旅から旅へ

2024年10月11日 (金)

中国の旅/上海

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2度目のシルクロードの旅も最終回。
蘭州のあとはもう日本へ帰国するだけで、わたしは列車に乗って上海にもどった。
洛陽、南京、無錫や蘇州と、クリークの多い田園風景が目立ってくると、ホッとした気分になったけど、旅をしているときはそれ以上の感慨はなかった。
しかし人生の終わりが近くなったころ、あらためて思い出しながらこうやってブログに綴っていると、懐かしさがこみ上げてくる。
同時に世間に対して申し訳ありませんといいたくもなる。
人間と生まれて、人間としての責務も果たさず、こんなお気楽な旅行ばかりしていて。
でもほかの人生を選択しても、わたしには責務を果たせるような瞬間があっただろうか。
旅をしているあいだは幸福だったから、個人的には満足しているものの、心中は決して穏やかじゃなかったんだよ。

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もうどうでもいいやという感じで列車は上海に着いた。
駅ではいちどに大勢の客がどっと下りたものだから、地下通路にはウンコのような臭気が充満していた。
そういえばトイレに紙が備わっていなかったぞと思う。
この客の中には、どさくさにまぎれて切符なしで出ようというものが相当数まじっているようで、改札の駅員が必死でそれをチェックしていた。
わたしが並んでいるあいだにもとっつかまる者が何人もいた。

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駅からただちに新亜大酒店へ。
タクシーは16元だった。
到着してあれっと思ったのは、新亜大酒店は1階を改築中で、ずいぶん雰囲気が違っていたから。
この日はシングルルームの629号室で288元。
部屋のテレビはNHKの衛星放送もやっていて、ニュースで雅子さまご懐妊なんて事件を報じていた。

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さっそくやったことはシャツを洗濯に出すことだったけど、服務員が今日は日曜日だから出すのは明日になりますという。
早いほうがいいので、街の洗濯屋を探して自分でちょくせつ持ち込んだら、この日のうちに仕上がった。
パンツや靴下は風呂場で洗濯をした。

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このあとふらりと南京路に出かけてみた。
南京路も外灘もあいかわらずのにぎわいで、話しかけてきたのがポン引き、日本人をカモろうという若い娘たち、顔馴染みのオカマなど。
お断りしておくけど、今回はもう写真を撮る気もなくなっていたし、ストリートビューが使えることがわかったので、ここではネットで集めた写真だけを並べることにした(冒頭と最後の2枚だけ例外)。
あいかわらず上海はまだまだ発展するぞという勢いである。

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南京路をひとまわりし、新亜大酒店までもどってきて、ホテルの近所で食事をした。
たいして食欲もないから、いろいろ思案したすえ、たまたま目についた“餛飩”という看板の店に入ってみた。
若いウェイトレスたちがだらしなくたむろしている店で、日本の立ち食いソバ屋みたいな軽便な店だった。
餛飩とワンタンは同じかと訊くとちがうという。
彼女の説明を無理やり理解すると、両方とも水餃子のようにスープに浮かべて食べるところは同じだけど、船型にひねったのが餃子で、小さくて箱型にひねったのが餛飩、さらに具を少なくしたのがワンタンらしい(あまり信用しないこと)。
具の材料については上記のいずれにもいろいろ種類があるらしい。
酸湯はないかというと、店のおばさんがテーブルの上の酢を指して、これを入れれば酸湯になるという。
自分で適当に酢を足して、なるほど、美味しい酸湯餛飩のできあがり。
ビールはないというから、それじゃお茶をくれといったら、それもないと、だらしない体勢のままの娘がいう。
わたしは思わずにやにやしてしまった。

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部屋にもどって、この旅行について整理してみる。
旅行費の総額は、出発まえに払った中国への往復飛行機代、西安からウルムチまで乗った国内便の飛行機、カードで払ったホテル代、贅沢はしなかった食事代、鉄道、バス、いちにち借り切ったタクシーなど、これに帰国してからかかる恐怖のフィルム現像代まで合計すると、35〜40万円くらいのようだった。
1カ月近くの海外旅行でこの金額が高いか安いか議論のあるところだけど、もちろん中国のことだから、格安ホテルや硬臥車を使ってケチに徹すれば、20万円ぐらいまで落とすことも可能だっただろう。
しかしわたしが徹したのはモーム流の旅だったのだ。

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翌日は中国での最後の晩餐ということで、ひさしぶりに日本食を食べに行った。
かってのフランス租界にある「伊藤屋」という店で、錦江飯店を出て四つ角をすこし歩いた先にある。
おもての看板に鉄火丼が50元と表示されていた。
もういてもたってもいられずに飛び込んで、ここででキリンビール、やっこ、おしんこ、鉄火丼を注文する。
ビールを飲んでいるうち店長が出てきて挨拶をした。
30〜40代のメガネをかけた中国人男性で、話をしているうちに、彼がかって東京の吉祥寺で和食の修行をしていたことを知った。
成蹊大学のすぐ前にある懐石料理の店で、店長のミシマさんに仕込まれましたと、なつかしそうに話す。
このころのわたしは三鷹に住んでいたので、成蹊大学のまえも何度か通ったことがあり、そういえば五日市街道のわきのビルに和食レストランがあったということを知っていた。
そうそう、その店ですという。
ホテルでくすぶっていては誰とも知り合いになれないのに、ちょっと外出するだけでいろんな人に出会うものだ。

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とはいうものの、わたしは人間ギライて、当然ながら人づきあいも好きではなく、旅のあいだに知り合った人たちで、いまでも連絡を取り合っている相手はほとんどいない。
考えてみるともったいないことであるけれど、原因はたぶんわたしの劣等感にあるのだろう。
そのうちしだいに自分の欠点に気がついて、必要以上の遠慮のうなものを感じ、相手と疎遠になってしまうことがよくあるのだ。
広い世間にはわたしと似たような性格の人もいるんじゃないか。
そんな人に出会ったら、本人を軽蔑するのではなく、同情してやってほしいものだ。

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さて、この旅の最後のエピソード。
空港に着いてユナイトのカウンターで登乗手続きをするとき、なんだかやけに手間どった。
係員が英語で何かいったけど、意味がわからないので曖昧なほほ笑みを浮かべてみせる。
日本人のわるいクセである。
そんないいかげんに手続きをして、それでもちゃんと座席券をもらえたし、荷物の搭載手続きもすんだ。
座席は26Bで、行ってみてびっくりした。
前のシートとの間隔が、足を思い切り突き出してようやく前席にとどくくらい広いのである。
エコノミーのはずなんだけど、ここでいいんですかと、わたしは思わずスチュワーデスに尋ねてしまったくらい。
美しいスチュワーデスはべらべらとまた意味のわからないことをしゃべったあと、にやりとほほ笑んでみせた。
エコノミーがいっぱいになってしまったので、席替えになったんですよ、得をしましたね、ということらしかった。
つまりオーバーブッキングということで、旅慣れしていればこういうことはたまにあるらしいけど、わたしには生まれて初めての経験だったのである。

安心してあたりを見ておどろいた。
ユナイトにこんな美人のスチュワーデスがいたのかと思いたくなるほど、美人ばかりじゃないか。
それも世界中のさまざまな民族の美女ばかり集めたような。
帰りのシートに比べれば、来るときのエコノミ・シートは荷物扱いされているようなものだった。

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飛行機が雨の中を離陸したのは10時23分(ここまで中国時間)。
どんよりと雲のたれこめた日なので、それこそあっという間に中国大陸は視界から消え、5分後にはもう飛行機は雲の上の青空の下にいた。
わたしのまわりは欧米人ばかりで、となりには若いアメリカ人の若者がいる。
アームレストの起こし方がわからないので彼に尋ねたところ、斜め前にいた欧米人のおばさんが、こうするのよと教えてくれ、にこっとウインクした。
タノシイ。

13時ごろ、外は快晴に近い天気である。
どこだかわからないけど、もう眼下に陸地がひろがっていて、まもなく富士山が姿をあらわした。
やれやれ、明日からまた平凡な日常が始まるのかと思う。

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2024年10月 5日 (土)

中国の旅/また蘭州

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蘭州と聞くとなつかしい気持ちがする。
しかしよく考えると、わたしが蘭州に行ったのは今回の旅(2000年)以前には、1997年の初めてのシルクロードのときだけだった。
なんでなつかしいのかとつらつら考えたら、わたしはその後、新疆からチベット方面に興味の対象を移し、中国最大の湖とされる青海湖へ2度も行ってるからのようだ。
青海湖へ行くには蘭州が起点になるのである。
そして青海湖に行ったさい、わたしはひとりの中国人女性と知り合って、彼女を訪ねるために、やはり何度かこの街に行ったことがあるかららしい。
蘭州そのものは甘粛省の省都というだけで、よっぽど中国の歴史にでも興味がないと、街のまん中を黄河が流れており、それを挟んで誰でも登れるていどの山が向かい合っているというだけで、それほど魅力的なところとは思えない。

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武威から乗ってきた路線バスを下りたあと、タクシーで前回の旅で泊まったことのある金城賓館へ行ってみた。
今回の部屋は624号室で280元、信用カード(クレジットカード)がOKだった。
部屋は正面の本館で、前回泊まった別棟ではなかったせいか、窓からろくな景色が見えなかった。

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時刻はもう21時ごろだったけど、荷物を置いてふらふらと街へさまよい出る。
途中で自転車がこわれて困惑している娘に出会った。
どうしたのと訊くと、どうやらフェンダーをささえるステーがはずれただけのようだから、えいやっと直してやって、再見(さようなら)。
こんなもの、日本なら若い娘が困惑していれば、すぐに誰かが直してくれるだろうに。
酸湯水餃子とぬるいビールで晩飯をとったあと、モモを買ってもどる。
このモモは水蜜桃でおいしかったけど、厳重に紙でくるんであったから輸入品かも知れない。

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こんな調子でまた蘭州をさまようことになったものの、2度目だから新鮮味はないし、新鮮味がないと写真を撮ろうという気にもなれない。
蘭州は甘粛省の省都なので、博物館もあるんだけど、前回の旅でほこりだらけの倉庫みたいだったことを思い出し、行く気もおきなかった。
それでとくに記憶に残った体験だけを書いておくことにする。
幸いというか、この旅の途中で中国でもストリートビューが使えることがわかり、蘭州のような大きな街ではそのビューポイントも多いから、ここではストリートビューで見つけた街の写真をずらりと並べた。
8枚目の蘭州飯店と、最後の2枚をのぞいては、すべて最近の蘭州のようすである。

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翌日は散歩をかねて、まず両替のために中国銀行に出かける。
両替をすませたあと、帰りに大きな交差点のかどにある「蘭州飯店」というホテルに寄って、宿泊代がいくらするか尋ねてみた。
こちらのホテルのほうが古色蒼然としているからいくらか安いらしく、シングルが200元くらいだという。
大騒ぎするほど安くはないけど、まあ、ドミトリー以外で200元を切るホテルはあまりないし、あってもクチャの庫車賓館のように相当の覚悟がないと泊まれないところが多い。
フロントでまわりを見ると、蘭州は大都会でもあるので、欧米人も泊まっているようだった。

