旅から旅へ

2017年3月 3日 (金)

雪まつり/ゆとり

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午前中からずっと歩きっぱなしだし、ほかに行くところもないので、札幌ラーメンを食ったあと、午後の3時ごろにはホテルにもどってきてしまった。
ホテルにもどってなにをするかというと、洗濯である。
わたしは大きな荷物をかかえて旅をするのがキライで、下着は必要最小限しか持たないから、旅に出るとたいてい洗濯をする。
海外では風呂場に腰をおろして洗濯ばあさんだけど、今回泊まったホテルにはいちおうコインランドリーが備わっていた。

洗濯機をまわしているあいだに、夜中に目がさめた場合にそなえて、ホテルの近所にカップラーメンや缶ビールの買い出しに出る。
帰りにちらっと見たら、ホテル内のパン屋で可愛い娘が働いていたから、ケーキをふたつばかり買う。

そのあとはまたスパに入る。
まだ明るいうちだから、アジア系の観光客たちはみんな観光に出かけていて、大きな風呂場はわたしの貸切みたいなものだ。
あー、シアワセと、でもわたしの知り合いにはこういう楽しみを理解しないのが多くて困る。
せっかく来たんだから観光をしなければもったいないと、寸刻を惜しんで名所や旧跡を見てまわろうとする。
なんでそんなにくたびれたがるのさ。
旅というものは、日ごろのうさを忘れるためのものだ。
旦那を迫害する女房の魔手からのがれて、このときとばかり部屋でごろごろという発想が出てこんものかねえ。

風呂から上がったあと、乾燥機で気持ちよくかわいた洗濯ものを手にして部屋にもどる。
あとはもう完璧にひきこもりで、部屋でのんびり本を読んだり、文書を書いたり、ブログの更新をしたりする。
下着は最小限でも、タブレット、iPod、アクションカメラなどの電子機器をふんだんに持ち込んだのは、こういうことをしたいからだ。

ただのニートじゃねえか、つまらねえ人生だなという若者もいるだろうけど、干からびたじいさんの趣味としてはなかなかのものではないか。
つまらねえと馬鹿にする、いま元気のいい若者のゆく末を見てみたいものだ、フン。

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いったい、つまる人生とつまらない人生とはどこがちがうのだろう。
わたしの知り合いには、若いころ、これだけの数の女を転がしたと自慢する男がいた。
そんな絶倫がいつまで続くわけはないし、かってハンサムだった彼は、現在は肥満気味で、高血圧をかかえて、ほかに趣味もなく、老後の毎日をヒマでしょうがないとこぼしつつ過ごしている。
むかしが華やかであればあるほど、年老いてからの虚しさも大きいんじゃないか。

虚しくってもいい、わたしもそんなモテモテ男に生まれたかったという気持ちもないじゃないけど、こればっかりは天性で、個人の希望でどうなるものでもない。
人間贅沢ばかりいってればきりがない。
石川啄木は26歳で死んだけど、世間から詩人として評価されているし、みじかい彼の人生はそれなり充実したものだった。
30代の後半に心中自殺をしたわたしの友人でさえ、結婚して子供をつくり、あげくによその若い娘と手に手をとって死んだのだから、その人生はわたしより充実していたように思える。

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けっきょく人生なんて、与えられたものをいかに満足して過ごすしかないんじゃないか。
そうでも思わなけりゃやってられんよ、わたしみたいなのは。
現状に満足しているんだから、これ以上の不満をいうのはよそう。
わたしは旅の最終日に、昼の飛行機でさっさと東京にもどった。
なんか物足りないという人もいるかもしれないけど、雪まつりを見るという当初の目的は達したのだから、わたし個人的にはなにも不満はないのである。

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2017年3月 1日 (水)

雪まつり/札幌ラーメン

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つどーむ会場からふたたび札幌の中心部にもどり、札幌ラーメンを食べていくことにした。
そんなものを無理に食べたいわけじゃないけど、やはり札幌に来て札幌ラーメンを食べないのでは世間さまに申し開きができない。
としたら、行くのはやはりススキノということになるだろう。

じつはわたしが札幌をぶらつくのが今回が初めてである。
やがて心中することになる友人とレンタカーで北海道を旅したときは、札幌を無視して道東、道北をまわっただけだし、オホーツクひとり旅のときは、駅で列車を乗り換えただけで、札幌の市内は素通りだった。

もちろんススキノなんて知らない。
知らないけど、なんとなく新宿歌舞伎町か横浜の伊勢佐木町みたいな、いわゆる歓楽街といったイメージで、でなければ会社帰りのサラリーマンが帰りがけにイッパイという、新橋や五反田、錦糸町みたいな場所らしい。
札幌ラーメン発祥の地はここらあたりだそうだ。

