でいろんなことがあったので、省略したり、ひとつにまとめたりで、整理して紹介するからかならずしも時系列通りにはなっていない。

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上海にいるあいだのある日、タクシーで「宝山(ポーシャン)」という街へ行ってみることにした。
中国には世界的に有名なふたつの大河がある。
ひとつは黄河で、もうひとつは中国最長の川、長江(楊子江)である。
長江は上海の近くで東シナ海にそそいでいるので、わたしは機会があったら、この川の河口がどのくらい大きいのか確認してみたかった。
地図をながめると、上海の北にある宝山が長江の河口の街で、そこまでおおざっぱな見立てでは上海から50キロもないくらいだ。
このくらいならタクシーを半日借り切れば十分行ってこれるだろうし、宝山は長江河口であると同時に、上海市内を流れる黄浦江が長江と合流する場所でもあるから、そのあたりの景色も見られるわけだ。

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わたしは長江を見たことがいちどだけある。
第1回目の中国旅行で南京に行ったとき、長江にかかる「長江大橋」が見学コースに入っていたため、いやでもこの大河を見ないわけにはいかなかった。
長江大橋は中国が独力で完成させた最初の近代橋梁ということで、国威誇示のためにかならず外国の観光客に見せるのである。
そのときの印象は、想像していたより広くないなというのが本音だった。
なにしろ、なにしおう楊子江のことであるから、わたしは向こう岸が見えないくらい広いのではないかと思っていた。
そんなことはなかったものの、南京から3百キロ下った上海あたりまでくるとどうだろう。
たかが川を見るためにタクシーを借り切るなんてムダだというなかれ。
食費やホテル代はムダな経費だけど、好奇心を満足させる費用はけっしてそうではないのだ(中国のタクシーは日本に比べるとウソみたいに安いし)。

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朝の9時ごろ、ホテル前で最初のタクシーには断られた。
2台目のタクシーは、地図を見せると、行ってもいいという。
中国のタクシーはみな汚い車ばかりだけど、この日に乗ったサンタナはちょっとユニークな車だった。
始動するのにエンジン・キーを使わないのである。
わたしが写真を撮るために車を下りると、ガソリンを節約するためか、運転手はいちいちエンジンを止める。
何度か繰り返すうちに、わたしは彼が始動のたびに、車内に引き込んだ電線の先端を触れ合わせていることに気がついた。
電線の先端は裸になっており、この部分を触れ合わせることにより電流が流れる。
つまりこの車の始動は、むかし車泥棒がよく使った直結方式というわけだ。
わたしがそのことを指摘すると運転手はにやりと笑って、コワれているんだ、なに、走るのにべつに問題はないよという。

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宝山までは片道3車線もある「逸仙路」という広い道路を行く。
バス停にはバスを待っている人が多かった。
バスがなかなか来ないので、わたしのタクシーに手をあげる人が何人もいた。
朝のタクシーはかなり忙しいようだ。
車窓から見る景色は工場地帯というべきで、あまりわたしの関心をひくものがなく、やけにホコリっぽい景色ばかりが続く。
そういえば宝山には、日本の新日鉄が技術協力をした「宝山製鉄所」があるという。
製鉄所のある街というものはたいていホコリっぽいものだ。

交通量の多い箇所がいくつかあり、とちゅうの吴淞というところには大きな交差点があって、ここを通過するのにかなり時間がかかった。
吴淞には大きな橋もあって、橋の手前で運転手が◯元、◯元と叫んだ。
橋は有料で、もちろん料金はわたしが払うのだ。
料金所の前には車が長蛇の列だったのに、こちらの運転手はわきからかまして、強引にいちばん前へ割り込んでしまった。
割り込まれたほうはあまり怒ったようすがなかったから、中国人はこういうところにも大人の風格があるようだ。

ようやく吴淞を抜けたものの、運転手は地理に自信がなさそうで、わたしの地図をしょっちゅうながめていた。
聞いたところによると、上海人のくせに長江の河口を見るのは初めてだという。