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蘭州飯店では列車の切符も扱っていたから、ためしに手数料はイクラと訊くと30元だという。
高いか安いかよくわからないけど、あさっての便なら確実に取れるというし、時間も14時台だというから申し分ない。
駅まで行くよりお手軽でいいので、ここで申し込んでしまった。
となると予定より1日長く蘭州に宿泊することになるけど、骨休めのつもりと割り切って、ついでに明日は引っ越してきますと、宿泊の予約までしてしまった。

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帰りがけに見ると、交差点の角、ちょうど蘭州飯店と道路をはさむ位置に飛天大酒店という高層のホテルが建っている。
こちらは近代的なホテルなので、さぞかし高いんだろうなと恐れをなし、このときは泊まってみなかったけど、次回の旅では泊まってみたから、飛天大酒店での体験はそのときに。

街を歩いてみて気がついたけど、この街の交差点では横断歩道よりずっと先に車の停止線がある。
車の対向信号が赤になったからといっていきなり横断すると、車は横断歩道を過ぎたところまで前進してくるから危険である。
もっともあちこち歩いているうち、こんな危険な信号ばかりでないこともわかった。
ちゃんと歩行者用信号のある交差点もあるんだけど、右折車だけは赤でも平気で曲がってくるから注意。

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金城賓館へもどるとき、おばさんの靴みがきに遭遇した。
全部で3元だぜと念を押して、長旅でホコリだらけの靴を磨いてもらう。
最初に念を押してしまったので、あとから3元は片方だけだという常套句は使えなかったようだけど、それでも3元なら彼女にとって文句のない料金じゃあるまいか。
この靴磨きのおばさんとは、あとでまた会う機会があり、ただで靴のホコリをしゅっしゅっと払ってくれたから、ポケットにあった日本の十円玉を上げてしまった。
物価の安い国だから、これでも子供のおやつ代ぐらいにはなったのではないか。

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部屋にもどってごろごろしていると、わたしが部屋にいることをどこで探知しているのか、マッサージ嬢から電話がかかってきた。
ちょうど疲れが腰に来ているときだから、呼んでみた。
やってきたマッサージ嬢はあっけらかんとした若い娘で、みじめったらしさはこれっぽっちもない。
こういう手合いだとこっちも気が楽である。
いやあ、あっちこっちまわって腰が痛くてねと訴え、うつぶせになって腰をぎゅうぎゅう踏んづけてもらった。
気持ちヨカッタ・・・・

夜になっても、到着した日に出した洗濯物がもどってこない。
服務室に問い合わせると、ワカリマセンという返事。
なんだそれはと追求したら、今夜はもう洗濯屋が帰ってしまいましたのでとのこと。
中国のホテルではこういうことも起きるのである。
個人の責任感が欠如しているから、申しつぎなんかしたら衣服が途中で消えてしまうので、最初に引き受けた人間が最期まで面倒をみることになっているのかも。

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翌日は起床したのが朝の8時半ごろで、さっさと蘭州飯店に引っ越せばいいものを、洗濯ものが返ってこないうちはそうもできない。
服務員をつかまえて、アノネ、洗濯ものがこれこれしかじかでネと説明をすると、彼女は親切に探しに行ってくれたけど、そのうちもどってきて、あなたの部屋番号はと訊く。
部屋番号はこれと、ドアの前に立っているわたしはドア番号を指さす。
彼女はそれはそうねとつぶやいてまたどこかへ。
彼女がわかりきっているはずの部屋番号を尋ねたのは、洗濯物を入れた袋にべつの別の部屋の番号が書かれていたためだった。
ホネが折れる。

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この日もあいかわらず街をふらつく。
まえに蘭州に来たときは、文字どおり血走った目で、世間にひけめを感じて歩いていたっけねえと思う。
東方紅広場や白塔山、蘭山などの、観光客が行くような場所に行ってみた。
前回の旅からわずか3年だから、変わったものはほとんどない。
知り合いが送ってくれた最近の白塔山にはジップラインという、人間がロープにぶら下がって山を直滑降する遊戯施設ができていたけど、わたしが行ったころにはそんなものはなかった。

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だらだらとしたリフトに乗って蘭山にも行ってみた。
山頂では観光客目当てのおばさんたちが、馬に乗れ、ラクダに乗れとしつこくつきまとう。
わたしは以前よく見かけた大きなジネズミについて聞いてみた。
あれはなんという名前なんだいと2人に尋ねてみると、ひとりは「松鼠」、もうひとりは「老鼠」と答えた。
2人とも野生動物なんぞに興味はないらしい。
山頂に観光馬場があり、ジネズミはそのそばのゴミ捨て場にたくさんいた。
顔はリスそのもので、ただ尻尾が短いことがリスやネズミと違っているけど、ゴミ捨て場が好きでは、性質はやはりネズミである。
名所旧跡よりこういうもののほうに興味があるわたしの性癖は治らない。

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夜になって街の食堂街をぶらぶらしていたら、あるレストランのウインドウ越しに茶髪の娘が働いているのが見えた。
ほう、中国でも欧米人の娘が働いている店があるのかと感心して、その店に入ってみた。
なにしろ24年もまえの話なので、中国で茶髪なんか見たことがなかったのだ。
正面から見た彼女はふつうの中国人の娘だったけど、中国は他民族国家なので、髪が茶色なのは生まれつきなのかも知れない。

テーブルに座って注文した料理を待っていると、ウエイトレスの娘が日本人ですかと訊く。
ええと答えるとウエイトレスがみんな、動物園のパンダを見るように、わたしのまわりに集まってきた。
店の女主人まで、日本語の会話集を持ち出して話しかけてきた。
映画スターになったような気分だけど、店員がみんな揃うと、その数の多さにおどろく。
上海のレストランでも店の規模からするとやたらに店員が多いのにおどろいたことがあるけど、こういうのもワークシェアリングというのか、まだまだ中国では機械で合理化するより人件費のほうが安かったころである。

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ここで店長、女主人、店員らの写真を撮り、あとで送ってやるべく住所を訊いておく。
ビールとおつまみ2つだけの簡単な食事を終えて清算をしてもらうと、料金はいらないという。
そりゃダメだよといってみたものの、受け取りそうもないので、感謝して店を出た。
彼らのおかげでわたしは蘭州に温かな思い出をつくることができた。
「京来順」というこの店は、2年後に再訪したときはもうなくなっていた。
蘭州も激しく変貌していたころである。

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2024年9月25日 (水)

中国の旅/路線バス

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武威から蘭州まで、おおよそ300キロある。
中国は鉄道王国であると同時に、あるいはそれ以上に路線バス王国でもある。
バス路線は国内をくまなく網羅していて、武威〜蘭州のような都市のあいだでは列車よりだんぜん便がよい。
ただし乗り心地はというと、横になったまま行ける軟臥列車のほうがだんぜんよい。

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天馬賓館を9時ごろチェックアウト。
そのままタクシーで公共汽車(これはバスのこと)駅へ。
あまり待たずにすむバスがいいと思っていたら、タクシーがすぐ前につけてくれたバスが、もう何人かの乗客を乗せていたのでこれにした。
マイクロバスていどの大きさで、蘭州までの運賃は25元。
わたしは荷物と、水、菓子パンなどをかかえていちばん後ろに陣取った。
しかしやはりなかなか発車せず、あとから乗ってきた乗客の中にかわいい娘がいたけど、彼女はいちばん前だった。
車掌はやせたおばさんで、19人乗りバスに、補助椅子を倒せばさらに5人プラス。

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バスが発車したのは10時だった。
中国のバスは飛ばすことで有名らしいけど、このバスは特別だった。
ちょうど前後してやはり蘭州行きのバスが走っていたせいもあって、競争心をあおられたのか、もう飛ばすこと飛ばすこと。
立ち上がってひと言いいたい衝動にかられたけれど、文句をいうのはスジ違いかもしれない。
この街道には蘭州行きはいくらでも走っているのだから、文句をいうくらいなら乗り換えてしまえばいいのだ。
25元はたかが325円ではないか。

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11時に黄羊村というところで停車。
ムギ畑の向こうにクジラのようなかたちをした褐色のハゲ山が見える。
トルファンで見た火焔山に似ていて、ちょっと特異な形状の山なので、また登ってみたいなと思ってしまう。
こちらは灼熱という土地ではないし、じっと眺めるとつづれおりの踏み跡道があって、中腹に祠か石窟のようなものも見えるから、たまには登山者がいるようである。
まあたりはムギ畑の広がる農村で、山頂からどんな景色が見えるだろう。

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11時すぎ、両側が山にかこまれた町に着き、バスはなぜかここで停車して動かなくなってしまった。
あたりの景色に注意をはらっていると、あとからやってきた大型バスの車掌が、わたしを含めた6、7人に、バスを乗り換えるよう指示する。
こっちのほうが早く到着するからとでもいったのかもしれないけど、いい機会だから乗り換えることにした。
荷物を持ち、指名された客たちにくっついて移動してみると、こちらは最初の車よりひとまわり大きいものの、ポンコツであることと、混雑していることだけは変わらなかった。
満員にならなければ発車しないバスなのだから、混雑は当然といえば当然で、すいているバスを待っていたら、蘭州に着くのがいつになるかわからない。

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まさか終点まで立ちっぱなしってことはないだろう、どこかで空席ができるだろうと、あきらめて乗り込み、あらたに18元を払った。
車内をずっと見まわすと、ひとりで座わっているらしい女性がいた。
彼女の席に行ってみると、小さすぎて見えない男の子がいっしょだった。
強引につめてもらい、つめてもらってばかりではわるいのでアイスクリームを買ってやったり、非常食として買っておいた菓子を上げてしまう。
ゴマをすったおかげで仲良くなった子供に名前を尋ねると、紙に“汪”と書いた。
じつは近くに父親も座っていて、わたしを白い目でにらんでいたんだけど。

武威の郊外から山道にさしかかると、このあたりは高速道路ができるらしく、しばらく工事現場が続く。
とちゅうの山道でドカンという大きな音がしたので、窓から外をうかがうと、バスの近くになにやら白い煙。
どうやら発破の現場らしい。
しかしバスから50~60メートルしか離れてない。
アブないじゃないか。

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バスはしだいにすいてきたので、いちばん後ろの席に移動した。
途中、前回の旅で列車の車窓から見た見おぼえのある踏切を通った。
列車が遅延したため、踏切の両側に車が延々と渋滞していたところである。
ちょっぴりなつかしい気がしたけど、この踏切を渡れたのは幸運だったかも知れない。
わたしはこの2年後と5年後にまた天祝を訪れ、5年後のときは張掖から蘭州までバスに乘ったけど、すでに高速道路が完成していて、このローカル色いっぱいの踏切を見ることは2度となかったのである。

