旅から旅へ

2021年3月 7日 (日)

地中海/エーゲ海のおまけ

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エーゲ海というと、ロードス島とかサントリー二島、ミコノス島など、日本人にも人気のある島がたくさんある。
日本のツアー会社のパンフレットにはおいしそうな写真がたくさん載っていて、わたしも白亜の民家がびっしりならんでいるサントリーニの写真なんぞを見せられ、身もだえするくらい行きたいと思ったことがある。
しかしセローの豪華客船の旅は、このあとトルコとギリシャの、たいしておもしろくもない2カ所のポイントに寄ったくらいで、もう終わったようなものだ。
わたしは旅への愛着のつよい人間なので、名前のわかる場所があれば、それがどんなところか見てみたい。
それでおまけのつもりで、そのおもしろくないポイントというのをストリートビューで覗いて行こう。

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最初に寄ったのがトルコのボドゥルムだ。
港のかたわらに聖ペテロ城という古城があるけど、さすがにもう遺跡は見飽きた。
「マウソロス霊廟」というお墓の遺跡もあったけど、塀にかこまれていて、ストリートビューでは内側が見えんかった。
花がいっぱいでステキだなと思ったところはホテルの中庭だった。
でも近くには熱気球を飛ばす観光ポイントがあるから、ここは日本人が知らないだけで、けっこう欧州では知られたリゾートなのかもしれない。
市内や海に近いあたりを見たかぎりでは、まあ、健全なリゾートといった感じ。
この街でセローは雨に降りこめられてしまう。
半数の乗客は船にとどまったけど、紀行作家が部屋でくすぶっているわけにもいかず、無理に上陸して街の食堂で飯を食った彼が、あとで聞いたら船に残っていたほうがキャビア食い放題の上等の食事にありつけたそうだ。
まあ、トルコの港町の食堂より、14日間で290万円の船のほうが食事が上等なのは当然だ。

雨はつぎの寄港地レスボス島でも降り続いていた。
この島はトルコの沿岸から指呼の間にあるけど、ギリシャ領である。
オスマントルコが崩壊して外国軍隊がトルコを占領したとき、島しょ関係はおおむねギリシャ領ということで手打ちをしたのかもしれない。

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この島で「海の精霊」号が寄ったのはミティリーニという町で・・・・おお、ここにも古城がある!
遺跡めぐりはもうたくさんだ、ということはセローも書いている。
わたしはなにかおもしろいところはないかと、市内をストリートビューで手当たり次第に精査してみた。

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緑地があったから覗いてみると、路上駐車の車ばかりが目立ち、どうもトルコに比べるといくぶんすさんだ感じの町である。
ペットショップがあるというので、変わったペットでもいないかと覗いてみようとしたけど、どれが店なのかわからんかった。
ヤケッパチで郊外の山の上まで行ってみたけど、べつにおもしろくもなんともなかった。
そのうちたまたま発見したのがこれ。
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港の近くに立つなにやらの像と、撮影中のストリートビュー車だ(2枚の写真を合成してある)。
これまでさんざんストリートビューのお世話になってきたけど、こういう車が世界中を走りまわっているのだというタネ明かし。

レスボス島を出ると、つぎの目的地はイスタンブールで、セローはそこで「海の精霊」号とはお別れである。
このころにはセローも豪華な待遇にどっぷりつかっていて、わが家のようになった船を降りるのがツライなどと書く。
わたしも経験がある。
むかし海上自衛隊にいたころ、上陸しているうち海が大荒れになって、内火艇で命からがら艦にもどったことがあり、あのときほど乗りなれた艦が、コンクリートのマンションのように頼もしく思えたことはなかった。
だから船が自分の家のようだというセローの気持ちも(少しだけ)わかるのである。

「海の精霊」号の船内でジャック・グリーンウォルド氏がデザートを作ってみせる。
べつに感動するほど美味しくもなかったようだけど、彼は俗物ばかりの乗客のなかで、その博識と、ちょっとバンカラなユーモア感覚で、セローをうならせたたったひとりの乗客だった。
イスタンブールで別れることになったとき、彼はセローにネクタイをプレゼントする。
このネクタイは近衛連隊のもので、英国とその連邦国では一目置かれるはずのものだったけど、いやあ、じつは自分は近衛連隊となんの関係もないんだと、彼はネクタイのからくりを暴露する。
セローはいっぱい喰わされていたのだ。

「海の精霊」号はダーダネルス海峡に入って、ガッリポリという古戦場を見ながら行く。

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これはチャナッカレの殉教者記念碑と、そこから見たダーダネルス海峡の入口、そしてガリッポリの古戦場のあたり。
ガリッポリという地名も、知識だけはあるのにどこにあるのか、これまで考えたこともなかった土地のひとつだ。
アイザック・アシモフの本で知ったのだけど、英国の科学者ヘンリー・モーズリーが死んだのがこの場所だった。
彼は原子の周期律表という、科学の世界できわめて重要な発見をしたにもかかわらず、戦死してしまったのでノーベル賞をもらえなかった。
死んじまったものは仕方がない、しかし科学の名誉のために、いまからでもそれをモーズリーに与えるべしというのがアシモフの本の主旨だった。
そんなことを知っていたおかげで、ダーダネルス海峡を通過するとき、わたしもいくらか感傷的な気分になった。

「地中海沿岸にはあまりにも多くの墓地があった」
これはセローの文章だけど、私はそれに「あまりにも多くの遺跡があった」とつけ加えて、豪華船でのクルーズを締めくくる。
しかしセローの旅はまだまだ続くのだ。

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2021年3月 5日 (金)

地中海/ミュケナイとクレタ

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アテネから「海の精霊」号はミュケナイ(ミケーネ)に行く。
この都市の名前もギリシャ神話にはしょっちゅう出てくるけど、これはペロポネソス半島にあって、ペロポネソス半島といえば日本人にもよく知られている都市国家スパルタがあったところだ。
だんだんわかってきたけど、地中海のクルーズというと、たいていギリシャがメインになるらしい。
イタリアやスペインは車でも行けるけど、ギリシャはエーゲ海という多島海をしたがえているので、観光をするにも船でなければ不便ということなんだろう。

ところでミュケナイには観光ポイントがなにかあるのか。
古代の遺跡から黄金の仮面や腕輪が発掘されているらしいけど、そういうものはアテネの博物館の収蔵品だ。
アテネはすでに見てしまったセローは、バス・ツアーに参加せず、船が寄港したナフプリオンという街のすぐ裏にある、パラミティという要塞を見物することにした。

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これはナフプリオン港と、港から見上げたパラミティ要塞。
この要塞は難攻不落という建前だったけど、1715年にトルコ軍によってあっけなく陥落し、ギリシャはえらい大恥をかいた。
なるほどと、わたしは奇縁というべきものに思い当たる。
セローがギリシャを嫌う理由は、たとえば彼は地中海のまえに鉄道でアジアへ旅行しており、そのさいトルコにも寄って、トルコ人の作家などと親しく懇談しているけど、ギリシャ人はすぐに感情をむきだしにし、自分たちのあいだでも反目しあっているので、外国人とうまくやるのはむずかしそうだからとのこと。
こういうところは日本のとなりの国によく似ているし、そのうえトルコを目の仇にして、トルコのEU加盟に反対し続けているのがギリシャだそうだ。
そういえばギリシャはギリシャ文字という、ほかではあまり使われない文字を使うし、ギリシャとトルコの関係は、ハングルを使う韓国と日本の関係によく似ている。
となり同士は仲がわるいのがフツーと、日本もあきらめたほうがいいかも。

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要塞パラミティは、千段の階段を登った岩山の上にあり、ここからの眺めはなかなかいい。
船に乗りっぱなしだとどうしても足が弱るから、セローは運動のために登っただけのようで、とくに重要なことは書いてない。
たまたま出会ったイタリア婦人は、ここは汚いところでしょうという。
彼女に同調したセローは、ギリシャに対する不満をいっきにぶちまけたみいたで、ゴミだらけだの、汚染されているだの、はては歴史を売りものにしたテーマパークみたいな国だのと散々なことをいう。

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ほんとうにそんな汚いところなのか、美しい地中海というイメージのわたしが検証してみたら、ほんとうに汚かった。
郊外の鉄道線路のある景色をながめると、どこか東南アジアの雰囲気さえする。

ペロポネソス半島も、はるかな古代からさまざまな国家や民族の興亡がめまぐるしかったところで、考古学に興味のある人にはおもしろいけど、わたしのブログでそのうんちくを述べて仕方がない。
セローはバラミディ要塞を見ただけで満足してしまったので、わたしのほうはもうすこし内陸まで行って、せめてミュケナイの遺跡ぐらい見ていこう。