このあたりは、まだつい最近まではのどかな田園地帯だったようで、ま新しい工場や新興の工業団地が多く、道路もよく整備されていた。
ただし眺めて感心するような景色ではない。
日本なら信州でも伊豆半島でも、あるいは奥多摩にでも、眺めてこころを癒される景色はいくらでもある。
無錫ではのどかな田園風景に感心したばかりだけど、山も湖もなく人間ばかりが多い上海近郊に、そんなきれいな景色があるわけがなく、わたしは写真を撮ろうという意欲も消失した。

やがて河の土手のようなものが見えてきたので、車を待たせて土手に登ってみた。
白砂青松を期待したわけじゃないけど、それでも土手の向こうには大きな川が流れていて、上海の街ばかり見ていた眼にはいささか爽快な景色である。
しかし手前の河岸では桟橋の敷設工事をしており、沖や対岸にも、なにかの施設や係留されている大型貨物船などがあって、李白の詩に出てくるような長江の雄大な景色を想像していたわたしにはもの足りなかった。
運転手も車を下りてきた。
爽快な景色というものは中国人にとっても爽快な景色なのだろう。
彼はひさしぶりに遠くを見たような顔をしていた。

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目の前の河はどうやらまだ黄浦江で、長江ではなさそうだった。
こちらがわの土手を下流にずうっとたどっていくと、遠方に展望台のような建物が見える。
その方向で大河はもやにけぶっており、それが長江との合流点らしかった。
たぶん展望台のあるあたりが現在の宝山の臨江公園で、そこまで行けば長江ももっとよく見えるのかもしれない。
そこに立てば対岸ははるか彼方にかすんで見えるはずである。
しかし対岸とみえたものは、じつは“長興島”という島なのだ。
本物の対岸は長興島の左側、さらに遠くにぼんやりと見える・・・・と思いきや、それもまた“祟明島”という巨大な島なのだ。
衛星写真で見ると、祟明島は長江デルタにできた広大な干拓地の島で、全体がいちめんの農地のようである。
たとえこの2つの島が視野をさえぎっていなくても、宝山から対岸を見るのは不可能かもしれない。
長江の河口はそれほど幅広いのである。

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現在ではこのふたつの島を踏み台にして、長江をまたぐ、日本の東京湾アクアラインに匹敵するような巨大なトンネルと橋が完成している。
写真で見るとさすがに胸がスカッとする壮大な景色なので、わたしも見てみたいけど、宝山からクルーズ船が出ているらしいから、そのツアーに参加すれば橋も見られそうだ。

土手づたいに道はあるものの、車で観望台の近くまで行くのはちょっと無理なようだし、わたしはもうそれ以上前進する意欲を失っていた。
もう帰ろうと運転手にいう。
なんだ、なんだ、おまえの旅というのはいつも中途半端だなといわれてしまいそうだけど、後悔はしない。
こういうことの積み重ねが相手の国を理解することになるので、わたしはこれ以降もあちこちで、一見ムダと思えるタクシーの借り切りなんてことをするのである。

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2023年11月 9日 (木)

中国の旅/チャーハン

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翌日は朝起きてすぐシャワーを浴び、朝食を龍門賓館内のレストランでとったあと部屋へもどり、荷物をまとめ、9時半ごろ部屋をチェックアウトした。
この日の請求書は748元だったから、日本円で9千円ぐらいで、そんなホテルにいつまで滞在したくない。
そのままタクシーで、前日に予約していた新亜大酒店へ向かった。
チェックインには早い時間だけど、引っ越すとなったらぐずぐずしていても仕方ないし、新亜大酒店のほうでは何時にいらしてもOKといっていたのである。

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ドアをあけてまっすぐフロントにおもむくと、前日に説明をしてくれた日本語を話せるメガネの服務員がいて、現金ですか、カードですかと訊く。
トラベラーズ・チェックはダメだそうだ。
今回の旅では、T/Cも用意してみたのに、中国での使用範囲はかなりせまい。
フロントでいわれるままに、わたしはとりあえず3日分の部屋代を前払いしておいた。
あまりいちゃもんもつけず、相手のいいなりになっていたら、値段の高い422号室に決められてしまった。
メガネの服務員がいうのには、もっと安い部屋がよければあとで変更することもできます、お金が余ったら差額は返しますなどと。

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新亜大酒店のわたしの部屋は4階で、高い部屋だけあって南向きの見晴らしのいい部屋だった。
窓からすぐ正面に時計台のある上海郵便局が見え、中で仕分け作業をしている職員の姿も見える。
租界時代の上海の写真に、この時計台のまえをロータリーバスがゆく光景を撮ったものがあるから、郵便局の建物はまちがいなしに租界時代からの建物だ。