となりにすわっていたむさくるしい人たちに、蘭州へ仕事に行くのですかとヘタな中国語で訊いてみたら、わたしらは“打工”だと答えた。
打工は、ようするに、建設作業員のことだろう。
何人かで仕事を求めて省都の蘭州まで上京するところかも知れない。
中のひとりが手のひらのマメを見せてくれたので、中国の繁栄を支えているのはあなたたちですねと、紙にお世辞を書く。
生まれた場所が異なれば、わたしも彼らとともに打工でもしていたかもしれないと、無能のヒトのわたしはしみじみと考えてしまった。

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12時半ごろ初めてアヤメの花に気がついた。
この花が見たくて、この旅では武威で下車したのである。
バスはどんどん高度を上げているらしく、アヤメもどんどん数を増す。
このあたりから周囲の山容が変わってきた。
山のかたちはなだらかで、山頂まで芝のような短い草におおわれているものが多い。
山頂まで草におおわれているということは、高度が高くて空気がひんやりしているから、砂漠とちがって大気中に水分が途切れることがないのだろう。
景色はひじょうに美しい。
ウシ、ヒツジ、ヤギなどが放牧されていて、民家の近くに石でかこんだ牛囲いがあり、西部劇に出てくる荒野の開拓民の住居のようだ。

このあたりで乗客のひとりが立ち上がり、いきなりぺらぺらとなにか口上を述べ始めた。
なにが始まるかと思ったら、手にエンピツ2本を持ってぐるぐるとこねまわし、それに目にもとまらぬ早さでゴム輪を引っかけ、どちらのエンピツに輪が引っかかったかという賭けのようなことを始めたのである。
バスの中は臨時の賭博場になったわけだ。
それでも好き者はどこにでもいるらしく、手をあげて応じる客もいた。

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13時半、バスは急な坂道をあえぎながら登ったあと、まもなく峠を越えて下り坂になった。
左手の山の中腹に延々と連なる土塁のようなものが見える。
このあたりにあっても不思議じゃないから、万里の長城かもしれないけど、バスははすっかいにそれを横切り、土塁はやがて右側の山に駆けのぼって視界から消えた。
まわりは山岳地帯だけど、蘭州から武威にかけては、河西回廊の一部だから遺跡は多いはずである。

14時ちょうどごろ打柴杓の村に到着。
このへんでチベット族自治県の看板を見たけど、ヒツジの毛皮を肩にかけている女性を見たくらいで、家の造りや人の服装に特に民族色はない。
わたしはチベットに行ったことがないから知らないけど、短い草の生えたなだらかな山容の土地は、それだけでチベット族やモンゴル族にとって、遊牧に適した、自分たちの土地に見えるのだろうか。

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14時20分に天祝の町に到着。
ちなみに天祝はチベット族自治県ということになっている。
新疆やチベットにある自治体は自治区という呼称で、ほかに回族、モンゴル族、チョワン族など、中国全土に5つの自治区がある。
自治区と自治県の違いはその大きさによるようで、日本の行政体とは逆に、大きいほうが“区”、“県”はもっと小さい単位をいうらしい。

天祝はまあまあ大きな町で、ホテルもあるし、アパート群らしき建物などもあった。
しかしほかにとくにチベットらしい個性があるわけではない。
歩いている人々の服装もふつうの漢族と変わらないし、チベット寺院や坊さんもなく、オボーという、ボロ布を満艦飾のように飾り立てた旗も、ひとつも見られなかった。
このあたりでバスの屋根から積荷のニワトリが落ちたけど、だれもそれに気がつかず、バスはそのまま進行。
中国の道路にはたまにニワトリが落ちていることもあるらしい。

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14時45分に武勝というドライブインで30分の休憩。
もうあと40~50分で蘭州かと思ったら、ここに蘭州まで183キロという標識示があった。やれやれ。
売店でソーセージ2本を買って、それで空腹をごまかす。
便所へ行ってみたら、椎名誠さんが筆舌に尽くしがたいと書いていたロシアのトイレみたいだった。

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しだいに平地に下りて、バスは果樹園の多いゆるやかな農村をいく。
わたしは蘭州はよく知っているので、黄河をはさんで両側に白塔山、蘭山がそびえる地形を覚えていた。
しかしその見慣れた山はいつになっても見えない。
わたしのとなりに座ってる若者はヒマワリの種を食べ続けていて、カラをぺっぺっと車内にまき散らすので不快。
まわりにはタバコをすう者も多く、この日1日だけでわたしは砂と排気ガスとタバコのヤニでまっ黒になってしまった。
発狂寸前になったころ、やっと右側に黄河が見えた。
そしてようやく市街地に入ったなと思ったらまた郊外へ、ふたたび市街地へ。
蘭州は遠い。

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19時ごろようやく蘭州駅近くにあるバスの発着場に到着。
時間は武威から約9時間かかったことになる。
中国のバスの時間など最初からアテにしていないし、蘭州に近づいてからかなり退屈したものの、冒険心をすこしは満足させて、わたしにはおおむね満足できるドライブだったといえる。

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2024年9月18日 (水)

中国の旅/ドライブ

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武威という街は平野のなかにあるけど、遠方には褐色の山並みが遠望できて、雪山ものぞいている。
ただし天馬賓館の北楼は、まわりをビルにかこまれていて展望はよくない。
昨日はいちにち曇りという印象だったけど、今日はまたいい天気になった。

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美人運転手が迎えにくる前にふらりと散歩に出て、まずホテルの近くの人民公園に行ってみた。
この街の人民公園はあまり大きくなく、入って正面に例の飛燕を踏む馬の像がどーんと立っている。
朝から太極拳をする人、小鳥の鳴かせ競争をしている人、そして物売りなどで、人出は多い。
バスの発着場のようすも見ておこうと大通りをぶらぶら歩いていたら、ガイドブックに旧古城壁が残る、と記されている個所に大きな城門が建設中だった。
ここに西安の城門に匹敵する観光の目玉を造ろうって魂胆らしいけど、現在のそれは足もとこそレンガであるものの、あとはコンクリートである。

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ぜんぜん知識のなかった武威という街だけど、現在はご多分にもれず発展していて、わたしが行った2000年ごろに比べると一転しているようだ。
中国政府は貧困撲滅を計り、繁栄の分け前を地方にも与えるべく、世界の観光地を熱心に研究したらしい。
貧しい辺境に金を落とさせる、それもただバラまくのではなく、持続的に落とさせるためには、辺境であることを逆手にとって、独自の文化や景観を見せる観光地にしてしまえばよいというのは、きわめてまっとうな考え方である。
わたしが中国を旅する以前から、桂林や石林、九寨溝・黄龍、そして敦煌などの景勝地・歴史的遺産は紹介されていたけど、国の繁栄にともなって、こうした動きはますます盛んになってきたようだ。
いまは中国との関係がギクシャクしているけど、将来平和がもどれば、日本人はグランドキャニオンやイエローストーンを見るために、なにもアメリカまで出かけることはないのである。
すこしまえにNHKが放映した「最美公路」というテレビ番組や、わたしの中国人の知り合いが送ってきた新疆の写真などを見ると、中国にはまだあまり世界に知られていない目もくらむような絶景も多いのだ。
ユーチューバーの諸君に言っておくけど、金儲けのネタ、世界に知られていないめずらしい景色は、おとなりの中国にごろごろしているのだぞ。
こういうのは早くやった者の勝ちである。

バスの発着場でようすをうかがう。
いろんなとこへ行くバスがあるけど、蘭州行きもすぐ見つかった。
運転手に訊くと約5時間、25元だとか。
別のもっと大きな車体の蘭州行きにも訊いてみると、時間はほぼ同じで、こちらは料金が20元だというから、やっぱり客をたくさん詰め込むほうが安いらしい。
車なんかなんだっていいけど、ひょっとすると武威から蘭州のあいだは高速道路で結ばれているのかもしれない。
わたしは烏鞘峠や、チベット族自治県が間近に見られるのではないかと期待しているので、あんまり簡単にすっ飛ばされてはおもしろくないんだけど。

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11時に女性運転手の劉さんが迎えに来た。
感心にひとりである。
もっともわたしが強盗かレイプ魔だとしても、彼女相手では簡単に組みしだかれてしまうであろうことは、すでに書いた。
とりあえず100元という約束で市内観光に出る。

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最初に行ったのが文廟というところで、甘粛省最大の孔子廟だという。
庭にアカシア(えんじゅ)の古木があるのが気になっただけで、おもしろくもおかしくもない。
敷地内に博物館があって、西夏文字という歴史的に貴重な文字を刻んだ石碑があるということだけど、どれがそれだかぜんぜんわからなかった。
ここではストリートビューで見つけたそのあたりの写真も載せておく。

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タクシーは万国共通のはずの進入禁止の道路標識を無視して、つぎに鐘楼に向かった。
運転手にもうしわけないから、いちおう見学してみたものの、おもしろいのは鐘楼のまわりの、びっしりは建て込んだ古い住宅くらい。
鐘楼というと西安でも張掖でもメインストリートの交差点のまん中にあったのに、この街の鐘楼は貧民窟の中のような、妙にハンパなところにあるのである。

どこか農村が見たいんだけどねとわたし。
タクシーはゴミ捨場のわきの汚い土壁の民家のわきに出た。
農村だよと劉さんがいうんだけど、彼女は農村と農家を混同しているらしい。

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つぎに向かったのはいくらか郊外にある雷台というところ。
雷台もぜんぜん見たいと思わないのだけど、やはり案内してくれる運転手にわるいので入ってみた。
有名な飛燕を踏む馬はここで発見されたのだという。
わたしが見たときはそれほどでもなかったけど、ここは武威の名を世界に広めた場所なので、最近では大きな公園、地下墓地を含めた壮大な観光名所になったようだ。
建物の中に飛燕を踏む馬のレプリカが飾ってあった。
オリジナルは、甘粛省の省都である蘭州の博物館に収納されているもので、ここにあるのはすでに緑青をふいた本物そっくりの銅製品であるから、なかなかレプリカとわからない。
売店でその像のミニチュアを売りつけられたけど、小さな記念バッチひとつですませた。

車にもどって劉さんに、どこか水の流れているきれいなところはないかと訊くと、うなづいた彼女が連れていったのが、海蔵寺という寺のそばにある公園。
やけに緑の多いところで、なるほど、ここには水のある大きな池があった。
案内された岩のあいだから冷たい湧水が流れ落ちていたけど、乾期で水が少ないらしく、観光用の手漕ぎボートの底がつきそう。
富士山や軽井沢で白糸の滝を見たことのある日本人には、ぜんぜん感動的なところではない。
公園内の売店に2匹のチンがいた。
えらく人なつっこいのでしばらくたわむれたが、劉さんはつまらなそうな顔をしてながめていた。