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ミュケナイへの道はオリーブ畑のある素朴な農道で、トレッキングやバードウォッチングのほうが楽しめそうなところだ。
「アトラウスの宝庫」という遺跡があったのでストリートビューでのぞいてみたものの、もちろん宝物が残っているわけもない。
なにかおもしろいものはないかと、ミュケナイのあたりを衛星写真をながめてみたら、日本や中国なら田んぼや畑といったふうな区切られた農地が見えたけど、ストリートビューで地上からながめるとすべてオリーブや柑橘類の果樹園だった。

ミュケナイのあと、「海の精霊」号はエーゲ海にうかぶクレタ島に行く。

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これはアギオス・ニコラウスという港にある牛にまたがった少女の像、じゃない、少女がまたがった牛の像である。
ギリシャ神話を知っていればピンとくるけど、女たらしのゼウス神が牛に化けて、海岸で遊んでいた少女を誘拐するところだから、主役はあくまで牛のほうなのだ。
この少女の名前はエウロパで、これは “ヨーロッパ” の名前の由来であると同時に、ジュピター(ギリシャ語のゼウス=木星)の衛星エウロパの由来でもある。
少女はいまでもゼウスにがっちりつかまれたまま、彼のまわりを回り続けているのだ。

クレタ島はギリシャ神話の神々の頂点に位置する、最高尊厳のゼウスが幼いころを過ごした土地として知られている(現住所はオリュンポス山のほう)。
彼は父親の地位を奪うと予言されていたため、生まれてすぐに未来を案ずる父親に呑み込まれてしまうところを(父親というのもエライ神さまである)、見かねた母神の機転で、クレタ島にあるディクテオンという洞窟にかくまわれ、そこで成長したのだそうである。
それでその洞窟ぐらい見ておくことにした。

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クレタ島にまつわる神話で、もうひとつ有名なのは牛頭人身の怪物ミノタウロスだ。
この怪物の誕生秘話は、たぶん興味をもつ人がたくさんいると思うので、説明しよう。
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むかしクレタ島クノッソスの王さまが、お祭りのいけにえにするつもりで、海神ポセイドーンの牛を譲り受けることにしたんだけど、牛があまり立派だったので、つぶすのが惜しくなってべつの牛でごまかした。
もちろんそんなインチキはすぐにばれて、怒ったポセイドーンは王さまのお妃に、この牛を狂おしく欲するという呪いをかけた。
いてもたってもいられないくらい牛に劣情をもよおした王妃は、大工のダイダロスに相談する。
ダイダロスというのは、たしかイカロスにハングライダーを設計してやった人だと思ったけど、なかなか器用な人で、牛のはりぼてを作ってその内部に王妃をひそませた。
はりぼてを見て発情した牛は、バックから(牛だから)生殖行為におよび、王妃はめでたく本懐を遂げることができた。
しかし原因と結果はつねにワンセットだ。
十月十日ののち、王妃は牛頭人身の怪物を出産したというのが、ミノタウロスの誕生秘話だけど、ほんと、ギリシャ神話ってのは、純愛、不倫、強姦、和姦、男色、同性愛、ナルシシズム、近親相姦、獣姦となんでもありだよな。

脱線が長くなった。
このあとセローはレンタ・サイクルで、島の反対側にあるイエラペトラという街まで走る。
わたしも中国の無錫に行ったとき、自転車を借りて田舎ばかり見てまわったことがあるから、彼の性格はわたしと似ているところがあるようだ。
いちおうイエラペトラもストリートビューでながめておこう。

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アギオス・ニコラウスを出てまもなくの海岸には、いかにもリゾートらしい素敵な海岸もあるけど、こちら側からあちら側まで行くのだから山越えで、とちゅうの景色はこんな感じ。
そしてイエラペトラはこんな街だ。

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ここにはワイキキという名前の海岸や、リッツという高級ホテルの代名詞みたいな宿があったそうで、冗談だろうとセローに皮肉られていたから、現在はどうなっているのかと探してみた。
現在ではワイキキは、水着のカワイ子ちゃんがいるまんざらでもないビーチになっているし、リッツは誇大広告だってことでつぶれたらしい。

ギリシャにイスラム教徒はいないそうだけど、セローの文章によると、ここにはミナレット(突塔)のあるモスクがひとつだけ残っていたとある。

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へえと、わたしもあちこち探して、ストリートビューで見つけたのがこの建物だ。
ひとつだけということは、これがセローが見たモスクにまちがいない。
ギリシャはイスラムを排斥しており、モスクはキリスト教の教会になったり、市民ホールになったり、ほかの建物に改造されていたらしい。
トルコも似たようなことをしているけど、それでもキリスト教徒と共存もしているではないかと、セローはギリシャ人の民度を疑ってしまうのだ。

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2021年3月 2日 (火)

地中海/デルフォイとアテネ

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ギリシャ神話を読んでいると、あちこちに「デルフォイの神託」という言葉が出てくる。
なにか問題が生じた場合など、ギリシャ人はここへ行って神さまのご神託をうかがうのだそうだ。
ポリスという小さな都市国家の集まりであったギリシャでは、国家間の揉めごとがあった場合など、ここへ行って神託を聞き、双方がその内容を尊重したというから、国連やWTOみたいな役割も果たしていたらしい。
有名なところでは父を殺し、母と結婚するという大罪のオイディプスが、ここで自分の未来を暗示する神託を聞いたというエピソードがある。
アテネの高台には有名なパルテノンの遺跡があるから、わたしはデルフォイというのはこの神殿の御宣託部門かなと思っていた。
じつはぜんぜん別のところにあった。

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ポール・セローの乗った「海の精霊」号がギリシャにやってきて、最初に寄ったのが、細長いコリントス湾の奥にあるガラクシディオンという村だった。
デルフォイというのはこの村から20キロほど北に行ったパルナッソス山という山のふもとにある。
それはいいんだけど、グーグルマップを拡大してもガラクシディオンという村が見つからない。
セローたちはここからバスでデルフォイに向かったとあるから、おそらく国道が走っているイテアという街のあたりだろうと見当をつけて、ここからストリートビューをスタートさせることにした。
わたしも名前ばかりで知っていたデルフォイが、どんなところなのか見てみたい。

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最初はイテアの港とそこからデルフォイに向かう街道で、まわりはこんな感じ。

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デルフォイに到着すると、道路っぱたにバスを止め、この場所から観光客はぞろぞろと歩いて遺跡に分け入る。
遺跡は険しい山の中腹にあって、アポロン神を祀る神殿の跡だけではなく、半円形のコロシアムもある。
考古学やギリシャ神話に興味のある人には貴重だけど、売店も自動販売機も、ましてエスカレーターもなさそうだから、年寄りには辛そう。

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最後の写真はデルフォイから、はるかに海をながめたところ。
紀元前490年、ペルシアの大軍がギリシャに攻め寄せてきたとき、ポリスの代表たちはここで断固戦うべしというお告げを聞くのである。

デルフォイにはいまでも、日本でいえば青森県の恐山のような、神さまの御宣託をする巫女さんがいるらしい。
恐山の観光客のなかにはひとのわるいのがいて、マリリン・モンローを呼び出してくれなんていって巫女さんをからかうのがいるらしいけど、ギリシャでもアメリカ人観光客は率直というか、馬鹿であって、もったいぶった言い方をする巫女さんが理解できない。
なんで最初からはっきり結論をいわないのかしらとガイドに訊く。
御宣託というのはそういうものですとガイドは答えるけど、さすがに、いや、あれはただのショーですとはいえない。
セローも無神論者で、そんなお告げは信じないほうだから、ここではかなり不真面目で、ガイドが熱心に説明しているかたわらで、競走馬のオーナーである同行者と競馬の話なんぞを始めてしまう。

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「海の精霊」号はデルフォイのあと、首都のアテネに向かうけど、コリントス湾をそのまま行ければ近道だ。
ところがアテネのある大陸側と、タコのようなかたちで海にはりだしたペロポネソス半島は、細い陸地でつながっていて船は通過することができない。
この陸地は幅がせいぜい6キロぐらいしかないから、日本なら掘削して運河を作ってしまうところだ。
そう考えて地図を拡大してみたら、ギリシャ人も同じことを考えたらしく、ここにはコリントス水路という運河があることがわかった。

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ただしこの写真にあるようなえらい細い運河なので、むろん大型タンカーなどは通れず、「海の精霊」号が通過するときも、おそらくタグボートに曳航されたか、両側の岸までつっかえ棒でもしながらそろそろと進んだものだろう。