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新亜大酒店の建物にそって視線を走らせると、ホテルの角に交通量の多い天潼路と四川北路との交差点が見える。
窓の下の道路に、大きさが10メートルもあるような、青い新亜大酒店の看板が寝かせてあって、これから取付け作業が始まるらしい。

部屋が決まったあと、ズボンとシャツをクリーニングに出して、さっそく街の散策に出た。
ホテルの近くで3輪タクシーをつかまえ、「人民公園」へ行ってくれと頼む。
3輪タクシーは大きな辻にいけばたいてい2、3台は停まっているから、タクシーよりずっと確実だ。

人民公園の近くで3輪タクシーを下り、まず「上海雑技場」の場所を確認しておくことにした。
雑技というのは、ようするに中国式サーカスのことである。
上海観光の目玉にもなっていて、上海にやってきた日本人はたいていこれを見物する。
わたしはこういうものを無理に見たいと思わないんだけど、今回は時間がたっぷりあるから、雑技でも見ないことには間がもたないかもしれない。
そうでなくても、いちおう雑技場の場所くらいは確認しておかないと、上海フリークの資格がない。

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上海の雑技については、ずっとあと(04年)になって友人たちと上海に行ったとき、いちど見物に行ったことがある。
わたしはロシアでもボリショイ・サーカスを見たことがあるけど、共産主義国のアクロバットがおもしろいことは事実である。
ただ映画「覇王別姫」や「變臉(へんめん)」を思い出して、すばらしいアクロバットには、サルに芸を仕込むような非人間的な訓練もあったのだろうとイヤな気分にもなる。
どうもつねにものごとの裏側を見てしまうのがわたしの欠点だな。

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現在の雑技場はどうなっているのかと写真を探してみたら、国が発展するにしたがって劇場も改築されたみたいで、わたしが95年に見た建物とはあきらかに違っていた。
ここに載せたのは最近の雑技場だ。
劇場が近代化されると同時に、演技者たちの待遇もオリンピック選手なみになっていると信じたいけどね。

雑技場をあとにして南京路をぶらつくと、人民公園のわきには租界時代のものらしい「上海図書館」の建物もあって、ここに隣接して画廊があるのを見つけた。
画廊なんてものが社会主義国にあっていいのだろうか。
画廊の売店では古銭なども扱っていて、奇妙なかたちの中国の古銭以外に、明治と刻印された日本政府発行の硬貨もあった。
わたしは中国で骨董品を見たかったので、どこかに本格な骨董の専門店がないかと、紙に書いて売り子の女の子に尋ねてみた。
彼女は“骨”という文字を“古”に直し、うーんと考えたあとで地図にしるしをつけてくれた。
人民公園わきの西蔵路を南下して淮海路とぶつかるあたりにあるという。

教えてもらった骨董屋のある場所へぶらぶらと向かいながら、とちゅうで小さな本屋を覗いてみた。
日本の本屋にくらべると、書籍の量はかなり少ない。
しかし表紙の絵だけ見るとおもしろそうな小説がたくさんある。
何冊か買っていこうかと思ったけど、たいていの本は中身が文字ばかりで、そんなものを翻訳しているヒマがないから、やめた。
外国小説の翻訳もたくさんあった。
それなのに、なぜ中国の一般大衆に思想が生まれないのかと不思議に思う。
「鄧小平語録」は山にして積まれていた。

あちらこちらをうろついているうちに午後の遅い時間になってしまった。
いいかげん疲れたので、骨董品はあきらめて、歩きながらホテルへもどることにした。
南京路から新亜大酒店にもどるには、どこかで蘇州河を渡らなければならない。
蘇州河の橋は数が多いけど、このときはいつもの四川北路の橋ではなく、その上流の橋を利用してみたら、橋の上にまでいくつか露店が出ていて、この季節にスイカも売っていたのにはおどろいた。
また小さな外国語の会話集も売られており、英語、フランス語などにまじって日本語もあった。