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こういうところじゃなく、もっと広大な農村風景が見たいんだよというと、運転手は、それじゃあ◯◯公園に行こう、ただしここから30キロあるけどという。
いいとも、そのぶんタクシー代を上乗せしようじゃないかということで、車を走らせる。
こんどはちょっと遠かった。
美しい農村風景の中を車は対向車、トラクター、自転車、歩行者をひらりひらりとかわしながらつっ走る。

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なるほど、今度こそはうるわしい農村風景の中を、川がゆるやかなカーブを描いて流れている風光明媚な景色が見えてきた。
写真を撮るのにもってこいのロケーションだ。
空き地に車を停めて、ヤナギの生える川岸に向かって歩き出したら、たちまち何人かのおばさんたちに囲まれた。
水辺にテーブルとベンチが並べられ、飲み物でも取りながら休憩できるようになっていて、ぜひウチのベンチへとおばさんたちの客引きである。
おばさんたちをひとり残らず無視して、水のそばへ寄ってみて、おどろいた。
まっ黒な、とても川とはいえない汚染されたドブ川だったのだ。
劉さんもびっくりしたらしく、わたしが川を背景に写真を撮ろうというと、あわてて首をふっていた。

チンのいた公園の水は湧水だったからきれいだったけど、このドライブで見かけた川で、きれいなものはひとつもなかった。
そろそろ帰ろうということになり、市内方向に向かっているとき、劉さんがもう1カ所公園があるというので、あまり期待しないままに寄ってもらうことにした。

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市民の憩いの場になっているらしく、林の中にバンガローふうの建物や売店(プールまであった)などが点在していて、行楽している人も多かった。
こんな公園を男がひとりで見たって仕方がない。
しかし公園のすぐわきまで農地がせまっていて、ムギ畑のまん中になにやら古い烽火台のようなものがあるのが目についた。
近づいてみるとレンガと土の建物で、最近の農家にしてはおそろしく頑丈に造られているから、これはやはり、なにか古い建造物ではないか。
ただし頑丈なのは土台だけで、この土台の上に、あとから乗せたような感じの四角い建物が乗っかっている。
わたしの想像では古い時代の烽火台の上に、誰かが勝手に家を造ってしまったというところだ。
そちらは窓もあり、ボロ布で目かくしがされていて、入口近くにはまだ数分まえに撒かれた水の跡まであって、いまでも誰か住んでいるようでもある。
ただしわたしがすぐ近くでじろじろ眺めていも、だれも出て来なかったし声もしなかった。
住人は世捨て人のように声をひそませていたのだろうか。

武威の街までもどって劉さんとともに食事をする。
わたしがビールを注文すると、彼女はフルーツ・ビールというものを注文した。
これは瓶の形こそビールと同じだけど、中身はラムネだった。
彼女はウドンに、わたしが注文したマーボトーフをぶっかけて食べていた。
わたしが長距離トラックの運転手だったころ、よくドライブインでライスにモツ煮込みをぶっかけて食べたことを思い出した。
どうもあんまりロマンチックな光景とはいえないようだ。
きれいな運転手とのデイト料金は200元で、食事はもちろんこっち持ち。

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ホテルへもどって、寝るまえにもういちど街へぶらぶら。
ふだん怠惰なわたしが、それでもあちこち歩きまわっているので、わたしのお腹はだいぶ減っこんだ。
バンドがゆるくてたまらないので、たまたまあったバンド屋の兄ちゃんに頼んで穴をひとつ増やしてもらった。
これで快調、気分よくホテルにもどったものの、武威はつまらない街である。
荒々しい砂漠の景色をずっと眺めてきたあとで評価したのでは気のドクだけど、この街でわたしの記憶に残るようなものはほとんどなかった。
トルファンとコルラのあいだの山間部で見た、険しい山あいで、馬に乗ってヒツジを追う男たちの生活、わたしが見たいのはそういう景色なんだけど。

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2024年9月14日 (土)

中国の旅/武威

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列車のなかで目をさましたのが朝の8時ごろ。
すぐに小さなオアシスで停車した。
駅名を確認できなかったけど、時刻からすると玉門鎮らしい。
個室の窓からベッドにごろりとしたまま見えるのは左側の景色で、そちらはほとんど起伏のない砂漠、右側の通路側の窓からは砂漠の向こうに山が連なっているのが見える。
こんながらがらの軟臥もめずらしく、客のいる部屋は、8つあるうちの2つか3つのようだった。
最近は中国人も金持ちになって、どうせ軟臥に乗るなら豪華車のほうがいいということか。
わたしはトルファン駅でとなりに停まっていた豪華列車を思い出した。

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そのうち右側の車窓に、まだらな残雪の残る突出した山があらわれた。
この山は列車からよく見え、ちょうどこれから祁連山脈が始まるというあたりにあるから、日本でいえば丹沢連峰のいちばんはじにある丹沢大山みたいなものか。
灼熱の砂漠の向こうに雪山なんて、日本じゃお目にかかれない景色だから写真で紹介しようと思ったけど、このあたりはいちど見たところなのでフィルムがもったいない。
そこでインチキをする。
この写真は1997年に初めてシルクロードを訪れたときに撮った祁連山脈の写真で、それを左右反転すれば帰路に見た景色になる。
どうじゃ、このデタラメなこと。

わたしは山が好きなので、ずっと目を離さないでいると、玉門鎮を過ぎたあたりから山脈の向こうにさらに高い雪山が、わずかに頭を見せ始めた。
これが祁連山脈の盟主たる祁連山らしく、そうだとすれば標高は5547メートルもあるから、わたしが走っている場所も2000メートル以上あるのではないか。

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わたしはいま武威というまったく知らない街に向かっている。
なぜこの街に下車することにしたかというと、1997年の旅でこのあたりを通ったとき、列車の車窓からアヤメに似た花がたくさん咲いているのを見て、それが気になっていたからだ。
帰国してから調べてみると、武威と蘭州のあいだには、上海〜ウルムチ間でいちばん標高が高い烏(からすという字)鞘峠という難所がある。
花が多いのはそういう特殊な地形のせいらしいけど、できることならそれをもういぢど、近くからじっくり眺めてみたかった。

さらに調べてみると、烏鞘峠の近くには“天祝”という町があって、そのあたりはチベット族の自治県になっていることもわかった。
へえ、チベット人はこんなところにも住んでいるのかと意外に思い、ついでにその町も見てみたい。
武威で列車を降りて、路線バスで蘭州に向かえば、もっと近くから烏鞘峠や天祝を眺められるに違いないと考えたのである。

嘉峪関で中国人の農民のおじさんおばさんといった感じの2人連れが乗り込んできた。
ニーハオと簡単な挨拶をしておいだけど、彼らは商丘という街へ行くそうだから、西安、洛陽よりまだ先である。
12時すこし前に清水という駅に到着して、ここで紙パックの乳酸飲料を買う。
同室の夫婦とはあまり口をきかない。
このあたりで列車は不可解な動きを始めた。
まず180度以上あるような大旋回をし、そのあとも大きなS字を描いた。
あたりは山あいといえば山あいだから、これから山に入るぞというウォーミングアップの儀式のようなものかも知れない。
コルラで見たような急峻な場所にも見えなかったけど、やっぱりストレートに突入するにはきついところなのだろう。

17時10分に金昌に到着、このつぎがいよいよ武威である。
金昌を出てまもなく、わたしは麦畑のあいだに、白もしくはブルーの小さな花が植えられているのを見た。
同室のおじさんおばさんはなんとなく農民みたいなので、彼らに尋ねると、おじさんがいうのには「油菜花」だという。
油菜といわれるとつい菜の花を連想してしまうけど、黄色い花ではなかったド。

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時間どおりに武威に到着。
同室の2人に別れを告げてわたしは武威の第1歩を踏み出した。
駅前で寄ってきたタクシー運転手の中にきれいな女性がいた。
わたしはさっそく彼女に天馬賓館、10元だぜという。
天馬賓館はガイドブックで調べてあったホテルで、市内だから5元ぐらいだろうけど、相手が損をしないよういくらか高めにいったのである。
この街で下りた外国人はわたしだけのようだから、ほかのタクシーはみんなあぶれたわけで、どこの国でも美人は得である。
ただし彼女はわたしの想像する楊貴妃のようなタイプではなく、先日のパリ五輪で、日本人として初めて金メダルを受賞したレスリングの鏡優翔ちゃんみたい。
わたしなんか簡単に組みしだかれてしまいそうだ。 

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前述したように、この街は路線バスに乗るために立ち寄ったもので、ほかに目的はなかったから、ついつい駅やホテルの写真を撮り忘れた。
これはストリートビューで眺めた現在の武威駅だけど、駅前はこんなに広くなかったねえ。 
なんでもわたしが行ったあとの2009年に、駅とその周辺がアップグレードされたそうだ。

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路線バスに乗るためといっても、のんびりゆったりを基調にしているわたしの旅だから、到着したその日にバスに乗るほどせっかちじゃない。
せっかくだから武威という街も見物していくことにした。
明日タクシー借りきりで観光したいんだけというと、たちまち運転手はこの餌にくらいついた。
わたしとしても観光するなら美人運転手つきのほうがいいのである。
彼女の名前は劉さんで、女の子がひとりの母親だそうだ。

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武威は小さな街だけど、天馬賓館は3つ星の立派なホテルである。
劉さんを待たせたままフロントに行って、部屋代はいくらなのか尋ねてみた。
ロビーにこの町のシンボルである「飛燕を踏む馬」のレプリカが展示してあった。
この像はいまでは甘粛省全体のシンボルになっていて、蘭州の博物館にも置いてあるけど、もともとは武威の雷台というところで発見されたのがオリジナルだそうだ。
当時のわたしはそんなことも知らなかった。

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ところで天馬賓館ていまでもあるのか。
調べてみると、ちゃんとネットで引っかかるから、いまでもあるらしく、この写真もネットで見つけた最近のものである。
わたしの部屋は北楼の515室で、部屋もダブルベッドだし、いくらか湯の出がわるいくらいで文句のつけどころはなかった。 
カードは使えなかったけれど、これで1泊220元(3000円足らず)というから泊まることにした。

このあと新華書店まで劉さんの車で地図を買いにいき、明日は11時に迎えにくるよう約束して別れた。
もっとも前回の敦煌や張液であったように、相手もこちらを恐れて男の用心棒を連れてこないともかぎらない。
さて楽しいドライブになるかどうか。

天馬賓館の北楼にも売店がある。
愛想のいいおばさんがいて、冷えたビールはないかというと、後ろにあった冷蔵庫で冷やしておくからあとで取りにおいでという。
シャワーを浴び、洗濯をしたらもう暗くなってきた。
まだ21時ごろだから、新疆ウイグル自治区に比べると日没は早い。
わたしはすでにカシュガルから上海までの行程の半分近くまでもどってきたのである。

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ほとんど食事らしい食事もしてないので、ふらりとそのへんまで迷い出た。
ホテルの近くに涼洲(武威の古い名称)市場という、小さな食堂がびっしり建て込んだ屋台街のような場所があった。
酸湯水餃子という看板のある店に飛び込み、それを注文してみたら、日本のふつうの焼き餃子と同じくらいの餃子が20コくらい入っていた。
ほうほうの体でやっと半分くらい食べ終えた。