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こうしてアテネに着いたものの、どういうわけかこの本を書いたころのセローは、何かギリシャに恨みでもあったのか、このあと訪れるトルコに比べると書きようはかなり辛辣だ。
原因は本を読み進むと、あるていど理解できる。
セローが旅をした1994年ごろというと、表現の自由も欧米諸国なみにあり、国内にキリスト教徒さえ共存していた世俗主義のトルコにひきかえ、ギリシャはすこしまえまで軍事クーデターを歓迎し、乱脈な経済運営で国内はガタガタ、年寄りの首相は妻を捨ててスチュワーデスといっしょになったというていたらく。
品行方正なセローにはそのへんが気にいらなかったらしいから、スチュワーデスと結婚したのはどの首相かと調べてみた。
これは1985年から首相をつとめたアンドレアス・パパンドレウさんのことらしかった。
しかしセローはきらっても国内的にはなかなか人気のある人だったらしく、パパンドレウさんはあとで首相に復帰しているし、息子も首相になっている。
人気の原因は公務員らに対するバラまきにあったようで、そんな行き当たりバッタリな政治をしていたのでは、セローがきらうのももっともだ。

そういう理由でセローはアテネにはほとんどふれず、有名なアクロポリスも市の職員のストで閉まっていたという。
こういう職員にムダ飯を食わせていたギリシャが、EUからまじめにやれと是正勧告をされるのは2010年ごろのことである。
背に腹は代えられないと公務員の削減に着手して、緊縮政策に反対な国民の大規模なストライキになり、わたしから緊縮しないで経済がなりたつなら、安倍クンに教えてやらなくちゃと冷やかされたのは2015年の1月のことだ。
セローはふれなくても、ギリシャに来てアクロポリスやバルテノンを紹介しないのは片手落ちだから、ストリートビューでのぞいてみた。

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パルテノンは写真で見ると、のっぺらぼうの丘のてっべんにあるけど、じっさいにはアクロポリスの丘は中腹までこんな灌木におおわれているようだ。

若いころのわたしはギリシャ神話の官能的な部分に魅了されて、だいぶ青春のエネルギーを浪費した。
そのおかげでギリシャの神さまについては、まあまあ詳しい。
パルテノン神殿はアテネの守護神であるアテーナー女神を祀った社である。
この女神はトロイ戦争の発端となった3人の女神の、美女コンテストに選抜されたくらいだから、すごい美人だった(そうである)。
ちなみにあとの2人は、オリュンポスの神々に君臨するゼウス大神の奥さんへーラーと、愛と官能の女神アプロディーテーだ。
へーラーは最高尊厳の奥さんであるから忖度による名誉ノミネートだったろうけど、アプロディーテは美貌に加えて、フリーセックスを信条とする愛の女神だったから、結婚をしないカタブツのアテーナーは彼女に優勝をさらわれて、その恨みからトロイアを滅ぼすに至ったとされている。

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甲冑をかぶって生まれてきたというから、アテーナー神はひょっとすると、いま流行りのトランスジェンダーだったのかもしれない。
これはアテーナー女神のポートレートで、たしかにトランスジェンダーといわれても納得できるようなりりしさがある。

ギリシャ神話にかぶれたおかげで、ギリシャはわたしがとくに行ってみたい国のひとつだったけど、よく考えると観たいものがそんなにたくさんあるわけじゃない。
ミロのヴィーナスもサマトラケのニケもルーブル美術館だし、パルテノンの彫刻や壁画だって大英博物館のほうが多いかもしれない。
ギリシャというと、彫刻やレリーフに見られるような素晴らしいプロポーションの人体を思い浮かべてしまうけど、あんな理想的な肉体美のギリシャ人は、現代のギリシャにいそうもないし、はたしてそのころのギリシャ人と現在のギリシャ人が同じ人種だったかどうかもわからない。
となりのトルコだって、トルコ人が居座ったのは11世紀ごろということもある。

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ありし日のパルテノン全体を見たいと思ったら、柱しか残ってないギリシャより、米国のナッシュビルに行ったほうが早いや。
そこには実物大のパルテノンのレプリカがあり、失われた高さ13メートル、金ピカのアテーナー像も復元されているという。

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2021年2月28日 (日)

地中海/ポンペイ

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ニースから出航した「海の精霊」号の最初の寄港地はソレントだった。
「帰れ、ソレントへ」のソレントで、この近くにはポンペイの遺跡という有名な観光名所があるけど、前編の旅ではここはまるっきり無視だったから、今回のセローはおとなしくバス・ツアーに参加した。
海のうえばかりではストリートビューが使えないから、わたしもほっとした。
しかもこのブログ・ネタをひねくっている最中、NHKのBSで「よみがえるポンペイ」という番組が放映された。
これは火山の噴火で埋まるポンペイを、CGを使ってリアルに再現したもので、このブログを書くためのいい参考になった。

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ずらずらと並べたのはストリートビューでながめたポンペイの遺跡。
この遺跡はだれでも知っているように、近くのヴェスヴィオ火山の噴火で火山灰に埋もれた古代都市のものである(噴火は紀元79年)。
この遺跡は発見された直後に政府が保護管理しなかったものだから盗掘団のえじきになって、相当数の遺物が研究以前に失われたそうである。

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この2枚の写真は、模型のジオラマみたいに見えるけど、テレビ番組をキャプチャーしたポンペイの遺跡の全体像と、石膏の人型。
石膏の人型というのは、灰に埋もれて死んだ人間の遺体が、腐敗して空洞になった部分に石膏を流し込んだものだから、デスマスクならぬデスボディで、その瞬間の人間たちのようすをありありと見せてくれる。
なんか墓場を見物しているような気分である。

ツアーの参加者は年寄りばかりだから、そのうちだれかが、こんなに歩くとは思わなかったとぼやく。
ガイドがこのつぎは本物の売春宿を見せましょうという。
みんな急いで彼のあとに従った。
といういいまわしはセローの文章にならったものだけど、そこはかとなくおかしい。

それにしてもギリシャ人、ローマ人は人間の性についてよくわかっていた。
わたしは以前トルコの旅でエフェスの遺跡を見物したことがあるけど、あそこにも浴場やトイレとならんで、たしか売春宿の跡というものがあった。
石の床に足のかたちの絵が描いてあって、それが娼館のマークですとガイドがいう。
最古の職業が売春であることは有名だし、男女の営みは人間にとってぜったいに必要なものであると、当時の人たちにはちゃんとわかっていたのだ。
戦争中の日本軍もそういうことに理解があったおかげで、いまもとなりの国と揉めているけど、理解のない人ってのはどこにでもいるもんだ。

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ポンペイの真実を知るために、郊外もストリートビューでのぞいてみた。
遠くにヴェスヴィオ火山をのぞむすてきな田舎景色もあれば、イタリア人のモラルを示すひどい景色もあった。

ヴェスヴィオ火山は標高1300メートル足らずで、現在のこの山は危険ではなくなっているからトレッキング・ルートがある。
セローは登ってないけど、わたしのブログは登ってしまうのだ。
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これがストリートビューで見たヴェスヴィオ火山の噴火口。
また火口の底からわずかに湯気が出ているようで、わたしが見たことのある景色では阿蘇の火口に似ている。

これだけでは味気ないない話だから、ひとつ想像のつばさをふくらませてみよう。
ポンペイからヴェスヴィオ火山の火口まで、距離はおおよそ10キロで、日本では富士山の火口からいちばん近い人口密集地である富士吉田市が15キロぐらい。
ヴェスヴィオ級の噴火があれば、富士吉田市は日本のポンペイになりかねない。
富士山は活火山で、最後の噴火からもう300年以上が経過しているから、そろそろ人間たちの油断をうかがっているころだし、災害は忘れたころにやってくるので注意するに越したことはない。
もっともポンペイの破滅のころと現代では、噴火予知科学がはるかに発達しているから、津波とちがって人的災害だけはまぬがれるのではないか。

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ポンペイについて調べているうち、この近くにあるヘルクラネウムという町のことを知った。
ポンペイと同じ噴火で埋没した町で、市の広報サイトによると、こっちのほうが規模が小さいけど盗掘も少ないし、範囲がせまいから見物も楽ですよとのこと。
わたしがポンペイに行くことが、もしもあったら、わたしはヘルクラネウムのほうに行こう。

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船が出るまで時間があったので、このあとセローはタクシーでボジターノという村までひとっ走りする。
なんかめずらしいものでもある村かと思って、わたしもさっそくストリートビューをのぞいてみた。

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これがその村だ。
海岸の近くまで山が迫っており、斜面にびっしり張り付いた民家は、なにかのゲームに出てくる魔界の村みたいである。

