中国の旅/上海
2度目のシルクロードの旅も最終回。
蘭州のあとはもう日本へ帰国するだけで、わたしは列車に乗って上海にもどった。
洛陽、南京、無錫や蘇州と、クリークの多い田園風景が目立ってくると、ホッとした気分になったけど、旅をしているときはそれ以上の感慨はなかった。
しかし人生の終わりが近くなったころ、あらためて思い出しながらこうやってブログに綴っていると、懐かしさがこみ上げてくる。
同時に世間に対して申し訳ありませんといいたくもなる。
人間と生まれて、人間としての責務も果たさず、こんなお気楽な旅行ばかりしていて。
でもほかの人生を選択しても、わたしには責務を果たせるような瞬間があっただろうか。
旅をしているあいだは幸福だったから、個人的には満足しているものの、心中は決して穏やかじゃなかったんだよ。
もうどうでもいいやという感じで列車は上海に着いた。
駅ではいちどに大勢の客がどっと下りたものだから、地下通路にはウンコのような臭気が充満していた。
そういえばトイレに紙が備わっていなかったぞと思う。
この客の中には、どさくさにまぎれて切符なしで出ようというものが相当数まじっているようで、改札の駅員が必死でそれをチェックしていた。
わたしが並んでいるあいだにもとっつかまる者が何人もいた。
駅からただちに新亜大酒店へ。
タクシーは16元だった。
到着してあれっと思ったのは、新亜大酒店は1階を改築中で、ずいぶん雰囲気が違っていたから。
この日はシングルルームの629号室で288元。
部屋のテレビはNHKの衛星放送もやっていて、ニュースで雅子さまご懐妊なんて事件を報じていた。
さっそくやったことはシャツを洗濯に出すことだったけど、服務員が今日は日曜日だから出すのは明日になりますという。
早いほうがいいので、街の洗濯屋を探して自分でちょくせつ持ち込んだら、この日のうちに仕上がった。
パンツや靴下は風呂場で洗濯をした。
このあとふらりと南京路に出かけてみた。
南京路も外灘もあいかわらずのにぎわいで、話しかけてきたのがポン引き、日本人をカモろうという若い娘たち、顔馴染みのオカマなど。
お断りしておくけど、今回はもう写真を撮る気もなくなっていたし、ストリートビューが使えることがわかったので、ここではネットで集めた写真だけを並べることにした(冒頭と最後の2枚だけ例外)。
あいかわらず上海はまだまだ発展するぞという勢いである。
南京路をひとまわりし、新亜大酒店までもどってきて、ホテルの近所で食事をした。
たいして食欲もないから、いろいろ思案したすえ、たまたま目についた“餛飩”という看板の店に入ってみた。
若いウェイトレスたちがだらしなくたむろしている店で、日本の立ち食いソバ屋みたいな軽便な店だった。
餛飩とワンタンは同じかと訊くとちがうという。
彼女の説明を無理やり理解すると、両方とも水餃子のようにスープに浮かべて食べるところは同じだけど、船型にひねったのが餃子で、小さくて箱型にひねったのが餛飩、さらに具を少なくしたのがワンタンらしい(あまり信用しないこと)。
具の材料については上記のいずれにもいろいろ種類があるらしい。
酸湯はないかというと、店のおばさんがテーブルの上の酢を指して、これを入れれば酸湯になるという。
自分で適当に酢を足して、なるほど、美味しい酸湯餛飩のできあがり。
ビールはないというから、それじゃお茶をくれといったら、それもないと、だらしない体勢のままの娘がいう。
わたしは思わずにやにやしてしまった。
部屋にもどって、この旅行について整理してみる。
旅行費の総額は、出発まえに払った中国への往復飛行機代、西安からウルムチまで乗った国内便の飛行機、カードで払ったホテル代、贅沢はしなかった食事代、鉄道、バス、いちにち借り切ったタクシーなど、これに帰国してからかかる恐怖のフィルム現像代まで合計すると、35〜40万円くらいのようだった。
1カ月近くの海外旅行でこの金額が高いか安いか議論のあるところだけど、もちろん中国のことだから、格安ホテルや硬臥車を使ってケチに徹すれば、20万円ぐらいまで落とすことも可能だっただろう。