部屋にもどって、冷やしておいてもらったビールを飲みながら考える(このビールは金黄河といって、640ミリリットル入りの丸々と太ったボトルに入ており、なかなかいけた)。
またほんの少し見てまわっただけだけど、武威の街はわたしの想像とすこし違っていた。
城門を出るといちめんの砂漠といった、国境の町のようなところを想像していたのだけど、いまのところ洛陽のような漢族の町という印象しかない。
街の周囲に農地が多いから農民は多いけど、もはやウイグルではなく、そのほとんどが回族のようだった。

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2024年9月 9日 (月)

中国の旅/ハイルホシー

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外国をひとり旅していると疲れることがある。
肉体的な疲れではなく、たとえば土産もの屋での値段交渉、なんとかしてこちらをごまかそうとするタクシー運転手や、ピンハネしようとするホテルの両替などとの闘いだ。
こういうことをするのは圧倒的に漢族が多い。
ウイグルはまだ素朴で、あまり外国人とちょくせつ対峙する業種についてないせいもあるけど、こんなことばかり続くと、わたしも暴動を起こしたくなってしまう。

交河故城を見学したあと、わたしはトルファン賓館にもどった。
このあとロバ馬車で緑洲賓館というホテルに行ってみることにした。
ここにはCITS(旅行会社=列車の乗車券販売もしている)があると聞いたので、ヒマつぶしに自分で列車の料金を調べておこうと思ったのである。

たいした距離でもないから往復5元にせいよと、人の好さそうなロバ馬車のおじいさんに掛け合う。
小学生くらいの少年があとから走ってきて同乗した。
じっさいには緑洲賓館で時間をくったのと、道路が工事中で帰りは別の道を使うことになったので、わたしはこりゃ10元は仕方ないなと思った。
ところが御者と少年は口をそろえて20元だという。
じつに人の好そうな顔をしている御者のおじいさんだけど、こうなると真剣である。
トルファン賓館の門前で、ふざけるな、10元だとすったもんだしていると、Jhon's CAFEからマコトちゃんが飛び出してきて間に入ってくれたので、けっきょく10元ですんだ。
このおじいさんはウイグルだったけど、いったい誰だ、日本人はいいカモだと教えたのは。
いや、疲れる。

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とうとう用意してあったフィルムが底をついた。
ホテルの売店で尋ねると1本50元以上のことをいう。
日本ではフィルムなんてタダの景品だというと、いくらなら買いますかと計算機を持ち出す。
わたしは疲れた。

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20時ごろ、マコトちゃんとバザールへナイフを見に行く。
カシュガルで買ったものは駅で没収されてしまったんだよというと、没収されないためには駅で身につけていればいいというので、もういちど安いものがあったら考えてみようかということにしたのである。
マコトちゃんの友人だという店に行ってみた。
素性のいいナイフが120元だという。
そんな高いものは買えないとゴタゴタいいあって、ああ、またしてもわたしは疲れた。

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翌朝は6時半ごろいったん目覚め、1時間ほどワープロを打ってまた寝てしまい、2度目に目覚めたのは9時すこし前だった。
シャワーを浴びたあと買い置きで食事をすます。
この日はトルファン出立である。
一部の人間のがめつさには閉口しているけど、それでも旅する楽しさはそれを帳消しにしてあまりある。
わたしは気持ちよくこの町を離れることにした。

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さて列車だけど、わたしがホテルに依頼したのは17時台に出る344次か190次というやつ。
とりあえず高いほうというわけで、手続き料を含めて650元の予約金をとられた。
CITSに問い合わせたときに、料金が異なるのは一方の列車が空調完備の豪華車であるからということがわかった。
ただどっちが豪華車であるのかは、ホテルで見た時刻表とCITSの説明が逆だったようで、よくわからない。
高いほうがだいたい500元前後、安いほうが400元くらいだろうとのこと。
フロントにいた美貌の小姐が正直に釣り銭を返してくれればいいが。

この小姐にかぎらず、中国のホテルでは対応した当事者が勝手に料金や手数料を決めているんじゃないかと思うことがよくある。
たとえばホテルによっては日本円の両替を依頼すると、フロントにいた娘がこれこれしかじかの手数料でよければやってあげますという。
交渉次第で額が変わるところをみると、ホテルは関係なしにフロント係が自分の判断でやっているようだから、手数料はフロント係のものになるのだろう。
つまりホテルの従業員がホテル内で勝手に商売をしていることになるけど、ホテルや上司はこれを把握しているのだろうか。
たいていの場合、領収書をくれるわけでもないので不信感がつのる一方である。

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11時近くになりホテルをチェックアウト。
列車の切符はOKですかと尋ねると、前日の美女とは異なる娘が、手配はしてありますから駅で受け取って下さいという。
予約金からオーバーした分を返してくれたけど、正確なオーバー金がいくらかわからないし、また100元でタクシーを斡旋しますなどと始まって、うんざり。

なんとか切符の件がかたづいて、ふらりと町へ出ようとしたら、網をはっていたマコトちゃんに引っかかってしまった。
40元で駅まで送りますといわれ、ま、いいだろうとわたし。
列車は18時ごろだから、15時半に待ち合わせ。

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時間がありすぎても行くところがないので、ひとつ交河故城近くの素朴な村へでも行ってみるかと、バイクタクシーをチャーターした。
とことこ走ってダム湖の見えるあたりで停車し、写真を撮るために湖のほとりまで歩いてみた。
想像したとおり素朴で、日本の田舎を感じさせる村で、村人がにこやかに挨拶する。
湖の水ぎわまで歩いてみると、この日も子供たちが水浴しているのが見えた。

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ふたたびとことこ走って帰路につく。
途中でウイグルの運転手がなにかいいだして、さっぱりわからないけど、市内まで行きたくないというのようなので、市内に入る手前で下りてしまった。
ここにも日本語堪能のウイグル人タクシーが網を張っていて、市内まで1元でいいですという。
1元は安いと思ったら、車のなかでまた観光の勧誘が始まった。
トルファンには地球の中心がありますとかいっていたけど、時間もないので断固拒否。

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顔なじみのヤコブが運転する軽バンで駅へ。
駅までは一般道路を走り、料金所を過ぎたところで有料道路にのる。
車はウルムチ方向へ、往路とは異なる道をひた走る。
わたしの知っている道、今回トルファンに到着したとき走った道は、洪水で崩壊したままなので、遠まわりでもこちらを使うのだという。
そういえばトルファンに到着したとき、駅にはわたしたちのバス以外にも、市内に行くはずの車がたくさん停まっていたのに、わたしたちの車が出発しても、前後を走る車がまったくいなかった。
理由は、ほかの車はみんな迂回路を走り、崩壊した道をムリやり走ったのはわたしたちのポンコツだけだったということらしい。

トルファン駅前ビルの2階にあるCITSで無事に切符を受け取った。
今回は甘粛省の武威で途中下車する予定である。
ここは前回の旅で、どうしてここだけこんなに花が咲いているのだろうと不思議に思った烏(カラスという字)鞘峠から近いので、それを自分の目でじっくり確認してみるつもりだった。
列車は190次で軟臥の下段だというから、ほかの客が共用のソファ代わりにしている場合が多く、あまりのんびりできないかも。

暑いので、さっさとマコトちゃんらと別れて駅の待合室に入ってしまった。
待合室で切符を点検した駅員が、まだ発車まで30分以上あるはずなのに、さっさと乗車しなさい、あなたの列車はあれですという。
彼女はトランシーバーでホームの駅員に連絡をとり始めた。
ひとり乗り遅れそうな客を発見した、出発をちょっと待てという感じである。
わたしはあわててホームへ向かったけど、出発はやはり30分もあとだった。
またナイフを没収されないよう、わたしはそれをポケットにしのばせていたのに、トルファン駅のX線検査機は壊れていた。
中国人たちは荷物を開けさせられてチェックされていたけど、わたしと、たまたまあとからやってきた白人バックパッカーは、ようやくきちんと整理してパンパンにつめこんだ荷物を、うっかり開けるとまたあとが大変だと思ったらしく、ノーチェックでOKだった。

ひょっとすると空調完備の豪華列車かと思ったのもつかの間、190次はおそろしく汚い、囚人護送車のような暗くて汚い列車であった。
どこから侵入してくるのか、窒息しそうにケムい個室に座って発車を待っているあいだ、その豪華列車というのがとなりに停車した。
こうなるとピンハネする金額が大きいというので、わざと安いほうの列車の切符を手配されたのかも知れない。
なんだっていいやとわたしもヤケになる。
嬉しいのは、どうやら個室がわたしひとりの貸し切りらしいことである。
このまま武威までひとりでいくか、美人姉妹でも同室になるといいけど。

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18時すぎの発車と同時に、大きな疲労感を感じてぐたーっと横になる。
景色の写真を撮ろうと思っても、この列車ではムリかもしれない。
なにしろどの窓も古びてサビついたようになっており、金輪際開こうとしない。
まあ、砂漠の写真はもうどうでもいいか。
21時半ごろ太陽は地平線にかかった。
まだまだ明るいけど、列車はどこか海と群島を思わせる赤い砂漠をゆく。
暗くなってから停車した駅で、ホームに下りて空を見上げてみると、まあまあきれいな星空だった。
列車は今夜中に新疆ウイグル自治区の国境を越えて、ハミを過ぎて柳園に至れば、そこはシルクロードであっても、そろそろ漢族の勢力圏である。
さらば、ウイグルよ、ハイルホシー(ウイグル語で「さようなら」)。

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2024年9月 7日 (土)

中国の旅/シーズワン

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わたしはダーウィンの「ビーグル号航海記」のファンで、この旅にも文庫本を持参したくらいだけど、この本のなかに南米の先端にあるデル・フエゴ島の原住民に教育をほどこすとどんな結果になるかという話が出てくる。
ビーグル号の船長であるフィッツロイは、それ以前の航海でフエゴ島を訪れたとき、原住民の男女をロンドンに連れ帰り、イギリス式の教育をほどこして、ダーウィンの航海のとき彼らを故郷に連れもどした。
結果は悲惨なもので、余計なお世話というようなものだったけど、こういうのも知的好奇心というものだろう。
ところでと、わたしも新疆ウイグル自治区で知的好奇心を抑えられなかった。
15歳の少女が3年たつとどう変わるか。
子供のいないわたしは、それを確認してくることにしたのである。
もちろんわたし流のジョークも混じっているけど、トルファンには3年前に知り合ったシーズワンというウイグルの少女がいる。
ここに載せた冒頭の写真が彼女だけど、この子のその後が知りたくて、わたしはつぎに観光葡萄園へ行ってみることにした。

じつは前回の旅のあと、そのとき撮った写真を、帰国してから彼女が書いてくれた住所に送ってやったんだけど、漢字の住所は彼女には手におえなかったようで、はなはだ不明瞭な宛先だったから、はっきり届いたという確証がなかった。
トルファンに行くなら直接手渡してしまったほうが間違いないし、ウイグルの家庭というものを見てみたい。