そのうち日本でもよく知られたイタリアの観光地であるアマルフィという街が、ここから遠くないことに気がついた。
アマルフィやポジターノを含んで30キロほど続く海岸線をアマルフィ海岸というそうで、このあたりを紹介する映像がわたしのテレビ番組コレクションのうちに2本ある。
その「二度目の〇〇」シリーズと「世界で一番美しい瞬間」シリーズを参考にしてみた。
セローにいわせると、ここは急斜面をくねくねと下る道しかなくて、車で来るのは大変だそうで、ほとんどの観光客はべつの場所から船で来るようだ。

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町全体が旧市街といってよく、個性的な家ばかりで、ホテルまで古い修道院の建物を使っていた。
「2度目の」も「美しい瞬間」も、レモンやブドウにキノコ、そしてコラトゥーラ・アリーチという魚醤(日本の醤油みたいなもの)など、やたらに美味しいところを紹介していたので、わたしもメシを食いに行きたくなってしまった。

ソレントのあと、「海の精霊」号は、セローが半年ばかりまえに陸上の旅をしたシチリア島のタオルミーナに寄港して、彼にすこしばかり感傷的な気分をもよおさせたあと、さらに地中海の小さな独立国マルタに向かう。
ここはセローの船旅より17年後の2011年に、わたしはじっさいに行ったことがあるところだ。

マルタ島のよさはその小ささである。
ポール・セローもいってるけど、幅8キロ、長さが18キロというのは、自転車があればぐるりとまわるのに最適なくらいだ。
この小さな島に、パリやローマのような石造りの都市、古城、名画の飾られた教会の大聖堂、ごみごみと建て込んだ街並み、ブドウ畑のある田園など、ヨーロッパのエキスが詰まっているから、ゆとりをもって外国を観たいという人にお薦めなのだ。
さっそくストリートビューでといいたいけど、この島はわたしのブログでとっくに紀行記を公開済みなので、二番煎じになるのもナンだから、そのページにリンクを張っておく。
興味のある人は、このマルタ島の写真のうえでクリックすること。

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2021年2月26日 (金)

地中海/「海の精霊」号

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アルバニアからもどったポール・セローは、いったん米国にもどって、数ヶ月奥さんのご機嫌をうかがったあと、ふたたび地中海の旅に乗り出した。
奥さんについて詳しいことは書いてないものの、彼は旅のとちゅうで何度か奥さんに遠距離電話をしているから、そうとうな恐妻家のはず。
それはそうとして、今度は贅沢な旅だ。
ノルウェー船籍の客船「海の精霊」号による豪華な船旅で、ぜったいに飛行機は使わず、高いホテルに泊まらないと豪語していた彼らしくない。
どのくらい豪華かというと、14日間のクルーズ料金が2万8千ドル(約290万円)だ。
これは1994年のツアーだとこころえて、当時の為替相場を考慮しても高いことはまちがいない。
いささか目がくらみそうだけど、じつはセローは自分の金で乗るわけじゃない。
彼は世界的に知られた旅行作家だから、船会社から紀行記を書くという条件で無料招待されたのである。
うらやましいけど、わたしにとって(縁はないものの)興味のある旅なので、それがどんなものか、またひとつバーチャル旅行に体験してみようと思う。

ところで「海の精霊」号という船の名前が、日本語では幽霊船みたいでイメージがわるい。
英語にするとSea Spiritで、たちまちモダーンになる。
どう表記しようかと迷ったけど、やはりセローの本の通りにしないと、これを読んでみようと思った人がピンと来ないだろうから、ここは「海の精霊」号でいくことにする。

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「海の精霊」号の写真を最初に見たときはちょっと失望した。
現在の豪華客船というと、クィーン・エリザベスや日本のダイヤモンド・プリンセスのように、まるで高層ビルを横倒しにしたような、何層にもなった巨大な船を想像してしまうけど、それに比べると「海の精霊」はあまり豪華そうに見えなかったので。
しかしセローの本を読み進めるうちに考えが変わってきた。
『食べたいときにいつでも食事ができる』
『パーティを開きたければ、前もって連絡しておくと、12人分のテーブルが用意される』
『ルームサービスを呼び出して、キャビア6人分と、シャンパン2本と注文すれば、10分で部屋に運ばれてきた』
へえ、豪華客船というもはこういうものかと、下々の人間であるわたしはでっかい有形文化遺産に出会ったような気がした。

この有形文化遺産では、料理長は客の好みを把握していて、出航してまもなくセローにこんなことを聞いてくる。
『ベジタリアンと伺っておりますが、本日はスェーデンから空輸した上等なサーモンが入っておりますが、なにか特別な注文がございましょうか』
丁寧な口ぶりでこんなことを聞かれたら、わたしなら尻がむずむずして落ちつけそうもない。
セローがウエイターに料理を勧められたときのやりとりはなかなかおもしろいので、ベジタリアンの心構えとして知っておくと便利かもしれない。
ウエイター:極上ハト肉か猟鳥肉などもよろしいかも
セロー:顔のあるものはなるべく食べないようにしてるんだ
ウエイター:なるほど
セロー:脚のあるものも食べないようにしている
ウエイター:はい
セロー:母親といっしょだったものも食べない
ウエイター:それでは魚もだめですね
セロー:魚は、まあ、野菜みたいなものだからね

こんなサービス満点の船に、セローは招待されてタダ飯を食っているわけだから、いいところばかりを強調したタイコ持ち記事になるのではないかと心配だ。
しかしセローにいわせると
「自分の文章は皮肉がいっぱいなので、ときどき悪口とカン違いされてしまい、もういちど招待がくることはめったにない」
「めったにないけど、招待なんていちど体験すれば十分だ」 
こんな調子だから心配するほどのことはないだろう。
わたしもまたセローに負けないくらいの皮肉屋だから、タイコを見つけたら遠慮なく告発することにする。
どうせわたしに招待状が来ることはないんだし。

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この旅はいつごろのものだろう。
日にちまではわからないけど、セロー自身が出発は9月の末とはっきり書いていて、あとがきに「大地中海旅行」は1993年の秋にジブラルタルからスタートして、あいだに4カ月の休みをはさみ、ふたたび出発したとある。
4カ月の休みというのは、つまりセローはビキニの美女が海岸にあふれるバカンスの季節をあえてはずしたわけで、海辺がひっそりし始める94年の秋にふたたび出発したということなのだろう。
ジブラルタルからアルバニアまでの旅はもうブログに書いたから、そっちは地中海旅行の前編、これ以降の旅は後編ということにしよう。

セローの航海からもう30年近く経っていることを思うと、「海の精霊」号という船はいまでもあるのかどうか気になる。
調べてみたら、しょっちゅう極地クルーズに出かけている同じ名前の船があった。
これが同船であるという確証はないけど、1万トンという中規模の客船、乗客定員が114人、キャビンという船室の名称がなく、すべてダブルベッドのスイートで、船尾にモーターボートでも発着できるマリーナを備えているという特徴、そしてわざわざ作家を招待して乗船記を書かせるくらいだから、モトをとるまでかんたんに廃船にするとも思えないので、これにまちがいがなさそうだ。

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「海の精霊」号が出航すると、客のひとりひとりに乗客名簿が配られる。
せまい船内で何日間かを共にするわけだから、隣人の名前や職業ぐらい知っておくほうが便利だという配慮だろうけど、そんなしきたりが個人情報のやかましいいまでもあるかどうか知らない。
セローはこれに気のついたことを書き込み、乗客に関するメモ代わり(そして本のしおり代わり)におおいに活用する。
名簿を見るとさすがに、もと大使だとかもと経営者、競走馬のオーナーや舞台プロデューサーなど、人生に成功して引退した金持ち夫婦が多い。
彼らがみんな以前からの知り合いというわけではないから、食事のときの会話は乗客たちの体験談や自慢話になることが多い。
セローが作家であることを知ると、乗客のひとりが、あんたの名前で出した本はあるのかいと訊く。
これだけで相手がぜんぜん本を読まない人であることがわかる。
うちの旦那も本を書いてます、ぜひお読みになってくださいなという奥さんもいた。
そんなことをいわれても企業の経営者の立志伝なんか読みたがる人間はいない。
わたしは青森県に行ったとき、泊まったアパ・ホテルで、部屋に置いてあった経営者の著作を読んだけど、あのときはほかに読むものがなかったのだ。
大部分の乗客は典型的なスノッブだけど、なかにはジャック・グリーンウォルド氏のように、豊富な人生経験で、セローをも感心させるような博識の人物もいた。

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2021年1月24日 (日)