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橋を渡ったあたりにも市場や露店のある通りがあり、おもしろそうだったので寄り道をしてみた。
食料専門の市場には野菜もたくさん売られていた。
山と積まれたキャベツを見て、わたしはこれを刻んで、ソースをかけて食たいと思ってしまった。
わたしは刻みキャベツが好物で、海外に行って1カ月もキャベツを食べないでいると禁断症状を起こすのである。
しかし無錫で農民が糞尿肥を使っていたことを思い出し、また上海にはまだ清潔でよく消毒された上水道が完備していないだろうと考え、新鮮野菜はまだ中国の食べものではないのだといい聞かせた。

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この日の晩メシは、新亜大酒店となりの「海島漁村」という小さなレストランでとることにした。
店のウェイトレスたちは、みなお揃いのチェックのブレザーを着ており、なかに庶民的な顔立ちのかわいい娘もいた(若い娘のことになると、突然描写が細かくなるのはわたしのブログの特徴だ)。
ママらしき女性は白いセーターで、首から高価そうな金のネックレスをぶらさげている。
例によってビールにマーボ豆腐、キノコの炒めもの(絵を描いて注文する)、エンドウの炒めもの(となりのテーブルで食事中のものをアレといって注文する)、そして炒飯を頼んだ。
「チャーハン」というと一発で通じた。
わたしは安心してビールを飲みつつ、注文の品が来るまで女の子たちの写真を撮ったりしていた。

そのうち小さなエビを山盛りに入れたどんぶりが、どんとテーブルに置かれた。
エビはまだ生きていて、ぴょんぴょん飛び跳ねている。
なんだい、これはと訊くと、女の子が食べ方を教えてくれた。
シッポを取り、皮をむいて、添付されているタレをつけて食べるのである。
エビはあらかじめ酒につけてあるらしい。
2、3匹食べてみたものの、小さなエビなので、美味しいというより先にいちいち皮をむくのが面倒くさい。
それにしてもなんでこんなものがと思う。
日本人は生の魚を食べる。
それを知っている店の人が、中国にも生で食うものがあるという証明のために、サービスとして出してくれたのかもしれない。
それにしては量が多すぎるなと思いつつ、わけがわからないまま、わたしはチャーハンを待っていた。
いつになってもチャーハンが来ないので催促してみた。
すると女の子がエビのどんぶりを指してチャーハンという。
それでわかった。
エビのどんぶりをこちらではチャーハンというのだろう。
案の定、訊いてみると日本の炒飯は“ツァオハン”である。
仕方ないからわたしは2、3匹しか食べていないエビの料金もきちんと払った。
このときのエビ料理の正式な名前はわからないけど、上海でチャーハンを頼むとき、日本人は注意が必要である。

食事を終えて部屋にもどると、もうやることもない。
歩きすぎてくたびれて夜遊びに行く気にもなれないから、部屋でテレビを観ていたら、衛星中継で日本の阪神大震災のニュースをやっていた。
ひどい災害になっているみたいだけど、日本にいないわたしにはどうすることもできない。
寝るには早いので、そのうち近所へ買い物に行くことにした。
じつはこの翌日に上海人の知人を訪ねる予定があったので、酒屋で洋酒でも仕入れておこうと思ったのである。
ホテルのすぐわきを走る四川路はかなりにぎやかな通りなので、そこへ行けば酒屋の1軒くらいあるだろう。

四川路をぶらぶらして酒屋はすぐ見つかった。
奥のほうに洋酒のブースがあって、女性が後ろむきで品物の整理をしていたから声をかけると、ふりむいた彼女はぞっとするような美人であった。
こんな店で高級な洋酒を買う中国人はほとんどいないのだろう。
大金持ちの資産家とカン違いされたわたしが、舶来のウイスキーを1本買い求めると、彼女はにっこりと、男を悩殺してやまないようなおそるべき微笑みをみせた。
だいたいにおいて、中国の商店で店員の女性の会釈というものはめずらしい。
わたしは思わずドッキリとして、あなたは美人ですね、また会いましょうといってしまった。
写真を撮っておけばよかったけど、近所にウイスキーを買いに行くのに、カメラを持っていくやつはおらんよね。
用事もないのにウイスキーを何本も買うわけにはいかなかったから、これも一期一会で終わった悲しい体験だった。

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2023年11月 7日 (火)