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ただし彼女の家がわかっているわけではない。
書いてもらった住所はあてにならないし、観光葡萄園はトルファンの北にある葡萄谷風景区にかたまっているものの、葡萄園と名のつく施設はいくつもあるのだという。
行ってみれば思い出すだろうと、とりあえず風景区に向かった。
火焔山からもどってきて、国道をトルファン方向に走り、左にまがればトルファン市内という大きな交差点を右に行く。
すぐに見覚えのある景色になってきた。

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あたりはブドウ畑の多い小さな村落で、左側の小高い丘の上にブドウ乾燥用の四角い倉庫がいくつも並んでいる。
右側は谷になっていて、下のほうに小さな川が流れていた。
村のなかでゆるやかな坂道を下るとその先が葡萄園の駐車場だった。
マコトちゃんがここじゃないですかというんだけど、あたりを見まわすと、見覚えがあるようなないような。
ブドウはまだ収穫期ではなく、未熟の小さな房がついているだけで、売っているのは干し葡萄だけだった。

そのへんで聞いてしまったほうが早いでしょうと、マコトちゃんがまわりの人に写真を見せると、あっけなく彼女のことはわかった。
まわりの人の中からシーズワンのお姉さんまで出てきたのである。
あのときたしかお姉さんは食堂で手作りのウドンを練っていて、わたしは冷麺を美味しくいただいたものだった。
シーズワンと知り合ったのも冷麺を食べた食堂がきっかけだったのである。

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妹は家にいますよというので、わたしたちは家に行ってみることにした。
彼女の家はブドウ園の駐車場から、上の道路までもどったすぐ角の右側にあった。
マコトちゃんとわたしが門の中へ入っていくと、そこに老若男女が5、6人たむろしていて、これこれこういうわけでと事情を説明すると、お兄さんという人が前に出てきた。
サモア人のようないかつい顔に見覚えがあった。
まもなく家の中から、アテレス・パターンのズボンをはいたシーズワンが、突然の遠来客におどろいたのか、目をパチクリしながら出てきた。
3年前に見たときはまだあどけなさが残る、残りすぎるくらいの少女だったのに、いくらかほっそりして、切れ長の目の美少女になっていた。

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わたしは満足したけれど、相手は自分の子供といっていい年頃の娘なので、これ以上ナニカを期待されても困る。
いまならYouTubeのいい材料になったかも知れないけど、あいにく当時はそんなものはなかった。
ウイグルの家というのは日本にもあるような普通の農家で、相手は前ぶれもなしに押しかけた日本人にとまどっている様子だったから、写真を渡しただけで長居はしないつもりだった。
庭に大きなアンズの木が植えられている。
こちらはいまちょうど食べごろだったので、写真のお礼をしたいといって、シーズワンはこの木に登り始めた。
なかなかおてんばな子である。

これがわたしとシーズワンの一期一会だった(再会だから正確にはニ期ニ会だけど)。
わたしはこの2年後にもういちどトルファンを訪問するけど、あまりしつこいのもナンだから、ふたたび彼女を訪ねることはなかった。
ウイグルの女性の結婚適齢期は18から22くらいだというから、もうすこし追跡調査をしてみれば、ウイグル娘の結婚観を知るよすがになったかも知れないのに。
車で帰るわたしたちを見送って、彼女は微笑んでいたけど、わたしにはイスラムの少女のはにかんだような微笑みがいつまでも記憶に残った。
帰りに土産にもらったアンズは、マコトちゃんとヤコブにあらかた食べられてしまった。

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マコトちゃんから、まだどこかへ行きたいですかと訊かれて、わたしは交河故城と答えた。
まだ時間はあるし、いくらか軽バンの料金が変わっても、ま、いいだろう。
マコトちゃんと談合の末、180元に50元プラスということで手を打った。
じつは交河故城はトルファン市内から遠くなく、トルファン賓館から自転車でも1時間半も走れば着いてしまうところだった。

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交河故城についてはウィキにおまかせするけど、川にかこまれた船型の台地の上の遺跡で、あとでトルファンを去るとき、列車の中からも遠望できることがわかった。
わたしは前回の旅で同じような古い遺跡である高昌故城を見学したけど、交河故城のほうが保存状態はよい、というか崩壊の規模は進んでいない。
ここへ行く前にマコトちゃんが、用事があるといって市内で車を下りてしまったので、交河故城へ行くのはわたしと運転手のヤコブだけということになった。
ヤコブは中国語(漢語)もほとんどしゃべれない。

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交河故城へ行くとちゅう、近くの村にダムがあって子供たちが水浴しているのを見た。
地図を見ると、ダムというより川の一部のようだけど、ちょっと遠目にながめて行き過ぎるには惜しい景色である。
このあたりの村はまだ素朴さを失っていないので、再訪できるならそうしたいところだ。

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交河故城に着いたのは午後3時ごろで、いちばん日照の強い時間帯だった。
故城には陽をさえぎるものが何もないので、無帽でここを見て歩くのはかなりしんどい。
規模はかなり大きく、城内を歩いていると迷路のようで、写真のモチーフにふさわしい奇怪な形の建造物跡がたくさんあったけれど、そのほとんどは土をこねただけの廃墟なので、よほど仏教の伝来にでも興味がないと、見物しておもしろいものではない。
ヤケになったわたしは、ここでもそこかしこで土くれをひっくり返してみた。
暑くて虫もいたたまれないのか、1匹のサソリもムカデも見つけることはできなかった。
この日にトルファンで石をひっくり返した日本人は、わたしがいちばんだったんじゃないか。

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あまり暑いのでとても全部見てまわる気にはなれず、故城の中心をなす大仏堂あたりでひき返し、早々にエアコンの効いている土産もの店に逃げこんだ。
涼しい部屋でイップクできたのだから絵ハガキくらいは買ったけど、ここでもわたしは小姐たちの買え買え攻勢に抵抗するのに疲れた。

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2024年9月 3日 (火)

中国の旅/ベゼクリク

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トルファン賓館の起床は7時半ごろ。
今日も暑い日になりそうである。
シャワーを浴びてまず買い物に行くことにした。
門の前に出るとすでにマコトちゃんが待ち構えていて、時間を早めて出発しませんかという。
わたしはあまり早いのはまずいと思って11時すぎに約束していたのである。
まだメシも食ってないよとって、それでも出発は9時にすることにした。
その前に銀行で両替と、明日の列車の切符を手配しておかなければ。

トルファン賓館はトルファンでは一流ホテルだけど、じつはあまり信用がおけない。
両替を依頼すれば、(いちおう)一流ホテルのくせにかならず手数料をピンハネしようとする。
切符を注文すれば正規の手数料以外の金をふんだくろうとする。
この日にわたしはホテルで武威までの切符を依頼した。
フロントにいた美しい娘は無表情のまま、100元も意味不明の金を請求書につけ加えていた。
それに対していちいち文句をいうだけでぐったりと疲れてしまう。
この国ではダマすよりダマされるほうが悪いのである。
そして、日本人は金持ちなんだからダマさなけりゃという絶好の標的なのである。

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すったもんだで出発が遅れたけど、マコトちゃんと、ヤコブという名の運転手をたずさえて、軽バンで出発。
最初の目的地は「ベゼクリク千仏洞」である。
ここはクチャやカシュガルの博物館を見てまわったとき、展示物の説明の中によく柏孜克里克千佛洞という言葉が書いてあり、千佛洞の意味はわかるけど、“柏孜克里克”については読み方もわからなかった。
あとでこれはベゼクリクと読むことがわかり、トルファンに着いたら行ってみようと思っていたのである。

バンはかって知ったる国道を、火焔山を左手に見ながらつっ走る。
軽バンといえどもつっ走らなければいつになっても目的地に着かない国である、ここは。
交通事故はあまりないというけど、彼らの飛ばしっぷりをつぶさに見てきたわたしは疑問に思う。
ライトは暗いし、ブレーキは効くのかというような車で、事故が少ないとしたら、それは車の絶対量が少ないだけじゃないのか。
おまけに飛ばすだけではなく、彼らは馬車や人間に遠慮するような運転をまったくしないから、

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ベゼクリク千仏洞はちょうど火焔山の裏側にある。
バンは途中国道をはずれ、火焔山を左に見ながらその腰をまわりこむ。
この先で道路は改良工事中で通行止めだった。
迂回路を使うと40キロ遠回りだそうだけど、工事をしていたのが同じウイグル人だということで、強引に工事現場を通してもらってしまった。

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改良工事中の道は右下に深い渓谷をのぞんでおり、対岸には壮絶としかいいようのない褐色の裸山がせまっている。
よく見ると、そんな荒涼きわまりない不毛の山肌に、なにかが歩いた跡が無数についていた。
大型の野生動物でもいるのかとマコトちゃんに訊いてみると、いないという。
足跡だけではなく、斜面にわだちの跡までついていた。
人間でさえ通りたくない斜面で、ちょっと想像を絶するような場所だけど、ウイグルたちはこの斜面を馬車で往復してしまうらしい。
もっとも3年前の大洪水を別にして、めったに雨の降らないところだというから、足跡もかなりの長期間にわたってつけられたものかもしれない。

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車が入れるのはベゼクリク千仏洞のすこし手前までで、そこから先は通行止めになっていた。
千仏洞の見学者は待ち構えているロバ馬車に乗り換えることになっていて、千仏洞まで1キロもない距離なのに、往復20元。
ロバ馬車は何台もいて、たまたま客はわたしひとりだから争奪戦になってしまった。
こういうときわたしはいちばんおとなしそうな御者の車に乗ることにしてるんだけど、問答無用でいちばん強引そうな御者に拉致された。

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千仏洞はいちおう観光スポットとして整備され、売店等もある。
西遊記の牛天魔王と鉄扇公主の話をもとにしたテーマパークまであって、泥で作った三蔵法師一行の人形や、怪しげな洞窟なんぞが作られていた。
ディズニーランドを知っている日本人にはちょっと無邪気かつお粗末な施設で、客なんか1人もいなかった。
はたから見ると千仏洞に関係ありそうだけど、10世紀から13世紀の遺跡とはまったく関係ないもので、調べてみたらいまでも写真が見つかるから、2024年の現在でもまだあるらしい。

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マコトちゃんは土産もの売り場で待ってるというから、そこから先はわたしひとりで見てまわることになった。
撮影は禁止なので洞窟内の写真はない。
敦煌に比べるとずっとスケールは小さいので、ぶらぶら歩いて30分もあれば見終えてしまう。
洞窟の大半はカギがかけられていて、内部まで見られるのは4つか5つ。
見られる洞窟は内部の壁がガラス張りになっていたりして管理はよくされていたけど、肝心の壁画はここも破壊の跡が甚大である。
大きな壁画になると、ちょうど人体を描いた部分だけがそっくりはがされてしまっている。
そんな被害をかろうじてまぬがれた中に、日本の聖徳太子を思わせる、ふっくらした人物像があるのが印象に残った。