地中海/アルバニアB

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すごいところだなと感動しながら、それでもセローは首都のティラナに着いた。
アルバニアで北朝鮮の正恩クンの役割を果たしていた独裁者エンヴェル・ホッジャが死んだのが、セローがこの国を訪ねたより10年ほどまえのことだった。
このホッジャという人は筋金入りのスターリン崇拝者で、フルシチョフがスターリンを批判するとソ連と決別、米中が和解すると中国とも決別、相性がいいと思われたルーマニアのチャウシェスク、北朝鮮の金日成ともケンカ別れをして、そのうち味方をする国がひとつもなくなってしまった。
それでも動じないところ、そして文句をいいそうな政敵や国民はかたっぱしから粛清もしく強制収容所という姿勢は、まさに金日成から正恩クンへ連綿と続くアノ国と同じものだった。

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ティラナで知り合った若者によると
『ある人間が敵だとみなされると、肉親もみんないっしょにキャンプ(強制収容所)に送られるんです』
『もっと遠い親戚でも、大学教育とか受けられなくなりました』
『西洋の堕落した音楽をかけたという理由で、もと教育大臣だった〇〇とその家族が強制労働をさせられていました』
まさに北朝鮮ではないか。

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現在のティラナは、やはり街の中心だけにかぎれば、大きなダムをかかえた近代的な都市である。
しかしセローがこの街に着いたときは、ホテルさえ見つけるのが困難なくらい荒れ果てていて、ようやく見つけたホテルでは、仕事で来ていた米国人に、ここは世界のホテルのワーストランクで、ナンバーワンだよといわれるほど。

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街をぶらぶらしてみた。
ホッジャの時代、いちじこの国は全体が無神論者だったらしいけど、現在は教会があるし、モスクもある。
しかしこの後の歴史をながめると、まったく御利益はなかったようだ。
街の中心に大きな公園があって、ホッジャの記念碑もあったらしいけど、セローは独裁者というものがキライらしく、あっさりとしか触れない。
わたしもキライだから、たぶんこれがそうだろうぐらいにしておく。
ここには国立歴史博物館という立派な建築もあり、公園の一角にウマに乗った武将の銅像が建っていた。

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ホッジャならウマよりガソリン車の時代の人だから、だれかと思ったらこれはアルバニア建国の父といわれるスカンデルベグの像で、中世の歴史上の人物だった。
アップで見ると頑固そうな老人だ。
ところでアルバニアの国旗ってカッコいいねえ。

近代的な都市なんか見ても仕方がない。
現実の旅行でもわたしは、その国の原風景をよく残した田舎のほうに興味のある人間だ。
それで街の郊外から、田舎に視線を移してストリートビューで探索してみた。

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中心部をはずれるとだんだん殺風景になり、ヒツジやヤギがいたり、花の咲き乱れる草原があり、道路のわきに洗濯ものが干してあったり、日本人にはめずらしい景色に事欠かない。
問題はストリートビューが田舎を、都会や観光地ほど完璧にカバーしてないことだ。

ホッジャが死ぬと後継者は、ソ連の崩壊とそれにともなう東欧諸国のドミノ倒しで、民主化に舵を切った。
セローはいちばん悲惨なときにこの国に着いたのだ。
ひどい独裁であっても指導者がいればなんとか秩序は保たれる。
それが突然いなくなると、きっちりはまっていたタガがはずれて、経済はがたがたになり、インフラは崩壊し、治安も乱れ、人々はなにをどうすればいいのかわからない。
おそらく北朝鮮の体制がいま崩壊すれば、あの国でも同じような光景が見られるにちがいない。

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セローは動物園に入ってみた。
わたしも中国のウルムチで動物園に入ったことがあるけど、こういうときは行き場がなて、ただもうヒマつぶしに街をさまよっているときが多い。
そこで環境保護に熱心なセローは、せまくて非衛生な檻の中でいじめられるライオンを見て、はげしく憤る。
わたしもそうだった。
ウルムチでは爪を抜かれたクマが、口輪をはめられ、牛のように鼻輪をされて見世物にされていた。
しかし動物たちのこういう悲惨な環境は、動物愛護の精神がゆきとどいて、じょじょに世界中で是正されつつある。

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わたしもアルバニアの動物園に入ってみたけど(ストリートビューで)、どうやら現在は動物の展示はやめたようで、檻なんかひとつもなく、静かな植物園のようになっていたのはよかった。

独裁者エンヴェル・ホッジャが死んだあと、経済的に困窮していたこの国は、国をあげて闇商売に手を出した。
いわゆるネズミ講というやつで、国民から出資をつのり、その金を紛争中だったとなりのユーゴに、武器を密輸出する費用としてつぎ込んだのである。
なにしろそれまで社会主義国で、資本主義のしくみも投資のトの字も知らない国民ばかりだから、これが投資というものだと、じっさいに最初のうち儲かった話など聞かされると、もう歯止めが利かない。
国民の半数がネズミ講に金をつぎ込んで、そして当然ながら、紛争が収まるとそれはつぶれた。

セローがティラナをはなれて3年後の1997年に、損をした国民が大暴動を起こして、ホッジャの後継政権もつぶれた。
もちろん旅をしていたころのセローがそんなことは知るよしもない。
彼はアルバニア南部からギリシャへフェリーが出ていることを知り、タクシーを借り切って南部の都市サランダに移動することにした。
とちゅうであちこち見物しながら行くという条件で、タクシーは盗難車のBMWだった。
セローは運転手といろいろ話をしたけど、アルバニア人はギリシャ人が嫌いだという部分を聞いて、となり同士の国っていうのは仲がわるいのが普通なんじゃないかと、これはわたしが思う。

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サランダまでのドライブは2日がかりで、とちゅうの道路はろくなものではなかったけど、海岸の美しさだけはわるくない。
これは発展が遅れているから、かえって自然環境がよく保存されているということで、リゾートとしての将来性はかなりありそうだ。
最終目的地までセローが払ったタクシー代は100ドルで、距離は200キロぐらいあり、2日がかりのドライブだったからむちゃくちゃ安い。
この街からフェリーに乗ることができて、セローは無事に奇跡の国(よくない意味で)アルバニアを脱出することができた。

独裁政権が長かったことで悲惨だったこの国は、ようやく新しい一歩を踏み出したところのようだ。
しかし極東アジアにはいまなお冷酷な独裁者が君臨する国がある。
そんな時代遅れの政治はさっさと放棄して、人々に自由を与え、自由経済に移行するほうが、けっきょくは国を富み栄えさせる早道なんだと教えてあげたい。
日本では文豪・森鴎外も、明治時代にとっくにそのことに気がついていた。

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2021年1月23日 (土)

地中海/アルバニアA

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北朝鮮という国がある。
ということは日本人ならだれでも知っている。
そこがインターネットで情報が飛び交う時代に、いまなお中国の古代王朝のような時代錯誤の政治体制をもった、ユネスコの世界遺産に登録されてもおかしくない国であることも。
こんな北朝鮮と同じような国が、アドリア海の沿岸にもあった。
クロアチアのつぎにポール・セローがめざしたアルバニアである。

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アルバニアへはドブロブニクから、途中のモンテネグロを経由すれば100キロぐらいしかないんだけど、あいにくクロアチアとモンテネグロは紛争中で、国境が閉ざされていたから、やむを得ずセローはいったんフェリーでイタリアへもどり、船を乗り換えてアルバニアをめざすという面倒な方法をとった。
イタリアでセローが聞いたのは、貧しい国だよ、きったねえ国だぞという噂。
さてどんな国だろうと、まったくはじめて体験する異常な国に、セローの期待は高まる。
セローの旅をなぞっているわたしも好奇心まんまん。

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ドゥラスという街に上陸したセローは、たちまち貧しい人たちに取り囲まれてしまった。
こういう経験はわたしにもある。
わたしが初めて中国に行ったのは1992年のことで、まだ改革開放がようやく軌道に乗ったばかり、紙幣のかわりに兌換券というものが通用していて、まだ人民服を着たおじさんが街中をうろうろしていたころだ。 
街を歩けば子供たちや、赤ん坊をかかえた母親たちが群がってきて、ギブミーと手を差し出す。
いくらなさけ深いわたしでも行く先々でそんなに応じちゃいられないけど、そのうちあらかじめ小銭を用意しておけばいいということを知った。
日本円で十円ていどの硬貨でも与えれば、彼らはあっという間にいなくなる。