しかしわたしが徹したのはモーム流の旅だったのだ。
翌日は中国での最後の晩餐ということで、ひさしぶりに日本食を食べに行った。
かってのフランス租界にある「伊藤屋」という店で、錦江飯店を出て四つ角をすこし歩いた先にある。
おもての看板に鉄火丼が50元と表示されていた。
もういてもたってもいられずに飛び込んで、ここででキリンビール、やっこ、おしんこ、鉄火丼を注文する。
ビールを飲んでいるうち店長が出てきて挨拶をした。
30〜40代のメガネをかけた中国人男性で、話をしているうちに、彼がかって東京の吉祥寺で和食の修行をしていたことを知った。
成蹊大学のすぐ前にある懐石料理の店で、店長のミシマさんに仕込まれましたと、なつかしそうに話す。
このころのわたしは三鷹に住んでいたので、成蹊大学のまえも何度か通ったことがあり、そういえば五日市街道のわきのビルに和食レストランがあったということを知っていた。
そうそう、その店ですという。
ホテルでくすぶっていては誰とも知り合いになれないのに、ちょっと外出するだけでいろんな人に出会うものだ。
とはいうものの、わたしは人間ギライて、当然ながら人づきあいも好きではなく、旅のあいだに知り合った人たちで、いまでも連絡を取り合っている相手はほとんどいない。
考えてみるともったいないことであるけれど、原因はたぶんわたしの劣等感にあるのだろう。
そのうちしだいに自分の欠点に気がついて、必要以上の遠慮のうなものを感じ、相手と疎遠になってしまうことがよくあるのだ。
広い世間にはわたしと似たような性格の人もいるんじゃないか。
そんな人に出会ったら、本人を軽蔑するのではなく、同情してやってほしいものだ。
さて、この旅の最後のエピソード。
空港に着いてユナイトのカウンターで登乗手続きをするとき、なんだかやけに手間どった。
係員が英語で何かいったけど、意味がわからないので曖昧なほほ笑みを浮かべてみせる。
日本人のわるいクセである。
そんないいかげんに手続きをして、それでもちゃんと座席券をもらえたし、荷物の搭載手続きもすんだ。
座席は26Bで、行ってみてびっくりした。
前のシートとの間隔が、足を思い切り突き出してようやく前席にとどくくらい広いのである。
エコノミーのはずなんだけど、ここでいいんですかと、わたしは思わずスチュワーデスに尋ねてしまったくらい。
美しいスチュワーデスはべらべらとまた意味のわからないことをしゃべったあと、にやりとほほ笑んでみせた。
エコノミーがいっぱいになってしまったので、席替えになったんですよ、得をしましたね、ということらしかった。
つまりオーバーブッキングということで、旅慣れしていればこういうことはたまにあるらしいけど、わたしには生まれて初めての経験だったのである。
安心してあたりを見ておどろいた。
ユナイトにこんな美人のスチュワーデスがいたのかと思いたくなるほど、美人ばかりじゃないか。
それも世界中のさまざまな民族の美女ばかり集めたような。
帰りのシートに比べれば、来るときのエコノミ・シートは荷物扱いされているようなものだった。
飛行機が雨の中を離陸したのは10時23分(ここまで中国時間)。
どんよりと雲のたれこめた日なので、それこそあっという間に中国大陸は視界から消え、5分後にはもう飛行機は雲の上の青空の下にいた。
わたしのまわりは欧米人ばかりで、となりには若いアメリカ人の若者がいる。
アームレストの起こし方がわからないので彼に尋ねたところ、斜め前にいた欧米人のおばさんが、こうするのよと教えてくれ、にこっとウインクした。
タノシイ。
13時ごろ、外は快晴に近い天気である。
どこだかわからないけど、もう眼下に陸地がひろがっていて、まもなく富士山が姿をあらわした。
やれやれ、明日からまた平凡な日常が始まるのかと思う。
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