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つどーむ会場からそのまま地下鉄に乗っていると、「豊水すすきの」という駅があるので、そこで降りた。
地上に出てすこし歩くと、ススキノの中心にある大きな交差点に出る。
そのあたりでも道路のまん中の分離帯を利用して、氷の彫刻が展示されていたけど、あまりおもしろいとは思わない。
まだまっ昼間だから歓楽街も営業してなくて、ちょっとにぎやかなオフィス街にしか見えなかった。
歩いているのはカメラを持った観光客ばかりだ。

ところで札幌ラーメンの定義ってなんだろう。
わたしがはじめて東京で生活をはじめて、高円寺の大和町あたりに住んでいたころ、すぐ近くの環七のほとりに札幌ラーメンの店があった。
深夜までやっている店だったので、よく夜中に食べに行ったけど、あれは札幌ラーメン道産子といって、当節はやりのチェーン店のはしりの店だったと思う。
同じ名前のチェーン店はいまでもあるようだけど、なにぶんにも50年近くまえのことだから、それが同じ系列の店かどうかわからない。

そこで食べた札幌ラーメンはもっぱら味噌味で、バターとコーンを乗せるのがわたしの流儀だった。
北海道といえばバターもコーンも名物だ。
そんなわけで、いまでも札幌ラーメンというと、このふたつがトッピングされた味噌ラーメンであると、わたしはかたく信じているのである。

しかしいまや日本は本場中国をしのぐラーメン大国だ。
新スタイルの店が雨後のタケノコのように乱立し、醤油、味噌、塩、豚骨、牛骨、鶏骨、昆布、鰹節、煮干しなど、ありとあらゆるスープのラーメンが百花繚乱で、あろうことかわたしのアパートの近所にまで、暴走族みたいな名前のラーメン屋が開業する始末だ。

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ススキノにも新しいスタイルの店が増え、わたしが郷愁を感じる、素朴な札幌ラーメンを売り物にする店は見つからなかった。
うろうろして途方にくれ、ヤケになってそのへんの交差点ぎわにあった入りやすそうな店に入ってしまった。
メニューを見たけど、バターとコーンの追加という注文はできそうになかったので、スープが濃厚な担々麺を注文した。

食べてみた感じでは、ここも今ふうの独自の味を追求する店で、けっしてまずくはないけど、わたしの求める札幌ラーメンの店ではない。
でもあとから欧米人の女性2人連れも入ってきたから、入りやすいという点ではわたしの見立ては間違ってなかったようだ。
白人女性がどうやってラーメンを食べるか観察したかったけど、こういうのもレイシストになるのだろうか。

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2017年2月28日 (火)

雪まつり/つどーむ会場

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札幌の雪まつりは一ヶ所だけで開かれているわけではない。
つどーむ(札幌コミュニティドーム)会場というのがべつにあるそうである。
で、せっかく札幌まで出かけて無聊をかこつ身のわたしは、3日目にそっちへ行ってみることにした。
この日の札幌は、わっと叫びたくなるような青空がひろがったので、ひきこもりのわたしも後ろからムチをくらっているような気持ちである。

あらかじめ印刷してあったメトロの路線図を片手に出かける。
前日は雪がちらちらする天気であったにもかかわらず、歩いていると汗ばむほどだったから、この日はコートの下はコーデュロイのシャツだけにした。
わたしのコートはロシアの冬にも耐え抜いた、強力な防寒仕様だからあまり参考にはならないと思うけど。

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ホテルのある新札幌から札幌駅まで、エアポート・トレインでひとっ飛びして、札幌駅で東豊線というメトロに乗り換える。
つどーむ前という駅がなかったので、どこで降りればいいですかと駅員に尋ねてみた。
終点の栄町だそうだ。

券売機にお金を入れると、いくつかの料金が表示されるから、栄町までに該当する金額を押して切符を買うしくみ。
ところがモニターにはそれ以下の金額しか表示されない。
どうしたらいいですかとまた駅員に聞く。
バス乗り換えってボタンを押してくださいという。
メトロの終点まで行くのに、バス乗り換えとはこれいかにってわけで、意味がわからなかったけど、とにかくいわれたとおりにして栄町には着いた。

栄町で地上に出ると、すぐ目のまえに会場までのシャトルバスが停まっていた。
バス乗り換えというのはこれのことかと納得したけど、運賃は100円だそうだ。
わたしはすでに札幌駅で金を払いましたといってみたが、メトロとバスは運営会社が違いますといわれて埒があかない。
切符はメトロの駅を出るとき、改札機に吸い取られてしまって、手元に残ってないのである。

サッパリ意味がわからないまま、あきらめて100円玉を用意してバスに乗り込んだら、わたしの歳では無料だった。
そんならごちゃごちゃいうこともなかったけど、ひさしぶりに他人に苦情をいって気分がよい。
最近のわたしは、映画を観にいっても、本人の意思にかかわらず高齢者にされてしまうことが多いのが少しく不満。