中国の旅/ホテル替え

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無錫からわたしはまた上海に帰ってきた。
今回の旅の目的は無錫で、そこでフィルムをほとんど使い切ってしまったから、上海ではあまり写真を撮らなかった。
したがって写真があまりない。
文章を読むのがニガ手な人はまた飛ばしてかまわないけど、女の子の話題もあるからそれはちっとモッタイナイと思う。

駅のとなりの龍門賓館にもどったあと、わたしはまずシャワーを浴びることにした。
無錫から数時間列車に乗り、上海市内を数時間歩いただけで、わたしは体中がホコリまみれになったような気がしていたのだ。
シャワーのついでに溜まった下着の洗濯もすることにした。
ところがここでまたミス。
新しいパンツを洗面台の上においておき、洗濯がすんだらはきかえるつもりでいたのに、なにをカン違いしたのか、これもいっしょに洗濯してしまった。
するともう新しいパンツがないのである。

仕方ないからノーパンでズボンだけをはき、駅まえの新しいデパートへパンツとランニングを買いに行く。
下着売場は2階にあって、ひとつの店舗内で売場がふたつにわかれていた。
その一方でパンツを買い、さらにランニングはありますかと訊くと“没有(なし)”である。
同じ店舗内のもう一方に訊くと“有”である。
すぐとなりで売っていることぐらい教えてくれてもいいじゃないかと、その売る気のなさにあきれたけど、中国で文句をいっても仕方がないとあきらめた。
中国人のMサイズはわたしにはすこし小さかった。

上海では、わたしがまた中国に行くと知った上海娘のW嬢や、その友人たちから頼まれた用事がいくつかあった。
これは私用に属することだから詳しくは触れないけど、それ以外にもいろいろ新しい経験があったので、そちらには触れないわけにはいかない。

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いちばん大きな出来事は、ホテルを、駅の近くの龍門賓館から、日本租界だった虹口地区の「新亜大酒店(New Asia Hotel)」に変えたことだろう。
“大酒店”というのは呑兵衛の集まる店というわけではなく、大きなホテルのことである。
このホテルは和平飯店ほどゴージャスじゃないものの、いちおう租界時代からある石造りの建物で、上海一の繁華街である南京路や外灘からも徒歩数分と近いし、日本租界からすぐということで、わたしは以前から目をつけていたのだ。
無錫からもどってきた日は、荷物を預けてあったせいもあって、まだ1泊9千円ちかい龍門賓館に泊まったけれど、この日のうちに新亜大酒店まで出かけ、宿泊料金がどのくらいするものか確認してくることにした。

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新亜大酒店は、南京路から四川北路を虹口地区に向かって、蘇州河を渡ったすぐの交差点ぎわにある。
目のまえに特徴的な時計台をもつ上海郵便局があって、ホテルはともかく、時計台は古い上海の写真でよくお目にかかる。

タクシーで新亜大酒店に乗りつけると、ドアのまえには赤い制服を来たドアガールが立っていて、客とみるとさっとドアをあけてくれた。
フロントにいくと、メガネをかけた男性がいて、りゅうちょうな日本語でわたしの応対をした。
わたしの中国語を上手ですねとほめてくれたのはいいけど、あなたは中国人に似ていますねといわれたにはまいった。
わたしが龍門賓館に泊まっているというと、ウチはあそこの半分ですという。
わたしはその場で3日間の宿泊予約をしてしまった。
ただし、租界時代の古い建物ということもあり、その後レトロなホテルに人気が出ると、新亜大酒店もじわじわと料金が上がって、わたしが最後に中国に行ったころ(2011年)は、かなり高級なホテルの仲間入りをしていたようだ。

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このホテルは、玄関を入ると正面にエレベーターがあり、それをはさんで左側にフロント、右手に両替所があった。
両替所には若い娘が何人かいるけど、私語をしたり、理由もわからないまま客を待たせたり、どいつもこいつも態度が悪い。
忙しいのはわかるけど、接客サービスというものはこの一画には存在しないのである。
最近のこのホテルについて調べてみると、ホテルの名前の上にGolden Tulipという言葉がついているから、経営も大手ホテル・チェーンに変わったみたいだ。
すこしは両替嬢の態度もあらたまったかしら。