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カメラを返してもらって、そのへんをうろうろしていると、洞窟の下に農家らしい民家があり、千仏洞から階段をつたってそこまで下りられることがわかった。
わたしは開いていた門をくぐり、石段をつたって、川べりまで行ってみることにした。
この写真の手前に見える階段がわたしが降りたもので、あとで係員に怒られたけど、最近の写真では降りた先の川べりに遊歩道ができている。
やつぱり下りてみたい、川べりを歩いてみたいという客が多いのだろう。

階段を下りたところに1軒のウイグル農家があって、家のまわりに樹木が植えられ、カッコウの鳴き声が聴こえていた。
わたしはそのへんの石を足でひっくり返してみた。
最初の石の下に小さなサソリがうろたえていた。
しかしこの後20回も石をひっくり返したのに1匹のサソリも見つからなかったから、それがどこにでもいるという確証はない。
またこのあたりにはアリジゴクの穴がたくさんあった。
試みにたまたま捕まえた甲虫を落としてみると、すぐに宿主が砂を飛ばし始めたから、すかさず棒でほじくりだしてみた。
巣の大きさからは期待はずれの小さなアリジゴクだった。
このあたりでは細かい点のあるトカゲも見た。

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川べりには木や草も茂っているし、生命は豊富で、水ぎわの草むらのにはトノサマガエルの半分くらいしかないカエルがたくさんいた。
小さな流れのなかにはメダカ・サイズの魚もいた。
農家のわきにはヒツジが放牧され、鳴き声だけではなく、背後の大きな木のこずえにカッコウの本体も見た。
家の主婦とおぼしき女性が、ちょっと警戒するような目つきでわたしを見ているのに気がついたから、コンニチワと挨拶をしておいたけど、千仏洞よりこっちのほうがよっぽどおもしろい。

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川べりの散策を終えて千仏洞にもどると、ガイドの小姐が待ち構えていて、ここから先は下りてはいけないと書いてあるでしょとわたしをなじる。
中国語が読めないもんでと弁解してなんとか逃れた。
売店をのぞくと、見るだけでいいといっていた小姐の攻勢だ。
なかでも梅さんという小姐がいちばんしつこく、わたしがボールペンで彼女の似顔絵をさらさらと描くと、そのボールペンをワタシのものと交換してくれと強引に迫られて、応じざるを得なかった。

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この後、100元を20元プラスに値切って(たまたまポケットにこまかい金はそれしかなかった)ラクダに乗る。
千仏洞入口のすぐ横に、浅間山を連想させるようななだらかな傾斜の山がそびえており、ラクダはそのあたりを周回コースにしている。
このラクダはあくまで観光用で、このあたりに野生のラクダはいないそうだ。
山はかなり個性的な独立峰なので、なんという名前かと訊いてみたけど、火焔山の一部であるという返事しかなかった。
もちろん1本の草木もないから、巨大な砂丘のようでもある。
これの山頂付近まで登る客もいるのか、ラクダの足跡がずっとのびていたから、100元払えばそこまで登れるのかも知れなかった。
しかし暑いし、徒歩でついてくる馬方(ロバ方?)にも気のドクな気がして、わたしは20元分で満足することにした。
わたしがもどるころ、千仏洞入口に米人観光客の一団が到着した。
アラビアのロレンスですよといってみたけど、彼らはラクダに乗る気はなさそうだった。

ふたたびロバ馬車で車のところへもどる。
わたしが千仏洞を見学し、川べりを散策し、ラクダに乗っているあいだ、ロバは炎天下でずっとおとなしく待っていたのである。
その頑強さには驚いてしまう。
通行止めの個所までいくと、ヤコブは車の中で寝っころがっていた。
こんな暑いところでと、ロバも強いが人間もタフ。

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2024年8月31日 (土)

中国の旅/トルファン

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トルファンで下車したのは、軟臥(1等寝台)の客ではわたしひとりだった。
まさか夜中のトルファンにひとりで放っぽり出されるんじゃないだろうなという心配が少しあったけど、それは杞憂だった。
硬臥(2等寝台)や硬座(自由席)からはたくさんの中国人と、バックパックを背負った外国人旅行者のグループが数組下車して、駅の外ではバスやタクシーも待ち受けていた。
このときの旅は2000年6月の旅だったので、まだ高速鉄道の駅は出来ておらず、わたしは前回と同じ、市内から60キロも離れたトルファン旧駅に降り立った。
高速鉄道の駅が2014年に完成した現在は、観光客もそちらをメインに使うようになったようである。
わたしはさっさと手近のバスに乗り込んだ。

見ると日本人らしい若者のグループがタクシーにつかまってもたもたしていたので、わたしは彼らをバスに呼びこんでしまった。
どこかの大学の冒険サークルの学生たちらしく、その中にはきれいな若い娘もいた(うらやましい)。
そのうちに別の列車も到着し、欧米人のグループ、中国人たちでようやくバスはいっぱいになり、5時ちょうどくらいにバスは発車した。
さっさと乗り込んだおかげで、わたしはいちばん前の助手席を確保した。
駅からトルファン市内までは5元である。

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トルファン駅を出発して、しばらくは荒れたジャリ道をゆく。
洪水の爪跡は前回の旅から3年を経てもまだ消えてないようだった。
まだ暗い畑のまん中のある場所で、運転手がいきなり車を停めて車外へ飛び出したには驚いた。
なにごとかと思ったら、かたわらの細流の水で顔を洗っていた。
日本とちがって中国の運転手は、まだ前世紀の遺物のように、寝る間も惜しんでこき使われているらしい。

東の空がようやく白んでくるころバスはトルファンに着いた。
わずか3年でもその変貌ぶりは大きい。
市内に入る手前で、有料道路の料金所を見たけど、あんなものは前回はなかったと思う。
市の北側は新興の開発区として、新しい建物がどんどん出来ている。
トルファンはいわゆるトルファンらしさを失っていた。

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市内のバス駅に到着してわたしはさっさとタクシーでトルファン賓館へ。
この時間にホテルが開いているかどうか心配だったけど、いちおう玄関は開いていた。
ずかずか入っていって、たのもうというと、眠っているところを起こされたのだろう、えらく不機嫌な顔の漢族の娘が出てきた。
安い部屋といったのに、日本人に提供する部屋の中では、という但し書きつきの部屋の中で安い部屋ということになった。
250元あまりの部屋である。
高いとは思わないけど、部屋はダブルベッドで、わたしにはデラックスすぎる。

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眠くもなかったから、ヨーグルトでも飲むかと門の前まで行ってみたら、もう観光案内というか、客引きのウイグルの若者が待ち受けていた。
彼の名は(自己紹介によると)マコトちゃんだという。
ただしこれはオカッパ頭の彼を見て、楳図かずおの漫画に誘発された日本人がつけたあだ名らしく、顔だけ見るとキース・リチャードみたいな悪党づらである。
あとで旧知のアイピ君に尋ねると、彼の本名はアジェ君ということだった。

明日はワタシの車で観光に行きませんかと、あいかわらずの勧誘だったけど、じつはわたしはもうあまりのんびりしていられないのである。
日本への帰国便は決まっているので、これからは厳密なスケジュールにそって行動しなければならないのだ。
わたしは前回の旅(1997)で、帰りの列車から見て、なんでここだけこんなに花が咲いているのだろうと疑問に思った「烏鞘峠」のあたりに寄っていくことにしてあったのである。
けっきょくマコトちゃんと交渉して、翌日は彼の軽バンを180元で契約した。
トルファン賓館まで乗ったタクシーは1日貸切で200元といっていたから、通訳つきで180元は妥当なところか。

彼とその友人たちが朝市に案内するという。
どんなところかと行ってみたら、バザール会場のうしろのほうで、3年前に行ったことのある場所だった。
それでもここでウリとトマトを買ってもどる。

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ホテルでシャワーを浴びて寝てしまい、目をさましたのが午後1時ころ。
わたしの顔はこれまでの砂漠の旅でまっ黒になっていて、顔の皮膚がぼろぼろになっていた。
そこでクリームでも買おうとホテル内の売店に行ってみた。
売店には3種類くらいのクリームが置いてあり、売り子は40代くらいのおばさんで、これがいいと50元もするいちばん高いものを勧める。
安いものは品質がよくないからやめたほうがいいとも。
それはわかっているけど、しかし高いよ、20元にしなさいとねぎり、あなたは美人ですねとお世辞をいって、ようやく45元にまけさせた。

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このあと自転車でも借りてふらつこうかと思ったものの、トルファン賓館にはレンタルがないとのこと。
ホテルの前まで出ると、すぐ前のJhon's CAFEにマコトちゃんらがたむろしており、かって知ったるアイピ君が出てきて、あいかわらず達者な日本語でコンニチワという。
彼から自転車を1時間5元の約束で借りることができた。
自転車でまわれる範囲内の観光スポットというと、トルファンには蘇公塔くらいしかない(あとで交河故城も範囲内にあることを知った)。

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地図も持たずにふらふらと出かけ、蘇公塔に着いておどろいた。
塔の周辺は美しく整備された公園になっていた。
それはそれで結構なことかもしれないけど、これでは素朴なオアシスというトルファンの魅力は失われるばかりである。
トルファンをめざす日本人は、パリやハワイをめざす日本人とべつの人種だったのに。

蘇公塔は遠方から見るとじつに優雅な建物であるけれど、細部をアップで見るとしろうとの粘土細工のような造りが目立つ。
こういうのがイスラム芸術の特徴らしい。
いまでも金曜日にはイスラムの礼拝が行われているというけど、ひとりで迷い込んできた観光客が、優美な塔に登ることはできないので、建物の隙間から内部をのぞいただけで引き返す。

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蘇公塔のそばには博物館もあった。
展示品は多くないけど、このあたりの売り物であるミイラが一体。
ミイラもはるか後世になって呼び起こされ、客寄せの目玉にされるとは思わなかっただろうな。
塔と博物館あわせて見学料金25元。 
トルファンにはその後、新しい博物館ができて、ミイラも新しく?なったようである。

ここでわたしはニコンのF3を地面に落としてしまった。
頑丈なF3だからよかったものの、F4以降のデジタル・カメラだったらそうとう大きなダメージがあってもおかしくない。
この旅ではいつのまにか35Tiのほうもフィルムカウンターの窓ガラスが割れていたし、いよいよデジカメにあとを譲る時代になったかと思う。

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暑いので自転車も楽じゃない。
このあとバザールの行われる場所あたりまで行って引き返した。
バザールも土着的な伝統を失いいつつあるようで、“夢のトルファン”はカシュガルなど、さらに奥地の街にその地位を奪われることになるようである。

都合2時間ばかり借りていた自転車を返却し、しばらくアイピ君らと話す。
以前には気がつかなかったけど、彼は胸に中国旅行社のバッジをつけていて、マコトちゃんたちを統率する管理職に出世していた。
町を徘徊して個人旅行の客をキャッチする旅行会社の遊撃隊長といったところか。