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「つどーむ会場」のつどーむというのは、写真を見ればわかるけど、屋内でサッカーもできるというでっかい施設である。
完成したのは平成9年(1997)というから、ウチの近所の「味の素スタジアム」よりいくらか古い。
Jリーグ「コンサドーレ札幌」のホームタウンかと思ったら、それは札幌ドームっていうのがべつの場所にあるそうだ。
破綻した夕張市というのがすぐ近くにあるくせに、大きな都市というのは金があまっているらしい。

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この施設のまわりが雪まつりの第2会場だった。
といっても巨大な雪像があるわけではなく、そのかわり雪で作った大きなすべり台や、迷路などがこしらえてあって、どちらかというとお子さま連れの家族向け会場という感じ。
なんだかひっきりなしにヘリコプターが離着陸しているなと思ったら、これはすぐとなりに、陸上自衛隊の丘珠駐屯地があるせいだった。

お子さま連れの家族向け会場だから、もちろんわたしみたいな偏屈老人がひとりで騒いでも、おもしろいところであるはずがない。
それでも感心したことがいくつか。
そのひとつは、大通公園では雪が少ないのが不満だったけど、こちらはスキー場のように、足もとは完璧に雪におおわれていたこと。
ギュッギュッと白い雪を踏みしめて歩くのはホントいい気分。

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ずうっとむかしのオホーツクの旅では、小さな子供たちがなぜかよそより可愛いく思えて、どうしてかなと考えたあげく、みんなカラフルなキルティングのジャンパーを着ているからだと思い当たったことがある。
いまは日本のどこに行ってもカラフルなジャンパーなんてめずらしくないから、それほど目立たないけど、つどーむ会場でカラフルな子供たちを見て、あらためてそう思った。

感心したことのもうひとつは、どうして北海道の女の子って、ああ可愛い子が多いのだろうってこと。
あちらこちらでボランティア、もしくはアルバイトの女子大生みたいなのが働いていたけど、みんな美人である。
わたしが北朝鮮のぼんぼんみたいな独裁者であったら、ああいう子をとっかえひっかえと、ついよからぬ妄想にふけってしまうくらい。
写真を撮りたかったけど、わたしみたいなおじさんがカメラを向けても、彼女たちが好感のまなざしで見るはずがないとあきらめた。

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美女からはそれ以上のことを期待できそうもないので、この日は札幌市内にもどって札幌ラーメンを食べることにした。

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2017年2月26日 (日)

雪まつり/コショウジ君の4

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オホーツク海に沿って南下してきたコショウジ君は、サロマ湖のあたりで雨に降りこめられ、YHに3日間缶詰になってしまった。
彼の日誌の欠点はこういうところにあって、缶詰になってるあいだ何をしていたのかという記述がぜんぜんない。
このあと網走から斜里に移動したというだけで、網走刑務所の名前もぜんぜん出てこないのである。

映画「網走番外地」は、まだこの3年前に第1作が公開されたばかりだったから、知らなくても不思議じゃないけど、たぶん彼には名所旧跡を見てまわろうという意識がまったくなかったのだろう。
おおげさにいえば、彼は十字架を背負ってゴルゴダへの坂道を登るキリストみたいなものだったのだ。
自分を苦しめることで自らを救済するという不動の信念があるのみで、観光という軟弱な要素はまったくなかったにちがいない。
もっとも貧乏旅行では先立つものもなかったはずだけど。

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そういう点ではやっぱりわたしは自虐の精神にとぼしい。
わたしは34年前の旅では、クッチャロ湖のほとりにある「北オホーツク荘」という国民宿舎にも泊まった。
風力発電用の風車がそびえるでっかい建物だった。
国民宿舎だからけっして贅沢したわけではないけれど、YHみたいに昼間から部屋でごろごろしていてはいけませんなんてことをいわないのがよかった。

そんなノーテンキな旅のわたしは、夜中にに小便に起き、はなれた場所にあるトイレに行って、帰りに廊下の窓から外をながめた。
駐車場のかどの街灯の光の中に、雪がしんしんと降りそそいでいるのがわかった。
寝静まった宿の廊下でただひとり、音のない世界から音のない世界へ舞い落ちる雪をながめる。
こういう光景をしっかり胸に刻むのがわたしの旅である。
記述が少ないのが欠点だけど、コショウジ君も旅のあいだ中、同じような感慨をしょっちゅう持っていたのではないか。