中国の場合、貧しいというより伝統的な職業じゃないかという気がしたけど、セローの本を読むとアルバニアの物乞いは本物で、というのもおかしいけど、それは惨憺たるものだった。
彼の目に映ったこの国は
『フェリーから降りて最初に目にしたのは、ぼろを着た人の群れだった』
『温まった糞の臭い、腐敗物と埃の臭い、そして地面までが悪臭を放っていた』
『駅前に停まっている三台のおんぼろバスはどう見ても粗大ゴミにしか見えず、そのせいで停留所全体がゴミ捨て場に見えた』
セローのこうした記述はえんえんと続く。
第三世界だってここよりマシだとも。

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もちろんセローがこの街を見てから、すでに30年ちかい年月が経っているから、ストリートビューで見るドゥラスはそんなに悲惨な街ではない。
街の中心部を見ているかぎり、最近の先進国のどこかといわれてもわからない。

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これは中心の公園のそばにあった古い城壁で、この近くにはアルバニア大学もある。
ドゥラスはいちどはアルバニアの首都にもなったことのある由緒正しき街なのだ。
ただ全体の雰囲気として、どこか先進国というにはあか抜けないところがあり、これは近代のあるところで発展が停滞してしまったせいだろう。

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目についたのは海岸から近い丘のうえにあったこの邸宅だ。
これはアルバニア国王を名乗ったものの、10年で国外逃亡をしたアフメト・ゾーダさんという人の宮殿で、現在は迎賓館として使われている建物らしいけど、そんなものを見ても仕方がない。
この丘の下の海岸にローマ時代の遺跡があるとセローが書いているから、それを探してみた。

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そして発見したのが歴史博物館だけど、裏庭に石柱や彫刻が無造作に積まれ、なんかそのへんの遺跡から石材をくすねてきた建材屋さんみたいである。
いじわるなわたしは、貧困のおもかげばっかり重点的に探してみた。

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ちょっと街のはずれや郊外の農村に出ると、まだ舗装されてない道路がいたるところにあって、かえって郷愁をさそわれる景色になっていた。
海岸には海水浴場があったものの、まだまだカンヌやニースにはほど遠く、まわりに施設のなにもない日本の日本海側の海水浴場みたい。

ゾンビのようにまとわりついてくる人々をふり払って、セローはおんぼろバスに乗り、30キロほど離れた首都ティナレに向かう。
バスの中から農作業をしている人が見えるけど、彼らが使っている農機具は、たとえば柄のまがった草刈り鎌は、もろに中世の死神さんが使っていたものだった。
トラクターのような動力を使った機械はいっさい見えず、馬に引かせた荷車の上に欲し草を積んだりしていた。
あるあるとわたしも思う。
はじめての中国では、畑で女の人が牛の代わりに鋤を引っ張っているのを見て、この国は遅れているなあと感心したことがある。

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現在のアルバニアには高速道路と快適なバスがある。
とちゅうの景色はこんな感じで、どこか日本の東北の田舎を思わせる。
道路のわきに車の解体業者があった。
セローがフェリーでアルバニアに乗り込んだとき、船内は盗品の車が満載で、ヨーロッパ中から盗まれた車が、アルバニアで偽造書類と新しいナンバーが用意され、中古車として売られていたらしい。
現在でもそういうことがあるのかどうか知らないけど、ここにならんだ廃車ももとは盗難車だったかも。

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バスの中でセローが見たものは、おびただしいトーチカだった。
戦争のさいに使われるコンクリート製の防御陣地で、どんなものかはこのページのトップの写真を見ればわかるけど、どこに行ってもこれの見えない場所はなく、国内に60万個もあったというから、それこそ一家に一台というくらいあったわけだ。
たまげたわたしはストリートビューで探してみた。
そんなにあるならすぐに見つかるだろうと思ったら、ない、ない。
海岸とか平原とか、ありそうな場所をしらみつぶしに探したけど、見つかったのはようやく二つか三つ。
トーチカというのは性格上、壊すのは簡単ではないはずだけと、独裁者が死んで無用の長物になったあと、みっともないというのでひとつづつ丹念に破壊されたらしい。

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これだけのコンクリートを住宅建設に使えば、そうとうたくさんの住まいを提供できたのにと、本のどこかに書いてあった。
もちろんそういうこともあったらしく、海岸に建設されたこの施設、足場を固めるのにありあわせのコンクリートを使ったようで、これ(〇印)ってトーチカの残骸じゃないか。

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2021年1月20日 (水)

地中海/ドブロブニク

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スプリットからセローはクロアチアのドブロブニクをめざす。
ドブロブニクは「アドリア海の真珠」と呼ばれるくらい、日本人にもよく知られた美しい観光都市だ。
このあたりの国境はちょっと変わっていて、海岸づたいにスプリットからドブロブニクに行こうとすると、とちゅうでほんの少しだけボスニア・ヘルツェゴビナの領土を通ることになる。
国境の検問がめんどくさいなとセローはまたぼやくけど、日本からながめると、まだ戦争中の国できちんと入国審査をしていただけでも不思議に思える。

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このボスニア領からすこし内陸に入ったところにモスタールという古い都市があり、そこには歴史的な橋があったけど、この戦争で砲撃され、崩れて川に落下してしまった。
『428年間、侵略者からも地元民からも讃えられ、二つの世界大戦を無傷のまま生き延びたオスマントルコ建築の傑作』
というこの橋の惨状を知って、セローはこの戦争は「文化的蛮行」という言葉がぴったりだという。
ようするに、ずっとあとになって登場するイスラム過激派のタリバンやISISと同じで、低俗なイデオロギーに染まった指揮官、兵士たちは、文化財という“高慢ちきなもの”を破壊するのになんのためらいもなかったのだろう。
橋は現在は復旧されているけど、そこに染み込んだ歴史は永久にもどらない。

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この戦争でセルビア軍は、ユーゴ連邦軍は各共和国の寄せ集めだから、共和国同士の戦争には使うのはマズイというので、セルビア人だけの民兵組織をつくって戦争をやらせた。
民兵というと、イメージからして傭兵のようなならず者集団という感じで、きちんと統率がとれていたのか心配になってしまう。
この組織のトップはカラジッチやムラジッチという軍人で、セルビア政府のコントロールがきいていたわけではなく、ときどき暴走することがあった。
むかしから軍人というのはおのれの力を過信しやすいし、連邦軍の兵器の大半がセルビアに引き継がれたので、こうなるとキチガイに刃物だ。

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彼らはどんどん増長し、破壊とジェノサイドもエスカレートし、なんとか殺戮をやめさせようという国連の努力も馬耳東風で、しまいにはミロシェヴィッチ大統領のいうことも聞かなくなった。
まるで戦前の日本軍だけど、紛争の原因は彼らではなかったとしても、他民族虐殺の原因は、止めようと思えば止られたのにそうしなかったのだから、まちがいなく彼らにある。

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セローはドブロブニクに着いた。
ホテルの名前がわかれば、また探してみる手もあるけど、セローが泊まったホテルの名はわからなかった。
ただ、ここもまだ戦争中で、彼はホテルで居あわせたクロアチア人と話をする。
どうしてアメリカは助けてくれないんだと相手はいう。
なぜアメリカ人がヨーロッパの戦争に加担しなければいけないんですかと、逆にセローは問いかける。
セローが民主党支持の中道左派であるという根拠は、文章に極端な偏向がないことと、ここでクリントン大統領を非難されるとむっとすると書いているからだ。

この戦争はやくざのセルビアとクロアチアが、かよわいボスニアをあいだにはさんで殴り合ったようなものとまえに書いたけど、このふたつの国はおたがいにボスニアから領土をむしり取るのに熱心で、内緒で分割の密約を結んだこともあった。
しかしやくざの手打ちみたいなものだから、状況が変わればまたケンカになる。
セローがドブロブニクに行くすこしまえには、セルビアとクロアチアはまたケンカになっており、セルビアとそのパシリであるモンテネグロの同盟軍は、ドブロブニクの背後にある山から街に大砲を撃ち込んでいた。

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セルビアがあまり無法なことばかりするので、米国や欧州は、牽制するためにクロアチアに肩入れした。
すると今度はクロアチアが元気づいて、セルビアに反撃し、セルビア人をその居住地から追い出そうとして、またべつの民族浄化が起きる。
さまざまな民族がさまざまなところで暮らしていた土地を、特定の民族が独占しようとすれば、トラブルになるのは当たり前なのだ。
セルビアは被害者づらして窮状を訴え、民兵組織のリーダーたちは防衛のための戦争だと、侵略・暴行・殺戮を正当化する。
殺されるほうだってむざむざ殺されやしない。
これではいつになっても戦争は終わらない。

セローがドブロブニクに着いたとき、セルビア軍は包囲を解いて撤退し、街の修復もかなり進んでいた。
ということは、街のようすは現在わたしたちが見るものとたいして変わらなかったわけだ。
現在のドブロブニクは30年まえまで激しい戦争があったとは思えないくらい美しい街である。
ここでまたストリートビューで見つけた市内のようすをどさどさと。