両替所の向かいのロビーには小さな喫茶コーナーがあり、コーナーと両替所のあいだを直進すると、その奥が朝食などもまかなうレストランになっている。
新亜大酒店で感心したのは、このレストランだ。
上海のホテルではこの当時から朝食はバイキングが普通になっていたけど、ここでは早朝からコックが火を使って、目のまえで調理した湯気のたつ料理が注文できたのである。
1階にあって、通りからも丸見えのレストランなので、わたしはそれ以前から見知っていたのだ。

フロントのまえを通って反対側へ直進すると、こちらには土産もの屋があって、土産など買わない主義のわたしは、あとで石鹸と乾電池を1コ買った。
石鹸は、部屋に備え付けのものはろくなものがないので、わたしは外国へ行くとかならず外で買ってくることにしているのである。

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新亜大酒店の宿泊を予約したあと、南京路あたりで3輪タクシーをつかまえて、龍門賓館まで帰った。
3輪タクシーはべつの車や歩行者とハンドルが接触するのではないかと思うほど、すれすれに混雑をすり抜けて快走した。
これではたしかに渋滞時にはタクシーより早いかもしれない。
ただし乗客も事故保険に入っておかなければならない。

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龍門賓館にもどり、ふと思いついて、去年の2月に泊まった14階に顔を出してみた。
そのとき見かけた女の子が働いてないかと思ったんだけど、この日の14階フロア係りの女の子には見覚えがあった。
彼女にいきなり、ぼくのこと覚えているかいと尋ねてみると、彼女はシェンマ(=なんですか)と訊き返してきた。
わたしは1年前にこのホテルに泊まったことがあり、そのときキミのことを知ったのだよと説明すると、そうですかと、彼女はにっこりしてうなづいた。
それにしても中国の若い娘が、シェンマと訊き返すときの、発音のかわいらしさはどうだろう。
中国語はフランス語とならんで、世界でもっとも抑揚の美しい言語といわれているそうだけど、わたしは、とくに若い女性が首をかしげて「なんですか」と発音するときの愛くるしさは絶品であると思う。
この服務員の娘は、写真を撮らせてもらえますかというと、あわてていちど奥にひっこんで、わざわざ髪を解いてきた。
まだカメラを向けても女の子に変態だと思われない、古きよき時代のハナシである。

夕方には本格的な雨が降り出した。
奇数日だというのに、この日も龍門賓館では結婚式のまっ最中だった。
わたしは早めに寝ようとしたけど、無錫でさんざん歩きまわって疲れているはずが、なかなか眠れず、23時ごろ目をさまして、どこかへメシを食いに行くことにした。
もうこの時間では、ホテル内のレストランはやってない。
1階まで下りてみると雨はいよいよ激しく、とても駅の24時間食堂までも行けそうにない。
しかし見ると龍門賓館のかたわらの高速道路の下に、レストランのネオンがこうこうと輝いているではないか。
そこまでならなんとか走って駆け込めそうだった。

これは「上海恒立飯店」という店で、ネオンが輝いているにしては、みすぼらしい母子が食事をしたりしていて、ひどく庶民的な店だった。
中国では、おもてから見るとまあまあなのに、入ってみると場末の定食屋といった感じの店がたくさんある。
それでもメニューにあるものはたいてい揃っているからさすが。

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この店には若い娘が何人かいて、なかでいちばんアネゴ肌の娘は、愛称がアイリーンさんというのだそうだ。
松島トモ子のようにスリムな体型で、歳は32だという。
ここで紹興酒を呑む。
熱くしてくれと頼むと、ボトルごとお湯につけて間接的に温めればいいものを、小さなナベに入れて直接火であぶったらしい。
わたしのまえに紹興酒の入った、熱くて素手では持てないナベが置かれた。
アイリーンさんがナベからコップに酒をそそいでくれた。
日本人は紹興酒をお燗して飲むけど、このようすを見るかぎり、中国ではそんなことはないようだ。
ついでにいうと、角砂糖や梅干を入れて飲むのも見たことがない。
日本では紹興酒は国産と台湾産、そして本場の大陸産が買えるけど、いちばんうまいのは大陸産である。
できることならでっかい甕で買っておいて、少しづつ汲み出しながらちびりちびりやりたい。

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2023年11月 5日 (日)