旅のあい間に母親の叱責となげきを聞くこともある。
そんなホームレスみたいな生活ばかりしてないで、ちゃんとまじめに働かんかいと母親はいうんだけど、なんでそんなにガツガツして働かなければいけんのとコショウジ君は反論する。
食わにゃいけんだろうが。
大丈夫、まだ2万円ある、ひと月8000円で暮らせるからから、あと2カ月半は旅を続けられる。
馬鹿だねえ、この子は。
わたしの愛情が足りなかったのかねえ。
こんな母親のなげきには、さすがの彼も耳をふさぎたくなったんじゃなかろうか。
これすべて、親不孝をしている彼の自責の念が生み出した想像のやりとりなんだけど、わたしにもその気持ちがよくわかるのだ。

世間には若いころから一直線に、生きていくための努力を惜しまない人がいる。
その反面、コショウジ君やわたしのように、途中で停滞してしまう人もいる。
人間はだれも努力をすべきであると、しごくまっとうなことをいう人の気持ちもわかるけど、人間は同じ条件で生まれてくるわけじゃない。
だんだん怠け者の屁理屈になってくるから、これ以上はいわないけど。

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このあとコショウジ君は内陸部を目指し、気息えんえんで石北峠を越える。
途中でダンプが落としたジャガイモを拾ったり、ヘビをつかまえてしばらく旅の道連れにしたり、かわいい女の子に誘われて無理して大雪山のロープウエイに乗るというエピソードをはさみながら、富良野のつれこみ宿に転がりこむのである。
休憩のつもりで転がりこんだわけではなく、バイトのつもりで働いたんだけど、こきつかわれたとぼやくあたりで彼の日誌は終わっている。
このあとリヤカーをそのへんの農家にあずけ、彼は釧路からフェリーに乗って帰京するのだ。

34年前のわたしのオホーツクの旅、それよりさらに15年さかのぼるコショウジ君の旅。
おたがい歴史には残りそうもないちっぽけな青春だけど、このブログをその小さな記念碑にして、彼の旅日記を終えることにする。
日誌を託されてそのままにしていたことが、ちょっとこころの重荷になっていたけど、これでわたしもようやく解放されるわけだ。

その後のコショウジ君は、縁があって妻子を持ち、まじめに働く子煩悩な父親になって、わたしよりはまともな生活を送ったみたいである。
そして放浪へのあこがれをときどきの山歩きでまぎらわしていた。
彼のことを知ったのは、その山歩きグループのメンバーのひとりからである。

わたしはときどき考える。
コショウジ君は家族との夕餉の時間などに、いまでも思い出すことがあるんだろうなって。
北海道をさまよっているとき食べた麦6米4のメシや、きざんだタマネギだけの味噌汁、拾ったジャガイモの味などを。
黙々と歩き続けた砂利の道、手に残るリヤカーの重さ、親切な人々、出会った風来坊たち、そんな貴重な青春の数々を。
何万という人間の中に、ひとりやふたりはそういう奇矯な人がいたっていいではないか。
あ、また怠け者の屁理屈みたい。

彼に連絡をとろうと思えばとれそうだけど、引っ込み思案のわたしは、日誌を託されただけで、それ以降いちども彼と会ってないのである。

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2017年2月23日 (木)

雪まつり/コショウジ君の3

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リヤカーを引いたコショウジ君が、宗谷岬に到達したのは昭和43年の8月22日のことである。
3月30日に東京を出発してから5カ月だと、本人も感動したのか、日誌のこの部分は目立つように大きく書いてある。
彼はこの前年に東京から鹿児島まで歩いているから、これで日本縦断を成し遂げたことになるのだ。
最近では若者の移動範囲は地球儀の目盛りがふさわしくなっているから、このくらいでは驚く人はいないかもしれないけど、コショウジ君がリヤカーを引いたころ、徒歩による日本縦断は、現在のアメリカ大陸横断に匹敵するような価値のある冒険だったんだよ。
え、お若いの。

宗谷岬からはオホーツクの海岸線にそって南下することになる。
ここは15年後に、わたしが逆の方向からたどった道である。
もちろんわたしはリヤカーを引いてなかったけど、コショウジ君のころはまだ道路が舗装されてなく、牛馬と化した彼は砂利道に苦しめられたらしい。

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更科源蔵の「北海道の旅」には、まだ僻地という言葉がふさわしかったむかしの北海道の描写があちこちに出てくる。
文庫本だけど写真も載っていて、舗装されていない田舎道で道産子が荷車を引く写真や、絶壁の下のかよう道もないような集落の写真が随所にはさまれる。
このブログでは、絶望や悲しみをもとめて旅をする人もいることを強調しているけど、昭和の前半あたりまで、北海道は日本ではまれな、ロマンと冒険の舞台でもあったのだ。