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この城壁を歩くにはひとり2,670円がかかるそうである。

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1995年の夏、サラエボでふたたびイスラム教徒への殺戮が始まり、米軍はついに空爆に踏み切った。
これはセローがこの地を離れてまもなくだから、ひょっとすると彼は状況偵察のために送り込まれた米国のスパイだったかも。
というのはミステリーの読みすぎだけど、米軍の参戦は決定的で、この空爆が紛争の分岐点になったことはまちがいない。

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現在、世界は米国のイラク侵攻やソマリアでの失敗もあって、紛争への介入に慎重だけど、ユーゴ紛争は多国籍軍の介入が和平に貢献した数少ない実例となった。
なぜもっと早くやらなかったのかという問題は歴史の判断におまかせして、その後のユーゴの復旧はめざましい。
これはわたしたちにひとつの希望を与えてくれる。
いま戦争をしている中東やアフリカでも、いつか人々が平和にめざめ、地球全体が融和と協調でまとまる日が来るんじゃないか、そういうことは可能じゃないかという・・・・

わたしのテレビ番組コレクションのなかに、ドブロブニクが出てくるものはないかと調べてみたら、古い「世界ふれあい街歩き」以外に、「二度目の〇〇」シリーズがあって、モデルの仲川希良ちゃんがこの街を案内するものがあった。
これはデジタルになってからの番組だから、まだ最近の映像だし、画質も文句なしである。

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もちろん戦争の話は出てこないで、希良ちゃんはアドリア海のサンゴの耳飾りなんかつけてうれしがったあと、ケーブルカーで街の背後にそびえるスルジ山まで登る。
かってセルビア軍が陣取った山からドブロブニクの街を見下ろしたわけだ。
大砲をかまえた軍隊と、かわいい観光客とのちがいは大きい。

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戦争なんかしなければ、クロアチアは風光は明媚で、娘たちは美しく、希良ちゃんも食べていたけど、シーフードが美味しそう。
カンヌやニースのような、リゾートになりうる魅力を持った街ばかりなのに、いったいどうして人々は戦争なんかしたのだろう。
ジェノサイドを陣頭で指揮したセルビア大統領ミロシェヴィッチや、カラジッチ、ムラジッチといった軍人たちをみると、彼らはいったいなんのためにこの世に存在したのだろうとさえ思ってしまう。

セローはこのあと、独裁政権が倒れて間もないアルバニアに向かう。
ほんとうはそのまえに、地中海の沿岸をめぐるという旅の主旨からして、モンテグロに寄りたかったのだけど、しかし彼が旅をしたころ国境はふさがれていた。
やむを得ず大まわりをして、アルバニアに向かうんだけど、この国はすこし前まで、現在の北朝鮮のような閉ざされた国だった。
そんな国ではたしてなにが見られるだろう。
ストリートビューはあるかしら。

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2021年1月18日 (月)

地中海/スプリット

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冒頭に載せたのはザダールの遠景。
フェリーでセローがこの街に着いたのは夜中だったけど、昼間見れば、このあと寄ることになる「アドリア海の真珠」、ドブロブニクにひけをとらない美しい街である。
旧ユーゴというのは日本人になじみがないだけで、探せばまだこんな美しい街がたくさんあるかもしれない。
ただしセローが訪れたとき、まだセルビア軍が20キロ離れた場所に陣取って、ときどき街に大砲を撃ち込んでいた。
おかげでこの美しい街は穴だらけだったそうだ。

夜中に着いたセローはホテルを探したけど、ホテルはどこへ行っても難民であふれていた。
それでもフェリー会社の親切な係員に、コロヴァレ・ホテルというところになんとか空室を見つけてもらう。
ホテルの名前がわかったから、念のためグーグルマップに当たってみたら、それはいまでもあることがわかった。

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樹木で見えにくいけど、これがそのホテルのおもてと裏。
砲弾でボコボコにされていたらしいから、その後建て替えたかもしれない。
でもあまり上等な建物に見えないから、色を塗り替えただけかもしれない。
けっきょくなにがなんだかわからないけど、戦場の近くで野宿をするわけにもいかないから、セローはここに泊まることにした。

ユーゴの紛争は「民族浄化」という言葉とともに、膨大な数の難民を生んだ。
おかげでコロヴァレ・ホテルのロビーは雑魚寝をする難民でいっぱいだった。
難民の支援にやってきた赤十字や国連の職員たちは上等の部屋に泊まる。
それを見てセローは、戦災時にはいい部屋を慈善団体が占領するものだという、ひとつの原則に思い当たるけど、そういえばわたしにも似たようなことがあったなあ。
東日本大震災のとき、現地を視察に行ったわたしは、釜石あたりで宿を探していた。
海岸のホテルは軒並み津波にやられたか、無事でもほとんど使い物にならなくなっていて、わたしはとうとう内陸の遠野まで足をのばしてみたけど、そこも各地からやってきたボランティアでほとんどふさがっていた。
おかげでサービスは悪いくせに高い部屋に泊まらせられて、それをいまでも恨みに思って、いるわけじゃないけど、セローと似たようなことを思ったことはある。

夜が明けて、わたしは戦争の爪痕を探してみた。
しかし戦後20年も経っていて、現在のザダールにそんなものはありそうにない。
セローにいわせると、ローマ時代の遺跡である旧市街地の正門も吹き飛ばされていたとある。

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フェリーが到着した港のある半島が旧市街地らしいので、そのへんを重点的に探してみたら、海辺にそった古そうな城壁にこんなレリーフを見つけた。
吹き飛ばされてはいないけど、なんとなくローマ時代の遺跡に見えるから、あとで修復したのかもしれない。

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そうやってしつこく探してみると、あちこちに遺跡らしいものがあり、なかには現在修復中らしいものもあった。
しかしこれが戦禍による修復なのか、たんに古くなったから直しているのかわからない。
この石垣だって、じいっとにらむと、修理した部分がまだらになっているような、そうでないような。
まあ、修復がすんだのなら結構なことで、観光客が安全に見てまわれるなら、それはさらに結構なことである。

この街でセローはカフェに入ってコーヒーを飲んだ。
飲み終わって金を払おうとすると、戦場から逃れてきたウエイトレスは、ささやかなプレゼントだといって受け取らない。
戦争の被害者がゆきづりの旅人にプレゼントをする・・・・戦争は人々をより善良にすることもあると、セローはまたしてもひとつの原則に思い当たるのであった。

鉄道が戦争中のため不通だったので、セローはザダールからバスでクロアチア領のスプリットを目指す。
ちなみに、わたしの部屋のテレビ番組コレクションのなかに「関口知宏のヨーロッパ鉄道旅」があり、そこにクロアチア編もあって、現在のクロアチアにはきれいで快適そうな鉄道があることがわかった。

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しかし関口クンの旅は2016年のことなので、セローが旅をしたころは、もちろんそんなものはなかった。

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路線バスから見える景色は、ときおりあらわれる小さな町をのぞけば、おおむねこんな感じで、人口密集地はほとんどないようだ。
危険はあるかもしれないけど、こういう外国での路線バスの旅をわたしもしてみたい。
むかし中国の武威から蘭州まで、半日かけて走ったバスの旅を思い出してしまう。

スプリットでもセローはホテルを探す。
客引きをしているおばさんたちがたくさんいたので、試しに地元の人たちがやっていた民泊を利用することにした。
ところが宿のおばあさんがセローの知っている言葉(彼は数カ国語を話す)をぜんぜん理解せず、会話が出来ない。
わたしならうるさい亭主につきあわされるよりよっぽどマシだけど、セローは黙っていられないタイプらしく、翌日はもう別のホテルに逃げ出していた。

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これがセローが引っ越ししたベルヴュー・ホテルだ。
安っぽいホテルだけど、戦争中にはこれでもマシなほうだったらしい。
はたして現在のコロナ禍をなんとかしのいでいるだろうか。

スプリットは「世界ふれあい街歩き」という、わたしが蒐集しているテレビ番組にも出てくる。
またこれも参考にしてみよう。

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この街の旧市街地は「ディオクレティオヌスの宮殿」という遺跡で占められている。
この宮殿のあるじのローマ人はキリスト教を弾圧したそうだけど、その後歴史は変転し、同じ宮殿がキリスト教の教会になっているとか。
ローマ時代の神殿や浴場も残っているものの、なにぶんにも古い遺跡だし、その後難民があふれるような複雑な歴史があったから、いまはそこに一般市民が住みついて、菜園を作ったり、勝手に神殿の屋根を自分の家の一部として活用したりしていた。
わたしがはじめて中国で始皇帝の陵を見たとき、それは近所の農民が勝手に果樹園にしていたのと同じだ。
中国の場合は強権国家だからなんとでもなったけど、クロアチアは最近までドンパチがあったものの、その後民主的な国として再出発した国だから、住みついた人たちには居住権が発生してしまい、ユネスコも文句をいえないらしい。
でも宮殿を博物館扱いにして立ち入り禁止にするより、市民の生活の場にするほうがいいかもしれない。