中国の旅/康師傳

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見えてきたのは湖のほとりに建つ、せんべい瓦と漆喰壁の中国式建物だった。
奇妙だというのは、この建物がもともとは贅を尽くした金持ちの別荘のようであるのに、現在はみっともなく落ちぶれて、べつの目的のために使われているように見えたことである。
ここにようやく橋があったので、自転車に乗ったまま、道路と平行している運河を越えてみた。
越えたあたりになんとか飯店と書いた建物があった。
飯店といったらホテルのことだけど、しかしこれはホテルではなかった。
どうもこのへんの建物はみな病院、もしくは療養所として使われているらしく、わたしはそういう施設の敷地みたいなところに迷いこんでしまったらしい。
場違いを感じたわたしは早々にもとの通りにもどった。

運河にそってさらに行くと、この先にも橋があり、橋のたもとには守衛所があって、あまり真剣味の感じられない守衛たちが通行を監視していた。
わたしが写真を撮りたいので中へ入ってもいいかと訊くと、暴走族にでもいそうな若者の守衛が、ああ、いいよとえらく気安く通してくれた。

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こちらの橋をわたった先は大きな島になっており、あたり一帯はずいぶん緑の多いところで、外から見ると島全体がなにかの工場のようにも見えたけど、ここには養魚場の研究室や、またしても病院、療養所などがあって、看護婦らしい女性が歩いているのにも出会った。
窓からたくさんの布団が干されて、あきらかに病院として使われている建物もあった。
湖にせり出した観望楼のような、凝った造りの建物がいくつも残っており、そのうちのひとつは気のドクに、いまでは30度くらい傾いてしまっていた。

この運河でへだてられた広大な敷地は、たぶん昔はそっくり中国の大官の壮大な別荘でもあったのだろう。
革命後に大官がみんな首をくくられるか、自己批判させられて、屋敷も手放さなければいけなくなり、空き家になった建物を新中国は病院・療養所として活用することにしたのではないか。

湖のほとりで空気もいいところだから、療養所も悪くはないけど、建物の外観があまりに異質である。
こんなところを自転車でうろうろしているわたしもそうとうに異質であるので、適当なところで引き上げることにした。
どうも、といって守衛室のまえを退散すると、気のいい守衛たちはにこやかに手をふってくれた。

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午前中から自転車で走りまわったので空腹になってしまった。
中国ではどんな田舎へ行っても、レストランや露店の飲食店が必ずある。
だから食うには困らないと思っていたのに、さすがに無錫の片田舎では、そのあたりにレストランはおろか、露店らしきものも見えなかった。
地図をながめると、還湖路の先に2つのホテルがあることがわかった。
その方向へ自転車を走らせると、なるほど、右にちょっと入ったというころに2軒のホテルが向かいあって建っていた。

まず大きそうなホテルに顔を出し、横柄な守衛にメシ食えますかと訊くと、やってないと一蹴されてしまった。
仕方なしにもう1軒の「怡園飯店」というホテルへ行ってみた。
なにしろ湖畔の、畑の中の閑静な場所にあるホテルなので、庭はとなりの農家の畑と地続きであり、客なんかひとりもいそうにない。

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フロントもえらく殺風景で、誰もいなかった。
ゴメン下サイと叫ぶと、奥から居合わせた家族がみんな出てきた。
ホテルの門のわきにある売店の老夫婦までやってきた。
メシを食えますかと訊くと、ホテルの主人らしいおばさんが、中途半端な時間なのでやっていませんという。
腹がへって死にそうなんですけどねえと訴えると、麺ならあるけどと、売店のおばあさんが横から口を出す。
結構、結構、このさい腹に入るものならなんでもOKとわたしはいう。
おばあさんに連れられて売店にいくと、麺というのはカップラーメンのことで、おばあさんが目の前でカップにお湯をそそいでくれた。
ラーメンがふやけるまで、わたしはヒマつぶしにカップの側面の文字を写してみた。
“康師傳・紅焼牛肉麺”というカップ麺であった。
麺はともかく、人々の素朴な親切が身にしみた。
現在ではもっと種類が増えているだろうけど、このころわたしが中国で食べたインスタントラーメンでは、この康師傳ブランドがいちばん美味しかったので、わたしは長距離列車に乗るときなどはいつもこればかり買っていた。