わたしはコショウジ君ほどの根性がないから、ひとりで冬のオホーツクを旅をしたときは、もうすこし文明的な宿屋や国民宿舎に泊まった。
とはいうものの、そのとき泊まった旅館は、朱鞠内の「谷川荘」、紋別の「紋別館」、北見枝幸の駅前にあった「たつのや旅館」など、ほとんどが廃業したようだ。
わたしの泊まる旅館は、当時からはやっていない感じの宿が多かったほから仕方ないけど。

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3番目の写真は、チップを固めた固形燃料で、当時あちこちの宿屋でストーブの燃料として使われていたもの。

浜頓別で泊まったのは「東雲旅館」といって、おかみさんがアイヌのバンダナを巻いた愉快な人だった。
料金のわりにはえらく豪華な食事が出たから、いいんですかと聞くと、 同じ晩にどこかの団体の宴会があって、それがわたしのところへもまわってきたんだそうだ。
人間どこにツキが落ちているかわからない。
この旅館についてはネットでその後の消息を見つけたけど、あとつぎがいなくて廃業したらしい。

あとつぎぎがいなくてといえば、稚内で泊まった「船木旅館」もそうだった。
ほかに客がいないからという理由で、宿のおかみさんと台所で差し向かいの食事をしたんだけど、おかみさんがこぼすには、あんた、ウチの娘なんかもう30よ。
結婚もしないで遊んでばかりいてと、あれはひょっとすると、わたしを見込んで宿のあと取りにでもしたかったのかもしれない。
たまたま娘が留守だったから顔を見なかったけど、おたがい気に入れば、わたしも稚内で旅館の経営者におさまっていた可能性もあったわけだ。
まったく人間の運命なんてどこで変わるかわからない。
こういうのもロマンと冒険の範疇に入るのかしら。

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2017年2月22日 (水)

雪まつり/コショウジ君の2

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札幌市狸小路6丁目。
コショウジ君はここのラーメン屋で数日間アルバイトをしたあと、店主からつぎの訪問地の深川にある宿屋の紹介状をもらって出発をする。
とちゅうにある滝川あたりは道路の幅がせまく、大型トラックが2台交差するのがやっとだったとある。
リヤカーだからパックパッカーなどより多くの荷物を運べるのはいいけど、こんなところで、とんだ交通障害になって彼もこころ苦しかっただろう。

紹介状を書いてもらっていた深川の宿では、タダで泊めてもらえるはずが、予想していたより冷たいあしらいで、他人の情にすがる旅のみじめさをなげいている。
もっともこれはどちらかというと例外で、彼の場合、旅のようすが地元の新聞で紹介されたこともあって、いく先々で歓待されることが多かった。
北海道の人は親切なのか、このあと彼はテント泊をしているとき地元の人から差し入れを頂いたり、民家に招かれて、寝るところや食事をふるまわれたりして、えらく感激する場面も多いのである。

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浜鬼志別というところでテントを張っていると、おーい、兄ちゃん、今日はテント張らんでいい、オレんち泊まれやという親切な人があらわれた。
彼はここで親切な夫婦から、食事、寝る場所の提供を受け、翌日出発するときには弁当までこしらえてもらって、おおいに感動している。
でもとくに不思議だとは思わない。
この夫婦も新聞に載ったコショウジ君の写真を見たかもしれないし、そうでなくても北海道という土地柄からして、こういう人情味のある人が多かっただろうという気がする。
コショウジ君はこのあと、べつの場所でも同じような歓待を受けているのである。

こうしたふれあいは地元民ばかりとはかぎらない。
8月の北海道には、彼のように冒険じみた放浪の旅をする若者が多かった。
コショウジ君もあちこちで旅の道づれに出会っている。
ある場所ではリヤカーと自転車とヒッチハイクの若者が、顔を突き合わせて同じ場所で野宿するはめになった。
コショウジ君はみんなでメシを分けあって食べる。
タイ旅行でヒッピーたちの連帯感について書いたことがあるけど、これも輝かしき昭和の記憶、まだまだ社会が寛容だった時代の、自由きままな青春群像を見るような気がする。

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コショウジ君の旅は原則として野宿である。
学校の庭や神社の境内、バスの停留所などにテントや寝袋を利用して寝込んでしまう。
食事は鍋釜を持参しているので、麦6米4のご飯を炊き、とちゅうで仕入れたタマネギを刻んで味噌汁を作ったりする。
省エネの見本みたいな貧乏旅行である。
ただこの年の北海道は天候が不順だったらしく、あちこちで雨にたたられ、帰京したら今度は雨漏りのしないテントを作ろうという記述もあったくらいだから、けっして順調な旅ではなかったようだ。

野宿ばかりじゃ体がもたない。
ときどき保養をかねてユースホステル(YH)に泊まることもある。
稚内でYHに泊まったコショウジ君は、昼間ゆっくり寝ていようと思ったのに、雨の日以外は昼間から部屋にいられませんといわれて、YHを追い出されてしまう。