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わたしは路地がたて込んだこんな街を1日さまよってみたいと思うし、もっと交通の便がよくって治安にも問題がなければ、ここはトルコのイスタンブールのような観光都市になっても不思議じゃない

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この近くには背後に険しい岩山のそびえるオミシュという街もあって、トレッキング好きにはおもしろそうだから、1枚だけ写真を載せておこう。

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2021年1月16日 (土)

地中海/旧ユーゴの国々へ

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ポール・セローが「大地中海旅行」で、イタリアから旧ユーゴスラビアの国スロべニアの国境を越えたのは、日付がはっきり書いてないのでわかりにくいけど、1994年の春ごろと思われる。
この約15年まえに、その剛腕とカリスマ性でユーゴ(ユーゴスラビア)を統治してきたチトー大統領が亡くなった。
おもりのなくなった他民族国家のユーゴでは、たちまち民族主義が雨後のタケノコのように勃発して、それはやがて第二次世界大戦以降最悪といわれたジェノサイド(民族撲滅)に発展してまう。
遠くはなれた日本人には内容がよくわからないけど、この紛争終了後に、この紛争を6回のシリーズにまとめた「ユーゴスラビアの崩壊」というドキュメンタリーがあるので、これを横に置いて話を進めよう。
これはNHKが放映したものだけど、わたしはきっちり録画しておいたのだ。

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スロベニアへ入国したとき、セローはビザを持っていなかった。
彼は国境の列車のなかで取得するんだけど、へえ、そういうこともできるんだというのはわたし。
わたしはいつも旅行会社におまかせだったというのはさておいて、まだ国内が混乱していた時期に、スロベニアの入国審査はちゃんと機能していたらしい。

紛争まえのユーゴスラビアには、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェコビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアという6つの共和国が存在し、さらにそのなかに正教会、カトリック、イスラム教という異なる宗教を信じる人たちがいて、古い時代から摩擦が絶えなかった。

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ここに載せたのは紛争が終了して国境が確定したあとの地図だけど、各共和国の配置はこれを見てもらうとわかりやすい。
摩擦の原因はひじょうに複雑で、第一次世界大戦の引き金になったのがユーゴの民族主義だったというのも、けっして不思議じゃないという気がする。
こういう国をまとめるには強圧的な独裁しかないというのも、ケシカラン話だけど事実のようなのだ。

ユーゴ紛争というのは、ボスニア・ヘルツェゴビナというかよわい女性をあいだに置いて、やくざのセルビアとクロアチアが殴り合った戦争といったらいいかもしれない。

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この紛争の火をつけたのは、セルビアの民族主義者で、その後大統領になったスロボダン・ミロシェヴィッチであるというのが、西側の共通認識になっており、ポール・セローもその考えを踏襲しているようである。
ただ先にいったように、過去をほじくり出すときりがないので、ここではあくまでチトー亡き後の、ユーゴの内戦だけに的をしぼって話を進める。

セローがスロベニアで、とりあえず列車から下りたのは、ピヴカという小さな駅だった。
そんな小さな駅がストリートビューに出ているか心配だったけど、わたしがそれをのぞいたのが、もうユーゴでの紛争が終了して20年も経っていたころなので、問題はなかった。

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これがピヴカ駅だ。
セローは駅のバーで、いあわせた女給相手に安いコーヒーを飲む。
このへんはうらぶれた労働者が、街道ぞいのしみったれたドライブインにあらわれる、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」みたいである。
『流行遅れの格好をした人間たちが無意味な殺人をおかすという、陰鬱な東欧映画に出てくる田舎の駅』に似ていたというのが、セローのこの駅の描写だ。
『彼女はだるそうに薄汚い布で濡れたグラスをふきながら、垂れた髪を耳の後ろへまわした』
これから亭主殺しでも始まりそうな雰囲気だけど、もちろんそんなことは起こらない。

この殺伐とした雰囲気は、それほど遠くない場所で戦争をしているからだろうと、セローはときおりヒステリックに走りまわる子供たちを見て考える。
1994年の春というと、内戦はピークに達しており、セルビア民兵がいたるところでイスラム教徒を虐殺していて、見かねた国連やNATOが仲裁に乗り出していた。
しかし世界の警察たる米国は、ヨーロッパの紛争はヨーロッパで解決すべしと仲裁に本気ではなかったので、なめきったセルビア民兵は国連の保護軍兵士まで人質にする始末。
アメリカの我慢も限界に近づきつつあったころである。

紛争の初期に、ミロシェヴィッチと民族主義の台頭に危機感を抱いたスロベニアは、連邦から離脱しようとした。
連邦を弱体化させかねないスロベニアに、上等じゃねえかと、セルビアが連邦軍を派遣しようとすると、セルビアに対抗意識を燃やすクロアチアが割って入る。
割って入らなくても、もとからクロアチアはセルビアとスロベニアの中間にあったわけだから、これはべつに正義感からではない。
セルビアは正教会で、クロアチアはカトリック教徒が多く、ずっとむかしからこの両国は相手に対して含むところがあり、クロアチアにも領土拡張という下ごころがあったのだ。
ユーゴ連邦の強豪国同士がつっぱりあっているうち、スロベニアはさっさと連邦離脱、独立までしてしまい、セルビアの横暴をみかねた他の共和国も独立にかたむいてゆく。

他民族国家がてんでんばらばらに独立すると、国境が増えて入国審査ばかりだとぼやきつつ、セローはピヴカで列車を乗り換えて、クロアチアの海辺の街リエカをめざす。
国境のあたりで東方にヴェリーキー・スネズニクという、標高1,796mの山が見えるというから、山の好きなわたしはちょっとストリートビューで山頂をのぞいてみた。

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こんな感じで、山頂に山小屋もあり、平和な現在はトレッキング・ポイントになっているらしかった。

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国境の駅はサピャーヌだけど、駅舎にしちゃあ悲惨じゃないかといわれそう。
しかしほかを探してみても、ワンちゃんのいるこんな建物しか見つからず、どれが肝心の駅舎なのかわからなかった。
まあ、車内でパスポートをチェックするだけだから、立派な駅舎は必要ないのかもしれない。

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リエカは海辺にある街で、上の写真はリエカ駅。
まだ独立して間もないクロアチアでは物価がかなり安かったから、ドルを両替したセローは、たちまち現地通貨のディナールで百万長者になってしまう。

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セローにいわせると、この街は見捨てられたような雰囲気ということである。
それほど離れていない場所で、セルビア人勢力がまだ戦争継続中だったから、あまり景気のよさそうな顔もできなかったのだろう。
わたしは例によってストリートビューで、街のいちばんごちゃごちゃしたあたりをのぞいてみたけど、緑の多い、きわめて健全な街に見えた。
そのへんに砲弾の跡でも残ってやしないかと探してみたけど、むしろ落書きが多かった。
砲弾と落書き、これが戦時と平時の違いだな。

おもしろそうな場所はないかと衛星写真を調べてみると、旧市街地と思われるところに、トルサット要塞というものがあることがわかった。

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これがその要塞だけど、もちろんこのあたりの都市の例にもれず、城内に教会があり、教会があればきらびやかな礼拝堂があるのも当然という、リエカはそういう街だった。

このあとセローは、ウラジミール・ナボコフにちなむというので、ふた駅ばかり離れたアバツィアという街まで出かける。
ナボコフというのは「ロリータ」という小説で、つまり“ロリコン”という、日本でもすっかり有名になった言葉で知られる作家だ。
アドリア海沿岸は、むかしからロシアの避暑地という側面を持っていて、ロシア人であるナボコフも、子供のころこの街に遊びにきた思い出を持っていたのである。

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これがアパツィアの駅だ。
街は、セローの目にはちょっとさびれた普通のリゾートに見えたらしい。
ずっとあとになってストリートビューで見物しているわたしにも、ありふれたリゾートにしか見えなかった。

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週末になればもっと大勢の観光客が来るわというのは、ホテルの女性の話。
彼女のアドバイスで、セローはフェリーに乗る。
つぎの目的地はクロアチアのザダールだけど、目下のところ列車は不通で、これ以外に行く方法がなかったのである。

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