カップラーメンで腹のふくれたわたしはそろそろ帰路につくことにした。
ホテルの前の道を北に行こうとすると、売店のおじいさんが、おーい、そっちは行き止まりだと教えてくれた。

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還湖路にもどってわたしのサイクリングは続く。
いろんなものを見た。
またしても大きな遊園地のような施設があった。
広い駐車場に数えるほどの車しか停まっていなかったから、客はほとんどいないようである。
これでこのあたりには、自転車で1時間でまわれる範囲に、遊園地が3つもあることになるけど、こういうのは前後を考慮せず、儲かりそうなものならなんでも飛びつく中国人の悪習によるものか。

この遊園地をすぎてから適当なところで右折し、そのまま東に走ればまた無錫バス・ターミナルにもどれるはずである。
そのつもりでいたら、すぐ「梅園」という、味も素っ気もない名前の観光名所があった。
青梅や尾越の梅林のように、低い小山の全体が梅園になっているようで、見てまわるにはかなり時間がかかりそうだし、花の咲いている時期ではないだろうと無視して通りすぎた。
この通りには江南大学があり、大小の会社や商店、民家もならんでいる。
ま、なんてことのない大通りなんだけど、のんびり自転車でながめながら行くにはけっこう興味はつきない。
高層ビルがあまりないから、空がひろく、わたしは晴々とした気持ちで自転車をこいだ。

レンタル自転車を返したのは午後4時ごろ、料金は45元くらいだったと思う。
これでいちにち、徒歩ではとうてい不可能な範囲を見てまわったのだから、無錫の3日目は大成功といえる。
ちなみにこの日わたしが走った距離がどのくらいのものか、地図を見てふりかえってみた。
初めての土地は、馴れた土地より広く感じるものだけど、おおよそ15キロぐらいで、ただしそうとうにふらふらとまわり道をしたから、じっさいにはこの倍くらい走ったのではないか。
場所は無錫市の中心から、南西の郊外にあたる地域である。

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自転車を返したあと、バス・ターミナルからすこし歩いて、友宜商店をのぞき、また歩いて、三叉路のロータリーからリキシャで錫景公園までもどった。
ホテルに帰るまえに「新薫珈琲屋」に寄ってみると、たまたま店にいた小姐が、わたしの顔を見るとあわてて最初の日に知り合った符小姐を呼んでくれた。
まるでわたしが符小姐の恋人でもあるかのようである。
彼女はあっけらかんとして出てきた。
腹がへっている、なにかないかいと訊くと、彼女はすぐまえの店で食べものを売っていますという。
わたしは符小姐と連れだってまえの店に行き、袋詰めのスナックを買った。
この日も奥のコンピューター学習室には彼女の仲間たちがいて、わたしが首をつっこむと、片言の日本語を話す若者がいろいろ説明してくれた。
日本語ワープロとしても使えますといい、じっさいにパソコンで日本語の表示ができるのを観せてもらった。

景山楼飯店にもどるとフロントの服務員がわたしを呼び止め、翌日上海へ帰るために依頼してあった列車のチケットを渡してくれた。
料金は25元で、来るときに比べると半値だけど、そのかわり硬座(2等車)である。
上海までの所要時間は2時間半ぐらいだから、席なんかなんでもいいんだけど、あとで考えたら、列車のチケットは中国人料金で買い、わたしには外国人料金で売りつけたのではないかという疑惑が生じた。
わたしはいいカモだったのかも知れない。

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これで無錫の旅というか、あてもない無錫放浪は終わりである。
その名前の出てくる演歌がありますよと教わるまで、無錫の名前も知らなかったわたしだけど、この旅ではたまたま転換期にある中国の農村事情を垣間見ることになった。
あちこちで見たように、ここには新しい外資系の工場が増えており、わたしが郷愁を誘われたようなものの大部分は、押し寄せる近代化の大波に飲み込まれる寸前のように思えた。
わたしはこのとき以来、いちども無錫に行ってないけど、2023年の無錫について調べると、その恐れは現実になったようである。
しかし文句をいうわけにもいかない。
中国の一般大衆は日本と同じような繁栄の道をつっ走っていて、生活は間違いなく向上しており、不潔で不便な公衆トイレも、いまではウォシュレットが普通になりつつあるようだから。

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