むかしのYHにはこういうつまらない規則が多かった。
YHというのは旅を愛する心身ともに健全な若者のための施設で、健全な若者は昼間から部屋でごろごろしてないというたて前らしい(米国ではゲイのたまり場って説もある)。
最近では健全な若者にもゼイタクをいう輩が増えて、むかしみたいに堅苦しくては泊まる人間がいなくなり、おかげでうるさい規則もだいぶ緩和されたようだ。

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2017年2月21日 (火)

雪まつり/コショウジ君の1

わたしの知り合いの友人グループの中に、コショウジ君という人がいる。
わたしと歳はあまり変わらないから、やはり生きているのが申し訳ないという団塊の世代の生き残りである。
彼にむかし、手書きの日記のコピーを託されたことがある。

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コショウジ君は若いころ、リヤカーに寝具や自炊道具を積み込んで、東京から北海道まで、徒歩で旅をした豪傑でもある。
北海道ではアイヌの店主に気に入られ、土産物屋でしばらくクマの彫りものを作って生活していたという。
団塊の世代には、まだまだ自由に、明日は明日の風が吹くってな調子の生き方が許されていたころだ。
最近の事情は知らないけど、いまでも若いもんにそんな自由はアリかねえ。

ところで彼に託されたコピーってなんなのか。
これはじつは彼がリヤカーで旅をしていた当時の旅行日誌だった。
そんなものをどうしてわたしに託したのかわからないけど、いろいろ屁理屈をいうわたしに、この男はもしかしたら将来は作家になるかもしれないと、とんでもない妄想を抱いたのかもしれない。
夏目漱石に「坑夫」という作品があるけど、これは他人から持ち込まれたネタをもとに書かれた小説である。
わたしが彼の日記をもとに偉大な小説を書けば、彼の旅も永遠不滅のものになるわけだ。
でもわたしは夏目漱石じゃないんだけどな。

日誌は札幌のラーメン家でバイトをしたあと、店の主人に紹介された深川の宿に向かうあたりから始まっている。
深川からは留萌市に出て、日本海にそって稚内まで北上する。
稚内からは、オホーツク海にそって斜里まで南下、このあとは内陸の層雲峡や大雪山をめざしている。
層雲峡からは富良野に抜け、富良野のつれこみホテルでバイトをしたあと、リヤカーを農家に預け、ヒッチハイクで釧路に出て、フェリーで東京へもどるところで日誌は終わりである。
時期は1968年(昭和43年)の8月15日から10月4日までだ。

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古きよき時代に、北海道をさまよったもうひとつの青春があったことの証明として、今回の雪まつり紀行の合い間に、彼のこの日誌を数回に分けて挿入することにした。
ただし彼の日誌は大雑把すぎるのが欠点だ。
地図と首っぴきでないと現在地の把握もむずかしいし、せっかく北海道を旅していながら、経由した稚内や層雲峡、富良野などの描写がほとんどないのである。
だからこの文章は彼の日誌を参考にして、わたしの体験談やぼやきをつけ加えたものと思ってもらったほうがいい。

日誌の最後に、ずっとあとになってつけ加えられた文章があって、そこに 「いつしかわたしも歳をとった」
「四度夢に見た母親は、旅のある日、他界したと風の便り」
「母のぬくもり知らず他界知らず」
ちょっと意味不明のところがあるけど、ひょっとするとコショウジ君が書きたかったのは、母親を恋しいと思いつつ、世間からうしろ指さされるような生き方をしている自分への自責の念だったかも。
それならば、この15年後に一部重複する旅をしたわたしと、心情的にも重なった部分がある。
人間を旅に駆り立てるのは、冒険心やロマンばかりとはかぎらない。

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2017年2月20日 (月)

雪まつり/詩人たち

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更科源蔵の「北海道の旅」を読むと、北海道を訪れた文人墨客の多いのにあらためて感心してしまう。
グルメや温泉、ウインタースポーツ以外に、もうちっと高雅な趣味を求めたい人は、文学碑探索の旅でもこころざしたらどうだろう。
行ってきたばかりの小樽には、この土地出身の作家・小林多喜二の碑があるというし、有名な函館の立待岬には、石川啄木のカニとたわむるのほかに、宮崎郁雨と砂山影二の歌碑がある。
日本人は歌碑が大好きだから、松山千春や美川憲一、石原裕次郎のもあるらしいけど、ここで話題にしているのは演歌ではなく文学のほう。

ところでこの砂山影二という作家の名前、わたしはぜんぜん知らなかったんだけど、ちょっと考えれば、もう名前からして啄木の影響下にあった人のようだ。
そう思ってググッてみたら、案の定、啄木に影響されて、若くして青函連絡船から身投げした詩人であるらしい。
ここにも孤独や絶望を求めて旅をした人がいた。
わたしも啄木の歌を愛したことでは人後に落ちないつもりだけど、いつのまにか老衰死といわれても文句のいえない歳まで長生きしてしまった。
でも啄木だって若くして結核に冒されなかったら、無責任に借金をかさねて、60までくらいは長生きしたかもしれない。
他人を死に追いやるような罪作りをしてないだけ、わたしのほうがマシだ。