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トルファン賓館にもどると、ここにはプールがある。
前回は屋外プールだったのに、今回は屋根がついて屋内プールになっていた。
雨の少ない場所にあって、太陽の下こそがふさわしいプールになんで屋根なんかつける必要があるのかと思ったけど、これはどうもイスラムの戒律と関係があるらしい。
イスラムの女性たちはみだりに人前で肌をさらさない。
それなのに異教徒のアメリカ娘たちが、水着ひとつできゃあきゃあと男とたわむれていたんでは、風紀上問題があると、そういうことだろう。
以前にそういう無作法者たちを見かけて、わたしでさえ苦々しく思ったくらいである。
ただしこの日にのぞいて見たかぎりでは、プールの水はかなり汚れていて、しばらく使われていない感じだった。

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わたしが前回に泊まった部屋は、ホテルの中庭にある隊商宿みたいな長屋ふうの建物だった。
そっちは使用されてないのかと思ったら、ちゃんと泊まっている団体がいた。
見なりはわるくない中国人で、しかし日本人ほど豊かではないらしい。
日本人は断固として、高い本館に入れてしまうのがこのホテルの新しい経営方針らしかった。
ま、安い部屋でも、暑いだのお湯が出ないだのと文句をいう日本人も悪かろう。
わたしの部屋はさすがによくエアコンが効く。
効きすぎて寒くて仕方がなかった。

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2024年8月29日 (木)

中国の旅/再見、カシュガル

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せっかく買った半月刀を没収されて怒り狂ったまま列車に乗り込んだわたし。
個室に入ってみるとそこに2人の先客がいた。
ひとりは西洋人のような顔立ちの中年男性で、ウイグルだという。
もうひとりは背の高い漢族の娘である。
彼らは親子や夫婦ではなく、べつべつの乗客で、ウルムチまで行くそうだけど、わたしは手前のトルファンで下車することになっていた。
列車はすでに暗くなっているカシュガル駅を定刻に発車した。
往路と同じ南疆鉄道の旅の始まりだ。

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せまい個室でいっしょに過ごすのだから、同室のわたしたち3人はすぐに仲良くなってしまった。
彼女は2人の子持ちだそうで、道理で態度に母親らしいどうどうとしたところがある。
背がわたしよりだいぶ大きく、亭主はさらに10センチ大きいという。
夜遅くまで手ぶり身ぶりに、筆記まで加えて遠慮なく話し合っていると、話を聞きつけたとなりの部屋から、朝鮮族だという若者がやってきて話の輪に加わった。
わたしも含めるとずいぶん国際色豊かな顔ぶれになったわけである。
このメンバーで夜中の1時ごろまでくっちゃべっていたので、景色を見る余裕もなかった。

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目を覚ましたのが朝の7時ごろで、まもなく太陽が上った。
左側に天山山脈の山並み、右はまっ平らなタクラマカン砂漠という、往路とは左右が逆転した景色。
金銀川という駅のあたりは大きなオアシスと水田のようなものがあった。
と、また宮沢賢治スタイルの、見るもの聞くものすべてを記録する紀行記が始まるかというと、そうでもない。
往路でいちど見た景色なので、よっぽどめずらしい景色でないと写真を撮る気が起きないのだ。

買っておいたカップラーメンを食おうとすると、わたしを制止して、漢族の娘がお湯をもらいに行ってくれた。
出かけるまえにいちおう鏡を見てから行くところがカワユイ。
どうせ1日個室のベッドで寝たり起きたりだから、無駄のような気がするんだけど、あとで見たらちゃんと口紅を塗っていた。
彼女はすぐに手ぶらで帰ってきた。
まだ給湯器が使えなかったという。

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8時半、まだオアシスが続いており、右側前方に低く、もやのようなものがたなびいていた。
雲かと思ったら、じつは煙突の煙で、のんびり走っているものだからいつになっても煙の発生源に到達しない。
9時ごろになってようやく発生源の大きな工場のわきを通過。
まもなく停車したのはアトスだった。
南疆鉄道の途中駅としては、コルラ、クチャに匹敵する大きな町で、「中国鉄道大紀行」の関口知宏くんもここに寄っている。
この町からあいだをさえぎる山はないので、雪をいだいた天山山脈がよく見える。

車掌がお湯OKだよといってきたので、娘がさっそく出かけてきた。
ウイグルのおじさんはお茶を飲もうとして、娘がポットに入れてきた湯をガラス瓶にそそいだところ、瓶がパカッと割れてあたりは熱湯の洪水になった。
大事には至らなかったからよかったものの、まだガラスにいきなり熱湯は危険という常識がウイグルには通じてなかったのかも知れない。

10時をまわったころからオアシスは消えて、両側は荒涼とした風景になった。
右側に平行して国道があり、砂漠のなかにはいくつもの竜巻が見える。
15時ごろまたオアシスを通過した。
このあと何機もの噴水が地表に水を散布している、かなり広い灌漑施設があり、すべて井戸水だというから、天山山脈に近いこのあたりの砂漠では掘れば水は出るらしい。

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16時すこし前、食堂車へ行ってみた。
山師みたいな連中がタバコをふかしていて、ろくでもない連中のたまり場だったけど、ビールとおつまみふたつを注文して30元。

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部屋にもどってうとうとして、目をさましたのが18時ごろで、列車は山が近くにせまる街に停車していた。
コルラだった。
ここでキュウリを買う。
キュウリを食べるのに日本から持参した小瓶のアジシオをふってると、娘が日本の塩かと訊く。
そうだというと、さっそくなめてみてうなづいたけど、あまり感心したようでもなかった。
味にうるさい中国人はいつも天然塩を使っていて、化学的精製物で、スマートすぎるアジシオに拒絶感があったのかも知れない。
彼女はわたしのテッシュペーパーも日本のものかと訊いて、そうだというと、つまんでうなづいていた。
アジシオよりこっちのほうが感心した可能性が高い。

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わたしたちの部屋のまえを、はだかで黄色い腰布をまいた、新興宗教かぶれのヒッピーみたいな若者が通った。
こういうイカレポンチみたいな格好をしているのは日本人かも知れないと思い、おい、待てよと声をかけると、案の定で、彼は九州長崎出身で静岡の大学に籍を置くという日本人だった。
オーストラリアから東南アジアを総なめにして、インド、中国、これからはカザフなど中央アジア、最終的にはアフリカの希望峰まで行くのだそうだ。
つい100元カンパするよと余計な親切をしてしまった。
あとで部屋の娘がなぜそういうことをするのと訊く。
これはまずかった。
100元は日本円にすれば1400円程度で、この典型的な貧乏旅をしているらしい若者に、ビールでも飲めよという気になったんだけど、中国人にすれば大金である。
家庭をあずかる主婦にしてみれば、こんな不労所得をやすやすと恵むわたしを理解できなかったのだろう。
ヘタな中国語で、日本にはむかしから貧乏学生をみんなで支援する伝統があるのだなどと、いいかげんな理由で弁解してみたけど、彼女はなかなか納得しなかった。

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なんだったらビール代を出します。
ひとつみんなでどんとやりませんかといったら、気をきかした娘のほうが先に買ってきてしまった。
はなはだ恐縮したけど、ウイグルおじさんも、きみは客人だからな、遠慮することはないよという。
部屋で3人でおおいに盛り上がってしまった。
ウイグル語で乾杯は“カラ”というそうだ。

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19時20分ごろ“幸福灘”という駅があった。
日本の北海道にあった幸福駅の中国版である。
八裸村という駅では、まわりを見渡すと緑が多く、ポプラの並木も多く、遠方に雪山をのぞむせいで、まるで信州の安曇野のようだ。
わたしがこれまで見てきたうちでもっとも豊かそうなところだった。

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20時30分、そろそろたそがれてきたころ、列車はいきなりたけだけしい峡谷にわけ入った。
どうやら南疆線でいちばん険しい山岳鉄道にさしかかったようで、わたしがいちばん見たかったのはこのあたりの沿線風景なんだけど、残念ながらこの先は往路でもちょうど夜だったから、どんな景色なのか紹介できない。
こんな高所にも馬に乗ってヒツジを追う人がいて、あたりはモンゴル、もしくはカザフ族の世界である。
そして往路で見たのと同じように雪山が赤く夕日に照らされていた。

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景色は見られなかったけど、わたしの部屋にあった1980年にNHKが放映した「シルクロード/南疆線」から、いくつかの場面をキャプチャーして並べてみよう。
まだこのころ南疆鉄道はウルムチからコルラまでしか通じていなかった。
この番組によると、南疆線は1976年工事開始で、人民解放軍の7万人の鉄道兵団を使い、この1年まえに線路を敷き終えたばかりだったそうである。
山岳鉄道といっていいこの区間には、1キロごとに18メートル登るという険しい鉄道の描写もある。
生きたラクダまで積み込んだ鉄道旅で、当時はディーゼルではなく、石炭を炊く本物の汽車だったから、途中のトンネルではラクダたちがよく窒息しなかったものだ。

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番組では、列車はループ式の夏爾溝(かじこう)トンネルを通過していく。
このトンネルはできるだけ傾斜を緩和するために、トンネル内部で線路が一回転し、とんでもないところから列車が出てくる。
わたしが往路で見て、おかしなところに駅があるなと思ったのも、こういう場所だったのだろう。
そして日本の余部鉄橋のような高所の鉄橋や、この線でいちばん標高の高い場所にある奎先トンネルなど、みんなわたしが見ることのできなかった景色だ。

夜になってまっ暗になった。
わたしは寝るまえに、明日の朝はまだ暗いうちにトルファンで下車するのでと、同室の2人にお別れをいっておいた。
ついでに映画スターになったようなつもりで、御ふたりに会えて幸せでしたともつけ加えた。
幸せだったというのはウソじゃない。
ここまででいったいわたしはどれだけの人々に出会っただろう。
しかもわたしみたいな無能でグータラな男に好意をよせてくれる人に。
日本ではとても考えられないことである。

はっきり到着時刻を確認しておかなかったので早めに起きた。
まだ外はまっ暗で、4時半到着ですと眠そうな車掌がいう。
さてトルファンまでバスはあるのか、だいたいホテルは開いているのか。
初めてならそのあたりが気になるところだけど、わたしはもう夜中でも列車が着けば、乗り合いバスが出ていること、ホテルもチェックイン時間にこだわらないことを知っていた。
この晩は細い眉月で、これでは砂漠の明かりにはならないけど、夜の砂漠を見る絶好の機会だから、満月ならよかったのにと思う。

大きな黒い砂丘をかわしたと思ったら、そのむこうに点々と明かりが見えてきて、列車がトルファンに到着したのは明け方の4時30分だった。
同室の娘は寝たまま目をあけてわたしとお別れの挨拶をし、ウイグルおじさんはわざわざ起きて通路まで見送ってくれた。

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