千歳空港から札幌までは快速のエアポート・トレインが走っている。
今回の旅では、わたしがそれに乗ったのはもうたそがれ時分だった。
列車はぴかぴかでスムースだし、車内にはスノーボードをかかえた欧米人のグループもいて、啄木の時代のおもかげは探そうにも探せない。
窓の外はどうか。
新札幌の手前で、ほんの短時間だけど、雪におわれた雑木林の続く山あいの景色が広がった。
じっと無我の境地でそれをながめる。
 雨に濡れし夜汽車の窓に映りたる山間の町のともしびの色
たちまちこんな歌が思い浮かぶ。
いじけた性格を天命とあきらめて、失意のままに旅をすれば、まだまだ啄木の世界はいたるところに見出せるものである。
あまり前向きばかりで生きないほうがよい。

34年前の旅では、当時もわたしはうしろ向きだったから、旅の途上に列車の中で思い出した啄木の歌は多かった。
 真夜中の倶知安駅に下おりゆきし女の鬢の古き痍あと
 空知川雪に埋れて鳥も見えず岸辺の林に人ひとりゐき
 ごおと鳴る凩のあと乾きたる雪舞い散りて林を包めり

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そのとき稚内から札幌まで乗った列車では、とある駅で、夏は耕地になるらしい広い雪原の上をぽつんと歩く女子中学生を見た。
彼女はどこかべつの町にある学校まで列車通学をしており、授業を終えて自宅に帰る途中だったようだけど、前方の集落までは3キロぐらいありそうだ。
吹雪がきたら通学の途上に遭難ということはないのだろうかと、つい心配してしまうのは、わたしが都会から来た旅人だったせいだろうか。
啄木ならばきっと歌を詠んだに違いないけど、凡人のわたしはつまらぬ心配をしただけだった。

ところで「北海道の旅」は北海道を訪れた作家の索引みたいなところがあるのに、宮沢賢治のことがひとことも出てこない。
オホーツクや噴火湾について書かれたあたりを仔細に検分してみたけど、賢治のケの字も出てこないのである。
そういえば著者はアイヌ研究者であるというのに、このブログでも取り上げたことのあるアイヌ作家の知里幸恵も出てこない。
だからケシカランというつもりはないけど、賢治も幸恵も、その資質からすれば源蔵さんが目をつけないはずはないと思えるのにと、ちょっと意外だった。

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2017年2月16日 (木)

雪まつり/ホテル

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わたしの今回の雪まつりは、交通と宿だけを旅行会社におまかせしたフリーツアーである。
こういうツアーでは、望むと望まないとに限らず、けっこう立派なホテルに当たる可能性が高い。
わたしが札幌で泊まったホテルも、個人旅行だったらとても泊まれないような格式の高いホテルだった。
どのくらい格式が高いかというと、わたしはこの旅に底の厚い登山靴もどきで出かけたんだけど、そんなものを履いて食事や風呂に行く気になれないから、部屋履きのスリッパでぺたぺたと出かけた。
するとやんわり注意されてしまった。
けっ、お高くとまりやがってというほどわたしは非常識じゃないけど、まあ、このくらい行儀にやかましいホテルなのである。

わたしは山小屋でも、中国の奥地の安ホテルにでも平気で泊まる人間だけど、歳をとるとこういう豪華な宿もわるくない。
ヘタに民宿なんかに泊まると、宿の人間との距離が近すぎて、ほうっておいてほしいわたしみたいな人間にはかえって迷惑だ。

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ホテルでいちばん気に入ったのがスパ、つまりお風呂で、いったいできてから何年たつのか知らないけど、施設全体が新しく、大きなな浴槽からは終日熱い湯があふれていた。
20人は押し込められそうな、室温85度の本格的なサウナもある。
風呂から上がると、ごろりと横になって休息できる休憩室もあり、バー・カウンターもあって、つねにウエイターが控えている。
わたしもどこかのセレブになったつもりで、冷たい飲み物を注文して休憩した。

レモンスカッシュを飲みながら考える。
むかし群馬県の草津温泉に行ったとき、クーアプラザ草津という豪華な温泉施設に入ったことがある。
そこで働いている若い娘が、わたしのことを金持ちの御曹司とカン違いして、しきりに自分を売り込んできたことはこのブログに書いたことがあるけど、そんなことはどうでもいい。
問題はクーアプラザ草津がその後つぶれたことだ。
そもそも豪華なわりに客が少なかったから、当時からわたしは心配していたのだ。

わたしが泊まった札幌のホテルも似たような感じである。
館内にはアジア系の観光客がいたるところにいたけど、いくら海外からの観光客が増えているご時世だといっても、ここはちょっと入れ物が大きすぎる。
スパにしてもわたしひとりの貸し切りみたいなことがよくあった。
無関係なわたしが心配してやる必要はぜんぜんないけど、経営者の勝算について考えてしまう。

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考えるといったら、もうひとつ。
こんなホテルに泊まるのは、苦労してそれなり成功した人か、現在進行形で苦労している人がふさわしいんじゃないか。
すくなくとも家族で協力しあって、このせちがらい社会を生き抜くために頑張っている人たちのためのものではないか。
わたしみたいな道楽者がえらそうに寝転んで、飲み物なんか飲んでいていいんだろうか。
すぐにつまらないことを深刻に考えてしまう性格ってのは、親を大事にしなかった祟りかしら。

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2017年2月15日 (水)

雪まつり/小樽

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今回のツアーには小樽観光がセットになっていた。
よくわからないけど、ほかの旅行会社の客といっしょにされて、観光バスによる小樽までの半日観光でもあるのかもしれない。
朝の8時出発なんていわれたら目も当てられないから、そんなものに参加する気はなかった。

ところが北海道に到着してすぐHISに顔を出してみたら、渡されたのは千歳空港から札幌、小樽間のJR4日間のフリーチケットだった。
こいつは気が利いている。
これならわたしみたいに横着な旅人でも、好きなときに好きな散策が可能ではないか。

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で、北海道に到着した翌日は、雪まつりのまえにふらりと小樽まで往復してきた。
札幌から小樽までは列車で行っても(鉄道マニアのわたしは鈍行を使ったけど)、1時間もかからないのだ。
小樽にことさらの興味があったわけじゃないけど、どうせフリーチケットをもらったんだからってことである。

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列車に乗っていると、銭函という駅を過ぎたあたりから、右側の線路のわきに石狩湾が広がる。
そんなものを予想してなかったのでおどろいた。
じつは札幌から小樽までの行程の半分ほどは、雪がちらほらする本物の冬の日本海沿岸を行くのだ。
おまけみたいなものだったけど、孤独を愛する人、つげ義春の旅にあこがれる旅人なんかには絶好のステージで、今回の旅でわたしがいちばん恍惚となったのは、この列車に乗っているときだったかもしれない。

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小樽は海にむかってゆるやかに傾斜した街だった。
小樽といえばすぐに思い浮かぶのが、石川啄木の
 悲しきは小樽の町よ歌うことなき人々の声の荒さよ
という歌だけど、これは小樽を称賛するものではないだろう。
この旅に持参した更科源蔵の「北海道の旅」には、岩野泡鳴の小説が引用され、小樽人はリアリストだと書かれている。
ほめたのかけなしたのか微妙なところだけど、たぶんけなしたんだろう。

わたしは海から近い土産物屋に入ってみて、海産物の高いのにびっくりした。
写真を撮ろうとしたらすぐに店の人間が飛んできて、撮影は禁止ですという。
これでは高いことを店がみずから認めているようなものだ。
現地で買えば輸送費がかかってない分だけ安いはずという常識が通じないところが、小樽人のリアリストたる所以かもしれない。

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小樽では運河沿いにある古い醸造所や倉庫街などを見てまわったけど、それらが現代ふうに模様替えされて、レトロな雰囲気の観光名所になっているのに感心した。
しかしレストランやカフェで飲食をしたわけでもないから、おもしろい体験とはいいかねる。
そこで話のタネに運河クルーズに参加することにした。
20人乗りくらいのボートで運河をめぐる40分ほどのツアーだそうだ。

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この日は2隻のボートが稼働しており、そのうちのひとつは欧米人の男性が操船していた。
わたしが乗ったのは若い娘があやつる船で、北海道には美人が多いという風説どおりのカワイ子ちゃんだったから、わたしにはこっちのほうがよかった。
ボートの屋根はビニールで覆われて雪や寒風を防ぐようになっていたけど、ちょくせつ写真を撮りたいわたしは、大半の時間を吹きさらしの場所に立って過ごした。
船頭さんはガイドも兼ねていて、めぼしいポイントではマイクをにぎって説明をする。

ボートは小樽港をちょいとのぞいてから、狭い運河を往復した。
冬の港にはカモメが飛び交っていて、これはちょいとした演歌の舞台である。
もっとも港にはスズガモの仲間もいて、こちらは間抜けな顔をしているから演歌にはならない。
ボートが近づくとこのカモたちがいっせいに飛び立って、バードウォッチャーのわたしには、まあ、小樽の運河クルーズは今回の旅で楽しめたほうだった。

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